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一章 七話

赤い警報は、まだ止まらなかった。


外部隔壁側の戦闘反応は低下している。

ロッカ軍曹の撤退。

その事実だけを見れば、シェルターは一つの山を越えたはずだった。


だが、リヴァルの端末には別の反応が残っている。

それは、外ではない。


避難民区画の奥。

生活スペースと退避導線の境目。

先ほどまで、避難誘導の人の流れに紛れて見えなかった、

小さなマギアス反応が複数。


一つ。

三つ。

七つ。

増えている。


「……撤退信号に合わせたか」


リヴァルは低く呟いた。


ロッカ軍曹の撤退は、終わりの合図ではなかった。

外部隔壁側の戦力を引きつけ、避難民の流れを中央へ押し込み、

その隙に潜伏していた部隊を動かす。

本命は、避難民だった。


リヴァルは通信を開く。


『織葉、紫乃さん、避難民区画に伏兵反応。中央退避導線上に出ます』


通信が届くより早く、現場では変化が起きていた。

退避区画の手前で、織葉はフィリアの傍らに膝をついていた。

フィリアは胸を押さえ、浅い呼吸を繰り返している。


刃は上着を貫かなかった。

だが、衝撃は残っていた。

一度止まりかけた呼吸を戻すために、織葉は気道を確保し、必要な処置を続けていた。

子供はすぐそばで震えている。


「大丈夫です。ゆっくり吸ってください」


織葉の声は穏やかだった。


その背後で、天井の通気口が砕けた。

黒い影が落ちてくる。

織葉は振り向かなかった。


着地音の直前。

彼女の腕が伸びる。

落ちてきたマギアス兵の襟元を掴み、床へ引き倒す。

相手が受け身を取るより早く、肘が鳩尾へ入った。


兵の息が止まる。

織葉はそのまま立ち上がった。

一瞬で、頭を切り替える。


目の前には、まだ避難民がいる。

倒れかけのフィリアがいる。

子供がいる。

だが、その背後には、もっと大きな人の流れがある。


織葉は息を吸った。

そして、凄まじく通る声で叫んだ。


「走れ! 中央広間に!」


その声は、警報音を突き抜けた。

泣いていた子供も、立ちすくんでいた大人も、反射的に顔を上げる。

織葉の通信に、リヴァルの声が重なった。


『織葉、状況を――』


「中央広間の隔壁を開けろ」


織葉は、リヴァルの問いを待たなかった。


「今すぐ」


通信の向こうで、一瞬だけ間が空いた。

だが、リヴァルは余計な確認をしなかった。


『了解。中央広間隔壁、緊急開放』


重いロック音が、遠くから響く。

中央広間へ続く隔壁が、ゆっくりと上がり始めた。


織葉はフィリアを一度だけ見た。

まだ意識ははっきりしていない。

だが、呼吸は戻りつつある。


子供は近くの職員が抱え上げた。

それを確認し、織葉は避難民の流れに逆らって走り出した。


「やれるだけは、やる所存」


その声は誰に向けたものでもなかった。


悲鳴。

嗚咽。

床を蹴る足音。


どこかで誰かが名前を呼んでいる。

消え去りそうな息遣い。

織葉はそれらを拾いながら走った。


曲がり角の先に、マギアス兵が二人。

避難民の背中へ向けてアーツデバイスを構えている。

織葉は速度を落とさない。


一人目の手首を打つ。

デバイスが跳ねる。

二人目の顎へ掌底。

倒れた一人目の膝を踏み抜き、動きを止める。


殺さない。

だが、二度と今この場では立てないようにする。


次の通路。

倒れている避難民。

血を流している。

生きているのか、もう届かないのか。


織葉は一瞬で見た。

呼吸あり。

出血多量。


だが、今ここで立ち止まれば、奥の三人が斬られる。

織葉は近くの職員へ叫ぶ。


「圧迫止血! 動かせるなら中央へ!」


返事を待たず、前へ出る。

心は乱れない。


乱している暇がない。

乱れれば、次の一人が死ぬ。

織葉は走り続けた。


だが、すべてには間に合わなかった。

悲鳴が上がる。

どこかで金属音が響く。

誰かが転び、その上を別の避難民が必死に跨ぐ。


中央広間の隔壁前には、早く到着した避難民が集まり始めていた。

