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一章 一話

『反応、変わらず』


通信越しに聞こえたリオンの声は、いつも通り落ち着いていた。

崩れた建物の外壁を、ワイヤーが走る。


リオン・ヘイルは地面に足をつけず、

二階部分の割れた窓枠から隣の建物へ移っていた。

腰のワイヤーデバイスから伸びる細い線が、

瓦礫の間をすばやく渡り、彼の体を軽く引き上げる。


その動きに無駄はなかった。

高く、静かで、速い。


『北東側、旧居住棟三階。センサー値は一定です。

 高濃度反応なし。周期変化も確認できません』


「了解」


リヴァルはオペレーション室の中央で、複数の映像を見ていた。


正面の大型投影には、ポイント06の地形図。

半壊した住宅区画と、かつての商業道路、

地下に残る旧インフラの線が重ねられている。


その上に、三つの反応点。


ガイ。

リオン。

紫乃。


三人は、同じ場所に固まってはいなかった。


ガイは旧大通りの中央にいた。

左肩の大型ショルダーアーマーを前に出し、

背のブレードデバイスをいつでも抜ける位置に置いている。

足元には三脚を広げた大型センサーが設置されていた。


リオンは北東側の建物群を高所から確認している。


紫乃は南側の細い路地を、音もなく移動していた。

崩れた壁の隙間、倒れた看板、剥がれた外階段。

そういう、人が通るには不安定すぎる場所を、

彼女はまるで最初から道だったかのように渡っていく。


『おばさんの方も、変わりなしよ』


紫乃の声が入る。


『変わりなし、というより、ずっと同じね。嫌になるくらい』


「南側、センサー値は?」


『出てるわよ。細く、薄く、だらだらと。寝起きの悪い子みたいに』


リオンが通信に入る。


『ミス・シノ。その表現では共有データに記録できません』


『あら、分かりやすいと思ったんだけど』


『数値でお願いします』


『はいはい。南側路地、マナ濃度は基準値プラス二・一。

 変動幅は〇・三以内。周期性なし』


「十分だ」


リヴァルが言った。


「そのまま南側の路地を抜けて。旧排水設備の入口を確認してほしい」


『了解』


紫乃は軽く答えた。

ガイの映像が、少し揺れる。

旧大通りには、風が吹いていた。


壊れた信号機が斜めに傾き、

道路の中央には割れた舗装と、雑草のようなものが伸びている。

その奥、遠くの交差点には、薄い灰色の空気が溜まっていた。


闇の霧ではない。

まだ、ただの濁りに近い。


それでも、フィリアはその色を見ただけで、喉の奥が少し固くなった。


『ガイ班長』


リオンの声がする。


『大通り中央のセンサー値はどうですか』


『こっちは変わらねえな』


ガイは大型センサーの画面をのぞき込んだ。


『一定の反応が続くだけだ。高くも低くもならん。

 正直、気味が悪いくらい動かねえ』


「その一定反応が、ポイント06を候補に入れた理由だ」


リヴァルは言った。


「通常の残留マナなら、周辺環境に合わせて少しずつ散る。

 ここは散らない。流れてもいない。ただ、同じ濃度で残っている」


『封印地点なら、中心があるはずだよな』


ガイが言う。


「そう。中心へ向かう流れがあるか、中心から漏れ出す変化があるはずだ」


リヴァルは指先で地図を拡大した。


ガイのセンサーを中心に、リオンと紫乃の測定範囲が扇形に広がっている。

三つの測定範囲が重なり、ポイント06の上に薄い網のような表示を作っていた。


「今のところ、それがない」


『つまり、はずれの匂いがするわけだ』


『ガイ班長、まだ確定ではありません』


リオンがすぐに言った。


『広域測定では反応が平坦でも、地下構造に隠れている場合があります』


『真面目だな、リオン』


『任務中ですので』


『それは知ってる』


ガイの声には笑いが混じっていた。

フィリアは二人の会話を聞きながら、自分の端末に視線を落とした。

画面には、ポイント06の地形情報が並んでいる。


旧区画名。建築物残存率。地下通路の生存率。

過去七十二時間のマナ濃度。闇の霧の発生位置。

周辺シェルターの受け入れ状況。風向き。


フィリアは、そこに赤い線を一本引いていた。

