五章 十話
封印解除、完了。
フィリアの端末に、その表示が出た。
旧火口の中心にあった封印核は、反応を失っている。
山の火は暴れなかった。
地面も揺れていない。
火柱も上がらない。
ただ、長い間そこに結ばれていた力場がほどけ、
乾いた火口の空気が少しだけ軽くなったように感じられた。
だが、火精霊の反応は消えていなかった。
封印核ではない。
旧火口でもない。
反応の残存位置は、クリスティナ・アドレメリア。
肉体制御は本人側。
暴走反応はなし。
総マナ量は、戦闘前より明らかに上昇。
フィリアは表示を見つめたまま、しばらく息を忘れていた。
「封印解除……完了です」
通信の向こうで、リヴァルが短く答える。
『確認した』
その声に、喜びはなかった。
安堵も、ほとんどない。
あるのは確認と判断。
いつも通りのリヴァルの声だった。
『火精霊の封印解除は完了。
ただし、火精霊反応はクリスティナ・アドレメリア内部に残存。
分離ではなく、吸収同化。
これは前例がない』
クリスティナは火口の中心で、胸元を押さえながら立っていた。
炎は薄く彼女の輪郭に残っている。
だが、それはもう彼女を操る火ではない。
彼女の呼吸に合わせて揺れる火だった。
織葉はその横に立っている。
右肩を焼かれ、手のひらからは血が滲み、足元も安定していない。
それでも、刀はまだ手にある。
紫乃が一歩近づき、織葉の肩へ手を伸ばした。
「織葉ちゃん、もう刀は下ろしていいわ」
「……はい」
織葉はようやく刀を下げた。
クリスティナもレイピアを下ろす。
叢雲とレオは山道側から火口を見下ろしていた。
二人とも、動かない。
だが、その顔には同じものがあった。
封印は解けた。
娘たちは戻った。
けれど、何かは確実に変わった。
リヴァルの声が続く。
『全員、その場での作業は終了。
火口内に長く留まらないでください。
地盤は安定しているが、戦闘で表層が崩れている。
ミス・シノ、織葉とクリスティナを山道側へ』
「はい」
紫乃がすぐに動いた。
「織葉ちゃん、クリスちゃん。ゆっくりでいいわ」
「母上、私は」
「めっ、よ」
織葉は黙った。
クリスティナが少しだけ笑う。
「織葉、怒られてる」
「アンタもや」
「私は元気だし」
「余計に検査や」
紫乃は二人を見て、柔らかく微笑んだ。
「そうね。二人とも検査ね」
織葉は反論しなかった。
クリスティナも、それ以上軽口を続けなかった。
『織葉は治療が必要です。
クリスティナは無傷に見えますが、状態は異常です。
必ず検査と経過観察を。
フィリアも、装置の終了処理が終わり次第、休息を取ってください』
「リヴァルさん、私は」
『休息を取ってください』
言い直しはなかった。
フィリアは口を閉じた。
レオが小さく笑う。
「リヴァル君は、言うべき時には容赦がないな」
『必要なので』
「よいことだ」
叢雲も頷いた。
「異存なし。翠川にて面倒を見よう」
紫乃が微笑む。
「もちろんですわ。怪我人も、元気すぎる子も、まとめて預かります」
クリスティナが少しだけ肩をすくめる。
「元気すぎる子って私ですの?」
「他に誰がいるのかしら」
「ですよねー」
織葉が横で短く息を吐いた。
その息にも、疲労が混ざっている。
『火口での判断、対応、協力に感謝します。
礼は、全員が無事に戻ってから改めて』
叢雲が深く頷く。
「承知した」
レオも胸元へ手を置く。
「娘を救ってくれたこと、感謝する」
紫乃はフィリアの方へ視線を向ける。
「フィリアちゃん。終了処理、まだあるのよね」
「はい。ログ送信と、装置の停止確認だけ」
「じゃあ、おばさんたちは先に山道側へ上がっているわ。無理はしないこと」
「はい」
紫乃は織葉の右肩を支え、クリスティナにも目を向けた。
「クリスちゃんも、行くわよ」
「歩けますわ」
「歩ける子ほど見張るのよ」
「信用がないですわね」
「今はないわねえ」
クリスティナは苦笑しながら、織葉の隣を歩き出した。
叢雲とレオも山道側へ引き上げる。
叢雲は一度だけ火口を振り返った。
レオも同じように、封印核が消えた場所を見る。
だが、二人とも何も言わなかった。
やがて足音が離れていく。
火口には、フィリアと装置だけが残った。
フィリアは封印解除装置の端末に向き直る。
ログ保存。
周辺地脈変動記録。
火精霊反応推移。
クリスティナの吸収同化現象。
精霊抑制弾命中時の波形。
ひとつずつ送信していく。
リヴァルの通信は、まだ繋がっていた。
ただし、音声はしばらくなかった。
フィリアは少しだけ落ち着いてから、口を開く。
「ログ、送信完了しました」
『受け取った』
リヴァルの声が返る。
先ほどよりも、わずかに低い。
『フィリア。今から話す内容は、現時点では君だけに伝える』
フィリアの指が止まった。
