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一章 五話

食堂のざわめきの中で、イルルは初めて、ここで食事をした。

食事の後、イルルはすぐに医療区画へ戻らなかった。

戻らなければならない、と思っていた。


けれど、配給担当が食器の片づけを始め、紫乃が残った食材の確認をし、

避難民たちがそれぞれの席で食後の時間を過ごしているのを見ているうちに、

立ち上がるタイミングを失っていた。


シェスターは何も言わなかった。

帰れとも、休めとも、ここにいろとも言わない。

ただ、イルルが見える位置に座っていた。

それがかえって、イルルを少しだけ安心させた。

食堂の端で、さっきの子供が皿を持ったままこちらを見ている。


「坊さんの気絶の子だ」


イルルは動きを止めた。

シェスターが吹き出しそうになる。


「妙な覚えられ方したな」


「……私の名前ではありません」


「じゃあ名乗ればいいだろ」


イルルは少し困った顔をした。

子供は遠慮なく近づいてくる。


「お姉ちゃん、あの料理作ったの?」


「紫乃さんと、配給担当の方が作りました。

 私は、作り方を少し言っただけです」


「おいしかった」


イルルは返事に迷った。

ありがとう、と言っていいのか分からなかった。


自分が褒められているのか、料理が褒められているのか、

それとも故郷の何かが褒められているのか、うまく分けられなかった。


紫乃が横から助け舟を出す。


「そういう時は、ありがとうでいいのよ」


イルルは紫乃を見て、それから子供へ視線を戻した。


「……ありがとうございます」


子供は満足したように頷いた。


「また食べたい」


イルルは少しだけ目を伏せる。


「材料があれば」


「ニンニク多いやつ?」


シェスターが聞く。

子供は大きく頷いた。


「におい強いやつ」


配給担当が遠くからすぐに言った。


「シェルター全体をニンニクで制圧するのは禁止です」


紫乃が笑う。


「ほら、怒られたわ」


「まだ作ってねえだろ」


シェスターが言う。

食堂の空気は軽かった。

イルルは、その中にいることが少し不思議だった。


昨日まで、彼女は担がれていた。

敵の腕の中で、荷物のように運ばれていた。

その前は、逃げていた。

もっと前は、家のことを考えないようにしていた。

なのに今は、避難民の子供が料理の話をしている。


「お姉ちゃん」


子供がもう一歩近づく。


「名前、なに?」


イルルは一瞬だけ迷った。

名前を言うことに、まだ少し怖さがあった。


けれど、昨日シェスターの背中で言った名前は、もう記録されている。

ここで言わなかったからといって、何かが変わるわけではない。


「イルルです」


「イルルお姉ちゃん」


子供はすぐに言った。

イルルは胸の奥が少しだけ詰まる。

その呼び方は、予想していなかった。


「……はい」


小さく返事をした時だった。

子供が後ろを向いた拍子に、近くを通った別の避難民とぶつかった。

食器を重ねたトレイが傾く。

配給担当が「あ」と声を上げる。

トレイの端が子供の手に当たり、軽い音を立てて床へ落ちた。


割れはしなかった。

だが、子供は手を押さえて固まった。

数秒遅れて、泣き声が出る。


「いたい」


シェスターが立ち上がった。

紫乃も動きかける。

だが、一番早かったのはイルルだった。

彼女は椅子から立ち、子供の前に膝をつく。


「手を見せてください」


子供は泣きながら手を出した。

掌の端が切れている。


深い傷ではない。

だが、血がにじみ、子供にとっては十分に怖い怪我だった。

イルルはその手を両手で包み込む。


「すぐ、痛くなくなります」


シェスターが少しだけ目を細めた。


「イルル」


止める声ではなかった。

確認する声だった。

イルルは彼を見なかった。


指先から、細かな霧が生まれる。

水滴よりも小さく、煙よりも重い。

薄い雨のようなマナが、子供の手を包んだ。


血が薄くにじむ。

霧が傷口の表面を洗い、熱を取る。

子供の泣き声が、少しずつ小さくなった。


「冷たい」


「少しだけ我慢してください」


イルルの声は穏やかだった。

昨日の怯えた声とも、食事の時の戸惑った声とも違う。

何度も同じことをしてきた人間の声だった。


霧が傷口に集まる。

水の膜が薄く張り、そこから淡い光がにじんだ。

開いていた皮膚が、ゆっくり閉じていく。


完全に何もなかったようになるわけではない。

けれど、血は止まった。

傷は塞がった。

子供は泣くのを忘れたように、自分の手を見つめている。


「……痛くない」


その言葉が出た瞬間、食堂の天井近くで警告音が鳴った。


短い音。

一度。二度。


壁際の表示灯が黄色に変わる。

自動音声が流れた。


マギアス反応を検出。


食堂の空気が一瞬で変わった。

さっきまで笑っていた避難民たちが、動きを止める。

何人かが反射的に立ち上がった。


「マギアス?」


「どこで」


「今の子?」


「下がって」


