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一章 八話

捕縛区画は、中央広間とは別の静けさに包まれていた。


外の混乱は届かない。

厚い隔壁。

白い照明。

壁際に並ぶ拘束椅子。


そこに、捕縛されたマギアス兵たちが一人ずつ固定されている。

通常の人間用拘束具ではない。

マギアス反応を持つ者が暴れた場合を想定した、対マナアーツ拘束具だ。


腕、脚、胴、首。

必要以上に傷つけないが、出力だけは確実に封じる。


リヴァルが入室すると、担当スタッフが姿勢を正した。


「主任」


「状況は」


「全員、意識は戻っています。外傷は軽微。ですが……」


スタッフは端末を見る。


「マギアス反応は、全員から消失したままです」


リヴァルは拘束椅子の一つへ歩いた。

そこに座らされている兵は、先ほどまで避難民へ刃を向けていた男だった。

紫乃の眠毒で落とされた個体ではない。


織葉に倒され、捕縛班に回収された兵だ。

男はリヴァルを見るなり、口の端を歪めた。


「人間どもが、いい気になるなよ」


声には虚勢があった。

恐怖ではない。


少なくとも、本人はそう見せたがっていた。


「この程度の拘束、マギアスなら簡単に――」


男は腕に力を込めた。

拘束具がわずかに軋む。


「簡単に……」


もう一度、力を込める。

何も起きない。


マナの濁りも、硬質化も、刃の形成も、炎も、雷も。

何一つ出ない。


「簡単に……?」


男の顔色が変わった。

リヴァルは端末を確認する。

反応はない。

完全に、ない。


「もう君はマギアスじゃない」


静かに告げた。

男がリヴァルを見る。


「何を、言って」


「マギアス反応は完全に消えている。今の君の身体反応は、人間と同じだ」


「ふざけるな」


「ふざけていない」


リヴァルは隣のスタッフへ目を向けた。


「感覚検査を」


「はい」


スタッフが男の腕へ検査用の細い器具を当てる。

針ではない。

マナ神経の反応を見るための、弱い刺激だ。


通常のマギアス兵なら、反応は鈍い。

痛覚が濁り、身体の防御反応も変質している。


男は鼻で笑おうとした。


その瞬間。


「ぎゃっ」


短い悲鳴が出た。

男自身が、一番驚いた顔をした。


「何だ、今の」


スタッフは冷静に端末を見る。


「通常痛覚反応。人間基準では軽度です」


「軽度……?」


男の額に汗が浮いた。

忘れていた痛み。


いや、忘れさせられていた痛み。

マギアスである間、身体はもっと雑に扱えた。

殴られても、切られても、燃えても、どこか遠かった。


だが今は違う。

皮膚の下に、神経がある。

肉がある。

骨がある。


痛みが、直接そこへ届く。


「嘘だ」


男は拘束具の中で身をよじった。


「俺は、俺たちは、選ばれたんだ。痛みも、恐怖も、弱さも、捨てたはずだ」


リヴァルは男を見下ろす。


「戻ったんだよ」


男の呼吸が荒くなる。


「人間に」


その言葉は、侮辱ではなかった。

だが男にとっては、処刑宣告のように響いたらしい。


「戻すな」


男の声が震えた。


「戻すなよ……今さら……」


リヴァルは一歩も動かなかった。


「質問する。今回の襲撃の目的は」


男は笑おうとした。

失敗した。

口元が引きつるだけだった。


「言うわけが」


スタッフが再び器具を構える。

男はそれを見ただけで、肩を跳ねさせた。


「やめろ」


「まだ何もしていない」


「やめろ!」


男は拘束具の中で暴れようとした。

だが、力が入らない。


マナで補強されない身体は、ただの身体だった。

筋肉は疲れ、傷は痛み、呼吸は乱れる。


リヴァルは声を荒げなかった。


「目的は」


「……あいつだ」


男は床を見たまま言った。


「あの女だ」


「イルル・アースフィア」


男は答えない。

だが、その沈黙が答えだった。


「なぜ狙った」


男の唇が震える。

言うべきではない。


そう教え込まれているのだろう。

だが、痛みと恐怖を思い出した身体は、教え込みよりも正直だった。


「連れ戻せって、命令だった」


「誰の命令だ」


「知らない。

 本当に知らない。

