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六章 三話

高速輸送艇の整備は、最終確認へ入っていた。


ベリリウム銅の外部プレートが機体下部と側面へ取り付けられ、織葉が紫電導気の通りを確認する。

イルルは機体下部の構造と着水時の角度を見ながら、レインをどこへ展開するか整備班と確認していた。


一輝は端末を抱えたまま、燃料系統と出力制御の数値を何度も見直している。

ガイは出撃メンバーと装備の最終確認。


シェスターは積載されたアンカー装備を見ていた。

誰も、完全に安心などしていない。


だが、もう準備は止まっていなかった。

フィリアは少し離れた場所で、レイアーツデバイスの確認をしていた。


ライトバレット。

抑制弾。

簡易照準補助。

弾数は多くない。


それでも、今のフィリアにとっては必要な装備だった。


「フィリア隊員」


呼ばれて、フィリアは顔を上げた。


リオンが立っていた。

いつも通り、無駄のない姿勢。


その視線は、端末でも機体でもなく、フィリアの手元のデバイスに向いている。


「はい」


「狙撃に成功したと聞いた」


フィリアは一瞬だけ、火口でのことを思い出した。

クリスティナに向けて撃った、精霊抑制弾。


外せば、終わっていた。

撃つしかなかった。


「はい」


「この作戦時は、君も戦力として参戦する可能性がある」


リオンは淡々と言った。


「ならば、もう一つ、射撃姿勢を教えておく」


「今、ですか」


「今だ」


迷いのない答えだった。

リオンはフィリアの正面に立ち、床の一点を指した。


「まず足元。足の幅は、肩幅よりも拳ひとつ分ほど広く開け」


フィリアは言われた通りに足を開く。


「右足のつま先は外側へ三十度ほど開く。

 左足は標的に向ける。

 腰が回りすぎないよう、下半身をロックする」


フィリアは姿勢を直した。

慣れていない立ち方だった。


けれど、不思議と不安定ではない。


「次に上半身」


リオンはフィリアのレイアーツデバイスの構えを確認する。


「ストックは、肩の付け根にあるくぼみへ確実に押し当てる」


フィリアはストックを肩へ当て直した。


「首を傾けるな。顔を少し前に出すようにし、目線とサイトの高さを合わせる」


「はい」


「体の軸は真っ直ぐ。ただし、重心だけはほんの少し前に置く」


リオンの声は、説明というより調整だった。

フィリアの姿勢が少しずつ変わっていく。


肩の力。

腰の向き。

足の角度。


ひとつ直すたびに、照準が安定していくのが分かった。


「腕と手のホールド」


リオンは続ける。


「前を支える手は、ハンドガードを下から包むように。力まず、しかし確実にホールドする」


フィリアは左手の位置を直した。


「グリップを握る手は、できるだけ上の方を深く握り込め」


右手を少し上へ。


「引き金を引くときは、人差し指の第一関節の腹を使う。真後ろへ真っ直ぐ、静かに絞り込め」


フィリアは呼吸を止めそうになり、すぐに気づいて息を戻した。

リオンはそれを見て、わずかに頷く。


「……よし。形は悪くない」


フィリアは照準器の先を見る。

整備区画の壁に貼られた無地の安全標識。

そこへ照準を合わせる。


「まずはこの姿勢で、体に変な力みがないか感覚を覚えてほしい」


「はい」


リオンはそこで一度、整備中の高速輸送艇へ視線を向けた。


「それと、上陸についてこちらからも提案がある」


フィリアはデバイスを下ろしかける。


「提案、ですか」


「シェスター隊員と話をした」


リオンは短く言った。


「アンカーでスパイクシューズ化する装備は、人数分用意できるそうだ」


「スパイクシューズ化……」


「着陸地点が上陸地点に近い場合、私のブリザードで海面を凍らせ、

 その上を移動することを提案しておく」


フィリアは目を見開いた。

水上バイク。

ドローンパック。

そこまでは考えていた。


けれど、海面を凍らせて道を作るという選択肢は、まだ詰め切れていなかった。


「氷上移動、ですか」


「距離と波の状態による。

 万能ではない。

 だが、敵の迎撃や機材の損耗を考えれば、選択肢にはなる」


リオンはフィリアを見た。


「作戦の発案者はフィリア隊員、君だ」


その言葉に、フィリアは一瞬、何も言えなくなった。

リオンの声は変わらない。


「私は提案する。あとは任せる。いざとなれば指示してくれ」


「どうして」


フィリアは思わず尋ねていた。


「どうして、そこまで」


リオンはわずかに眉を動かした。

その問いを、不思議に思ったようだった。


「君のオペレートで、数多くの戦場を戦った」


リオンは静かに答えた。


「今更疑うまでもない」


それだけ言うと、リオンは踵を返した。


「出撃前の通信確認に戻る。必要なら呼べ」


「あ……はい」


フィリアが返事をした時には、リオンはもう整備班の方へ歩き出していた。

その背中は、いつも通りだった。

特別な励ましをしたつもりもない。


大げさに信頼を示したつもりもない。

ただ、戦場で積み重ねてきた事実を言っただけ。

それが、フィリアの胸に静かに残った。


君のオペレートで、数多くの戦場を戦った。

今更疑うまでもない。

フィリアはレイアーツデバイスを握り直す。


さっき教わった姿勢を、もう一度作る。


足幅。

右足。

左足。

肩。


重心。

手の位置。

引き金へかける指。


体の奥に、ほんの少しだけ芯が通った気がした。


「フィリアさん!」


一輝の声が飛ぶ。


「高速輸送艇、主系統いけるっス!

 ベリリウム銅プレートの固定も八割完了!