「私だけに、ですか」
『そう。現地の判断には不要だし、今全員に伝えると余計な負荷になる』
「はい」
フィリアは周囲を見る。
旧火口には誰もいない。
山道側へ向かった足音も、もう遠い。
『火精霊の封印解除で、主要な封印はほぼ解けた。
残るのは封印の主。闇の霧の大元だ』
フィリアは息を呑んだ。
「封印の主……」
『歴史上、魔王城がそびえていた地点。
今は城跡だけが残っている島だ。
闇の霧が漏れ出すまでは、観光地としても使われていた』
フィリアは端末を握る手に力を入れた。
魔王城。
歴史上の名前。
古い記録と、絵本と、観光案内の中でしか知らない場所。
そこが、最後の封印。
闇の霧の大元。
『ただし、すぐには動かない』
リヴァルは続ける。
『最後の封印は、今までの封印とは規模が違う。
闇の霧の大元で、封印も強く大きい。
専用の封印解除装置が必要になる』
フィリアは、先ほどまで使っていた封印解除装置を見る。
火精霊の封印核を削るだけでも、これほどの手順と危険があった。
最後の封印。
そのための装置は、これとは違う。
もっと大きく、もっと複雑で、もっと危険なものになる。
『こちらで装置を組む。
既存の解除装置では足りない。
ナンディーヌにも協力を仰ぐ。
準備に時間が必要だ』
「マギアス軍は」
『封印解除そのものは、彼らにとっても歓迎材料だ。
現時点で強硬な妨害は想定しない。
もちろん警戒は続けるが、君たちが今すぐ戻って動く理由はない』
リヴァルの声は、淡々としていた。
だが、その淡々とした声の中に、明確な指示があった。
『ひとまず、翠川家で疲れを抜いて』
「でも」
『疲れを抜いて』
フィリアは黙る。
『織葉は見た目以上に損傷が多い。
クリスティナは無傷だが、状態が異常だ。
君も射撃、封印解除、観測を連続で行っている。
今戻っても、こちらにできることは装置設計とログ解析くらいだ』
「……はい」
『疲労が抜けたら、そのまま輸送ドローンで戻ってくればいい。
帰還時刻は現地判断でいい。
急ぐ必要はない』
フィリアはゆっくり頷いた。
「分かりました」
『緊急があれば連絡を。
そうでなければ、こちらから追加通信は入れない。休息を優先して』
リヴァルから追加通信は入れない。
その言葉で、フィリアはようやく実感した。
本当に、今は終わったのだ。
少なくとも、この火口での作業は。
『最後に』
リヴァルの声が、少しだけ柔らかくなる。
『よく撃った』
フィリアの喉が詰まった。
「……はい」
『装置を閉じて、戻って』
「はい」
『通信を終了する』
画面が暗くなった。
火口に、通信の音が消える。
フィリアはしばらく、その場に立っていた。
旧火口の中心には、もう封印核はない。
乾いた地面と、薄い風だけが残っている。
火精霊の封印は解けた。
だが、終わったわけではない。
次は、魔王城跡。
闇の霧の大元。
封印の主。
その言葉だけが、フィリアの中に静かに残った。
フィリアは封印解除装置を閉じる。
ケースの留め具をかけ、肩にかける。
山道側から、紫乃の声がかすかに届いた。
「フィリアちゃーん、大丈夫?」
フィリアは顔を上げた。
「はい。今、戻ります」
一度だけ、火口を振り返る。
そこにはもう、炎の薔薇も、封印核もない。
けれど、最後の封印へ続く道だけが、見えないまま確かに開いていた。
翠川家へ戻った頃には、日は少し傾き始めていた。
山を下りる道中、誰も大きく騒がなかった。
クリスティナは歩けた。
本当に歩けた。
足取りは軽い。
時折、自分の指先に残る薄い火を見て、困ったように笑うことすらあった。
その隣で、織葉は黙って歩いていた。
姿勢は崩していない。
足も止めない。
けれど、右肩は動かさないようにしている。
左手の指先には布が巻かれ、足を置くたびにわずかに息が詰まる。
火口で誰よりも傷ついていたのは、織葉だった。
翠川家に着くと、八重乃は余計なことを言わず、すぐに奥の座敷を開けた。
「織葉さんはこちらへ。クリスティナさんも、隣へお座りなさい」
「私は元気ですわ」
「元気な方ほど、後で妙な芽を出します」
八重乃の声は柔らかい。
柔らかいが、拒否を許す声ではなかった。
クリスティナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから素直に座布団へ座った。
「はい」
織葉もその横に座る。
その瞬間、ほんの少しだけ肩が落ちた。
気を抜いたのではない。
気を抜ける場所に戻っただけだった。
紫乃がすぐに水を用意し、冷やした布を盆に並べる。
「織葉ちゃん、帯を少し緩めるわね」
「自分でできます」
「めっ、よ」
「……はい」
織葉はそれ以上言わなかった。
紫乃の指が慣れた動きで衣を整え、怪我の見える箇所を出していく。
