六章 一話
翠川家を発つ頃には、朝の光が庭の石畳まで届いていた。
九尾の街は、いつも通り静かに湯気を上げている。
遠くの温泉街からは、まだ早い時間にもかかわらず、人の声がわずかに聞こえていた。
商いの準備をする声。
湯を運ぶ音。
鳥居の前を掃く箒の音。
昨日、山の奥で火精霊の封印が解かれたことなど、街の景色だけを見れば誰にも分からない。
けれど、確かに何かは変わっていた。
空が少し明るい。
闇の霧が、今日は薄い。
それだけで、人は少し前を向ける。
フィリアは翠川家の門前で、輸送ドローンの到着予定を確認していた。
端末には、シェルターへの帰還ルートが表示されている。
海を越え、特別シェルターへ戻る航路。
天候良好。
霧濃度、低。
飛行制限、なし。
条件としては、申し分なかった。
「フィリアちゃん」
紫乃の声に、フィリアは顔を上げる。
紫乃は小さな荷物を片手に、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「忘れ物はないかしら」
「はい。観測装置も、封印解除装置のログも、全部まとめました」
「えらいわねえ」
紫乃はそう言って、フィリアの肩へ軽く手を置いた。
その手は、昨日火口でフィリアの震えを支えてくれた手だった。
今は、ただの見送りの手だった。
フィリアは少しだけ笑う。
「紫乃さんも、ありがとうございました。山でも、火口でも」
「あら。おばさんは、できることをしただけよ」
「それが、すごく助かりました」
紫乃は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、そのお礼は、最後まで全部終わってから聞くわ」
最後まで。
その言葉が、フィリアの胸に静かに落ちる。
主要な封印は、ほぼ解けた。
残るのは最後の封印。
リヴァイヴプランの終わりは、もう遠い未来ではない。
手を伸ばせば届く場所にある。
そのことを考えると、不安より先に、期待が胸を満たした。
世界中に広がる闇の霧。
マギアス化した人々。
戻れないと思われていた者たち。
壊れた街。
閉ざされた道。
シェルターで暮らす子供たち。
そのすべてが、少しずつ元へ戻るかもしれない。
完全に同じ世界にはならない。
それでも、救われる世界へ進める。
そう思えるところまで、来た。
「フィリア嬢」
レオの声がした。
振り向くと、レオがクリスティナの隣に立っていた。
クリスティナは相変わらず無傷だった。
昨日の火精霊戦で、誰よりも異常な状態になったはずなのに、今朝の検査でも肉体的な損傷は確認されていない。
むしろ、少し元気すぎるくらいだった。
「お父様、そんなに心配しなくても大丈夫ですわ」
「心配しているのではない。確認しているのである」
「それを心配って言うんですの」
クリスティナが少し呆れたように言う。
レオは真面目な顔で頷いた。
「親としては当然である」
「堂々と言われると、こちらが何も言えませんわね」
クリスティナは肩をすくめる。
その指先に、ほんの一瞬だけ薄い火の気配が揺れた。
暴走ではない。
彼女の意思に合わせて、すぐに消える。
レオはその火を見て、少しだけ目を細めた。
「クリスティナ」
「はい」
「帰還後も、必ず検査を受けるのだぞ」
「分かっていますわ」
「本当にかね」
「本当にですわ」
横から織葉が短く言った。
「信用ならんな」
「織葉に言われたくないんだけど」
織葉は包帯の巻かれた右肩を少しだけ動かしかけ、すぐに紫乃の視線を受けて止まった。
「……動かしてへん」
「まだ何も言ってないわよ」
紫乃がにこりと笑う。
織葉は目を逸らした。
今日の織葉は、いつものように立っているだけでも少し痛々しかった。
右肩。
左手。
足首。
火口で受けた傷は、八重乃の治癒と冷却で落ち着いている。
けれど、治ったわけではない。
それでも、織葉の表情に沈んだ色は少なかった。
むしろ、戻るべき場所へ戻る顔をしていた。
