041 AIによる大失業時代のコメリカに転移
2036年 第3フェーズ 富裕層居住区
サンクチュアリ・ヒルズの朝は、完璧な静寂と澄み切った空気の中で明ける。
高さ6メートルの高電圧防護壁と自律型警備ドローン網に守られたこのゲートコミュニティでは、外の世界の混乱や騒音はいっさい届かない。全自動管理された空調システムが室内の温度を常に22度、湿度を45%に保ち、テラス越しに見える人工芝の庭園には、朝露に濡れた完璧な深緑が広がっていた。
居住者である40代の金融アナリスト、アーサーは、全自動キッチンユニットが淹れ立てたばかりのオーガニックコーヒーの香りを楽しみながら、焼き色の美しいトーストにバターを塗っていた。
リビング正面の壁一面を占める超高精細ディスプレイには、ゲートコミュニティ専用チャンネルの朝の情報番組『グッドモーニング・サンクチュアリ』が映し出されている。
洗練されたダークスーツに身を包んだ男性キャスターのブライアンと、親しみやすい笑顔を浮かべた女性キャスターのケイトが、白く整った歯を見せて微笑みかけていた。
『皆さん、おはようございます! 10月12日、木曜日の朝です。今朝もサンクチュアリ・ヒルズは素晴らしい秋晴れに恵まれましたね、ケイト』
『ええ、ブライアン。コミュニティ内の空気質指数は今朝も「完璧」。太陽光および小型原子炉ネットワークも100%の出力で安定稼働しています。住民の皆様は、本日も安心して快適な一日をお過ごしいただけますよ』
画面下部のテロップには、ゲート内の主要投資ファンドの株価指標、専用配達ドローンの定時運行率、そして『本日も不法侵入ゼロ』の文字が誇らしげに流れている。
アーサーはコーヒーを一口含み、焼きたてのパンを口に運んだ。この壁の中では、すべてが円滑で、清潔で、予測可能だ。AIによる完全自動化社会の恩恵を享受できる「持つ者」だけの平穏がそこにあった。
『さて』
ブライアンが少しだけ表情を陰らせ、ニュースキャスターらしい厳かなトーンへと声を落とした。
『続いて、ゲートの外側——いわゆる「旧市街エリア」および「非保護農業地帯」の最新状況です』
画面が切り替わり、高空を旋回する偵察ドローンからのリアルタイム映像が映し出された。
かつて賑やかな郊外幹線道路だった場所には、ガラスを割られ、黒焦げになった無人自動運転トラックが無造作に放置されている。消えた信号機、途切れた送電線、そして画面奥に広がる旧都市部は、電力が途絶えた不気味な黒いシルエットと化していた。
『「非保護農業地帯」におきましては、一部の暴徒や生活困窮層による農地への侵入、ならびに自動運搬車両に対する強奪行為が引き続き頻発しております』
ケイトが悲しそうな、しかしどこか遠い異国の出来事を聞くような、他人事の溜息を吐いた。
『自治体の財政破綻に伴い、地方電気インフラの復旧は見合わされたままです。旧市街エリアでの停電と断水は本日で42日目を迎えました。警察機能の事実上の停止に伴い、反AI思想を掲げる集団による通信基地局への破壊活動も報告されています』
画面には、暗闇の中で散発的に上がる煙や、食料を求めて無人トラックを取り囲む人々の姿がぼやけて映し出されていた。かつてホワイトカラーとしてオフィスで働いていた人々が、AIに職を奪われ、最終的にインフラすら失った姿だ。
「……かわいそうに」
アーサーの妻であるエレーナが、フレッシュジュースのグラスを手にしたまま小さく呟いた。その声に真摯な憐憫は含まれていたが、同時に「自分たちには関係のない世界」という決定的な断絶が横たわっていた。
「外は本当に大変ね。食料の配送ドローンも、あんな危険なエリアへはもう飛べないんでしょう?」
「ああ。保険の適用外になったからね」
アーサーはニュース画面から目を逸らし、手元の端末で自身のポートフォリオを確認しながら淡々と答えた。
「外の農地でどれだけ作物が自動収穫されても、輸送路が寸断されれば都市部へは届かない。流通が死ねば、作っても売れない。悪循環だよ。……だからこそ、うちのコミュニティが自社管理の地下閉鎖型農場と直結しているのは正解だった」
『住民の皆様へのお願いです』
テレビ画面の中では、ブライアンが爽やかな笑顔を取り戻して語りかけていた。
『外の混乱による物流遅延の影響は、当サンクチュアリ・ヒルズにおきましては一切ございません。本日も新鮮なオーガニック食材および医療品が、地下バイパスライン経由で各ご家庭へ通常通り配送されます。どうぞご安心してお過ごしください』
「ほらね。心配いらないさ」
アーサーは妻に微笑みかけ、最後のトーストを口に含んだ。
壁の向こう側でひとつの社会がゆっくりと崩壊し、人々が極貧と飢餓に苦しんでいようとも、この高級ゲートコミュニティの中にいる限り、朝の優雅な朝食の時間が脅かされることはない。画面の中の悲劇は、まるで遠いSF映画のワンシーンのように、静かに消費されていくだけだった。