右肩。
左手。
脇腹。
膝。
足首。
小さな切り傷や擦過傷は数え切れない。
火傷もある。
刀を握った手は熱と摩擦で皮膚が裂け、
足首は踏み込みのたびに無理をしたせいで腫れ始めていた。
叢雲は座敷の入口近くに座り、黙って見ている。
レオもその隣にいた。
フィリアは少し離れたところに正座している。
何か手伝いたかった。
けれど、今この場では、彼女より紫乃と八重乃の方がずっと早い。
八重乃が織葉の肩に手を当てる。
指先から淡い緑のマナが広がった。
葉脈のような細い光が、皮膚の上を走る。
「打撲。挫傷。捻挫。脱臼しかけている箇所もありますね。
切創も多い。火傷も少し」
淡々と告げられるたび、フィリアの胸が縮む。
織葉は表情を変えなかった。
クリスティナの方が、少し顔を強張らせている。
「けれど」
八重乃は織葉の肩から手を離した。
「致命に届く傷はありません。
今すぐ命に関わるものもない。
深く縫う必要のある傷も、骨が折れた箇所もありません」
フィリアは息を吐いた。
自分でも、どれだけ息を詰めていたのか分からなかった。
紫乃が冷やした布を織葉の肩へ当てる。
織葉の眉がわずかに動いた。
「痛い?」
「少しだけです」
「嘘が下手ねえ」
「母上ほどではありません」
「あら」
紫乃が少し笑った。
その笑みで、座敷の空気がほんの少し緩む。
八重乃は次に、クリスティナへ向いた。
「では、クリスティナさん」
「はい」
クリスティナは背筋を伸ばした。
八重乃が手をかざす。
淡い緑のマナが、今度はクリスティナの身体の周囲を薄くなぞった。
火のマナが、その内側で静かに揺れる。
暴れてはいない。
だが、消えてもいない。
八重乃はしばらく黙った。
その沈黙に、レオの指がわずかに動く。
「八重乃殿」
「お怪我はありません」
八重乃はそう言った。
レオが一瞬、息を止める。
「本当に、ありません。
打撲も、切創も、火傷も。
織葉さんが最後に鞘で打ち据えた箇所も、痕は残っていません」
クリスティナは少し困ったように笑った。
「なんか、むしろ身体が軽いんですの」
「でしょうね」
八重乃は静かに頷く。
「内側のマナが、戦う前より増えています。
しかも、ただ増えたのではありません。
馴染み始めている」
「馴染む、ですか」
「ええ。よその根が入り込んだのではなく、
あなたの土がそれを抱え込んでいるような状態です」
フィリアはその表現に、先ほどの端末表示を思い出した。
吸収同化。
分離ではない。
火精霊のマナが、クリスティナの中に残っている。
クリスティナが、精霊のマナを食べた。
織葉が低く言う。
「つまり、クリスは無傷で、私は怪我人いうことですか」
「その通りです」
八重乃はにこりと笑った。
織葉は少しだけ目を伏せる。
「納得いかへん」
クリスティナが慌てて織葉を見る。
「いや、待って。私も納得いかないっていうか、なんか、ごめん」
「謝らんでええ」
「でも」
「謝るなら、次は自分で止まり」
「それはちょっと難易度高くない?」
「こっちは止めたんや。アンタも頑張り」
クリスティナは口を閉じた。
それから、小さく笑った。
「うん。頑張る」
その短いやり取りを聞いて、レオは深く息を吐いた。
叢雲が静かに言う。
「試合ならば、クリスティナ殿の勝ちでござろうな」
織葉が叢雲を見る。
叢雲は続ける。
「あれほど手数を受け、こちらは有効打をほとんど入れられておらぬ。
最後の一撃を除けば、勝敗は明らかでござる」
レオはクリスティナを見た。
「その最後の一撃こそ、勝負を決めたのである」
叢雲は頷く。
「然り」
座敷の空気が静まった。
叢雲は織葉を見る。
「織葉。お主は勝った」
織葉は何も言わない。
「試合ではない。
勝負でござる。
目的は斬ることではなく、戻すこと。
お主はそのために、自ら傷つく道を選び続けた」
八重乃が織葉の手へ薬を塗る。
「無理をしましたねえ」
「……はい」
「けれど、必要な無理でした」
紫乃が織葉の額へ冷たい布を当てる。
「本当は、めっ、って言いたいところだけど」
織葉が少しだけ身構える。
紫乃は柔らかく笑った。
「今回は言えないわねえ」
織葉の目がわずかに揺れる。
紫乃の手は、額の布を押さえたまま動かない。
「よく戻してくれたわ」
その声は、とても静かだった。
織葉は目を伏せた。
「……はい」
レオが深く頭を下げる。
「織葉嬢」
織葉は慌てて顔を上げた。
「おやめください、レオ様」
「いや。言わせてほしい」
レオはそのまま、穏やかに言った。
「娘を救ってくれた。礼を言う」
織葉は少し困ったように視線を泳がせる。
「私は、やるべきことをしただけです」
「それがどれほど難しいことか、見ていれば分かる」
クリスティナが隣で織葉を見た。
軽口は出なかった。