「シェルターに戻れば、ジェーンさんにも診てもらえますし」
フィリアが言うと、クリスティナが笑った。
「織葉、怒られるね」
「アンタもや」
「私は無傷ですわ」
「元気すぎるから検査や言われとったやろ」
「そこなんですのよね。無傷なのに検査が増える。不思議ですわ」
「精霊食うたからや」
「朝から言い方」
紫乃が口元に手を当てて笑う。
レオは一瞬だけ複雑な顔をしたが、すぐに咳払いで整えた。
「いずれにせよ、異常が無傷という形で出ているならば、なおさら確認は必要であろう」
「はい、お父様」
クリスティナは素直に頷いた。
ふざけてはいる。
だが、軽く見ているわけではない。
それは、この場の誰にも分かった。
門の内側から、八重乃がゆっくりと歩いてきた。
手には小さな包みがある。
「織葉さん」
「はい、祖母上」
八重乃は包みを紫乃へ渡す。
「替えの冷却布と、塗り薬です。シェルターに戻るまでに痛みが強くなったら使いなさい」
「ありがとうございます」
「それから」
八重乃は穏やかに微笑む。
「今日は、絶対に刀を抜いてはいけません」
織葉は一瞬だけ黙った。
「……はい」
「間がありましたね」
「ありません」
「ありましたよ」
八重乃は笑顔のままだった。
織葉はそれ以上言い返さない。
紫乃が包みを受け取りながら言う。
「大丈夫です。私が見張っていますから」
「ええ。紫乃さんに任せます」
「お任せください」
「母上と祖母上が組むと逃げ場があらへん」
織葉が小さく呟く。
クリスティナは楽しそうに笑った。
「逃げる気だったんじゃん」
「言葉の綾や」
そこへ、叢雲が門の奥から姿を現した。
背筋を伸ばし、いつものように落ち着いた足取りで歩いてくる。
ただ、紫乃はすぐにその横へ寄り、さりげなく歩幅を合わせた。
叢雲はそれに気づき、少しだけ表情を緩める。
「皆、準備は整ったようでござるな」
「はい、父上」
織葉が姿勢を正そうとした瞬間、肩に痛みが走ったのか、わずかに眉を寄せた。
叢雲はそれを見逃さなかった。
「無理に正さずともよい」
「いえ」
「武芸者は、立ち姿だけで己を示すもの。されど、傷を悪化させて示すものではござらぬ」
織葉は少しだけ目を伏せた。
「承知しました」
叢雲は頷き、次にフィリアへ向き直る。
「フィリア殿」
「はい」
「此度の件、我らにとっても大きな縁でござった。
火の封印が解けた以上、リヴァイヴプランもいよいよ大詰めでござろう」
「はい」
フィリアは頷いた。
「あと少しです」
その言葉を口にした瞬間、自分の声が思ったより明るいことに気づいた。
あと少し。
そう言えるところまで来た。
誰かを殺すためではなく、戻すための計画。
世界をもう一度つなぎ直すための計画。
リヴァイヴプラン。
その完了が、近い。
レオも静かに頷いた。
「ここまで来れば、期待するなという方が難しい。人々も同じだろう」
「そうですね」
フィリアは端末を胸元へ抱える。
「シェルターでも、みんな待っていると思います。
リヴァルさんも、装置の準備に入っているはずです」
リヴァルから追加通信はない。
それは、昨日言われた通りだった。
休息を優先する。
疲労が抜けたら戻ってくればいい。
緊急があれば連絡を。
そうでなければ、追加通信は入れない。
だから、静かなのは予定通りだった。
予定通りのはずだった。
けれど今は、その静けささえ、もうすぐ終わりへ向かうための間のように思えた。
輸送ドローンの接近音が、空から聞こえた。
低い駆動音。
門前の空き地に、影が落ちる。
人員輸送用ドローンがゆっくりと降下し、砂埃を巻き上げないように高度を落とした。
後方には、荷物用の予備機が自動追従している。
翠川家の門下生たちも、少し離れた場所から見送りに出ていた。
昨日まで合同稽古をしていた者たち。
その中には、包帯姿の織葉を見て、声をかけたそうにしている者もいる。
だが、八重乃がいるためか、誰も不用意に騒がなかった。
八重乃が一歩前へ出る。
