一章 三話
ポイント09の探索任務が始まる。
ポイント09は、旧商業区画の外れにあった。
かつては人の流れが多かった場所なのだろう。
広い歩道、壊れた店舗看板、半分だけ残った案内板。
道路の中央には放置された小型車両が何台も残っている。
だが、今は人の気配がない。
『現着した』
ガイの声が通信に入る。
映像には、曇った空と、割れたガラスの散った歩道が映っていた。
今回の前線は三人。
ガイ・グランベル。
シェスター・ウェーバー。
翠川織葉。
前回のように広く展開する形ではない。
三人は互いの姿が見える距離を保ち、
旧商業区画の外周からゆっくり奥へ進んでいた。
「周辺反応は?」
リヴァルが問う。
『今のところ静かだ』
ガイは大型センサーを肩から下ろし、路面に設置した。
『マナ濃度は低い。霧も薄い。見た目だけなら、ただの廃墟だな』
「見た目だけで済めばいいんだけどね」
リヴァルは地図を拡大した。
「ポイント09は、地表反応より地下構造の一致率が高い。
旧封印補助線と地下商業通路の位置が重なっている。
今回は広域展開より、構造確認を優先する」
『つまり、固まって歩けってことだな』
「そう。深追いはしない。候補地点の特定まで」
『了解』
ガイがセンサーの起動を確認する。
その横で、織葉がもう一つの小型センサーを両手で持っていた。
『これは、こちらへ向ければよいのですね』
『そうだ』
ガイが言う。
『画面の線が跳ねたら止まれ。鳴ったら呼べ。変な音がしたら触るな』
『ふむ。簡単です』
『簡単って言う奴ほど、だいたい余計なボタン押すんだよ』
『私を何だと思っているのですか』
『前回、端末の表示名を紫電仕様に変えようとした奴』
『紫電仕様ではありません。視認性の向上です』
シェスターが横から言った。
『紫に光らせる必要はねえだろ』
『士気に関わります』
『関わらねえよ』
フィリアはオペレーション室で、そのやり取りを聞きながら端末を操作していた。
前回と違い、探索範囲は狭い。
けれど、地下構造が複雑なため、見るべき情報は多かった。
地上映像。地下通路の旧図面。マナ濃度。
建物の崩落率。風向き。周辺シェルター状況。
そして、撤退前生命反応確認。
前回追加された新しい手順は、すでに作戦項目に組み込まれていた。
フィリアはその項目を見るたびに、少しだけ背筋が伸びる。
自分が言った一言が、手順になった。
それは嬉しいというより、重かった。
でも、その重さを避けたいとは思わなかった。
「付近シェルター状況、出ています」
フィリアは言った。
「第十一シェルターは通常受け入れ可能。負傷者三名まで。
第十六臨時シェルターは閉鎖中です。風向きは安定。
闇の霧の流入予測は四十分以内では低めです。
ただし、南側地下通路で通信減衰記録があります」
リヴァルが頷く。
「ありがとう。共有して」
「はい」
フィリアは前線三人の端末へ情報を送る。
シェスターがそれを確認した。
『助かる。救助対象が出たら、第十一へ逃がせばいいんだな』
「はい。ただ、重症者の場合はこちらの医療区画へ直接搬送した方がいいです」
『分かった』
シェスターはいつものバンテージアーツデバイスに加えて、
腰に救助用のポーチをいくつもつけていた。
止血材、簡易固定具、小型呼吸補助器具、折りたたみ式の担架固定具。
戦うための装備というより、倒れた誰かを連れて帰るための装備だった。
織葉がそれを見て、少し感心したように言う。
『シェスター殿は、ずいぶんと荷物が多いのですね』
『救助担当だからな』
『重くありませんか』
『重い』
『置いていけばよいのでは』
『置いていった時に限って必要になるんだよ』
ガイが低く笑う。
『違いねえ』
シェスターはガイの方を見た。
『おっさんも今日は大荷物だな』
『言うな』
