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六章 六話

封印解除装置の駆動音が、広間の中央で低く響いていた。


掘削ユニットは止まらない。

古い魔法陣の線を読み取り、削り、ほどきながら、さらに深くへ進んでいる。

床一面に刻まれた術式は、少しずつ光を失っていた。


その代わりに、黒い霧が床の隙間から滲み出している。

まだ爆発的ではない。

まだ、空間を飲み込むほどではない。


だが、確実に増えていた。

フィリアはリヴァルを見ていた。


リヴァルは床に座り込んだまま、片膝を立てようとして失敗し、小さく息を吐いた。


左肩。

脇腹。

胸元。


三発の精霊化抑制装置が、白い輪のような光を放っている。

黒い線は、そこで止まっていた。

完全に消えたわけではない。


けれど、少なくとも今は、リヴァルの身体が封印へ沈んでいくのを押し留めていた。


「分かっています」


フィリアは、もう一度言った。


「自分が何をしたか、分かっています」


リヴァルはわずかに目を細めた。


「世界中へ向けた僕の宣言を潰した」


「はい」


「マギアス軍総帥リヴァイヴ・アニマの存在を、否定した」


「はい」


「僕を、捕らえられて言わされている被害者にした」


「はい」


「嘘をついた」


フィリアは一瞬だけ息を止めた。

それでも、目を逸らさない。


「はい」


リヴァルの口元が、かすかに動いた。

笑ったようにも、痛みに歪んだようにも見えた。


「君が嘘をつくとは思わなかった」


「リヴァルさんが先に嘘をつきました」


「僕は必要な情報操作をしただけだ」


「私もです」


即答だった。

リヴァルの表情が、わずかに止まる。

フィリアはレイアーツデバイスを下げたまま、一歩近づいた。


「リヴァルさんが世界に自分を悪だと思わせるなら、私は世界にそれを信じさせないようにします」


「……それが、何を意味するか分かっているのか」


「分かっています」


「分かっていない」


リヴァルの声が低くなる。

怒鳴ってはいない。


けれど、その奥に、焦りがあった。


「君は今、世界へ混乱を撒いた。

 僕がマギアス軍総帥であるという説明を否定し、リヴァイヴプランの責任の所在を曖昧にした。

 これで、僕がこの先どうなっても、世界は納得しない」


「納得させる必要があるんですか」


「ある」


リヴァルは即答した。


「戦争には終わり方が必要だ。

 憎悪には置き場が必要だ。

 誰かが悪で、誰かがそれを倒した。

 そういう形があれば、人は次へ進める」


「その悪を、自分にするつもりだったんですね」


リヴァルは黙った。

フィリアはさらに一歩近づく。


「リヴァルさんが、精霊化した人たちを“人柱”と呼んだ時から、ずっと違和感がありました」


広間の奥で、装置が小さく唸った。

フィリアの声だけが、淡く響く。


「触媒でも、憑依先でも、媒介でも、他に言い方はあったはずです。

 リヴァルさんなら、もっと正確な言葉を選べたはずです」


リヴァルは視線を落とした。


「それなのに、人柱と言った」


フィリアは言葉を続ける。


「ずっと考えていました。

 どうしてその言葉を選んだのか。

 どうして、精霊化した人たちをそう呼んだのか」


闇の霧が、床を這う。

フィリアのライトに触れて、ほんの少し退く。

けれど、すぐに戻る。


「この封印をするために、人が必要なんじゃないんですか?」


リヴァルの肩が、ほんのわずかに揺れた。

それは痛みのせいではなかった。


抑制装置が白く明滅する。

リヴァルは目を閉じた。

一秒。

二秒。


そして、喉の奥から小さな笑いが漏れた。


「ふ……」


フィリアは動かなかった。

リヴァルの笑いは、少しずつ形を持つ。


「はは」


乾いている。

楽しそうではない。


「はははは……」


笑いながら、リヴァルは顔を上げた。

その目には、疲れたような、諦めたような光があった。


「全部お見通しってわけだね」


フィリアは答えない。

リヴァルは小さく息を吐く。


「さすが、僕が選んだ人員だ」


「違います」


フィリアは静かに言った。

リヴァルの笑みが止まる。


「答えは、リヴァルさんの端末にアクセスした後です」


「……端末?」


リヴァルは少しだけ眉を上げた。


「君が、僕の管理領域を開いたのか」


「はい」


「生命照合があったはずだ」


「リヴァルさんなら、自分が動けない時に完全停止する仕組みにはしないと思いました」


リヴァルは何も言わなかった。

フィリアは続ける。


「本人が捕まった時。

 本人が倒れた時。

