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アライ アユミ

キラはごくりと固唾を飲み込み、おずおずと口を開いた。

「絵……描くの?」


ヨシはノートを本棚へ戻すと、すぐ隣から別のスケッチブックを抜き取って彼女の手に預けた。

「ただの趣味だ」

素っ気なく、一言だけ返される。


キラは息を潜めてページをめくった。最初のページには、机に突っ伏して前後不覚に眠りこけるダイキの姿。髪は鳥の巣のように乱れている。次のページには会議中に大あくびをするヒロ、続けてキーボードを叩き続ける林さん、ロビーを掃除する用務員さんまで描かれていた。自分だけではなく、目に入る人を片っ端から描いていただけだったのだ。気恥ずかしさと、チクリとした奇妙な失望が胸をかすめ、頬がさらに熱を帯びる。


ヨシはスケッチの件には触れず、歩み寄ると彼女の額へそっと手の甲を当てた。

「解熱剤はいつ飲んだ?」

キラは視線を泳がせ、消え入るような声で答える。「今朝の十時……」

ヨシは腕時計に目を落とした。「今は夕方の四時だ。もう六時間経っている。もう一度飲みなさい。顔が真っ赤だ」


キラは返す言葉が見つからず、適当に相槌を打って気まずさから逃げるようにキッチンへ足早に向かった。ヨシがすぐ後ろをついてくる。

「新井さんに連絡して、今日の午後は休ませてもらうか? そんな熱で家庭教師ができるのか?」


キラは弾かれたように振り返り、激しく首を横に振った。

「平気! 今日は歩美ちゃんとの顔合わせだけで、本格的な授業じゃないし。それに、泊まる件の相談もあるから……管理会社からは鍵の交換に一週間かかるって言われたの。新井さんとも約束したし、反故にしたくない」


キラはすべてを嘘で塗り固めたわけではなかった。ただ、ヨシの部屋にもう一晩泊まるのだけは避けたかったのだ。ヨシは少しの間押し黙り、やがて諦めたように息をついた。

「分かった。薬を飲んだら、荷物を取りに君の家へ寄ってから新井さんの屋敷へ向かおう。莉奈子は今日午後が休みで、もうあっちに行って歩美と過ごしている」


ヨシはキラを管理会社の事務所へ連れて行き、合鍵を受け取らせてから彼女のアパートへと向かった。部屋の中には、ノートパソコン以外にめぼしい貴重品などない。彼女は手早く着替え、数日分の衣服と洗面用具をスーツケースに詰め込むと、ファスナーを閉めて車へと駆け戻った。


世田谷までの四十分の道のりは、気の遠くなるほど長く感じられた。車内から見渡す首都高速は帰宅ラッシュの真っ只中で、車の列が延々と続いている。ヨシに視線を向けると、彼は前を見据えて運転に集中したままだ。二十分もの間、車内には一言の会話もない。なぜヨシが急によそよそしい態度を取るのか、彼女にはさっぱり理解できなかった。重苦しい沈黙に居心地の悪さが募る。喉はひりひりと痛むし、何を話せばいいのかも分からない。新井さんの屋敷に身を寄せる選択は本当に正しかったのだろうか。それでも、仕事終わりに家庭教師をして深夜に帰宅する生活は避けるべきだった。


キラは小さく息を吐き、掠れた声で沈黙を破った。

「ヨシさん。新井さんって、どんな方? お屋敷で過ごす上で気をつけるべきことってある?」


ヨシはポケットに手を伸ばし、のど飴の小箱を取り出して彼女の脇に置いた。

「一粒舐めなさい。喉が楽になる」


キラは目を瞬かせた。考えすぎで、ヨシは純粋に運転に集中していただけかもしれない。彼女は箱を開け、ミントを一粒口に放り込んだ。ヨシは一瞬だけ視線を向け、再び口を開いた。


