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五章 八話

古い参道は、街から見えていたよりもずっと静かだった。


赤い鳥居は途切れ途切れに山肌へ続いている。

街の方では観光用に塗り直された鳥居も多かったが、こちらの鳥居は違った。


赤は残っている。

けれど、風雨に削られ、木目が浮き、足元には苔が張っている。

人の手は入っている。


だが、人の賑わいからは少し外れていた。

フィリアは端末を両手で持ち、歩きながら表示を確認する。


未分類マナ反応。

封印反応パターンとの照合率。

地脈ノイズ。

湯脈由来と思われる熱反応。


数値は常に揺れていた。

山に入るほど、街中にあった雑多な反応は薄くなる。

その代わり、別のものが少しずつ見え始めていた。


「反応、まだ上がったり下がったりしています」


フィリアは通信端末へ向けて報告した。


『数値は受け取っている』


リヴァルの声が返る。


『街中よりノイズが減っている。

 候補反応自体は見えやすくなっているけど、まだ中心とは言えない』


「はい」


フィリアは頷き、足元を見る。

石段は整っていない。


ところどころ欠けていて、苔もある。

歩きながら端末を見るには、少し危なかった。


「フィリア様、足元」


クリスティナがすぐ横から声をかける。


「はい」


織葉も少し先で振り返る。


「その先、段差が低く見えて深いです」


「ありがとうございます」


二人に挟まれているおかげで、フィリアは転ばずに済んでいた。

そして、もう一つ。

一行の歩みは、速すぎなかった。


叢雲がいたからだ。

叢雲は古傷を抱えている。


それでも、息を乱しているわけではなかった。


体力はまだ十分にある。

背筋も伸びている。


足の運びも静かで、武芸者としての芯はまるで崩れていない。

ただ、山道が長くなればなるほど、脚に負担がかかっていることは分かった。

紫乃はその半歩横にいた。


「叢雲さま」


「問題ない」


「まだ何も言っていません」


「言う顔であった」


「あら、分かってくださるのですね」


紫乃は楽しそうに笑いながら、腰の小さな保冷具を取り出した。

薄い布に包み、叢雲の膝上へそっと当てる。


「少しだけ冷やしましょう。立ったままで構いませんから」


「紫乃」


「歩けるのは知っています。でも、冷やして悪いことはありません」


叢雲は一度だけ目を閉じた。

反論を探したようだった。


だが、見つからなかったらしい。


「……短くでよい」


「はい」


紫乃は満足そうに頷いた。

フィリアはその横で、少しだけ息を整える。

正直、助かっていた。


織葉とクリスティナだけなら、きっともっと速かった。

二人は山道でもほとんど歩調を乱さない。


レオも叢雲に合わせているが、体力にはまだ余裕があるように見える。

フィリア一人では、

センサーを見ながらこの速度についていくのは難しかったかもしれない。


叢雲がいることで、一行全体の歩みが自然に抑えられている。

それが、フィリアにはありがたかった。


「フィリア殿」


叢雲が声をかける。


「はい」


「無理はせぬことにござる。山道は、急いだ者から転ぶ」


「はい」


「それに、拙者の脚もある。急ぐ必要はない」


フィリアは少し驚いた。

叢雲は前を見たまま言った。


「置いて行かれる心配は無用にござる」


「……ありがとうございます」


「礼には及ばぬ」


紫乃が隣で微笑む。


「叢雲さまは、こういうところは気が利くのです」


「こういうところは、とは」


「ふふ」


紫乃は答えなかった。

レオが後ろから愉快そうに言う。


「叢雲殿。夫婦とは、よいものだな」


「レオ殿」


「何かね」


「山道で言うことではござらん」


「では、平地で改めて言おう」


「改めずともよい」


クリスティナが小さく息を吐いた。


「お父様、調査中ですわ」


「分かっている」


「本当に?」


「もちろんである」


織葉は何も言わなかった。

ただ、横顔に少しだけ諦めがあった。


山道は静かだった。

鳥の声。