ざわめきが広がる。

イルルの手から、霧が消えた。

彼女は子供の手を離し、自分の指を引き込める。


「……ごめんなさい」


その声は、ほとんど音になっていなかった。

子供はまだ手を見ている。

避難民の一人が子供を引こうとした。

その前に、シェスターが間に入った。


「押すな」


声は大きくなかった。

だが、よく通った。


「全員、その場で止まれ。下がるなら一歩ずつだ。走るな」


避難民たちの足が止まる。

シェスターは食堂全体を見回した。


「怪我人の周りを空けろ。医療担当を通す。騒いで転んだら怪我人が増える」


「でも、警報が」


「警報は反応を拾っただけだ」


シェスターは即座に返した。


「今ここで誰かが襲われたわけじゃねえ。見てただろ。

 イルルはこの子の傷を塞いだ。悪化させたんじゃない」


イルルはうつむいたまま動かない。

紫乃が静かに子供のそばへ入り、手を確認した。


「血は止まってるわね。痛みは?」


子供は首を横に振る。


「痛くない」


「そう。じゃあ医療担当さんに見てもらいましょうね」


配給担当がすぐに医療区画へ連絡を入れる。

避難民のざわめきは、まだ完全には収まっていない。


怖がっている人もいる。

イルルを見ている人もいる。


その視線に気づいて、イルルの肩が小さく震えた。


「だから」


彼女は呟いた。


「言ったんです」


シェスターが振り向く。


「何を」


「私がいると、こうなります」


「違う」


シェスターは短く言った。

イルルは首を横に振る。


「怖がらせました」


「怖がったのは、知らねえからだ」


「でも」


「でも禁止」


イルルは言葉を詰まらせた。

シェスターは少しだけ声を落とす。


「お前は、怪我を塞いだ。俺は見てた。紫乃さんも見てた。

 怪我した本人も分かってる」


子供がこくこくと頷いた。


「痛くなくなった」


その声で、周囲のざわめきが少し弱くなる。

けれど、まだ警告灯は黄色のままだった。


食堂の扉が開く。

リヴァルが入ってきた。


白衣ではない。いつもの作戦室での服装のまま、端末を片手にしている。

急いできたのだろうが、息は乱れていない。

ただ、目だけはすぐに状況を見ていた。


イルル。子供。シェスター。紫乃。

避難民。表示灯。床に落ちたトレイ。

そして、子供の塞がった手。


「状況は」


リヴァルが聞く。

シェスターが答えた。


「子供が手を切った。イルルが塞いだ。その直後に警報だ」


「傷は?」


紫乃が子供の手を支えながら言う。


「塞がっているわ。応急処置としては十分ね。

 念のため医療担当に見せるけど」


リヴァルは頷き、表示灯の端末へ視線を送った。


「反応値は低位。継続反応なし。危険行動なし」


シェスターが少しだけ眉を上げる。


「ミッションのオペレートはいいのかよ」


「問題ない。フィリアに任せてある」


「いいのか」


「彼女には、僕が教えてきたからね」


シェスターは一瞬だけ黙った。

それから、少し微妙な顔をする。


「……そういう言い方するんだな、お前」


「事実だよ」


リヴァルは平然と答えた。

だが、それ以上フィリアの話はしなかった。

彼の視線は、すぐにイルルの手元へ戻る。


「今の処置は、君が?」


イルルは答えられなかった。

シェスターが言う。


「そうだ。俺も見てた」


リヴァルはイルルを責める目では見なかった。

観察している。

けれど、切り捨てるためではない。


「イルル」


彼は静かに言った。


「警報は間違っていない」


イルルの肩がさらに縮こまる。

周囲もまた少しざわついた。

リヴァルは続けた。


「ただし、警報が示したのは“マギアス反応に分類されるマナを検出した”という事実だけだ」


彼は食堂全体へ向けて言葉を選ぶ。


「危害が発生した、という意味ではない。

 暴走が起きた、という意味でもない」


避難民たちは黙って聞いていた。

まだ不安はある。

だが、リヴァルの声には妙な説得力があった。


「今ここで起きたことを整理する」


リヴァルは子供の手を見る。


「怪我が発生した。イルルが処置した。

 傷は塞がった。本人の痛みも下がっている」


子供が小さく頷く。


「はい」


リヴァルはまた食堂を見る。


「つまり、起きたのは攻撃ではなく治療だ」


その言葉で、空気が少し変わった。

怖がっていた人たちの視線が、イルルから子供の手へ移る。

子供は自分の手を広げた。


「ほんとに、痛くないよ」


隣にいた避難民が恐る恐る覗き込む。


「血、止まってる」


配給担当が医療担当を連れて戻ってきた。

医療担当はすぐに子供の手を見て、簡単な確認をする。


「傷口は閉じています。

 後で消毒と保護材を貼りますが、今の処置で問題ありません」


リヴァルは頷く。


「ありがとう」


それから、壁際の端末へ向かう。


「警報レベルを変更。危険警報ではなく、観測通知へ。

 避難民区画向け表示は“マナ反応確認中”。音声警告は停止」


配給担当が操作権限を確認する。


