落とした鍵
キラはソファの上で膝を抱え、ヨシがシャワーを浴びる前に淹れてくれた白湯のマグカップを両手で包み込んでいた。浴室から響く水音が、どうにも彼女を落ち着かなくさせる。彼の部屋は無駄なものがなく、がらんとした印象を与えるほど整然としていた。リビングにあるのはソファセットと、公園を一望できる窓辺の本棚くらい。どう考えても普通じゃない。彼の部屋で、彼がシャワーを浴びているのを待つなんて。まるで二人が……。キラは癖でソファの背に額をごつんとぶつけ、小さくうめき声を漏らした。
水音がぴたりと止まった。浴室の引き戸が開く音がして、ヨシの足音が続く。彼はどこかへ寄ってから、リビングに戻ってきた。キラは彼など気にしていない風を装って視線をそらす。ヨシはローテーブルに救急箱を置くと、彼女の隣に腰を下ろした。そして、明日の朝一番にやるべきことを淡々と確認し始めた。管理会社への連絡、鍵交換の手配、在留カードや身元証明書類の再発行手続き――。
ヨシは声のトーンを落とし、極めて真面目な顔で付け加えた。
「最悪の場合、半グレに財布を拾われた可能性がある。在留カードの住所を突き止めて嫌がらせや報復をしてきた事例も実際にあるんだ。明日の朝、鍵を交換したら必要な荷物だけ取って、事態が落ち着くまで一週間ほど別の場所に身を寄せたほうがいい」
キラのまぶたがピクリと跳ねた。事態がここまで厄介だとは予想していなかった。彼女はおずおずと尋ねる。
「でも、どこへ行けばいいの……?」
まさか彼が自分の部屋に一週間も泊めてくれるわけがない、と一瞬だけ頭をよぎった考えを振り払う。
ヨシはさらりと言った。
「新井さんが、歩美ちゃんの家庭教師をしやすいように自宅に泊まればいいと提案してくれた。明日、僕から話を通しておく」
「足、見せてごらん」ヨシは彼女の足元を見下ろした。パンプスのまま全力で走ったり暴れたりしたせいで、踵も指先も真っ赤に腫れ上がっている。
ヨシが身を寄せた。彼の手が足首を包み、脚をそっと固定する。くるぶしの近くに指先が触れ、キラの肩がびくっと跳ねた。彼は消毒液を染み込ませたコットンで、踵の擦り傷を丁寧に拭う。絆創膏を貼ると、端が剥がれないよう指先でしっかりと押さえた。キラの頬が一気に熱くなり、気まずさを隠そうと慌てて顔を背けた。
「ヨシ……そこまでしなくていいよ。自分でできるから」
ヨシは彼女の制止などまるで耳に入らない様子で、絆創膏を箱に戻しながら、何食わぬ顔で視線を向けた。
「日本語の悪態はどこで覚えたんだ? 敬語を話す時は口ごもるくせに、ヤクザ言葉はすらすら出てくる。さっきの連中の言葉、一言でも理解できていたのか?」
キラは鼻を鳴らし、あっかんべえと舌を出した。
「アニメで覚えたの。誰にも教わってないよ」
「武術は? いつからやってるんだ」
「家庭環境のせい」キラは足の指をさすりながら説明した。「母が空手の赤帯で、ロサンゼルスにいた四歳の頃から道場に引きずり込まれたの。学校でいじめられないようにって鍛えられて。そのあと、凶暴すぎてお嫁に行けなくなったら困るからって、もう少し大人しくて自分に合った専攻を選んだんだから」
ヨシは怪訝そうに眉をひそめた。「そんな武術の腕前を持つ女を、誰が口説こうと思うんだ?」
ずばり痛いところを突かれた。癪だけど、ぐうの音も出ない。