風の音。

遠くにかすかな湯の匂い。


だが、緊迫感はそれほど強くない。

この国は、マギアスとはほとんど無縁だった。

少なくとも、街の者たちにとって、山頂の奥社は危険区域ではない。


信仰の場所。

古い場所。


手入れはされているが、普段は人が少ない場所。

だから、織葉もクリスティナも、警戒はしているが殺気立ってはいなかった。

紫乃も、叢雲の脚を見ている時間の方が長い。


レオも、山道そのものを楽しんでいるようにさえ見える。

フィリアだけが、端末の数値を見ながら、少しずつ胸の奥を固くしていた。

そして、最後の鳥居を抜けた時。


視界が開けた。

山頂の奥社は、大きな建物ではなかった。

街の本社のような賑やかさもない。


小さな社。

古い石畳。

風に削られた狐像。

赤い鳥居。


その向こうに、山の上の空が広がっている。


星ではない。

昼の光でもない。


薄く霞んだ空の下、奥社は静かにそこにあった。


叢雲が足を止めた。

紫乃も隣で止まる。

織葉は自然に姿勢を正した。


クリスティナも、少しだけ表情を改める。

レオは帽子もないのに、礼をするように片手を胸元へ置いた。


フィリアは端末を見る。

反応は、確かに上がっていた。

だが、先に叢雲が言った。


「まずは、参る」


フィリアは端末から顔を上げる。


「はい」


ここは、調査地点である前に、祀られた場所だった。


叢雲が社の前へ進む。

他の者たちも続いた。


フィリアは見よう見まねで立つ。

普通の神社の作法とは違う。


叢雲が顔の前あたりで手を構えた。

織葉も同じように構える。


紫乃も、クリスティナも、レオも。


フィリアも慌てて手を上げた。

叢雲の手が鳴る。

パン・パン・パン。

一呼吸。


パン・パン・パン。

一呼吸。

パン・パン・パン。

三度ずつ。


計九度。

山頂の空気に、拍手の音が小気味よく響いた。


九節拍手。

九尾の九。


九本の尾を一本ずつ呼び覚ますように、三つの拍が三度刻まれる。

最後の音が、奥社の前に残る。

その余韻が消えきらないうちに、叢雲は両手を胸元へ引き寄せた。


指の節々を深く噛み合わせるように、しっかりと手を合わせる。

抱え込むような合掌。

首をすくめるように、深く一礼。


抱擁合掌。

フィリアも遅れながら、それを真似た。


指を組む。

胸元へ引き寄せる。

深く頭を下げる。

不思議な作法だった。


普通の祈りより、何かを外へ送るというより、胸元へ抱え込むような形。


火を鎮める。

守り神を留める。

山の熱を受け止める。


そういう意味があるのかもしれない。

フィリアは頭を下げたまま、そう思った。


礼が終わる。

叢雲はゆっくりと顔を上げた。


「灼将よ。騒がせる」


その声は低かった。

それ以上は言わない。

参拝は終わった。

ここからは、調査だった。


フィリアは端末を起動し直す。

リヴァルの通信も維持されている。


『到着を確認した』


「はい。奥社です」


『反応は』


「上がっています。

 ただ、まだ中心ではありません。

 奥社周辺に反応はありますが、収束点は別に見えます」


『数値を送って』


「はい」


フィリアがログを送る。

リヴァルは数秒で確認した。


『奥社そのものではなく、奥社の先か下。地形情報は』


叢雲が答える。


「奥社の奥に、旧火口へ続く道がござる」


フィリアは顔を上げる。


「火口」


「本来は立ち入り禁止にござる。

 柵もある。

 今は完全に休火山となって久しいが、崩れやすい場所もあるゆえ」


レオが山の奥へ視線を向ける。


「ならば、そこを見るしかあるまい」


紫乃が叢雲の脚を見る。


「叢雲さま」


「行く」


即答だった。

紫乃は少しだけ目を細める。


「分かっています。でも、ここから先はもっと足元が悪いでしょう」


「肩を借りるほどではない」


「必要なら借りてください」


「……必要ならな」


紫乃は満足そうに頷いた。

その時、空から低い音が近づいてきた。

輸送ドローンだった。


木々の上をゆっくりと進み、奥社の開けた場所に高度を落とす。

