長倉ハルセの歌
辺りは充分視界が利くような明るさになっていたが、日の出はまだだ。
ホテル周辺は鮮やかな緑の人工芝が広がっていて、そこに遊歩道が敷かれていた。道の脇にぽつぽつと、淡くガーデンライトの光が灯っている。
浜辺の方へもルートがあり、普段よりゆっくりめにハルセは足を進めた。ロディも周辺へ顔を向けつつついて来る。
遊歩道から緩いスロープが伸び、それに従って砂浜へ下る。少しだけ歩いてみて、砂に沈み込む足元の覚束なさに立ち止まる。浜を囲う石垣に背を預け、水平線を見やった。
朝凪が起きていた。
風が殆どやみ、静けさに包まれて、寄せ返す波もひたりひたりと勢いが若干落ちている。
揺蕩う水をぼんやりと眺めていたら、隣でロディが身じろぐ。視線を流すとサングラスを外していた。ハルセは慌てて辺りを窺う。幸い人気は無かった。
「僕ばっかり大好きなハルを見てるのに気づいた」
綺麗な瞳がやんわり細められていた。「君が好きだって言ってくれた僕を全然見せてあげられなくて、ごめんね」
「それは、仕方ないから、気にしないで」
それに今のハルセは彼の眼だけが好きなわけではなかった。とはいえ、久しぶりに目の当たりにした緑がかった瞳はとても神秘的で見惚れてしまう。見惚れて、はにかんで視線を逸らすと、ふふっ、とロディは笑声をこぼした。
「ちょっとは元気出た?」
「うん」
ハルセが素直に頷いて口元を綻ばせると、ロディは何故か手をぐーぱーさせてから片手で顔を覆う。
「もー……元気無いトコに付け込みたくないのに、何でこんな時まで可愛いの」
「……そか。それは、良かった」
「良いんだ……良いけど」
ロディは石垣にもたれた格好で覗き込んできた。「びっくりしたメッセージの話は聞いちゃ駄目?」
「──構わない」
お見通しだなぁとハルセは肩を竦めた。「友達が、結婚したって知らせてきた」
それだけで軽く済ますつもりだったのに、心配そうに見つめてくる瞳を見返したら、唐突に鼻の奥がツンとした。きらきらした眼。宝石みたい、と陽毬もうっとりしていた眼。
十年余りの、陽毬と一緒に居たあの日々は何だったんだろうと思ってしまった。
特に強いられたわけではない。自らの選択で彼女と過ごしていたのに。否、だからこそなのだろうか──自らの選択の結果に、猛烈な虚しさに襲われてしまった。
ハルセには到底目指せない世界を華麗に選び行く背中を、何かしら支えてあげられたらと思っていた。けれど陽毬には、あんなに簡単に投げ出せる程度の道だった。唯一なんだろうとハルセは勘違いしていた。幾つもある道の一つだっただけだった。
七美も察していた、陽毬の気質。ハルセも漠然と感じ取っていたのに、目を閉ざして、彼女が夢を掴むのを勝手に期待していた。
そして今、勝手に失望している。
そもそもお互い、何でも話せる間柄でもなかった。
ハルセと陽毬の心のシーソーは、恐らく一度も水平になったことが無かった。ハルセが常に陽毬を見上げる側で──見上げていた彼女は遂に飛び降りていった。漫然と同じ空間の空気を吸っていただけの相手だと、知らしめて。
虚無も落胆も悲しみも淋しさも、友達を心から祝えていない自己嫌悪も、本当は何処にもぶつけられない、自分で消化しなくてはならない感情。それをハルセは持て余している。
ぽたりと砂地に滴が落ちて、ハルセは腕で目を覆った。鼻声で訴える。
「歌手はもう、いいんだって」
「あぁ、練習に付き合ってた子か。ハル、歌は苦手なのに付き合ってた」
「だって、大事な友達、だった」
鼻を啜って、ハルセはくぐもった声で言う。「わたしが、男の子のフリ始めた時、付き合ってくれたの、陽毬だけ、だった」