 現場にはロッカ軍曹がいた。

 でも、あの人も全部は知らされてない」


「イルルを連れ戻す理由は」


男は目を閉じた。

汗が顎から落ちる。


「やつが目的だった」


「理由を聞いている」


「アイツは……」


そこで、男の喉が止まった。

言葉を出そうとしている。

だが、出ない。

恐怖が先に来ている。


リヴァルはその表情を見た。

マギアス軍への恐怖ではない。

もっと別のもの。


イルルという名前に結びついた、何かを口にすることへの恐怖。

男は震える声で続けた。


「アイツは、ただの――」


その先は、言わなかった。

いや、言えなかった。


男は急に呼吸を乱し、首を振った。


「知らない。

 俺は知らない。

 聞かされてない。

 あいつを連れ戻せって、それだけだ。

 抵抗するなら、周りはどうなってもいいって」


リヴァルの目が細くなる。


「周りはどうなってもいい」


「避難民も、隊員も、関係ない。あいつが戻ればいい。それが命令だった」


部屋の中が静まり返った。

担当スタッフがリヴァルを見た。


「主任」


リヴァルは少しだけ考え、端末の記録を止めなかった。

ただし、その表情は変えなかった。


「続ける。警報調整の情報はどこで得た」


「知らない」


「内部協力者がいるのか」


「知らない!」


男は叫んだ。


「本当に知らない! 俺たちはタイミングを聞かされただけだ。

 外でロッカ軍曹が暴れたら、撤退信号で中の部隊が動く。

 避難民が中央に寄る。

 そこを押さえる。

 あいつが動けば捕まえる。

 動かなければ、そっちから探す」


「イルルが動くと思っていた?」


男は息を荒げながら笑った。


「動くだろ」


その笑いは、弱かった。


「そういうやつだって、聞いてた」


リヴァルは黙った。

イルルの戦い方。

倒れずに前へ出る。


殴られれば塞ぎ、切られれば立ち、届くまで進む。


敵は、それを知っていた。

知られていた。


「もういい」


リヴァルはスタッフへ視線を向ける。


「全員、引き続き隔離。

 マギアス反応消失後の身体検査を実施。

 尋問は最低限に留めて、医療確認を優先」


スタッフが頷く。


「了解」


男が顔を上げた。


「おい、待て。俺はどうなる」


リヴァルは扉へ向かいながら答えた。


「人間として扱う」


男は何か言い返そうとした。

だが、言葉にならなかった。

人間として。

それは救いでも罰でもあった。


捕縛区画を出ると、リヴァルは廊下で足を止めた。

端末に尋問記録が保存されている。


イルル・アースフィア。

彼女を連れ戻す命令。


ただの少女ではない、と言いかけた兵。

敵が知っていた、彼女の性質。

そして、フィリアの光で消えたマギアス反応。


情報は増えた。

だが、分かったことは少ない。


それでも、リヴァルだけは一つの線を見た。

イルルが偶然巻き込まれただけではない。

彼女は、もっと深いところで何かに繋がっている。


今、それを本人に伝えるべきではない。

シェスターにも、まだ言うべきではない。


リヴァルは端末を閉じた。


「……守る対象が、増えたな」


そう呟いて、医療区画へ向かった。

医療区画では、中央広間とは別の慌ただしさが続いていた。


フィリアは検査ベッドの上で眠っている。


バイタルは安定。

外傷なし。

マナ反応は、通常値。


あれほどの光を放った痕跡は、ほとんど残っていない。

ジェーンは端末を見ながら眉間に皺を寄せていた。


「現象が大きすぎるのに、本人の負荷が薄すぎる」


「良いことでは?」


近くのスタッフが言う。


「良いことです。良いことですが、医療記録としては最悪です」


ジェーンは淡々と返した。


「原因不明、経過不明、再現性不明。結果だけが良好。

 医療者が一番困る類です」


その隣のベッドに、イルルが座っていた。

患者服のまま。


だが、顔色は救助直後とは別人のように良い。

肩も、腕も、頭も、腹部の内出血も、体内の蓄積疲労も消えている。

ジェーンはイルルの検査結果を確認し、静かに言った。


「完治です」


イルルは少し困ったような顔をした。


「では、動いても」


「今日の話ではありません」


「はい」


即答だった。