その顔には、さっきまでの明るさとは違うものがある。
申し訳なさ。
安堵。
悔しさ。
それから、信頼。
「織葉」
「なんや」
「ありがと」
織葉は少しだけ息を吐いた。
「どういたしまして」
いつものように突っぱねるには、疲れすぎていた。
けれど、その返事だけで十分だった。
八重乃が手当てを続ける。
緑のマナが、織葉の腫れた足首を包む。
冷えた布が火傷の熱を抜く。
紫乃が手際よく包帯を巻く。
叢雲は何も言わず、それを見守る。
フィリアは、そこでようやく理解した。
織葉は、無傷で勝ったのではない。
強いから傷つかなかったのでもない。
傷つくことを選んだから、クリスティナを無傷で戻せた。
フィリアの抑制弾が届いたのも。
封印解除が完了したのも。
すべて、その一瞬を織葉が作ったからだった。
クリスティナは無傷。
織葉は怪我人。
それでも、この場の誰も、織葉を敗者とは見ていない。
八重乃は最後に、織葉の肩へもう一度手を当てた。
「今日は動いてはいけません」
「明日は」
「明日は、座っていなさい」
「稽古は」
「見学です」
織葉がわずかに顔をしかめる。
紫乃がすぐに微笑んだ。
「めっ、よ」
「……はい」
クリスティナが小さく笑う。
「じゃあ私も見学しますわ」
八重乃がにこりと笑う。
「あなたは検査です」
「え」
「無傷で元気だからこそ、検査です」
クリスティナは織葉を見る。
織葉は薄く笑った。
「怒られてるな」
「織葉、さっきの仕返し早くない?」
「元気なんやろ」
「元気ですけど」
座敷に、ようやく小さな笑いが戻った。
火口の熱は、もうここにはない。
けれど、あの戦いが残したものは、全員の前に確かに置かれていた。
傷だらけの織葉。
無傷のクリスティナ。
解けた封印。
そして、クリスティナの内側に残った火精霊のマナ。
治療は静かに続いた。
誰も、無理を咎めなかった。
無理をしたことは分かっている。
危なかったことも分かっている。
それでも、その無理がなければ、誰もここには座っていなかった。
だから今は、責める言葉ではなく、冷やした布と包帯と、
静かな茶の気配だけが座敷にあった。
夜になっても、翠川家の座敷には薄く薬草の匂いが残っていた。
織葉は布団を背にして、上体だけを起こしている。
右肩には包帯。
左手にも包帯。
足首は冷やされ、額には濡れた手拭いが乗せられていた。
「寝てなって言われてなかった?」
隣で、クリスティナが桶に手を入れる。
水の音が、小さく鳴った。
「寝てるやろ」
「起きてるじゃん」
「横になってるだけで寝てる判定や」
「織葉ルール雑すぎ」
クリスティナは手拭いを取ると、桶の中で絞り直した。
水が落ちる。
ぎゅっと絞って、広げて、少しだけ手のひらで温度を確かめる。
それから、織葉の額へそっと戻した。
「冷たすぎへん?」
「平気」
「ならよし」
クリスティナは織葉の顔を見た。
昼間より血の気は戻っている。
けれど、目の下には疲れが残っている。
包帯の下にある傷も、全部なくなったわけではない。
クリスティナは自分の手を見る。
そこには傷ひとつなかった。
火精霊のマナが、薄く指先に残っている。
出そうと思えば、今も火が出る。
その事実が、昼間からずっと変だった。
「私だけ、無傷なんだよね」
織葉は目を閉じたまま答える。
「せやな」
「織葉はぼろぼろなのに」
「ぼろぼろ言うな。まあまあ傷ついただけや」
「それ、まあまあって言わないと思う」
「ほな結構傷ついた」
「軽く言うじゃん」
織葉は少しだけ笑った。
その笑いで肩が動き、すぐに眉を寄せる。
クリスティナは慌てて手を伸ばしかけた。
「大丈夫?」
「痛いだけや」
「大丈夫じゃないじゃん」
「痛いだけなら大丈夫や」
「武芸者の基準、ほんと嫌い」
「アンタも似たようなもんやろ」
「私はお嬢様ですので」
「精霊食うお嬢様がおるかい」
クリスティナは言い返そうとして、やめた。
代わりに、少しだけ笑う。
「……ごめん」
織葉は目を開けた。
「謝らんでええって言うたやろ」
「うん。でも、一回だけ」
クリスティナは桶の縁に指をかけたまま、織葉を見ている。
「止めてくれて、ありがと」
織葉はしばらく黙っていた。
外では虫の声がしている。
遠くの廊下で、紫乃と八重乃が何かを片付ける音がした。
「次は」
織葉が言う。
「自分でも止まり」
クリスティナは小さく息を吐いた。
「うん」
「そしたら、こっちはもうちょい楽できる」
「努力しますわ」
「そこは頑張るとこやろ」
「頑張りますわ」
「よろしい」
クリスティナはもう一度、手拭いの端を整えた。
織葉は目を閉じる。
今度は、少しだけ呼吸が深くなった。
「寝た?」
「寝てへん」
「寝てるじゃん」
「寝てへん」
「はいはい」
クリスティナは声を落とした。
