思いやり傘
二人が書店を出た頃には、小雨が降っていた。キラはバッグの中をしばらく探ったあと、溜め息をついた。先ほど急いでオフィスを出たため、傘を置いてきてしまったことに気づいたのだ。どうしたものかと思案していたその時、ふと見上げると頭上には大きな黒い傘がすでに広げられていた。吉がすぐ隣に立ち、ブリーフケースと分厚い本の束、そして傘の柄を抱えながら、不器用そうにバランスを取っていた。
自分に非があるわけでもないのに、キラはなぜか申し訳なさを覚えた。
「傘、私が持ちます」
吉は疑わしそうな目を向けた。
「腕を上げ続けると疲れますよ」
「吉さん、身長何センチなんですか?」キラは唇を尖らせた。
「百八十です」
キラは鼻を鳴らし、一歩も引かなかった。「私、百六十五ありますよ。十分に入れます。見くびらないでください」彼女は柄へ手を伸ばし、彼の細く長い指に手のひらを軽く触れさせながらウインクした。「それに、重い本の束を持つよりはずっとマシです」
キラは大きな傘を高く掲げ、吉が入るよう腕を精一杯伸ばした。しかし十歩も進まないうちに、疲労で腕が震え始めた。柄をつたう雨粒が袖口へと滴り落ちる。吉は少し背を丸め、頭の上を行き来する傘の縁を避けようと首をすくめて歩いていた。端から見れば実に可笑しな光景だった。雨脚自体は強くなかったが、吹きつける風がキラの顔に雨粒を容赦なく叩きつけた。彼女は身震いし、ジャケットの肩が濡れそぼっているのを見下ろした。おまけに腕の痛みで傘がぐらつき、吉の肩にも水滴が跳ねていた。
吉は彼女の頑固さに呆れたように息をついた。キラが滑り落ちるバッグの肩紐を直そうともたついた瞬間、吉は言葉もなく手を伸ばし、彼女の冷たく震える指ごと傘を握り直した。
「腕が疲れると言ったでしょう。私が持ちます」吉は少し苛立った様子で口にし、もう片方の手でブリーフケースを差し出した。「これを持っていてください」
ブリーフケースの思わぬ重さに、キラは思わず膝が折れそうになった。
「これ、中に何が入ってるんですか?」キラは文句を言いながら姿勢を立て直し、バッグを肩に掛けたままケースを胸元に抱え込んだ。
「ノートパソコンです。重すぎるなら返してください、私が持ちますから」吉は軽く眉をひそめ、彼女の肩に目をやった。「本当にその濡れ方で大丈夫ですか?」
「私の心配ですか?言っておきますけど、私、そんなにか弱い女じゃありませんから。少々の雨でどうにかなったりしません」キラは口を尖らせて返した。内心では、吉が意外にも紳士的であること、そして雨の中で彼と相合傘をしている現実に驚いていた。それでも、彼の前で弱みは見せたくなかった。二人は雨の中に佇み、意地を張り合って口を閉ざした。その時、歩行者用信号の「ピヨピヨ」という音が響いた。キラは吉の肩をつついた。「行きましょう」
夕方六時は帰宅ラッシュのピークだった。新宿駅周辺は普段から混雑しているが、桜の季節と新学期が重なり、雨の中を行き交う人々で街はごった返し、騒然としていた。前方には、ゴスロリメイドの衣装をまとった若者のグループが一際目を引いていた。白と黒のレースドレスに淡いピンクのウィッグを着けた彼女たちは、小さなパラソルを手に持ち、何度も頭を下げながらチラシを配っていた。
「こんにちは!春のイベントでございます!どうぞ見てみてください!」
テンションの上がったキラは、可愛い女の子からチラシを受け取り、周囲の状況も忘れて一緒に写真を撮ろうとした。
「危ない」
