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一章 四話

医療区画の照明は、少しだけ柔らかかった。


白すぎない光が、ベッドの周りを包んでいる。機械音は小さい。

壁際の端末には、患者名の代わりに仮登録番号だけが表示されていた。

けれど、医療区画の表示にはまだ出ていない。


本人確認も、保護手続きも、正式な検査分類も、まだ終わっていなかった。

イルルはベッドの上で、上半身だけを少し起こしていた。


医療用の薄い掛け布を膝までかけ、両手はその上に置いている。顔色は悪い。

だが、救助された直後に比べれば、呼吸は落ち着いていた。


ベッドの脇には、シェスターがいた。

椅子に座っているわけではない。

壁に背を預け、腕を組み、いつでも動ける姿勢で立っている。

監視と言えば監視だった。付き添いと言えば、付き添いでもあった。


イルルは何度か彼を見た。

そのたびに、少しだけ視線を落とす。


「……ずっと、そこにいるんですか」


「いる」


シェスターは短く答えた。


「見張り、ですか」


「そういうことになってる」


イルルの肩が、わずかに縮こまる。

シェスターはすぐに言い直した。


「付き添いでもある」


「どっちですか」


「両方」


「……そうですか」


イルルはそれ以上、聞かなかった。


医療担当の女性が、端末を持ってベッドの横へ来る。声は穏やかだった。

フィリアが最初にこのシェルターへ来た時と同じように、

必要以上に不安を煽る言葉は使わない。


「イルルさん、今から簡単に状態を説明しますね」


イルルは小さく頷く。


「はい」


「まず、大きな外傷は多くありません。出血も止まっています。

 骨に明確な損傷も、今のところ見つかっていません」


イルルの表情が、ほんの少しだけ緩む。

だが、医療担当は続けた。


「ただ、見た目より体の消耗が大きいです。

 かなり無理を重ねていたようですから、今日は安静にしてください」


「……私は、大丈夫です」


シェスターがすぐに口を挟む。


「それ、信用しねえ言葉ランキング上位だぞ」


イルルが少しだけ眉を寄せる。


「ランキングがあるんですか」


「俺の中にはある」


「……そうですか」


医療担当が小さく笑った。


「シェスターさんの言い方は少し乱暴ですが、内容は合っています。

 今は大丈夫に見えても、体力はかなり落ちています。

 水分と食事を少しずつ取って、今日は休みましょう」


「でも」


イルルは掛け布の端を握る。


「私より、他の人を」


「今はイルルさんの番です」


医療担当は静かに言った。


「ここでは、必要な人に必要な処置をします。

 順番を遠慮しなくて大丈夫です」


イルルは口を閉じた。

けれど、納得した顔ではなかった。


「……すみません」


シェスターが壁から背を離す。


「謝るな」


イルルは少し驚いたように彼を見た。


「でも、治療に手間を」


「怪我人の仕事は謝ることじゃねえ」


シェスターは言った。


「治ることだ」


イルルは、また言葉を失った。

医療担当は端末を操作し、点滴の流量を確認する。


「追加の詳しい検査は、体力が戻ってから段階的に行います。

 今すぐ何か痛いところはありますか」


イルルは少し迷ってから、首を横に振った。


「ありません」


シェスターがじっと見る。

イルルは視線を逸らした。


「……少し、だるいだけです」


「それも言え」


「言いました」


「最初から言え」


「……はい」


医療担当はそのやり取りを見て、

イルルの枕元に小さな水分補給用のボトルを置いた。


「まずはこれを少し飲んでください。全部飲まなくていいです。少しずつで」


イルルは両手でボトルを持つ。