「おやすみ、織葉」
返事は少し遅れた。
「……おやすみ、クリス」
その声を聞いて、クリスティナは桶を持ち上げた。
立ち上がる前に、ほんの一度だけ織葉の包帯を見る。
無傷の自分。
傷だらけの織葉。
それでも、織葉は勝った。
クリスティナはその事実を胸の奥に置いて、静かに座敷を出た。
翌朝。
朝の情報番組は、いつも通りの音楽で始まっていた。
白と淡い青を基調にしたスタジオ。
背後の大型モニターには、地域ごとの天気図と、
闇の霧の流動予測を示す地図が並んでいる。
アナウンサーは手元の資料を確認し、落ち着いた声でカメラへ向き直った。
『続いて、各地の気象情報です』
画面には、広域の予報図が表示される。
海沿いの地域は青。
内陸部は淡い黄色。
山岳部には、朝方の冷え込みを示す薄い白の表示がかかっていた。
『本日午前の時点で、九尾温泉街周辺はおおむね快晴です。
山沿いでは朝のうち冷え込みが残りますが、昼前からは気温が上昇し、
午後にかけても大きな天候の崩れはない見込みです』
その声を、織葉は映像端末の前で聞いていた。
右肩には包帯。
左手にも包帯。
足首には布が巻かれ、膝の動きも少し硬い。
それでも、座り方はいつも通りだった。
背筋を伸ばし、座布団の上にきちんと座している。
前には、朝食を食べ終えた器がきれいに重ねられていた。
茶碗。
椀。
皿。
小鉢。
縦にまとめられた器の量は、怪我人の朝食とは思えない。
紫乃が盆を持ってやって来る。
「織葉ちゃん、よく食べたわねえ」
「食べねば治りませんので」
「それはそうだけど、怪我人の量ではないわね」
「武芸者の怪我人です」
「便利な言葉ねえ」
紫乃は楽しそうに笑いながら、器を盆へ移していった。
織葉の前には、薄い桜色の練切がひとつ残っている。
湯呑も二つ。
ひとつは織葉のもの。
もうひとつは、あとから来る者の分だった。
『山道や旧火口周辺では、昨日までの地盤変動情報を受け、
一部の立ち入り制限が継続されています。
許可のない山道への立ち入りは避け、
観光区域内であっても、案内表示に従って移動してください』
「昨日の今日やからね」
織葉が画面を見たまま言う。
「放送に出るくらいには、山側も確認が入っているのね」
紫乃は器をまとめながら頷いた。
「温泉街の人たちも心配したでしょうし」
襖が開き、クリスティナが顔を出した。
「おはよ、織葉」
「おはようさん」
「もう朝ごはん終わってるし」
「遅い」
「私、検査されてたんですけど」
クリスティナはそう言いながら、織葉の隣へ座った。
昨日、火精霊のマナを吸収同化した本人。
しかし、その身体には傷ひとつない。
むしろ顔色は良い。
朝から何度も検査を受けさせられたことに少し不満そうではあるが、
体調そのものは明らかに軽そうだった。
「練切残してくれてたの?」
「私のや」
「えー」
「欲しければ言え」
「欲しい」
「半分な」
「やった」
織葉が練切へ手を伸ばしかける。
包帯を巻かれた左手が、少し不器用に動いた。
クリスティナがすぐに手を出す。
「私がやる」
「できる」
「怪我人」
「む」
「めっ、よ」
紫乃の声が飛んだ。
織葉は無言で手を引っ込めた。
クリスティナが練切を半分に分ける。
紫乃は盆を脇に置き、湯呑を二つ置き直して、織葉の隣へ腰を下ろした。
「私も少し見ようかしら」
「母上もですか」
「今日は織葉ちゃんを見張る係ですもの」
「逃げません」
「逃げる子ほど、そう言うの」
クリスティナが練切を口へ運びながら笑う。
「信用ないね、織葉」
「アンタも検査逃げるなよ」
「逃げないし」
「昨日、元気やから大丈夫って言うてた」
「それは言った」
「ほら」
画面では、天気図が切り替わった。
アナウンサーの声が、少しだけ落ち着いたものになる。
『続いて、闇の霧に関する情報です』
広域地図に、薄い黒灰色の帯が重ねられた。
闇の霧の流れを示す表示だった。
赤い警戒表示は少ない。
黄色の帯も、昨日までより薄い。
だが、完全に消えているわけではない。
『本日午前の観測では、各地の闇の霧濃度に大きな上昇は確認されていません。
全体としては、昨日同時刻と比べ、やや薄い傾向が見られます』
画面右側に、霧濃度の推移グラフが表示される。
線は緩やかに下がっていた。
『ただし、専門機関によりますと、
封印解除に伴う地脈マナの変動は、地域ごとに反映まで時間差があります。
濃度が低下している地域でも、
谷沿い、旧輸送路、山岳部では一時的に霧が滞留する可能性があります』
注意事項が画面下に並ぶ。
指定外ルートの利用禁止。
警報端末の携帯。
同行者との位置共有。
最新情報の確認。
『移動の際は、必ず最新の霧流動予測をご確認ください。
特に、山岳部や立入制限区域の周辺では、