隔壁はまだ完全には開いていない。

上がりきるまで、あと数秒。

その数秒が、長かった。


「早く!」


「押すな!」


「子供がいる!」


後ろから人が押し寄せる。

前の人間は、わずかに開いた隙間をくぐろうとする。

その背後で、マギアス兵が姿を現した。


三人。

さらに奥から二人。

避難民の悲鳴が重なる。


一人がアーツデバイスを構える。

刃ではない。

短いトンファー型のデバイス。


もう一人は大剣型。

避難民たちは押し合い、逃げ場を失っていた。


その時。


ゴツン、と。

重い音が響いた。

マギアス兵の一人が、横へ吹き飛んだ。

壁に背中を打ちつけ、ずるりと落ちる。


残りの兵たちが一斉に振り向いた。


そこに、イルルが立っていた。

医療区画の患者服の上に、支給された上着を羽織っている。

肩にはまだ保護パッチが貼られていた。

両手には、補強でかろうじて形を保っているハンマーアーツデバイス。


戦闘使用は禁止されていたハンマー。

もう長くは戦えないと、彼女自身が知っているハンマー。

イルルは息を整えながら、避難民とマギアス兵の間に立った。


「そこを」


彼女の声は小さい。

だが、震えてはいなかった。


「通さないでください」


マギアス兵が踏み込む。

トンファーが振られる。

イルルは避けない。

肩口を刃がかすめる。

血が飛ぶ。


次の瞬間、傷口に霧雨のようなレインが滲んだ。

出血が止まる。

傷が塞がる。


イルルは振り向きざまにハンマーを振った。

鈍い音。

相手の脇腹に入り、兵が息を詰まらせる。


別の兵が頭部を狙ってトンファーを振る。

ハンマーで受けようとしたが、間に合わない。

硬い衝撃がイルルの側頭部を弾いた。

視界が揺れる。


それでも、イルルは下がらなかった。

一歩踏み込む。

そのまま、額を相手の顔面に叩きつけた。


「ぐっ」


怯んだ兵の膝が緩む。

イルルは両手でハンマーを握り直し、下から振り上げた。

兵の身体が床を転がる。


息が苦しい。

目の奥が痛い。

レインが熱を流している。

それでも、身体の奥には重さが戻ってきていた。


ジェーンに言われたことを覚えている。

これは治療ではない。

動ける形に保っているだけ。

それでも今は、動かなければならなかった。


大剣型のマギアス兵が前へ出る。

避難民たちが悲鳴を上げる。

隔壁はようやく人が通れる高さまで開き始めていた。


「走ってください!」


イルルは叫んだ。

叫び慣れていない声だった。

だが、避難民は動いた。

中央広間へ向かって、次々と隔壁の下をくぐる。


大剣が振り上げられた。

イルルはハンマーを構える。

受けるのではない。

殴り返す。


大剣が落ちる。

イルルのハンマーが横からぶつかった。

金属が悲鳴を上げた。


ボキ、と。


いや、折れたというより。

金属が限界を迎えて、ちぎれた。

柄と打撃部を繋いでいた補強材が弾ける。

内部から疲労していた素材が、耐えきれず裂けた。


ハンマーの先端が床を跳ね、遠くへ転がる。

イルルの手には、折れた柄だけが残った。


大剣の兵が笑う。

もう一度、振り上げる。


イルルは動けない。

足に力が入らない。

レインを出そうとしても、指先で霧が散るだけだった。


大剣が振り下ろされる直前。

兵の身体が止まった。

首筋に、細いクナイデバイスの先端が触れている。


本当に、わずかに。

傷と呼べるほどでもない。

だが、そこから流れ込んだものが、兵の意識を奪った。

紫乃が、兵の背後に立っていた。


「よく頑張ったわね」


いつもの柔らかい声。

けれど、息は少しだけ荒い。


「イルルちゃん、あなたMVPよ」


マギアス兵の身体が崩れ落ちる。

イルルも、その場にへたり込んだ。

折れた柄を握ったまま、床に座り込む。


「殺したん、ですか」


イルルはかすれた声で聞いた。


紫乃は首を横に振る。


「大丈夫よ。これは眠毒」


倒れた兵を見下ろし、にこりともせずに言う。


「長い間、ぐっすり眠ってもらうだけよ」


中央広間の隔壁は完全に開いた。

避難民たちは、職員の誘導で中へ流れ込んでいく。

