ザッハトルテ
「おい……」
僕の目の前には仏頂面をしたメテムが座っている。
いや正確に言うと、仏頂面をしているであろうメテムが座っている、だ。
とても今の心境ではメテムの顔を直視できない。
それをするには少なからず僕もショックを受けすぎているし、その上文句を言われるのが分かっているなら尚更だ。
「ユウキ……おい……」
分かっている、分かっているよメテム。
僕だって今の状況を受け入れるのに必死なんだ。
申し訳ないけど、僕の力ではどうしようもないことなんだ。
「はぁ……」
メテムの口から今日何回聞いたか分からないため息が漏れる。
「どうしてこうなった……」
僕は公園のベンチに座りながら、思わず天を仰いだ。
スロバキアで散々な目にあった僕たちは、飛び出るようにして次の目的地オーストリアはウィーンに向かって旅立った。
今回の足は、船だ。
そう、かの麗しきドナウ河を遡ってブラチスラヴァからウィーン入りする予定だ。
ブラチスラヴァからは一日に数便船が出ており、僕たちは十時半の朝一の便で行くことにした。
値段は二十ユーロ。
時間にして一時間半程らしい。
優雅なひと時を想像し期待に胸を膨らませながら僕たちは船着場へと向かった。
船は白を基調に赤でカラーリングされた小型船だった。
まあ考えてみれば河を遡るのにそんな大きい船でいけるわけがない。
チケットを渡し真っ先にメテムを連れて窓際の席を確保する。
そして船の出発時間を待った。
「メテム、メテム、起きて」
僕は肩にもたれかかったメテムを軽く揺すりながら起こす。
「んー、何だよ。今日は朝早いんだからもう少し寝させてよ」
「もう、ほら、ドナウ河だよ。麗しのドナウ河」
「知らないよ、私ドナウ河なんて聞いたこと無いもん」
「う……まあ、僕の世界じゃ有名なの。ほら、ロマンティックなひと時だろ、起きてよ」
そう言うとメテムは少しだけ顔をあげると河を見据えた。
「ロマンティックって、おまえの世界じゃこの小汚いドブ河を渡る事を指すのか?」
「……」
痛いところを突かれた僕は言葉がつまる。
そう、初めて来たドナウ河。
果たしてどれだけ綺麗なのかと心躍らせていたのだが、実際は全然澄んでいない単なる茶色の河だった。
「しかもおまえ周り見てみろよ、草むらだらけじゃないか……」
とどめとばかりにメテムが言う。
確かに周りを見渡すと一面が荒れ果てた草むらしか見えない。
「はぁ……」
理想と現実のギャップをまざまざと見せつけられ、僕は思わずため息をついた。
そうして、全く持ってロマンティックでもなんでもない一時間半の航海を終えた僕たちは、遂にオーストリアは首都、音楽の都ウィーンへと辿り着いた。
「うはー、ここは賑やかな街だねえ」
メテムが目の前の光景に驚きの声を上げた。
「う、うん、そうだね」
僕もそれに答える。
ウィーン歴史地区に足を運んだ僕たちは、目の前の人混みに圧倒されていた。
人、人、人。
とにかく人だかりがあらゆる所にできていたのだ。
もうそれは普通に歩くのすら困難な程だ。
「流石に音楽の都と言われるだけはあるなあ。でもさ、ユウキ。ここの人たち疲れないのかな」
「うーん、なんだろう。何かおかしいなあ。人がいくらなんでも多すぎな気がする。お祭りでもあるのかな?」
そんなやり取りをしながら、人混みをかき分け真っ先に向かった場所はお馴染み観光案内所だ。
まずはオーストリアでの宿を抑えなければいけない。
観光案内所を見つけ、何故かやたらに長い列を並んだ後、僕たちは受付の女性に宿の手配を頼んだ。
すると……。
「申し訳ありません。現在ウィーン市ではご案内出来るホテルはありません」
「え?」
予想していなかった回答に僕は思わず耳を疑った。
「お気の毒でしたね。今日はヨーロッパではメーデーなんです。そしてこのウィーンにはヨーロッパ中の人が流れ込んできており、ホテルは一切空いてないのです」
なんだって? メーデー? 聞いてないぞ、そんな話。ホテルがない? そんな馬鹿な。