最初は兄の真似をしたハルセを周りは怖がった。見知らぬ男に蹴られて怪我をしたハルセとの距離感を、クラスメイトは測りかねている時だった。
当初はハルセが騒いでいたから蹴られた──自業自得な面があると思われ。
次いで、それは違ったらしいとすぐ広まり。
じゃあ誰の代わりに蹴られた? となった時、クラスは担任教諭も含め詳らかにしようとはしなかった。それはそうだ。ハルセだってそんな事は望んでいない。あくまで悪いのは加害者だ。
速やかに事件の話はタブーという雰囲気になっていた。そんな中でのハルセの変貌は、可哀想な子が別方向に可哀想な感じに変化したと思われているようだった。
その空気をものともせず、クラスの中心的な美少女だった陽毬がノリノリで話を聞いてくれた。彼女は、あの時のハルセにとって確かな救いだった。
男子は苦手と言っていたのに楽しんで付き合ってくれた。
だからハルセも、苦手な歌にずっと付き合えたのだ。
朝凪の終わりを告げる風が、さ……と吹いた。
よし、とロディが呟くように言った。
「恋人の僕が、今日からハルの専属歌手を目指す」
ハルセは掌で涙を拭い、眉を下げて隣を見上げた。
「ロディも苦手なんでしょ……?」
「苦手だけど、僕だって君と同じ。ハルの為なら歌える」
ロディは木漏れ日みたいな優しい目にハルセを映した。「“友達が頑張ってるから”って一緒に歌う話をしてくれたハルが可愛くて、僕あの時も君に恋したんだ。だからあわよくば君も僕に恋して? 僕、ハルの為なら歌う」
ボクと恋しよう? と自習室で聞いた新星の台詞が鮮やかに思い出された。
思えばあの日から、彼への気持ちを心が奏で出したのだ。
一つ又、仮想の欠片が形になりそうで。
「歌って」
鼻声のまま、ハルセは隣に立つ人を見て願った。「覚えたら、わたしも付き合う」
見上げるハルセから、ついとロディは視線を逸らした。耳を赤くして、では、と喉をさする。
んんっ、と咳払いして、何だか発声練習みたいなことも始めて、やっと歌い出した。
高くも無く低くも無い声で、穏やかに、語るように。
心に開いていた穴に、温かな癒しを降り注いでくれる歌だった。
いま居るこの場所──晴れた海の似合う歌だった。
一曲心に染み入って鼓動の高鳴りを自覚した後、恋人の歌が聴き入るレベルだったと気づいて、ハルセはちょっとだけ拗ねた。
「苦手とは……」
「──予想と違う顔キタ。でもその顔も可愛い」
ふにゃふにゃしだしたロディに、ハルセは照れながら口をすぼめる。
「とても上手だった」
「えっ──よ、よーし。えへへ、惚れ直した?」
嬉しそうにほんのり頬を染めて訊いてくるので、何故か素直に頷くのを躊躇ったハルセはもじもじしながら言った。
「ロディ、わたしが男装してなくてもいいんだね」
「待って、僕どういう趣味だと思われてるの」
「少年が好き……?」
「待とうか、かなり誤解がある」
真顔でロディはハルセの肩に手を置いて向かい合う。「ハルは確かにボーイッシュだけど、僕、最初から君は女の子にしか見えてないよ」
「え、でもファルセ……」
「ヒロインの一人でしょ。ヒロインは女の子だよ?」
ロディはやや必死な口調で言い募った。「スタートが春休みだったから、あの学園、僕以外はヒロインしか通って来ないって初めから僕は知ってた。ハルは凛として、袴姿みたいな出で立ちも美しくて。僕、もう目が君ばかり追ってしまって、どうしようもなかった」
まぁ今もそうなんだけど、とロディはだんだん赤みの増してきた顔で続ける。
ハルセは諸々の蟠りがほぐれていくのが判った。
もう自分は男装に拘らなくていいのだ。
男装に付き合ってくれた陽毬──歌手の夢に付き合っていたハルセ。