 本人が戻れなかった時。

 それでも封印関連の情報が完全に閉じたら、計画そのものが止まります」


「だから、非常時の代理アクセスを探した」


「はい」


「パスコードは」


フィリアは少しだけ目を伏せた。

リヴァルは、今度こそ声を失った。


フィリアは小さく続ける。


「リヴァルさんが、本当に私を通す気があるなら、そうすると思いました」


「……僕は、そんな分かりやすいパスコードを残すほど甘くない」


「甘かったんじゃありません」


フィリアは首を横に振った。


「残したんだと思います」


リヴァルはフィリアを見る。


「私に見つけてほしかったんじゃないんですか」


「違う」


「違うなら、どうして非常口を残したんですか」


「緊急時に必要だからだ」


「その緊急時が、今だったんです」


リヴァルは言い返さなかった。

フィリアは一歩、さらに近づく。


「でも、開いた先にあった情報は、ほとんどダミーでした」


リヴァルの瞳が細くなる。


「ダミーデータばかりだっただろう。それで何が分かったんだ」


「何が書いてあるかより、何が隠されているかを見ました」


「それだけで、封印に人が必要だと?」


「いいえ」


フィリアは首を横に振る。


「最初は分かりませんでした。ただ、変だと思いました」


彼女は端末を握っていた時の感覚を思い出す。


開いたはずの管理領域。

並んでいた大量のログ。

封印地点。

魔王城跡。


輸送経路。

マギアス軍の動き。

正規軍の配置。


必要なものは、確かにそこにあった。

だが、肝心なものだけが、抜けていた。

最後の封印をどう閉じるのか。


解除した後、何が必要になるのか。

リヴァルが本当に何を準備しているのか。


そこだけが、異様に薄かった。


「私がリヴァルさんだったら、同じようにダミーデータ用の非常口を作ります」


「……」


「追いかけてほしくないから。たどり着いてほしくないから」


フィリアの声は、少しだけ震えた。

けれど、止まらない。


「でも、本当に全部を隠したいなら、非常口なんて残さないはずです。

 残したのに、核心だけを消していた」


リヴァルは視線を逸らした。


「だから考えました」


フィリアは言う。


「リヴァルさんが隠すとしたら、何を隠すのか」


封印解除装置が、また一段深く沈む。

床の魔法陣が、低く明滅する。


「自分が封印の“人柱”になることを、邪魔してほしくなかった」


リヴァルの表情が、止まった。

フィリアは、その変化を見逃さなかった。


「いえ」


彼女は言い直す。


「誰かがいると、自分の覚悟が鈍るから」


広間が静かになる。

装置の駆動音だけが響いている。


リヴァルは目を伏せたまま、長く息を吐いた。

白い抑制光が、彼の身体に刻まれた黒い線を押し留めている。


「……その通り」


ようやく、彼は言った。

フィリアの指が、わずかに震えた。


分かっていた。

そうだと思っていた。


それでも、本人の口から聞くと、胸の奥が痛んだ。

リヴァルはゆっくり顔を上げる。


「封印には、マナセットを持つ人間が必要だ」


声は静かだった。

演説の時とは違う。

世界へ向けた声ではない。

フィリアへ向けた声だった。


「闇の霧を封じる術式は、ただの壁じゃない。

 石や結界だけで霧を押さえ込むものでもない。

 あれは、生きたマナの循環を必要とする封印だ」


リヴァルは自分の胸元へ視線を落とす。


「人体には、マナを生み、巡らせ、変換し続ける仕組みがある。

 マナセットを持つ者は、その仕組みがひとつの体系として成立している。

 封印術式は、それを利用する」


「生命を、術式に埋め込むんですね」


「そうだ」


リヴァルは否定しなかった。


「マナセットを持つ人間の生命を封印術式へ組み込む。

 肉体をそのまま置くわけじゃない。

 命、マナの循環、深層心理、術式への適合反応。

 そういったものを封印に沈める」


フィリアは息を呑む。


「そうすることで、封印は人体と同じようにマナを生成し、供給し続ける。

 理論上は、限りなく長く」


「それが、人柱」


「そう呼ぶしかない」


リヴァルの声は淡々としていた。

だが、その淡々さがかえって痛い。


「触媒でも、媒介でもない。

 彼らは材料じゃない。

 装置の部品でもない。

 自分の生命を封印に埋め込まれ、世界を支える柱にされた人間だ」


フィリアの頭に、これまでの精霊たちが浮かぶ。


風。

水。

地。

火。


現代で出会った人柱たち。

クラリス。

イルル。

ナンディーヌ。


クリスティナ。

そして、かつて封印を覚悟した者たち。