ジェーンはわずかに満足そうに頷く。


「よろしい」


イルルは膝の上に視線を落とした。

そこには、もうハンマーはない。


折れた柄も、砕けた先端も、技術班が回収した。


危険物として。

そして、記録として。

イルルの手は空だった。


その空の手を、彼女は何度か握った。

紫乃がカーテンを開けて入ってきた。


「入ってもいいかしら」


ジェーンが頷く。


「短時間なら」


「ありがとう」


紫乃はイルルのそばに椅子を引き寄せて座った。


「体調はどう?」


「治ったそうです」


「そうね。見た感じもずいぶんいいわ」


紫乃は柔らかく言った。


「でも、顔はぜんぜん治ってないわね」


イルルは目を伏せた。


「……すみません」


「何に?」


紫乃の声は優しかった。

イルルは答えられなかった。


少し間を置いて、ようやく言う。


「私が、ここに来たから」


紫乃は何も言わなかった。

イルルは続ける。


「私を、追ってきたんだと思います」


「そうかもしれないわね」


紫乃は否定しなかった。

イルルの肩がわずかに震える。


否定してほしかったのかもしれない。

でも、紫乃は嘘をつかなかった。


「でも、それだけじゃないわ」


イルルが顔を上げる。


「今回の襲撃は、ずいぶん準備されていたみたい。

 警報の隙も、避難の流れも、外の攻撃も。

 あなた一人を追いかけて、偶然こうなったわけじゃない」


「でも」


「責める人はいると思う」


紫乃は静かに言った。


「怖かった人もいるもの。

 子供を抱えて逃げた人もいる。

 刃を向けられた人もいる。

 納得できない人がいても、不思議じゃないわ」


イルルの手が膝の上で強く握られる。

紫乃はその手を見て、少しだけ声を柔らかくした。


「でもね、イルルちゃん」


イルルは黙って紫乃を見る。


「あなたが体を張って戦った姿も、同時に見ているの」


中央広間の前。

避難民とマギアス兵の間に立ったイルル。

壊れかけのハンマーを持ち、切られても、殴られても、下がらなかった姿。


「責める人はいると思う」


紫乃はもう一度言った。


「でも、あなたに守られた人たちがいることも、忘れないで」


イルルの表情が歪んだ。

泣きそうなのに、泣き方が分からないような顔だった。


「私は、守れたんですか」


「ええ」


紫乃は迷わず答えた。


「少なくとも、私は見たわ」


イルルは息を吸った。

吐く。


それだけで少し時間がかかった。


「でも、もっと守れたかもしれません」


「それを言い始めたら、全員そうよ」


紫乃は静かに笑った。


「織葉も、私も、ガイくんも、リオンくんも、シェスターくんも。

 みんな、もっと早く走れたかもしれない。

 もっと上手くできたかもしれないって思うもの」


「紫乃さんも、ですか」


「もちろん」


紫乃は肩をすくめた。


「おばさんだって、万能じゃないのよ」


イルルは少しだけ目を丸くした。

その時、カーテンの向こうから声がした。


「入るぞ」


シェスターだった。

検査を終えたばかりなのか、腕に簡易固定が巻かれている。


頬には打撲の痕。

歩き方も少しぎこちない。


それでも、彼は自分の足で立っていた。

イルルは慌てて顔を上げる。


「シェスターさん」


「寝てろ」


「座ってます」


「屁理屈言う元気はあるんだな」


シェスターはカーテンを開けて入ってきた。

ジェーンが鋭い目を向ける。


「シェスター隊員。あなたも検査後安静です」


「五分だけ」


「三分です」


「……三分でいい」


ジェーンは時計を見た。


「開始」


シェスターは小さく舌打ちし、イルルのベッド脇に立った。

紫乃は椅子から立ち上がる。


「私は少し外すわね」


「紫乃さん」


イルルが呼び止める。

紫乃は振り返った。


「忘れないで」


それだけ言って、カーテンの外へ出ていった。


シェスターはイルルを見る。

イルルも、シェスターを見る。


先に目を逸らしたのはイルルだった。


「すみません」


「だから、何にだよ」


「私のせいで」


「違う」


シェスターは即答した。

だが、すぐに言い直すように息を吐いた。


「いや。敵がお前を狙ってた可能性はある。