「皆さん、どうかお気をつけて」
「お世話になりました」
フィリアが頭を下げる。
クリスティナも優雅に礼をした。
「八重乃様、叢雲様、紫乃さん。本当にありがとうございました」
「こちらこそ。アドレメリアの若木も、よい火を宿しましたね」
「若木……」
クリスティナは少しだけ不思議そうにしたが、すぐに笑った。
「ありがとうございますわ」
レオが八重乃へ頭を下げる。
「此度は娘が大変世話になった」
「お互い様ですよ。若い方々が無事なら、それが何よりです」
叢雲がレオへ視線を向ける。
「レオ殿」
「叢雲殿」
二人は短く頷き合った。
それだけで十分だった。
古傷を残し合った者同士の挨拶は、長くない。
長くないが、軽くもない。
紫乃がフィリアたちを見回す。
「さあ、行きましょうか。戻ったら戻ったで、きっと忙しいわ」
「そうですね」
フィリアは頷く。
シェルターに戻れば、封印解除装置のログ解析。
クリスティナの状態確認。
織葉の治療。
最後の封印へ向けた準備。
やることは多い。
けれど、その多さは嫌なものではなかった。
終わりへ向かう忙しさだった。
世界を救うための忙しさだった。
織葉がドローンへ向かって歩き出す。
足取りは少し硬い。
クリスティナが横に並び、さりげなく歩幅を合わせた。
「手、貸そうか」
「いらん」
「はいはい。じゃあ隣にいるだけ」
「それもいらん」
「いるだけだから」
織葉は何も言わなかった。
拒否しないということは、許可だった。
紫乃はその後ろで微笑んでいる。
フィリアは最後に、もう一度翠川家を振り返った。
赤い鳥居。
広い道場。
朝の光を受ける庭。
九尾の街の湯気。
火の封印が眠っていた山。
ここで起きたことは、大きかった。
けれど、ここで終わりではない。
フィリアは深く息を吸う。
そして、ドローンへ乗り込んだ。
座席に着くと、端末が自動で接続される。
帰還ルート、確認。
飛行許可、取得済み。
霧濃度、低。
シェルター到着予定時刻、表示。
画面に並ぶ情報は、どれも問題がない。
クリスティナが隣の座席で小さく伸びをした。
「戻ったら、まず検査ですわね」
「アンタはな」
「織葉もでしょ」
「私は治療や」
「似たようなものじゃん」
紫乃が向かいの席で笑う。
「二人とも、ちゃんと受けるのよ」
「はい」
「はーい」
返事の軽さに差はあったが、どちらも逆らう気はなかった。
フィリアは端末を見ながら、ふと口を開く。
「ガイさん、オペレーション室に戻っているはずです」
織葉が顔を上げる。
「ガイ殿、もう動けるのですか」
「前線復帰はまだです。
でも、歩いていい程度には回復していて、オペレーション室にはいるって聞いています」
クリスティナが笑う。
「じゃあ戻ったら、また大声で迎えてくれますわね」
紫乃が首を傾げる。
「叫びすぎないって約束、守れているのかしら」
「状況によるって言いそうです」
フィリアが言うと、三人が同時に納得したような顔をした。
ドローンの扉が閉まる。
駆動音が少し大きくなる。
外では、叢雲、八重乃、レオ、そして門下生たちが見送っている。
紫乃が小さく手を振った。
織葉も包帯のない方の手をわずかに上げる。
クリスティナは優雅に手を振った。
フィリアも頭を下げる。
輸送ドローンが、ゆっくりと上昇する。
翠川家の屋根が下へ離れていく。
九尾の街が広がる。
赤い鳥居が、朝の光の中でいくつも並んでいる。
その向こうに、昨日登った山が見えた。
フィリアは窓の外を見る。
もうすぐ、リヴァイヴプランが完了する。
闇の霧が消え、マギアス化した人たちが戻り、シェルターの扉が開く日が来るかもしれない。
そう思えば、胸の奥にある小さな不安よりも、期待の方がずっと大きかった。
ドローンは海へ向かって進む。
九尾の街が、少しずつ遠ざかっていく。
帰る場所へ。
そして、最後の準備へ。
フィリアは端末を閉じ、窓の外の光を見つめた。
シェルターの外観は、いつも通りだった。
