③
あの秘書官が去ってから、一段と負担が増えた。有能だという父の言葉を疑っていたわけではないが、事実だったことに、打ちのめされた。
それは、フィリクたちの実務能力の低さの証左でもあるということに、他ならないからだ。
今までと同じようにやっているのに何故なのか。
そんな些細な疑問は、マリエルの食事に毒を盛られたという知らせで吹き飛んでしまった。
「マリ!」
医務室に運ばれたと聞き、執務を放り出して駆け付けた先には、怯えて震えながら泣いている彼女の姿があった。
「医務官、マリの症状は?!」
「命に関わるものではなく、母子共に問題ありません。処置も終わっております。現場ですが」
「ひとまず封鎖しろ」
「かしこまりました。他、ご指示は?」
「マリを落ち着かせる方が先だ」
怖がらせないように、ゆっくり近づくも、びくりと反応した後、一層がたがたと目に見えて震えがひどくなる。誰かがいると怯えるようだ。
痛々しくて、すぐにでも抱き締めて慰めてやりたい衝動に駆られる。
「全員、この部屋から出ろ。命令だ」
「……かしこまりました。別室で待機しております」
数名の医務官が一礼して退室し、残されたのはマリエルとフィリクの2人だけになる。
未だ震えの止まらない彼女の手を取ると振り払われた。
「いやぁっ」
「マリ、大丈夫、大丈夫だよ、私だ」
「いや、何で、わたしが、何で」
「マリエル!」
強引に抱き締めるが、いつになく抵抗される。その間、何度も大丈夫だと繰り返し、根気よく落ち着かせることに専念する。
暴れて、フィリクを押し返そうとする手を取り、もう誰も君を傷つけない、大丈夫だと繰り返し、どれくらい経っただろうか。
フィリクの腕の中で力尽きた身体を、抱え直して、涙に濡れた顔にキスを落とす。
軽いキスを顔中に降らせると、涙も震えも止まったようだ。
「無事でよかった…君が毒を盛られたと聞いたときは、心臓が止まるかと…」
「………」
「もう、苦しくはない? 痛むところは?」
「………で」
「うん?」
「…なんで、わたしが、どく、なんか…」
「……」
その問いに、答えられない。フィリクの妃になったからだとは、言えない。
王族というものは、そういうものだ。
マリエルの後宮入りを反対していた理由の1つでもあったが。
「……わたし、こんなこと…」
「…大丈夫。もうこんなことは起きない」
どうせ、あの女がやったに決まっている。フィリクに愛されないからとマリエルにこんな卑怯な手を使うとは…!
「マリは、このまま休んでおいで。その間に、片付けてくるからね」
寝台にマリエルを優しく横たわせると、怒りだけを胸に足早に医務室を出ていく。
護衛や侍従を払いのけ、王太子妃執務室に荒々しく押し入り、ルシアに、お前が毒を盛ったのだろう!と発した瞬間、室内の温度が下がった。
確かに、物証というものはなかった。フィリクへの想いという心証のみであったことも否定できない。
冷えた怒りを目の当たりにして気圧されるが、彼女のために引くわけにはいかなかった。
その結果が自身の廃嫡を招くとは想像だにせずに。
母の言うようにたかが冤罪くらいでと思っていたが、後嗣として不適格だと明言され、改めて自分の在り方というものと向き合うことになる。
ルシアのことも。
見ようとしなかったことを、目を背けていたことを。
ようやく、目が覚めたような気分だった。
マリエルとの面会を聞き、その後に会えないだろうかと付近で待つと、然程時間もかからずルシアの姿を捉えた。
今度こそ冷静に話し合おうと、関係改善を訴えてみるが。
もう遅いとにべもなく断られ、取り付く島もなかった。
問題はそれに留まらず、マリエルまでおかしなことを言い出した。
「子爵家に戻りたい…? 突然何を言い出すんだ、マリ」
「…今回の件で思い知りました。わたしは妃殿下のように…あのように振舞うのはとても無理です」
「何を言ってるんだ! マリは教育も順調に進んで、執務だって、」
「そういうことではないのです!!」
聞いたことのない大きな声で遮られ、フィリクは思わず言葉を止める。
「マリ…?」
「わたしは、誰かの命を背負うことなんか、できない。そんな覚悟なんか、ない」
「そんなこと…!」
「もう決めたのです、殿下。──…離縁するか、わたしと共に子爵家に来るか」
選んでください。
真っ直ぐにそう言われ、咄嗟に言葉が見つからない。
「あの女に…ルシアに何か言われたのか?」
急にこんなことを言い出す原因が、他に考えられなかった。
だが、無言で頭を振る。
「妃殿下は、自分で決めろとだけ。だからこれは、わたしの選択です」
毅然と言い放つ彼女の言葉に嘘は見当たらなかった。
「…少し、時間が欲しい」
「……分かりました」
そう言うだけで精一杯だった。
答えを先送りしたところでいずれは選択を迫られるのだと、むしろ選択肢がなくなるのだと、そのときに気付いていれば。
後悔で、過去に戻りたいなどと、願っても叶わないのに、何度も切望することはなかったのだろうか。
迷う時間など残されていなかったことに、気付いていれば。




