6月び猛暑(カニキュル)のパリに転移03
「……地獄だな」
メトロの駅の階段を下りた瞬間、僕は思わず絶句した。
引きこもり体質の僕にとって、ただでさえ外出は気が進まないイベントだ。ましてや40度近い熱波に襲われた2026年のパリの地下空間は、完全に僕の想定を越えていた。
大半の車両にエアコンが設置されていないメトロの構内は、地下特有の閉鎖空間に熱風がこれでもかと籠もっている。そこに、すれ違う人々の濃厚な汗の臭いと、それを強引にかき消そうとして大量に浴びせられた香水が混ざり合い、鼻を突く強烈な異臭となって漂っていた。
「マスター、お気をつけください。前方の混雑率は平常時の240%を超えています」
僕の隣を歩くアリタが、黒いメイド服の襟元を珍しく小さく緩めながら警告した。人間並みに暑さに弱い状態になっている彼女の額には、大粒の汗が浮かんでいる。
『ちょっとフィクス、前見て前! 家電量販店の入り口が暴動寸前よ!』
僕の左手首のバングルから、ジェミニの悲鳴のような脳内音声が響いた。
メトロの駅から地上へ這い出て、大通りに面した家電量販店へとたどり着いた僕たちを待っていたのは、文字通りの大狂乱だった。
ガラス張りの店舗の周囲には、開店前から殺到したと思われる市民が幾重もの大行列を作っている。誰もが真っ赤な顔をしてパンフレットや手洗いの扇子で自分を煽り、我先にと自動ドアの隙間に身体をねじ込もうとしていた。
「ポータブルクーラーの在庫はどこだ!」「もう売り切れたってどういうことだ!」
フランス語の怒号が飛び交う中、僕はアリタの服の袖を掴みながら、できるだけ人混みとの物理的接触を避けるように歩を進めた。綺麗好きな僕の防衛本能が、この異常な熱気と密度の空間で警報を鳴らし続けている。
店内に入ると、空気はさらに悪化していた。冷房がついているはずなのに、エアコンの仕組みを理解していない一部の客が「熱いから」と換気のために窓や非常口を開けてしまっているせいで、生温かい外気が容赦なく流れ込み、永久に冷えない悪循環に陥っているのだ。
『フィクス、あっち! ポータブルクーラーの棚に人が群がって奪い合いになってるわ! 残り少ないみたい!』
ジェミニの言う通り、室外機不要のポータブルクーラーが積まれたパレットの周りには人だかりができ、商品を確保しようと揉み合いが発生していた。そこへ数人の警察官が割って入り、大声で制止する騒ぎに発展している。
「……やっぱり、みんな目先の冷却に必死になってあそこに殺到しているな。でもアリタ、僕たちの本命はあっちじゃない」
僕はその混乱を冷ややかに見つめながら言った。
「まずは店の奥の、誰も見向きもしていない『コンプレッサー式の除湿機』と『扇風機』を確保しよう。この部屋の気流と湿度をコントロールするベースが最優先だ」
「了解いたしました、マスター」
アリタは人混みを器用にすり抜け、僕を先導した。狂乱の渦をよそに、僕たちは誰もいない静かなエリアで無事にコンプレッサー式の除湿機と、風量の強い扇風機を何台か台車に確保することに成功した。
「よし、本命は押さえたぞ。……さて」
僕は再び、遠巻きにポータブルクーラーのパレットを眺めた。警察官が交通整理を始めたことで、少しだけ人混みの隙間ができ、まだ数台の在庫が残っているのが見える。
「ホースの排熱処理に課題はあるし、このアパートの環境じゃ除湿機能の限界もある。ただのエアコンとしては気休め程度かもしれない。……だけどさ、どうせ僕たちをこんな状況に放り込んだ『あの奴』の金だ。100万円もあるんだから、使えるものは全部買ってやろう。無いよりはマシだろ?」
『ふふ、いいわねその意気! 他人の金で買うクーラーほど涼しいものは執念的に考えても存在しないわ! 奪いに行くわよ!』
ジェミニが脳内で悪だくみをするような声を上げた。
「アリタ、あの隙を突いてポータブルクーラーも一台回収だ。他人の予算は使い切るに限る」
「了解いたしました、マスター。不条理なペナルティを課した存在への、これが私たちなりのささやかな防衛策ですね」
アリタの瞳に、プロフェッショナルなメイドとしての冷徹な輝きが宿る。人混みの隙間を縫うように鋭く踏み出した彼女は、横から伸びてくる現地の巨漢の手を鮮やかにかわし、パレットから見事にポータブルクーラーの箱を引っ掴んだ。
コンプレッサー式の除湿機、扇風機、そして棚ぼたで手に入れたポータブルクーラー。
最高にアンバランスで、最高に贅沢な防暑アセットを台車に積み上げ、僕は懐のクレジットカードをパチンと鳴らした。快適なセーフハウスを奪われた僕たちの、泥臭くも知的な「引きこもり城」の建築資材は、これで全て揃った。