その動きは慎重だった。

まるで、何かを壊さないようにしているようだった。


「この後、少し眠れるようなら眠ってください。

 シェスターさんは近くにいます。何かあれば呼んでください」


「……はい」


医療担当がベッドから離れる。

シェスターはまた壁際に戻った。

イルルはボトルを持ったまま、しばらく黙っていた。


「どうして」


小さな声だった。

シェスターは視線だけを向ける。


「何が」


「どうして、そこまで」


「助けたからだ」


「それだけですか」


「今は、それだけで十分だろ」


イルルは答えなかった。

ボトルの口を少しだけ傾け、水分を飲む。

それから、ぽつりと言った。


「私を助けると、困ることになります」


「その話は戻ってから聞くって言った」


「もう戻ってきました」


「じゃあ、治ってから聞く」


「……ずるいです」


「レスキューはずるいんだよ」


シェスターは平然と言った。


「生きてる方に話を持っていく」


イルルはボトルを握ったまま、少しだけ目を伏せた。

返す言葉が見つからないようだった。

しばらくして、医療区画の自動扉が静かに開いた。


リヴァルが入ってくる。

その後ろにはフィリアもいた。


フィリアは医療区画の入口で一度足を止め、

イルルの様子を見てから、ゆっくりと近づく。


「体調はどうかな」


リヴァルが尋ねた。

イルルは少し身を固くする。


「大丈夫です」


シェスターがリヴァルを見る。


「信用しなくていいぞ」


「分かっている」


リヴァルはさらりと答えた。

イルルが困ったように二人を見る。

フィリアはベッドのそばで、小さく頭を下げた。


「イルルさん。フィリアです」


「……フィリア、さん」


「はい。さっき、オペレーション室で搬送を見ていました」


イルルの顔に、かすかな緊張が戻る。


「迷惑をかけました」


「迷惑ではありません」


フィリアはすぐに言った。

その言い方が思ったよりも強かったのか、イルルが目を上げる。

フィリア自身も少し驚いたように瞬きをした。

それから、声を少し柔らかくする。


「少なくとも、私はそう思いません」


イルルは何も言えなかった。

リヴァルはベッド脇の端末を確認し、

医療担当から最低限の報告だけを受ける。


「今日のところは安静。追加検査は明日以降。

 本人への説明も、その段階で行う」


医療担当が頷く。


「はい」


イルルが不安そうに顔を上げた。


「まだ、何かあるんですか」


リヴァルはすぐには答えなかった。

情報を隠すためではない。

ただ、渡す順番を間違えないために、言葉を選んでいた。


「確認したいことはいくつかある」


彼は言った。


「でも、今すぐ君に背負わせる話ではない。

 今日は休むことを優先してほしい」


「でも」


「必要なことは、きちんと説明する」


リヴァルの声は穏やかだった。


「ただし、今ではない」


イルルは唇を結んだ。

納得したわけではない。

けれど、リヴァルの言葉に強引さはなかった。


シェスターが言う。


「寝ろってことだ」


「言い方」


フィリアが小さく注意する。


「分かりやすいだろ」


「分かりやすいですけど」


イルルはそのやり取りを見て、ほんの少しだけ目を伏せた。

笑ったわけではない。

けれど、さっきより肩の力が抜けていた。

リヴァルは医療担当へ視線を向ける。


「別室で詳細を聞く」


「準備しています」


「シェスター」


リヴァルが呼ぶ。

シェスターは顔を上げた。


「君はここに残って」


「俺は聞かなくていいのか」


「今はね」


リヴァルははっきりと言った。


「君の役割は、彼女を一人にしないことだ」


シェスターは一瞬だけ黙る。