「はい、変更します」


黄色の表示灯が、ゆっくりと白へ戻った。

音が消える。

食堂に、普通のざわめきが少しずつ戻っていく。


完全に元通りではない。

何人かはまだイルルを見ている。

何人かは距離を取っている。


それでも、誰も走って逃げてはいなかった。

誰も、イルルを外へ出せとは言わなかった。

イルルは立ったまま、自分の手を見ていた。


「私」


声が震えている。


「また、迷惑を」


「違うって言ったろ」


シェスターが言う。


「でも、警報が」


「警報は反応を拾っただけだ」


「怖がらせました」


「怖がらせたのは、警報の鳴り方だ」


リヴァルが言った。


イルルが顔を上げる。


「君の力そのものではない」


リヴァルは続けた。


「ただし、次からは事前に知らせてほしい。

 こちらも表示と説明を整える。君の力を使うことと、

 周囲がそれを理解することは別の問題だから」


イルルは困惑したようにリヴァルを見る。


「使っても、いいんですか」


シェスターが先に答えた。


「使うなって話じゃねえ」


イルルは彼を見る。

シェスターは少しだけ乱れた食堂を見回し、それからイルルへ視線を戻した。


「次からは、先に俺を呼べ」


「止めるために、ですか」


「違う」


シェスターは即答した。


「使うなら、騒ぎになる前に俺も横に立つ」


イルルは言葉を失った。

子供が紫乃に連れられて医療担当の方へ行きかけ、途中で振り返った。


「イルルお姉ちゃん」


イルルはびくりと肩を揺らす。

子供は包帯を巻かれる前の手を軽く上げた。


「ありがとう」


食堂の音が、また少しだけ遠くなった。

イルルは何かを言おうとした。

けれど、うまく出なかった。

代わりに、小さく頭を下げる。


「……はい」


返事としては、少し変だった。

でも、子供は満足したように頷いた。

紫乃が子供を医療担当へ促しながら、イルルへ優しく笑う。


「よかったわねえ」


イルルはまだ、戸惑っていた。

怖がられた。

警報が鳴った。

自分の力は、やはりここにいてはいけないものなのかもしれない。


それでも。

ありがとう、と言われた。


シェスターは、自分の横に立つと言った。

リヴァルは、警報の意味を変えようとしていた。

イルルは自分の指を握った。

指先には、もう霧はない。

けれど、さっき子供の傷を塞いだ感覚だけが残っている。


それは、誰かを傷つけた感覚ではなかった。

シェスターが隣に立つ。


「戻るか」


イルルは少しだけ迷った。

そして、首を横に振る。


「もう少しだけ」


シェスターは何も言わなかった。

ただ、頷いた。


食堂の中で、イルルはもう一度椅子に座った。

まだ全員が受け入れたわけではない。

まだ怖がる人もいる。


それでも、さっきまで空いていた彼女の周りの空間に、

子供が置いていった小さな「ありがとう」だけが残っていた。


食堂での警報からしばらくして、イルルは医療区画の検査室に戻された。

ただし、隔離ではなかった。


扉は閉ざされているが、警備員が立っているわけでもない。

イルルは検査台ではなく、低い椅子に座っている。

隣にはシェスターがいた。少し離れた壁際に紫乃。

リヴァルは医療担当と研究員の前に立ち、

食堂で記録された反応を確認していた。


外では、ガイ、リオン、織葉の探索任務が続いている。

本来なら、リヴァルはオペレーション室にいるべき時間だった。

けれど、食堂でマギアス反応警報が出た以上、

現場確認を後回しにはできなかった。


リヴァルの端末に通信が入る。


『リヴァルさん、こちらフィリアです。

 探索班、ポイント12外縁に到達。現時点で敵性反応なし。

 マナ濃度、低位安定です』


フィリアの声は落ち着いていた。

少し緊張はある。

けれど、焦りはない。

リヴァルは端末を耳元に寄せる。


「了解。映像とセンサー値は見えている。

 判断に迷ったら撤退優先。深追いはさせないで」


『はい。ガイさんにも共有済みです』


「ありがとう。しばらく任せる」


『任されます』


一拍置いて、フィリアは少しだけ真面目な声で続けた。


『こちらは大丈夫です。イルルさんの方をお願いします』


リヴァルはわずかに目を細めた。


「分かった」


通信が切れる。

彼の視線は、すぐにイルルへ戻る。


今は、目の前の少女の力を正しく見る必要があった。

リヴァルは最初に説明した。


「今から確認するのは、君を責めるためのものじゃない」


イルルは膝の上で手を握る。


「はい」


「さっきの力について知りたい

 何ができて、何ができないのか。

 どういう時に使ってきたのか。

 それが分かれば、次から警報の扱いも変えられる」


イルルはすぐには答えなかった。

シェスターが横から言う。


「言いたくないことまで今言う必要はねえよ」


リヴァルも頷いた。


「そう。答えられる範囲でいい」


イルルは少しだけ視線を落とし、それから言った。


「……レインです」


リヴァルが聞き返す。


「レイン」


「そう呼んでいました」