 そこを全部なかったことにはしねえ」


イルルの肩が沈む。


「でもな」


シェスターは続けた。


「それと、お前が悪いって話は別だ」


イルルは膝の上の手を見る。


「避難民の人たちは、移送されるかもしれないと聞きました」


「ああ」


「私がいたから」


「怖かったからだ」


シェスターの声は乱暴だった。

だが、雑ではなかった。


「敵が入ってきた。

 子供に刃を向けた。

 守られるはずの場所で血が流れた。

 そりゃ怖えよ。

 移りたいって思うのは当然だ」


イルルは唇を噛んだ。


「私は、ここにいていいんですか」


シェスターは少しの間、黙った。

そして、ベッド脇の椅子に乱暴に座った。

ジェーンがカーテンの外から言う。


「座る許可は出していません」


「立ってるよりマシだろ」


「残り二分です」


「分かってる」


シェスターはイルルへ向き直った。


「狙われてるなら、なおさら守る」


イルルが目を上げる。


「でも」


「敵に渡す方が安全だって話にはならねえ」


「私がいると、また」


「また来るかもしれねえな」


シェスターははっきり言った。


「だから、守り方を変える。場所も、人も、システムも。

 お前一人に背負わせる話じゃねえ」


イルルは何かを言おうとした。

けれど、言葉が出ない。


シェスターは彼女の空の手を見た。


「ハンマー、壊れたな」


イルルの目が揺れる。


「はい」


「よく持った方だ」


「……はい」


「お前もだ」


イルルが顔を上げる。

シェスターは視線を逸らさなかった。


「あれだけ言われてたのに動いたのは、褒められた話じゃねえ」


「はい」


「ジェーンさんにも怒られろ」


「はい」


「でも」


シェスターは少しだけ声を落とした。


「守ったな」


イルルの喉が小さく震えた。


「私、守れたんですか」


「守った」


短い答えだった。

イルルの目に、涙が浮かぶ。

今度は、落ちた。

一粒だけ。


それから、止まらなくなった。


「怖かったです」


ようやく出た言葉は、それだった。


「痛かったです。足が動かなくて、

 ハンマーが折れて、もう駄目だと思いました」


「ああ」


「でも、後ろに人がいて」


「ああ」


「下がれませんでした」


「知ってる」


シェスターは静かに言った。


「見てねえけど、分かる」


イルルは泣きながら笑った。

少しだけ。


「どうしてですか」


「お前だからだよ」


その答えに、イルルはまた泣いた。

シェスターは頭を掻いた。

こういう時、どうすればいいのか分からない顔だった。


それでも、逃げなかった。


「イルル」


彼は彼女の名前を呼んだ。


「はい」


「お前は、一人で戦う前提で動く」


イルルは黙った。


「倒れたら終わりだと思ってる。

 届かなきゃ意味がないと思ってる。

 だから、切られても、殴られても、塞いで前に出る」


「はい」


「でも、それを続けたら、いつか本当に終わる」


イルルは反論しなかった。

もう分かっているからだ。

ハンマーも。

自分の身体も。


補強で持たせ続ければ、いつか限界が来る。


「だから」


シェスターは少しだけ言葉を探した。

乱暴な彼にしては、珍しく慎重だった。


「もっと多くの人を守るためにも」


イルルは涙の残った目で、シェスターを見る。


「その守りたいって気持ち」


シェスターはまっすぐ言った。


「俺に預けてくれないか」


イルルは、すぐには答えられなかった。

意味が分からなかったわけではない。

むしろ、分かったから言葉が出なかった。


一人で持っていたもの。

倒れないために握っていたもの。

殴るために握っていたもの。


守りたいと思った時、誰にも渡せなかったもの。


それを、預けろと言われた。

奪うのではなく。

捨てろでもなく。

預けろと。


イルルは折れたハンマーがあったはずの自分の手を見る。


今は空だ。

何も握っていない。

だから、少しだけ手を開いた。


「どうすればいいか、分かりません」


「分からなくていい」


シェスターは言った。


「一人で抱えんなって話だ」


イルルは小さく頷いた。