思わず事態に動揺しながらも、僕は必死に食らいつく。
ここで泊まるところが無けりゃ今日は野宿だ。
この広いウィーン、一部屋ぐらい空いてるところはあるだろ。
若干高くなってもこの際目を瞑るし。
受付に身を乗り出すようにして熱弁する僕に対し、女性は冷静に受付横を指差した。
「それを使って構いませんので自分で頑張ってください」
その無慈悲な言葉の先には、無料公衆電話とホテルリストの束があった……。
「お願いします。困ってるんです」
「すいません、幾らでもいいので空いてませんか?」
「小さい部屋でも大丈夫です。二人分ちゃんと料金払いますから」
何度こういうセリフを言っただろうか。
日本人らしく電話越しに頭をペコペコ下げ続けながら僕は根気よく片っ端から電話をかけた。
最初は隣に立って待ってたメテムだが、しばらくすると後ろの地べたに座り込み、更に時間が経つと部屋の隅っこで横になり始めた。
それでも僕は頑張った。
遥々ウィーンに来たんだ。
オペラも見たいし、世界遺産や美術館だって行きたい。
何としてもここで宿を抑えなきゃ。
もう必死の形相で電話をかける。
かける、かける、かける。
が、駄目。
どこのホテルも最初の返答が「生憎満員となっており……」から始まる。
というかこちらの最初の問い合わせの後に必ず深い溜息をつくので、それで全てを察することが出来る。
とにかくそれぐらいに絶望的に駄目だった。
「どうしよう……」
部屋の隅で呑気に寝ているメテムを見ながら僕は思わず呟いた。
そしてふと自分の後ろを見ると、同じような電話待ちの人が復数名いることに気づく。
これはまずい。
僕は急いでリストの一番最後のホテルを見た。
観光案内所からは少し離れた場所にあるホテルだが、もう泊まれるならどこでもいい。
最後に書かれているからもしかしたら空いているかもしれない。
藁にもすがる思いで僕はホテルに電話をかける。
「すいません、部屋空いてますか?」
悲壮感漂った言葉が口から出る。
が、しかし、帰ってきた言葉は冷酷な答だった。
「申し訳ありません。もうホテルは一杯です」
精も根も尽き果てた僕たちは観光案内所を出て、近くの小さな公園のベンチに崩れるようにして腰を下ろした。
「ユウキ……」
メテムの視線を強く感じる。
分かってる、分かってるよ。
このウィーンでは僕も楽しみにしていたことが沢山ある。
オペラだって見たいしケーキだって食べたいし。
「メテム……」
何をいえば良いか定まらず、ただ言葉だけが出る。
「ユウキ、まじでどうする? 野宿でもする?」
野宿……この人混みの中では何が起きるか分からない。
どうしても回避したい事態だ。
僕は悩んだ末にメテムにこう伝えた。
「メテム、残念だけどオーストリアを離れよう。受付の人が言ってたけど、数日はこの乱痴気騒ぎは続くみたいなんだ。メーデーは大体の国では一日だけなんだけど、旧ユーゴスラビアの人たちだけは二日とか三日あるみたいでさ。とても収まる気配が無いみたい。ここから離れるとなると、次は旅の目的であるイタリアでさ。一番近いのは水の都ヴェニスなんだ。でもこの様子じゃヴェニスだって危うい。だからとりあえず途中にある小国スロヴェニアで二、三日落ち着かない?」
僕は意気消沈しながらメテムに提案した。
するとメテムは深いため息を付きながら「任せる」と呟いた。
メテムを公園で待たせ、僕は観光案内所へと戻った。
それから受付の女性に再度話しかけ、スロベニア行きの列車のチケットを購入した。
夕方四時発だった。
それから僕はメテムの元へと戻った。
「メテム、チケット取れたよ。四時だって」
「そう、んじゃもう少しここにいれるね」
「そうだねえ。それまで時間があるからせめて何か美味しいものでも食べない?」
僕は頑張って明るい声を出した。
「美味しいもの?」
メテムも少し元気が出たのか、目をこちらへ向けてくる。
「うん、音楽の都と呼ばれていても、ここは美食の街でもあるからね。伝統的な料理が沢山あるんだよ」