それから、短く頷いた。


「了解」


リヴァルとフィリア、医療担当が医療区画を出る。

扉が閉まる直前、イルルが小さく言った。


「……どうして、残るんですか」


シェスターは椅子を引き寄せ、今度はそこに腰を下ろした。


「一人にしないことが、俺の役割らしい」


「命令だからですか」


「命令でもある」


「それだけですか」


シェスターは少し考えた。


「それだけにしといた方が、お前が楽ならそうする」


イルルは黙った。

ボトルを持つ手に、少しだけ力が入る。


「……分かりません」


「今はそれでいい」


シェスターは背もたれに体を預ける。


「分かるまで寝ろ」


「また、それですか」


「便利なんだよ。寝ろは」


イルルはそれ以上反論しなかった。

ベッドの上で、少しだけ体を横にする。


シェスターは黙って視線を外した。

眠れ、と言ったのに見張り続けるのは、たぶん眠りづらい。

だから彼は、わざと医療区画の壁に貼られた注意書きを眺めた。


イルルはそれに気づいたのか、気づかなかったのか。

やがて、呼吸が少しずつ深くなった。


別室には、医療区画とは違う硬い光が灯っていた。

中央の卓上に、イルルの検査データが表示されている。

リヴァルは腕を組み、画面を見ていた。


フィリアはその少し後ろに立っている。

自分がここにいていいのか迷うような顔をしていたが、

リヴァルは何も言わなかった。


医療責任者が説明を始める。


「まず、マギアス反応はあります」


フィリアの手が、わずかに握られる。

リヴァルは表情を変えない。


「深度は」


「軽微です。少なくとも、一般的な暴走個体の数値ではありません。

 現段階では、暴走安定中なのか、適応型なのか判断できません」


「暴走兆候は」


「ありません。攻撃性の上昇、意識混濁、外部マナへの過剰接続、

 いずれも確認されていません」


リヴァルは頷いた。


「なら、反応ありというだけで隔離強度を上げる必要はない」


「はい。ただし観察は必要です」


「続けて」


医療責任者は次のデータを表示する。

全身状態。

筋肉。神経。内臓負荷。マナ循環路。

画面上のいくつもの項目に、注意表示が並んでいた。


「見た目では、そこまで重症には見えません」


医療責任者は言った。


「ですが、実際にはかなり悪い状態です。

 全身に長期にわたるダメージが蓄積しています。

 筋肉と神経の疲労、内臓への負荷、睡眠不足、

 栄養不足、マナ循環路の過使用。短期間の戦闘負傷ではありません」


フィリアは息を呑んだ。


イルルは、さっき「大丈夫です」と言った。

でも、その大丈夫は本当ではなかった。


「外傷が少ない理由は?」


リヴァルが尋ねる。

医療責任者は少し間を置いた。


「彼女のマナセットによるものと考えられます。

 詳細はまだ不明ですが、損傷を表面化する前に塞いでいる、

 あるいは炎症や出血を抑え込んでいる可能性があります」


「回復型?」


「そう取ることもできます。ただし、完全な回復ではありません。

 むしろ、損傷を抱えたまま動ける状態にしている印象です」


「治しているのではなく、持たせている」


「近いです」


リヴァルは画面を見つめた。


「本人は、その状態に慣れている?」


「可能性は高いです。痛みや消耗を正確に申告できていません。

 本人の中では、これが日常化しているのかもしれません」


フィリアの胸が少し重くなる。

大丈夫だと言ったイルルの声が、耳に残っていた。

あれは嘘ではなかったのかもしれない。


彼女にとっては、本当に大丈夫の範囲だった。

それが、むしろ怖かった。

医療責任者がさらに続ける。


「それと、触媒なしで体内マナを循環させています」


リヴァルの視線が動いた。


