クルヴァヴィッツァ
「うーん、気持ち良いねえ」
そう言いながらメテムが体を伸ばす。
その仕草は傍から見たら子猫を連想させる。
まあもっとも中身は子猫とは程遠いけれど。
僕たちは今スロヴェニアの首都リュブリャーナにあるプレシェーレン広場にいる。
一日の観光が終わったので、これから遅めのランチを食べるところだ。
このスロヴェニアという国、来るまでは正直どこにあるのかすら分からなかったのだが、来てみるとこれはこれで悪くない気がしている。
というのもこのリュブリャーナという街が素晴らしく、居心地が良いからだ。
規模自体はあまり大きくはないのだけれど、その分コンパクトに小奇麗にまとまっている。
街中には川が流れていて、ところどころにかかった橋は可愛らしい。
イタリアのベニスを思い出す作りだ。
そして小さな丘にはお城まである。
更に加えると治安も良好のようだ。
メーデーを避けてきただけだが、これはこれで掘り出し物かもしれない。
僕はコーヒーを飲みながらそう思った。
「しっかしこの国は平和だねえ」
同じことを感じたのか、メテムもコーヒーを飲みながら呟く。
「そうだね、なんか作り物のように可愛らしい街だけど、悪くないね」
「うんうん」
「オーストリアの狂乱が嘘のようだよ」
「そうだね。でもさ、さっきの湖、あれはないよ」
「う……」
「ありゃ単なる湖だろ」
「そんなこと言わないの。綺麗だったじゃん、お城も映えててさ」
「お城? ああ、あの変な建物のことか。あれは流石に一時間もかけて見に行く価値はないだろ。くそっ、あの観光案内のやつ、いい加減なこと言いやがって」
一転して気分が変わったのか、メテムが悪態をつき始めた。
やれやれ、まずい雰囲気になってきたぞ。
メテムの言う湖、それが何を指しているのかと言うと、今日の朝に観光したブレッド湖の事だ……。
オーストリアを追い出されるようにしてスロヴェニアに入った僕たち。最初から寄る予定が無かったので下準備をしておらず、右も左も分からない状況だった。かろうじて首都がリュブリャーナという街ということだけは分かった感じだ。
リュブリャーナについて僕たちはまずお馴染み観光案内所へと向かった。そして地図を貰って簡単に旧市街の説明を受ける。それから、数日滞在予定で観光先を探してる旨を伝えた所、観光案内所のおじさんが喜々としてこの国の見どころを説明してくれた。何やらこの国には信じられないほど素晴らしい鍾乳洞が二つあるとか。一つは世界遺産になっていて、世界中で最も有名で権威ある鍾乳洞らしい。権威ある鍾乳洞がどういうものか僕には分からないが、顔を乗り出し興奮して話す様子から察するに、それはもう素晴らしいものなのだろう。数日滞在するはずなので、疲れが取れたら向かってみよう。それから明日簡単に行ける見どころは無いかと聞いたところ、近くにある湖を紹介された。ブレッド湖というようだが、大層綺麗な景観らしい。遠くないし是非行ってみてくれ。そう教えられ、おじさんにお礼を行った後、僕たちは観光案内所を後にした。
翌日僕たちは朝からバスでブレッド湖へと向かった。運転手に距離を聞いたところ、一時間ぐらいの場所らしい。辺りの景色を眺めながらバスに揺られる。途中途中で田畑がみられることから察するにこの国はそこまで近代的な様子ではないようだ。それから少しウトウトしはじめていると、運転手が僕たちに大声をあげた。どうやら着いたようだ。肩にもたれかかって寝ていたメテムを起こすと、僕たちはお礼を言ってバスを降りた。
「うーん、よく寝たよく寝た」
「ガッツリ寝てたね」
「そりゃそうだろ。朝早いんだもん。もう少しホテルでゆっくりしてても良かったのに」
「ま、朝のほうが綺麗っていうからさ。よし、んじゃメテム、湖へ行こう」
そう言うと僕たちはバスターミナルを出た。
湖までの距離は短い。何やら電車だと結構歩くようだが、バスターミナルからだと十分ほどで着くようだ。幾つか曲がり角を曲がると、もう湖の端が見えてくる。そして程なくして全貌が把握できるようになった。
ブレッド湖は広く、背景に山を置いて、全体的に青々としている。そして中央にはいくつかの家と小さな塔がある小島が浮いている。向かって東側には小高い丘があり、全体的にとてもバランスが取れた絵画のような風景だ。