フィリアの端末に、リヴァルから座標確認の通知が入る。


『フィリア。受け取り位置を確認して』


「はい」


フィリアは端末を操作し、ドローンの投下予定座標と現在位置を照合する。


「位置、問題ありません。奥社前の空き地で受け取れます」


『了解。

 荷のうち、封印解除装置と精霊抑制装置だけを下ろす。

 残りの封印センサーと詳細調査機材は、翠川家へ下ろす』


「はい」


ドローンの底部が開き、保護ケースが二つ降ろされた。


一つは封印解除装置。

もう一つは精霊抑制装置。


フィリアはケースのロックを確認する。


「受け取りました」


『開封はまだしなくていい。まず火口側の安全確認』


「はい」


ドローンは再び浮上した。

残りの荷を抱えたまま、山を下っていく。

翠川家へ向かうのだろう。


フィリアは二つのケースを見る。


封印解除。

精霊抑制。

言葉だけで、胸が重くなる。

だが、まだ使う段階ではない。


まずは調査。

まずは確認。

一行は奥社の裏手へ回った。


そこから先は、参道ではなかった。


古い柵。

立ち入り禁止を示す札。


風雨で文字は薄れているが、役割は分かる。

叢雲が柵の前で足を止める。


「通常ならば、ここから先へは入らぬ」


「今日は、入るんですね」


フィリアが言う。


「調査でござる」


叢雲は短く答えた。

織葉が先に周囲を見る。


「足元、崩れやすそうです」


クリスティナも頷く。


「湿り気は少ないですが、石が浮いていますわ」


紫乃は叢雲の横へ寄り、今度は迷わず肩を差し出した。


「ここからは、少しだけ」


叢雲は一瞬、何かを言いかけた。

だが、柵の向こうを見て、黙って紫乃の肩に手を置いた。


「……借りる」


「はい」


紫乃は嬉しそうにはしなかった。


ただ、自然に受け止めた。

火口へ続く道は短かった。


けれど、歩きやすくはなかった。

木々が途切れ、地面の色が変わる。

土というより、古い岩と乾いた砂礫。


かつて火を持っていた山の名残。


そこには湖はなかった。

水を湛えたカルデラではない。

乾いた旧火口。

浅く大きく窪んだ地形。


その中心へ向かって、地面がゆるやかに落ち込んでいる。

フィリアの端末が震えた。


今度は、小さな通知音ではない。

低く、連続した警告。


「反応、上がっています」


『ログを送って』


「送ります」


フィリアはすぐに送信する。

リヴァルの声が、少しだけ硬くなった。


『収束している』


「収束?」


『火口の中心に向かって、封印反応候補が集まっている。

 自然な地脈反応じゃない。

 力場が作られている』


フィリアは火口の中心を見る。

何もないように見えた。

ただの乾いた窪地。

岩。


砂礫。

古い火口跡。


だが、端末の数値は、そこへ向かって集まっている。


「火口の中心に、封印ポイントがあるんですか」


『その可能性が高い。ただし、解除前に確認することがある』


「火山の噴火リスクですね」


『そう』


リヴァルは即答した。


『封印を解除した結果、山そのものが動く可能性を確認する。

 地熱、内部圧、火山性マナ反応、湯脈の変動。

 フィリア、センサーを火口中心へ向けて。

 解除装置はまだ使わない』


「はい」


フィリアは慎重に端末を構えた。

織葉が横に立ち、足元を支える位置につく。


「フィリア殿、その岩に足を乗せない方がいいです」


「はい」


クリスティナも反対側から周囲を見る。


「風は強くありませんが、砂が滑りますわ」


レオは少し離れた位置で全体を見ていた。

叢雲は紫乃に支えられながら、火口の中心を見下ろしている。

その表情は、道場にいた時とも、奥社で参った時とも違った。


翠川の者として。

この土地に関わる者として。

そこにある何かを見ていた。


フィリアの端末が、解析を進める。


地熱。

安定。

湯脈。

変動小。


内部圧。

異常なし。

火山性マナ反応。

基準値以下。


休火山状態。

長期安定。


封印反応による火山活動誘発リスク。


低。

フィリアは息を呑んだ。


「火山活動のリスクは、低いです」