ガイは大型センサーを少しだけ恨めしそうに見下ろした。
『前回置いてきた分、整備班にだいぶ言われたんだよ』
『そりゃ言われるだろ』
『命の方が高いってリヴァルが言ったんだぞ』
リヴァルは即答した。
「言ったよ。今も同じ判断だ」
『だよな』
「ただし、整備班が君に小言を言う権利もある」
『そこは守ってくれないのか』
「装備は有限だからね」
ガイは小さく唸った。
『あの主任、正論で殴ってくるんだよな』
織葉が真顔で頷いた。
『整備の方々の怒りはもっともです。
武具を置き去りにするなど、武家であれば説教三刻です』
『お前もそこは古風なんだな』
シェスターが言う。
『当然です。武具は己の命を預けるもの。大切に扱うべきです』
ガイがセンサーを担ぎ直す。
『聞いたか、リヴァル。織葉にも怒られた』
「記録しておく」
『やめろ』
フィリアは少しだけ笑ってしまった。
前線の会話は軽い。
でも、三人とも周囲への警戒を解いてはいない。
ガイは先頭より少し前。
重いセンサーを設置しながら、同時に周囲の見通しを確認している。
シェスターは中央。
前にも後ろにも動ける位置で、救助装備に手が届くようにしていた。
織葉は右側。
小型センサーを持ちながら、左手はいつでもカタナアーツデバイスの柄へ届く位置にある。
三人は固まっている。
けれど、ただ並んでいるわけではない。
ガイが受ける。
シェスターが拾う。
織葉が切り開く。
そういう配置だった。
「旧商業通路の入口まで、あと二十メートル」
フィリアは地図を見ながら言った。
「正面の店舗跡を抜けると、地下への降り口があります。
ただし、階段の一部が崩落しています」
『了解。俺が先に見る』
ガイが歩き出す。
その足元で、割れたガラスが小さく鳴った。
ポイント09の空気は、ポイント06よりも乾いていた。
霧は薄い。風もある。
それでも、何かが引っかかる。
フィリアは画面に表示されたマナ反応を見る。
低い。弱い。
でも、完全にないわけではない。
ガイの大型センサーと、織葉の小型センサーが拾った反応は、
旧商業通路の入口付近でわずかに重なっている。
「反応、出ています」
フィリアは言った。
「ただ、中心反応ではありません。地下構造に沿って薄く広がっています」
リヴァルは表示を確認する。
「旧通路の残留マナかもしれない」
『またはずれ候補か』
ガイが言った。
「まだ判断しない。入口を確認して」
『了解』
三人は、壊れた店舗の中へ入った。
かつては衣料品店だったらしい。
倒れた棚、割れた鏡、床に散った古い布。
天井の一部は落ち、そこから差し込む光が、
ほこりを白く浮かび上がらせている。
織葉が周囲を見回した。
『このような場所で服を売っていたのですか』
シェスターが答える。
『昔はな』
『今よりも布の種類が多かったのでしょうか』
『気になるところそこか』
『服飾は文化です』
『お前、食い物以外も語るんだな』
『当然です。衣食住は人の基本ですから』
ガイが小声で言った。
『始まるぞ』
『止めてください』
シェスターが即答した。
織葉は少し不満そうに眉を寄せた。
『まだ何も始めておりません』
『始まりそうだった』
『失礼な』
「織葉」
リヴァルの声が入る。
「小型センサーを入口側へ」
『承知いたしました』
織葉はすぐに表情を切り替え、地下通路の入口へセンサーを向けた。
その動作に迷いはない。
言動は軽い。
だが、任務に入れば切り替えが早い。
フィリアはその差に、少しだけ感心した。
『数値、上がります』
織葉が言った。
『ただ、跳ねているというより、薄く伸びています』
「画面を共有して」
『はい』
織葉のセンサー映像が、オペレーション室へ送られる。
リヴァルはそれを見て、旧図面と重ねた。