大学一年の時、イギリスでの三ヶ月の留学中にイケメンの英国人から連絡先を聞かれたことがある。軽い挨拶を交わした直後、横を走り抜けようとしたひったくり犯に鋭い下段蹴りを食らわせ、一撃で仰向けに気絶させてしまった。それ以来、その男性は音信不通。就職初日には、お尻を触ろうとした男の手首を一瞬で脱臼させた。高校時代の男子たちに至っては、子供っぽすぎて眼中にすら入らなかった。
ヨシは立ち上がり、救急箱を片付けると寝室を指差した。「僕のベッドで寝なさい。足も傷だらけだし、肩も痛むだろう。ここはベランダが近くて風が入る」
キラは身を起こし、首を横に振った。「本当に大丈夫だから! 泊めてもらってる身で部屋を奪えないよ。このソファ、すごく寝心地いいしここで十分」
ヨシは腕を組んだまま彼女を見下ろした。「自分で歩いて入るか、僕に運ばれたいか、どっちだ? もう深夜一時になる。押し問答してる体力はないんだ」
キラは耳を疑った。ヨシの口からそんな台詞が出るなんて。頬が一気にカッと熱くなる。彼に抱き上げられて寝室へ運ばれる図を想像しただけで、顔中から火が出そうだった。キラは一言も返せず、彼を避けるように足早に寝室へと逃げ込んだ。
キラは真っ暗な部屋の天井を見つめた。ヨシのベッドは広くて柔らかい。毛布から漂う彼の匂いが、彼女の神経を尖らせて休ませてくれない。
『寝なきゃ、キラ。疲れ果ててるでしょ』
それなのに目を閉じるたび、部屋着姿のヨシの姿やさっきの声が脳裏に蘇る。
『しっかりして、自分! 頑固さに呆れて言っただけ。それ以上でもそれ以下でもないんだから!』
『羊を数えよう……羊を数えるの!』
彼女はぎゅっと目を閉じ、寝返りを打って枕に顔を埋めた。
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いつ眠りに落ちたのか分からなかった。頭はずきずきと激しく痛み、全身が熱で燃えるように熱い。目を開けようとしても、視界がかすんで何も見えない。朦朧とする意識の中、ベッド脇に佇む人影が見えた。黒い服。黒い髪。あの広い肩幅……まるでタキシード仮面様みたい。夢を見ているのかな。
「キラ、大丈夫か? 起きて、解熱剤を飲みなさい」
耳元で温かい声が囁き、遠くの波のように響いた。身体がふわりと抱き起こされる。大丈夫に決まってる。それどころか最高。彼女は手を伸ばし、彼の首元に腕を回した。いつの間に自分に彼氏ができたんだろう。しかも初恋の相手。こんなに幸せな夢なら、もう死んでもいいかも。
キラはくすくすと笑った。薬を飲むより、抱きしめられるほうがずっといい。
「口を開けて」
えっ? いきなりキス? 顔もはっきり見えないけれど……キスなら、ちょっと試してみたいかも。少しミステリアスなのも悪くない。唇をかすかに開き、期待で胸を高鳴らせた。けれど、舌の上に広がったのは舌が痺れるほどの苦味だった。彼女は体を縮こまらせ、彼の胸元に顔を擦り付けた。
「頑張って、あと一口だ」
奇跡的にその苦い液体を飲み干すと、彼女はそのまま意識を手放した。
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ずきずき痛む頭を押さえながら、からからに渇いた喉を引きずって身を起こした。まだ彼の部屋だ。遮光カーテンが引かれ、部屋は薄暗い。今何時だろう? キラは携帯を探し、画面を見て息をのんだ。もう朝の十時を回っている。
うそ、仕事……!