「預けたら、返してもらえますか」


「必要な時にな」


「私が、また一人で持とうとしたら」


「ぶん殴ってでも止める」


イルルは涙の中で、ほんの少し笑った。


「痛そうです」


「痛くする」


「それは、困ります」


「なら覚えとけ」


シェスターの口元がわずかに緩んだ。

イルルは両手を膝の上に置き、深く息を吸った。


「シェスターさん」


「何だ」


「預けます」


その声は小さかった。

けれど、はっきりしていた。


「私の、守りたい気持ちを」


シェスターは頷いた。


「ああ」


イルルは続けた。


「でも、私も守りたいです」


「それでいい」


「一緒に、ですか」


「そうだ」


イルルはその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。


一緒に。

一人ではなく。

誰かの後ろでもなく。

誰かを背負い込むのでもなく。


一緒に守る。

その言葉は、イルルの中でまだ形にならない。

でも、初めて聞くのに、少しだけ懐かしい気がした。


カーテンの外から、ジェーンの声が飛んだ。


「三分です」


シェスターは舌打ちした。


「早くねえか」


「正確です」


「分かったよ」


シェスターは立ち上がる。

イルルが慌てて言った。


「シェスターさん」


「今度は何だ」


「ありがとうございます」


シェスターは一瞬、返事に困った。

それから、ぶっきらぼうに言う。


「礼は、新しいハンマーができてからにしろ」


「はい」


「それと、次は許可取ってから動け」


イルルは少し考えた。


「努力します」


「そこは、はい、でいいんだよ」


「はい。努力します」


「変わってねえじゃねえか」


イルルは今度こそ、少しだけ笑った。

シェスターはその顔を見て、何か言いかけたが、やめた。

カーテンを開けて外へ出る。


紫乃が廊下の壁にもたれて待っていた。


「いい顔してたわね」


「誰が」


「二人とも」


「見てたのかよ」


「聞こえてただけよ」


紫乃は悪びれない。

シェスターはため息をついた。


「趣味悪いぞ」


「おばさん、こういうの好きなの」


「認めんな」


紫乃はくすりと笑った。

その笑みはすぐに静かなものへ変わる。


「リヴァルくん、捕縛区画へ行ってたわ」


「何か出たか」


「まだ聞いてない。でも、たぶん何か出た顔をしていたわね」


シェスターの表情が変わる。


「イルルのことか」


「たぶん」


紫乃は医療区画の奥を見る。


「でも今は、あの子を休ませましょう」


シェスターは少し黙り、頷いた。


「分かってる」


廊下の先では、医療スタッフが忙しく行き来している。

中央広間では、避難民たちが残るか移るかを話し合っている。


捕縛区画では、人間に戻った兵たちが震えている。

オペレーション室では、リヴァルが取れなかったデータと、

取れてしまった結果の前で立ち止まっている。


何も終わっていない。

それでも、確かに救われたものがあった。


フィリアは眠り続けている。

自分が何をしたのか、何も知らないまま。

イルルはベッドの上で、空になった手を見つめている。


もうハンマーはない。

でも、守りたい気持ちは、まだそこにある。


そして今は、それを一人で握りしめなくてもいい。

シェスターは廊下を歩き出した。


腕は痛い。

身体も重い。

だが、足は止まらなかった。

守るものが増えた。


分からないことも増えた。

敵も、まだ終わっていない。


それでも。


シェルターの赤い警報は、ようやく消えた。

襲撃から、数日が過ぎた。

シェルターの赤い警報は、あれ以来鳴っていない。


だが、何もなかったようには戻らなかった。

中央広間の床には、補修された跡が残っている。


避難民区画の壁には、壊された通気口を塞いだ新しい装甲板が付けられた。

外部搬入口へ続く通路は、まだ一部が立ち入り制限中だった。


防衛システムの再点検は昼夜を問わず続き、保守ダクト、搬入口、避難導線、

生活区画の監視系統には、新しいセンサーが増設されている。


人も、同じだった。

傷は消えた。


フィリアの光によって、重傷者は立ち上がり、死にかけていた者も息を吹き返した。