「触媒なしで?」


「はい。ハンマーアーツデバイスは破損しているため、

 現在は接続していません。それでも体内に安定した循環があります」


フィリアは思わず口を開いた。


「それは、マナセットを自分で使えているということですか」


医療責任者はフィリアを見る。


「そう考えられます。あなたのライトとは別の形ですが、

 体内でマナを回し、必要に応じて外へ出すことができる。

 かなり高い適応状態です」


リヴァルが言う。


「フィリアの訓練にも参考になるかもしれない」


フィリアは驚いてリヴァルを見た。


「私の、ですか」


「同じではない。でも、触媒に頼らず体内循環を成立させている例は貴重だ」


リヴァルは画面を切り替える。

イルルの反応波形。

まだ荒い解析結果しかない。

けれど、そこには明らかに水の流れに似た波があった。

強く打ち出すのではなく、巡り、冷まし、満たすような波。


「本人がこの力をどう呼んでいるかは、まだ確認していません」


医療責任者が言う。


「ただ、マナセットとしては水系統、

 あるいは雨に近い性質があるかもしれません」


リヴァルは小さく頷く。


「本人へは、まだ詳細を伝えない」


フィリアがリヴァルを見る。

リヴァルは続けた。


「マギアス反応という言葉を、今の彼女にそのまま渡す必要はない。

 隠すわけではないよ。けれど、恐怖だけを先に渡しても意味がない」


「はい」


医療責任者が頷く。


「本人には、体の消耗が大きいこと、安静が必要なこと、

 追加検査を行うこと。それだけを伝えます」


「シェスターにも?」


「現時点では、同じ範囲で十分だと思います」


リヴァルは少し考えた。


「そうだね。彼には監視という名目を与えているけれど、

 実際には付き添いの役割が大きい。

 余計な情報で彼の態度が変わるのはよくない」


フィリアは静かに頷いた。

シェスターなら、知っても態度を変えないかもしれない。

でも、知らないまま見てくれる方がいいこともある。

検査結果ではなく、イルル本人を見るために。


リヴァルは最後に、破損したハンマーアーツデバイスの画像を表示した。

細身の両口ハンマー。

片側の打撃部が欠け、内部の触媒が損傷している。


「武器は?」


医療責任者ではなく、横に控えていた整備担当が答える。


「回収済みです。かなり損傷していますが、修復は可能です。

 ただ、触媒部の再調整には時間がかかります」


「急がなくていい。まずは安全確認」


「了解しました」


フィリアは画像のハンマーを見た。

イルルが手を伸ばしていたもの。

シェスターが織葉に回収させたもの。

あれはきっと、ただの武器ではない。


リヴァルがデータを閉じる。


「保護を継続する。分類は保留。隔離ではなく、医療観察対象として扱う」


医療責任者が頷く。


「記録します」


「それと、避難民区画へ出る時は、シェスターを同行させて。

 本人の精神状態も見たい」


「分かりました」


フィリアは少しだけ不安そうに尋ねた。


「イルルさんは、ここにいて大丈夫なんですよね」


リヴァルはフィリアを見た。

その問いに、簡単な答えはなかった。


マギアス反応はある。

体は壊れかけている。

本人は助けを拒んだ。

マギアス軍は彼女を回収対象と呼んだ。

それでも。


「今のところ、彼女を外へ出す理由はない」


リヴァルは言った。


「そして、ここで守る理由はある」


フィリアは少しだけ息を吐いた。


「はい」


別室の画面には、まだイルルの反応記録が残っていた。

マギアス反応あり。深度、軽微。暴走兆候なし。

分類、保留。


その文字だけを見れば、危険な存在に見えるのかもしれない。

けれど医療区画では今、イルルが眠ろうとしている。

