一章 六話
ハンマーアーツデバイスの新造方針が決まってから、
シェルターには少しだけ落ち着いた時間が戻っていた。
もちろん、完全に平穏だったわけではない。
警備員の巡回は増えたままだった。
外周センサーの点検間隔も短い。
オペレーション室では、リヴァルが探索結果の再計算と、
次の調査準備を並行して進めていた。
それでも、避難民区画には配給の列ができ、子供たちは学習室に集まり、
大人たちは割り当てられた作業へ戻っていた。
人は、危機の中でも日常を作ろうとする。
作らなければ、耐えられないからだ。
イルルは医療区画にいた。
ジェーン・フォルスターの管理のもと、投薬、点滴、低出力マナ照射、
そして時属性マナアーツ、メンドセーブによる回復管理が続いている。
完全復帰ではない。
ジェーンは何度もそう言った。
シェスターも何度もそう言った。
それでも、イルルの回復は早かった。
彼女自身の生命力が高いこと。
レインで長く身体を持たせてきた反面、身体そのものが治ろうとする力を失っていなかったこと。
そして、このシェルターの医療体制が、人類側の最前線にふさわしい水準で整えられていたこと。
それらが噛み合い、イルルは短い距離なら一人で歩けるようになっていた。
ただし、戦闘は禁止。
ハンマーの戦闘使用も禁止。
新造前の古いハンマーは、まだ解体されていなかった。
触媒部を安全に取り外す前の、補強でかろうじて形を保っている状態だ。
その日も、医療区画の一室で、イルルはベッドに腰かけていた。
膝の上には、布で包まれたハンマーがある。
持っていていいと許可されたのは、短い時間だけだった。
シェスターは壁際の椅子に座っている。
「重くないのか」
イルルはハンマーを見下ろしたまま答えた。
「重いです」
「じゃあ置け」
「もう少しだけ」
「ジェーンさんに怒られるぞ」
「あと少しです」
「その少しが信用できねえんだよな」
シェスターがそう言った時だった。
医療区画の照明が、一度だけ白く瞬いた。
次に、天井の隅にある警報灯が黄色に変わる。
短い警告音。
一度。
二度。
三度。
イルルの肩がわずかに揺れた。
シェスターは即座に立ち上がる。
医療区画のスピーカーから、自動音声が流れた。
『マギアス反応を検出。区画照合中。職員は現在位置で待機してください』
イルルはハンマーを抱えたまま、警報灯を見つめた。
前にも聞いた音だった。
食堂で、自分がレインを使った時に鳴った音。
けれど、シェスターの表情はその時と違っていた。
彼は端末を確認する。
「医療区画内じゃねえな」
「私では、ありません」
「分かってる」
シェスターは短く言った。
同じ頃、避難民エリアでも警報は鳴っていた。
配給を終えたばかりの食堂に、黄色い光が回る。
避難民たちは一斉に顔を上げた。
「マギアス反応?」
「また?」
「この前の子の……?」
ざわめきは広がった。
しかし、すぐに全員が走り出したわけではなかった。
数日前、同じ警報が鳴った。
その時、起きたのは攻撃ではなく、治療だった。
イルルが子供の怪我を塞ぎ、警報がそれを拾った。
リヴァルは、警報が示すのは反応があったという事実であり、
危害が発生したという意味ではないと説明した。
だからこそ、人々は迷った。
逃げるべきか。待つべきか。
何が起きたのか確認すべきか。
その迷いは、ほんの数秒だった。
だが、襲撃者にとっては十分だった。
フィリアは避難民エリアの通路にいた。
オペレーション室へ戻る途中だったが、警報で足を止めていた。
近くには、食堂でイルルに手を治してもらった子供がいる。
子供は警報灯を見上げ、不安そうにフィリアの服の裾を握った。
「また、イルルお姉ちゃん?」
フィリアは屈んで、子供と目を合わせる。
「まだ分かりません。でも、今は大人の人の近くにいてください」
「逃げるの?」
「指示が出たら、すぐに動けるようにしましょう」