何が起きたのか把握する間もなく、キラは背後へ強く引き戻されて息を呑んだ。スマホを構え、ブリーフケースを抱えていた彼女は身動きが取れなかった。目を開けると、自分は吉の胸元にすっぽりと収まっていた。彼は片手で本の袋を提げ、傘を持ったもう片方の腕を彼女の肩に回していた。鼻先が彼の胸に触れ、彼女の顔は瞬く間に赤く染まった。一人の通行人が二人のすぐ脇を猛スピードですり抜けていった。
「大丈夫ですか?」
吉は低めの声で尋ね、彼女の肩からゆっくりと腕を離した。
「人が多いんですから、前を見て歩いてください。少しも落ち着きがありませんね」
案の定、こんな場面でも彼は小言を忘れなかった。
「引っ張られなくても避けられましたよ」キラは意地を張って言い返した。
「パソコンを地面に落とされるのが怖かっただけです」吉は顎をくいと動かし、先を歩くよう促した。
雨が降り続く中、二人は雑踏へと溶け込んでいった。様々な日本語のネオン看板が連なる高層ビルの下、ラーメン屋や焼き鳥屋から漂う香ばしい匂いが湿った空気に混ざり合い、スーツ姿の会社員ですし詰めになった居酒屋が活気を帯びていた。キラが吉の後ろをとことこ歩いていると、やがて前方にそびえ立つ東急歌舞伎町タワーが現れた。
エレベーターで十八階へ上がると、遠くにBELLUSTAR TOKYOホテルの洗練された看板が目に入った。一瞬、吉がホテルのフロントデスクに視線を向けたように見えた。キラの心臓が跳ね上がった。彼女は吉の袖を軽く引き、疑わしそうな目を向けた。
「あの、吉さん。どうして……ホテルに?」
吉の顔が赤くなり、思わず手で口元を覆って吹き出した。「レストランは四十五階にあって、ホテルの専用エリアとエレベーターを共用しているんです。何を考えているんですか、キラさん」
そうだ。自分は何を考えていたのか。どうかしている。近くに壁があれば、頭を打ちつけて目を覚ましたい気分だった。
「あ、いや……その……」
顔を真っ赤にしたキラは完全に言葉を失い、その場で消え去りたい衝動に駆られた。
「映画の見すぎですよ」吉は歩きながらからかい、キラの頬をさらに熱くさせた。だがどう弁解しようと、雨の日に上司と食事に行くこの状況自体、映画と大して変わらない気がした。
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鮨 甚江は、クリーム色とグレーを基調とした落ち着きのある空間だった。カウンターのすぐ横にある大きなガラス窓には、雨煙に煙る東京の街並みが柔らかな光を帯びて広がっていた。
フロアの中央には檜の寿司カウンターがあり、白と黒の水墨画が飾られていた。
清潔な白衣にネクタイを締めた初老の職人が、二人が入店すると深々と頭を下げた。
「いらっしゃいいたします」
木目の滑らかなカウンター席に座ると、普段の慌ただしい日常から切り離されたような、穏やかで心地よい空気に包まれた。メニューに視線を落としながら、キラは小声で尋ねた。
「吉さん、ここは何がおすすめなんですか?」
吉はかすかに微笑んだ。
「おまかせが有名です。職人がその日の最高の素材を選んで提供するコースですよ。目の前に出されるまで何が出てくるか分からない楽しみがあります」
キラの目が輝いた。サプライズは大好物だった。迷うことなく、二人はおまかせコースを二人前注文した。
職人が背筋を伸ばし、細長い包丁を両手で構えた。キラは目を丸くしてそれを見つめた。彼女が尋ねる前に、吉が耳元へ顔を寄せた。
「あれは柳刃包丁です。刺身や寿司種を切るための専用の包丁ですよ」
職人は海塩をひとつまみ振りかけ、真鍮の箍がはまった飯台の蓋を開けた。ふわりと湯気が立ちのぼる。手慣れた指先でシャリを一口分取り、軽く二度整え、すりおろしたての本わさびを乗せ、その上に手際よくネタを合わせた。
