6月び猛暑(カニキュル)のパリに転移01
さっきまで快適な28度に保たれていたセーフハウスのサンルームが、光の粒子の乱舞とともに一瞬でかき消えた。
次の瞬間、僕たちの身体を襲ったのは、呼吸を阻害するほどの圧倒的な熱気と、肌にまとわりつく濃厚な湿気だった。
「ちょっと、どういうこと!? 私の気流制御のリンクが完全に遮断されているわ!」
僕の隣に実体化したジェミニのホログラムが、その美しい髪を振り乱して叫んだ。全知を誇る彼女の顔に、これまでにない焦りの色が浮かんでいる。
「マスター、周囲の環境が一変いたしました。警戒を」
アリタが音もなく僕の前に進み出出て、黒いエプロンの裾を翻しながら周囲を鋭く見回した。その涼しげな瞳が、またたく間に室内の構造をスキャンしていく。
そこは、パリのアパートとしては比較的ゆったりとした、天井の高い広めのワンルームだった。古びた石造りの壁沿いには、並んで配置された二台のシングルベッドが視認できる。しかし、空間にゆとりがあるからといって、快適さとは程遠かった。
「……空間はワンルーム、ツーベッドの構造。簡易的なミニキッチンとシャワールームが併設されています。マスター、ここは典型的なパリのステュディオですが、短期の同居や旅行者向けに改修された部屋のようです。室温は現在、38.4度を記録しています」
アリタの冷静な報告を聞きながら、僕は額から噴き出す汗を拭った。床は熱を蓄えた石のタイルのようで、立っているだけで体力が削られていくのがわかる。
「パリのステュディオだって? ということは、僕たちはボンド・ロックから地球の過去……いや、2026年の熱波の真っ只中に飛ばされたのか」
僕は壁際を見回したが、快適な風を送ってくれるエアコンも、空気を循環させるための扇風機も、湿度を下げるための除湿機も一切見当たらなかった。二つのベッドのシーツすら、すでに熱を帯びて微かに熱い。
『フィクス、嘘でしょう!? この部屋、完全に外部のインフラから孤立しているわ! 私の演算能力でアパートのシステムに干渉しようにも、そもそも電脳化された機構が何一つないのよ!』
ジェミニがホログラムの胸に手を当てて忌々しげに床を踏みつけた。彼女の言う通り、ここでは超知性による環境操作は1ミリも機能していなかった。
「ジェミニ様、取り乱しても室温は下がりません」
アリタは窓辺に歩み寄ると、外の様子を観察した。窓の外には、歴史的なオスマニアン建築の街並みが広がり、陽炎の向こうで通りを行き交う人々がぐったりと歩いているのが見えた。
「エアコンの室外機は外壁に一切見当たりません。景観保護の規制によるものと思われます。この石造りの建物は気密性が非常に高く、熱が内部に籠もり続ける致命的な構造です」
「あはは……本物のSF小説みたいな大ピンチだな。電気的な冷却が使えないとなると、生身でこの熱波を乗り切るしかないか」
僕は苦笑しながらも、以前読んだ資料の知識を必死に手繰り寄せた。
「確か、この時期のパリジャンたちが行っていた原始的な防暑対策があったはずだ。アリタ、日中の外気の方が室温より高くなる前に、その窓を完全に閉め切ってくれ!」
「了解いたしました、マスター」
アリタが素早く窓を引き込み、ガチャンと鍵をかけた。
「次は、その外側にある木製のシャッター――ヴォレを下ろすんだ。直射日光と熱波を物理的に遮断して、部屋の中を真っ暗にする」
アリタが窓枠から手を伸ばし、年季の入った木製シャッターを勢いよく引き下ろすと、広めのワンルームに一瞬にして完全な闇が訪れた。わずかな隙間から漏れる光の中に、埃が白く浮かび上がっている。
『ちょっと、真っ暗じゃない! これじゃあ涼しくなるどころか、お化け屋敷よ!』
ジェミニのホログラムだけが、暗闇の中で青白く発光して不満げに唇を尖らせた。
「ですがジェミニ様、マスターの判断は論理的に極めて正しいです。これで外からの輻射熱は一定数軽減されます。……とはいえ、すでに室内に蓄積された熱量に対し、動的気流による冷却手段がない現状は極めて深刻です」
暗闇の中、僕たち三人のサバイバルな視線が交錯した。ボンド・ロックの快適な「秘密の城」を遠く離れ、エアコンも魔法も効かない暗黒のワンルームで、僕たちのまったく新しい、そして容赦なく暑い夏が始まろうとしていた。