ハルセが男装をやめたくなっていたタイミングで、奇しくも陽毬は夢へ歩むのをやめた。
そうして共に過ごしてきた時間はけして無意味じゃない。何故なら彼女のお蔭で、自分はこんな人と巡り会えた。
もっと上品な王侯貴族だって演じられるだろうに。美辞麗句を綴ることだってできるだろうに。ハルセの為に、愚直に幸せを齎す言霊を贈ってくれる人。
こんな時も傍に居てくれる人。
「良かった」
ハルセは大好きな美しい陽だまりを見やって、ふにゃりと相好を崩した。
ロディはその瞳を揺らし、ハルセの肩から手を浮かすと、抑え切れなかったらしい熱情を伝えてきた。
「ハル──僕、これからだって、君の為なら幾らでも歌う」
「じゃわたしも、ロディの専属目指す」
応じるや、顔の脇、石垣に手をつきロディはハルセの唇を啄んだ。
一緒、と掠れた声で繰り返して。
気が付いたらロディの肩越しに水平線がきらきらしていた。殆ど覆いかぶさられて気づくのが遅れた。
驚くほど自然に受け入れてしまったものの、いつの間にか抱き込むように頭を支えられて手も絡めとられ。
AIロディが額に贈ってくれた、そっと触れただけのモノとは違う。
優しい触れ方は似ているけれど、ダイレクトに伝わる思いのほかしっとりと柔らかな感触と淡い熱。唇が離れた一瞬に溶け合う互いの吐息。潮の香。ミントの味。
息を漏らした時にうっかり彼の唇を食んでしまったら、とても勢い良く食み返された。
あの美しい庭園で約束した口づけが果たされて。
仮想空間で得て、現実で集め直してきた欠片。それが、確かな形になった。
ロディ・ノヴァとは幾ばくかの齟齬があった。けれども自分が好きになった“ロディ”は、確かにこの人だという実感が訪れていた。
互いが互いに想いを募らせて。
或る種、言葉の無い心の内の交わし合いで。
海外ドラマでティーンエイジャーが夢中で接吻を始めるのが、何やら納得できてしまった。
といっても、恋愛初心者かつ照れ屋のハルセは何度も口づけられるうちに、やっぱり羞恥に耐えられなくなってきた。
「な、長い……っ」
「君どれだけお預け喰らわせてきたと思ってるの」
やたら早口で言うなり、ロディは薄目を開けてハルセを見つめたままで唇を重ねてくる。「今度いつさせてくれるか判んないし、も少し合唱しよ?」
「足に、力、入んなくなって、きた」
「ここで煽ってくるハルが大好き。お姫様抱っこするから安心して?」
ちゅ、とロディは今一度唇を寄せてから、やっと僅かに距離を置く。が、すぐに愕然とした表情を浮かべた。「っ嗚呼っ、僕、シングルじゃないじゃん。男と相部屋じゃんっ」
「な──何しに合宿来てんのっ」
「ハルとイチャイチャする為に決まってるじゃんっ」
「わたしは流星見に来たしっ」
「温度差っ──でもそこもイイ。好き」
ハルセはのぼせた頭で、変な感覚になってきていた腹に力を入れて足を踏ん張った。
「わたしも好きだけどっ、ここには星、見に来たの! もう戻るっ」
繋がれた手をむんずと掴み直して、ハルセは緩い坂を芝地へと向かって勢いをつけて歩き出す。
吹き始めた風が背を押していた。
ロディはサングラスをかけながら、大層デレデレして引っ張られてきた。
「ハルぅ、流れ星見た後で歌おうよー」
「……考えとく」
「ハルぅ、大好き」
恋人ほど言霊を大盤振る舞いできないハルセは、握る手に力を込めたのだった。
拓人の歌った曲はRichard Marxの『Now and Forever』を想定していたのですが、ハルセのリスニング力を勘案した結果、Dai Hiraiの『Slow & Easy』でお願いしたい次第であります。