「握りの技術です。職人は米粒の間に適度な空気が残り、口の中でほろりと崩れるよう、指先の力加減を絶妙に調整するんです」
ものの数分で最初の一貫が完成した。職人はキラの目の前の付け台にそれを置き、柔らかな笑みを浮かべながら魚を指し示し、淀みない日本語で説明を始めた。隣に座る吉が、それを英語に訳してキラに伝える。他の上司であれば、採用面接の時点で落とされていただろう。まして上司を通訳代わりに使うなどあり得ない話だった。
「その淡いピンク色に繊細な脂がのっているのは、九州沖で獲れた真鯛です。最初は淡白な白身から味わうのが基本ですから。二貫目は赤身で、三日前に豊洲市場の競りで落とされた本マグロの赤身を、旨味を引き出すために適度に熟成させたものです」
「豊洲市場の競りってどんな感じなんですか?」キラは吉と職人を交互に見つめ、興奮を隠せなかった。
「豊洲は東京湾にある世界最大の魚市場で、日本最古の市場だった築地の移転先として二〇一八年に造られました」吉が説明した。「毎朝、豊洲の競り場に並ぶ生の天然本マグロは百から二百本程度です。数百人の仲卸業者が競りに参加しますが、一社が競り落とせるのはせいぜい一本から三本。標準的な品質のものはスーパーや大衆寿司店へ回ります。脂の乗りが完璧で美しい霜降りのマグロは、一本百五十万円以上の値がつき、高級寿司店へ卸されます」
吉はキラの前に置かれた深紅の赤身を指さした。
「今夜あなたが口にするこの一貫も、競りで最高値を争ったマグロの一部かもしれませんよ」
一本百五十万円。キラは箸を落としそうになった。皿の上に乗る小さな切り身が、これほど厳しい選別を経てそれほどの値がついているとは想像もしていなかった。
「日本人って、食べ物に対するこだわりが本当に尋常じゃないですね」
「何事にも真剣なんですよ。料理に限らず」
キラは降参したように笑い、箸で慎重に寿司を一口持ち上げると、醤油皿にさっと浸してその味わいを堪能した。吉は食事の合間に職人と日本語で言葉を交わし、時折彼女へ向き直っては日本の水産消費や寿司屋の市場動向について補足を加えた。外食しているはずなのに、まるで会議室にいるような気分だった。とはいえ、夜景と高級寿司がついた会議室なら悪くはない。
キラがスマホを確認すると、時刻はすでに夜の七時を回っていた。ダイキが話していた居酒屋はどこだっただろうか。確か歌舞伎町の近くだったはずだ。六貫目を食べ終えたところでスマホが震え、彼女はびくっと肩を揺らした。同時に吉のスマホも鳴り響いた。キラは眉をひそめ、着信画面を確認した。あのダイキという男は……約束は八時のはずなのに、もう電話をかけてきている。彼女は周囲に迷惑がかからないよう声を極力抑え、しぶしぶ通話に出た。
「ダイキ、言ったでしょ――」
キラが言い終わる前に、受話器の向こうで凄まじい衝撃音が響き、続いて悲鳴が上がった。「ダイキ?」
ダイキの声は完全にパニックに陥り、英語と日本語が入り混じっていた。「キラ!もう近くまで来てる?!来ちゃダメだ!」
「何言ってるの、ダイキ?」
「ここ、めちゃくちゃなんだ。酔っ払いが喧嘩を仕掛けてきて……ビール瓶持ってて……でも俺たちが何とかするから!君は家に帰って休んでて!」
「そのまま動かないで。すぐ行くから」
キラは電話を切り、勢いよく席を立った。
「すみません、吉さん。急用ができたので失礼します」
「こちらも急な用事が入りました」吉も彼女と同じくらい焦った様子を見せており、キラは驚きを隠せなかった。吉は職人に断りを入れ、二人は足早に店を後にした。
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