現在の風向きでは、闇の霧はポイント06を避ける。

けれど、二時間以内に風向きが変わる。


その場合、旧公園跡で発生している霧の薄い帯が、

ポイント06の大通り側へ流れ込む。

完全に覆うほどではない。


しかし、探索を続けるには十分に危険だった。


「フィリア」


隣からリヴァルの声がした。


「はい」


フィリアは顔を上げる。


「霧の流入予測、更新は?」


「出ています」


フィリアは端末を操作し、地図の上に風向きの予測線を重ねた。


「現在は南西から北東へ流れています。

 ただ、上空の温度差が崩れ始めています。

 予測通りなら、あと十七分から二十二分で風向きが西寄りに変わります」


「闇の霧は?」


「旧公園跡の発生箇所から、ポイント06の西側外周へかかります。

 濃度は低いですが、暴走個体が残っている場合、

 反応が活性化する可能性があります」


リヴァルは表示を一瞥した。


「探索リミットは二十分だね」


「はい」


フィリアは頷いた。


「安全撤退を考えると、実質十五分くらいだと思います」


リヴァルの指が一瞬止まった。

それから、彼は前線へ通信を繋ぐ。


「全員、聞こえているね」


『聞こえてる』


『はい』


『聞こえてるわよ』


「この区域への闇の霧の流入まで、予測十八分。

 安全撤退を考えて、探索リミットは十五分に設定する」


ガイがセンサーを持ち上げた。


『了解。十五分で切り上げだな』


「そう。今回の目的はポイント06の特定だ。

 反応があっても深追いはしなくていい」


リヴァルは淡々と言った。


「封印地点そのものかどうかを判断できればいい。

 未知の地下構造へ踏み込む必要はない」


『つまり、見つけても入るな、ですね』


リオンが確認する。


「そう。場所を確定させるまでが今日の任務だ」


『承知しました』


紫乃の映像が少し揺れる。


彼女は壊れた外階段を使わず、壁から突き出した古い配管に手をかけ、

軽く体を引き上げていた。足音はほとんどない。


『ポイントを見つけても入らない。怪しい場所は触らない。

 危なそうなら逃げる。おばさん向きの楽な仕事ね』


『ミス・シノ』


リオンの声が入る。


『楽ではありません』


『そういうところ、真面目で可愛いわねえ』


『任務上の訂正です』


『はいはい』


ガイが低く笑った。


『紫乃さん、あんまりリオンをからかうなよ。調子が狂う』


『あら、ガイくんもからかわれたい?』


『遠慮しとく』


フィリアは少しだけ息を緩めた。

通信越しの会話は軽い。

けれど、三人の動きは止まっていない。


リオンは高所を移動しながら、複数の小型センサーを窓枠や手すりに設置していく。

紫乃は路地の奥へ入り、壁のひびや空気の流れを確かめている。

ガイは大通りの中央で大型センサーの位置を変えながら、

わざと広い場所に立ち続けていた。


目立つ位置。逃げ道の多い位置。

そして、敵が出た場合に真っ先に見つける位置。


それがガイの役割だった。


リオンと紫乃が広く展開するために、ガイは中心で目印になる。

ガイが大きく構えているから、二人は細い場所へ入れる。

高い場所へ行ける。危険な隙間を確認できる。


リヴァルは、その三人から送られてくる情報を次々と整理していく。

フィリアも、自分の端末で重なったデータを見ていた。


リオンのセンサーは高所からの立体情報。

紫乃のセンサーは地表近くの微細なマナ粒子。

ガイの大型センサーは、大通り全体を覆う広い反応。


三つのデータは、ばらばらでは意味を持たない。

重ね、ずらし、時間ごとに並べる。


そうすると、マナの流れらしきものが見える。

見える、気がする。


フィリアは画面の一部を拡大した。

旧地下鉄入口の近く。そこに薄い反応がある。

けれど、中心へ向かう流れではない。

まるで、古い壁にぶつかって、行き場を失っているような反応だった。


「旧地下鉄入口付近、反応あります」


フィリアは言った。


「ただ、中心ではなさそうです。流れているというより、溜まっています」


「表示して」


「はい」


フィリアはリヴァルのメイン画面へ、該当箇所を送る。

リヴァルは即座に旧地形図を重ねた。


「旧排水管の接続部だね」