そのそばに、シェスターがいる。


まだ何も知らないまま。

ただ、救助した少女を一人にしないために。


翌日、シェスターは探索任務から外された。


理由は、はっきりしている。

イルル・アースフィアの付き添い。

表向きには監視。実際には保護と様子見。


本人にそう伝えるとまた余計なことを考えそうだったので、

シェスターは細かい説明をしなかった。

ただ医療区画の壁際に立ち、イルルが起きれば水を取らせ、

歩く時は少し後ろをついていき、

何か言いたそうにすれば先に「無理すんな」と言った。


イルルはそのたびに困った顔をした。


「……シェスターさんは、任務に行かなくていいんですか」


「今日はこっちが任務だ」


「私のせいで」


「そこまで言ってねえ」


「でも」


「でも禁止」


イルルは口を閉じた。

少しだけ不服そうだった。

その反応が出るくらいには、昨日より顔色が戻っている。


完全ではない。

むしろ医療担当の判断では、しばらく安静が必要な状態だった。

だが、イルル本人の中では、動けるなら大丈夫、という線引きらしい。


シェスターはそこを信用していなかった。


「ガイさんたちは、もう出たんですか」


「出るところだな」


医療区画の外、通路のモニターに出撃準備中のメンバーが映っていた。

今日の探索班は、ガイ、リオン、織葉の三人。

紫乃は待機側に回っている。

織葉がカタナアーツデバイスを確認しながら、

通信端末ではなく通路越しにこちらへ手を振った。


「シェスター殿。イルル殿のこと、お願いいたします」


「お前に言われると変な感じだな」


「なぜですか」


「いや、なんとなく」


ガイが大型センサーを担ぎ、少しだけ顔をしかめる。


「今回は持って帰るからな」


リオンが淡々と言った。


「それは通常業務です」


「分かってる。分かってるが、最近みんな俺に厳しくないか」


「ガイ殿、武具と機材を大切に扱うのは当然です」


織葉が真顔で言う。


「三方向から来るな」


ガイはそう言って、肩のセンサーを担ぎ直した。

シェスターは軽く手を上げる。


「気をつけろよ」


「そっちもな」


ガイが返す。

リオンは短く会釈した。


「何かあれば連絡します」


「おう」


三人が通路の向こうへ消えていく。

イルルはその背中を見送っていた。

行きたい、と言うわけではない。

けれど、ただ保護されているだけでいることに、

落ち着かなさを感じているようだった。


シェスターはそれを見て、少しだけ息を吐く。


「立ってるだけで疲れるなら戻るぞ」


「疲れていません」


「信用しねえ言葉ランキング、まだ上位だ」


「昨日も聞きました」


「便利だからな」


イルルは何か言い返そうとして、やめた。

その時、通路の向こうから紫乃が歩いてきた。

いつものようにゆったりした足取りで、

だが片手には厨房用のエプロンを持っている。


「あら、ちょうどよかったわ」


シェスターが眉を上げる。


「何がだ」


「厨房の人手が足りないんですって。

 調理補助の子が一人、熱を出しちゃったみたいで」


「それでなんで紫乃さんがエプロン持ってんだよ」


「頼まれたからよ」


紫乃はにっこり笑った。


「私、こう見えてちゃんと主婦してるんだから」


「こう見えて、の部分いるか?」


「いるわよ。意外性って大事でしょ」


シェスターは返事に困った。

紫乃はイルルへ視線を移す。


「イルルちゃん、少し歩ける?」


イルルは背筋を伸ばす。


「はい。大丈夫です」


シェスターが横から言う。


「信用するな」


紫乃は笑った。


「じゃあ、ゆっくり歩ける?」


イルルは少しだけ考えてから頷いた。


「それなら」


「いい子ね。厨房まで一緒に来ない?

