6月び猛暑(カニキュル)のパリに転移02
「アリタ、とりあえず部屋の明かりを点けてくれ」
暗黒に包まれた室内に向かって、僕は声をかけた 。
「了解いたしました、マスター。ただいま」
暗闇を滑るように動いたアリタが壁のスイッチを押すと、カチリと音がして、天井の古ぼけた電球が黄色い光を灯した 。
直射日光を遮断したとはいえ、室内に籠もった熱気は一向に衰えていない 。それでも、視界が確保されただけでほんの少しだけ息がつける気がした 。
「ふう……」
僕はゆったりとしたワンルームの奥、並んで置かれた二台のシングルベッドのうち、手前側にある一台の端に腰を下ろした 。シーツはすでに部屋の熱を吸って微かに温かい 。
その瞬間、ズボンの後ろポケットにゴツリとした奇妙な違和感を覚えた 。
「ん……? なんだこれ」
手探りで引き抜いてみると、そこにあったのは僕の私物ではない、見覚えのない革財布だった 。
『ちょっとフィクス、何それ? 泥棒の戦利品?』
実体化したジェミニのホログラムが、額の汗を拭うような仕草をしながら、ベッドの横から覗き込んできた 。心なしか、彼女のまとう青白い光も、この部屋の熱気のせいかいつもより少し揺らいで見える 。
「違うよ。転移した拍子に紛れ込んだみたいだ」
財布を開けると、中には見慣れないデザインのクレジットカードが一枚と、綺麗に折り畳まれた一枚のメモ用紙が入っていた 。
僕はそのメモを広げ、書かれている文字を声に出して読み上げた 。
> クレジットカードで100万円くらいは使って良い。
> アパートの家賃は支払済
> アリタもジェミニも人間程度に暑さに弱いものとする
> ホテル等の他の宿泊施設に避難するのは許可しない
> パリから出てはいけない
> 期間はこの暑さが弱まるまで
「……だってさ」
読み終えた僕の横で、アリタが自身の衣服の襟元をパタパタと手で煽りながら、涼しげだった瞳を微かに細めた 。
「マスター、その記述が真実であるならば、極めて深刻な事態です。先ほどから私の冷却用駆動コアの排熱効率が著しく低下し、肌の疑似触覚センサーが『不快な暑さ』を感知し始めています。ジェミニ様のホログラムエミッターにも、同様の出力制限がかかっている模様です」
『ちょっと待ちなさいよ! 私たちまで人間並みに暑さに弱くなるって、どういう嫌がらせよ!』
ジェミニがガシガシと自分の頭を掻きむしり、信じられないといった様子で財布の中のカードを睨みつけた 。
『……はぁ、なるほどね。今回はこの条件で過ごせということね』
彼女は観念したようにふさぎ込み、僕の隣のベッドの上へ力なく腰を下ろした 。
電気的な空調が一切使えない、少し広めのステュディオ 。手元には100万円の予算があるものの、快適なホテルへの避難も、涼しい地方への脱出も許されない 。
「それで、100万円の使い道とこの熱波の凌ぎ方について、具体的なディスカッションを始めましょうか。マスター」
アリタが真面目な顔をして衣服の襟元をパタパタと煽りながら言った 。
『ちょっと、100万円もあるなら今すぐ一番高い移動式エアコンを買いに走るわよ! 家電量販店へ突撃よ!』
「待って、ジェミニ。簡易エアコンに飛びつくのは悪手だよ」
僕はベッドの端に腰掛けたまま首を振った 。
「この2026年6月下旬のパリの熱波では、みんなが家電量販店に殺到して簡易エアコンの争奪戦が起きているはずだ 。だけど、室外機が置けないこの部屋で太い排気ホースを窓から出したら、その隙間から外の40度近い熱風が室内に流れ込んできて、結局まともに冷えないんだよ 。おまけに作動音もうるさいしね」
「マスターの指摘は極めて論理的です」
アリタが額の汗を指先で拭いながら、自身のデータベースを検索するように瞬きをした 。