「新井さんの家は格式ある日本家屋、和風住宅だ。屋敷の中では全員が敬語を使う決まりになっている。家族であっても足音を立てず、礼儀正しく振る舞い、大声を出すことや騒ぎ立てることは厳禁だ。毎朝六時半に起床して全員で朝食を囲み、時間通りに送迎車が出る。午後、英語の授業がない日は、歩美が四時から五時まで道場で稽古をする。夕食は六時だ。君は休憩を取り、みんなと夕食を共にして、七時過ぎから授業を始めればいい。敷地内には専用の道場、弓道場、人工温泉、図書室、茶室、回遊式庭園まで備わっている。日本文化が本当に好きなら最高の環境だ。懸念があるとすれば……」


「懸念って何? 厳しすぎて私が耐えられないとでも思ってるの? いつもそうやって見くびらないでよ……」キラは一気にまくしたて、激しくむせ返った。この調子では、明日には本当に手話に頼る羽目になりそうだ。


「礼儀正しい振る舞いも、声を荒らげない姿勢も、早速落第だな。上品に口を運び、優しく話し、淑やかに微笑む練習を始めたほうがいい。口答えを我慢できないのか?」ヨシは横目で冷ややかに一瞥し、視線を前へと戻した。


キラは唇を噛み、プライドを刺激されてシートベルトを握りしめた。落第? 試験を受けているわけでもないのに、落第呼ばわりするなんてあんまりだ。家庭教師が必要なら、その役割をしっかり果たせば済む話だ。性格まで丸ごと作り変える筋合いはない。それに、優しく話すか淑やかに微笑むかなんて相手次第だ。最低限の礼儀くらい弁えている。上から目線で説教してくるヨシは何様のつもりなのだろう。キラは彼の横顔を睨みつけ、心の中で猛烈な怒号を浴びせた。腹の底から怒りが湧き上がってくる。


「ついでに言うが、君は発熱中だ。後で新井さんの屋敷で温泉に入るのは控えなさい」

長い沈黙のあと、ヨシが唐突に釘を刺した。


「熱があるとなんで温泉に入っちゃダメなの?」キラは眉をひそめた。


「体を冷やす必要がある時に熱い湯へ浸かると、急激な体温上昇と重度の脱水を引き起こし、熱性痙攣を誘発しやすい。湯あたりという。基本的な常識だ」


「基本的な常識? 私には一般常識すらないって言いたいの?」キラはすかさず言い返した。ヨシの言葉は表向き心配そうに聞こえても、嫌味にしか思えなかった。


「わざわざ言葉にして説明する必要があるか?」ヨシは間髪を入れずに返し、キラをぐうの音も出ない状態に追い込んだ。


「主任、彼女とかいるの?」キラは険しい視線を向けながら尋ねた。


「どうせ僕のことが嫌いなんだろう。なぜそんなことを聞く?」ヨシの声は平板なままだが、一言ひとことが咎めるように刺さる。ここ数日で彼への苦手意識はかなり薄れていたはずだった。しかし今は、その認識を改める必要がある。今日の彼は一体どうしてしまったのだろう。


「別に。主任の鋭い毒舌に耐えられる女性がいるなら、奇跡の聖人だなと思っただけ」キラは鼻を鳴らした。ヨシは押し黙った。まさか……。


「ヨシさん、もしかして私に怒ってる?」キラは引き下がらずに迫った。


「怒っていない」ヨシは即答した。


「私が新井さんの屋敷に泊まるから?」彼女は彼の返答を聞き流すように重ねた。


「怒っていないと言ったはずだ」ヨシは眉を寄せ、きっぱりと否定した。


「絶対そう。新井さんの家に泊まることの何がそんなに気に入らないの?」キラは自分の推測を事実と決めつけ、煽り立てた。


「いい加減にしなさい、キラ!」

赤信号でブレーキを強く踏み込みながら、ヨシが一喝した。明らかに苛立ちを露わにしている。だが、自分に何の落ち度があるというのだろう。昨日は彼自身が新井さんの屋敷に泊まることを提案したのだ。思春期の少年のように機嫌を損ねる理由が分からない。キラは溜息をつき、窓の外へと視線を向けた。日本の男性は本当に気まぐれだ。四月の気候のように、夏のように暖かくなったかと思えば、冷え込む冬の雨を降らせる。花冷え。ヒデの言葉は寸分違わず正しかった。