彼らは、ただ精霊に取り憑かれていたわけではない。


封印に沈んだ誰かの命と、魔力と、深層心理。

その残滓が、長い時間の中で増幅し、変質し、精霊として現れていた。


「精霊化は」


フィリアが問う。


「封印を守ろうとした人たちの、なれの果てなんですか」


リヴァルは頷いた。


「厳密には、残留思念と増大した魔力の複合体だ。

 封印を維持するために術式へ沈められた生命は、完全には消えない。

 マナは流れ続ける。

 意識の深い部分も残る」


「深層心理」


「そう」


リヴァルは床の魔法陣を見る。


「本人が何を願って封印へ入ったのか。

 何を恐れ、何を守ろうとしたのか。

 その深い部分が、術式の中で長く残る。

 時間が経つほど、魔力は肥大化する。

 残った思念は、封印を守るための形を取り始める」


「それが精霊」


「風の精霊。水の精霊。地の精霊。火の精霊」


リヴァルはひとつずつ言った。


「自然そのものの精霊じゃない。世界を守るために封印へ沈んだ人間の、残響だ」


フィリアは唇を噛んだ。

胸の奥に、これまで救ってきた人たちの顔が重なる。

彼らの中にあったものは、ただの災厄ではなかった。


誰かが、世界を守るために残したもの。

けれど、その結果として、また別の人が苦しめられていた。


「人柱は、死ぬと術式が別の人へ移るんですね」


リヴァルは目を伏せる。


「……そこまで分かっていたのか」


「全部ではありません。でも、反応の移動の仕方がおかしかった」


フィリアは言う。


「適性だけでは説明できない。

 血筋だけでもない。

 死や消失の記録と、人柱反応の発生がつながっているように見えました」


リヴァルは小さく笑った。


「本当に、よく見ている」


「見ていたんじゃありません」


フィリアは首を振る。


「あなたが隠しているから、探しました」


その言葉に、リヴァルは何も返せなかった。

封印解除装置がさらに深く唸る。

床が小さく震えた。


魔法陣の中心に、細い亀裂が走る。


だが、まだ崩れない。

リヴァルはその亀裂を見る。


「人柱の術式は、欠けると次を求める」


「次を」


「封印を維持するためだ。

 ひとつの生命が尽きれば、術式は近い適合者へ移る。

 魔力、属性、深層心理、マナセットの形。

 条件が合う者へ」


「本人の意思は」


フィリアの声が、低くなった。

リヴァルは答えるまで、少し時間を置いた。


「多くの場合、関係ない」


その答えは、刃のようだった。


「だから、終わらせなければならなかった」


リヴァルは言う。


「封印を解除し、人柱から精霊を切り離し、現代の犠牲者を救う。

 それがリヴァイヴプランの表の目的だ」


「表の」


「そして裏の目的は、最後の封印を僕で閉じること」


フィリアの目が揺れた。

分かっていた。


それでも、言葉にされると違う。

リヴァルは淡々と続ける。


「最後の封印は、四つの封印とは違う。

 闇の霧の大元を押さえている。

 解除すれば、再封印が必要になる」


「その再封印に、リヴァルさんが必要だった」


「僕である必要はない」


リヴァルは即座に言った。


「マナセットを持ち、術式に適合する人間なら、理論上は可能だ」


「だから、言わなかったんですか」


「そうだ」


リヴァルはフィリアを見る。


「言えば、誰かが立つ」


フィリアは何も言えなかった。


「クラリス・パズリアは、自分の経験から申し出たかもしれない。

 イルル・アースフィアも、誰かを救うためなら進もうとしたかもしれない。

 ナンディーヌ・ロームは、理論的に最適な手段だと判断すれば、自分を材料にしようとしたかもしれない。

 クリスティナ・アドレメリアは、火精霊のマナを得た自分が適任だと考えたかもしれない」


リヴァルの声は変わらない。


「フィリア。君もだ」


フィリアの胸が、わずかに跳ねた。


「君なら、自分のライトが必要だと分かった瞬間に、前へ出る」


「……」


「僕はそれを知っている」


リヴァルは言った。


「だから、誰にも言わなかった」


抑制装置の光が、少し弱く揺れる。

リヴァルは胸元を押さえた。


まだ精霊化反応は止まっている。

だが、封印解除装置が進めば進むほど、闇の圧は強くなる。


「僕は、誰かを犠牲にする作戦を立てたくなかった」


リヴァルの声が、初めて少しだけかすれた。


「合理的には、それが最善でも。戦略的に正しくても。世界のために必要でも」


彼は自嘲するように笑った。


「僕には、できなかった」


フィリアはリヴァルを見つめる。


世界的頭脳。

作戦立案者。

冷静な指揮官。

そう呼ばれてきた人。