「地下通路そのものに残留している反応だね。封印地点の中心ではない」
『じゃあ、ここも外れか』
ガイが言う。
「仮判定ではね。入口周辺の確認で確定する」
シェスターが地下階段をのぞき込む。
『下、暗いな』
「入らない」
リヴァルは即答した。
「今回も特定までだ。階段の状態も悪い。下層に入る必要はない」
『了解』
シェスターは腰のライトを取り出し、階段の奥だけを照らした。
地下へ続く階段は、途中で崩れていた。
奥は瓦礫で埋まり、そこから先は見えない。
冷たい空気が少しだけ流れてくる。
フィリアはデータを見た。
マナ反応はある。
しかし、深く吸い込まれるような流れではない。
前回のポイント06と同じだ。
どこかへ向かっているのではなく、そこに残っているだけ。
「ここも、たぶん違います」
フィリアは言った。
リヴァルはすぐには答えなかった。
「理由は」
「地下通路に沿って広がっていますが、中心がありません。
封印地点なら、もっと……受け皿みたいな場所があると思います」
フィリアは言葉を探す。
「ここは、通り道に残った跡に見えます」
「同意する」
リヴァルは判断を下した。
「ポイント09、封印地点候補から除外」
ガイが肩をすくめた。
『二連続ではずれか』
「候補が減った」
リオンがいればそう言いそうだ、とフィリアは少し思った。
実際にその役をしたのは、シェスターだった。
『まあ、外れって分かるのも仕事だろ』
「その通り」
リヴァルは言った。
「三人とも、入口周辺の映像を記録して撤退準備。
撤退前生命反応確認を行う」
フィリアは頷き、端末を切り替えた。
「広域生命反応確認、開始します」
前回追加された手順。
フィリアの仕事。
彼女はポイント09全域の反応を表示し、ガイたち三人の生命反応を除外する。
近くの小動物反応、機械ノイズ、崩落した地下設備の熱反応を順に薄くする。
何もない。そう思った。
その時だった。
店舗の外、通りの向こう側で、微かな動きが映った。
センサーではない。
ガイの肩部カメラが拾った、ほんの一瞬の映像。
人影。
いや、人影が複数。
「待ってください」
フィリアは言った。
リヴァルの視線がすぐに動く。
「どうしたの」
「映像に動きがあります。店舗外、北西側の通りです」
フィリアは映像を巻き戻し、拡大する。
壊れた看板の向こう。
灰色の通りを、何人かの影が横切っていた。
装備が見える。
統一された黒い防護具。
マギアス軍。
ガイも気づいた。
『……いるな』
シェスターが声を低くする。
『マギアス軍か』
織葉の手が、カタナアーツデバイスの柄に添えられる。
『人数は』
フィリアは映像を解析する。
「確認できる範囲で六名。いえ、七名。後方にもう一人います」
そこで、フィリアは言葉を止めた。
一人だけ、違った。
黒い防護具ではない。
軍装でもない。
一般の服。
その人物は歩いていなかった。
担がれている。
「……一人だけ、装備が違います」
フィリアの声が小さくなる。
「マギアス軍装備じゃありません。一般服です。担がれています」
シェスターの目が変わった。
『市民か』
ガイはブレードアーツデバイスへ手をかける。
『連れていかれてるな』
『追いますか』
織葉の声は静かだった。
だが、そこに迷いはない。
カタナアーツデバイスの柄に添えられた手は、
もういつでも抜ける位置にある。
リヴァルは映像を見ていた。
マギアス軍の小部隊。
確認できるだけで七名。
その後方に、一人。
軍装ではない人物が担がれている。
「目的は封印地点の特定だった」
リヴァルは言った。
「戦闘は予定にない」
『でも、連れていかれてる』
シェスターが言った。
『自分で歩いてねえ。意識があるかも分からねえ。
あれが市民なら、見逃せねえだろ』
「分かっている」
リヴァルは即答しなかった。