夕方五時半。陽はまだ完全には沈みきっていない。夕暮れの残光が盆栽松の曲がりくねった枝を通り抜け、黒瓦の塀の上に影を落としている。前方には苔むした屋根を持つ木門がそびえ、両脇には天へと真っ直ぐ伸びる赤松の古木が並んでいた。


「着いた?」キラは身を起こし、胸を高鳴らせた。


「もう少し先だ。ここは豪徳寺。門の漢字も読めないのか?」ヨシは口元に微かな笑みを浮かべ、車を右へ切った。


何なの、その言い草……。漢字が読めないことを皮肉らずに、豪徳寺だと普通に教えてくれればいいのに。本当に憎たらしい。それでも、寺院の外観が見事であることは認めざるを得なかった。時間ができたら絶対に散策へ訪れようと心に決める。


車は巨大な長屋門の前に広がる石畳の敷地へと滑り込んだ。詰め所から端正なスーツ姿の警備員が現れ、深々と頭を下げる。ナンバープレートを確認し、手元のバインダーと照合した。重厚な木の門が静かに横へと開き始める。車は徐行し、タイヤの下で白い玉砂利が規則正しい音を立てた。竹林を抜ける曲がり道を進み、母屋の車寄せで車が止まる。


車寄せには二人の使用人が控えていた。一人が一礼してキラ側のドアを開け、もう一人がトランクへ回って荷物を取り出す。キラはヨシに続いて石段を上がり、玄関へと足を踏み入れた。上がり框には、磨き抜かれた板張りの床の上に内履き用のスリッパが二足、爪先を内側に向けて整然と揃えられていた。


使用人の案内に従い、廊下を進む。片側には木目の壁と閉ざされた障子、もう片側には庭園を一望できる全面ガラスが広がる。廊下は直角に折れ、突き当たりの襖の前で止まった。敷居の脇に正座した使用人が、静かに襖を開け放つ。


乾いた畳の香りが広がる和室が現れた。行灯から柔らかな光が漏れている。中央には掘りごたつ式の座卓が据えられ、四角い座布団が囲む。縁側へ続く障子は少し開かれ、池を温かく照らす灯籠の明かりが見えた。


キラはヨシの隣に座り、掛け軸と椿が生けられた床の間に向かい合った。息を潜め、急須から茶が注がれる微かな音に耳を澄ます。厳かな空気が満ちるこの空間では、わずかな物音さえ場違いに感じられた。


襖が開き、濃灰色の作務衣を纏った新井さんが姿を現した。ヨシは両手を膝に置き、腰から深々と頭を下げた。キラも慌ててそれに倣う。新井さんは笑みを浮かべ、手で制して緊張を解き、二人の向かい側へと腰を下ろした。彼はヨシに温かな視線を向けたあと、キラに頷きかけた。


「ヨシから昨日の話は聞いたよ。大丈夫だったかい、キラさん」


キラはヨシに視線を走らせ、おずおずと口を開いた。「はい、大丈夫です。ただ……鍵と身分証を失くしてしまい、今は自宅に戻れなくて。しばらくの間、こちらでお世話になってもよろしいでしょうか」


新井さんはわずかに顔を伏せ、肩を震わせたかと思うと、部屋中に豪快な笑い声を響かせた。隣ではヨシが額を押さえている。


「私……何か失礼なことを言いましたか?」


「キラ……」ヨシが咎めようと口を開いたが、新井さんが手で制した。


「いやいや、構わんよ。どうせその話をする予定だったんだ、単刀直入で手間が省けて良い。それで、我が家はどうかな? 滞在するに値する場所かね?」新井さんは悪戯っぽく微笑んだ。