けれど、その中心にあったのは、誰かの苦痛に敏感すぎるほど敏感な心だった。


「だから、僕がやるしかなかった」


リヴァルは言う。


「けれど、僕がただ犠牲になると言えば、止められる。

 代わりに自分が行くと言う者が出る。

 僕を惜しむ声が出る。

 リヴァイヴプランを完成させる頭脳を失うべきではないと、誰かが言う」


「だから、惜しまれない人になろうとした」


フィリアの声は震えていた。

リヴァルは静かに頷いた。


「世界にとって、死んだ方がいい悪になればいい」


「そんな」


「そうすれば、僕の死は肯定される」


リヴァルはフィリアを見る。


「マギアス軍総帥。

 戦争の黒幕。

 リヴァイヴプランを利用し、世界を闇へ導こうとした男。

 そんな存在なら、討たれても誰も悼まない」


「そんなこと、ありません」


「ある」


「ありません」


フィリアは一歩近づいた。


「少なくとも、私は悼みます」


リヴァルは目を逸らした。


「だから、君を遠ざけたかった」


その一言が、あまりにも静かに落ちた。


フィリアは息を止める。

リヴァルは続ける。


「君がいると、僕の覚悟が鈍る」


抑えた声だった。


「君に止められると、僕は止まってしまうかもしれない。

 君が泣けば、迷ってしまうかもしれない。

 君が手を伸ばせば、その手を取りたくなるかもしれない」


彼は笑った。

苦く、弱く。


「だから、君に見られたくなかった」


フィリアは何も言わなかった。

言えなかった。


広間の中央で、封印解除装置が高い音を立てる。

掘削ユニットの先端が、魔法陣の中心へ深く達した。


床が大きく震える。

フィリアが思わず足を踏ん張る。


リヴァルも片手で床を押さえた。

亀裂が広がる。

魔法陣の中心から、黒い線が放射状に走る。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


古い石床が、内側から押し上げられるように軋んだ。

封印解除装置の支柱が、警告音を発する。


赤いランプが明滅する。

だが、装置は止まらない。

止められない。


すでに最後の層へ到達している。


「始まる」


リヴァルが呟いた。

その声は、どこか遠かった。

フィリアは中央を見る。

魔法陣の中心。


掘削ユニットの下。

そこに、黒い亀裂が開いている。


最初は、細い線だった。

次に、床の一部が沈んだ。

重い音がした。


石が割れ、術式の線が途切れる。

中央の床が、ゆっくりと崩れ落ちていく。


急激ではない。

爆発でもない。


まるで、長い時間をかけて支えを失ったものが、ようやく自分の重さを思い出したように。


ひとつずつ、石が落ちる。

その下に、闇があった。

穴。

底の見えない、大穴。


そこから闇の霧が滲み出す。

噴き上がるのではない。

じんわりと。

ゆっくり。


ゆっくり。

空気を侵すように。


床を這い、魔法陣の線を舐め、封印解除装置の脚元へまとわりつく。

フィリアのライトに触れても、すぐには退かない。

重い霧だった。


世界のどこで見た闇の霧よりも濃い。

黒いのに、底がない。

冷たいのに、熱を奪うだけではない。


見ているだけで、心の奥に指を入れられるような感覚があった。

リヴァルは、その穴を見ていた。


恐れていない顔だった。

覚悟している顔だった。


だからこそ、フィリアは胸の奥が冷えた。

大穴は、少しずつ広がっていく。


封印の底が、口を開けた。

闇の霧が、広間に満ち始める。


終わりが、ゆっくりと近づいていた。

闇の穴は、ゆっくりと広がっていた。

崩れ落ちた魔法陣の中央。


封印解除装置の掘削ユニットが到達した場所。

そこに開いた大穴から、闇の霧が滲み出している。


噴き上がるのではない。

爆発するのでもない。

ただ、じんわりと。

床を濡らすように。


空気を蝕むように。

闇が広間へ広がっていく。

フィリアは、その穴を見た。

底は見えない。


光を向けても、奥まで届かない。

自分のライトでさえ、穴の縁を白く照らすだけで、その奥にあるものを完全には暴けなかった。


それでも、分かる。

ここが闇の霧の大元。


すべての封印の奥にあったもの。

リヴァルが、最後に向かおうとしていた場所。

リヴァルは床に手をつき、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。


肩に打ち込まれた抑制装置が白く光る。

脇腹の装置も、胸元の装置も、黒い線の進行を押し留めている。

けれど、完全には止めきれていない。


大穴が開いたことで、闇の圧が強くなっていた。