古い情報だけを頼りに行動しないようお願いいたします』
レオが廊下から顔を出したのは、その時だった。
「クリスティナ、こちらにいたか」
「お父様」
「検査の後に姿が見えぬのでな」
レオは座敷の入口で足を止める。
映像端末の前には、包帯を巻いた織葉。
その隣にクリスティナ。
さらに紫乃。
湯呑。
練切。
朝の情報番組。
レオは一拍置いて、穏やかに微笑んだ。
「なるほど。朝の観覧会であるか」
「お父様も座ります?」
「よいのかね」
紫乃がすぐに座布団を一枚出した。
「もちろんですわ。せっかくですもの」
「感謝する」
レオが腰を下ろすと、廊下の向こうから別の足音が近づいた。
叢雲だった。
座布団を二枚抱えている。
片足を少しかばいながらも、姿勢は変わらない。
「朝の番組でござるか」
「父上」
織葉が少し驚いた顔をする。
叢雲は当然のように頷く。
「昨日の今日ゆえ、座して世情を見るのも修行でござる」
「本音は?」
紫乃が尋ねる。
叢雲は一瞬だけ目を逸らした。
「……クラリス殿の朝のコーナーも、世情を知るには有用でござる」
紫乃はにこにこと笑い、叢雲が座りやすいように座布団を敷いた。
「はいはい。こちらへどうぞ」
叢雲が紫乃の隣へ座る。
もう一枚の座布団には、ほどなくして八重乃が腰を下ろした。
「まあ、皆さんお揃いで」
「祖母上もご覧になるのですか」
「朝は根を整える時間ですからね」
「テレビ見るだけなのに?」
クリスティナが小声で言う。
「祖母上が言うと全部それっぽくなるんや」
「強い」
画面では、闇の霧情報が終わりに近づいていた。
『闇の霧の変化については、今後も継続して観測が行われます。
最新情報は、当番組および各地域の公式配信で随時お知らせします』
アナウンサーは一度、資料を置いた。
そして、少し表情を和らげる。
『では続いて、こちらのコーナーです』
画面が明るく切り替わった。
柔らかな音楽が流れる。
白い背景に、番組ロゴが表示される。
現場の風通し。
その文字が、淡い青のラインに乗って軽やかに揺れた。
『本日の現場の風通しは、クラリス・パズリアさんにお伝えいただきます』
織葉の背筋が、さらに伸びた。
クリスティナがそれを横目で見る。
「織葉、今ちょっと元気になった」
「なってへん」
「なったって」
「静かに。始まる」
「はいはい」
画面が中継へ切り替わる。
映ったのは、海だった。
朝日を受けた灰青色の海。
その中央に、島が浮かんでいる。
島の中央には、崩れた石造りの城跡があった。
高い塔の一部は折れ、外壁の多くは朽ちている。
だが、城跡へ向かう遊歩道は整備されたまま残っていた。
ところどころに、かつて観光客を案内していたと思われる標識が立っている。
土産物店だった建物。
閉鎖された展望台。
古い案内板。
そのすぐ近くに、今は正規軍の仮設警備拠点が置かれていた。
白いテント。
観測機器。
警備用オートマトン。
立入制限を示す柵。
観光地の名残と、軍事拠点の現在が、同じ画面の中に並んでいる。
クラリス・パズリアは、その柵の手前に立っていた。
今日の衣装は、現地取材用の落ち着いたものだった。
風に髪が少し揺れる。
それでも、カメラへ向けた表情は穏やかだった。
『皆さん、おはようございます。現場のクラリスです』
織葉が、小さく息を呑んだ。
「朝からお美しい……」
「早い」
クリスティナが突っ込む。
織葉は何もなかったように湯呑を持った。
画面の中で、クラリスは少し横へ体を向ける。
背後に、城跡の全景が映る。
『本日は、かつて魔王城があったと伝えられている城跡の島からお伝えします』
その言葉に、この場の誰も特別な反応はしなかった。
魔王城。
歴史上の言葉。
観光地の名。
古い戦争の象徴。
その程度の受け止め方だった。
この場所が、次に向かう最後の封印の地であることを知っているフィリアは、
この座敷にはいない。
画面の中で、クラリスは続ける。
『闇の霧が漏れ出す以前、
この島は歴史観光地として、多くの方が訪れていた場所でした。
城跡を巡る遊歩道や、海を見渡す展望台、資料館、土産物店もあり、
休日には家族連れや学生の姿も多かったそうです』
カメラがゆっくりと動く。
閉ざされた資料館の入口。
風に揺れる案内板。
古い文字で書かれた、魔王城跡見学ルート。
その上に、現在の立入制限表示が重ねられている。
『現在は、周辺海域と城跡内部の安全確認のため、
一般の立ち入りは制限されています。
現地には正規軍の皆さんが駐屯し、観測と警備を続けています』
クラリスは、隣に立つ軍人へ向き直った。
落ち着いた顔の男性だった。
年齢は三十代後半ほど。
正規軍の制服を着ているが、ヘルメットは脇に抱えている。
肩の階級章は高すぎない。
現場に立つ軍人の顔だった。