「君が?」


イルルは小さく頷く。


「はい」


研究員が端末へ入力する。

リヴァルはそれを確認してから言った。


「では、仮登録名はレイン。水属性系統のマナセットとして扱う。

 ただし詳細分類は保留」


「保留、ですか」


イルルの声に少しだけ不安が混じる。


「悪い意味ではないよ」


リヴァルは言った。


「分からないものに、急いで間違った名前をつけないためだ」



医療担当が、食堂で記録された映像を表示した。

イルルが子供の手を包み、霧雨のようなマナで傷を塞いだ場面。

イルルはその映像を見ると、少し気まずそうに肩を縮めた。


「今の処置だけど」


リヴァルが言う。


「これは、君にとって難しいこと?」


イルルは首を横に振った。


「小さい傷なら、できます」


「傷口を閉じる?」


「はい。血を止めて、熱を冷まして、皮膚を……その、合わせます」


シェスターが眉を上げる。


「合わせる」


「縫うみたいには、できません。

 でも、開いたところを押さえて、くっつくまで持たせることはできます」


医療担当が頷く。


「実際の処置結果とも合っています。

 完全治癒ではなく、応急閉鎖に近いですね」


イルルは少しだけ安堵したように見えた。

責められているのではなく、確認されている。

それが分かったのかもしれない。


リヴァルは続ける。


「自分にも使える?」


イルルはすぐに頷いた。


「はい」


「戦闘中に?」


「はい」


「どの程度?」


イルルはそこで困ったように黙った。

シェスターが口を挟む。


「答えづらいなら、やってたことだけ言え」


イルルは少し考える。


「……殴られたら、塞ぎます」


研究員の手が止まった。

シェスターが頭を押さえる。


「もうちょっと言い方あるだろ」


イルルは真面目に続けた。


「切られたら、血を止めます。熱くなったら冷やします。

 息が苦しくなったら、肺のあたりを冷やして、呼吸を整えます。

 足が動かなくなりそうなら、膝と足首に水を回します」


「水を回す?」


「レインを薄くして、体の周りに」


イルルは自分の腕を見た。


「水滴みたいにまとわせます。ずっとではありません。戦う時だけです」


紫乃が、そこで小さく息を漏らした。


「ああ、なるほどねえ」


シェスターが紫乃を見る。


「分かるのか」


「分かるというか、見えてきたわ」


紫乃はイルルを責めるでもなく、面白がるでもなく、静かに観察していた。


「イルルちゃん、あなた、呼吸をするみたいにマナアーツを使ってるのねえ」


イルルは少し驚いたように顔を上げる。


「呼吸、ですか」


「ええ。でも、器用に操ってる感じじゃないわ」


紫乃はゆっくりと言葉を選ぶ。


「傷が開いたら塞ぐ。熱が上がったら冷ます。息が切れたら持たせる。

 倒れそうになったら、もう少しだけ立てるようにする」


イルルは黙っていた。

紫乃の言葉は、妙に正確だった。


「それは、治療師の使い方というより」


紫乃は少しだけ目を細める。


「倒れずに殴り続けるための使い方ね」


シェスターがイルルを見た。

イルルは否定しなかった。


「……殴らないと、止まらなかったので」


その言葉だけで、部屋の空気が少し重くなる。

リヴァルはすぐには聞き返さなかった。

イルルは自分の手を握ったまま、続ける。


「ハンマーは、細かいことができる武器じゃありません。

 私も、細かいことはできません」


「それは自分で言うのかよ」


シェスターが言う。

イルルは真面目に頷く。


「はい」


「頷くな」


「でも、本当なので」


シェスターは何か言いかけて、やめた。

イルルは少しだけ困ったように、けれど嘘のない声で言った。


「避けるのも、あまり得意ではありません」


「そこは得意になれ」


「避けると、届かないので」


「届かせ方を覚えろ」


「はい」


返事だけは素直だった。

紫乃が口元に手を当てて笑う。


「不器用ねえ」


イルルは少しだけ肩を落とす。


「すみません」


「悪口じゃないわ」


紫乃は優しく言った。


「不器用だけど、鈍いわけじゃない。

 足は悪くないし、体の使い方も海で育った子って感じがするもの」


「海」


リヴァルが反応する。

イルルは彼を見る。


「家が、漁をしていました。

 私は、潜ったり、仕掛けを直したりしていました」


「だから、息が長い?」


「たぶん。水の中にいる時間は、長かったので」


医療担当が端末を見ながら頷く。


「肺活量と持久系の数値は高いです。

 筋力値は特別高くありませんが、疲労耐性がかなり高い」


シェスターが言う。


「力はないけど、倒れねえタイプか」


イルルは少しだけ考えてから答えた。


「重いものは、あまり持てません。でも、長く動くのはできます」


「やっぱりレスキュー向きだな」


「レスキュー、ですか」


「体力勝負だからな」


イルルは少し不思議そうな顔をした。

リヴァルが映像を切り替える。

破損したハンマーアーツデバイスの画像が表示される。