フィリアは息を詰めていた。
画面の中の一般服の人物は、小柄に見えた。
長い髪が垂れ、片腕が力なく揺れている。
担いでいるマギアス兵は、その人物を荷物のように扱っていた。
リヴァルが問う。
「現場判断は?」
『やる』
ガイが答えた。
『この距離なら追いつける。向こうは担いでる分、足が遅い』
シェスターも続ける。
『救助対象が気絶してるなら、俺が回収する。装備はある』
織葉が言った。
『では、わたくしが正面から参ります』
『即答だな』
シェスターが少しだけ呆れる。
『正面からが最も早いでしょう』
『いや、間違ってねえけどよ』
ガイは周辺映像を確認しながら言った。
『シンプルにいくぞ。織葉が前を止める。
俺が後続を受ける。シェスターが担がれてる子を抜く』
『救助対象の安全が最優先ですね』
『そうだ。織葉、斬るなよ』
『もちろんです』
織葉は当然のように答えた。
『峰打ちです』
シェスターが短く言う。
『敵、マギアスだぞ』
『マギアスであっても、峰打ちは峰打ちです』
『その理屈で済むのお前だけだろ』
リヴァルは数秒だけ黙った。
それから言った。
「許可する」
フィリアは思わずリヴァルを見た。
リヴァルは前線映像から目を離さない。
「ただし、救助対象の確保が最優先。必要以上の追撃はしない。
情報が取れるなら取る。でも深追いはしない」
『了解』
三人の声が重なった。
ガイが大型センサーを路肩の崩れた店舗内へ寄せる。
『こいつは置いていく』
「今度は回収して」
『努力する』
リヴァルは何か言いかけ、やめた。
代わりにフィリアが、撤退ルートを表示する。
「北西通りの先、二つ目の交差点で右に曲がると、旧配送路へ抜けられます。
救助後の離脱はそこが最短です。
ただし、瓦礫が多いので、担架搬送には向きません」
『担架は使わねえ』
シェスターが答えた。
『気絶なら背負って走る。固定だけする』
「はい。救助対象の体格は小柄に見えます。
シェスターさんなら搬送可能だと思います」
『助かる』
シェスターの声が少しだけ低くなった。
平時の軽さが消える。
救助に入る声だった。
三人は店舗の影から出た。
マギアス軍の小部隊はまだこちらに気づいていない。
灰色の通りを、一定の速度で進んでいる。
先頭に二名、中央に三名、後方に担いでいる兵と護衛らしき兵が二名。
その中で、一人だけ体格の大きい者がいた。
肩の装甲が他より厚く、腕に階級章らしきものがついている。
フィリアが映像を拡大する。
「中央の大柄な個体、装備が違います」
「指揮官格だね」
リヴァルが言った。
「現場、注意して」
『了解』
ガイが答える。
その横で、織葉が一歩前に出た。
次の瞬間、彼女は通りの中央へ歩いていた。
隠れるでもなく、走るでもなく。
正面から。
マギアス軍の先頭が気づいた。
『止まれ』
低い声が響く。
マギアス兵たちが一斉に構える。
織葉は止まった。
『その方を置いていきなさい』
通りの真ん中で、織葉は言った。
声はよく通った。
『その方は、あなた方の荷物ではありません』
先頭の兵が武器を向ける。
『何者だ』
織葉はカタナアーツデバイスの柄に手を置く。
『翠川織葉。通りすがりの武芸者です』
シェスターが遮蔽物の裏で小さく言った。
『通りすがりではねえだろ』
ガイも低く返す。
『今は黙って見とけ』
中央の大柄なマギアス兵が前へ出た。
他の兵が少し下がる。
その動きだけで、彼が隊を率いていることが分かった。
『こいつの回収が俺たちの任務だ』
大柄な兵は言った。
『邪魔をするなら、敵と見なす』
「回収……」
フィリアが小さく呟く。
リヴァルはすぐに記録を保存した。
「今の発言、保存」
「はい」
フィリアは音声ログを固定する。
織葉は大柄な兵を見ていた。
『任務であれば、人を荷物として運んでよいと?』