キラは頬を染め、ここが夢にまで見た理想の家だと叫び出したい気持ちを抑え、控えめに答えた。

「はい、想像以上に素晴らしいお屋敷です。これ以上の場所はありません。滞在中はよろしくお願いいたします」


「それは良かった。では挨拶はこのくらいにして、夕食を共にどうだね? 歩美も君たちに会いたがっている」


「ご相伴にあずかります」ヨシが応じ、キラも素早く頷いた。


新井さんは立ち上がり、二人を先導した。夜の庭園を囲むように続く廊下を進み、角にある襖の前で足を止める。


広々とした食堂の中央には木のダイニングテーブルと椅子が並び、隅の低い飾り棚には素朴な陶器の茶器が飾られていた。


テーブルにはすでに料理が並んでいる。新井さんは上座へと進み、微笑みながら二人に着席を促した。

「歩美の両親は仕事で帰りが遅くなるから、今夜はこの顔ぶれで食事だ」


その時、横の襖が静かに開いた。


歩美がゆったりとした足取りで現れた。上品な濃紺のフレアワンピースを身に纏い、栗色の巻き髪が背中に流れ、顔には薄く化粧が施されている。背後には莉奈子が続いていた。莉奈子はキラの姿を認めるなり目を輝かせ、丁寧にお辞儀をして微笑んだ。

「こんばんは、キラさん」


歩美は祖父に一礼し、瞳を輝かせながらヨシへ向き直った。

「おじい様、こんばんは。ヨシさん、こんばんは」


直後、歩美は態度を一変させてキラへ向き直り、頭の先から爪先まで冷たい視線で値踏みするように見つめた。キラの背筋に冷たいものが走る。

「初めまして、キラさん」


歩美と莉奈子はテーブルの向かい側に腰を下ろした。食事中、二人は一言も発さず、行儀の良い子猫のように静かに箸を進めた。伝統的な和食の膳には、味噌汁、鮭の塩焼き、二種類の香の物、冷奴が一人前ずつ整然と並んでいる。


新井さんは当たり障りのない話題をいくつか振った後、二人の孫娘の淑やかさを褒めた。食事が終わりに近づくと、彼は歩美に対し、行儀よく過ごしてキラを困らせないよう言い聞かせた。少女は返事だけを軽く返したが、不満を抱いていることは明白だった。


食事が終わると、歩美と莉奈子は図書室へ先に向かうため席を外した。キラは新井さんと少し言葉を交わしてから、二人の後を追った。初日ということもあり、ヨシは莉奈子を家まで送り届けるため残ることになっていた。



食堂から図書室までは歩いて三分ほどの距離だった。キラは引き戸を開けて中へと足を踏み入れた。図書室は真っ暗で、人気がない。二人が待っているはずだった。状況を把握する間もなく――


「キャアアアアッ!!」


背後で甲高い叫び声が上がり、頭のすぐ横を鋭い風が薙ぎ払った。キラは瞬時に身をかがめ、衝撃を回避する。襲撃者は連続して打ち込んできた。暗闇を切り裂く硬い物体を、キラは左へかわし、右へ躱し、後方へ跳躍して避けた。


「誰だ?!」


キラは鋭く声を上げ、音の発生源へと間合いを詰めた。木製の柄を指で掴み、素早く滑らせて相手の手首を固定する。腰を回転させ、鮮やかな大外刈りを放った。


ドスン!


彼女は膝を落とし、相手の腕を床へしっかりと極めた。


「痛い、痛い、痛いっ!!」悲鳴が上がった。「離しなさいよ!! 痛いわよ!!」


その時、部屋全体に明かりが灯った。キラは眩しさに目を細めた。床に組み伏せられていた歩美が、憤怒に顔を歪ませて彼女を睨みつけていた。出入り口の傍らでは、莉奈子がお茶とお菓子の載ったお盆を抱えて取り乱し、その隣で使用人が呆然と立ち尽くしていた。


一体何がどうなっているのだろう。キラは連続してくしゃみを放ち、このまま床へ崩れ落ちて消えてしまいたい衝動に駆られた。


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