防壁に大きな損傷はない。
外周警備も通常通り稼働している。
避難民エリアへ向かう連絡通路にも、混乱は見えなかった。
子供を連れた職員が移動している。
配給用の荷物を運ぶオートマトンが、ゆっくりと通路を進んでいる。
掲示板には、今日の食堂メニューと、闇の霧濃度の定時更新が表示されていた。
そこだけを見れば、何も起きていないように思えた。
輸送ドローンが着陸区画に降りる。
扉が開き、フィリアが最初に外へ出た。
続いて紫乃。
包帯を巻いた織葉。
そして、顔色だけなら誰よりも元気そうなクリスティナ。
「思ったより、普通ですわね」
クリスティナが周囲を見回して言った。
「まあ、普通なのはええことやろ」
織葉はそう答えたが、少しだけ目を細めていた。
シェルターそのものは普段通りに見える。
だが、完全にいつも通りではない。
警備員の数が、わずかに多い。
通路端に立つ職員の顔が硬い。
避難民エリア側ではなく、研究区画へ続く方の通路にだけ、落ち着かない気配が残っていた。
フィリアもそれに気づいた。
「避難民エリアでは、何も起きていないみたいです」
「ええ。騒ぎにはなっていないわね」
紫乃が静かに頷く。
「でも、あちらは少し空気が違うわ」
紫乃の視線の先には、研究区画へ続くゲートがあった。
通常なら認証を受けた職員が静かに出入りしている場所。
今は、警備担当と医療担当が数名、行き来している。
走ってはいない。
叫んでもいない。
だが、急いでいる。
その種類の緊張だった。
フィリアは端末を取り出した。
帰還連絡を入れる前に、向こうから認証通知が届く。
研究区画側からの通行許可。
発信者は、ガイだった。
「ガイさんからです」
「復帰してるって言うてましたね」
織葉が言う。
「歩いていい程度やなかったんか」
「そのはずです」
フィリアは少しだけ不安を覚えながら、研究区画へ向かった。
ゲートを抜けると、空気が変わった。
避難民エリアの生活音が遠ざかり、代わりに医療端末の起動音や、職員同士の低い声が聞こえる。
壁に大きな破損はない。
天井も落ちていない。
火災の跡もない。
ただ、通路の一部には焦げたような痕があり、床には応急補修の白いシートが貼られていた。
大規模な襲撃の跡ではない。
局所的な暴走。
そう表現する方が近かった。
曲がり角の先で、低い声が響いた。
「戻ったか!」
声は大きかった。
けれど、いつものように場を揺らすほどではない。
意識して抑えている。
そう分かる声だった。
ガイが立っていた。
片腕はまだ固定具をつけている。
胴にも補助ベルトが巻かれている。
完全復帰には程遠い。
それでも、オペレーション室の前に立つ姿には、以前の安心感が戻り始めていた。
「ガイさん」
フィリアが駆け寄りかける。
ガイは片手を上げて止めた。
「走るな。そっちも疲れてるだろ」
「ガイさんがそれを言いますか」
クリスティナが思わず言った。
ガイは少しだけ顔をしかめる。
「ジェーンにも言われた」
「でしょうね」
紫乃が柔らかく微笑む。
「走らない、戦わない、叫びすぎない、でしたかしら」
「最後のやつは状況による」
「それも却下されたのでは?」
「された」
ガイは短く認めた。
そのやり取りだけなら、いつも通りに近い。
だが、フィリアはガイの目を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。
笑わせようとしている。
いつもの調子を残そうとしている。
けれど、目が笑っていない。
「何があったんですか」
フィリアが尋ねた。
ガイは一度、研究区画の奥を見た。
それから、声を落とす。
「避難民エリアは無関係だ。
そこは安心しろ。
施設全体にも大きな損傷はない。
騒ぎを広げないように、情報も区画内で止めてる」
「研究区画だけですか」
「そうだ」
ガイは頷いた。
「捕縛していた半精化マギアス兵が、三体。再起動した」
織葉の表情が変わる。
