長倉ハルセの知らぬが仏
周辺に松が多く植わっている武道場一帯の向こう側は、文系エリアより格段にざわめきが大きい。
ほんの少し不安に思いつつ脇道を抜けたら、一九〇㎝近い兄の、きりりとした袴姿が目に飛び込んだ。
すぐに見つかった安堵も相まって、ハルセはまだ距離があったけれど思わず兄を呼んだ。
振り返ったのは間違いなくテツで。それは良かったのだが、他にも声に反応して数人に目を向けられてしまった。けれど兄は一人で立っていると思ったから、行き交う人に少し見られてしまった程度と判断していた。ハルセはちょっとだけはにかんで、そのまま智と一緒に兄へ歩み寄った。
距離が縮むと、兄の傍でこちらを一緒に振り返った一人が動かないのが判った。細めのサングラスをかけていて、ドレッドヘアに斜めにキャップ。通りすがりの人だと思っていたから内心で小首を傾げる。胡散臭い小父さんに見えた。
兄が近くに居る。智も後ろに控えている。だから心の奥から浮き上がってくる恐れを抑え込んで、ハルセは小さく、兄ぃ、と改めて呼んだ。
「当番? 何時頃終わる?」
「……おぅ」
兄はやけに勿体ぶって顎を引いた。ハルセの斜め後ろで、顔を覗かせていたらしい智がそっと会釈したのに気づく。
「あのね、仲良くなったんだ。こちら経営学部一年の草薙智ちゃん」
「……おぅ。経済二年、長倉テツです」
「は、初め、まして」
智が赤い顔を俯かせていく。ハルセは半ば体で庇い、話を引き継いだ。
「一緒に天体観測のサークル入ろうって申請書貰った」
ほぅ、と応じた声が、兄と不審者で被った。
(この年齢不詳のおじさん、何)
図らずも智を連れてきてしまったから、変な人に関わるのはより警戒してしまう。ハルセは兄へと問いかけの視線を向ける。
受けたテツは、首の後ろをさすって言った。
「あー、こいつは俺のダチだ」
それまで怠そうな立ち方をしていたのに、ふっと背筋を伸ばすと、品良くその人は身を屈めた。
「Roddy Ashford デス。Nice to meet you」
振る舞いと名前に、ハルセだけでなく智もちょっとだけ目を丸める。
いちおう小学校から英語の授業を受けて来ているから、たどたどしくハルセは挨拶を返せた。同じく返した智の発音の方が綺麗で、自分の英会話力が恥ずかしくなった。
何処となくいつもと様子の違う兄が、遠くを見つつ棒読みな口調で説明した。
「ロディは日本文化を勉強に来た、らしい」
「メディア文学ネ。むつかしくて、留年? かもネ」
日本語だと急に変なオジサン風片言になったが、ロディ氏の発言に智と目を見交わしたハルセは、ちょっと手を挙げた。
「えと、わたし──長倉ハルセ、メディア文学部です」
「オー、ハルしぇ! ハルしぃ、ハルねー、宜シク宜シク」
さらっと家族みたいに呼ばれてしまい、ハルセはぎごちなく頷く。外国人はこの辺の距離の詰め方が早いなぁ、と思う。
風体は物凄く近寄りがたかったが、兄の友達ならそう変な人でもないのだろう。新星と同じ名前にささやかな親近感も湧いていて、宜しくお願いします、とハルセは帽子を浮かして頭を下げる。
えへへ、と綺麗な白い歯をこぼすロディ氏は、落ち着いて見てみると肌艶も若々しくて顔のパーツが整っている。目の周辺をサングラスで覆っているのが勿体無いような気もしてきた。
兄より低いけれど、流石に外国人、余裕で一八〇は超えていそうだ。一六七㎝のハルセが軽く見上げていると、ロディ氏はつと顔を逸らした。
「テツ、僕、踊ってシマイソウ」
「……やめとけ」
兄は溜め息交じりに止めてから、きょとんとしてしまうハルセを見た。「俺はもうすぐ交代だ。教科書だな?」
「あ、うんっ。英語と一般教養。一緒にアパート行っていい?」
突然、ロディ氏が両手で顔を覆って天を仰いだ。ハルセも智もびくっとする。
「僕のオウチに教科書アレバっ」
「お前さん、留年してるんじゃなかったか」
何だか、彼が留年したのが解った気がした。