リヴァルの身体に刻まれた黒い術式線が、白い抑制光の縁で脈打つ。


「リヴァルさん」


フィリアが呼ぶ。

リヴァルは立ち上がった。

少しふらついた。


それでも、穴の方へ身体を向ける。


「もう、時間がない」


その声は静かだった。

世界へ向けたリヴァイヴ・アニマの声ではない。

フィリアが知っているリヴァルの声だった。


「封印解除は完了する。大元が開いた。ここから先は、再封印しなければ闇の霧は広がる」


「分かっています」


フィリアは答えた。

リヴァルは振り返る。


「分かっているなら、下がって」


「下がりません」


「フィリア」


「封印のために犠牲が必要なことを理解したうえで、私はここまで来ました」


リヴァルの表情が、わずかに固まった。

闇の霧が、二人の間を流れる。


フィリアのライトが、それを押し返す。


「リヴァルさんが、誰にも言わなかった理由も分かっています」


フィリアは一歩近づいた。


「誰かが代わりになると言うから。誰かが止めるから。誰かが、あなたを惜しむから」


リヴァルは何も言わない。


「でも、一番の理由は違います」


フィリアの声は震えていた。

けれど、止まらなかった。


「私がいると、あなたの覚悟が鈍るから」


リヴァルの目が伏せられる。

否定しない。

それが、答えだった。

フィリアはさらに一歩進む。


「リヴァルさんは、私に見られたくなかったんですよね」


「……そうだ」


リヴァルは低く言った。


「君にだけは、見られたくなかった」


「どうしてですか」


「言っただろう」


リヴァルの声がかすれる。


「君がいると、僕は迷う」


彼は胸元に手を当てた。

抑制装置の白い光が、黒い線を押し返している。


「僕は、誰かを犠牲にする作戦を立てられなかった。

 だから自分を犠牲にする作戦を立てた。

 それなのに、君が目の前にいると、その程度の覚悟すら揺らぐ」


「揺らいでください」


フィリアは言った。

リヴァルが顔を上げる。


「そんな覚悟なら、揺らいでください」


「フィリア」


「私は、そのために来ました」


リヴァルの目に、痛みが走った。


「君は分かっていない」


「分かっています」


「分かっていない」


リヴァルは一歩、穴へ近づく。


「ここで僕が止まれば、次に誰かが選ばれる。

 君かもしれない。

 クリスティナかもしれない。

 イルルかもしれない。

 あるいは、まだ名前も知らない誰かかもしれない」


「だから自分が行くんですか」


「それが最小被害だ」


「違います」


フィリアは即座に否定した。


「リヴァルさんがいない世界は、私にとって最小被害じゃありません」


リヴァルの呼吸が止まる。

フィリアは彼を見た。

まっすぐに。


「世界のために必要だからって、自分だけを数から外さないでください」


「僕は」


「リヴァルさんは、いつもそうです」


フィリアの声が、少し強くなった。


「人の痛みにはすぐ気づくのに、自分が痛いことは計算に入れません。

 誰かが苦しむ未来は避けようとするのに、自分が苦しむ未来だけは平気で選びます」


「平気じゃない」


リヴァルは初めて、強く言った。

その声には、怒りよりも悲しみがあった。


「平気なわけがない」


フィリアは黙った。

リヴァルは穴の縁を見た。


「怖いよ」


その言葉は、あまりにも小さかった。


「死ぬことが怖くないわけじゃない。

 封印に取り込まれて、自分が自分でなくなるかもしれないことが怖くないわけじゃない。

 精霊たちの残響を見た。

 ああなる可能性があると分かっている」


彼は笑った。

苦い笑みだった。


「それでも、僕がやる方がいい」


「よくありません」


「他に方法がない」


「あるかもしれません」


「不確定な希望に世界を賭けるのか」


「リヴァルさんは、いつも不確定な希望を拾ってきました」


リヴァルは言葉を失った。

フィリアは続ける。


「クラリスさんも、イルルさんも、ナンディーヌさんも、クリスさんも。

 全部、確実だったわけじゃありません。

 それでも、助ける方法を探しました」


「それとこれは違う」


「違いません」


「違う」


「違いません」


フィリアは一歩、また近づいた。


「リヴァルさんを救う方法だけ、探す前から諦めないでください」


抑制装置の光が一瞬強くなる。

闇の穴から流れ出す霧が、二人の足元を覆い始めていた。


リヴァルは、それを見た。

時間がない。


その判断だけは、間違いようがない。


「君を説得する時間はない」


「説得されません」


「止めても、僕はやめない」


「知っています」