だが、そこにはすでに傷ついた人々が運び込まれていた。


血を流す者。

腕を押さえてうずくまる者。

呼吸が浅い者。

名前を呼ばれても返事をしない者。

そして、動かない者。


フィリアは、そこで目を覚ました。

最初に聞こえたのは、泣き声だった。

次に、誰かの呻き声。


血の匂い。

焦げた金属の匂い。


視界がぼやけている。

胸が痛い。

呼吸は戻っているが、まだ深く吸うと苦しい。

フィリアは身を起こそうとして、近くの職員に支えられた。


「無理をしないでください」


その声も、遠かった。


フィリアは周りを見る。

倒れている人がいた。

血を流している人がいた。

動かない人がいた。


避難民。

守られるはずの人たち。

このシェルターに逃げてきて、守られるだけのはずだった人たち。


でも、守られていない人がいる。


守る人たちがいた。

ガイがいた。

リオンがいた。

シェスターがいた。


織葉がいた。

紫乃がいた。

リヴァルがいた。

イルルも、患者の身体でハンマーを持って立っていた。


フィリアは、その戦いをずっと見てきた。

仕事を手伝いながら。

オペレーション室で。

避難民区画で。


誰かが走り、誰かが倒れ、誰かが傷つきながらも、前に出ていた。


自分は。

自分は、何をした。

子供の前に立った。


でも、息が止まった。

織葉に助けられた。

目を覚ましたら、人が倒れていた。


私は、見ているだけ。

血を流している人を、見ているだけ。

何もできない。

何も。


フィリアの手が震えた。

胸の奥で、何かが熱を持つ。


ライト。

そう呼ばれていたもの。

訓練では、うまく扱えなかったもの。

リヴァルが、何度も確認してくれたもの。


けれど、今フィリアに分かることは何もなかった。


波形も。

出力も。

制御も。

何一つ、頭には浮かばない。


ただ。


守りたかった。

目の前の人たちを。


血を流す人たちを。

呼吸を失いかけている人たちを。

もう返事をしない人たちを。


「私に」


声になったのかどうかも分からなかった。


「少しでも」


守る力があれば。

みんなを守れれば。


その瞬間、フィリアの背中から光が噴き上がった。

翼だった。

だが、羽ではない。

マナが形を取ったもの。


白く、淡く、しかし目を開けていられないほど強い光。

翼は一度大きく広がり、霧散しなかった。

形を保ったまま、中央広間を包み込む。


誰かが叫んだ。

誰かが祈るように名前を呼んだ。


光が床を走る。

血の赤が薄れていく。

裂けた皮膚が塞がる。


折れかけていた腕が、ゆっくりと本来の形へ戻る。

浅く途切れていた呼吸が、深くなる。

意識を失っていた人が、目を開ける。


そして。

動かなかった人の胸が、わずかに上下した。


隣で泣いていた女性が、息を止める。


「……あなた?」


返事はない。

だが、もう一度、胸が動いた。


次に、弱い咳。

止まっていたはずの呼吸が戻る。

女性が泣き崩れた。


別の場所でも、同じことが起きていた。

名前を呼ばれても返事をしなかった老人が、ゆっくりと目を開ける。

血に濡れていた青年が、混乱したように手を動かす。

子供を抱えて倒れていた母親が、光の中で息を吹き返す。


それは、現代のマナアーツではなかった。

誰も、発動名を聞いていない。

術式もない。

触媒もない。


フィリア自身でさえ、何をしたのか分かっていなかった。

ただ、光が満ちた。

命が戻った。

中央広間全体が、白い翼の内側に入っていた。


オペレーション室で、リヴァルは端末を見ていた。

警報は一斉に狂った。


マナ濃度、急上昇。

波形、測定不能。

触媒反応、なし。

術式展開、なし。


対象区画、中央広間。

状態、マナ飽和。

それ以上の情報が出ない。


だが、映像は残っていた。


倒れていた避難民が起き上がる。

血が止まる。

傷が消える。

止まっていた命が戻る。


リヴァルは、ほんの数秒、言葉を失った。


「……ライト」


そう言いかけて、止まる。


違う。