『詳細を』


「地熱、安定。内部圧に異常なし。火山性マナ反応も基準値以下。

 湯脈変動も小さいです」


リヴァルが数秒黙る。


『完全な休火山化と見ていい。

 少なくとも、封印解除が直接噴火を引き起こす可能性は低い』


「はい」


フィリアは火口の中心を見る。

そこに火は見えない。

煙もない。

水もない。


ただ、静かな窪地があるだけ。

けれど、その中心に向かって、見えない力場が収束している。


火を鎮めた山。

守り神として祀られた灼将。

山頂の奥社。

そして、その奥の旧火口。


ここまで来て、ようやく分かった。


奥社は入口だった。

祈りの場所。

守り神を留める場所。


だが、封印の収束点は、その先。


山の火があった場所。

旧火口の中心。


リヴァルの声が通信越しに届く。


『封印反応候補を、封印反応として扱う』


フィリアの手に力が入った。


『場所は旧火口中心。

 周辺力場あり。

 火山活動リスクは低。

 封印解除装置の使用条件は、おおむね満たしている』


レオが静かに息を吐く。


「ここか」


叢雲も低く答える。


「ここでござるか」


紫乃は叢雲の肩を支えたまま、火口を見ていた。


「灼将さまが、火を抱えた場所」


織葉は木々の向こうにある奥社の方を一度見た。

クリスティナも、火口の中心へ視線を戻す。


フィリアは端末を抱え直した。

まだ封印を開けてはいない。

まだ精霊も見えていない。


けれど、調査は終わりに近づいていた。


山頂奥社。

旧火口。

封印反応。


すべてが、一つの場所へ収束していた。


『解除作業の前に、配置を変えます』


リヴァルの声が、通信越しに届いた。

火口の中心には、封印反応が収束している。


乾いた旧火口。

足元は悪い。


岩は浮き、砂礫は滑り、少し踏み誤れば体勢を崩す。

戦闘が起きるかどうかは、まだ分からない。


だが、起きた時に動けない者が近くにいるのは危険だった。


『叢雲殿、レオ卿。いったん山道側まで下がってください』


叢雲が眉を動かす。


「拙者もでござるか」


『はい。

 お二人とも古傷があります。

 ここは地盤がよくない。

 予想外の事態が起きた時、

 即座に足場を選べない人員を近くに置きたくありません』


レオは静かに頷いた。


「合理的であるな」


叢雲は火口の中心を見た。


「……承知した」


紫乃がすぐに叢雲の横へ寄る。


「では、まず山道まで」


「一人で行ける」


「知っています」


紫乃は微笑む。


「でも、私が見たいのです」


叢雲は少しだけ息を吐いた。


「……世話をかける」


「あら。もっとかけてくださっていいのよ」


「紫乃」


「はい」


「調査中である」


「分かっています」


紫乃は叢雲の腕を自然に支えた。

レオも一歩引く。


「叢雲殿が下がるなら、私も従おう。ここで張り合う場面ではない」


『ありがとうございます』


リヴァルは続ける。


『山道側まで上がったら、ミス・シノはフィリアの近くへ戻ってください。

 フィリアが封印解除装置を操作。

 織葉、クリスティナは臨戦態勢。

 ただし、異常があった場合、ミス・シノはフィリアを山道側へ下げる。

 織葉、クリスティナも状態次第では一度下がる』


「主任」


織葉が通信へ視線を向ける。


「戦闘が起きた場合は」


『状態確認後に判断。

 戦闘への参加を僕がここで決めることはできない。

 現地で、見て、動ける者が判断して』


リヴァルの声は淡々としていた。

だが、その淡々さが、逆に場を落ち着かせる。


『今やることは、動ける人員を近くに置くこと。

 動けない可能性がある人員を下げること。

 フィリアを守る導線を作ること。

 この三つです』


「承知しました」


クリスティナもレイピアの柄に手を添える。


「心得ましたわ」


叢雲とレオが山道側へ上がる。

紫乃は叢雲の脚の様子を確認してから、軽く頷いた。


「叢雲さま、ここで」


「うむ」


「レオ様、叢雲さまをお願いします」


レオが少し愉快そうに笑う。


「任されよう」


「紫乃」