「壊れているんでしょうか」


「可能性はある」


リヴァルは前線へ通信を繋ぐ。


「ミス・シノ、南側路地の突き当たりに旧排水管の接続部がある。

 確認できる?」


『ちょうど見えてるわ』


紫乃の映像が暗くなる。


細い路地の奥に、半分瓦礫で埋まった地下入口が映った。

金属の蓋は曲がり、周囲には灰色の粉塵が積もっている。


『中は狭そうね。入る?』


「入らない」


リヴァルは即答した。


「外から確認だけでいい」


『はいはい。おばさん、狭いところは好きじゃないから助かるわ』


紫乃はしゃがみ込み、入口近くに小型センサーを置いた。

数値が上がる。


フィリアの画面にも、薄い波形が重なった。

反応はある。でも、弱い。

一定で、古く、動かない。


「封印地点の反応とは違うと思います」


フィリアは、思ったままを口にした。

リヴァルが少しだけ彼女を見る。


「理由は?」


「ここにあるのは、流れの中心じゃなくて、詰まりに見えます」


フィリアは画面を指でなぞった。


「周りから集まっているというより、ここで止まっているだけです。

 壊れた管に水が溜まっているみたいな」


リヴァルは何も言わずに、フィリアの示した線を見た。


沈黙は短かった。

けれど、フィリアには少し長く感じた。


間違えたかもしれない。

そう思った瞬間、リヴァルが言った。


「いい見方だ」


フィリアは思わず顔を上げる。


「え」


「続けて」


「あ、はい」


フィリアは慌てて端末に視線を戻した。


「もし封印地点なら、もっと広い範囲から一定方向の流れが出ると思います。

 でも、ここは南側と北側で反応が切れています。

 リオンさんの高所センサーにも、上方向への抜けはありません。

 だから、地下の古い設備に残留マナが引っかかっているだけ、だと思います」


「同意する」


リヴァルは即座に判断した。


「ポイント06南側、封印地点候補から除外」


『早いわねえ』


紫乃が言う。


『おばさん、まだしゃがんだばかりよ』


「確認は取れた。そこは外れだ」


『そう。じゃあ、戻るわね』


「待って」


リヴァルは地図を操作した。


「リオン。北東側の反応は?」


『変化なしです』


リオンの映像には、半壊した屋上から見下ろす住宅区画が映っている。


『ただし、遠方の霧が濃くなっています。

 予測通り、西側から流入が始まるかもしれません』


フィリアはすぐに風向きデータを更新した。

赤い予測線が、少し角度を変える。


「風向き、変わり始めています」


彼女は言った。


「旧公園跡の霧が動きます」


大型投影の西側に、薄い黒の帯が伸び始めた。


闇の霧。


映像の中でも、それはただの煙とは違って見えた。

地面を這うように広がり、壊れた街路樹の根元を包み、

少しずつ大通りの方へ向かってくる。


ガイがそれに気づき、顔を上げた。


『来たな』


「ガイ、現在位置を維持」


リヴァルの声が少しだけ低くなる。


「霧が大通りにかかる。予測通りだ」


『了解。派手に立ってりゃいいんだな』


「敵性反応が出た場合、引きつけて。追撃はしない」


『任せろ』


リオンが通信に入る。


『北東側、撤退経路を確保済みです。

 ワイヤー固定点、三箇所。ガイ班長が後退する場合、東側の側道へ誘導できます』


「ありがとう。ミス・シノは南側から大通りへ戻って」


『はいはい。霧に飲まれる前に戻るわ』


紫乃の映像が揺れた。

彼女は来た道を戻らなかった。


壊れた壁を蹴り、外階段の残骸へ飛び移り、そこから看板の支柱へ手をかける。

細い足場を使って、地面より早く大通りへ向かっていた。


フィリアは三人の位置を確認しながら、霧の進行線を更新する。


大通り。

ガイ。

大型センサー。


西側から流れる闇の霧。

線が重なっていく。

胸の奥が、少しだけ冷たくなった。


霧は、予定通りに来ている。

予定通りだから、安全というわけではない。


「フィリア」


リヴァルが言った。


「はい」


「霧の濃度が基準値を超えたら、すぐに出して」


「分かりました」


フィリアは数値を見る。

まだ低い。けれど、上がっている。

ゆっくりと。確実に。


ガイの映像の向こうで、黒い霧が道路の端にかかり始めた。