これは、訓練で観測していたライトの波形ではない。

マナセットの発現ではない。

現代式のマナアーツでもない。


もっと古い。

もっと原始的な。

マナそのものが、意味を持って機能している。


データには残らない。

ただ、結果だけがある。


中央広間で、フィリアは光の中心にいた。

けれど、彼女だけが何も分かっていなかった。


なぜ翼があるのか。

なぜ光っているのか。

なぜ人が立ち上がっているのか。

自分が何をしたのか。

何一つ、分からない。


ただ、目の前の人が息をしている。

それだけを見ていた。


イルルは床に座り込んだまま、その光を見上げていた。

折れたハンマーの柄を握る手から、力が抜ける。

紫乃も、珍しく何も言わなかった。


織葉は中央広間の入口で足を止め、静かに膝をついた。

救えなかったはずの人が、息を吹き返している。


奇跡。

誰かが、そう呟いた。


フィリアの翼は、まだ消えなかった。

白い光は、中央広間にいる人々を包み続けていた。

そしてフィリアは、自分の背中の翼を見ることもできずに、

ただ震える声で言った。


「……何が」


誰に聞いたのかも、分からない。


「何が、起きたんですか」


フィリアの問いに、誰もすぐには答えられなかった。

何が起きたのか。

その場にいた誰もが、それを見ていた。


光が広がった。

傷が塞がった。

倒れていた人が息を吹き返した。

血の匂いが薄れ、苦しそうな呻き声が減り、

泣き声だけが中央広間に残った。


だが、誰も説明できなかった。


フィリア自身でさえ、自分の背中に広がる白い翼を見ていない。

光の翼は、まだそこにあった。


霧散せず、形を保ったまま、中央広間の天井近くまで淡く伸びている。

羽ばたくわけではない。

ただ、そこにある。

フィリアの背から生えたもののようでいて、

もっと別の何かが彼女の形を借りて現れているようにも見えた。


「フィリアさん」


織葉が静かに近づいた。

フィリアは振り返ろうとしたが、身体がついてこなかった。

膝から力が抜ける。

倒れる直前、織葉が支えた。


翼の光が揺れる。

中央広間にいた避難民たちが息を呑んだ。

フィリアは織葉の腕の中で、小さく震えていた。


「私、何を……」


「今は考えなくていいです」


織葉はそう言った。


「呼吸を。ゆっくり」


フィリアは言われた通りに息を吸おうとした。

胸はまだ痛い。

けれど、先ほどまでの詰まるような苦しさは薄れていた。


いや。

薄れているだけではない。

身体の奥に残っていた痛みまで、ゆっくりほどけていく。

フィリアは自分の胸元を見下ろした。

何が起きているのか、やはり分からない。


中央広間のあちこちでは、医療スタッフと避難誘導員が、

倒れていた人々の確認に走っていた。


「呼吸あります!」


「こっちも意識戻りました!」


「出血、止まってます!」


「骨折の反応が……消えてる?」


報告の声が重なっていく。

信じられないものを見た声。

喜びより先に、理解が追いつかない声。


ジェーン・フォルスターは、床に座り込んだイルルの前に膝をついていた。

イルルは折れたハンマーの柄を握ったまま、ぼんやりと光を見ている。

肩口にあったはずの傷は消えていた。


側頭部の打撲もない。

医療用パッチの下に残っていた炎症反応も、

体内に積み重なっていた負荷も、検査端末の数値からまとめて消えている。

ジェーンは端末を見て、イルルを見て、もう一度端末を見た。


「……完治しています」


イルルがゆっくりと目を瞬かせた。


「完治、ですか」


「少なくとも、検査上は」


ジェーンの声は冷静だった。

だが、その冷静さは、何とか形を保っているだけだった。


「現在の負傷だけではありません。

 蓄積していた炎症、マナ循環負荷、内科的疲労反応まで消えています」


「レインで、ですか」


「違います」


ジェーンは即答した。


「あなたのレインではありません。

 私のメンドセーブでもありません。

 これは治療経過とは呼べません」


少し離れた場所で、紫乃が倒れたマギアス兵を見下ろしていた。

眠毒で落とした兵。