細身の両口ハンマー。

片側の打撃部は欠け、内部の触媒も損傷している。


「このハンマーは、レインを使うためのもの?」


イルルはすぐに首を横に振った。


「レインだけなら、なくても使えます」


「では、戦うための補助?」


「はい。殴るためです」


シェスターが小さく唸る。


「ほんとに真っ直ぐだな、お前」


「ハンマーなので」


「そうだけどよ」


イルルはハンマーの画像を見る。

その目つきが、少しだけ変わった。

怖がっている時でも、申し訳なさそうにしている時でもない。

大事なものを見る目だった。


「殴った場所に、レインを通しやすくなります。

 強く出せるというより、迷わず出せます」


リヴァルの目がわずかに動く。


「触媒としての誘導補助か」


研究員がすぐに入力する。

イルルは難しい言葉が分からなかったのか、少しだけ首を傾げた。


「たぶん、そうです」


「武器としては?」


シェスターが聞く。


「軽い方です」


「三キロくらいか」


「それくらいです」


「それで殴り合うのか」


「はい」


「避ける練習しろ」


「はい」


また素直な返事だった。

紫乃が楽しそうに笑う。

リヴァルは画面を切り替え、食堂でレインが発生した時の反応を表示した。


「もう一つ聞きたい」


イルルが身を固くする。


「はい」


「霧にできる?」


イルルは目を上げた。


「できます」


「視界を奪うため?」


「はい」


シェスターがイルルを見る。


「お前、そんなこともできるのか」


「できます。でも、あまり器用ではありません」


「視界奪う時点で十分器用だろ」


イルルは首を横に振った。


「霧を出すだけです」


「だけ、ねえ」


紫乃が少し面白そうに言う。


「でも、ただの霧じゃないんでしょう?」


イルルは頷いた。


「私のレインなので」


「相手の位置が分かる?」


イルルは少し驚いた。


「……はい。見えなくても、霧に触れていれば分かります。

 触っているみたいに」


「霧全体が、自分の手みたいになるのか」


シェスターが言う。

イルルは少し考えてから答えた。


「手ほどは、はっきりしません。

 でも、動いたのは分かります。近づけば、場所も」


シェスターが呆れたように言う。


「それでどうするんだ」


イルルは当然のように答えた。


「近づいて、殴ります」


部屋が数秒、静かになった。

紫乃が最初に笑った。


「やっぱりそうなるのねえ」


シェスターは深く息を吐く。


「お前、全部そこに戻るな」


「ハンマーなので」


「便利な言葉にするな」


リヴァルは少しだけ口元を緩めた。


「技術としては、視界妨害と自己マナ感知を同時に行うマナアーツだね」


「そんなに難しくありません」


イルルは真面目に言った。


「霧を出して、入って、殴ります」


「君の説明はいつも最後が強いね」


リヴァルはそう言ってから、研究員へ視線を向ける。


「仮に記録するなら、ミストレイン。本人の呼称は?」


イルルは少しだけ首を横に振った。


「特に、名前は」


「では仮称として記録する」


研究員が入力する。


ミストレイン。


レインの霧状展開。視界妨害。

自己マナ接触による位置把握。

近接戦闘補助。


最後の項目を見て、シェスターが小さく言った。


「結局、殴るための技だな」


イルルは小さく頷いた。


「はい」


リヴァルは端末を見ながら、ゆっくりと言った。


「不器用だね」


イルルが小さく身を固くする。

リヴァルは続けた。


「けれど、鈍重ではない。筋力で押すタイプでもない。

 足と持久力、そしてレインによる自己維持で、前に出続ける」


紫乃が頷く。


「そうねえ。力任せではないわ。けれど、戦い方は力任せよりずっと頑固」


「頑固、ですか」


イルルが尋ねる。

シェスターが即答する。


「頑固だろ」


「そうでしょうか」


「そうだよ」


イルルは少しだけ考え込む。

その真面目さが、余計に答えを物語っていた。

リヴァルは確認を続ける。


「怖くないのかい。傷を塞ぎながら戦うことは」


イルルは少しだけ目を伏せた。


「怖いです」


その答えは、あっさりしていた。


「でも、倒れる方が怖いので」


シェスターも、紫乃も、少しだけ黙った。

イルルは自分の手を見る。


「倒れたら、終わりです。だから、立って、殴ります」


「……お前な」


シェスターが低く言った。


「それ、誇ることじゃねえぞ」


イルルはすぐに頷く。


「はい」


「分かってんのか」


「分かっています」


「なら、これからは変えろ」


イルルは顔を上げる。


「変える、ですか」


「一人で戦う前提をやめろ」


その言葉に、イルルは黙った。

シェスターは続ける。


「霧を出すなら、味方にも言え。

 殴りに行くなら、誰が後ろを見るか決めろ。

 怪我を塞いだら、後で医療に見せろ」


イルルは困惑している。


「でも」


「でも禁止」


イルルは言葉を止めた。