 織葉さんの確認待ちっス!」


織葉が機体の側面へ指先を当て、紫電を薄く流している。


「通ります。ですが、右側面の三番プレートだけ少し浮いています」


「三番、締め直し!」


整備員が即座に動く。

イルルは機体下部の前で、水色のマナを掌に集めていた。


「着水時のクッションは、機体の下に一枚、その外側に二枚重ねます。

 角度がずれた場合は、波の方を逃がします」


「頼む」


ガイが頷く。


「無茶な着水になる」


「分かっています」


イルルは短く答えた。

その表情に迷いはない。


シェスターがアンカー装備のケースを閉じる。


「スパイクの準備も終わった。使うかは現地判断だ」


リオンが端末を操作しながら言う。


「正規軍との通信、断続的に入る。魔王城跡周辺は交戦中。通常接近は困難」


ガイが舌打ちした。


「やっぱりか」


「だが、低空接近なら監視の隙はある。長くはない」


フィリアはデバイスを下ろし、全員を見た。


輸送艇。

整備班。

仲間たち。

魔王城跡。


リヴァル。

すべてが、ひとつの線へつながっていく。


怖くないわけではない。

不安が消えたわけでもない。

それでも、足は止まらない。


「準備が整い次第、出発します」


フィリアの声に、ガイが笑った。


「了解だ」


一輝が親指を立てる。


「飛ばせるようにするッス!」


織葉が紫電を収め、機体から手を離す。


「制動は任せてください」


イルルが頷く。


「着水は支えます」


クリスティナがレイピアを腰に収め、優雅に笑う。


「敵の迎撃は、こちらで燃やし払いますわ」


紫乃が袖の中へ何かをしまいながら、ふふ、と笑った。


「怖い顔の子たちには、おばさんが少し眠ってもらいましょうか」


シェスターは短く息を吐く。


「行くぞ」


リオンが通信端末を閉じる。


「出撃準備、最終段階へ移行する」


高速輸送艇のエンジンが本格的に唸り始めた。

床が震える。


整備員たちが機体から離れ、出撃レーンが開かれていく。

ハンガーの隔壁がゆっくりと上昇する。

その向こうに、白い空と海が見えた。


魔王城跡へ。

最後の封印へ。


そして、リヴァルのいる場所へ。

フィリアはレイアーツデバイスを胸の前で一度だけ抱え、すぐに前を向いた。


「出発します」


高速輸送艇は、海面すれすれを飛んでいた。

白い波頭が、機体の下を流れていく。


高度は低い。

低すぎるほど低い。


少しでも操作を誤れば、海面に叩きつけられる。

だが、高度を上げれば捕捉される。

通常航路で接近すれば、迎撃される。


だから、選べる道はこれしかなかった。


高速。

低空。

最短距離。

機内に余裕はなかった。


座席に身体を固定され、全員が振動に耐えている。

機体の外壁に取り付けられたベリリウム銅のプレートが、時折、薄く紫に光った。


織葉の紫電導気が、すでに機体全体へ細く通されている。

本格的に使うのは、減速時。


だが、今も彼女は機体の癖を読んでいた。


「右側面、波を拾っています」


織葉が言った。


「姿勢補正、少し左へ」


操縦担当の整備員が即座に反応する。


「左補正、二度」


機体がわずかに傾く。

風切り音が変わった。


一輝が端末にしがみつきながら叫ぶ。


「出力安定! ただし、この速度でこの高度は長くもたないっス!」


「分かってる!」


ガイが前方モニターを睨む。


「フィリア、島は」


フィリアは座席に固定されたまま、端末を見ていた。