避難民へ刃を向けていた兵。


その体表に浮かんでいたはずの濁ったマナ反応が、薄れている。

紫乃は目を細めた。


「……あら」


通信越しにリヴァルの声が入る。


『紫乃さん、その兵を動かさないでください。捕縛班を回します』


「動かすつもりはないわよ。ただ」


紫乃は足元の兵を見た。


「ずいぶん静かになったわね」


『こちらでも確認しています』


リヴァルの声は硬かった。


『捕縛したマギアス兵全員から、マギアス反応が消失しています』


中央広間にいた隊員たちの手が止まった。

フィリアは織葉の腕に支えられたまま、その言葉を聞いた。

マギアス反応が消えた。


それが何を意味するのか、今のフィリアには分からない。

ただ、リヴァルの声がいつもより遠いことだけは分かった。


オペレーション室では、警報画面がまだ赤く点滅していた。

だが、表示されている内容は、通常の警報ではなかった。


マナ濃度飽和。

波形解析不能。

触媒反応なし。

術式展開なし。


広域生体反応回復。

マギアス反応消失。

いくつもの結果が、何一つ説明になっていない。


リヴァルは端末を見つめたまま、奥歯を噛んだ。

見ていた。

何が起きたかは見ていた。

だが、データには何も残っていない。


ただマナが満ちた。

ただ命が戻った。

ただ敵の反応が消えた。

それだけだった。


「記録になっていない」


小さく呟く。

隣の補助スタッフが、不安そうにリヴァルを見た。


「リヴァル主任」


「中央広間の負傷者確認を優先。

 医療班は全員投入。

 捕縛班はマギアス兵を隔離。

 拘束具は通常規格に変更しない。

 反応が消えていても油断はしないで」


「了解」


リヴァルは画面から目を離した。

中央広間の映像に、フィリアが映っている。

彼女は織葉に支えられたまま、何度も周囲を見回している。


助かった人たち。

泣いている人たち。

自分を見ている人たち。

その視線の意味が分からず、怯えたように肩を縮めている。


リヴァルは通信を開いた。


『織葉』


「はい」


『フィリアを医療スタッフへ。本人にも検査が必要です』


「承知しました」


『イルルも同じく検査へ。完治しているように見えても、判断は医療班に任せます』


ジェーンが通信に割り込んだ。


「当然です。完治という結果と、動いていいという許可は別です」


イルルが小さく肩を落とした。


「……はい」


その返事があまりに素直で、ジェーンは少しだけ目を細めた。


「それが分かるなら、今回は上出来です」


フィリアの背の翼が、ゆっくりと薄れていく。

消えるというより、光が空気にほどけていくようだった。

それでも最後まで、翼の形は崩れなかった。

形を保ったまま、少しずつ白い粒子になって、中央広間の明かりに溶けていく。


誰かが手を合わせていた。

誰かが泣きながら、助かった家族を抱きしめていた。

誰かが、恐怖の残った目でフィリアを見ていた。


奇跡を見た目。

得体の知れないものを見た目。

その両方があった。


フィリアは、その視線から逃げるように目を伏せた。


「私、本当に……何も」


織葉は支える腕に少しだけ力を込めた。


「今は、それで構いません」


「でも」


「今、あなたが立っているだけで、見ている人たちがいます」


織葉は中央広間を見た。


「だから、倒れるなら医療室でお願いします」


フィリアは一瞬だけ、返事に困った顔をした。

その直後、緊張が切れたように意識が遠のく。

織葉は予想していたように、静かにフィリアを抱き上げた。


中央広間の混乱は、少しずつ収束していった。

負傷者は医療スタッフによって確認され、重症だった者から順に搬送された。

もっとも、重症という言葉自体が奇妙だった。


つい先ほどまで死にかけていた者が、今は震えながらも自分の足を動かしている。

出血していた者が、血に濡れた服だけを残して傷のない腕を見下ろしている。


泣き声は止まらない。

だが、その泣き声の質が変わっていた。

恐怖だけではない。

生きていることに追いつけない声だった。


それでも、全員が救われたわけではなかった。

