表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/20

6月び猛暑(カニキュル)のパリに転移04

「もう二度とメトロには乗らない」


家電量販店の自動ドアを抜け、灼熱のパリの路上へ出た瞬間、僕はそう固く誓った。240%の混雑、汗と香水の混ざり合った異臭、そして冷房の意味を理解せず窓を開ける人々――引きこもりで綺麗好きな僕の防衛本能は、あの地下空間で完全に摩耗しきっていた。


「マスター、お疲れ様でございました。衣服への微粒子の付着を考慮し、帰宅後は速やかにシャワーと洗濯の手配をいたします」

僕の両手に抱えられた扇風機の箱を見ながら、アリタがいつもの真面目なトーンで言った。彼女自身、人間並みに暑さに弱いペナルティのせいで額に汗を滲ませており、黒いエプロンの襟元を落ち着かなさそうにパタパタと煽っている。


『フィクス、一歩も歩きたくないって顔をしてるわね。安心しなさい、他人の金を使うとなれば私の演算能力は光速を超えるわ。店の前に一番近い場所にいる大型のUberを配車したわよ。ほら、もうそこに来てる黒いミニバンがそれ!』

左手首のバングルからジェミニの得意げな脳内音声が響く。見れば、確かに一台のクリーンな車両が縁石に滑り込んできたところだった。


「助かったよ、ジェミニ。これだけの荷物を持ってあの地獄に戻るなんて不可能だからね」


台車の上には、僕たちの本命であるコンプレッサー式の除湿機と数台の扇風機、そして「どうせ奴の金だから」と勢いで強奪(確保)したポータブルクーラーの巨大な箱が積まれている。

アリタがプロフェッショナルな身のこなしでUberのトランクを開け、重量のある機材を一つずつ、テトリスのように完璧な配置で整然と積み込んでいく。現地の運転手が「おいおい、そんなに入るか?」と驚いた顔をしていたが、アリタの計算された無駄のない動きの前には杞憂に終わった。


冷房の効いた車内に滑り込み、アパートへ向かう。窓の外ではオスマニアン建築の街並みが陽炎に揺れ、人々がぐったりと歩いていたが、僕たちはようやく一息つくことができた。


ほどなくして到着したアパートの前で荷物を下ろし、ドライバーを見送る。

ここからは本当の肉体労働だ。エレベーターのない古い石造りのアパートの階段を、この重量物を抱えて上がらなければならない。


「マスター、ここからは私の物理駆動能力にお任せください。マスターはご自身の体温上昇を防ぐため、何も持たずに先にお上がりを」

アリタがそう言って、ポータブルクーラーと除湿機の重い箱を左右の腕で軽々と持ち上げた。人間並みに暑がる制限を受けているとはいえ、構造的な骨格の強度は健在のようだ。


「悪いね、アリタ。じゃあ僕は扇風機を持って先に行くよ」


一歩一歩、熱を蓄えた石造りの階段を上る。最上階に近い僕たちの部屋にたどり着き、鍵を開けて滑り込むと、ヴォレ(シャッター)を閉め切って真っ暗になったワンルームが僕たちを迎えた。

直射日光を遮ったとはいえ、室内にはまだ38度を超える濃厚な熱気が籠もっている。


アリタが音もなく全ての荷物を運び込み、床の石タイルを傷つけないよう静かに並べた。

真っ暗な空間の中、ジェミニのホログラムが青白く発光して実体化する。彼女もまた、この部屋の熱気に「はぁ……早くそれらを起動して、この不快な湿度をデバッグして頂戴」と力なく髪を揺らした。