フィリアは答えた。


「ここで連れ帰っても、また同じことをしますよね」


リヴァルは黙った。


「誰かの目を盗んで、別の方法を作って、今度こそ誰にも追いつかれないようにする」


「……」


「否定しないんですね」


リヴァルは、静かに息を吐いた。


「否定できない」


その答えに、フィリアは小さく頷いた。


「だから、私も止まりません」


リヴァルの瞳が揺れる。


「フィリア」


「リヴァルさんが何度でも一人で行こうとするなら、私は何度でも追いかけます」


「それは」


「あなたが私を選んだんです」


フィリアは言った。

リヴァルが息を呑む。


「リヴァルさんが、私をここまで連れてきたんです。

 フィリア・レイフィールドを、ライトを、ARKに置いたのはリヴァルさんです」


「君を、こんな場所に連れてくるためじゃない」


「でも、私はここにいます」


フィリアはレイアーツデバイスを下ろした。

もう撃たない。

もう、銃口を向ける場面ではない。


「だから、私を置いていかないでください」


リヴァルは目を閉じた。

白い抑制光が、弱く明滅する。

闇の穴が、さらに広がった。


床の石がひとつ、またひとつと落ちていく。


封印解除装置の脚部がきしむ。

警告音が鳴り続けている。

リヴァルは目を開けた。


その表情から、迷いが消えていた。


「ごめん」


その一言だけで、フィリアは気づいた。


「リヴァルさん――」


リヴァルが手を伸ばす。

フィリアは咄嗟に避けようとした。


しかし、リヴァルの動きは速かった。

抑制装置で精霊化を止められていても、

まだ彼の身体には封印術式へ接続しかけたマナが流れている。


リヴァルの掌が、フィリアの肩を押した。


強く。

殺すためではない。

傷つけるためでもない。


ただ、穴の縁から遠ざけるために。

フィリアの身体が後ろへ飛ぶ。

床を転がり、魔法陣の外側で止まった。


「っ……!」


フィリアはすぐに顔を上げる。

リヴァルは、闇の穴の縁に立っていた。


抑制装置の白い光が、ぱちぱちと音を立てている。

黒い術式線は、それを越えようとしている。


リヴァルは、自分の胸元に打ち込まれた抑制装置へ手をかけた。


「やめて!」


フィリアが叫ぶ。

リヴァルは答えなかった。

指先に黒いマナが集まる。


抑制装置のひとつが、白い火花を散らして砕けた。

黒い線が、胸元から首へ伸びる。


リヴァルの身体が、穴の闇に引かれるように揺れた。


だが、彼は倒れない。

フィリアの方を見る。


「フィリア」


その声は、驚くほど穏やかだった。


「僕は君に、たくさん助けられた」


「リヴァルさん、やめて」


「君のライトは、僕が考えたどの計算よりも遠くへ届いた。

 半精化した者を戻し、精霊に沈みかけた者を救い、僕が諦めた可能性を何度も拾った」


「やめてください!」


フィリアは立ち上がる。

足が震える。

それでも、前へ進もうとする。

リヴァルは首を横に振った。


「来ないで」


「行きます!」


「来れば、君まで巻き込まれる」


「それでも行きます!」


リヴァルは悲しそうに笑った。


「だから、来てほしくなかった」


闇の霧が、彼の足元から上がる。

まるで黒い手のように、足首へ、膝へ、腰へ絡みついていく。

リヴァルは穴の奥を見た。


「これで、最後だ」


「違います!」


「世界は、君たちに任せる」


「違う!」


「ARKは、リヴァイヴ・プランを越えられる。君がいる。皆がいる」


「そんな言葉で終わらせないでください!」


フィリアは走り出した。

リヴァルはそれを見て、目を見開く。


「フィリア、止まれ!」


止まらない。

白いライトが、フィリアの背から溢れた。

翼のように広がるにはまだ足りない。


でも、確かに光が伸びる。

リヴァルが穴へ身を投げようとする、その瞬間。


フィリアは、全力で彼へ飛び込んだ。


「フィリ――」


二人の身体がぶつかる。

リヴァルの足が、穴の縁から離れた。


フィリアの腕が、彼の背へ回る。

リヴァルの身体が、闇の穴へ傾く。


「――ア?」


二人は落ちた。

闇が、一瞬で視界を包んだ。


上にあった広間の光が遠ざかる。

封印解除装置の駆動音も、警告音も、壁を震わせる戦闘音も、すべてが遠くなる。


落下している。

底の見えない闇の中へ。


フィリアはリヴァルから離れなかった。

リヴァルも、反射的に彼女を抱き留めていた。


「フィリア!」


リヴァルの声が、闇の中で響く。


「何をしている!」


「リヴァルさん」


フィリアは息を切らしながら言った。