「ポータブルクーラーの排気は室内の気圧を下げ、外の湿った温かい空気を誘引します 。特にこの石造りのアパートは日中の熱を完全に蓄熱しており、気流を循環させる手段がなければ内部で熱中症を誘発する恐れがあります 。……であれば、むしろ『除湿機』と『扇風機』の複数台同時購入を提案いたします」
『はあ? エアコンなしで除湿機と扇風機? 原始的すぎない?』
ジェミニが不満げに唇を尖らせる 。
「いえ、ジェミニ様。ポータブルクーラーに頼るよりも、コンプレッサー式の除湿機で外から流れ込む湿気を根本からブロックし、同時に扇風機で乾いた風を室内に循環させた方が、体感温度を効率的に下げられます 。衣服の気化熱を利用する方が、現在の私たちの制限された身体には有効です」
「アリタの言う通りだね。予算は100万円もあるんだ、まずは手堅く強力な除湿機と扇風機を数台買って、この部屋の気流をビルドしよう」
僕はクレジットカードを指で挟んで見せた 。
「それから、日中はこうして窓とヴォレ(シャッター)を完全に閉め切って熱を入れないようにして、夜間の気温が下がったタイミングで窓を全開にして換気する 。パリジャンたちの伝統的な遮熱対策を徹底するんだ」
『……ふん、まあ、理屈は通ってるわね。でも、基本はここで引きこもり生活を続けるってこと? 私はてっきり、解禁されたばかりのセーヌ川の特設プールにでも泳ぎに行く計画を立てるのかと思ったわ』
ジェミニがベッドに後ろ倒しにパタンと倒れ込み、シーツの熱さに「あつっ!」と身を悶えさせながら言った 。
「セーヌ川で水浴びだって?」
僕は想像しただけで背筋に冷たいものが走り、即座に顔をしかめた。
「冗談じゃない、いくら水質が浄化されて一般遊泳が解禁されたと言っても、あそこは本来ただの濁った都会の川だ 。綺麗に整理整頓された場所ならともかく、何が浮いているかもわからないような水に生身で飛び込むなんて、僕の衛生観念が絶対に拒絶するよ。何より、衣服や肌が汚れるリスクを冒すくらいなら、この真っ暗な部屋で大人しく本を読んでいる方が何倍もマシだ」
「同感です、マスター。都市河川における微視的な浮遊物質や未分離の雑菌の存在を考慮すると、現在の制限された私たちの身体で遊泳を行うのは、衛生上および清掃の手間という観点から推奨できません」
アリタが我が意を得たりとばかりに深く頷き、エプロンのシワを几帳面に伸ばした 。
「ただ、ずっと引きこもっているにしても、一日中この籠もった部屋にいるのは体力が削られるのも事実だ 。だから、どうしても室温が限界に達した日の日中だけ、一箇所、避難先を作ろう」
僕は手元のメモを睨みながら続けた 。
「エアコンが完備されていて、かつ完璧に清掃・管理された空間……例えばルーヴル美術館の、あまり人が密集しない絵画の間なんかはどうだろう。あそこなら徹底的にクリーンだし、静かに過ごせる。そこ以外の日中は、この部屋を徹底的に防暑・除湿仕様に改造して、三人で徹底的に引きこもるんだ」
『へえ、徹底的なお籠もり作戦ね。……まあ、フィクスらしくていいんじゃない?』
ジェミニがふっと笑い、ホログラムの長い髪を指先で弄んだ。
『いいわ、そうと決まればさっそく動きましょう。パリの家電量販店の在庫データと、ルーヴルの混雑状況のシミュレーションを開始するわよ。エアコンも魔法もないこのステュディオを、私たちの知恵でどこまで完璧に整えらえるか、試してあげようじゃない!』
人間並みに暑がる二人のバディの視線が、暗がりの中で知的かつ挑戦的に輝いた 。ボンド・ロックの快適なインフラを遠く離れ、100万円の予算とアナログな知恵だけを武器にした、僕たちの泥臭くもクリーンな引きこもりサバイバルがいま始まった 。