「綺麗だねえ、メテム、どう?」
湖を見てから僕はメテムに聞いた。すると、てっきり良い返事がくるとばかり思っていたが、メテム的にはあまりしっくりこないようだ。首をかしげている。
「うーん、うーん、駄目とは言わないけど……」
「けど?」
「うーん、あんま感動はないかなあ」
「そうなの? 結構見慣れてるとか?」
「うんうん、私の世界では結構この手のものはあったからねえ。それこそ湖の小島、あそこに巨大なクリスタルの神殿があったり、小島自体が空に浮いてたりとか、まあもちっと凄いのがあるんだよねえ」
「な、なるほど。まあさ、せっかく来たんだしとりあえず畔を歩こうよ」
そう言うと僕たちは湖の外周を歩き始めた。
外周は大体しっかり回って三時間ほどかかるらしい。途中すれ違った散歩中のご婦人が丁寧にも教えてくれた。僕たちもご婦人に倣い、澄んでいる空気を堪能し、自然をたっぷり浴びながら歩いた。途中途中で休憩を挟み、三時間強歩いた頃、ようやく元の場所に戻った。
「ふいー、結構歩いたねえ」
汗ばんだシャツを軽く扇ぎながらメテムに言った。
「おまえは普段から運動してないからなあ」
「う、面目ない」
「でも喉が乾いたね。お茶でもしよう」
「あ、ならほら入り口の畔にカフェがあったでしょ、あそこにしない?」
「いいね、そこに行こう」
僕たちは歩き始める手前にあったカフェへ移動した。嬉しいことに湖を一望できるウッドテラスがあって、そこでお茶が出来る様になっている。なかなか気の利いた作りだ。僕たちもコーヒーを飲んで一休みした。
「メテム、朝の調度良いイベントとしては良かったんじゃない?」
「ん、まあね。寝てるよか良かったかも?」
「うんうん」
「明日はどこ行くんだっけ」
「鍾乳洞だよ。シュコツィアン洞窟群というのがとても有名だから、そこに行こうと思ってるの」
「ほうほう?」
「あと行けたらポストイナ鍾乳洞へも行きたいな」
「どっか違うの?」
「らしいよ。ポストイナの方はなんだかエンターテインメント性があるらしい」
「鍾乳洞にエンターテインメント性?」
「うん、僕もどんなのか分からないけど」
「そりゃ楽しみだね。二つ行けたらいいなあ」
「だねえ、まあとりあえず楽しみにしておこう」
「うん」
そんなやり取りをしながら僕たちは体を休ませ、それからバスでリュブリャーナへと戻った。
「ユウキ、あれじゃないか?」
レストランでゆっくりしていると、メテムが一人のウェイターを見ながら言った。そのウェイターは大きなお皿をもってまっすぐこちらへと向かってくるところだった。
「そうかもしれないね」
そんな風に見ていると、予想通りウェイターが僕たちのテーブルに来て大皿をテーブルにおいた。
「はい、おまたせ。スロヴェニアご自慢の一品だよ」
運ばれてきた木で出来た大皿の上には、大きなソーセージが二本とザワークラウト。そしてマスタードと、あと三角形の形をした何だか分からない黄色いスポンジケーキのようなものが二つ乗っていた。
このソーセージがスロヴェニア名物料理、クルヴァヴィッツァ、所謂血のソーセージというやつだ。過去に似たようなものを食べたことがあるんだけれど、その時はソーセージ自体が真っ黒だった。しかしスロヴェニアのは普通のソーセージの色をしている。調理法で色が変わるんだろうか。訝しっていると、メテムが真っ先にソーセージに手を伸ばした。
「これは見るからにジューシーな感じがするね」
そんなことを言っている。僕も残りの一本を手元の皿に置いた。そして空腹だからすぐにナイフを使って一口サイズに切り分ける。もしかして血でも出るのかと思ったのだが、そんなことはなく、そして断面も黒色はしていなかった。本当に見るからに普通のソーセージだ。
「いっただきます!」
目の前で声をあげたメテムが、切り分けること無く豪快にソーセージにかぶり付いた。パリパリっと大きな音を立てて割かれる皮。そして口元から迸る脂。スリランカでも見たような景色だ。
「う……」
メテムの動作が止まる。相変わらず気になるリアクションを取る子だ。
「な、なにその反応。どうなの? 美味しいの?」
思わず聞いてしまう僕。
「ふ……」
「ふ?」
「普通だ……」
「え?」
「ユウキ、これ至って普通のソーセージなんだけど……」