イルルの身体も完治した。


捕縛されたマギアス兵からは、マギアス反応が消えた。

けれど、恐怖まで消えたわけではない。

避難民たちは、以前より少しだけ静かになった。


食堂で笑い声が戻るまでには時間がかかった。

子供たちも、非常灯が一瞬またたくだけで大人の服を掴むようになった。


残る者がいた。

移ることを選ぶ者もいた。


そのどちらも、間違いではなかった。

オペレーション室の大型モニターには、移送希望者の一覧が表示されている。


氏名。

家族構成。

健康状態。

必要な医療支援。


移送時の優先順位。

リヴァルはそれらを一つずつ確認していた。

隣ではフィリアが、端末に表示された書類を読み上げている。


「移送希望者、最終確認分まで反映済みです。

 追加申請は二件。

 どちらも同一世帯なので、枠としては一世帯扱いになります」


「分かった。受け入れ先への再送信を」


「はい」


フィリアの声は、少しだけ硬かった。

光の翼が現れてから、彼女は何度も検査を受けた。


結果は、何も分からない、だった。


体調に異常はない。

マナ反応にも異常はない。


あの光が何だったのか、本人にも分からない。

リヴァルにも、まだ説明できない。

ただ、起きたことだけが残っている。


それでもフィリアは、仕事に戻っていた。

戻らなければ、視線の意味ばかり考えてしまうからだった。

リヴァルは端末を操作し、別の画面を開く。


そこには、移送先シェルターから届いた認可通知があった。


「受け入れ認可は正式に下りている。

 人数も、医療支援枠も、子供の教育区画も問題なし」


フィリアが安堵したように息を吐く。


「よかったです」


「移送手段も確保済みだ。

 護衛車両二台、輸送車両四台、医療車両一台。

 外部ルートの安全確認はガイとリオンが進めている」


「かなり大きな移動になりますね」


「そうだね」


リヴァルは画面を見たまま言った。


「ただの移送では済まない」


フィリアは顔を上げる。


「主任?」


リヴァルはすぐには答えなかった。

その代わり、別の資料を閉じる。

封印反応の候補地一覧。


その一つに、今回の移送先シェルターの周辺区域が含まれている。

だが、それはまだ全員に共有する段階ではなかった。


「全体会議で話す」


リヴァルはそう言った。


「その前に、一つ済ませることがある」


その日の午後。

技術区画の小さな調整室に、イルルは呼ばれた。

入口の前で、彼女は少しだけ立ち止まった。


深呼吸をする。

隣にいたシェスターが、怪訝そうに眉を上げる。


「何してんだ」


「緊張しています」


「見りゃ分かる」


「変ではありませんか」


「何が」


イルルは自分の服を見る。

支給された隊員用の訓練服。

まだ正式な制服ではない。

けれど、患者服ではなかった。


「私は、ここにいていい顔をしていますか」


シェスターは一瞬、言葉を詰まらせた。

それから、乱暴に頭を掻く。


「顔に許可はいらねえよ」


「そうですか」


「そうだ」


「では、入ります」


「おう」


イルルは扉を開けた。

調整室の中には、リヴァル、フィリア、ジェーン、技術班の主任がいた。


中央の作業台には、布をかけられた長い物体が置かれている。

イルルの視線が、自然とそこへ吸い寄せられた。

技術班の主任がにやりと笑う。


「待たせたな」


イルルは何も言えなかった。

主任が布を取る。


そこにあったのは、新しいハンマーアーツデバイスだった。

以前のものと、形は大きく変わらない。

巨大な戦槌ではない。


工具の延長にある、細身の両口ハンマー。

けれど、柄の内部には新しい補助フレームが通され、

打撃部の金属は落ち着いた銀色に光っている。


接続部には、前のハンマーから取り外された触媒部が組み込まれていた。

古い傷を残した小さな部品。

それだけが、新しい光沢の中で少しだけ違う色をしている。


イルルはゆっくり近づいた。


「触媒は」


「残した」


主任が答える。


「再調整はしたが、前の子の中核部だ。

 柄、打撃部、外装、補助フレームは新造。

 安全基準も通してある」


イルルは手を伸ばしかけて、止めた。


「触ってもいいですか」