フィリアがそう言った瞬間、シェルター全体が揺れた。
低く、重い爆発音。
床が波打つように震え、天井の照明が一瞬だけ落ちる。
遠くで何かが崩れる音がした。悲鳴が上がる。
黄色だった警報灯が、赤に変わった。
『外部搬入口に爆発を確認。防爆隔壁、損傷。避難民は最寄りの退避区画へ移動してください。
繰り返します。避難民は最寄りの退避区画へ移動してください』
リヴァルの声が、すぐに放送へ重なった。
『全区画へ。これは訓練ではありません。避難民は職員の誘導に従ってください。
走らないでください。押さないでください。
退避区画の隔壁が閉じるまで、通路を塞がないでください』
その声で、ようやく避難民たちは動き出した。
だが、その動きに合わせるように、通気口の蓋が吹き飛んだ。
金属音。
砕けたカバー。
天井から、黒い影が落ちてくる。
一体ではない。
二体。
三体。
保守用ダクトから、マギアス軍の兵が通路へ降り立った。
爆破は、正面突破だけの合図ではなかった。
すでに潜り込んでいた侵入部隊が、一斉に動くための合図だった。
フィリアは子供を背中にかばう。
「下がって!」
マギアス兵の一人がこちらを見る。
腕に装着されたナイフアーツデバイスが展開し、薄い刃が伸びた。
刃は子供へ向いている。
フィリアの身体は、考えるより先に動いた。
子供を抱え込むように前へ出る。
刃が振られた。
フィリアは目を閉じなかった。
切断音はしなかった。
隊員用に支給されていた厚手の上着が、ナイフアーツの刃を受け止めた。
特殊繊維と防刃層が火花を散らし、刃を滑らせる。
切れてはいない。
だが、衝撃は消えなかった。
鋭い棒で胸を突かれたような痛みが走る。
息が詰まった。
肺の空気が一瞬で押し出され、フィリアは膝を折りかける。
「フィリアさん!」
子供の声が聞こえた。
マギアス兵はさらに腕を振り上げる。
今度は頭部を狙っていた。
その手首を、横から伸びた白い指が掴んだ。
「子供に刃を向けるのは」
紫乃の声だった。
いつもと同じ、柔らかい声。
けれど、空気だけが冷たい。
「ちょっと、趣味が悪いわねえ」
マギアス兵の身体が浮いた。
紫乃は手首を取ったまま、相手の重心を崩し、床へ投げ落とす。
硬い音が響く。
兵が起き上がろうとした瞬間、紫乃の腕が首に回った。
締める。無駄な動きはない。叫ぶ暇もない。
数秒で、兵の身体から力が抜けた。
同時に、反対側の通路から織葉が飛び込んでくる。
すでに二人を倒していた。
織葉は状況を見るなり、迷わずフィリアと子供を抱えた。
「失礼します」
「え、あ、織葉さん」
フィリアの声はまだうまく出ていない。
織葉は返事を待たなかった。
フィリアを片腕で支え、子供をもう片方で抱え、退避区画の隔壁へ走る。
閉じかける隔壁の下へ滑り込むように飛び込んだ。
紫乃はそれを見ていた。
追わない。呼ばない。任せるとも言わない。
織葉が間に合った。
それだけで十分だった。
次に紫乃は、自分の周囲を見た。
右。倒れている兵が一人。
左。壁際でうめく兵が一人。
天井の通気口から降りてきたばかりの影が三つ。
奥の曲がり角から、さらに二人。
そのどれも、今すぐ背中を取れる位置にはない。
紫乃は静かに膝を伸ばした。
ゆっくりと立ち上がる。
閉じていく隔壁の向こうで、織葉が一瞬だけこちらを見た。
紫乃は笑わなかった。
ただ、少しだけ顎を引く。
それで通じた。
隔壁が閉じる。
重い音が響いた。
紫乃は振り向く。
両手の指の間に、いつの間にか細いクナイが何本も挟まれていた。
「いいわ」
目元だけが、笑っていなかった。
「おばさん、少し怒ったから」
マギアス兵たちが構える。
紫乃は一歩だけ前へ出た。
「避難の邪魔をする子から、寝てもらいましょうか」
オペレーション室では、警報と通信が重なっていた。
リヴァルは中央端末の前に立ち、各区画の映像を切り替える。