前方の地形データ。

正規軍の通信断片。

マギアス軍の反応。

封印地点の推定座標。


すべてが揺れる画面の中で更新されていく。


「見えます」


フィリアが顔を上げた。

前方に、影があった。

最初は雲のように見えた。

だが、違う。


それは島だった。

海の中央に突き立つような、切り立った孤島。

周囲は岩壁に囲まれ、平らな浜は少ない。


島の中央には、山がそびえている。

山というより、巨大な岩塊だった。


その頂上に、城跡が見えた。

崩れた塔。

欠けた外壁。

古い石造りの城郭。


かつて魔王城があったと伝えられている場所。

そして、その城跡へ向かう観光道が、山肌に細く巻きついている。

もう使われなくなった道。


けれど、まだ形だけは残っている道。


「……あれが」


イルルが小さく呟いた。

画面越しではなく、実際に見る魔王城跡は、番組で見た印象とはまるで違った。


観光地だった面影はある。

海沿いには古い桟橋。

閉鎖された案内所。

錆びた観光案内板。


山肌には展望台らしき構造物。

城跡へ続く石畳の道。


だが、そこに人を迎える明るさはない。

島全体に、重い闇の霧が漂っていた。


他の地域で見る霧とは違う。

濃い。

黒い。

そして、沈んでいる。


風に流されるというより、島そのものに染み込んでいるようだった。

観光地だったころの名残を、闇が静かに覆っている。

もうここは、誰かが写真を撮りに来る場所ではなかった。


「闇の霧濃度、上昇」


リオンが端末を確認する。


「他地域の平均値とは比較にならない。通信にもノイズが入る」


「正規軍の基地は」


シェスターが問う。

フィリアは地図を表示した。


「島の東側です。現在交戦反応あり。私たちの着水予定地点は西側。基地とは逆側になります」


「つまり、回り込む必要がある」


「はい」


フィリアは頷く。


「ただし、基地側へ直接向かうより、こちら側から上陸して観光道へ入った方が、

 頂上へ早く到達できます」


「敵は」


「まだ接触しません。低空接近中は、捕捉される前に落とします」


「落とすって言い方やめてほしいっス!」


一輝が叫んだ。

紫乃が固定ベルトの中でくすりと笑う。


「着水、だったわね」


「そうです、着水っス! 言葉だけでも大事っス!」


「言葉で衝撃は減りませんわよ」


クリスティナが平然と言う。


「それ言わないでほしいっス!」


機体が大きく揺れた。

警告音が一度鳴る。

操縦席側から声が飛ぶ。


「接近限界! 予定着水地点まで十五秒!」


ガイが声を張る。


「織葉!」


「承知!」


織葉は座席の固定を半分だけ外し、片手を機体の内壁へ当てた。

紫の雷が、指先から走る。

外壁に取り付けられたベリリウム銅プレートが、一斉に反応した。


薄い紫電が機体を包む。


「秘技、紫電導気」


織葉の声が、低く響いた。

雷は爆ぜない。

流れる。


機体の外側を走り、空気と海面へ逃げるように広がる。

高速輸送艇の速度が、急激に落ち始めた。

ただし、ただのブレーキではない。


叩きつけるような制動ではなく、機体の熱と速度を外へ逃がす減速。

紫電が海面を舐め、白い水煙を上げる。


全員の身体が前へ引っ張られた。

固定ベルトが軋む。


「ぐっ……!」


一輝が歯を食いしばる。


「出力落ちすぎないように保持! 機首上げすぎるな!」


整備員の声。

警告音。

風切り音。

紫電の音。


すべてが重なる。