「ほうほう、オススメは? 私疲れたから甘いモノが食べたいなあ」
「甘いものかあ。それならザッハトルテはどう?」
「ザッハトルテ?」
「うん、ザッハーホテルっていうホテルでしか食べれない有名なケーキ。チョコレートケーキの一種でさ、中の生地に杏のジャムが練りこまれてて、それをチョコレート入りの砂糖でコーディングしてるの」
「ん、なんかそれ日本のカフェで見た覚えがあるぞ」
「うん、ザッハトルテという名称のケーキは世界中色々なところで食べれるけど、正式なザッハトルテは、ザッハーホテルで食べるものだけなんだ。他にもデメルってブランドが有名だけど、こちらはちょっと裁判沙汰にもなったいわくつきな物でさ。だからここまできたら本場を食べてみない?」
「いいね。杏ジャム入りチョコレートケーキか。それに砂糖で覆われてるとは。っと、ユウキ、おまえハルシュキみたいな羽目になるのはゴメンだぞ?」
「大丈夫大丈夫。僕お土産で何度か食べてるから。もう超絶美味しいよ」
「ふむふむ、それなら楽しみだ。よっし、せっかくだし時間までグルメツアーだ」
そう言うとメテムは勢い良く立ち上がった。
ザッハーホテルはウィーン中心部のフィルハーモニカ通りにある。
そもそもが名前の通り、五つ星の立派なホテルなので、すぐに見つけることが出来た。
外観は大理石で装飾されており、雰囲気ある面持ちだ。
早速一階のカフェへ入る。
濃茶色をした木をベースにしたクラシックな店内で、バックパッカーの格好をした僕たちは若干浮いていたが、店員はなれているのか落ち着いて対応してくれた。
ただ時間が時間なのか、店内は非常に混みいっており、僕たちは横並びのカウンターに通された。
まあゆっくりするわけでもないから問題はない。
メニューからザッハトルテを見つけ、紅茶とあわせて二人前頼む。
それから雑談をしていたらすぐに運ばれてきた。
「お、これは期待できそうな見た目だね」
メテムが一目見るだけでそう呟いた。
白いお皿に置かれたザッハトルテは、コーディングされている砂糖がテカテカと輝いており、その中央にホテルの名称入りの丸いチョコレート片が乗せられていた。
脇にはホイップクリームも添えられている。
「いいねえ、僕も本場で食べるのは初めてだから、嬉しいよ」
そう答えていると、メテムが早速フォークを手に持ち、ザッハトルテを口に入れた。
「うんま――――い!」
メテムが驚嘆の声をあげる。
「でしょ!」
「このさ、口に入れた直後に広がる濃厚なチョコレートの味、そしてそれを引き立たせる甘酸っぱい杏。さらに噛んだ時に分かるジャリジャリっとした糖衣の食感。もうこれは見事としか言い様がないよ」
そう言いながらメテムはザッハトルテをドンドン口にいれる。
「ユウキ、ほら、チョコレートとフルーツって本当に合うじゃん? これまさにそれの典型だよ。杏が絶妙にアクセントになっていて、一緒に食べることでチョコレートがより一層深く感じるし、それだけじゃなく杏本来のジューシーさも増すのよ。それでさ、しっとりとしたケーキの中で、糖衣の食感が絶妙に変化をつけていて、食べていて新鮮で飽きないのよ」
もう今までの鬱屈とした雰囲気を吹き飛ばす勢いだ。
僕もすぐに口にいれる。
途端にメテムが言うようにチョコレートの重さが口に入り、そしてそれから後に杏の甘酸っぱさが広がった。
「うん、これはいけるね。そして砂糖のコーディングも変化があっていいよ。ザラメ入りのカステラを彷彿とさせる食感だ」
「いやー、これは当たりだよ。ユウキ、もうこれを食べるためだけに来たと思っても満足だね」
「うんうん、そういって貰えるとほっとする」
「そしてさ、この口の中に広がった甘さを、紅茶の渋みが絶妙に中和するんだよ。あ~分かってるねえ、このカフェ」
そう言うとメテムは紅茶を啜る。
そして一度ついた勢いはまだ消えなかった。
「というかこのクリーム、甘いと思ったら砂糖入ってないわ。箸休めってことか。チョコレートの甘さを更に杏で際立たせて、そこを紅茶で打ち消し、クリームで口を休める。まさにこれこそ完成された一品だね」