クリスティナも練切を食べていた時の軽さを消した。
紫乃は何も言わず、ただ視線を細める。
フィリアは息を止めた。
「再起動……?」
「ライトで人間に戻した連中じゃない。そっちはそのままだ」
ガイはすぐに補足した。
「捕縛状態で、まだ半精化反応を残していた三体だ。
リヴァルと研究員たちが、抑制状態のまま解析していた」
リヴァル。
その名前が出た瞬間、フィリアの指が端末を強く握った。
「リヴァルさんは」
ガイは答える前に、一瞬だけ口を閉じた。
その一拍で、答えはほとんど分かってしまった。
「捕らわれた」
通路の空気が、止まった。
フィリアは何も言えなかった。
織葉が低く問う。
「詳細を」
ガイは頷く。
「研究中だった。
半精化の進行度、マナ核の変質、精霊化との差異。
リヴァルが研究員と一緒に見ていた。
抑制装置も拘束装置も動いていた。
再起動する条件は、少なくともこっちの想定にはなかった」
「想定外の再起動」
クリスティナが呟く。
「それ、外部から?」
「まだ分からん」
ガイは言った。
「だが、再起動のタイミングが良すぎる。
三体が同時に動いた。
拘束を破り、研究区画内で暴走。
研究員数人が怪我をした」
「重傷者は」
フィリアがようやく声を出す。
「命に関わる者はいない。ジェーンが見てる。骨折と裂傷、マナ焼けが数名だ」
「施設は」
「見ての通りだ。
研究室の一部と通路がやられたが、大きな損傷はない。
避難民エリアにも影響なし。
電源も通信も落ちていない」
ガイはそこまで言ってから、奥歯を噛んだ。
「だからこそ、余計に腹が立つ」
その声には、怒りというより悔しさがあった。
「最初から、リヴァルが狙いだった」
フィリアは顔を上げる。
「リヴァルさんが……」
「ああ。
三体は、研究区画で暴れた。
だが、無差別に壊す動きじゃなかった。
研究員を倒し、拘束を破って、リヴァルのいる位置へ向かった。
施設を壊すより、あいつを連れ出すことを優先していた」
紫乃が静かに言う。
「暴走に見せかけた奪取、ということかしら」
「そう見るのが自然だ」
ガイは頷く。
「もちろん、半精化した連中にどこまで意思があったかは分からん。
だが、結果としてそう動いた」
「リヴァルさんは抵抗したんですか」
フィリアの声は、小さかった。
ガイは一度、フィリアの顔を見た。
それから答える。
「した。研究員を逃がして、抑制装置を手動で切り替えた。二体はそこで一時的に止めたらしい」
「二体」
「だが、三体目が抜けた。
抑制の隙間を突かれた。
リヴァルは研究員をかばって、そのまま持っていかれた」
織葉が拳を握る。
包帯の巻かれた手が、わずかに震えた。
紫乃がそれに気づき、そっと視線だけで止める。
「織葉ちゃん」
「……分かっています」
織葉は短く答えた。
刀に手を伸ばしてはいない。
だが、伸ばしそうな気配はあった。
ガイは自分自身を責めるように、低く続けた。
「不注意だった」
「ガイさん」
フィリアが言いかける。
ガイは首を振った。
「いや。
これは不注意だ。
捕縛した半精化個体が、再起動すること自体が予想外だった。
そこまでは分かる。
だが、リヴァルが狙われる可能性は、もっと強く考えておくべきだった」
「狙われる、ですか」
クリスティナが眉を寄せる。
「リヴァイヴプランの中心人物ですわものね」
「ああ」
ガイは頷く。
「マギアス軍からすれば、リヴァルは厄介な相手だ。
封印解除にも、再封印にも、あいつの頭が要る。
だから、研究区画に入るなら、警備をもう一段厚くすべきだった」
「半精化の研究は、急ぎだったんですね」
フィリアが言う。
ガイは短く息を吐いた。
「そうだ。
最後の封印に向けて、半精化の情報は必要だった。
リヴァルも、研究員たちと直接データを見ていた。
抑制状態なら危険は低い。
そう判断していた」
「その判断が、外された」
織葉の声は静かだった。
怒りを押し込めている声だった。
「そういうことだ」
ガイは答える。