壊れた街灯の根元が、見えなくなる。

舗装の割れ目を這うように、霧が広がる。

ガイは左肩を前に出し、センサーの横に立った。


『さて』


通信の向こうで、ガイは低く言った。


『何か出るなら、そろそろだな』


その言葉が終わる前に、霧の奥で影が動いた。

最初は、瓦礫が崩れたのかと思った。


けれど違う。

道路の端に沈んでいた黒い霧が、内側から押し上げられるように盛り上がる。

そこから、人の形をしたものが一体、ゆっくりと立ち上がった。


服は破れている。

腕は不自然に長く見えた。

顔の半分は人間のままだったが、もう半分は黒い硬質化に覆われている。

瞳は焦点を結ばず、喉の奥から低い音だけが漏れていた。


『暴走個体だ』


ガイが言った。

その声は落ち着いていた。


フィリアは端末の数値を見る。

霧の濃度が上がっている。

それに合わせるように、目の前の個体から出るマナ反応も不安定に揺れていた。


「マギアス兵ではないね」


リヴァルが言った。


「装備反応なし。統率反応もない。単独の暴走個体だ」


『じゃあ、止めればいいんだな』


「そう。殺す必要はない」


ガイは、背中のブレードデバイスを抜いた。

大剣、と呼ぶしかない形だった。


幅が広く、厚い。

けれど刃は、鋭く研がれていない。

刃物というより、巨大な金属板に近い。

切るための武器ではなく、受け止め、押し返し、叩き伏せるための武器に見えた。

ガイはそれを右肩側に乗せ、左肩のショルダーアーマーを前に出す。


暴走個体が、低く吠えた。

次の瞬間、走り出す。


速い。

けれど、ガイは動かなかった。


『来い』


暴走個体の爪が、ガイの左肩へ叩きつけられる。

金属音が響いた。


ガイの体が半歩だけ沈む。けれど倒れない。

大型のショルダーアーマーが爪を受け、火花を散らしながら逸らした。


『軽いな』


ガイはそう言って、ブレードデバイスを横から振った。

斬撃ではない。面で殴る。

鈍い音と共に、暴走個体の体が道路の端まで吹き飛んだ。

瓦礫を巻き込み、壊れた標識にぶつかって止まる。


フィリアは思わず息を止めた。

人間の体なら、その一撃だけで壊れてしまいそうだった。

けれど暴走個体は、すぐに起き上がろうとする。


「ガイ、押さえて」


リヴァルが言った。


「リオン、足を」


『了解しました』


別の映像で、リオンが屋上から飛び降りる。

いや、落ちたのではない。


ワイヤーが空中で張り、彼の体を斜めに引いた。

リオンは壁を蹴り、信号機の支柱を使って方向を変え、

暴走個体の背後へ降りる。


そのまま、ワイヤーデバイスから複数の線が放たれた。

一本が右腕。一本が左脚。一本が首ではなく、

肩から胸にかけて斜めに回り込む。


暴走個体が吠え、暴れた。

リオンの体が引かれる。

けれど彼は、片膝をつきながらワイヤーを支柱に絡め、力の向きを変えた。


『固定します』


短い報告。

その直後、暴走個体の体勢が崩れた。

ガイが前に出る。


『そのまま押さえろ』


『維持します』


暴走個体は暴れていた。

ワイヤーが軋む。

皮膚に黒い硬質化が走り、腕の形がさらに歪んでいく。

力任せに引きちぎろうとしている。


リオンの表情は変わらない。

けれど、フィリアの画面ではワイヤーにかかる負荷が赤く点滅していた。


「ワイヤー負荷、上がっています」


フィリアは言った。


「あと十秒以内に一本切れます」


「ガイ」


「分かってる」


リヴァルの指示より先に、ガイが動いた。

ブレードデバイスの腹で、暴走個体の腕を押し潰すように地面へ叩く。


割れた舗装が沈んだ。

暴走個体の動きが一瞬止まる。

その一瞬に、路地の奥から紫乃が戻ってきた。


『二人とも、息を止めて』


声は軽かった。

けれど、ガイもリオンも即座に反応した。


紫乃が手を振る。

小さな筒のようなものが、彼女の指先から転がった。

次の瞬間、薄い紫の煙が、地面すれすれに広がる。


派手な爆発ではない。

音もほとんどしない。

ただ、暴走個体の足元に煙が絡みつき、その動きを鈍らせていく。


暴走個体が喉を鳴らした。

腕に入っていた力が抜ける。

膝が落ちる。


それでも完全には止まらない。