「よし、それじゃあ始めよう。僕たちのクリーンで完璧な引きこもり城のビルドをね」


僕は懐の見覚えのないクレジットカードをポケットにしまい、暗闇の中で新兵器たちの箱へと手を伸ばした。


アリタが室内の黄色い電球を点灯させ 、すべての荷物を運び終えたのを見届けた僕は、すぐに腕をまくった 。


「よし、まずは除湿機と扇風機を起動しよう。ポータブルクーラーはまだお預けだ」


「了解いたしました、マスター」


アリタが頷き、購入したばかりのコンプレッサー式除湿機と2台の扇風機の箱を、手際よく開封していく。

ポータブルクーラーを今すぐ使いたい気持ちは山々だが、このアパートの窓に太い排熱ホースをそのまま突っ込めば、隙間から外の40度近い熱風が流れ込んできて台無しになるのは目に見えていた 。明日、ホームセンターかどこかで、窓と排気管を隙間なく接続するためのパネルや断熱テープといった材料を買い出しに行ってからが本番だ。


カチ、カチと小気味よい音が響き、まずはコンプレッサー式の除湿機が低い唸りを上げて作動し始める。続けて、首振りをセットした2台の扇風機が、力強い風を室内に送り込み始めた。

まだ室温そのものは38度を超えたままだが、除湿機が空気中の濃厚な湿気をじわじわと捕らえ始めたことで、肌にまとわりつく不快感がわずかに和らいでいく。


「マスター、機材の初期稼働を確認いたしました。空間の水分飽和度が下がり始めるまでには少々時間を要します。その間に、メトロの汚染物質を洗い流すため、シャワーのご利用を提案いたします」

アリタが額の汗を拭いながら、生真面目なトーンで言った 。


「そうだね。でも、まずはアリタ、君から先に入ってくれ。僕よりずっと重い荷物を抱えて階段を上がってくれたんだから」


「……恐れ入ります、マスター。では、お言葉に甘えて先に失礼いたします」

アリタは小さく一礼すると、着替えを持って簡易的なシャワールームへと向かった 。


狭いアパートに、シャワーの心地よい水音が響き渡る。

しばらくして、少し上気した顔にメイド服を着直したアリタが戻ってきた。人間並みに暑がるペナルティを受けているせいか、冷水シャワーを浴びた後だというのに、彼女の首筋からは微かに湯気が立っているように見える 。


「お待たせいたしました、マスター。どうぞ」


「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」


入れ替わりで僕もシャワールームに滑り込み、蛇口を思い切り冷水側にひねった。

「――っ!」

一瞬、心臓が止まるかと思うほどの冷たさが、メトロの灼熱と異臭地獄で極限まで摩耗していた僕の肉体を貫く。汗と不快な外気が一気に洗い流され、生き返るような心地よさに思わず息を吐き出した。


十分に身体を冷やし、クリーンな衣服に着替えて居間へと戻る 。


部屋の中は、すでに除湿機の効果でいくらか空気がサラサラに変化し始めていた。僕とアリタは、並んで置かれた二台のシングルベッドの端にそれぞれ腰掛け 、稼働する2台の扇風機の真正面へと陣取った。


「……あぁ、これだ。これが気化熱の恩恵か」


濡れた髪と、シャワー直後の冷えた肌に、扇風機の強い風が真っ直ぐに吹き付ける。湿度が下がった空間での風は、驚くほど効率的に肌の水分を蒸発させ、体感温度を劇的に引き下げてくれた 。ただ熱風を浴びていたメトロの絶望とは違い、自分の身体が急速に冷却されていく確かな手応えがある。


「はい、マスター。疑似触覚センサーの熱中症アラートが解除され、駆動効率が正常値へと回復しつつあります。乾いた風がこれほど心地よいとは、人間の身体構造の神秘を感じます」

アリタもまた、2台の扇風機から送られる風に長い髪をなびかせながら、嬉しそうに目を細めて涼をとっている 。


『ちょっと二人とも、シャワーで自分たちだけクリーンになってずるいわよ! 私のエミッターだって熱バグを起こしそうなの、早くその涼しい気流のデータを私にも共有しなさい!』