叢雲が呼ぶ。

紫乃は振り返る。


「はい」


「無理はするな」


紫乃は目を細めた。


「それは、私の台詞ですわ」


そう言って、紫乃は火口側へ戻った。


動きは速い。

だが、足音はほとんどない。


フィリアの横へ降り立つと、すぐに片膝をつき、

封印解除装置のケースへ視線を向けた。


「フィリアちゃん。いつでも抱えられる位置にいるわね」


「抱えられる……」


「念のためよ」


紫乃はにこりと笑う。


「怖がらなくていいわ。でも、怖い時は怖がってね。

 その方が、おばさんも動きやすいから」


「はい」


フィリアは封印解除装置のケースを開けた。

内部には、リヴァルが送った装置が固定されている。


操作用の端末。

封印核解析用の接続ユニット。

精霊抑制装置。


そのうち、今使うのは封印解除装置だけだ。


『フィリア。手順を確認する』


「はい」


『まず、封印反応の座標固定。

 次に、封印核までの仮想接続。

 封印核に到達したら、核表面の状態を確認。

 解除処理に入るのは、その後』


「分かりました」


『繰り返す。核に触れた段階で何かが起きたら、解除を進めない』


「はい」


フィリアは端末を操作する。

画面に旧火口の簡易地形図が表示される。


中心部。

力場の収束点。

封印反応。

フィリアは座標を固定した。


「座標、固定します」


『確認した。次、仮想接続』


「はい」


装置が低く唸る。

旧火口の中心へ向けて、目に見えない線が伸びていく。

フィリアの端末上では、細い光のラインとして表示されていた。


織葉は少し前に立つ。

左手はカタナアーツデバイスの鞘へ。

まだ抜かない。


クリスティナは反対側で、レイピアの柄に指を添える。


こちらも、まだ抜かない。

二人とも、臨戦態勢。

ただし、火も雷もない。

マナアーツは使っていない。


純粋に、何かが起きた時に動くための構え。

紫乃はフィリアのすぐ後ろにいる。

一見、ただ寄り添っているように見える。


だが、フィリアには分かる。

何かあれば、紫乃は一瞬で自分を抱えて山道側まで跳ぶ。

その距離にいる。


「封印核に近づいています」


フィリアは画面を見ながら言った。


『速度を落として』


「はい」


仮想接続が、ゆっくりと中心へ進む。


周囲には何も起きない。

地面も揺れない。

風も変わらない。

火も噴かない。


旧火口は、静かなままだった。


「封印核に到達します」


リヴァルの声が短くなる。


『停止。状態確認』


フィリアは操作を止めた。

端末上に、封印核の状態が表示される。


強固。

硬化。

外層安定。

精霊マナ高密度封入。


フィリアは読み上げる。


「封印核、確認。

 外層は非常に強固です。

 精霊化現象で確認された硬化パターンと、かなり近いです」


『やはり同系統か』


リヴァルの声がわずかに低くなる。

その直後。

フィリアの端末上で、封印核の一部が開いた。


精霊マナが噴出する。

数値が跳ね上がる。


だが。


何も起きなかった。

火口には、何も現れない。

炎の柱もない。

巨大な獣もない。


人型の精霊もいない。

ただ、端末の中だけで、濃い精霊マナの波形が広がっている。

織葉が周囲を見る。


「何も起きませんね」


クリスティナも火口の中心を見ている。

織葉は続けた。


「精霊の出現様子もありません」


レオが山道側から声を抑えて言う。


「空振り、ということはなかろう」


リヴァルも通信越しに答える。


『ない。封印核は確実に存在している。精霊マナも噴出している。

 ただ、外へ出ていない』


「出ていない……?」


フィリアが呟く。

その時だった。


「おりはー」


小さな声。

軽い声。

けれど、明らかに震えていた。


「おりはー」


織葉が振り向く。


「クリス?」


フィリアも、紫乃も、クリスティナを見た。

クリスティナは、炎に包まれていた。

燃えている。


だが、肌が焼けているわけではない。

服が崩れているわけでもない。


炎のマナが、彼女の身体にまとわりついている。