頭を振り、残った力でワイヤーを引こうとする。


『ガイくん、もう一回』


紫乃が言った。


『おう』


ガイはブレードデバイスを持ち替えた。


刃を立てない。

柄に近い厚い部分で、暴走個体の肩口を打った。


鈍い音。

暴走個体の体が崩れる。


リオンがワイヤーを引き、腕と脚を固定する。

紫乃が近づき、暴走個体の首筋ではなく、

黒く変質した肩のあたりに指先を当てた。


『はい、おしまい』


紫乃が軽く言った。

暴走個体の体から、力が抜けた。

フィリアの画面で、マナ反応が急激に下がる。


危険域から、警戒域へ。

警戒域から、観測域へ。


「反応、低下しています」


フィリアは息を吐いた。


「暴走域を離脱。生命反応あり。意識はありません」


「拘束を維持」


リヴァルが言った。


「回収班を手配する。現場での追加処置は?」


『必要ないわ』


紫乃が答えた。


『しばらく眠ってもらうだけ。

 起きたらまた暴れるかもしれないけど、その時はその時ね』


ガイが少し咳き込んだ。


『……おい、紫乃さん』


リオンもわずかに眉を寄せる。


『ミス・シノ。今の煙、こちらにも入りました』


『あら、ごめんなさい』


紫乃はまったく悪びれずに二人へ近づいた。


『動ける?』


『動けるが、腕が少し重い』


ガイが言った。


『自分も、指先に軽い痺れがあります』


リオンが報告する。

紫乃はガイの腕に触れ、次にリオンの手首を取った。


『はい、抜くわよ』


そう言って、二人の皮膚の上を指先で軽く叩く。

それだけに見えた。


けれどフィリアの画面では、

二人の生体反応に混じっていた微細な異常値が、すっと下がっていく。

ガイが肩を回した。


『戻った』


リオンも手を開き、閉じる。


『痺れ、消失しました』


『ね。苦しくなかったでしょ』


紫乃はにこりと笑った。


『おばさんの毒は、怖くないのよ』


ガイは倒れた暴走個体を見下ろした。


『使い方が怖いんだよ』


『あら、失礼ね』


『否定はしません』


リオンが静かに言った。


『リオンくんまで?』


『事実確認です』


紫乃は楽しそうに笑った。

通信の向こうで、ガイたちの声は軽い。

けれど、フィリアはまだ画面から目を離せなかった。


今の一連の動き。


ガイが受けた。

リオンが止めた。

紫乃が眠らせた。


誰も、殺さなかった。

暴走個体はまだ生きている。


危険だった。怖かった。

でも、終わった後に残っているのは死体ではなく、

回収されるべき一人の人間だった。


「フィリア」


リヴァルの声がした。


「はい」


「最寄りの回収班と、受け入れ先」


「出ています」


フィリアは端末を切り替えた。


「第十四臨時シェルターに一時隔離枠が一つあります。

 ただし医療班は少ないです。

 回収班は八分で到着できます。

 搬送後に、こちらの医療区画へ移す方が安全だと思います」


「同意する」


リヴァルは即座に回線を開いた。


「回収班へ。ポイント06大通り、暴走個体一名を非殺傷制圧。

 生命反応あり。初期隔離は第十四臨時シェルター、安定後こちらへ移送」


リヴァルの声に迷いはない。

次の指示が、すぐに前線へ飛ぶ。


「全員、撤退準備。ポイント06は封印地点候補から除外する」


『やっぱりはずれか』


ガイが言った。


「南側、北東側、大通り中央。いずれも中心反応なし。

 旧排水設備への残留マナと判断する」


『承知しました』


リオンが答える。


『暴走個体の拘束は回収班到着まで維持しますか』


「いや。回収班が到着するまでの待機は危険だ。霧の濃度が上がっている」


リヴァルは地図を確認した。


「拘束具を設置して離脱。回収班には位置を送る」


『了解しました』


リオンがワイヤーの一部を固定具へ切り替える。

ガイが大型センサーを肩に担ぎ直した。


『撤収だな』


『おばさん、歩き損だったわね』


紫乃が言う。


『暴走個体を一名、非殺傷で回収できます。歩き損ではありません』


リオンがすぐに訂正した。


『真面目ねえ』


『任務中ですので』


『聞いた聞いた』


フィリアは三人の位置を地図上で確認した。

霧の濃度は、まだ上がっている。


