蛇に睨まれたように身が竦む、されど彼は石を砕けない(1)
大きく、何度も立て続けに吐いた息は、いずれも白く染まってから景色に溶け込んでいった。
つまり今の外気温は、寒いと言って然るべき低調の様相。自分の体感とは真逆であった。
タンタンと………小気味よく、メトロノームのように代わり映えしないリズムで鳴る、コートとボールが触れ合う音。眼前の彼女が動き出さない以上、自分が足を動かす理由がない。結果、単調な律動が眠気を引き起こし、その場に留まるふくらはぎと太ももが、ここまでの間で溜まった疲労によって固められていく。
雲1つない青々とした晴天から降りてくる、弱い日光。光量は細やかなもの。しかし、疲れが回ったその目で受け止めるにはこれでも強すぎる。そして追い打ちのように、額から滑り落ちる汗の玉が、瀕死の目元に飛び込んで───カルトネの瞼を引き寄せた。
ドリブルの音が転調する。テンポもキレも一変し、宿る眠気が後を濁さず消え去った。
頬を押しのける風圧。それに釣られた瞳孔が、陽光を弾く若葉のような鮮やかな緑を捉える。
「───いかれたァ!!」
事実を認知した彼女にできたのは、背後のチキントラスにワンテンポ遅れた報告をする事のみであった。
カルトネが抜かれる事など想定済み。彼女の体からはみ出たボールの動きを追って、チキントラスは前に走り出す。
表象モンスターとしては平凡。しかし、人と比べるには常識外れのフィジカルで、チキントラスは跳ねるボールに手を伸ばした───
チキントラスが触れるよりも一手早く。彼女の指先はバスケットボールを引くように弾き、前への鋭い跳躍を、後ろ向きに方向転換させた。そして、そのボールの動きに合わせて、彼女も後ろへ飛び退く。
結果、チキントラスは目にした。僅かに腰を落とし、高く飛び上がるバスケットボールを迎え入れるように諸手を上げる、彼女の姿勢の全容。そして気がつく、構えた手の位置と、背後のゴールとの線分に隔たりが無いことを。
その思考は非常に瞬発的。チキントラスはその場で跳躍し、シュートコースを腕で塞ぐ判断を下す────
それと同時、少女は挙げた両手でやってくるボールをポンと押し返し、軌道を逆転させた。
「!?」
チキントラスが気がついた時にはもう遅かった。………いや、気がついたとしても、この欺瞞に乗せられた時点で、彼がこのゲームで打てる手は消失していた。
何せ、フィリップの速度は尋常ならざるそれであるから────
チキントラスの足元を過ぎ去るボールを追って、フィリップは風に比類する速度で駆け出した。低い体勢から、身を投げるようなジャンプ。その疾風のように速く大胆な動きは、フィリップを鋭く跳ねるボールに追いつかせ───身をよじる勢いでの、シュートに繋げさせる。
ボールは弾丸のように素早く、そして真っ直ぐとした軌道で、ゴールに向かっていく。その動きは、上から下へ物を投げ入れる想定に相応しくない、向こう見ずな直線運動。そしてボールは当然のように、リングと衝突し真上に飛んだ。───空気を手繰るような回転を作りながら。
背中とコートが密着するより早く、下ろされ地を掴むフィリップの右腕は、流れるように肉体で渦を描くその軸となる。勢いを回転に変換しきったフィリップは、低く開脚し右手と合わせ3点でバランスを取るその体勢のまま見上げた。己の望み通りに動く、現実の素晴らしさを。
「おんどりゃああああ!!」
決死の勢いでボールに飛びつくカルトネの動きは、フィリップの2手分遅れていた。その上、足がもつれてコケてしまい、ズザザと腹部でコートの触り心地を感じながら失速していき───カルトネのダイブはボールの軌跡にすら指で触れる事叶わなかった。
転倒の心理的ショックと疲労故の横になる体勢の適合感によって、うつぶせのまま立つ意思を失くし2.5秒。
リングの縁が擦れながら、ネットが上に跳ね上がる気持ちのいい音を聞いて、カルトネは目を使うことなく自分達の敗北を理解する。
「先輩 ! 大丈夫ッスか!!」
疲れた頭ではこれ以上が思いつかないというくらいに情けない負け方をしてしまい、凹むカルトネ。そんな彼女の前に差し出されたのは、勝者、【メドゥーサの弱点】の右手であった。
「あぁ〜うん…………怪我はない…………けど」
フィリップの手を取り、カルトネはゆっくりと立ち上がる。そしてカルトネがきちんと立てたことを確認したフィリップは、目にも止まらぬ速さで去っていき、あっという間にバスケットボールを持って戻ってきた。
「先輩もっかい ! もう一回ッス!!」
仕事、勉強、運動、買い物に、レジャー、服装とは外出の目的に応じて適した物を選ぶのが常だが…………フィリップの解答はいつだってジャージであった。体を動かす事が大好きなフィリップは、いつでもどこでもスポーツができるよう常にジャージ姿で過ごしていて。寝間着すらもジャージで済ますため、彼女が所持する衣類は下着とジャージ、そしてジャージの下に着るシンプルなシャツしかない。
カルトネのある友人曰く、『「折角お出かけするならフィルちゃんのお洒落した姿、見たいな見たいな〜」って言ったら、いつものジャージの下に柄のあるシャツを着てきてリアクションに困った困った………』。
またある友人曰く、『ファッションに目覚めさせるにしても、金を使わせるのも使うのも忍びないから、私あの子の為にヘアアレンジを考案して教えてあげたのだけれど、フィルったら以来その髪形にしかしなくなって困ったわ…………マミィちゃんの美点センスが英邁無比故に、フィルから自分で思考をする契機を奪ってしまったのよ。才に溢れる者であるならばこそ、芽を摘む事がないよう心掛けるべきなのだと、この私に教訓を与えた出来事だったわ』。