外部搬入口。赤い損傷表示。避難民エリア。隔壁閉鎖中。
保守用ダクト。侵入反応。居住区画。
紫乃の戦闘反応。退避区画。
織葉、フィリア、避難民の子供。
次々に情報が流れ込む。
扉が開き、ガイとリオンが駆け込んだ。
二人とも隊員宿舎からそのまま来たのだろう。
装備は完全ではないが、最低限のアーツデバイスはすでに持っている。
「状況は!」
ガイが聞く。
「侵入と外部破壊が同時だ」
リヴァルは答える。
「通気口と保守用ダクトから小規模侵入。避難民エリアでは織葉と紫乃さんが対応中。
フィリアと子供一名は退避区画へ移動済み」
リオンが端末を見る。
「外は?」
「外部搬入口を爆破された。防爆隔壁が攻撃を受けている」
次の瞬間、もう一つの扉が開いた。
シェスターが駆け込んでくる。
医療区画から走ってきたため、息が少し荒い。
「イルルは医療区画に残した。ジェーンさんが見てる」
「分かった」
リヴァルは短く頷く。
シェスターは画面を見る。
「避難民エリアに敵が入ってんのか」
「一部はね」
「織葉と紫乃さんだけで足りるのか」
「短時間なら」
リヴァルは画面を切り替えた。
外部搬入口の構造図が表示される。
外部隔壁。
その内側にある防爆扉。
二つの扉の間に、搬入用の緩衝スペースがある。
「問題はここだ」
リヴァルは緩衝スペースを指した。
「敵は外部隔壁を破壊しようとしている。今は分散侵入だから数は多くない。
でも、ここを破られると外から戦力を随時投入される」
ガイが拳を握る。
「なら外に出るか」
「外ではなく、隔壁と防爆扉の間で迎撃する」
リヴァルは即答した。
「外へ出ればこちらが不利になる。逆に、緩衝スペースで止めれば、敵の数を絞れる。
防爆扉を背にして戦えば、生活区画へ戦線を広げずに済む」
リオンが頷く。
「狭い場所で止めるわけだな」
「そうだ」
リヴァルは三人を見る。
「こちらも戦力が分散する。避難民エリアには織葉とミス・シノがいる。
オペレーション室には僕が残る。フィリアは退避区画で呼吸が戻り次第、避難民誘導の補助に回す」
シェスターが目を細める。
「フィリア、やられたのか」
「切られてはいない。隊員用上着が防いだ。ただ、衝撃で一時的に呼吸困難。織葉が保護した」
シェスターは舌打ちした。
「くそ」
ガイがリヴァルを見る。
「俺たちは外部隔壁だな」
「頼む」
リヴァルの声は静かだった。
「ここを抜かれると、後が大きくなる」
リオンは短く笑った。
「分かりやすくていい」
ガイも頷く。
「行くぞ」
シェスターは一瞬だけ医療区画の方角を見た。
イルルがいる。
まだ患者だ。まだ戦闘員ではない。
そのことを自分で言ったばかりだった。
けれど、今は戻れない。
リヴァルが言う。
「シェスター」
「分かってる」
シェスターは顔を上げた。
「イルルに何かあったら即呼べ」
「約束する」
「絶対だぞ」
「絶対だ」
シェスターは頷き、ガイとリオンに続いて走り出した。
三人の足音が通路へ消える。
オペレーション室には、警報音とリヴァルの操作音だけが残った。
医療区画では、赤い警報灯が回っていた。
イルルはベッドの上で、補強されたハンマーを抱えている。
ジェーンは医療スタッフたちへ指示を出していた。
「重症患者を奥へ。点滴ラインは固定。動かせる患者は職員の誘導で退避準備。
イルルさんはそのまま待機です」
「はい」
イルルは返事をした。
けれど、視線は警報灯から離れない。
遠くで、また振動があった。
今度は爆発ではない。
何か重いものが、扉を叩いている音。
外部隔壁への攻撃かもしれない。
あるいは、もっと近い場所かもしれない。
スピーカーからリヴァルの放送が流れる。
『全避難民へ。退避区画の隔壁閉鎖を継続。職員の指示に従ってください。
戦闘員は指定位置へ。繰り返します。戦闘員は指定位置へ』
戦闘員。
イルルはその言葉を聞いて、ハンマーを少しだけ強く抱いた。