大通りの西側はすでに黒く染まり始めていた。

ガイたちの撤退ルートは東側。

リオンが先に固定したワイヤー経路を使えば、霧に包まれる前に抜けられる。


「撤退ルート、東側側道が最短です」


フィリアは言った。


「ただし、紫乃さんの位置からだと、南側建物の屋根を通った方が早いです。

 三十メートル先の外階段は崩れていますが、隣の看板支柱は使えます」


『フィリアちゃん、ありがと』


紫乃が軽く答える。


『看板ね。見えたわ』


「リオンさんは、ガイさんの後方確認をお願いします。

 暴走個体の残留反応が、霧で少し見えにくくなっています」


『了解しました』


「ガイさんは、大型センサーを持ったままだと速度が落ちます。

 東側側道の入口までなら安全圏ですが、

 そこから先は置いていった方がいいかもしれません」


『高いんだろ、これ』


ガイが言った。

リヴァルが即答する。


「高い」


『じゃあ持って帰る』


「命の方が高い」


『分かってる。危なくなったら捨てる』


「そうして」


リヴァルの声は淡々としていた。

けれど、フィリアはその横顔を見た。

リヴァルは、画面から一瞬も目を離していない。


前線の三人。霧の濃度。拘束された暴走個体。

回収班の到着予測。退路。


すべてを同時に見ている。


フィリアも端末へ視線を戻した。

自分が見なければならないものを探す。

三人の帰投経路。霧の流入。暴走個体の生命反応。

周辺シェルター。回収班。念のため、周囲の生体反応。


念のため。

その言葉が、頭の中で小さく引っかかった。


フィリアはもう一度、画面を切り替えた。

ポイント06全域。生体反応。霧のノイズ。暴走個体の反応。

ガイたち三人。回収班。それ以外。


ほとんど何もない。


壊れた街。残留マナ。闇の霧。ノイズ。

フィリアは、表示倍率を少し変えた。

ノイズを消すのではなく、薄く残す。


暴走個体の強い反応を一時的に除外する。

ガイたちの生命反応も外す。

回収班の信号も外す。


すると。


旧商業棟の上階付近。

本当に微かな点が、ひとつだけ残った。


一瞬、消える。

また、出る。


心拍かどうかも分からない。

機械の誤反応かもしれない。

霧が作ったノイズかもしれない。


でも。


「……ちょっと待ってください」


フィリアは言った。

リヴァルの指が止まる。

前線の通信も、一瞬だけ静かになった。


「どうしたの」


「微弱な生命反応があります」


フィリアは画面を拡大した。


「旧商業棟、東側上階。暴走個体の残留反応とは別です。

 人かどうかは分かりません。敵かもしれません。

 でも、生体反応に見えます」


リヴァルはフィリアの画面を受け取り、メイン投影へ送った。

小さな点が、黒い地図の上で揺れている。

今にも消えそうなほど弱い。


リヴァルはそれを見た。

そして、ほんのわずかに息を止めた。


「……僕は見落としていた」


その声は小さかった。

けれど、すぐにいつもの調子へ戻る。


「でも、もし僕が見つけても、同じ判断をしていた」


リヴァルは前線へ通信を繋いだ。


「位置を送って。フィリア」


フィリアは頷く。


「送ります」


彼女は震えそうになる指を押さえながら、座標を送信した。

ポイント06の地図上に、新しい光点が打たれる。

撤退ルートから少し外れた、廃墟の上階。

霧が完全にかかる前に届けるかどうか、ぎりぎりの位置だった。


『旧商業棟、東側上階か』


ガイの声が低くなる。


『近いな』


「近いけど、危険だ」


リヴァルは即座に地図を拡大した。


「建物の下層は崩落している。通常の階段は使えない。

 霧の流入まで、およそ七分」


『上階なら、自分が先行できます』


リオンが言った。


「待って。暴走個体の可能性もある」


フィリアは反応を見つめた。

点は、まだ消えたり現れたりしている。


弱すぎる。


そこにいるのが人間なのか、マギアス化しかけた誰かなのか、

あるいは霧のノイズが作った誤反応なのか、画面だけでは分からない。


それでも。

完全に消える前に、見つけてしまった。

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