待って……こめかみを押さえ、昨日の記憶を手繰り寄せる。今週に入ってから意識朦朧で目覚めたのは何回目だろう。そうだ、今日は有給を取ったんだった。そして厳しい現実が突き刺さる――まだヨシの部屋にいるんだ。彼はどこ? キラはすり足で寝室を出た。外はすでに陽が高く昇っている。眩しい光が眼下の昭和記念公園を照らし、足元から天井まで広がるガラス窓を抜けてリビングを満たしていた。
誰もいない。
キラはカウンターキッチンへと歩み寄った。ダイニングテーブルの上には、わかめの味噌汁と鶏肉のお粥が並び、その横に小さな付箋が貼られていた。
『今日はグラシア社との契約調印があるから外せない。朝食を食べて、机の薬を飲むこと。お粥と味噌汁は温め直して食べなさい。外出する時のためにドアの暗証番号を書いておく。昼過ぎには戻る。ヨシ』
キラはキッチンのカウンターに寄りかかり、電子レンジの中で皿が回る音をぼんやり聞いていた。手元にはまだ小さな付箋があり、親指が無意識にヨシの走り書きの跡をなぞる。胸がトクンと跳ねた。彼女はうつむき、こぼれそうになる笑みを必死に噛み殺した。この感情は何? この細やかな気配りも、丁寧な書き置きも、暗証番号を教えてくれるところも……まるで新婚夫婦みたいじゃない。
『頭がおかしくなったんじゃないの、キラ。熱のせいで幻覚見てるだけ』
レンジの電子音が鳴り、我に返った。熱いお粥の器を慎重にテーブルへ運び、スプーンで一口すくって口に運ぶ。舌が渇いていて解熱剤の苦味が残っているせいか、味がよくわからない。視線は付箋に吸い寄せられたままだ。ヨシがこんなに気の利く人だったなんて。それにしても、この解熱剤の味……なんだか妙に懐かしい。前にもどこかで飲んだことがあるような気がするのに、思い出せない。
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キラは食器を洗い、布巾で手を拭いた。まだ全身がだるく痛む。風邪をもらったに違いない。彼女は管理会社に連絡を入れた。鍵の交換には一週間かかり、二万円飛ぶとのこと。当面は予備の鍵を渡されるが、室内に貴重品を置かないよう釘を刺された。金欠の上にこの出費。午後、荷物を運び出すのにヨシの手を借りることになりそうだ。今の彼女には、何をする気力も湧かなかった。
ダイキからは長編小説並みの長文メッセージが届いており、昨夜の件への平謝りと、埋め合わせの食事の約束が並んでいた。朝から雷を落とされたくせに、ちゃっかりリナコちゃんと会話して番号をゲットした自慢まで添えてある。キラは思わず苦笑し、返信を打った。
『ヨシ主任のリナコちゃんに手を出したら、どうなっても知らないからね』
即座に返信が届いた。『体調どうですか? どこか痛みますか? えへへ、自分は公認のいい奴ですからご安心を! 来週の社員旅行の案内も社内に流しておいたんで、心配無用です。全部自分に任せてください!』
お調子者の後輩だけど、いざという時は妙に頼もしい。
さて、何をしよう。ノートパソコンがないから仕事もできない。あ、そうだ。昨日ヨシが勧めてくれた本の山を思い出す。タイトルは何だっけ。キラは呟きながら本棚を見渡した。画集、写真集、マーケティングの専門書。分野ごとに綺麗に整理されているおかげで、彼が言っていた本はすぐに見つかった。窓の外の公園を一瞥し、寝室から毛布を持ってきてソファに寝そべる。リンゴを切って皿に盛り、読書を始めた。本当に素晴らしい眺めだ。ヨシが会社の近くに部屋を借りず、長い通勤時間を選んでここに住む理由がよくわかる。
内容が頭に入っていたのかは怪しい。目が覚めた時、自分がよだれを垂らしながら寝落ちしていたことに気づいた。本は床に落ちていた。ぐっと背伸びをして大きなあくびをし、本を元の位置に戻すついでに他の背表紙を眺める。本は自由に読んでいいと言っていたから、これくらい見ても怒られないはず。何冊かの画集の隣に、チャコールグレーの布張りのノートが収まっていた。角は少し擦れ、黒いゴムバンドで留められている。背表紙に挟まれた鉛筆のせいでクリーム色のページがわずかに浮き、端に擦れた黒鉛の跡がスケッチブックであることを物語っていた。彼女はそっと引き抜き、ゴムバンドを外して慎重にページを開いた。
最初のページには、バケットハットを被った老人が公園で絵を描く後ろ姿。次のページには、二つ結びの髪を揺らしながらシャボン玉を吹く丸顔の女の子。キラは息をのんだ。これ、ヨシが描いたの? 絵が描けるなんて夢にも思わなかった。ページをめくると、日常を切り取ったシンプルな鉛筆画が続き、なぜか胸の奥がきゅっと締めつけられる。自然と次のページをめくった。紙の上に現れたデッサンを見て、彼女の手が震えた。満開の桜の下、風に髪をなびかせる少女の横顔。舞い散る花びらが、カールしたまつ毛と柔らかな横顔をかすめていく。
これって……私?
もっとよく見ようとした瞬間、背後から伸びてきた手がスケッチブックを奪い去り、パチンと音を立てて閉じた。
「詮索が過ぎるな」
耳のすぐ後ろでヨシの声が響き、キラはびくっと肩を震わせた。
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