『本日お話を伺うのは、こちらで警備任務に当たり、
先日交代で後方拠点へ戻られた、正規軍のハルド・レインズ曹長です』
『よろしくお願いします』
軍人は軽く頭を下げた。
『よろしくお願いします』
クラリスも丁寧に頭を下げる。
『レインズ曹長は、この島での警備任務をおよそ二か月担当されたそうですね』
『はい。
交代制ですので、現在は一度後方へ戻っています。
今日は公開可能な範囲で、現地の様子をお伝えできればと思います』
クラリスは頷き、城跡へ視線を向けた。
『闇の霧が漏れ出す前、この場所は観光地だったと伺っています。
現在の様子は、やはり大きく変わりましたか』
レインズ曹長は少し考えてから答えた。
『変わった部分と、変わっていない部分があります』
『変わっていない部分、ですか』
『はい。
城跡そのものは、思ったよりも観光地だった頃の形を残しています。
遊歩道も、案内板も、展望台も、土産物店の建物もあります。
もちろん、安全確認が終わるまでは使えませんが、
ここが人を迎える場所だったことは、今でも分かります』
カメラが、遊歩道の石畳を映す。
草は伸びている。
けれど、道の形は残っている。
観光客が歩いた道。
今は軍人が警備のために歩く道。
『変わったのは、そこを歩く人です』
レインズ曹長は言った。
『以前は観光客が歩いていた道を、今は我々が巡回しています。
記念写真を撮る場所に観測機材が置かれ、
土産物店だった建物は資材置き場になっています。
寂しい光景ではありますが、
同時に、守るべきものが残っているとも感じます』
クラリスは言葉を急がなかった。
一度、城跡の方を見る。
それから、静かに尋ねる。
『守るべきもの、というのは』
『ここが、また人を迎えられる場所になる可能性です』
画面の中で、風が吹いた。
クラリスの髪が揺れる。
『現在、この城跡周辺は重要警備地点に指定されています。
今後、リヴァイヴ・プラン関連の封印解除作業が行われる場合、
リヴァル・アニム氏を含む関係者の警護も任務に含まれると聞いています』
織葉は茶を飲んでいた。
クリスティナも練切をつまんでいる。
レオは画面を見ていたが、特別に顔色を変えることはない。
リヴァル・アニムの名は、もはや番組内で何度も出る名前だった。
重要任務の警護。
それ自体は珍しい話ではない。
ただ、フィリアがこの場にいれば、
その言葉の重さを別の形で受け止めていたかもしれない。
画面の中で、クラリスは少しだけ表情を引き締める。
『現地で警備に当たる皆さんは、
リヴァイヴ・プランの進行をどのように見ていらっしゃいますか』
レインズ曹長は、すぐには答えなかった。
城跡を見る。
海を見る。
それから、カメラへ向き直る。
『ARKの皆さんの行動は、本当に見事だと思います』
その言葉に、レオが小さく頷いた。
「現場の者にしか出ぬ言葉であるな」
「ええ」
紫乃も湯呑を置く。
「命を懸けている人を見る側にも、覚悟がいるものね」
画面のレインズ曹長は続ける。
『封印解除の現場で、どれだけ危険なことが行われているのか、
我々はすべてを知っているわけではありません。
ですが、結果だけを受け取って終わりにしてはいけないと思っています』
クラリスは黙って頷いた。
『彼らが命を懸けた戦いを無駄にしないために、
我々は日々、ここを警備しています。
封印解除作業が必要になった時、関係者が安全に入れるように。
作業中に余計な危険が増えないように。
そして、いつかここがまた、ただの観光地として人を迎えられるように』
言葉は硬かった。
だが、誠実だった。
クラリスは少しだけ目を伏せる。
『ただの観光地として』
『はい』
レインズ曹長は頷く。
『軍人が言うのも変ですが、警備が必要なくなることが一番です。
ここに観光客が戻り、子供が案内板の前で写真を撮り、
土産物店がまた開く。
そのために、今は我々がいるのだと思っています』
クラリスはカメラへ向き直る。
『かつて多くの人が訪れた場所を、もう一度、
誰かが安心して歩ける場所へ戻すために。
ここでも、今日の仕事を続けている人たちがいます』
カメラが、城跡を映す。
朽ちた石壁。
閉じられた遊歩道。
軍人がゆっくりと巡回する背中。
その向こうに、朝の海が広がっている。
『なお、現在この島は安全管理区域に指定されています。
一般の方の立ち入り、および個人での訪問はできません。
過去に観光で訪れた経験がある方も、現地への移動はお控えください。
公開情報は、各地域の公式配信および当番組で随時お伝えします』
画面下にも、注意書きが表示された。
一般立入禁止。
無許可渡航禁止。
周辺海域への接近禁止。
公式情報の確認。
クラリスはもう一度、レインズ曹長へ向き直る。