 立っているのがつらくなったら、すぐ座ればいいわ」


「厨房、ですか」


「そう。今日のごはんを作るの」


イルルは戸惑うようにシェスターを見た。

シェスターは肩をすくめる。


「俺を見るな。厨房は専門外だ」


紫乃がすぐに頷く。


「シェスターくんは皿運びね」


「まだ何も言ってねえ」


「包丁、普段から使う?」


「必要なら」


「そういう答えをする人は、今日は皿運びよ」


イルルが少しだけ目を瞬かせた。

笑ったわけではない。

けれど、昨日よりずっと普通の表情だった。


厨房は、医療区画より少しだけ賑やかだった。


避難民向けの食事を用意する場所なので、

完全な業務区画というより、生活の匂いがある。

大きな鍋が並び、野菜を洗う音、食器を揃える音、

配給担当者の声が重なっている。


配給担当の女性が、紫乃を見るなりほっとした顔をした。


「ありがとうございます、紫乃さん。助かります」


「いいのよ。待機中だもの」


「今日の避難民メニューで使える材料は、こちらです」


配給担当は端末を開き、在庫リストと献立予定を表示した。


「主食は穀物粥とパン代替。主菜は豆と野菜の煮込み予定です。

 使える野菜はナス、トマト、葉物、玉ねぎ、少量の香味野菜。

 ニンニクはこの範囲なら使えます。

 油は代替油が基本で、オリーブ系のものは少量だけ」


紫乃は画面を指で流しながら頷く。


「ナス、あるのね」


「水耕区画の収穫が安定してきたので、今日は少し多めに出せます」


「トマトも?」


「はい。ただ、医療食分を先に確保しているので、この箱までです」


「分かったわ」


紫乃はイルルの方を見た。


「イルルちゃん。この中で、見覚えのある食材はある?」


イルルは少し戸惑いながら、端末のリストを見た。


「……ナス」


「いいわね」


「トマトも、使います」


「うん」


「玉ねぎと、ニンニクも」


紫乃の目が楽しそうに細くなる。


「もっといいわねえ」


シェスターが横から言う。


「何を作る気だ」


「聞いてるところよ」


紫乃はイルルに視線を戻した。


「イルルちゃんの国は、どんな料理なのかしりたいわぁ」


イルルの手が少しだけ止まった。


国。

その言葉に、何かが引っかかったようだった。


けれど、紫乃は急かさない。

配給担当も、端末を持ったまま静かに待っている。


イルルはしばらく黙っていた。

やがて、小さな声で言う。


「ナスに、トマトと玉ねぎを詰める料理があります」


「詰めるの?」


「はい。ニンニクを使って、油で煮るようにします。

 家では、もっと油が多かったですけど」


「名前は?」


イルルは少しだけ迷ってから言った。


「イマム・バユルドゥ」


シェスターが首をひねる。


「何だって?」


「イマム・バユルドゥ、です」


紫乃が楽しそうに繰り返す。


「イマム・バユルドゥ。意味はあるの?」


イルルは目を伏せた。


「坊さんの気絶、という意味だと聞いています」


シェスターの動きが止まった。


「なんで飯の名前で坊さんが倒れてんだよ」


紫乃が笑う。


「美味しすぎて気絶したのかしらねえ」


「それなら平和だな」


イルルは少しだけ、ほんの少しだけ口元を緩めた。

それはすぐに消えたけれど、シェスターは見逃さなかった。

紫乃は配給担当へ向き直る。


「この材料で、その料理を一品入れてもいいかしら。

 全員分の主菜にするほどじゃなくて、付け合わせ寄りにするわ」


配給担当はリストを確認する。


「ナスは使えます。トマトはこの箱の半分までなら。

 ニンニクは……この量まででお願いします。

 子供区画にも出すので、香りは強すぎないように」


イルルが思わず言った。


「ニンニクは、多い方が」


配給担当が少し困った顔をする。

紫乃が肩を揺らして笑った。


「分かるわぁ。

 でも今日は、シェルター全体をニンニクで制圧しない程度にしましょうね」


イルルははっとしたように口を閉じる。


「すみません」


「謝らなくていいのよ。好みがあるのはいいことだもの」


紫乃は配給担当に確認する。


「油は?」


「代替油なら使えます。オリーブ系は、この小瓶一本の半分までで」


「十分よ。ありがとう」


「辛味はなしでお願いします」


「ええ。今日は香りで勝負ね」


紫乃はイルルにエプロンを一枚差し出した。


「座りながらでいいから、作り方を教えてくれる?」


イルルはエプロンを見た。

それから、紫乃を見る。


「私が、ですか」