傷は消えても、恐怖は消えない。

命は戻っても、襲われた事実は消えない。


安全だと信じていた場所に、敵が入ってきた。

守られるはずの区画で、刃を向けられた。

それは、光では治らなかった。


数時間後。


避難民たちは、中央広間に集められていた。

負傷者のうち、動ける者は椅子に座り、

動けない者は医療スタッフの管理下で近くの簡易ベッドに横になっている。

子供たちは大人のそばに固まり、誰も大きな声を出さなかった。


中央の簡易壇に、リヴァルが立った。

隣にはシェルター運用スタッフが数人。

少し離れた位置に、織葉と紫乃が控えている。


ガイとリオン、シェスターはまだ検査中だった。

フィリアとイルルも医療区画にいる。


リヴァルは、集まった避難民を一人ひとり見るように視線を動かした。

そして、頭を下げた。


「今回、シェルター内への侵入を許しました」


中央広間が静まり返る。


「これは、防衛責任者である僕の責任です」


ざわめきは起きなかった。

それが怒りのなさを意味しないことを、リヴァルは分かっていた。

恐怖の直後、人はすぐ怒鳴れない。

声にできない不信の方が、ずっと重い。


リヴァルは頭を上げた。


「外部隔壁側の攻撃は囮でした。

 敵は撤退信号に合わせて、避難民区画内に潜伏させていた戦力を動かしています。

 さらに、マギアス警報の調整作業中であることを把握していた可能性が高い」


避難民の中から、誰かが息を呑んだ。


「つまり、敵はこのシェルターの反応、導線、

 避難手順をある程度読んでいたということです」


リヴァルは言葉を切った。

誤魔化すつもりはなかった。


「防衛システムは強化します。

 外周センサー、内部通気系、保守ダクト、搬入口、避難民区画への導線、

 すべてを再点検し、監視系統を増設します。

 警報調整中でも空白が出ないよう、補助系統も組み直します」


職員たちが静かに頷いた。

だが、避難民の表情は晴れない。

リヴァルはそれも見ていた。


「それでも」


彼は続けた。


「この場所に残ることに納得できない人がいることも、分かっています」


そこで初めて、ざわめきが起きた。

小さな声。

抑えた声。


「また来るのか」


「ここも安全じゃないのか」


「子供がいたのに」


「でも、他にどこへ」


リヴァルはその声を止めなかった。

すべて聞いた上で、話を続ける。


「移動を希望する人には、別の受け入れ先を手配します。

 受け入れ先との調整、移動手段、安全確認はこちらで行います。

 あなたたちに交渉を任せるつもりはありません」


一人の男性が手を上げた。

顔色は悪い。

先ほどまで、家族を抱えて泣いていた男だった。


「本当に、受け入れてもらえるんですか」


「全力で納得させます」


リヴァルは即答した。


「今回の件はこちらの責任です。

 移動を望む人が不利にならないよう、僕が話を通します」


別の女性が震える声で言う。


「でも、ここより安全な場所なんてあるんですか」


リヴァルは少しだけ間を置いた。


「候補はあります」


中央広間が静まる。


「最新式の防衛システムを搭載したシェルターです。

 現時点で、ここ以上の防衛機能を求めるなら、候補はそこになります」


紫乃がわずかに目を細めた。

織葉も、リヴァルの言葉の意味を察したように視線を落とす。

まだ名前は出さない。

だが、次に繋がる場所だった。


リヴァルは避難民たちへ向き直る。


「移動を希望する人は、配布端末から申請してください。

 端末を持っていない人、操作が難しい人は、

 近くのスタッフに声をかけてください。

 今日中に決める必要はありません。

 数日、状況を見てからでも構いません」


子供を抱いた女性が、小さく問う。


「残る人は」


「残る人にも、同じように説明と支援を続けます」


リヴァルは答えた。


「防衛強化の進捗は公開します。

 不安があれば、個別に聞きます。

 残る選択も、移動する選択も、こちらの都合で責めることはありません」


その時、避難民の後方から低い声が上がった。


「あの子が来たからじゃないのか」


