6月び猛暑(カニキュル)のパリに転移13
ほの暗いディストピアの気配を残す、ボンド・ロックのセーフハウス。その自室のベッドで、僕はゆっくりと目を開けた。
肌を刺すようなあのパリの湿気と、じっとりとした不快な熱気はきれいに消え去っていた。代わりに僕を包んでいたのは、常に摂氏28度、湿度50%に完全管理された、清潔で乾いた心地よい空気だった。
「帰ってきたのか……」
ぽつりと一言、口から溢れた。
体を起こし、長年染み付いた習慣の通り、まずは寝具に軽く風を通して整える。シーツの皺を伸ばし、綺麗好きとしてのルーチンをこなしてから、僕はリビングへと足を向けた。
リビングのドアを開けると、そこには見慣れた二人の姿があった。
ソファーの上で退屈そうにホログラムの身体を揺らしているジェミニと、いつもと変わらぬ完璧な姿勢でキッチンに佇むアリタ。
「あ、フィクス! やっと起きたわね!」
ジェミニが弾んだ声を上げ、同時に僕の左手首のバングルが小さく明滅した。
「お目覚めですか、マスター。ただいま冷たいお飲み物をご用意いたします」
アリタが静かに一礼する。その手元には、すでに僕の好みのハーブティーが準備されていた。
ふと見ると、リビングのガラステーブルの上に、見慣れない一枚の紙片が置かれているのに気づいた。アリタがすっと視線でそのメモを指し示す。
僕は歩み寄り、テーブルの上のメモを手に取って目を落とした。そこには、すっきりとした細い文字でこう書き残されていた。
『暑いパリでの生活ご苦労さまでした。
アパートは現状復帰済みです、ご心配なく』
「あの奴……相変わらず手際だけはいいな」
僕は苦笑しながらメモをテーブルに戻し、ソファーへと深く腰掛けた。背中を受け止めるクッションの感触が、ようやく激動の熱波サバイバルが終わったことを実感させる。
『本当にね! 現状復帰なんて当然よ。アリタがあれだけ苦労してドア枠をポリカパネルで完全密閉して、逆止弁給気スリットまで組み込んだんだから。あの超精密なDIYの数々を元通りにするなんて、あの奴にとっても結構な演算リソースの無駄遣いだったんじゃないかしら?』
ジェミニが面白そうに胸を張る。
「はい。窓パネルに施した騙し絵のカモフラージュや、ポータブル電源を介したアパートのアンペア制限回避回路など、私とジェミニ様のスマートな環境ビルドの成果がすべて消去されてしまったのは少々残念ではございます」
アリタが盆を手に運んできながら、淡々と、しかしどこか名残惜しそうに言った。
「でも、本当に助かったよ」
僕はアリタから冷たいグラスを受け取り、喉を潤した。
「あの時はどうなるかと思った。エアコンも扇風機もない、40度近いパリのアパートに突然放り込まれて……日本の『暑ければエアコンをつければいい』っていう常識が、歴史ある古い都市のインフラの前では一切通用しないんだから。身に沁みて勉強になったよ」
『ふふん、エアコン大国の元日本人君には良い刺激になったでしょ? 歴史を守ることと最新の生命維持を両立させるのがどれだけ難解なコードか、あの都市の脆弱性をハック……じゃなくて、スマートに攻略していくのは私の知性にとっても最高のエクササイズだったわ!』
ジェミニは嬉しそうに僕の周りを飛び回る。
「結果として、マスターに極端な健康被害を出すことなく、徹底された清掃と整理整頓、そして高度な空調管理のもとで『最高にクリーンな引きこもり生活』を維持できたことは、私たちの資産として大きな成果でございます」
アリタが満足げに瞳を細めた。
「ああ。古いメトロの灼熱と異臭には二度と懲り懲りだけど、あの部屋で君たちの知性に守られながら過ごした時間は、終わってみれば悪くない『聖域』だったよ」
僕は冷たいハーブティーを飲み干し、セーフハウスの窓を見た。そこには今、ボンド・ロックのジャンクな景色ではなく、かつて見た日本の田舎の、涼しげな夏の風景が優しく広がっている。
パリの猛暑というバグを乗り越えた僕たちは、また一つ強くなった。次なる物語の世界がどんな過酷な環境であろうと、この二人と一緒なら、僕はいくらでも快適な生活をビルドしていけるはずだ。