シェスターは椅子の背にもたれた。


「お前の戦い方は分かった。倒れずに殴る。しぶとい。たぶん強い」


「強くは」


「強いかどうかはこっちで決める」


イルルはまた黙る。


「ただし、そのままだといつか本当に壊れる」


医療担当が静かに頷いた。


「その可能性は高いです」


シェスターはイルルを見た。


「だから、一人用の戦い方を、チーム用に直す」


イルルはその言葉を、すぐには理解できないようだった。


「チーム用」


「ああ」


紫乃が優しく付け加える。


「イルルちゃん、あなたのレインはきっと、とても我慢強い力なのね。

 でも我慢強い子ほど、周りが気づく前に無理をするの」


イルルは紫乃を見る。

紫乃はにこりと笑った。


「だから、今度からは我慢する前に言いなさい」


「……それは」


「難しい?」


イルルは正直に頷いた。


「はい」


紫乃は楽しそうに言う。


「じゃあ練習ね」


リヴァルは端末を閉じた。


「今日の確認はここまでにしよう」


研究員がわずかに顔を上げる。


「追加の負荷検査は」


「しない」


リヴァルは即答した。


「彼女はまだ回復中だ。今は情報を取るより、体を休める方が優先だよ」


イルルは少しだけ目を伏せる。


「私は、大丈夫です」


シェスターがすぐに言った。


「はい信用しない」


「……言うと思いました」


「覚えてきたな」


「少し」


紫乃が小さく笑う。

イルルはその笑い声に気づき、少しだけ困った顔をする。

でも、以前のようにうつむいて謝ることはしなかった。

リヴァルは最後に言った。


「マナセット、レイン。

 現時点では、水属性系統の自己維持・応急閉鎖・近接戦闘補助型として仮記録する」


研究員が入力する。


「分類は保留。危険判定ではなく、観察継続。本人への追加説明は段階的に」


「了解しました」


リヴァルはイルルを見る。


「君の力は、警報を鳴らした」


イルルの肩が少しだけ動く。


「でも、傷も塞いだ」


リヴァルは静かに続けた。


「どちらも事実だ。だから、片方だけで決めない」


イルルはゆっくりと頷いた。


「はい」


医療担当がイルルのそばへ来る。


「では、イルルさん。処置室へ移動しましょう。

 さっき使ったマナアーツの影響も確認します。痛い検査ではありません」


「はい」


イルルが立ち上がろうとする。

少しふらついた。

シェスターがすぐに腕を出す。

イルルは一瞬迷った。

それから、その腕を借りた。


「……ありがとうございます」


「転ぶ前に言え」


「はい」


「避ける練習もするぞ」


「はい」


「返事だけいいな」


「すみません」


「謝るな」


イルルは少しだけ口を閉じる。

それから、言い直した。


「……はい」


シェスターはそれでいい、というように頷いた。

イルルは医療担当に付き添われ、処置室へ向かう。

扉の前で一度だけ振り返った。

シェスターがそこにいることを確認して、また小さく頭を下げる。


扉が閉じた。

イルルの姿が見えなくなる。

その瞬間、検査室に残った空気が少しだけ変わった。


さっきまでの、少女を怖がらせないための柔らかさが消える。

代わりに、任務の空気が戻ってきた。


ちょうどその時、扉が開いた。

フィリアが入ってくる。

オペレーション室からそのまま来たのだろう。

手には携帯端末があり、表情は落ち着いている。

ただ、目元には少し疲れが見えた。


「探索班、帰投しました」


リヴァルが顔を上げる。


「お疲れさま。状況は」


「ポイント12、封印反応なし。マギアス残留反応も低位。

 地形データ、地下構造データ、避難経路の更新分も照合しましたが、

 該当なしです」


「空振りか」


「はい」


フィリアは一拍置いて続ける。


「ですが、今までの空振り分も含めて、再計算しました。

 リヴァルさんが必要だと思ったので」


フィリアは端末をリヴァルへ差し出す。


表示されたのは、今まで調査した指定ポイントの反応差分、

地下構造、避難所ごとの設備更新記録、マナ濃度の変動値、

そして封印地点候補の再計算結果だった。


リヴァルの目が、わずかに動く。

一つ一つ確認していく。

そして、口元に小さな笑みが浮かんだ。


「これは」


フィリアが少しだけ緊張する。


「足りませんか」


「いや」


リヴァルは端末から目を離さずに言った。


「僕が欲しかったデータだ」


その言葉に、フィリアの表情がほんの少しだけ緩む。

リヴァルは続けた。


「やっぱり、僕の隣には君がふさわしい」


フィリアが固まった。

シェスターも固まった。

紫乃だけが、楽しそうに目を細めた。


「……リヴァルさん」


フィリアの声が少しだけ裏返る。

リヴァルは、そこでようやく自分の言い方に気づいたように顔を上げた。


「オペレーターとして、という意味だよ」


「分かっています」


フィリアはそう答えたが、耳が少し赤かった。

シェスターが半眼になる。


「お前、そういうとこだぞ」


「何がだい」