織葉の額に汗が浮かぶ。


「まだ、いけます」


「着水まで七秒!」


ガイがイルルを見る。


「イルル!」


「はい!」


イルルは両手を前へ突き出した。

水色のマナが、機体下部へ広がっていく。


「マナアーツ、レイン」


機体の下に、水の膜が生まれた。


一枚。

その下に、もう一枚。


さらに外側へ、波を逃がすような曲面が広がる。

雨のようで、湖面のようで、柔らかな盾のようなマナ。


「衝撃、受けます!」


イルルの声と同時に、機体が海面へ触れた。


いや、叩きつけられた。

だが、砕けなかった。


レインの膜が、最初の衝撃を受け止める。

紫電導気で落とされた速度が、海面へ流される。


機体は一度大きく跳ねた。

全員の身体が宙へ浮きかける。

二度目の接触。

水しぶきが窓を覆った。


三度目。

機体はようやく、海面を滑るように進んだ。


「着水成功!」


一輝が叫ぶ。


「成功っていうか生きてるっス!」


「同じだ!」


ガイが返した。

高速輸送艇は、白い水煙を引きながら海上を滑り、やがて速度を落として停止した。


機内に、数秒だけ荒い呼吸が満ちる。

誰も喋らない。

生きていることを、それぞれが確認していた。


やがて、クリスティナがぽつりと言った。


「……もう少し優雅に到着したかったですわ」


「文句は帰ってから聞く!」


ガイが言う。

フィリアは固定ベルトを外した。


「降下します。上陸地点まで移動します」


「了解」


リオンがすでに立ち上がっていた。

シェスターがハッチのロックを解除する。

外から、闇の霧を含んだ湿った風が流れ込んだ。


重い。

冷たい。


海風のはずなのに、どこか土の奥から出てきたような匂いが混ざっている。


ハッチが開く。

目の前には、黒灰色の海。

その先に、岩壁。


さらに上には、山肌を巻く観光道が見えた。

フィリアたちは順に機体から降りた。


正確には、海へ降りるのではない。

リオンが先に手をかざしていた。


「ブリザード」


冷気が走る。

海面が白く変わった。


波の動きが止まり、薄い氷が広がっていく。


完全な氷原ではない。

長時間はもたない。


だが、人が走るには十分な厚みがあった。

シェスターが配布したアンカー装備を起動する。


靴底に小さなスパイクが展開され、氷へ噛む。


「滑るなよ」


シェスターが短く言う。


「誰に言ってるんですの」


クリスティナが軽く返した。

直後、氷の上で少し滑りかけた。

織葉が無言で腕を掴む。


「……今のは試しただけですわ」


「せやな」


「その顔やめてくださいまし」


紫乃が後ろで笑った。


「仲がいいわねえ」


「母上、今は走ります」


「はいはい」


リオンが前方を示す。


「氷は長く維持しない。走れ」


その一言で、全員が動いた。

氷上を駆ける。


スパイクが氷を噛む音が連続する。

背後では高速輸送艇が波に揺れ、その周囲をイルルのレインがまだ支えている。


島の岩壁が近づいてくる。

闇の霧は、近づくほど濃くなった。


呼吸に重さが混ざる。

視界の端が少し黒ずむ。


だが、フィリアのライトが薄く周囲を照らし、その濁りを押し返した。


「フィリアさん、光を抑えすぎないでください」


イルルが走りながら言う。


「霧が濃いです」


「はい」


フィリアはレイアーツデバイスを抱え直し、ライトを少し広げた。


淡い白光が、氷の上に伸びる。

その光の道を、全員が走る。

岩場が迫る。