「そ、そんな気に入って貰えて良かったよ」
「うん、まじでここは来る価値あるわ。ウィーンのザッハーホテル、覚えておこう」
すっかり気分が良くなった僕たちは、それから舌鼓を打ちながらしばらく体を休めたのだった。
ザッハーホテルですっかり満足した僕たちだったが、列車の時刻にはまだ若干の時間がある。
せっかくだしシェーンブルン宮殿か美術史美術館にでも行こうかとも思ったが、残念ながらじっくり見る程は時間が無い。
来た見た行っただけの訪問になりそうだ。
それならばどうするか。
僕たちは話し合った末に、もう一度グルメに振ることにした。
先程ザッハトルテを食べたけれど、考えてみれば僕たちは朝にホテルで軽く朝食を取っただけで、ランチを食べていなかったのだ。
「ユウキ、一度しかない食事の機会、これっていうのはある?」
「流石ウィーンと言うべき名物は沢山あるんだけど、その中でも僕が今回推すのはヴィーナー・シュニッツェルだね」
「ヴィーナー・シュニッツェル?」
「うん。簡単に言うと仔牛のカツレツ。薄く切った仔牛の肉をさらにハンマーで叩いて薄くして、それから小麦粉をまずし、パン粉つけて焼くのよ。ポイントは、とんかつと違って揚げるわけじゃないの。ただバターで揚げ焼きする感じ」
「ほうほう、それはそそられる響きだねえ。どこで食べられるの?」
「んー、これはオーストリア料理屋ならどこでもあると思う。国民食だからね」
「オッケー、それじゃ適当な所に入って、試してみよう!」
そう言うと僕たちは辺りを歩き、程なくして見つけたオーストリア料理を出すレストランへ入った。
「こちらがヴィーナー・シュニッツェルでございます」
恭しく出された一品を僕たちは凝視する。
結構大きめの肉が四枚乗せられており、脇には人参の千切りとレモンが添えられていた。
「……ゴクリ」
肉から醸しだされる油と肉の野性的な香りが鼻を刺激する。
僕たちは会話をすること無くすぐにナイフとフォークで口に運んだ。
「こ、これは……美味い!」
「うん、これ美味い美味い」
すぐに自然と笑みがこぼれ出す。
その魅惑の香りがする肉は、口に入れた途端、圧倒的な肉の旨味が広がる。
そして脂がレモンの酸味と交じり合うことで一層際立つ。
しかも揚げ焼きしているからか、見かけによらずサクサクあっさりしていて重くない。
最初見た時は四枚も食べきれるかと思ったが、これなら何の問題もなくお腹に収められそうだ。
お腹が空いていた僕たちは、黙々と肉を口に運び、気づけば二人共全ての肉を食べ終わっていた。
「ふぃ~」
メテムが可愛らしいお腹をさする。
「美味しかったねえ」
ナプキンで口を拭きながら答えた。
「そうだね、ユウキ、この街は何でも美味しいな」
「うんうん、ザッハトルテ然りヴィーナー・シュニッツェル然り」
「本当だよ。いや驚きの連続だね。返す返すも半日だけの滞在が名残惜しいよ」
「そうだね、本当に残念だ。オペラ見たり、芸術品見たりしたかったんだけどなあ」
「まあね。でも、これも突発的な旅の醍醐味かもな。どうせ来ようと思ったら、またすぐ来れるだろ。飛行機乗ってビューン、だ」
「そう言ってもらえると安心するよ」
「っと、列車は何時なんだっけ?」
メテムが壁にかけられた時計を見ながら言う。
「四時だよ」
「次の国はどこ?」
「スロベニアっていう小さな国。もともと行く予定無かったから何が有名なのかは全く分からない」
「そうかあ。最初は寄らない予定だったの?」
「うん、この後はイタリアのヴェニスへ行く予定だったからさ。まあちょっと寄って、メーデーが終わるのを待とうよ。スロベニアなら空いてそうだ」
「了解了解。その後旅の目的地、世界随一の美食国イタリアだね。超楽しみにしてる!」
「うん、僕もだよ。ピザにパスタになんでもござれだ。よし、んじゃスロベニアへ一息つきに行きますかー!」
「おー!」
そう言うと僕たちは元気に立ち上がり、列車の待つ駅へと向かうのだった。