『レインズ曹長、本日はありがとうございました』
『こちらこそ、ありがとうございました』
二人が軽く礼をする。
クラリスはカメラへ向き直り、静かに頭を下げた。
『以上、現場の風通し。クラリス・パズリアがお送りしました。
スタジオにお返しします』
画面がスタジオへ戻る。
アナウンサーは穏やかに頷いた。
『クラリスさん、ありがとうございました。
かつて観光地だった場所を、再び人が訪れられる場所へ戻すために、
現地で警備を続ける方々の思いが伝わってきました』
手元の資料を一枚めくる。
『魔王城跡周辺の一般立ち入りは、現在も制限されています。
視聴者の皆さまは、公式の解除情報が出るまで、
現地への訪問をお控えください』
アナウンサーは正面を向き直る。
『それでは、次のニュースです』
画面が別の話題へ移った。
座敷では、しばらく誰も喋らなかった。
織葉は両手で湯呑を持ち、画面を見つめていた。
それから、満足そうに茶をすすった。
「……良き放送でした」
「出た」
クリスティナが笑う。
「いや、でも今日は分かるかも。
観光地と軍の警備が同じ画面にあるの、結構よかった」
「せやろ」
織葉は真剣に頷く。
「クラリス殿の現場運びがよい。
城跡の歴史、現地の制限、警備の意義、視聴者への注意喚起。
そのすべてを過不足なく入れておられた」
「織葉、番組スタッフ目線入ってるよ」
「番組とは構成です」
「怪我人が語り出した」
紫乃がくすりと笑った。
「織葉ちゃん、肩」
「動かしておりません」
「声に力が入っているわ」
「声は肩ではありません」
「めっ、よ」
「……はい」
織葉は湯呑を置いた。
叢雲は腕を組み、深く頷いている。
「曹長殿の言葉もよかった。
警備が必要なくなることこそ本懐。
まこと、現場を知る者の言葉でござる」
レオも同意するように頷いた。
「うむ。
観光客のための道を、軍人が守る。
皮肉ではあるが、だからこそ守る意味があるのだろう」
八重乃は茶を口へ運び、穏やかに微笑んだ。
「荒れた庭も、道が残っていれば、また人は歩けますからね」
「祖母上、それ城跡の話ですか?」
クリスティナが尋ねる。
「ええ」
「たぶん、もっと広い話になってる気がしますわ」
「根は広く見るものです」
「やっぱり強い」
紫乃は盆の上に空いた湯呑を置きながら、画面の方を見た。
「クラリスちゃん、相手の方にちゃんと話を置いていたわね。
自分の感想でまとめすぎないところ、好きだわ」
織葉の目が輝く。
「母上、そこです」
「そこなのね」
「クラリス殿は、現場の声を飾りにしません。
ご自身の言葉で整えつつ、現地の方の言葉を主に据える。
あの塩梅が見事なのです」
「織葉ちゃん、肩」
「痛っ」
言われた直後に熱弁で肩が動いた。
紫乃の目が細くなる。
「めっ」
「……申し訳ありません」
クリスティナが肩を震わせて笑う。
「クラリス様で負傷箇所を自爆するの、さすがに織葉すぎる」
「自爆してへん」
「今、痛って言ったじゃん」
「感動で少し動いただけや」
叢雲が真面目に頷く。
「感動で身体が動くことはある」
「父上、乗らんといてください」
レオは少し口元を緩めた。
「織葉嬢は、負傷していても実に元気であるな」
「元気なのは主にクリスです」
「私は元気ですわ」
「そこは否定しないんだ」
クリスティナは自分の指先を見る。
一瞬だけ、薄い火の気配が揺れた。
すぐに消える。
レオの視線がそこへ向く。
クリスティナは何もなかったように練切の残りを口へ運んだ。
織葉もそれを見た。
けれど、何も言わなかった。
今は朝だった。
茶があり、菓子があり、番組があり、
画面の向こうではクラリスが現場を伝えていた。
昨日の火口も。
火精霊も。
封印解除も。
消えたわけではない。
だが、それらは一度、人の生活の中に戻されていた。
八重乃が静かに湯呑を置く。
「さて。番組も一区切りつきましたし、そろそろ道場の時間ですね」
「祖母上、私は今日は見学と」
「ええ。見学です」
「見学なら、道場へは」
「座っていなさい」
「……はい」
紫乃が笑う。
「織葉ちゃん、今日は本当に座っているだけよ」
「分かっています」
「本当に?」
織葉は少し目を逸らした。
「……たぶん」
「めっ」
「はい」
廊下の向こうから、門下生たちの足音が聞こえ始めていた。
合同稽古の締め。
朝の精神統一。
そのために、着替えた者たちが少しずつ道場へ集まっている。
画面の中では、次のニュースが流れている。
この座敷では、練切の皿が空になり、湯呑の茶が少し冷めていた。
外は快晴。
闇の霧は、今日は少し薄い。
そして、誰もまだ知らない。
画面に映ったあの城跡の島が、次に向かう場所であることを。
少なくとも、この座敷の中では。
フィリアだけが、その意味を知っている。