自分は、まだそこに含まれていない。
医療観察対象。
保護対象。
患者。
ジェーンに言われた言葉も、シェスターに言われた言葉も覚えている。
戦闘許可は出ていない。
ハンマーの戦闘使用も禁止。
このハンマーは、もう長く戦えない。
触媒を残して、ほかは新しくする。
それで決めた。
それでも。
警報灯は赤く回っている。
誰かが走る音がする。
医療区画の外で、避難誘導の声が重なる。
イルルはハンマーを抱えたまま、じっと座っていた。
自分の指先に、レインが滲みそうになる。
彼女はそれを、ぎゅっと握り込んで止めた。
まだ。
まだ、動く時ではない。
でも、何かが壊れる音が、遠くでまた響いた。
イルルは顔を上げる。
赤い光が、彼女の瞳に映っていた。
外部搬入口へ続く通路は、すでに非常灯だけになっていた。
赤い光が、等間隔で床を照らしている。
ガイ、リオン、シェスターの三人は、搬入区画へ向けて走っていた。
壁面の案内灯は、避難民用の生活区画とは逆方向を示している。
ここから先は、物資搬入と緊急時の隔離を目的とした区画だ。
外部隔壁。
緩衝スペース。
防爆扉。
その三つが、シェルターの内と外を分けている。
もし外部隔壁を破られても、防爆扉が残る。
だが、緩衝スペースに敵を入れたまま防爆扉まで破られれば、戦線は生活区画側へ広がる。
それだけは避けなければならなかった。
三人のイヤーデバイスに、リヴァルの声が入る。
『ガイ、リオン、シェスター。外部隔壁の損傷率は二十八パーセント。
敵は外側から継続攻撃中。数は多くないが、破られれば追加戦力が入る』
「了解」
ガイが走りながら答える。
リオンはワイヤーアーツデバイスを確認し、シェスターは腰のレスキュー装備へ手を添えた。
『場所が場所だ。緩衝スペース内に限り、マナアーツのリミット解除を許可する』
ガイの口元がわずかに上がった。
「久々のリミット解除だな」
『ただし、短期決戦で決めてくれ。長引けば施設側の負荷が増える』
「分かってる」
リオンが答えた。
「狭い場所で止める。逃がさない」
シェスターは軽く息を吐き、耳元のヘッドフォンデバイスを取り出した。
リオンも同じように装着する。
ガイがちらりと二人を見る。
「慣れてんな」
「お前の声に巻き込まれたくねえからな」
シェスターが言う。
リオンも淡々と続けた。
「味方の鼓膜を守るのも戦術だ」
「言ってろ」
ガイは肩に背負ったブレードアーツデバイスを抜いた。
大剣と呼ぶにふさわしい幅広の刃が、赤い非常灯を受けて鈍く光る。
三人が緩衝スペース手前の防爆扉に到達すると、リヴァルの声が入った。
『防爆扉を一時開放する。入ったら即閉鎖。内部で迎撃して』
「開けろ」
ガイが言う。
重いロック音。
防爆扉が左右へ開いた。
その先は、搬入用の広い緩衝スペースだった。
床には物資固定用のレールが走り、天井には大型クレーンのアームが格納されている。奥の外部隔壁は歪み、ところどころが赤熱していた。外側から何かが叩きつけられるたびに、低い衝撃音が響く。
そして、すでに内側にも敵がいた。
爆破の混乱に紛れて入り込んだマギアス兵たちが、緩衝スペースの端に散っている。
十数人。
まだ隊列は整っていない。
ガイは一歩前に出た。
「耳、塞いどけよ」
「もう塞いでる」
シェスターが即答する。
ガイは大きく息を吸った。
胸の奥でマナが震える。
喉ではない。
肺でもない。
身体全体が、声を撃つための砲身になる。
「マナアーツ」
ガイの周囲の空気が歪んだ。
「ブラスターボイス!」
放たれた声は、叫びというより衝撃波だった。
狭い緩衝スペースの壁と床が音を跳ね返し、波が重なる。
マギアス兵たちは構える暇もなく吹き飛ばされた。
何人かは壁へ叩きつけられ、そのまま意識を失う。
何人かは膝をつき、耳を押さえた。
音が止んだ後も、空気だけが震えている。
「さすがに効くな」
シェスターがヘッドフォン越しに言った。