海面から突き出した黒い岩。


古い上陸用の階段が、その間に見えた。

観光地だったころに使われていたものだろう。

手すりは錆び、案内板は傾き、立入禁止の表示が何重にも貼られている。


そのさらに上には、閉鎖された観光道。

魔王城跡見学ルート。


かつては明るい文字で書かれていたはずの看板は、闇の霧に濡れてくすんでいた。


「上がれ!」


ガイが叫ぶ。

先頭のリオンが岩場へ飛び移る。


次にシェスター。

イルル。

ガイ。

一輝。


クリスティナ。

紫乃。

織葉。

最後にフィリア。


全員が岩場へ上陸した瞬間、背後の氷がひび割れ始めた。

リオンが手を下ろす。


ブリザードが解け、海面が元の黒灰色へ戻っていく。

波が押し寄せ、今走ってきた道を消した。


一輝が振り返って息を吐く。


「帰り、どうするんスかね……」


「帰る方法は、帰る時に考える」


ガイが言った。


「それリヴァルさんが聞いたら怒るやつっスよ」


「いないから言ってる」


「それも怒られるやつっス」


紫乃が楽しそうに笑った。

だが、笑いはすぐに霧の重さに飲まれていく。


フィリアは周囲を見た。

岩場の上。

古い観光道の入口。

錆びた柵。


破れた案内マップ。

魔王城跡まで徒歩四十分。

展望台まで二十五分。

資料館方面。


土産物通り。

その文字だけを見れば、ここはかつて人が訪れる場所だった。

休日に船で来て、案内板を見て、城跡まで歩き、海を眺める。


そういう場所だったはずだ。

けれど今、道の先から流れてくるのは、観光地の気配ではない。


闇の霧。

交戦音。

遠くで響く爆発。


山頂から落ちてくる重いマナの圧。

頂上にある城跡は、霧の向こうで黒く沈んでいる。


もうここは、そういう場所ではなかった。

リオンが地図を確認する。


「正規軍の拠点は島の東側。

 ここは西側だ。

 直接合流するには、海沿いを大きく回り込む必要がある」


シェスターが観光道を見上げる。


「だが、頂上へ行くならこの道が早い」


「はい」


フィリアは頷いた。


「軍事基地側へ回り込むより、ここから観光道を使って上を目指します。

 城跡へ近づけば、封印地点にも接近できます」


「道が残っていれば、だな」


ガイが言う。

織葉は傾いた案内板を見た。


「完全に崩れてはいません。少なくとも、途中までは使えるはずです」


「敵は」


クリスティナがレイピアの柄に手を置く。

フィリアは端末を見る。


「まだ近距離反応はありません。ただ、山頂側に大きな反応があります」


「なら、急ぎましょう」


イルルが言う。


「ここで止まっている時間はありません」


紫乃は袖の中へ手を入れ、何かを確認するように指を動かした。


「あらあら。観光道を走って登るなんて、ずいぶん忙しい観光ね」


「帰りにゆっくり見ればいい」


シェスターが短く言う。

その言葉に、フィリアは一瞬だけ目を向けた。

帰り。


その言葉が、今は少し遠く感じた。

フィリアは観光道の入口へ向き直った。


闇の霧が、山道の奥で揺れている。

その向こうに、魔王城跡がある。


最後の封印がある。

リヴァルがいる。


「行きます」


フィリアの声に、全員が頷いた。

戦闘はまだ始まっていない。


だが、もう後戻りはできなかった。

一行は、かつて観光客が歩いた道を、山頂へ向かって駆け上がり始めた。

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