『人ではない』
大柄な兵が言う。
『必要な対象だ』
シェスターの目が細くなる。
『対象だとよ』
ガイが肩を回した。
『落ち着け。お前は救助対象だ』
『分かってる』
マギアス兵の一人が笑った。
『軍曹が自分でやるってよ』
別の兵が続ける。
『あの女、終わったな』
織葉は少しだけ首をかしげた。
『軍曹殿、でよろしいのですか』
大柄な兵は片腕を上げた。
周囲の兵がさらに下がる。
『下がっていろ』
その一言で、兵たちは動きを止めた。
慢心だけではない。
彼は織葉をただの小娘とは見ていなかった。
部下を不用意に当てれば、逆に崩されると判断したのだろう。
だが、それでも足りなかった。
『行くぞ』
軍曹が踏み込んだ。
地面が割れるような音がした。
重い体が一瞬で加速する。
織葉は動かない。
フィリアには、そう見えた。
次の瞬間。
ドサッ、と音がした。
軍曹が倒れていた。
織葉は刀を抜いた姿勢のまま、静かに息を吐く。
『安心してください』
彼女は言った。
『峰打ちです』
数秒、誰も動かなかった。
オペレーション室でも、前線でも。
シェスターが最初に声を漏らした。
『いや、速すぎんだろ』
ガイが走り出す。
『見とれてる場合か。行くぞ』
その声で、時間が戻った。
マギアス兵たちが一斉に混乱する。
『軍曹がやられたぞ!』
『撃て!』
『対象を運べ!』
ガイが真正面から突っ込んだ。
ブレードアーツデバイスを抜き、刃ではなく厚い側面で敵の攻撃を受ける。
黒いマナ弾が肩のショルダーアーマーへ当たり、鈍い音を立てて弾かれた。
『悪いな』
ガイが言った。
『こっちは正面担当だ』
大剣が横へ振られる。
切るためではない。押し倒すための一撃。
兵の一人が吹き飛び、壊れた車両へ叩きつけられる。
織葉はすでに次へ移っていた。
細い足運びで敵の懐へ入り、抜いた刀を返す。
刃ではなく峰が、手首、肩、胴を正確に打つ。
一人。二人。三人。
マギアス兵たちは、戦う形を取る前に崩れていく。
『峰打ちです』
『分かってる!』
シェスターが叫び、横の路地へ滑り込んだ。
彼の視線は戦闘ではなく、担がれている人物へ向いている。
救助対象を運んでいた兵が、慌てて後退する。
『来るな!』
兵が叫び、片腕を変質させた。
黒い爪が伸びる。
シェスターは止まらなかった。
バンテージアーツデバイスがほどけるように伸び、兵の腕へ絡みつく。
爪が振られるより早く、シェスターはその腕を外側へ逸らした。
『悪い』
短く言って、彼は兵の足を払う。
兵が崩れる。
その肩から、一般服の人物が落ちかけた。
シェスターは間に滑り込むようにして、両腕で受け止めた。
細い体だった。軽い。
けれど、ただの荷物ではなかった。
呼吸がある。
体温もある。
『救助対象、確保』
シェスターの声が通信に入る。
フィリアはすぐに生命反応を確認した。
「生命反応あります。呼吸、安定。重症反応はありません」
リヴァルが頷く。
「意識は?」
『確認する』
シェスターは救助対象を地面に寝かせるのではなく、
すぐに近くの壁際へ移動させた。
戦闘の流れから外れ、瓦礫の影になる位置。
そこに膝をつき、背負っていた救助ポーチを開く。
手早い。
フィリアには、それが戦闘とは別の技術だと分かった。
シェスターの指は迷わなかった。
首元。呼吸。瞳孔。手首。外傷確認。
その一つ一つが、訓練ではなく、実績で染みついた動きだった。
『意識なし。外傷は軽微。たぶん打撃か過負荷で落ちてる。搬送前に戻せる』
ガイが敵の攻撃を受けながら叫ぶ。
『急げよ』
『急いでる』
織葉が一人を打ち倒し、シェスターの方へ視線を向けた。
『シェスター殿、手を貸します』
『来るな、織葉』
止めたのはガイだった。
織葉が足を止める。
『ですが』