「そう。おばさん、知らない料理は作れないもの」


「でも」


「でも禁止」


シェスターが言った。

イルルがそちらを見る。


「それ、シェスターさんの言葉ですよね」


「便利だろ」


紫乃は楽しそうに頷いた。


「便利ねえ」


イルルは少しだけ困ったような顔をした後、エプロンを受け取った。

紫乃はすぐに作業の段取りを組んだ。


ナスは大きさを揃え、切り込みを入れる。トマトと玉ねぎは細かく刻む。

ニンニクは配給担当が許可した量だけを取り分ける。

葉物は別に洗って、酸味のある付け合わせに回す。

主食の粥とパン代替は予定通り進める。


イルルは最初、手を出していいのか分からないようにしていた。


だが、紫乃が何度か「この切り方で合ってる?」と聞くうちに、

少しずつ口数が増えた。


「もう少し、薄く」


「こう?」


「はい。火が通りやすくなります」


「トマトは?」


「潰しすぎない方がいいです。少し形が残るくらいで」


「ニンニクは?」


イルルは一度、配給担当を見た。

配給担当は苦笑しながら、小皿を指した。


「その分までです」


「……はい」


「残念そうねえ」


紫乃が言う。

イルルは小さく首を横に振った。


「いえ」


「嘘が下手ね」


シェスターは厨房の入口近くで、食器の入ったかごを持たされていた。


「俺、本当に皿運びなんだな」


配給担当が申し訳なさそうに言う。


「助かっています」


「いや、いいけどよ」


紫乃が振り返る。


「シェスターくん、時短飯以外で得意料理ある?」


「焼く」


「何を?」


「あるもの」


「やっぱり皿運びね」


イルルが手元のナスを見ながら、小さく言った。


「海から戻った後は、何でも美味しかったです」


シェスターがそちらを見る。


「海?」


イルルは一瞬だけしまった、という顔をした。

けれど、紫乃は自然に続きを促す。


「あら、海の近くなのね」


「……はい」


イルルはナスに詰め物をしながら言った。


「家が、漁をしていました。私は、仕掛けの補修を手伝ったり、潜ったり」


「潜るって、海にか」


シェスターが聞く。

イルルは小さく頷く。


「浅いところだけです。貝を取ったり、網を外したり。

 岩にぶつかったり、魚に叩かれたりするので、慣れます」


「魚に叩かれるのか」


「大きい魚は、強いです」


「そりゃそうか」


紫乃がナスを鍋に並べながら言う。


「だからイルルちゃん、見た目より体力があるのねえ」


「そんなには」


「謙遜しなくていいのよ。海で働く子は強いわ」


イルルは返事をしなかった。

けれど、否定もしなかった。


鍋に火が入る。

ニンニクと油の香りが立ち上がった。

それにトマトと玉ねぎの甘い匂いが混ざる。

イルルはその匂いを吸い込んで、ほんの少しだけ目を細めた。


それは、医療区画で見せた不安そうな顔とは違っていた。

遠くを見るような、でも少しだけ近くに戻ってきたような顔だった。


「うちでは」


イルルは気づかないうちに話し始めていた。


「父が、ニンニクは多い方がいいと言っていました。

 母は、入れすぎると近所に怒られるって」


紫乃は鍋を見ながら頷く。


「それはどこの家でも同じねえ」


「兄が、最後のナスをよく取って」


シェスターが言う。


「喧嘩か」


「喧嘩というか、母に怒られていました」


「兄貴が?」


「はい。私は潜った後だとお腹が空くので、

 父が私に食べさせようとして、それで兄が」


イルルはそこで言葉を止めた。

ふと、自分が喋りすぎたことに気づいたようだった。

厨房の音が、少しだけ遠くなる。

イルルは手元を見る。


「……すみません」


紫乃はすぐに言った。


「いいのよ」


「でも」


「ごはんの話をしてるだけだもの」


配給担当も、穏やかに頷く。


「料理の記録にもなります。助かりますよ」


シェスターはかごを持ったまま、何も言わなかった。

何か言えば、イルルがまた奥へ引っ込む気がした。

だから、ただそこにいた。


鍋の中で、ナスがゆっくり柔らかくなっていく。

予定していた避難民メニューに、イルルの故郷の料理が少しだけ加わった。

完全な再現ではない。

油も、ニンニクも、使える量は決まっている。

トマトもシェルター産で、イルルの故郷のものとは違う。

それでも、料理は形になった。


食堂には、夕方前から人が集まり始めた。

避難民たちは配給の列に並び、順番に皿を受け取っていく。

穀物粥、豆と野菜の煮込み、葉物の付け合わせ。

