長倉ハルセの劇場
『ニジゲンに飽きたトコロEX』の運営チーム数名が焼き肉を囲んでいた頃、ハルセは高校卒業以来三ヶ月ぶりに会った七美と劇場へ向かっていた。
曇り空だが雨には降られずに済みそうだった。
ハルセは花屋で手頃な花籠を買い、七美はショッピングモールでクッキーの詰め合わせを買ってきていた。
七美は真っ直ぐなナチュラルブラウンの髪を顎の辺りで切り揃えている。高校の頃は細いフレームの眼鏡をかけていたが、今日は青みがかったカラーコンタクトレンズをつけてメイクをマニッシュにしてきていた。ながっちに寄せてみた、との事。ボーダーのシャツとサロペットパンツだったことも相まって、正直、声をかけられなかったら七美だと気づけなかったかもしれない。
因みに本日のハルセは、ざっくりとしたライムグリーンのストライプシャツにデニムである。
チケットの裏面に書かれた地図を頼りに辿り着いた建物は、お世辞にも立派とは言えなかった。兄のアパートに似た風情だ。曇天もいけないのか、外観は潰れかけの喫茶店に見える。
うーん、と七美が何とも言えない様子で唸る。彼女は今日、何でも経験だから、と言って来ていた。
「こんな劇場もあるんだね」
だね、としかハルセも応じる言葉が見つからない。ロディ氏から少しでも聞いていなかったら何かの間違いかと思ってしまいそうだった。
通りに面した表には、チケットに記載された演目を知らせる看板が一応設置されていた。近くで同じチケットを数枚持った人も立っている。
公演の時間は近づいていた。その立っていた人がどうぞどうぞと勧めてきて、とにかくも二人は中に入った。
中は思ったより熱気に溢れている。忙しく立ち動く人の姿があり、場内入口では長机で受け付けが行われていた。
チケットから半券を返して貰い、ハルセと七美とで花籠と菓子包みを差し出す。
「こちらの差し入れは根古塚さんにお願いします」
受付に居た若い男女は品物を見た時は嬉しそうにしていたのに、陽毬の苗字を出したら顔を曇らせた。目を見交わし、女性の方が困り顔で告げてきた。
「えーと、すみません。彼女は今日、体調不良で出演しません」
えっ、とハルセと七美の声が重なった。
入場すると横一列十五席前後のパイプ椅子が十列分くらい並べてある。七、八割程度は観客で埋まっていた。
並んで空いていた席に腰を下ろすと、七美は携帯端末の通話をロックするついでにメッセージをチェックしている。ハルセも同様だ。何処からも連絡は来ていない。七美の所にも来ていないようだ。
「えぇ……体調不良じゃしょーがないのか……?」
「……まぁ、連絡来たところでチケット今日だからなぁ」
「でもそんなら差し入れしなかったっしょ」
「あ、そうか」
せっかくなので皆さんに、と受付に渡したわけだが、お互い微妙な顔になってしまった。
「差し入れクレクレしてきたのは、ねこっちだったのにー」
ぶー、と声に出して七美はむくれ顔になる。「前から行き当たりばったりと臨機応変でゆらゆらしてんだよ、ねこっちはー」
じりりり、と非常ベルのような音が鳴って、照明が落とされていく。場内に束の間の静けさが降りかけて、背後でこそこそと話す男女の声が妙にはっきり聞こえた。
「──の、あの二人も? ネコ一体何股かけてたわけ」
「いやあれはどっちも女の子だろ」
「え、マジ──」
何となく自分達の事を指している気がして、変な単語も混じっていて、ハルセは居心地が悪くなった。
何処か気もそぞろに観賞する事になった初ミュージカルは、ハルセには不思議な世界だった。
真面目に物語が進んでいる中、どうしていきなり歌い踊り出すのだろうか。ミュージカルで有名になった音楽は多々あって、ハルセも知っていて心揺さぶられる曲が幾つかある。けれどこうして観客として直面すると疑問符が飛び交ってしまう。そこで歌う必要が何処に。
今一つ入り込めないもどかしさを与えて舞台は進む。
おまけにハルセはゲームとはいえ間近でプロの演技を体験してしまった所為で、目が少しだけ肥えてしまっていた。特にあの、“水”の魔法を詠唱した時の魔王──
(芳月タクト君、やっぱり凄かったんだなぁ)
目当ての友達も不在で、どうにも失礼な感想ばかりが浮かぶ観劇になってしまった。
帰りに寄ったコーヒーショップで、今度はプロのを観に行ってみる、と七美は話していた。彼女は歌劇に興味が湧いたらしい。
陽毬には【具合は大丈夫? 七美と観に行ったよ。お客さんいっぱい居たよ】とメッセージを送った。