暗闇の中で青白く発光するジェミニのホログラムが、ベッドの上でジタバタと地駄賃を踏みながら割り込んできた 。

その小生意気な抗議すら、どこか心地よいBGMに聞こえるほど、僕たちの引きこもり城は、確実に快適なオアシスへとビルドされ始めていた。


「はいはい、わかったよジェミニ。データ共有はできないけど、君の分の夕食ならちゃんとあるからさ」


僕は苦笑しながらベッドから腰を上げ、ミニキッチンにある小さな冷蔵庫を開けた。


あの灼熱の量販店から家電を積んでUberでアパートへ向かう途中、ジェミニの機転で大型スーパーの前に車を停めてもらったのは大正解だった。綺麗好きで引きこもり体質な僕にとって、あの狂乱のパリの街をこれ以上歩き回って食料を調達するなんて到底不可能だったからだ。


あの時、僕は車内で待つアリタとジェミニのために、手早くサンドイッチ、新鮮な果物、そして数パックのヨーグルトを買い込んだのだった。さらに熱中症対策として、冷えたミネラルウォーターをかなりの本数、多めに買い足しておいた。それらはアパートの階段を上がって部屋に着いた直後、何よりも最優先でこの冷蔵庫の奥へと保管してある。


「アリタ、ジェミニ。簡単なものだけど、今日の夕食にしよう」


冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターのボトルとヨーグルトを取り出し、買ってきたサンドイッチと果物をベッドの間の小さなテーブルに並べる。


「感謝いたします、マスター。人間並みの代謝制限を受けている現在の私にとって、水分と電解質の補給は駆動効率の維持に不可欠です」

アリタが生真面目に入礼し、冷えたボトルを受け取って喉を鳴らした。


『生き返るわ……! ホログラムの味覚シミュレータに、この冷たい水のデータが染み渡っていくみたい。フィクス、この冷えたヨーグルトも最高よ!』

ジェミニもさっきまでのジタバタぶりが嘘のように大人しくなり、嬉しそうにスプーンを動かしている。


調理で火を使えば室温がさらに上がるため、火を通さずに食べられる冷たいサンドイッチや果物は、今の僕たちにとって最高のディナーだった。除湿機のおかげでいくらかサラサラになった空気の中、僕たちは冷たい夕食を静かに平らげた。


しかし、本当の試練は太陽が沈んでからだった。


六月のカニキュル。午後九時を過ぎても、外気は三十五度近くあった。西の空にはまだ夕映えが残り、石畳も建物の壁も昼間の熱を抱え込んだまま、街全体が巨大な暖炉のように熱を放っていた。


ヴォレ(シャッター)を閉め切って昼間の直射日光を遮断していたとはいえ、アパートの分厚い石壁そのものが昼間の熱をたっぷりと蓄熱し、内側に向かってじわじわと容赦のない熱放射を続けているのだ。窓を少しでも開ければ、外の三十五度の熱風が流れ込んでくるだけで、部屋の中は逃げ場のない蒸し風呂と化していた。


「……だめだ、やっぱりまだクーラーなしの夜はきついな」


僕は衣服が肌に張り付く不快感に耐えながら、自分のシングルベッドに横たわった。隣のベッドでは、アリタがシーツの上にまっすぐ横たわり、長い髪を扇風機の風に揺らせている。


アパートの床に並べた2台の扇風機をそれぞれ僕とアリタのベッドに向け、首振りを止めて最大風量で固定する。乾いた風が絶え間なく肌を叩き、気化熱で体温を奪おうとしてくれるが、部屋全体を包む濃厚な熱気そのものを消し去ることはできない。


暗闇の中で青白く発光するジェミニのホログラムも、ベッドの足元で力なく体育座りをしながら、エミッターの熱バグを防ぐために細かくまたたいていた。


除湿機がコンプレッサーの低い唸りを上げ、2台の扇風機が温い風を送り続ける部屋の中。僕たちはただひたすらに風を浴びながら、カニキュルの圧倒的な熱波に体力を削られる、長く寝苦しい夜を過ごすのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