クリスティナは右手を左手で必死に押さえていた。

その右手は、レイピアの柄へ向かおうとしている。


「ヤバいんだけど」


クリスティナの声が震える。


「勝手に剣に手が行くんだけど」


織葉の顔色が変わった。

昨日の夜の縁側。

明日の試合。

ちゃんと突いてき。


ちゃんと抜く。

その会話が、頭をよぎったのかもしれない。


「クリス」


「織葉ちゃん、離れて」


紫乃の声が飛んだ。

同時に、紫乃はフィリアを抱えた。


「え」


フィリアの視界が跳ねる。

次の瞬間、紫乃は火口側から山道側へ飛び上がっていた。


軽い。

速い。


フィリアを抱えたまま、叢雲とレオのいる安全側まで一気に下がる。


織葉は動かなかった。

いや、動けなかった。

クリスティナを見ていた。

炎に包まれた友人を。


「おりはー……」


クリスティナが必死に笑おうとしている。

だが、声は苦しそうだった。


「どうしたらいい?」


織葉はカタナアーツデバイスに手をかけた。

左の親指が、鯉口を押す。


「クリス……お前……」


喉の奥から、声が出る。


「人柱やったか……」


その言葉に、クリスティナの目が揺れた。

だが、逃げない。


「心配せんでも」


織葉は言った。

声が震えていた。


けれど、刃を握る手は震えていない。


「ほかの精霊と同じように止めたる。そのまま苦しまんでええんや」


「ホントに?」


クリスティナの声は、いつもの軽さを無理やり残していた。


「ホンマや」


織葉はまっすぐ見る。


「信じてええで」


クリスティナは一瞬、泣きそうな顔をした。

それから、笑った。


「わかった」


右手が動く。

今度は、もう止められない。


クリスティナがレイピアを抜いた。

炎が膨れ上がる。

彼女の背後に、魔神のような火影が立ち上がる。


巨大な腕。

炎の輪郭。

頭部のようなもの。


それがクリスティナへ覆いかぶさるように、状態を起こそうとした。


だが、次の瞬間。

火影は、外へ出なかった。


クリスティナの身体へ吸い込まれていく。

炎が圧縮される。


膨れ上がっていた精霊マナが、彼女の内側へ沈む。

火口は再び静かになる。


クリスティナの身体だけが、薄く炎のマナをまとっていた。


赤ではない。

ただの火でもない。


彼女のブロッサムフォームとは違う、もっと古く、もっと重い熱。


「クリス……?」


織葉が呼ぶ。

クリスティナはレイピアを一度、軽く振った。


炎が尾を引く。

それから、構えを取る。


「おりはー」


声は戻っていた。

戻っているのに、身体は戻っていなかった。


「マジやばい。精霊の魔力とリンクしたっぽい」


「リンク……」


「でも、やっぱ体の自由は効かないっぽい」


織葉の眉が寄る。


「それ、逆にまずいんとちゃうんか」


「受け入れ過ぎた。マズった」


「軽いな」


「軽く言わないと怖いじゃん」


クリスティナは笑った。

その笑顔は、いつものクリスティナに見える。


だが、足の位置が変わる。

じり、と一歩。


レイピアの切っ先が、織葉へ向く。


本人の意思とは別に。

織葉も反応する。


体を沈め、左の親指で刀を鞘からわずかに出す。


「でも、おりはちゃんと戻すって言ってたじゃん」


「それは言うてた通りや」


織葉は低く答える。


「せやけど、話せるんやったら、精霊の核も感じられるんとちゃうんか」


クリスティナは一瞬、目を閉じた。

炎が、彼女の肩から腕へ流れる。

鎖骨のあたりで、火がわずかに濃くなる。


「うーん」


軽い声。

けれど、額には汗が浮いていた。


「たぶん、鎖骨の間? 胸のあたりに、熱いマナを感じるかも」


「分かった」


織葉の目が細くなる。


「あとは任せ」


クリスティナは小さく息を吐いた。


「じゃ、お願い」


山道側。

フィリアは紫乃に抱えられたまま、目の前の光景を見ていた。


叢雲も、レオも、火口側を見ている。

叢雲が低く呟いた。


「今、お互い話していたな」


レオの声は静かだった。


「どうやら、娘が取り込まれたようだ」


それは父親の声だった。

だが、同時に武芸者の声でもあった。