『あいつは、ああいう場面のプロだ』
ガイはブレードアーツデバイスで敵を押し返しながら言った。
『俺たちは邪魔を入れさせない。それでいい』
織葉は一瞬だけシェスターを見た。
シェスターは救助対象の頬を軽く叩き、呼吸を確認している。
戦場の音の中で、そこだけが妙に静かだった。
『……承知いたしました』
織葉は刀を構え直した。
『では、わたくしは邪魔者をどかします』
『頼もしいな』
ガイが笑った。
シェスターは小型の覚醒補助具を取り出した。
危険な薬品ではない。意識確認と呼吸反応を補助する、
レスキュー用の標準装備。鼻先に近づけ、反応を見る。
救助対象のまぶたがわずかに震えた。
『おい、聞こえるか』
シェスターの声が変わった。
さっきまでの荒さは残っている。
けれど、そこに圧はない。
倒れた人間を起こす声だった。
『大丈夫だ。俺はシェスター。救助に来た』
フィリアは通信越しに、その声を聞いていた。
リヴァルも黙っている。
オペレーション室には、前線の戦闘音と、シェスターの声だけが響いていた。
少女のまぶたが開く。
薄く、焦点の合わない目がシェスターを見る。
『……いや』
かすれた声だった。
『助けないで』
シェスターの手が一瞬止まる。
だが、驚いた様子は見せなかった。
『起きたな。いいぞ。呼吸もできてる』
『連れて、行かないで』
少女は弱く首を振った。
『私に、関わらないで』
『悪いな』
シェスターは言った。
『もう関わった』
少女の指が、シェスターの袖を押そうとする。
力は入っていない。拒む意思だけがあった。
『だめ。私を助けたら……迷惑が、かかる』
『誰に』
少女は答えない。
ただ、必死に首を振る。
『私を、置いて』
『置かねえよ』
『お願い』
『聞けねえ』
シェスターは即答した。
その声は強かった。
けれど、怒ってはいなかった。
『俺はレスキューやってた。平和だった頃から、こういう仕事をしてた』
少女の目が少しだけ揺れる。
『助ける相手が「助けないで」って言うことくらい、何度もあった』
シェスターは救助ポーチから固定ベルトを取り出す。
『怖いから。迷惑をかけると思うから。
自分なんか後でいいと思うから。理由はいろいろだ』
『違う……』
『違うなら、後で聞く』
シェスターは固定ベルトを少女の肩に回した。
『今は呼吸してろ』
『だめ』
少女はまた拒もうとする。
シェスターは止まらない。
『だめじゃねえ』
『本当に、だめなの』
『本当にだめかどうかは、安全な場所で決めろ』
少し強引だった。
だが、手つきは丁寧だった。
少女の首や背中に負担がかからないよう、
固定具を当て、腕の位置を整え、呼吸を妨げない角度にする。
シェスターは一つ一つ確認しながら続けた。
『ここは戦場だ。お前は気絶してた。敵に担がれてた。
だから俺はお前を救助する』
『私は……』
『話は後だ』
『でも』
『後だ』
少女の目に涙がにじむ。
『また、誰かに迷惑をかける』
シェスターは一瞬だけ黙った。
その横で、ガイが敵を押し戻す音が響く。
織葉が誰かを打ち倒す音がする。
それでもシェスターは、少女から目を逸らさなかった。
『迷惑って言葉はな』
彼は言った。
『助かってから使え』
少女が瞬きをする。
『死にそうな奴が先に気を遣うな。順番が違う』
『……』
『生きろ。迷惑かどうかは、その後で俺たちが決める』
オペレーション室で、フィリアは息を呑んでいた。
自分がシェルターに来た時のことを、少しだけ思い出す。
逃げて、追われて、分からないまま保護された。
あの時、自分も誰かの迷惑になっていると思っていたかもしれない。
少女の目が、シェスターを見た。
まだ怯えている。まだ拒んでいる。
けれど、さっきより少しだけ、力が抜けていた。
『……あなたたちは、誰』
『ARK』