「今ので分からねえならいい」


紫乃がくすくすと笑う。

けれど、笑っていたのは短い間だけだった。


リヴァルは端末の表示をさらに奥へ進める。

そこに出ていた候補地の絞り込みを見て、表情を戻した。

フィリアも、それを見ている。

彼女はおおむね想定がついている顔をしていた。


紫乃は、その顔を見逃さなかった。

そっとフィリアの隣へ寄り、耳元で囁く。


「そんな顔をしたら、シェスターくんが気づいちゃうわよ」


フィリアがびくりと肩を揺らす。


「え」


シェスターがすぐに反応した。


「何だ」


紫乃は間髪入れずに振り向く。


「目にクマが出てるわよって言ったのよ」


「クマ?」


「そう。気になるのは分かるけど、乙女の会話にズカズカ入るものじゃないわ」


「乙女の会話って顔じゃなかっただろ」


「まあ失礼ねえ」


紫乃は笑って流した。

シェスターは納得していない顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。


リヴァルは端末を閉じる。

シェスターが腕を組んだ。


「どうなんだよ」


その声には、さっきまでイルルに向けていたものとは違う硬さがあった。

リヴァルは少しだけ沈黙した。


「まだ十分とは言えない」


シェスターの目が細くなる。


「でも、今までのように指定ポイントを歩くほど不確定でもない」


フィリアは黙っている。

紫乃も笑みを消していた。

リヴァルは続けた。


「候補は、かなり狭まった。けれど、確定にはもう一段階必要だ」


「どこなんだ」


シェスターが聞く。

リヴァルは答えなかった。


いや、答えられなかったのではない。

今この場で言うべきではないと判断した顔だった。


「今は、ここまでにしておく」


シェスターは何か言いたげにリヴァルを見た。

けれど、処置室の扉の向こうにはイルルがいる。

この場で不用意に言葉を荒らげることはできなかった。


「……分かった」


シェスターは短く言った。


「ただ、後でちゃんと聞かせろ」


「もちろん」


リヴァルは頷いた。


「君にも、イルルにも関わる話になる可能性がある」


シェスターの表情がさらに険しくなる。

紫乃は何も言わない。

けれど、その目はすでに察していた。

よくない結果が出ている。

少なくとも、楽観できるものではない。

リヴァルは、そこで空気を切り替えるようにフィリアへ端末を返した。


「フィリア。探索班を迎えて、帰投後の一次確認をお願い」


「はい」


「ガイ、リオン、織葉の状態確認。

 装備破損、マナ残量、外傷の有無。通常帰投手順でいい」


「了解しました」


リヴァルは続けて、シェスターと紫乃を見る。


「シェスター、紫乃さん。君たちも行ってくれるかな」


シェスターが眉をひそめる。


「俺もか」


「イルルの処置は医療担当が見る。彼女が不安定になったら、すぐ呼ぶ」


リヴァルは少しだけ声を落とす。


「今は、帰投した探索班の顔を見せてほしい。

 無事に戻ってきたと分かるだけでも、食堂の空気は落ち着く」


紫乃が頷いた。


「そうねえ。こういう時は、

 無事な人がちゃんと歩いて戻ってくるのを見せるのも大事だものね」


シェスターはまだ納得していない顔だったが、処置室の扉を一度見た。


「……イルルに何かあったらすぐ呼べよ」


「約束する」


「絶対だぞ」


「絶対だ」


シェスターは短く息を吐いた。


「行くぞ、紫乃さん」


「はいはい」


紫乃はリヴァルの横を通る時、ほんの少しだけ足を止めた。


「無茶な話なら、後でちゃんと大人にも相談しなさいね」


「分かっています」


「本当かしら」


紫乃は微笑んだまま、部屋を出ていった。

シェスターも続く。

フィリアも端末を胸元に抱え直し、リヴァルへ向き直った。


「では、帰投対応に入ります」


「ああ。頼む」


「はい」


フィリアは少しだけ頷いて、シェスターたちの後を追った。

扉が閉じた。



検査室には、リヴァルと研究員、それから医療担当の端末音だけが残った。

リヴァルはしばらく閉じた扉を見ていた。

そして、表情を完全に切り替える。


「技術部のデータを」


研究員が待っていたように端末を操作する。


「こちらです。先ほどのシミュレーション結果になります」


空中表示に、複数のマナ波形が並んだ。

フィリアのライト。

既存のマギアス反応。

暴走時に確認された波長。

そして、理論上の逆位相。

リヴァルは画面の前に立つ。


「マギアス暴走反応に対して、逆位相のマナ波長を当てるシミュレーションだね」


「はい。理論上は可能です」


研究員は答える。


「ただし、現状の通常ガンアーツデバイスでは再現性が低い。

 フィリアさんのマナセットの中心波長は、

 これまでの訓練データからかなり測定できています」


リヴァルは頷く。


「何度か訓練してくれているおかげで、波長の中央は測れている」


「はい。そこを基準にすれば、

 専用触媒を組むことでマナ波長の延長はできます」


研究員が別の図を表示する。

通常触媒を通した場合の波形。