紫乃はフィリアをそっと下ろしながら、火口側を見る。


「二人の口を見る限り、クリスちゃんが精霊化とリンクしたみたいね」


そして、少しだけ笑った。


「さすがだわ」


レオの目が一瞬、輝いた。


「そうか。クリスティナが、精霊のマナを……」


叢雲が横目で見る。


「それはそれで問題なのではないか?」


レオはすぐに表情を戻した。


「問題である」


紫乃が頷く。


「ええ。今、抑えが効かないクリスちゃんを止められる可能性があるのは、

 織葉ちゃんだけね」


レオは火口側を見る。

織葉とクリスティナ。

翠川とアドレメリア。

二家の次代。


「そうか……」


レオは低く言った。


「そうだな。我らも、下手に出ればただ足を引っ張るだけになりかねん」


叢雲も歯を噛むように息を吐いた。


脚の古傷。

足場の悪い火口。

若い二人の間合い。


そこへ自分たちが入ることの危険。

分からない者たちではなかった。


「それでも、やれることはあるわ」


紫乃が言った。

叢雲が問う。


「何事か」


紫乃はフィリアの肩に手を置く。


「フィリアちゃん」


「は、はい」


「精霊抑制装置。射撃できるタイプ、ついているわよね?」


フィリアは装置ケースを見る。

リヴァルが送った精霊抑制装置。

その中には、

レイアーツデバイスに接続して撃ち込むための抑制カートリッジがある。


「あります。レイアーツデバイスに接続すれば、射撃できます」


「じゃあ」


紫乃は火口側を見た。


「織葉ちゃんがクリスちゃんを抑えたら……お願いできるかしら」


フィリアは息を呑んだ。


「私が」


「ええ」


「でも、クリスさんを撃つんですか」


声が震えた。

紫乃は否定しなかった。


「止めるためにね」


フィリアの手が、レイアーツデバイスへ伸びる。


けれど、迷いがあった。

クリスティナを撃つ。


精霊抑制装置だと分かっていても、その言葉は重い。

叢雲が静かに言った。


「心配ない」


フィリアは顔を上げる。

叢雲は火口側を見たまま続けた。


「我が娘ならば、必ず隙を作る」


その声には、揺らぎがなかった。


「信じてよい」


レオも頷く。


「やむを得んだろう」


父親としては、きっと言いたくない言葉だった。

それでも、レオは言った。


「我々の家の最高戦力同士だ。どうなるかは分からぬ。

 だが、機を作るなら、あの二人だ」


紫乃の手が、フィリアの肩に優しく置かれたままになる。


「大丈夫よ」


「紫乃さん……」


「必ずチャンスは来るわ」


紫乃は微笑む。


「お願いできるかしら」


フィリアは火口側を見た。

織葉が構えている。

クリスティナも構えている。

二人は、まだ話せている。


まだ、完全には失われていない。


なら、止められる。

ライトではない。

今回は、抑制装置。


でも、自分にできることがある。

フィリアは震える息を吐いた。

それから、レイアーツデバイスに精霊抑制カートリッジを接続する。


装填音が小さく響いた。


「やります」


紫乃が頷く。


「ありがとう」


フィリアは構えた。

山道側から、火口の中心へ。


織葉とクリスティナの間合いへは入らない。


入れない。

ただ、待つ。

織葉が作る隙を。


クリスティナが戻るための、一瞬を。

通信の向こうで、リヴァルの声が低く届いた。


『フィリア。撃つのは、織葉が止めた瞬間だけ。焦らないで』


「はい」


『対象はクリスティナの胸部中心。

 本人が示した核反応位置に合わせる。

 外した場合、二射目は状況次第』


「はい」


『震えてもいい。照準だけは合わせて』


フィリアは唇を結ぶ。


「はい」


火口の中心で、炎が揺れた。

織葉の親指が、さらに刀を押し出す。


クリスティナのレイピアが、炎の線を引く。

次の瞬間、二人が動く。

フィリアには、また見えなかった。


けれど、今度は見るだけではない。

撃つために、待たなければならなかった。

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