謎の嘆きを空に吼えたと思ったら、ヤッパ僕も観測スルーっ、とロディ氏は言い出し、ドレッドヘアを跳ねさせ、ひょいひょい行ってしまった。さっき気になったようだったし天体のことだろうか。
ハルセと智がぽかんと後ろ姿を見送っていると、兄が絞り出すようにフォローしてくる。
「あいつは、あんな……前から、元々、あんな感じ……かもしれない」
ハルセは、兄とロディ氏が漫才コンビに見えてきた。兄にしては珍しいタイプの友達だと思うけれど、随分と気安いようだ。もう彼の珍妙な言動はいちいち気にしないことにした。ボケ担当、ハイ相応。
ハルセと智が互いの選択した一般教養科目や時間割なんかを話したりしているうちに、兄と同じ袴姿の男子学生がやって来た。
お疲れ、と声を掛け合って、兄は剣道部のブースを離れる。二年生だろう先輩は、智を見て羨ましそうな目をテツに向けていた。テツは気づいていないようで、んじゃ行くぞ、と裏道へ向けて歩き出す。相方が戻るのを待つ気は無いらしい。
さっさと進みかけて、兄は智の存在を思い出したようだ。歩みを緩めかけたが、軽く振り返って告げてきた。
「先に行って用意しとく」
ハルセが頷くとテツは足の長さを活かしてあっという間に遠ざかっていく。
智が少々気遅れ気味に、ホントにお金いいのかな、と漏らした。
ハルセは取らなかった一般科目の一つを、テツと智は取っていた。だから智にはその教科書を譲ると兄は言ってくれたのだ。
「兄は、お金関係ハッキリしてる人だから。ホントにいいと思ってるよ。もう使わない本だろうし貰ってやって」
携帯端末で読めるヤツにしてくれればいいのに、大学側から紙の指定教科書の購入を促されている。これが結構、塵も積もればで馬鹿にならない金額になる。節約できるならした方がいいとハルセは思ってしまったけれど、一人っ子らしい智にお古は嫌だろうか。
何はともあれキャンパスを出て、二人はテツの住むアパートへ向かった。
学校の近くはそれなりに家賃が高いので、十五分ばかり歩く。歩いているうち、智があれっという顔になった。
「こ、この辺、わたしの住んでるマンションも近いよ」
「え、兄のトコは安さが売りでセキュリティ駄目みたいだけど、智ちゃんトコ大丈夫?」
「うん。親も、ここなら、って言ってたし。その分、やっぱり家賃は高めかな」
「わたし、来年一人暮らしの予定なんだ。智ちゃんトコ外から見てっていい?」
「──どっ、どうぞどうぞ」
智が張り切り出した。
兄のアパートからは方角が逸れたが、確かにさほど離れていない場所に所々丸みを帯びた四階建てマンションが在った。周辺は街灯と防犯カメラも多いし、ベランダもシェードが備え付けになっている。オートロックエントランス内に、管理人室や個別の宅配ボックスが在るのも見えた。ごみの集積所も清潔感がある。
「かーわいーねぇ!」
はわぁ、とハルセが目を輝かせて眺めやると、智は嬉しそうに水回りもいい感じだと話してくれる。トイレは温水が出るし、浴槽も大きめ、キッチンも二口コンロが付いている。
恐る恐る家賃を訊いてみたら、当然ながら高い。
「たはー。でもいーなぁいーなぁ」
「今度、遊びに来て。実際、見てみて」
ほわほわと智が言ってくれて、ハルセもふわふわした心地で兄のアパートへ足を向けた。
近づく毎に、先程のマンション付近との違いが気になりだす。
これまで兄の住まいには何回か来たことがある。その時には気にならなかった点が今日は気になりだす。
場末感が漂っている。
(こんっなに違うとは……!)
くたびれたアパート前にレジ袋を提げて立っている兄を見留めたハルセは、母の言い分を色々と理解した。緩く首を振り、しみじみと告げる。
「ごめんね、智ちゃん……こんなとこ連れてきちゃって……」
「えっ⁉ な、何が──何を──? ファルさん……っ?」
「……妹よ、人んチをこんなとこ呼ばわりはやめてくれ」
頬を引きつらせてテツはぼやいていた。




