フィリク=ディジルドの場合 ①
歯車が狂ったのはいつからだったのだろう。
どこで、何を間違ったのだろう。
思い返しても、いくら考えても、フィリクには分からない。
母である正妃の友人だという、公爵夫人の娘と婚約が決まったとき、また母の言いなりになるのかと、うんざりした記憶がある。
自分の思い通りにならないと癇癪を起こし、侍女や父に当たり散らしていたらしい母。
だからだろう、父は母に何も期待していないようで、基本的に何も口出しはしなかった。それは、公爵も同じようだった。
ルシアと名乗った娘は、愛らしいが、公爵夫人の言いなりの人形のようだと思った。
しかし、得てして貴族の令嬢とはそういうものだと、その頃にはフィリクも知っていた。
家のために、知識と教養を身につけ、作法を学び、そして嫁ぐ。それが、この国で8割以上の貴族女性が辿る道。
婚約も結婚も、当主が決め、令嬢本人の意思は反映されないのも。
それは、王家にも言えることだが。
王家とは、国のため、民のために存在するもの。個人より、何より優先されるのは、国だ。
国を活かすために、生かされるのが、王家というものだ。
それを、十二分にフィリクは理解していたはずだった。
学生時代にマリエルに出逢ったときも、心奪われるほど惹かれたものの、自分の責務を忘れてはいなかった。
ルシアとは、政略結婚だ。覆しようのない決定だ。
身分も、器量も、文句のつけようはない。努力もしている。フィリクに向ける熱を鬱陶しく感じることはあるが、何か要求するわけでもないので放置していた。
ルシアに婚約を破棄するほどの瑕疵があるわけではないので、マリエルをどんなに想っていようが、フィリクの望みが叶うことはないと諦めていた。
だが、フィリクが考えている以上に、結婚生活は苦痛だった。
後継のために、何も思っていないどころか、どちらかというと疎ましい存在に触れなければならないというのが、男として苦行だと、初回で思い知る。
しかし、王太子である以上、それを拒否することは許されず。
──マリエルを秘書官に推薦したのは、側近2人だった。
結婚し、本格的に王太子としての執務を任されたのは当然のこととしても、あまりにも多かった。
ただでさえ、早い段階でルシアとの生活に音を上げそうになっていたところに、許容量を超える執務。追い打ちをかけられていたフィリクは、側近2人の考えに飛びついた。
領地に結婚を約束した恋人がいるとは、打診したときに聞いたことで、冷水を浴びせられた気がした。
いずれは戻るけれどそれまででよければと、引き受けてはもらったが、内心複雑だった。
彼女に想い人がいる。それは、自分ではないのだと。
それ以上に、フィリクには既に妻がいる。自分の意思ではなく、決められた相手だとしても、それは変わりない。どんなに好意を抱けない相手だとしても。
どちらにしても、この想いが叶うことはないのだと、再認識したが。
彼女のいる執務室は、それまでとまったく違い、まるで室内に光が差す思いだった。
学生時代の、生徒会の活動もこんな感じだったと、活力が湧いてくるようだった。
ルシアに触れることで感じる苦痛も軽減されているようで、彼女への想いは消えるどころか増す一方。
だから、半年も苦行に耐え、ようやくルシアが懐妊したときは心底安堵した。石女ではないかと疑いを持つ前でよかったと思ったものだ。
しばらくは義務である閨からも解放され、マリエルに癒されながら執務をこなす日々は、平穏そのものだった。
転機はおそらく、ルシアが毒に倒れ、流産したという知らせからだったのだろう。
そのときでさえ、フィリクはきっと何も分かっていなかった。
自分が何をすべきなのかを。
「王太子妃殿下の体調が思わしくないとのことで、大丈夫でしょうか?」
毒を盛られたとは、基本公表はされない。子を喪ったことはいずれ周知されるにしても、原因が国外に漏れるのはリスクしかないからだ。
情報として知られるのと、国として公にするのとでは天地ほどの差がある。
故に、マリエルはルシアが数日臥せっている現状を、体調不良と信じ、心配しているのだろう。優しい彼女らしく、ほぼ接点のないルシアにまで気を配っている。
そんなところも好ましい。
「問題はないと聞いているよ。たぶん、もう復帰するんじゃないかな」
「お見舞いに行かなくていいんですか、殿下?」
「そうですよ、ご夫婦なのに」
側近2人が要らぬ口を挟む。
そんな戯言を口にする暇があるのなら、目の前の書類を少しでも片付けろと言いたい。
「王太子妃の仕事まで回ってきている状態で、そんな余裕はないな」
「まあ確かに、この仕事量は…」
「妃殿下、早く回復されないかなー」
「そういえば、王太子執務室って、妃殿下ほどの補佐官いませんよね」
言われてみれば、そうだ。
ルシアの執務室には、この部屋の倍以上の人数がいるというのに。
「…そうだな。管理課に人員を回してもらうことにしよう。君たちが過労で倒れるようなことがあってはならない」
「さすが殿下!」
「俺たちの気持ちをよく分かってる!!」
調子のいい2人は笑って流して、先に手配はしておくかと執務室を後にして、管理課を訪れたが。
「許可できません」
話を通し、人員の手配をというと、管理課の担当者はすげない返事を寄越す。
「何故だ?」
「現在、どこの部署も余っている人員などいないからです」
「王太子妃執務室には、私の執務室の倍以上の人員を割いているではないか!」
「…もしかして、殿下はご存じないのですか?」
「何をだ!」
「妃殿下の執務量、王太子殿下の3倍はありますよ。軽く見積もって、ですが」
「…何だと」
「何せ、正妃様の執務も請け負っているわけですから」
フィリクは、何も知らない。
そんなこと、誰も言わなかった。
呆然とするフィリクをよそに、担当者はとにかく人員手配は無理だと告げるとその場を去る。
正妃の執務までルシアがこなしていたことも驚きだが、その状態で、執務が滞っているとは一度も聞いたことがない。
いや、補佐官たちが頑張っているのだろうと思い直し、執務室に戻った。