【熱出ちゃった、だるい】と返って来た。
これまでの彼女なら熱を押しても出演しかねない奮闘を見せていた気がする。友人に高額のチケットを売っていたのだから、尚更。
あまりもやもやしたくなくて、自分を大事にするようになったのだとハルセは思う事にした。
明けて日曜日、ハルセは思いもよらない事態に直面する。
昼下がり、自宅二階の自室で課題のレポートを書いていたのだが、母が走り込むようにして呼びにきた。
お客さんだよ──早く早く、と急かされて階下に降りれば、リビングに兄が来ていて、ロディ氏を伴っていた。
ドレッドヘアにサングラスはいつも通りだったけれど、モスグリーンのネクタイにネイビーのスーツ姿。
ソファに座る膝元にカスミソウを散らした青い薔薇のブーケ。
〖僕が最初に贈る花は青いバラにする〗
ノートにそう書いたのは、ロディ・アシュフォードではなくロディ・ノヴァの方だったのに。
混乱してリビングの入り口で立ち尽くすハルセを、客人の向かい側で父が物凄く複雑そうな顔で見てきた。普段は和室にある座面の位置が高めの座椅子に腰かけていて、手招く。父の横に、いつもはミニテーブル代わりにしているソファとセットのオットマンが並べてあった。更にその横にもう一つの座椅子。
ソファの端に座っていた兄が立ち上がり、こちらに来ると見物でもするように脇の壁に寄りかかる。
母が背中を押してきて、ハルセは狼狽えつつ両親に挟まれてオットマンに座り込んだ。
おずおずと視線を上げると、正面に一人残っていたロディ氏はすぐに口火を切った。
「こちらに御迷惑をおかけするわけにはいかなくて、人目を憚りこのような変装をしています。ウィッグはこのままでお許しください」
前置きの後で、彼はサングラスを外した。
ハルセは小さく口を開けてしまう。
黒は僅か。緑が多めで茶色に金、青も少し混じっている稀有な双眸。
一体どれ程の人を虜にしてきただろう。綺麗な綺麗なあのアースアイが、真っ直ぐこちらを見た。
「もうすぐ引退予定なのですが、今はまだ芳月タクトという名でタレントをしています。吉槻・ローデリック・拓人と言います。英名はタクト・ローデリック・アシュフォード。ロディと呼んでいただければ」
母が、本物……と口元に両手を当てて少女みたいに頬を染めていた。ハルセも“引退”というワードに理解が追い付かないまま、じわじわ顔が熱くなってきていた。
ロディ氏なのかタクト氏なのか判らなくなってきた美青年は、真摯な眼差しをハルセに向けた。
「先ずは謝らせてください、ハル。四月からこの姿で傍に居た上に、気持ちを仄めかしてしまった事。君は潔くフってくれたけど、きっとそれまでに困らせたと思うから謝ります。あの仕事中は事情を話せなかったのと……ノヴァがフラれそうで打ちのめされてたものだから……思わず縋ってしまった。ごめん」
ハルセがボーナスイベントをすっぽかした時の事だと思い至る。
確かに悩まされた。ロディ氏が普段から所々で変な人を装っていなかったら、恐らくハルセはもっと彼を好きになっていて、二人のロディへの気持ちでより懊悩してしまっただろう。
しかし同一人物だったなら、あの時ロディ氏が寝不足になったのはハルセの所為だったのだ。彼の『EX』での立場をある程度は解っているだけに、もはや蒸し返してどうこう言う気にはなれない。
むしろ心の片隅で安堵している自分が居る。傍に居たが故に、ロディ氏の存在は密かにハルセの中で大きくなってきていたから。
「アレは、わたしも悪かったから、いい、です」
熱い頬をさすってハルセが謝罪を受け取ると、ありがとう、とホッとしたようにロディは一旦表情を緩めた。
が、すぐに彼は改めて居住まいを正した。
「では、今日伺った本題です」
熱の籠もった瞳で、ロディはハルセをひたりと見据えてきた。「ハル、結婚を前提に付き合ってください。言われた通り指輪も持ってきました」
言われた……? と言葉尻を捉えたのは、ここまで静観していた両親である。父は眼光鋭く、母は興味津々で娘を見る。見られたハルセは盛大に引きつった。
『この指輪、できるものなら今度はちゃんとわたしに嵌めて』
『解った。そう待たせない』
冗談のつもりで言ったわけではない。
でもまさか本当に、そう待たせずに来るなんて思う筈がない。
しかしながら彼は実現可能と判断した上での宣誓だったのだ。何せハルセが啖呵を切る前──本人も明言したようにオリエンテーションの時点で近くに居たのだから。
(雷が落ちたって発言も、ホントだったんだ……?)