シェスターは短く答えた。
『人を助ける部隊だ』
リヴァルは通信を切らなかった。
その言葉を訂正しなかった。
少女は小さく息を吸った。
『人を……』
『そうだ』
『私は』
少女は言いかけて、苦しそうに目を伏せる。
『私は、人じゃないかもしれない』
シェスターは一秒も迷わなかった。
『今、俺には人に見えてる』
『でも』
『じゃあ、それでいい』
少女は何も言えなくなった。
シェスターは固定を終え、少女を背負う準備に入る。
『立てるか』
『……少し』
『立たなくていい。俺が背負う』
『だめ』
『だめじゃねえって言っただろ』
『重い』
『軽い』
『迷惑』
『装備より軽い』
その返しに、少女は少しだけ目を見開いた。
シェスターは彼女を背負い、固定具を締めた。
『名前は』
少女は答えない。
シェスターは立ち上がりながら、もう一度聞いた。
『呼び方がないと不便だ。名前だけでいい』
『……イルル』
かすれた声が返る。
『イルル、何だ』
少女は少しだけ迷った。
戦闘の音が遠ざかっていく。
ガイと織葉が敵を完全に押し込んでいる。
マギアス兵たちはすでに隊の形を失い、
倒れた軍曹を引きずるようにして後退を始めていた。
シェスターは急かさなかった。
ただ、背中の少女を支えたまま待った。
少女は、ようやく小さく言った。
『イルル・アースフィア』
その名前が、通信に乗ってオペレーション室へ届く。
フィリアはすぐに記録した。
イルル・アースフィア。
リヴァルの目が、わずかに細くなる。
だが、彼は何も言わなかった。
今はまだ、名前を聞いただけでいい。
『よし、イルル』
シェスターは言った。
『帰るぞ』
『帰る場所なんて……』
『じゃあ、こっちで用意する』
シェスターは走り出した。
ガイがその前に出て、撤退路を開く。
織葉が最後に残り、追ってくる敵の足を止める。
『安心してください』
彼女は倒れた兵たちへ向けて言った。
『全員、峰打ちです』
『それ、敵に言う必要あるか?』
ガイが呆れたように言う。
『礼節です』
『便利な言葉だな』
シェスターはイルルを背負い直し、旧配送路へ向かう。
フィリアはすぐにルートを表示した。
「シェスターさん、次の角を右です。その先は瓦礫が少ないです」
『了解』
「第十一シェルターへ一時搬送できます。ただ、本人確認と保護手続きが必要です」
リヴァルが言う。
「こちらへ戻す。医療区画と隔離検査室を準備。
重症ではないが、マギアス軍に拘束されていた可能性がある」
「はい」
フィリアは指示を送る。
その時、シェスターの背中で、イルルがわずかに動いた。
『……待って』
かすれた声だった。
シェスターは走る速度を落とさずに、首だけをわずかに向ける。
『どうした』
イルルは答えない。
ただ、片腕を伸ばしていた。
シェスターの肩越しに、通りの方へ。
マギアス兵たちが後退していった場所。
倒れた軍曹の近く。
割れた路面の上に、何かが落ちていた。
細身のハンマーだった。
両側に打撃面を持つ長すぎない柄は、
握り込む部分だけが使い込まれて色を変えている。
打撃部は武器用の金属で補強されているらしく、
ハンマーそのものよりずっと鋭い存在感があった。
ただし、その片側は大きく欠けていた。
金属部にはひびが入り、内部の触媒らしき光も途切れ途切れに明滅している。
折れたハンマーだった。
イルルの指が、それへ向かって震える。
『あれ……』
その声は、救助を拒んだ時よりも弱かった。
フィリアは映像を拡大した。
「破損武器を確認。ハンマー型です」
リヴァルの目が細くなる。
「ハンマーアーツデバイスか」
シェスターは一瞬で理解した。
彼は本部の追加指示を待たなかった。
『織葉!』
『はい』
『そこのハンマー、回収して来い』
イルルの手が止まった。