「そのために呼んだんだよ」


イルルは両手でハンマーを持ち上げた。


重さがある。

だが、手に馴染む。


前のハンマーより少しだけ重心が素直だった。

それでも、触媒部を通して流れる感覚は知っているものだった。

まったく同じではない。


けれど、知らないものでもない。

イルルの目が揺れる。


「まだ」


小さく呟く。


「同じ子です」


シェスターは壁際で腕を組んだまま、その言葉を聞いていた。

リヴァルが一歩前に出る。


「イルル・アースフィア」


イルルはハンマーを抱えたまま、姿勢を正した。


「はい」


「検査結果、戦闘適性、マナセット運用、そして今回の襲撃時の行動を総合して、

 君をARKの正式協力戦闘員として登録する」


フィリアが端末を操作する。

登録画面が開かれる。

名前。

イルル・アースフィア。


マナセット。

レイン。

アーツデバイス。

ハンマーアーツデバイス。


状態。

正式登録待ち。

リヴァルは続けた。


「ただし、条件がある」


「はい」


「単独行動は禁止。

 戦闘時は必ずチーム運用。

 負傷時の自己判断による継戦も制限する。

 ジェーンさんの医療判断には従うこと」


ジェーンが静かに頷く。


「特に最後は重要です」


イルルは真剣な顔で答えた。


「努力します」


ジェーンの目が細くなる。

シェスターがすぐに言った。


「はい、だろ」


イルルは言い直す。


「はい。努力します」


「変わってねえ」


シェスターがため息をつく。

フィリアが少しだけ笑った。


その小さな笑いで、部屋の空気がわずかに緩む。

リヴァルも口元を和らげた。


「では、登録する」


フィリアが端末の確定ボタンを押す。

画面の状態表示が切り替わった。


正式登録済み。

イルルはそれを見つめていた。

何度も。

確認するように。


「私が」


声が少し震えた。


「チームに」


「そうだ」


シェスターが言った。

イルルは彼の方を向いた。


「シェスターさん」


「何だ」


「ありがとうございます」


シェスターは眉を寄せる。


「何回目だ、それ」


「何回言っても足りません」


イルルはハンマーを胸の前で抱えた。


「助けてくれました」


「任務だ」


「ハンマーも拾ってくれました」


「ついでだ」


「私が一人で戦わなくていいように、考えてくれました」


シェスターは黙った。

イルルはまっすぐに続ける。


「守りたい気持ちを、預けていいと言ってくれました」


フィリアが少しだけ目を伏せた。

リヴァルは何も言わない。


ジェーンも、技術班の主任も、茶化さなかった。

イルルの言葉は、今ここで必要なものだった。


「だから」


イルルは新しいハンマーを握り直す。


「ありがとうございます。シェスターさん」


シェスターはしばらく黙っていた。

それから、視線を逸らして言う。


「……礼は受け取った」


「はい」


「その代わり、勝手に壊すなよ。今度のは新品だ」


イルルはハンマーを見る。

ピカピカの打撃部。

新しい柄。

残された触媒。


「はい」


今度は、迷わなかった。


「大事に使います」


技術班の主任が満足そうに頷いた。


「使わなすぎても困るけどな」


「それは、難しいです」


イルルが真面目に返す。


「大事に使うと、使わないは違うと教わりました」


主任は一瞬きょとんとし、それから笑った。


「いいじゃねえか。道具のこと分かってる」


イルルはハンマーを軽く構える。

以前より、構えが少しだけ変わっていた。

守るために前へ出る構え。


だが、どこかに、誰かと並ぶ余白がある。

シェスターはそれを見て、小さく頷いた。

その後、全体会議が開かれた。


場所は、オペレーション室に隣接する作戦会議室。

ガイ、リオン、シェスター、織葉、紫乃、フィリア、イルル。


そしてリヴァル。

全員が揃っていた。


ガイはまだ肩を回すたびに顔をしかめている。

リオンも腹部に保護具を巻いていた。


シェスターの腕には簡易固定。

それでも全員、自分の足でそこに立っている。


イルルは新しいハンマーアーツデバイスを背に固定していた。

少し落ち着かない様子で、何度も肩紐を確認している。