そ、そんなばかな。僕は慌てて切り分けたソーセージを口に運んだ。すると……。
「普通だ……」
そう、確かにどこにでもあるちょっとジューシーなソーセージなんだけど、言い方を変えると何の変哲も無いただのソーセージだ。
「おかしいな、以前食べた血のソーセージは、独特の臭みがあって、それを消すために大量に使われている香辛料がもっと効いていたはずなんだけど」
「ユウキ、これ見た時からおかしいと思ったんだけど、色的にも明らかに血のソーセージじゃなくね?」
「う、うん、もう普通のソーセージだよね」
「やれやれ」
「ちょっと聞いてみるよ。すいませーん、ウェイターさーん」
僕は近くを通りかかっていたウェイターに声をかけた。
「ちょっと一つ変なこと聞くけど、僕たちの頼んだこれ、クルヴァヴィッツァだよね?」
「ん、そうだよ。美味しいだろ?」
「う、うん、美味しい美味しい。これあれだよね、血のソーセージだよね?」
「そうだってば。ジューシーな感じが出てるでしょ。ザワークラウトによく合うから一緒に食べるといいよ」
「そ、そう、ありがとう」
それだけ言うとウェイターは満足そうに厨房へと戻っていった。
「やっぱりこれ、クルヴァヴィッツァらしい」
「そか、まあこれはこれで美味しいしいいかな。この三角形のやつも、モチモチしていて美味しいぞ」
そう言うとパクパクとソーセージを食べるメテム。僕もまた口にいれる。すぐに広がる脂。そして少しだけスモーキーな風味。
「しかし、これは本当に単なるソーセージだ……」
僕は改めて呟いた。
「なんだよ、いらないならお前の分食べちゃうぞ」
「あ、いるいる。お腹減ってるから」
そう言うと僕は慌てて残りのソーセージを口に運ぶのだった。
クルヴァヴィッツァを食べた後は、まだまだ日が落ちるのは早かったので、僕たちは改めてこの街を歩いた。最初にも書いたとおり、規模は小さいが、コンパクトに見事に収められていて、歩いているだけで気分が良い。要は典型的なヨーロッパの街並みを凝縮している感じなのだ。少し歩いては景色を楽しみ、橋を渡っては川を覗き込み、ゆっくりと巡る。街中自体にこれという見どころはないけれど、今回のように適当に散策する分にはうってつけだ。そうやってしばらく歩いていると、メテムが声を上げた。
「ユウキ、あの女性、何してるんだ?」
視線の先を見てみると、女性が一人大きな看板を抱えて立っているのが見える。
「分からない、なんだろね」
「ちょっと近づいてみよう」
そう言うと僕たちは女性に向けて歩き出した。近づくにつれ看板の文字が認識できるようになる。「フリーハグ」看板にはそう書かれていた。
「フリーハグって、どういう意味?」
メテムが不思議そうに聞いた。
「どうって、文字通りの意味じゃないかな」
「要はハグするよ、無料だよ、ってこと?」
「そうだと思う」
「この世界じゃハグをするのに一々看板掲げて立ってるわけ?」
「うーん、ハグ自体僕のようなアジア人はあまりしないからなあ。南米の人たちはするみたいだけど」
「しかも無料ってことを一々宣言するってことは、普段は有料なの? 有料のハグって何の意味があるんだ? いかがわしい系?」
「なんだろうねえ」
「こないだのパントマイマーといい、この世界にはたまに珍妙な事をするやつがいるよな」
「まあ人口多いからねえ」
「しかし不思議だ。見知らぬ人とハグだけして一体何の意味があるんだろうか」
「僕もわからないよ。お互い幸せになれるんじゃない?」
「通りがかりの人とハグするだけで? こんな街中で?」
「あの人綺麗だから男は嬉しいんだよ」
「ユウキ、やってこいよ」
「え、やだよー。メテムしてきなよ」
「んもー、しょうがないやっちゃなあ」
そう言うとメテムはフリーハグの女性に向かって歩き出した。
「すいませーん」
メテムが手を広げながら明るい感じで近づく。すると女性も察したのか、看板を地面に置いて何も言わず笑顔で抱きついてきた。
むぎゅー。
そんな擬音が聞こえてきそうな程しっかりとハグする二人。それから何か一言二言交わしたようで、握手をした後、メテムが戻ってきた。
「どうだった? 何か得るものあった?」
「なるほど、分からん」
首を傾げながら複雑そうな顔を浮かべるメテムがそこにいるのだった。