伸ばしかけていた指が、シェスターの肩の上で固まる。
織葉はすぐに振り返った。
『承知いたしました』
ガイがセンサーを抱え上げながら言う。
『俺が行くか』
『おっさんはセンサー持って帰れ。今度置いていったら整備班が泣くぞ』
『泣きはしねえ。怒るだけだ』
『じゃあ怒らせんな』
織葉はすでに走り出していた。
追撃に出ようとしていたマギアス兵の前へ一歩入り、
軽く刀を返す。兵が倒れる。
織葉はそのまま折れたハンマーの前に膝をつき、
柄を確かめるように握って持ち上げた。
『これは……ずいぶんと傷んでおりますね』
『持てるか』
シェスターが聞く。
『問題ありません。見た目より扱いやすい重さです』
織葉はハンマーを脇に抱え直した。
『武具を置き去りにするなど、武家の名折れ。
たとえ持ち主が違えど、見過ごせません』
シェスターの背中で、イルルの呼吸が少しだけ乱れた。
『……どうして』
『大事なんだろ』
シェスターは前を向いたまま言った。
『なら持って帰る』
イルルは何も言わなかった。
さっきまで伸ばしていた手は、もうハンマーへ向かっていない。
その代わり、シェスターの服の端を、小さく握っていた。
フィリアはその変化を見ていた。
救助対象、生命反応安定。
呼吸、やや上昇。意識、継続。
それは数値でしかない。
けれど、フィリアには分かった気がした。
イルルは、まだ逃げたいと思っている。
助けられたくないと思っている。
それでも、今ほんの少しだけ、シェスターの言葉を信じた。
ガイが大型センサーを担ぎ直す。
『よし、今度はセンサーも回収した。文句ねえだろ』
リヴァルは淡々と言った。
「整備班には報告しておく」
『褒める方向で頼む』
「事実だけ伝える」
『それが怖いんだよ』
織葉が折れたハンマーを抱え、撤退路へ戻る。
『シェスター殿、回収完了です』
『助かった』
『いえ。武具を助けるのもまた、武芸者の務めです』
『たぶんレスキュー用語じゃねえな、それ』
『ですが、間違ってはいないでしょう』
シェスターは少しだけ笑った。
『そうだな。間違ってねえ』
彼はイルルを背負い直し、旧配送路へ向かう。
フィリアはすぐにルートを表示した。
前線映像の中で、マギアス軍の姿は遠ざかっていく。
倒れた兵はいる。けれど、死者は確認されていない。
任務は、封印地点の特定ではなかった。
けれど、また一人、見つけた。
今度は、助けてほしくないと言った人を。
シェスターの背中で、イルルはもう一度小さく呟いた。
『……本当に、だめなのに』
シェスターは走りながら答えた。
『その話は、戻ってから聞く』
『聞いても、困るだけ』
『困るのは慣れてる』
『どうして』
『レスキュー隊員だったからな』
イルルは、それ以上何も言わなかった。
ただ、シェスターの背中に額を預けた。
その沈黙が、拒絶なのか、諦めなのか、少しだけ安心したのか。
フィリアには分からなかった。
それでも、イルルの生命反応は安定している。
弱くない。
消えそうでもない。
確かに、生きていた。
「救助対象、生命反応安定」
フィリアは言った。
「イルル・アースフィアさん、搬送中です」
リヴァルは静かに頷いた。
「全員、帰投して」
『了解』
ガイが答える。
『帰ったら整備班に、センサーは今回は持って帰るって伝えといてくれ』
「自分で言って」
『厳しいな、主任』
「正規職員だろう」
『そこを突かれると弱い』
織葉が後方を警戒しながら言った。
『ガイ殿、武具を持ち帰るのは当然のことです』
『二方向から来るな』
シェスターが背中のイルルを揺らさないように走りながら、短く笑った。
『説教は帰ってからにしろ』
三つの反応点が、ポイント09から離れていく。
その中心に、新しい反応が一つ。
イルル・アースフィア。
その名が、ARKの記録に加わった。