リオンはすでに前へ出ていた。
「第二陣が来る」
外部隔壁の一部がさらに歪み、隙間から敵影が入ろうとしている。
リオンは片手を床へ向けた。
「マナアーツ、ミラーグランド」
床が白く走った。
一瞬で、緩衝スペースの床面に薄い氷が広がる。
赤い非常灯を映し込んだ氷は、鏡のように敵の足元を奪った。
侵入してきた兵たちが滑る。
踏み込もうとした足が流れ、姿勢が崩れる。
リオンはシェスターを見る。
「シェスター隊員、行けますか」
「当然」
シェスターは腰のレスキュー装備に手を当てた。
「マナアーツ、レスキューアイテム」
靴底に細い金属音が走る。
「セーフティリムズ」
シェスターのブーツ裏に、短いスパイクが生成された。
救助現場で濡れた床や崩落しかけた足場を踏むための補助具。
だが今は、凍った床の上で戦うための足場になる。
リオンはワイヤーを放ち、天井のレールへ絡めた。
氷上を滑るように移動しながら、敵の足首、腕、武器を次々と絡め取る。
シェスターはその間へ踏み込んだ。
氷をスパイクで噛み、近づいた兵の膝裏を蹴り抜く。
倒れた相手の武器を踏み、もう片方の肘を押さえて床へ叩き伏せる。
ガイは大剣を構え、滑ってくる兵を刃の腹で吹き飛ばした。
刃ではなく面で叩く。
それでも十分だった。
緩衝スペースの敵は、一気に崩れていく。
だが。
外部隔壁が、内側へ大きくへこんだ。
重い音。
氷の床に亀裂が走る。
そして、歪んだ隔壁の隙間から、黒鉄のような腕が差し込まれた。
「どけ」
低い声。
次の瞬間、外部隔壁の破損部が無理やり押し広げられた。
マギアス兵たちが道を空ける。
その奥から、一人の男が入ってきた。
大柄だった。
ただ大きいだけではない。
肩も首も厚く、立っているだけで圧がある。
軍服は前線用に荒く改造され、腕には何度も補修された痕がある。
男の横には、細身の兵が一人ぴったりとついていた。
腰ぎんちゃくのように、男の背後から顔だけ出している。
「軍曹、こいつらです。例のシェルターの連中です」
「見りゃ分かる」
男は首を鳴らした。
その音だけで、周囲の兵たちが少し身を引く。
ガイが大剣を構える。
「お前が指揮官か」
男はにやりと笑った。
「マギアス軍前線軍曹、ギルド・ロッカ」
腰ぎんちゃくが慌てて続ける。
「ロッカ軍曹だ! 覚えとけ、人間ども!」
ロッカ軍曹は横目で部下を見た。
「うるせえ」
「はいっ」
腰ぎんちゃくは即座に黙った。
ロッカ軍曹の視線が三人をなめるように動く。
「この前は妙な居合女にやられたが、今日は見当たらねえな」
シェスターの目が細くなる。
織葉に瞬殺された軍曹。
目の前の男が、それだった。
ロッカ軍曹は拳を握る。
皮膚の表面に、黒い金属光沢が走った。
腕が、肩が、胸元が、黒鉄のように硬質化していく。
「マナセット、アイアンハイド」
彼は笑った。
「今度はちゃんと遊んでやるよ」
ガイが踏み込んだ。
大剣が横薙ぎに振られる。
ロッカ軍曹は避けなかった。
黒鉄化した前腕を上げ、真正面から受けた。
火花が散る。
重い金属音が緩衝スペースに響いた。
ガイのブレードアーツデバイスが、止まった。
「硬え……!」
「その程度かよ」
ロッカ軍曹が腕を押し返す。
ガイの足が氷を砕きながら後ろへ滑った。
力で押されている。
ガイは歯を食いしばり、大剣を引き戻そうとした。
その前にロッカ軍曹の拳が飛んだ。
ガイは大剣の腹で受ける。
衝撃。
大剣越しに身体が浮き、背中から床へ叩きつけられた。
「ガイ!」
リオンがワイヤーを放つ。
ロッカ軍曹の腕、肩、胴へ複数のワイヤーが絡みついた。
締める。
押し戻す。
だが、ロッカ軍曹は鼻で笑った。
「細え」
黒鉄化した腕が振られる。
ワイヤーがぷつぷつと切れた。
リオンの表情が変わる。
「硬質化だけではなく、出力も高いか」
「分析してる暇あんのか」
ロッカ軍曹が踏み込む。