フィリアが小声で言った。


「似合っています」


イルルは目を瞬かせた。


「そうですか」


「はい」


「ありがとうございます」


フィリアは笑おうとした。

だが、その笑みは少しぎこちない。


光の翼のことは、まだ誰も答えを持っていない。

フィリア自身も、思い出そうとすると胸の奥がざわつくだけだった。


リヴァルは全員が席についたのを確認し、モニターを点けた。

映し出されたのは、移送計画の概要。


移送希望者の人数。

車両編成。

護衛配置。

移送ルート。


目的地となるシェルターの外観図。

白く整った、最新式の防衛施設。

ガイが口笛を吹いた。


「ずいぶん立派なとこだな」


リオンが資料を見ながら言う。


「防衛系統の更新履歴が異常に新しい。ここ数年で何度も改修されている」


「いいことじゃねえのか?」


シェスターが言う。


「防衛だけ見ればな」


リオンは画面を見たまま答える。


「ただ、更新が早すぎる。図面がすぐ古くなるタイプだ」


フィリアが端末を操作する。


「移送先としての認可は下りています。

 受け入れ人数、生活区画、医療区画、教育区画、すべて条件を満たしています」


「移送手段も確保済み」


リヴァルが続ける。


「護衛車両、輸送車両、医療車両。ルート上の安全確認も進んでいる」


紫乃が穏やかに言った。


「避難民の人たちには、いい話ね」


「そうだね」


リヴァルは頷く。


「移送そのものは、人道支援として必要な任務だ」


織葉がリヴァルを見る。


「その言い方ですと、それだけではないのですね」


リヴァルは少しだけ目を伏せた。

それから、別の資料をモニターに出す。

封印反応の候補地一覧。


これまで調査してきたポイント。


外れだった場所。

人がいた場所。

イルルが見つかった場所。


そして、新しく強調表示された一点。


移送先シェルター周辺。

会議室の空気が変わった。

ガイが姿勢を正す。

リオンの目が細くなる。


シェスターは無言で腕を組み直した。

フィリアの指が、端末の上で止まる。


イルルはまだ全ての意味を理解できていないようだったが、

全員の反応から重要な話だと察したらしい。


ハンマーの肩紐を握る。

リヴァルは全員を見る。


「移送先として認可が下りたシェルター。

 その周辺に、封印特定候補地点の一つが重なっている」


誰もすぐには言葉を発しなかった。

避難民の移送。

それだけなら、護衛任務で済む。


だが、封印候補地点があるなら話は変わる。


移送と調査。

護衛と探索。


そして、次の精霊へ繋がる可能性。

すべてが同時に動く。


「つまり」


シェスターが言う。


「避難民を送り届けながら、そこを調べるってことか」


「そうなる」


「忙しいな」


「今回も簡単な任務ではない」


リヴァルは静かに言った。


「だが、避難民の移送は止められない。

 彼らは選んだ。僕たちはその選択を守る必要がある」


フィリアが小さく頷く。

イルルも、その言葉を聞いていた。


選んだ人たちを守る。

残る人も、移る人も。


一人で背負うのではなく、チームで。

イルルは新しいハンマーに触れた。

まだ光沢の残る、ピカピカのハンマー。


その中に、古い触媒が息づいている。

シェスターが横目でそれを見る。


「初任務だな」


イルルは少し緊張した顔で答えた。


「はい」


「一人で突っ込むなよ」


「努力します」


「はい、だ」


「はい。努力します」


ガイが笑った。

リオンも小さく息を吐く。


織葉は静かに微笑み、紫乃は楽しそうに目を細めた。

フィリアも、ほんの少しだけ笑えた。


まだ分からないことは多い。

フィリアの光。

消えたマギアス反応。

イルルを狙った理由。


封印の正体。

そして、次に待つもの。


けれど、第一歩は決まっていた。


移送する。

守る。

調べる。

リヴァルはモニターを消した。


会議室の照明が、少しだけ明るくなる。

全員の視線が彼に集まった。


リヴァルは一度息を吸い、静かに言った。


「みんな聞いてほしい。」

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