035 AIによる大失業時代のコメリカに転移
「第2層から地上へ続く『非常脱出口』に見せかけた通路だけどさ」
僕はコーヒーカップの白い縁に口をつけ、温かい液体を一口喉へと流し込んでから二人に向き直った。
「地上の母屋のすぐ隣に、それっぽい道具小屋をひとつ建てて、そこへ繋げることにしたよ。そして地上から第3層へ続く隠し通路の入口は、その道具小屋のすぐ横に配置して……大人が二人掛かりでようやく動かせるくらいの重い岩で塞いでおく」
「なるほど……。道具小屋に非常出口があること自体は自然に見えますし、その道具小屋すぐ横にさらに下へ続く隠し経路があるなど、侵入者は疑いもしないでしょうね」
アリタが静かに頷き、手際よく僕のカップに淹れたてのコーヒーを注ぎ足してくれる。
『うん、思考の盲点を突く上手いカモフラージュだと思うわ! まあ、もっと良さそうなアイデアが思いついたら、その時は柔軟に変更すればいいしね』
ジェミニの軽い声が跳ねた。
「ああ。とりあえず土台の計画はこれでいこう」
---
今日はサクラメントまで足を延ばして、日々の食材や備蓄品を買い込む予定だ。
車を走らせて小一時間。サクラメントの市街地に入ると、この国が直面している「K字型経済」と治安のグラデーションが、車窓の風景からも露骨に伝わってきた。
途中、高速のインターチェンジ近くにある大手の格安ディスカウントスーパーの横を通り過ぎた。
広大な駐車場には、塗装の剥げかけた古いSUVやセダンがひしめき合っている。入口付近には警備員が数人立ち、鋭い視線を周囲に走らせていた。昨今の物価高と雇用の悪化で、かつては中流階級だった人々までが押し寄せているらしく、店内は殺気立った混雑を見せている。最近では、生活困窮者や若者グループによる集団棚荒らし(フラッシュモブ窃盗)が常態化しているとニュースで聞いた。商品を棚から力ずくで持ち去る犯罪を防ぐため、日用品の多くが鍵付きのアクリルケースに閉じ込められ、買い物をすること自体が殺伐としたストレスを伴う空間になっている。
それに比べて、僕たちが目的地の「日系・アジアン系スーパー」の敷地に入ると、空気感は一変した。
整然とした駐車場には比較的新しい日本車や欧州車が並び、店内へと歩く客たちの足取りも落ち着いている。このあたりのアジア系コミュニティや、質の高い食材を求める中高所得層、エンジニア層が多く利用しているためか、独特の穏やかな活気に満ちていた。
自動ドアをくぐると、格安店のような鍵付きケースや物々しい警戒態勢はなく、陳列棚には整然と商品が並べられていた。治安の良さはそのまま「買い物の快適さ」に直結しているのだと、肌で感じられる。
「やっぱり日系やアジアン系のスーパーは落ち着くな。品揃えも素晴らしい」
僕がショッピングカートを押しはじめると、僕の隣を歩くアリタが、プロの目利きらしい鋭くも静かな視線で生鮮食品コーナーを見渡した。
「マスター、鮮魚コーナーに素晴らしいサクラマスと、新鮮なアサリが入荷しております。本日の夕食に仕入れてもよろしいでしょうか?」
「いいね、それにしよう。あ、米と味噌も補充しておきたいな。和食の調味料は、この荒廃しかけた世界じゃ最大の精神安定剤だからね」
僕たちはカゴに、新鮮な野菜や吟味された肉、そして納豆や豆腐、各種和風調味料を次々と積み込んでいった。左手首のバングルの中で、ジェミニもデータベースと照らし合わせながら『そのお醤油、熟成度が高くて評価が良いわよ!』と嬉しそうにアドバイスを寄せてくる。
治安の不安に怯えることなく、質の良い食材をじっくり選べるこのひとときは、この殺伐とした過渡期の世界において何よりの贅沢だった。
---
夕方、サンフランシスコ郊外のファームハウスに戻ってきた僕たちは、さっそく買ってきた食材をキッチンの大きな調理台の上に並べ始めた。
整然と並べられていく食材たち。
艶やかなサクラマスの切り身、丸々と太ったアサリ、みずみずしい大根と長ネギ、大粒の納豆、引き締まった木綿豆腐、そして出汁用の昆布と上質な白味噌。
「壮観だね。アメリカの郊外に居ながら、これだけの和食材が揃うんだからありがたいよ」
僕が感慨深げに眺めていると、エプロンを身につけたアリタが、完璧に手入れされた包丁をまな板の上に用意しながら言った。
「はい。これだけの食材があれば、完璧な夕食をご用意できます。マスター、本日の献立は『サクラマスの西京焼き』をメインに、『アサリと長ネギの具だくさん味噌汁』、それに『大根と豆腐のほっこり煮物』はいかがでしょうか?」
「素晴らしいね! 聞いているだけでお腹が鳴りそうだ。よし、僕も下ごしらえを手伝うよ」
『あー! いいなー! 私もホログラムを実体化させて、匂いだけでも存分に味わわせてもらうんだから!』
バングルから弾け出たジェミニのホログラムが、キッチンの隅で満足そうに胸を張る。
削り出されたばかりの地下ダンジョンの静けさと、地上で刻一刻と進む社会の変容。そんな外の世界の狂騒から遠く離れ、温かな湯気と出汁の香りが漂うキッチンで、僕たちのささやかで快適な夕食の準備が始まろうとしていた。