シェスターが横から入った。
氷を踏み砕くように近づき、ロッカ軍曹の脇腹へ拳を叩き込む。
鈍い音。
効いていない。
「軽いな」
ロッカ軍曹の肘が返ってくる。
シェスターはかろうじて身を引いたが、風圧だけで頬が切れた。
リオンが背後から再びワイヤーを伸ばす。
今度は首筋。
締めるためではない。
動きを止めるためだ。
ワイヤーがロッカ軍曹の首へ回りかけた瞬間。
ほんの一瞬だけ、ロッカ軍曹の目が揺れた。
焦り。
すぐに彼は腕を硬質化し、ワイヤーを掴んで引きちぎった。
だが、シェスターは見ていた。
今の反応を。
ずっと引っかかっていた。
織葉はこいつを一撃で落とした。
だが、今の硬さは異常だ。
ガイのブレードアーツデバイスすら通さない。
全身が常にこの硬さなら、峰打ちで意識を刈ることなどできない。
硬い場所がある。
硬くする瞬間がある。
そして今、首にワイヤーが回った時、こいつは焦った。
そこまでは硬くなかった。
シェスターは結論を口にしなかった。
言えば警戒される。
だから、ただ息を整える。
ロッカ軍曹はリオンへ向き直った。
「後ろでちょろちょろしやがって」
リオンは短く息を吸う。
「致死率は高いが、この状況ではやむを得ない」
彼のマナが床の氷へ流れる。
「マナアーツ、スカルプチャー」
ロッカ軍曹の足元から氷が伸びた。
一瞬で脚を覆い、腰を包み、腕へ走る。
黒鉄の巨体が、氷像の中に閉じ込められた。
緩衝スペースに静寂が落ちる。
腰ぎんちゃくが顔を青くする。
「ぐ、軍曹!」
氷像に亀裂が走った。
ピキ、と細い音。
次に、全体が軋む。
「声が」
氷の中から、低い声が漏れた。
「でけえんだよ」
氷が砕け散った。
ロッカ軍曹の身体から冷気が流れ落ちる。黒鉄化した肩と腕が、氷片を弾いた。
「迷惑だ」
ロッカ軍曹が腕を振った。
ガイが起き上がりかけたところへ、その拳が入る。
大剣で受けようとした。
だが間に合わない。
鈍い衝撃音。
ガイの身体が床を転がり、動かなくなった。
致命傷ではない。
だが、意識は落ちていた。
「ガイ!」
シェスターが叫ぶ。
ロッカ軍曹は笑った。
「一人目」
リオンが再びワイヤーを展開する。
今度は複数本を束ね、ロッカ軍曹の足を絡めようとした。
ロッカ軍曹は一歩踏み込む。
ワイヤーを踏み砕き、距離を詰める。
リオンは天井レールへワイヤーを飛ばし、上へ逃げようとした。
その腹へ、ロッカ軍曹の肘が入った。
「がっ」
リオンの身体が折れる。
ワイヤーが緩み、彼は床へ落ちた。
ロッカ軍曹が首を鳴らす。
「二人目」
腰ぎんちゃくが勢いづく。
「さすがロッカ軍曹! こんな連中、最初から軍曹のお手を煩わせるまでも」
ロッカ軍曹が横目で睨む。
「黙ってろ」
「はいっ」
シェスターはガイを見た。
リオンを見た。
二人とも動けない。
死んではいない。
だが、戦闘継続は無理だ。
緩衝スペースの奥で、外部隔壁がさらに歪んでいる。
時間はない。
シェスターは拳を握った。
ロッカ軍曹がこちらを見る。
「残りはお前か」
「そうらしいな」
「レスキュー崩れが、何するって?」
シェスターは軽く肩を回した。
「なるほどな」
「あぁ?」
「ずいぶん焦ってたじゃねえか」
ロッカ軍曹の眉が動く。
「何の話だ」
「さあな」
シェスターは笑った。
言わない。
言えば終わる。
だから、挑発だけでいい。
「てめえを倒す道筋が見えただけだ」
腰ぎんちゃくが甲高く笑う。
「聞きましたか軍曹! 雑魚が何か言ってますよ!」
ロッカ軍曹は歯を見せた。
「やってみろよ、雑魚が」
「吠え面かくなよ」
シェスターは腰のアンカー装備に指をかけた。
「まっすぐ行って、てめえをぶっ倒してやる」
シェスターのマナが高まる。
靴底のスパイクが氷を噛む。
ロッカ軍曹は構えた。
シェスターは本当に、真正面から走った。
一直線。
工夫もない。
回り込みもしない。
拳を振り上げ、大振りで殴りかかる。