「パスコードに答えるために、私はここまで来ました……」


「パスコード……」


リヴァルの声が、途切れる。

フィリアは彼を見た。


闇の中でも、リヴァルの顔だけは近い。


黒い霧が周囲を包んでいる。

落下の風が髪を揺らす。


それでも、フィリアは目を逸らさなかった。


「はい」


彼女は言った。


「非常口のパスコード…… [*NextToYou_WithMe?*]」


リヴァルの瞳が揺れた。

何も言えない。

その沈黙が、答えだった。


フィリアはリヴァルの外套を握る。


「リヴァルさん」


「……」


「あなたの隣にずっといます」


闇が迫る。

黒い霧が、二人を包む。


フィリアのライトが、それを押し返す。


「一人にさせません」


リヴァルの顔が歪んだ。

笑おうとして、失敗したような顔。

泣きそうで、それでも泣けないような顔。


「君は」


声が震えていた。


「本当に、僕の計画を壊すのが上手い」


「はい」


フィリアは、ほんの少しだけ笑った。


「知っています」


リヴァルは短く息を吐いた。

そして、フィリアを抱く腕に力を込めた。

闇に落ちながら。


封印に取り込まれるかもしれないと分かりながら。

それでも、もう彼女を突き放さなかった。


「ありがとう……」


リヴァルは言った。


「ずっと一緒だ。フィリア」


その言葉は、約束のようだった。

祈りのようでもあった。

あるいは、結婚の誓いに似ていた。


フィリアは目を閉じなかった。

リヴァルも、もう目を逸らさなかった。


二人の距離が、静かに近づく。

闇の中で、唇が触れた。

短い口づけだった。


けれど、落下の時間がそこで止まったように感じた。


次の瞬間。


フィリアのライトが、爆ぜた。

闇の中から、白い光が伸びる。

一本ではない。

ふたすじ。


リヴァルとフィリアを包むように、二本の光が大穴の底から上へ伸びた。

それはやがて、翼の形を取った。

フィリアのライトの翼。


けれど、今までのライトとは違う。


闇を押し返すだけではない。

闇に触れ、結び、変えていく。


黒い霧が、光に触れたところから白く変わっていく。


消えるのではない。

砕けるのでもない。


性質そのものが、光へ書き換わっていく。

大穴から溢れていた闇の霧が、翼の光に巻き込まれ、白い粒子へ変わった。

古の魔法陣の間で、封印解除装置が限界を迎える。


支柱が砕けた。

掘削ユニットが崩れ落ちる。

だが、闇は広がらなかった。


穴の奥から、白い光が立ち上がる。

翼の形をした光が、やがて一本の柱へ変わっていく。

広間を貫き、玉座の間を貫き、魔王城跡の天井を突き破る。


島の上空へ。

魔王城跡の頂上から、白い光の柱が立ち上がった。

外で戦っていた者たちが、その光を見た。


中庭。

ロッカ軍曹が、織葉へ向けて爪を振り下ろそうとしていた。

その瞬間、白い光が城跡の奥から溢れた。


ロッカの身体を覆っていた獣の毛が、光に触れる。

黒い硬質化した皮膚が、ひび割れた。


「何だ、これ……!」


ロッカが叫ぶ。

爪が縮む。

腕が人の形へ戻る。


逆関節の脚が崩れ、膝が石畳につく。

獣の咆哮が、人間の呻き声へ変わった。


織葉は刀を下ろさなかった。

だが、斬らなかった。


ロッカ軍曹の身体から、半精化の反応が抜けていく。

荒い息を吐く男が、そこに残った。


「……戻った?」


シェスターが呟く。

彼の拳も、途中で止まっていた。


ロッカは自分の手を見る。

爪のない、人間の手。


「何が……」


エルガン・ヴァイスの干渉装置も、白い光に包まれていた。

黒い波形が乱れ、装置が破裂するように火花を散らす。

エルガンの身体を覆っていたマギアス化の影が、薄れていく。


彼は壁に手をつき、膝をついた。


「馬鹿な……術式が、反転している……?」


リオンはワイヤーを巻き戻しながら、光の柱を見上げた。


「フィリア隊員」


その声には、わずかな驚きが混ざっていた。

織葉は、城跡の奥を見た。


「フィリア殿……」


シェスターは扉の方へ一歩踏み出しかけ、すぐに足を止めた。

閉ざされた扉の向こうから、闇ではなく光が流れてきている。


「……やりやがったのか」


彼は笑った。

荒く、信じきれないように。


「本当に」


山道の展望台。

クリスティナの周囲に咲いていた赤い花弁が、白い光を受けて揺れた。

マギアス兵たちの身体から、黒い紋様が消えていく。


半精化しかけていた腕が戻り、硬質化した皮膚が剥がれ落ちる。

兵士たちは次々と倒れた。

敵としてではなく、意識を失った人間として。


クリスティナはレイピアを下ろす。

ラフレシアフォームの赤い花弁が、静かに散った。