「三体は拘束を破って、研究員を倒し、リヴァルを連れて外へ出た。
施設を壊すより、離脱を優先したように見える。
ただ、それがどこまで本人たちの意思だったのか、外から何かされたのかは、まだ分からん」
紫乃が通路の奥を見た。
「研究員の方たちは?」
「医療区画だ。命に別状はない。骨折と裂傷、マナ焼けが数名。ジェーンが見てる」
「避難民エリアは」
「無関係だ」
ガイはすぐに言った。
「そこは安心していい。
避難民エリアには何も起きていない。
情報も広げていない。
混乱させる必要がないからな」
紫乃は静かに頷いた。
「それなら、今は研究区画とオペレーション室で抑えておくのがいいわね」
「ああ」
クリスティナは唇を噛んだ。
「リヴァルさんは、怪我を?」
「分からん」
ガイの声が重くなる。
「映像では、研究員を逃がしていた。
二体は一時的に止めたらしい。
だが、三体目が抜けた。
そこで通信も映像も乱れた。
次に確認できた時には、リヴァルは連れて行かれていた」
フィリアは端末を握ったまま、画面を見ていなかった。
リヴァルがいない。
その事実だけが、頭の中で何度も繰り返される。
けれど、同時に、別のものも引っかかっていた。
施設は壊れていない。
避難民エリアは無事。
ライトで人間に戻った者たちはそのまま。
半精化反応を残した三体だけが再起動した。
リヴァルだけが連れ去られた。
分かる。
理屈としては、分かる。
リヴァルは狙われる人物だ。
だから連れ去られた。
そう考えるのが普通だった。
それでも、フィリアの中には、小さな違和感が残った。
まだ言葉にはできない。
今、口に出すべきことでもない。
「追跡は」
織葉が問う。
「リオンとシェスターが外周ログを洗っている。
防衛班も動いてる。
だが、外へ出た時点で追跡信号が乱された」
「マギアス軍の妨害ですわね」
クリスティナが言う。
「可能性は高い。ただ、断定はまだだ」
ガイは慎重に答えた。
「今は決めつけるより、残っているログを集める方が先だ」
その言葉に、織葉は頷いた。
「承知しました」
だが、声には焦りが混じっている。
包帯を巻かれた左手が、わずかに握られていた。
紫乃がそれに気づき、そっと視線だけで制する。
「織葉ちゃん」
「……分かっています」
織葉は短く答えた。
刀へ手は伸ばさない。
けれど、今すぐ走り出したい気持ちは見えた。
ガイはフィリアへ向き直った。
「フィリア」
「はい」
「リヴァルの端末と研究データの一部にロックがかかってる。
本人の認証が必要な領域だ。
今、一輝たちが迂回を探してる」
「生命照合ですか」
「ああ」
ガイは頷いた。
「リヴァルが組んだロックだ。
そう簡単には開かん。
だが、手掛かりはそこにあるはずだ。
半精化の再起動ログ、研究区画の映像、外部通信の痕跡。
全部、あいつの管理領域に入ってる」
フィリアはゆっくり顔を上げた。
「分かりました」
声は、思ったより落ち着いていた。
自分でも少し驚くほどだった。
紫乃がそっと隣に立つ。
「フィリアちゃん」
「大丈夫です」
フィリアは答えた。
「まず、ログを見ます」
ガイは頷く。
「オペレーション室へ。今ある情報は全部共有する」
織葉も立ち上がろうとした。
紫乃がすぐに支える。
「織葉ちゃん、ゆっくり」
「はい」
クリスティナは黙ってフィリアを見ていた。
いつもの軽口はない。
レオの前で見せる令嬢の顔でもない。
仲間を連れ去られた者の顔だった。
「行きましょう」
フィリアは端末を胸元へ引き寄せた。
まだ、何かを確信したわけではない。
ただ、見なければならない。
リヴァルが残したものを。
リヴァルが消えた場所を。
そして、リヴァルがなぜそこにいたのかを。
オペレーション室の扉が開く。
いつもなら、そこにはリヴァルがいる。
端末を見ながら、必要なことだけを短く告げる声がある。
今、その席は空いていた。
フィリアは一度だけ息を吸い、足を踏み出した。