専用調整した場合の波形。

そして、効果予測。


「ただし、効果が出ない恐れが高いです」


リヴァルは黙って画面を見る。

研究員は続ける。


「波長の延長自体は可能です。

 ですが、対象となるマギアス反応の深度や暴走段階によって、

 干渉結果が大きく変わります。

 鎮静化に届くか、表層だけを揺らして終わるか、現段階では保証できません」


「逆に悪化する可能性は」


「ゼロとは言えません。

 ただ、現時点のシミュレーションでは暴走促進よりも不発の可能性が高いです」


「つまり、届かない」


「はい」


リヴァルは画面の波形を追った。


「専用に触媒を組めば、ライトの波長は延ばせる。

 けれど、まだ十分に使用するには足りない部分が多い」


「その通りです」


研究員は別の資料を表示する。


「問題は触媒です。

 既存素材では、フィリアさんのライトの波長を安定して保持できません。

 出力を上げると散ります。抑えると届きません」


「通常素材の限界か」


「はい。少なくとも、現行のガンアーツデバイス用触媒では」


リヴァルは片手で口元に触れた。

画面には、未完成の逆位相波形が揺れている。


届きそうで、届かない。

形は見えている。

けれど、器が足りない。


リヴァルはしばらく何も言わなかった。

研究員も待った。

リヴァルが考えている時に、急かしていい結果が出たことはない。


やがて、リヴァルは静かに言った。


「古い素材記録を当たる」


研究員が顔を上げる。


「古い素材記録、ですか」


「現行技術の延長では足りない。なら、失われた技術の残骸を探すしかない」


「まさか」


研究員の声が少しだけ低くなる。

リヴァルは画面を見たまま言った。


「ルクヴォイド合金」


検査室の空気が、わずかに冷えた。

研究員はすぐには返事をしなかった。


その名は、現代の技術者にとってほとんど伝説に近い。

光のマナアーツが、まだ実在していた時代の合金。

人と魔族が殺し合っていた時代に生まれた、

異常なまでにマナ波長への親和性を持つ素材。


「完全再現は不可能です」


「分かっている」


リヴァルは即答した。


「旧時代の製法も、魔力特性で変形するような性質も、

 今の技術では再現できない」


「では」


「欲しいのは完全なルクヴォイド合金じゃない」


リヴァルは画面の波形を指す。


「フィリアのライトを、少しでも散らさずに通せるフレームだ。

 理論上の再現金属でいい。ルクヴォイド合金もどきでも構わない」


研究員は息を呑む。


「代表、それは」


「笑えるだろう」


リヴァルは少しだけ口元を歪めた。


「僕も笑いたいよ。けれど、通常素材では届かない」


研究員は端末を握り直す。


「資料が残っているとすれば、

 軍議会の保管庫か、博物館の旧時代技術収蔵庫です」


「だろうね」


リヴァルは頷いた。


「軍議会と博物館に連絡を。会議の時間を作るように伝えて」


「軍議会と、博物館ですか」


「表向きは通常の技術協議でいい」


「議題は」


リヴァルは少しだけ考えた。


「旧時代素材記録の照会。

 光属性系統マナ波長に関する技術資料の閲覧申請。

 あとは、ガンアーツデバイス用特殊触媒フレームの共同検討」


研究員が素早く入力する。


「了解しました」


リヴァルは再び波形を見る。

フィリアのライト。

マギアス暴走反応。

理論上の逆位相。


まだ、届かない。

けれど、届かせる方法を探す段階には入っている。


「フィリア本人には」


研究員が慎重に尋ねる。


「まだ言わない」


リヴァルは答えた。


「可能性だけ渡して、失敗の重さを背負わせる段階じゃない」


「了解しました」


「訓練ログの整理は続けて。

 波長の揺れ幅、安定点、暴走反応との位相差を優先。

 本人に追加訓練を頼む場合は、理由を限定して伝える」


「どのように」


「出力安定のため。今はそれでいい」


研究員は頷いた。

リヴァルは端末を閉じる。


「急いで。けれど、焦らないで」


「難しい注文ですね」


「いつものことだよ」


研究員は小さく笑い、すぐに表情を戻した。


「会議依頼、送ります」


「ああ」


リヴァルは一度だけ、処置室の扉へ視線を向けた。

その向こうにはイルルがいる。


別の場所では、フィリアが帰投した探索班を迎えている。

空振りの探索は、無駄ではなかった。

外れを積み重ねたことで、最悪の場所が浮かび上がり始めている。


そして、その場所に向かうためには。

イルルのレインも。

フィリアのライトも。

今までとは違う意味を持つことになる。


リヴァルは静かに言った。


「次の調査で、決める」


研究員は何も返さなかった。

ただ、端末に会議依頼の文面を打ち込み始める。

医療区画の奥から、かすかに機器の音が聞こえていた。

その静かな音だけが、ここがまだ、

人を守るための場所であることを思い出させていた。

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