そして、少量ずつ添えられたナスの料理。

香りに気づいた子供が、鼻を動かした。


「今日、いい匂いする」


配給担当が笑う。


「新しい料理ですよ。辛くはないので大丈夫です」


紫乃は列の横で、配膳を手伝っていた。

イルルは少し離れた席に座っている。

シェスターはその向かい。

食堂の入口とイルルの様子が同時に見える位置を、自然に選んでいた。


イルルの前にも、同じ皿が置かれている。

彼女はしばらく、それを見ていた。

シェスターが言う。


「食わねえのか」


イルルは首を横に振った。


「食べます」


そう言って、スプーンを取った。

ナスを小さく切り、口へ運ぶ。

少しだけ噛む。飲み込む。


それから、すぐに二口目を取った。

シェスターが少し驚いた顔をする。


「お前、ちゃんと食うんだな」


イルルは皿から目を離さないまま言った。


「これは、食べます」


「そうかよ」


「シェスターさんの分は、あるんですか」


「俺の心配か」


イルルは真面目な顔で頷いた。


「これ、少ないと喧嘩になります」


紫乃が隣の席に皿を置きながら笑った。


「大丈夫。配給担当さんに怒られない範囲で、多めに作ったわ」


配給担当が通りかかりに言う。


「範囲内なら怒りません」


シェスターは皿を受け取った。


「組織的だな」


「料理も配給も組織で回していますから」


配給担当は少し誇らしそうに言った。


「一食ずつ、ちゃんと計算しています」


イルルはその言葉を聞いて、食堂を見た。


列に並ぶ人。

皿を受け取る子供。

席を譲る老人。

手伝う職員。

食べながら笑う避難民たち。


ここには、生活があった。

逃げてきた人たちの場所。

壊れた世界の中で、

それでも食事を作り、分け、同じ場所で食べる人たちの場所。


イルルは自分の皿へ視線を戻す。

ナスの味は、完全に同じではなかった。

油の香りも、ニンニクの強さも、故郷のものとは違う。

けれど、似ていた。


二年前まで、当たり前だったものに。


「……似ています」


小さく言った。

シェスターが聞き返す。


「何に」


「家の味に」


その言葉は、思ったよりも素直に出た。

イルル自身が一番驚いた顔をする。

紫乃は何も言わず、ただ自分の皿を少しだけ持ち上げた。


「なら、作ったかいがあったわ」


食堂の端で、子供がナスを食べて目を丸くした。


「これ、なに?」


配給担当が答えようとすると、イルルが先に口を開いていた。


「ナスの料理です」


子供がイルルを見る。


「名前は?」


イルルは少しだけ迷った。

でも、答えた。


「イマム・バユルドゥ」


子供は当然のように首をかしげる。


「なにそれ」


シェスターが言う。


「坊さんの気絶だとよ」


子供の目がさらに丸くなる。


「坊さん、倒れるの?」


紫乃が笑った。


「美味しすぎて、かもしれないわね」


子供は少し考えたあと、もう一口食べた。


「じゃあ倒れないようにゆっくり食べる」


食堂の近くで、小さな笑いが起きた。


イルルはそれを見ていた。

自分の料理の名前で、誰かが笑っている。

怖がるのではなく。

避けるのではなく。

ただ、今日の食事の話として。


イルルはスプーンを握り直した。

シェスターはその横顔を見ていた。

昨日、彼女は「助けないで」と言った。

「関わらないで」と言った。

けれど今は、避難民の食卓の中に座っている。


完全に馴染んでいるわけではない。

まだ肩に力は入っている。

逃げ出しそうな気配も、消えてはいない。

それでも、イルルは食べていた。


自分の故郷の料理を。

シェルターの人たちと同じ食卓で。


「おかわり、いるか?」


シェスターが聞いた。

イルルは一瞬だけ迷った。

それから、皿を見て、小さく頷く。


「……少しだけ」


シェスターは立ち上がる。


「少しな」


紫乃が横から言った。


「シェスターくんの少しは信用していいのかしら」


「皿運びは任されたからな」


「盛りすぎたら配給担当さんに怒られるわよ」


「分かってる」


配給担当が遠くから声をかけた。


「ちゃんと見ていますよ」


シェスターは肩をすくめた。


「組織的だな、ほんと」


イルルは、そのやり取りを聞きながら、もう一口料理を食べた。


温かい。懐かしい。


少しだけ違う。

でも、今はそれでよかった。

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