広間の空気が固まった。

誰のことかは、言わなくても分かった。

イルル・アースフィア。


彼女が救助されてから、マギアス軍はここへ来た。

実際、敵は彼女を追っていた。

否定しきれない事実が、そこにある。


リヴァルは声のした方を見た。

怒鳴り返さない。

目を逸らさない。


「イルル・アースフィアが、敵の目的の一つだった可能性はあります」


ざわめきが広がる。

織葉がわずかに動きかけたが、紫乃が手で制した。

リヴァルは続ける。


「ただし、今回の侵入は彼女一人を追って偶発的に起きたものではありません。

 警報調整の隙、避難導線、外部隔壁への攻撃、

 撤退信号に合わせた伏兵の起動。計画された襲撃です」


声を上げた誰かは、何も言わなかった。

リヴァルは言葉を重ねる。


「彼女が狙われていたことと、

 今回の防衛失敗の責任を彼女に負わせることは別です」


中央広間の奥で、子供が泣きそうな顔をした。

その子は、イルルが守った避難民の一人だった。


リヴァルは避難民全体へ向けて言った。


「イルルはこのシェルターの保護対象です。

 そして、今回の襲撃で避難民を守るために戦いました。

 戦闘許可のない状態で、壊れかけのデバイスを持って、

 中央広間の前に立ちました」


誰かが息を詰めた。

それを見た人たちは、覚えている。

ゴツン、という重い音。


患者服の上に上着を羽織った少女。

折れたハンマー。

大剣の前に立った姿。


「怖いと思う人がいることを、否定しません」


リヴァルの声は静かだった。


「納得できない人がいることも、分かっています。

 だから移動希望は受け付けます。

 ですが、このシェルターとして、彼女を敵に引き渡す選択はありません」


はっきりと、言い切った。


「狙われているからこそ、守ります」


中央広間の空気が少し揺れた。

それは賛同ではなかった。

反発でもなかった。


誰もが、まだ答えを持っていない。

リヴァルはその曖昧さごと受け止めるように、もう一度頭を下げた。


「今回、皆さんを危険に晒しました。申し訳ありません」


沈黙が落ちる。


「それでも、守るための手は止めません。

 移動する人にも、残る人にも、必要な支援を行います。

 申請は端末から。相談はスタッフへ。

 今夜は中央広間と第二退避区画を開放し、

 希望者はまとまって休めるようにします」


リヴァルは顔を上げた。


「以上です」


説明が終わっても、誰もすぐには動かなかった。

避難民たちは互いの顔を見た。


端末を握りしめる者。

子供の頭を撫でる者。

中央広間の天井を見上げる者。


そこにはもう、白い翼はない。

だが、光を見た記憶だけが残っていた。


リヴァルは壇を降りる。

紫乃が静かに近づいた。


「厳しいことを言われるわよ」


「分かっています」


「イルルちゃんにも、聞こえるかもしれない」


「それでも隠せません」


リヴァルは中央広間を振り返った。


「怖かった人に、怖くなかったことにはできない」


紫乃は少しだけ目を伏せた。


「そうね」


リヴァルは端末を開く。

捕縛兵の隔離状況。

医療区画の検査結果。

フィリアのバイタル。


イルルの検査データ。

そして、マギアス反応消失の記録。


記録と呼べるほどのものではない。

ただ、消えたという結果だけ。

リヴァルは画面を見つめた。


守れなかった。

だが、終わったわけではない。

この後に、聞かなければならないことがある。


捕まえた兵たちから。

そして、イルルからではなく、イルルを狙った者たちから。


リヴァルは端末を閉じた。


「捕縛区画へ行きます」


紫乃は静かに頷いた。


「私はイルルちゃんのところへ行くわ」


「お願いします」


中央広間には、まだ避難民たちの小さな声が残っていた。

残るか。

移るか。

信じるか。

疑うか。


誰もすぐには決められない。

けれど、選ばせるための扉だけは開かれた。

そしてその奥で、次の問題が待っていた。

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