何も返せず固まったままのハルセに、木漏れ日みたいな瞳が揺れた。膝にあったブーケを差し出してくる。
「お願いします。ハルが好きなんです。僕、この先も君と一緒に居たい」
ハルセも好きだ。この人のこういう、心に真っ直ぐ届けてくる直截さが特に。なのに言葉が出てこない。
流石にそんなワケは無いと解っているのに、これも壮大な何かの演目の一場面なんじゃないかと頭の隅で囁く声がある。
そう、この人は、あのゲーム内でAIのロディのようにファルセだけに寄り添ってはくれなかった。
AIロディとの別離で傍に本物が居てほしくて。
諦めようとしても、恋しくて。
見なければ良かったのに、ハルセはついハニーの中の人のSNSを見てしまった。
彼女はエンディングシーンのスクリーンショットもアップしていた。
タクティーは、この美しい瞳でハニー・アンダルアを愛しそうに見ていた。
彼は、彼女と幸せそうな結婚式をしていた。
ハルセだけの人ではない。その証明が現在進行形で出回っている。
(割り切ったつもりで……わたし意外と傷ついてたのか……)
『やっぱり、カレシには自分だけ見ていてほしいよ』
赤い顔で訴えていたトモミが思い出され、同意した自分も思い出す。同意したのに、実感していなかった。
今頃になって、実感が遅れてやってきている。
俯きかけたハルセに、壁にもたれていた兄が、ハル、と呼びかけてきた。
「今のロディは、演じてないぞ」
ハルセは目を上げた。同じように俯きかけていた彼が、やや虚ろに見返してくる。
ついさっきまで光をたたえていた瞳が翳りかけている。
ちくりと胸が痛んだ瞬間、浮かんできた。
(指輪を嵌めに来いと言っておいて土壇場で逃げるなんて、昨日の陽毬みたい)
あれは本当のところ、かなりがっかりした。
自分はこの人に、がっかりされたくない。
そう思ったら、両手が動いた。
ハルセは、そっとブーケを受け取った。
丸っこく纏められていて可愛らしかった。青というか紫っぽいんだなと薔薇の芳香を少しだけ嗅いでから、向かいを窺う。
これまではサングラスに隠されていた眼差し。それが今、他の誰でもないハルセに向いている。演技でなく、切々と。
瞳に煌めきが戻ってほしくて、ハルセはそろりと左手を差し伸べてみた。
ロディはスーツの懐に勢い良く手を突っ込むと、木目のリングケースから指輪を出してきた。ゲームとそっくりな銀の透かし模様の代物を、薬指に通してくれる。今回も、何故かサイズがぴったり。
というか、触れる彼の手が微かに震えているのが判った。意外に思う反面、ハルセはほんの少し疑いもいだいた。
「また外すかもしれないけど」
ぽつりと告げたら、ロディは潤んで輝きが復活した双眸を眩し気に細める。どうしてか、こぼれるように笑った。
「そんな君が好きだから、僕はまた嵌める為に足掻くよ」
母はきらっきらの目で黙っていてくれたのに、父がわざとらしい咳払いを繰り返す。急激に恥ずかしくなって転げ回りたくなったので、やめてほしかった。