ロッカ軍曹は笑った。
「こんなもん、受けるまでもねえ」
巨体がわずかに横へずれる。
シェスターの拳は空を切る。
ロッカ軍曹の右腕が黒鉄化する。
今度は拳に集中している。
その拳が振り下ろされれば、シェスターの身体は床に叩きつけられる。
ロッカ軍曹の顔には勝利の笑みがあった。
その瞬間。
シェスターの身体が、空中で止まった。
不自然なほど、ぴたりと。
ロッカ軍曹の視線が足元へ落ちる。
床に打ち込まれた小型アンカー。
そこから伸びたワイヤーが、シェスターの腰に繋がっていた。
突撃の勢いを、アンカーが強引に止めている。
「なっ」
シェスターの身体が反動で跳ねる。
下半身が鋭く持ち上がった。
股を裂くような角度で、蹴りが下から走る。
狙いは、顎。
ロッカ軍曹の拳は硬質化している。
腕も硬い。
だが、顎は違う。
衝撃が入った。
ロッカ軍曹の頭が跳ね上がる。
巨体が一瞬、宙に浮いた。
シェスターは歯を食いしばる。
「お前は」
着地しながら、さらにアンカーを巻き取る。
「硬くした場所は強え」
ロッカ軍曹の膝が崩れる。
「でも、それ以外まで全部守れるわけじゃねえ」
黒鉄の光が揺らいだ。
ロッカ軍曹が片膝をつく。
シェスターは息を荒げながら、拳を構え直した。
「織葉に落とされた理由、今ので分かったぜ」
ロッカ軍曹は床に手をつき、歯を食いしばった。
腰ぎんちゃくが悲鳴じみた声を上げる。
「軍曹! ロッカ軍曹!」
ロッカ軍曹はぎろりと部下を睨む。
「うるせえって言ってんだろ」
「はいっ、すみません!」
ロッカ軍曹は立ち上がろうとした。
だが、足元がふらつく。
顎へ入った衝撃が、意識を揺らしている。
シェスターは追撃しようと一歩踏み込む。
その時、ロッカ軍曹が低く笑った。
「俺たちの役目は終わった」
シェスターの足が止まる。
「何?」
「せいぜい勝った気でいろ」
腰ぎんちゃくが慌ててロッカ軍曹のそばへ駆け寄る。
「撤退ですか軍曹! で、ですがまだ」
「黙れ。回収信号だ」
床に、赤黒いマナ陣が走った。
緊急回収用の術式。
ロッカ軍曹と腰ぎんちゃくの足元から、黒い粒子が立ち上る。
シェスターがアンカーを放つ。
間に合わない。
アンカーの先端が届く直前、ロッカ軍曹の巨体が揺らいだ。
「覚えとけ、レスキュー崩れ」
ロッカ軍曹は血の混じった唾を吐く。
「次は、その足から潰す」
腰ぎんちゃくが最後に叫んだ。
「覚えてろよー!」
ロッカ軍曹がその頭を小突く。
「締まらねえだろうが」
次の瞬間、二人の姿が緩衝スペースから消えた。
残ったのは、倒れたマギアス兵たちと、砕けた氷と、赤い警報だけだった。
シェスターは数秒、何も言わずに立っていた。
それから、通信を開く。
「こちらシェスター。敵指揮官を撃退。外部隔壁側の敵は撤退した」
息が荒い。
腕も足も痛む。
それでも、報告だけは切らさなかった。
「ただし、ガイとリオンは戦闘不能。致命傷はないと思うが、医療班を回してくれ」
『了解。すぐに搬送班を送る』
リヴァルの声は落ち着いていた。
だが、次の瞬間、その声がわずかに硬くなる。
『シェスター。ロッカ軍曹は何か言った?』
「役目は終わった、だとよ。意味深なこと言い残して逃げやがった」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『……分かった』
「何だ」
『イルル用に調整中だったセンサー類を緊急起動する』
「イルル用?」
『彼女のレイン反応と、マギアス反応の差分を拾うためのものだ。
侵入警報の誤検知対策として準備していた』
シェスターの嫌な予感が膨らむ。
通信越しに、オペレーション室の操作音が聞こえた。
数秒。
リヴァルの声が低くなる。
『……まだ伏兵がいたのか』
シェスターは振り返った。
外部隔壁側は静かになりつつある。
だが、シェルターの奥ではまだ赤い警報が回っていた。