「……まったく」


彼女は光の柱を見上げ、息を吐いた。


「最後まで、派手に咲かせますのね」


その声は震えていた。

けれど、笑っていた。

崩れた山道の下。


ガイと一輝が、岩と瓦礫の間でマギアス兵たちを押さえ込んでいた。

一輝はソニックパイルの反動で肩を押さえ、ガイは複数の敵をまとめて投げ飛ばそうとしていた。


そこへ、白い光が降り注ぐ。


「うおっ!?」


一輝が目を細める。

目の前のマギアス兵が、人間へ戻っていく。


獣のような腕が縮み、濁った目が元に戻り、兵士が膝から崩れた。


「ガイさん!」


一輝が叫ぶ。


「人に戻ってるッス!」


ガイは光を浴びながら、倒れた兵士たちを見る。


「……そうか」


彼は上を見た。

魔王城跡の頂上から伸びる光の柱。


「やったんだな」


その声は低かった。


「フィリア」


山道の下方。

イルルと紫乃の前でも、同じことが起きていた。


イルルのレインが山道を塞いでいる。

紫乃の針や幻惑で動きを鈍らされたマギアス兵たちが、白い光に包まれる。


半精化した身体が戻っていく。

傷は残る。

疲労も残る。


けれど、彼らはもう獣ではなかった。

イルルはハンマーを下ろした。


「戻ってる……」


傷口を押さえていたレインが、淡く揺れる。

紫乃は倒れた兵士たちを見て、そっと微笑んだ。


「あら」


白い光が、彼女の髪と袖を照らす。


「本当に、根っこから変えてしまったのね」


イルルは城跡の頂上を見る。

そこから伸びる光の柱は、闇の霧を飲み込みながら広がっている。


「フィリアさん……」


その声は、祈りのようだった。

島全体が、光に包まれていく。

古い観光道。

錆びた手すり。


閉鎖された展望台。

崩れた案内所。

切り立った岩壁。

正規軍の基地。


マギアス軍の陣地。

すべてを覆っていた闇の霧が、光へ変わる。


正規軍の兵士たちは、銃を構えたまま立ち尽くした。

目の前でマギアス兵が人へ戻っていく。


敵だった者たちが、膝をつき、倒れ、意識を失う。

誰かが叫んだ。


「撃つな!」


その声が、基地側の戦場に広がる。


「撃つな! 人に戻っている!」


海上を漂っていた闇の霧も、光に変わっていく。

黒灰色だった海が、白い粒子を映して淡く輝く。


島を覆う重い空気が、少しずつ軽くなっていく。

そして、その変化は島だけでは終わらなかった。

世界中で、闇の霧が光へ変わり始めた。


シェルターの外で、濃度計が異常値を示す。

黒い霧を警戒していた警備員が、モニターを見て目を見開く。


霧濃度、低下。

マナ汚染反応、変質。

闇属性反応、消失。


代わりに、白い光が外壁の向こうで舞っている。

避難民エリアの子供が、窓の外を指差した。


「雪?」


違う。

それは雪ではなかった。


闇の霧だったものが、光の粒になって降っていた。


パズリア山でも。

湖のほとりでも。

地の封印が眠っていた街でも。

九尾温泉街でも。


薄く漂っていた闇の霧が、次々と白い光へ変わっていく。


山道で。

街角で。

壊れた道路で。

閉ざされた学校で。


避難所の屋根の上で。

世界中の空気が、少しずつ明るくなっていった。

マギアス化していた人々の身体から、黒い紋様が消えていく。


角が崩れ、爪が戻り、濁っていた瞳に人の色が戻る。


倒れる者。

泣き出す者。

自分の手を見て震える者。

家族の名を呼ぶ者。


正規軍の兵士たちは、武器を下ろした。


医療班が走る。

救助要請が各地で飛ぶ。

誰かが泣いていた。

誰かが笑っていた。


誰かが、何が起きたのか分からないまま空を見上げていた。

闇の大穴から立ち上がった光の柱は、魔王城跡の上空でさらに広がる。


柱は翼のように開き、やがて空へ溶けた。


その光は、世界を包んでいく。

闇を焼き払うのではなく。

闇を消し去るのではなく。


闇だったものを、光へ変えながら。

古の魔法陣の間。

崩れた大穴の奥から、白い光がまだ溢れていた。


フィリアとリヴァルの姿は見えない。

ただ、ふたすじの光が絡み合うように穴の底から伸びている。

一つは、強く優しいライト。


もう一つは、それに寄り添うような淡い光。

やがて二つの光は、大きな翼となり、柱となり、世界へ広がっていった。


闇の霧は、もう広がらなかった。


人をマギアスに変える霧も。

人柱を求める封印の連鎖も。

世界を覆い続けた暗い息も。


すべてが、白い光の中で変わっていく。


そして。


世界から闇が失われた。

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