といったように、彼女の変人エピソードはまぁまぁな数ある。尤も、カルトネにおかしな所が1つとしてないような友人などいないのだが……………
しかし、それはそれとしてフィリップは、抜けた才がありながらもそれを鼻にかけることなく、誰に対しても優しく礼儀正しい、とてもまともで出来のいい人間なのも確かだ。その上で、自分を慕ってくれる訳であるのだから、カルトネはフィリップが可愛くて仕方がなかった。
「───私はやぶさかではないが…………カルトネの体力がもたない。仕事に支障をきたすわけにもいかないからここまでにしないか?」
「ハァ…………ちくしょっ…………ムキになったぁ…………」
だからこそ、フィリップのお願いを無茶してでも完遂しようとし、地獄を見たりもするのだが。
「あっ ! すみません先輩……… ! スポドリ買ってくるッス!!」
「………うん」
チキントラスの気遣いによって、30ゲームにも及ぶ1on2は終わりを迎えた。30分以上、ほぼずっと本気で走り続けてヘトヘトになったカルトネ。そんな彼女の様子にようやく気がついたフィリップは、先輩の為に近くの自販機へとスポドリを買いに走り出す。水分くらい用意した上でゲームに臨んでいる。だからフィリップがわざわざ走ってまで飲み物を買ってくる必要なんてないが……………フィリップは日頃から走る口実を求めて生きている超運動バカ。可愛い後輩がやりたいことをやりたいようにやっているというのならば、静観を選びたくなるのが先輩心…………(学年は同じなのだが)。
この場の誰よりも走っていながら、尚もアホみたいな速度で走行をしだす、そんなフィリップの後ろ姿を見ているその時であった。
「ハッ ! 情けねぇなぁゴミ虫共!!2人がかりで年下のフィルにボコされ続けてよぉ…………ギャハハ ! 生きてて恥ずかしくねぇのかぁ!?オイ!!」
後背にかけられる露悪的な罵言。ここまで卑俗極まりない言葉を放てる友人など、【グリフォン】にはいない。しかし、知り合いくらいにまで範囲を広げれば、流石に該当者は出てくる。
ウィリアム•サラグリル。〝メドゥーサ〟の表象モンスターにして、フィリップ•サラグリルの実兄。傑物集うOliverハイスクールタメリカ校2年生、その2大汚点の…………救いようがない方その人である。
「お兄ちゃん ! やめてよ ! ウチが頼み込んでゲームしてくれたんだから…………二人のこと悪く言わないで!!」
「ああン!?そいつらがお前如きにギタギタにされたカスなのは揺るがない事実だろーが!!撤回なんてしねぇよ【グリフォン】はカス ! ザコ ! 使い道のないクズ ! 」
疾風迅雷のパシリスト。フィリップは、愚兄の汚らしい悪口を耳聡く捉えるや否や、2本のスポドリを携え瞬時に【グリフォン】の前にやってくる。しかし、実妹が仲裁に来ても尚、ウィリアムの態度は改善の様子が見られない。それどころか、膝に置いたワークブックをベンチに移して、更にいきり立つ。
ただ、ウィリアムの罵詈雑言の対象である、チキントラスとカルトネの反応は冷ややかなものであった。言葉とは、人と関係を持ち、またそれを円滑化する為の道具である。故に中身のないただ人を蔑如するだけの音は言葉でなく、そしてそれを操る者は人ではない。その考え方に基づいて【グリフォン】が行っているのは、無視。関与を諦め能動的接触を避ける事で事態を沈静化させる狙いである。
良好な関係を築こうと奮闘したのはもう過去の話。チキントラスはウィリアムに目線すら向けず、フィリップが買ってきたスポーツドリンクを手に取り、嘴に伝わせるようにして喉に流していく。カルトネも受け取ったスポーツドリンクをグビグビと飲んでいるが、彼女の無視はチキントラス以上に本格的。目を合わせないのは同様だが、顔も体もウィリアムとは真反対に向いており、更には前に歩き出して距離まで離す。
「オイ ! なんとか言えよ臆病者共 ! ダッセェなぁアホ ! 」
【グリフォン】の無視を言い返せないのだと都合よく解釈したウィリアムは、更に罵言を追随させ、理想の反応を引き出そうと試みる────
「うぅぅぅぅぅるぅぅぅぅぅぅぅせぇぇぇぇぇぇぇぞ!!妹の誘いカスみたいな理由で突っぱねた冷笑隠キャ!!キショイんだよその面構え!!そのくせしてゲームをじろじろ観戦してんじゃねぇぇぇぇぇよ!!!殺すぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
どうやら認識に誤りがあったらしい。思いっ切り声に出したいくらいに、カルトネは心底キレていた。
カルトネの罵声はウィリアムめがけて───というわけではなく、真反対の方向にある美しい青空を見据えながら放たれていた。
「えっ………ちょ………何してんスか………!?」
「だって…………顔つき合わせて文句言ったらモメるでしょ?」
「冷静なのかそうでないのかよくわかんないッスね……………」
カルトネの対応は中々アホみたいなそれであったが、案外効果は覿面。ウィリアムは呆気に取られて何も言えなくなってしまった。
興に流されやすい事、それはできれば長所と呼びたい私の特徴です。尤も、無職転生読んでたら5:00AM〜なんてやってる現状では紛うことなき短所なんですが………
続きは明日投稿します。




