五章 六話
稽古が終わる頃には、道場の空気そのものが熱を持っていた。
木刀の音。
訓練用レイピアが防具を叩く音。
門下生たちの息。
織葉とクリスティナの指導。
叢雲とレオの声。
そのすべてが積み重なり、日が傾く頃には、
道場の床まで熱を吸っているようだった。
「本日はここまで」
叢雲の声で、門下生たちが一斉に礼をする。
「ありがとうございました!」
翠川側の門下も、アドレメリア側の門下も、声を揃えた。
フィリアも道場の端で慌てて頭を下げる。
見学していただけだった。
それでも、妙に疲れていた。
見ているだけなのに、目が追いつかない。
音を聞いているだけなのに、呼吸が浅くなる。
武芸者の稽古とは、こういうものなのかもしれない。
そう思ったところで、紫乃が手を叩いた。
「はい、みんな。汗を流してからご飯よ」
その一言で、道場の空気がまた変わった。
門下生たちの目が、明らかに輝いた。
稽古が終わった時より、むしろ気合が入っている。
「ご飯……」
フィリアが小さく呟く。
クリスティナが髪を整えながら微笑んだ。
「稽古後の食事は大切ですわ」
織葉も静かに頷く。
「その前に温泉です。汗を残したまま食事に入るのは、
翠川では禁じられています」
「温泉」
「ええ。ここは温泉街ですから」
それは確かにそうだった。
翠川家の敷地内にも、温泉を引いた浴場があった。
フィリアは紫乃と八重乃に案内され、汗を流した。
湯は柔らかかった。
山の火を受け止めた九尾の話。
街に残る赤い鳥居。
狐像。
九尾神社。
その話を聞いた後だからか、湯気まで少し不思議なものに見えた。
けれど、湯に浸かっている間、紫乃はそれ以上難しい話をしなかった。
「肩まで浸かると、疲れが抜けるわよ」
「はい」
「のぼせそうならすぐ言ってね」
「はい」
「織葉ちゃんは昔、稽古後に我慢して浸かりすぎて、
湯上がりに倒れかけたことがあるの」
「母上」
湯の向こうから織葉の声がした。
紫乃は楽しそうに笑う。
「小さい頃の話よ」
「今、その話をする必要はありません」
「可愛かったわよ」
「母上」
フィリアは湯の中で少し笑った。
温泉は穏やかだった。
そこまでは。
問題は、その後だった。
湯上がりに広間へ向かったフィリアは、入口で足を止めた。
「……え?」
広間が、食事のために作り替えられていた。
いや、食事というより、補給拠点だった。
長い卓がいくつも並ぶ。
大皿が並ぶ。
大鍋が並ぶ。
湯気が上がる。
唐揚げが山になっている。
鍋がある。
汁物がある。
シチューがある。
焼き魚がある。
肉の煮込みがある。
白飯の釜がいくつもある。
パンの籠もある。
漬物。
野菜炒め。
甘味。
何か分からないが、とにかく美味しそうなもの。
和食。
洋食。
家庭料理。
稽古飯。
全部が同じ卓に乗っていた。
統一感はない。
だが、火力はある。
圧倒的な火力があった。
「さあ、座ってね」
紫乃が言った。
すでに髪をまとめ、袖を整え、完全に食事提供側の顔になっている。
「フィリアちゃんはお客様だから、こちら」
「あの、私も手伝います」
「だめよ」
即答だった。
「でも、量が」
「量が多いからこそ、お客様を台所に入れないの」
「でも、本当に多いです」
「大丈夫。慣れているわ」
慣れている。
この量に。
フィリアはもう一度、広間を見る。
門下生たちは、翠川側もアドレメリア側も、すでに席についていた。
全員、姿勢がいい。
そして目が真剣だった。
稽古前と同じくらい真剣だった。
八重乃がにこやかに隣へ座る。
「フィリアさん、今日は見ているだけでも疲れたでしょう。
まずは温かいものからお食べなさい」
「はい……」
フィリアは座らされた。
完全に客人席だった。
目の前に器が置かれる。
汁物。
小鉢。
ご飯。
鍋の取り皿。
唐揚げ。
魚。
なぜかパンも置かれた。
「パンもですか?」
「アドレメリアの子たちが食べるから、多めに焼いてあるの」
紫乃が答える。
「でも、合わなくないですか」
「食べる子は食べるわ」
その直後、
アドレメリア側の門下生がシチューとパンと唐揚げを同時に取っていた。
食べる子は食べるらしい。
「いただきます」
声が揃った。
次の瞬間、広間が動き始めた。
箸。
皿。
椀。
おかわり。
大皿。
鍋。
声。
「ご飯お願いします!」
「唐揚げこちらに!」
「シチューのおかわりを!」
「鍋、こっち空きました!」
「パン追加で!」
「汁物ください!」
「早いわね。はい、順番にね」
紫乃が笑顔で捌く。
速い。
あまりにも速い。
大鍋からよそう。
皿を渡す。
足りない卓へ大皿を送る。
門下生に水を持たせる。
食べ過ぎている者の前に野菜を置く。
逆に足りていない者へ肉を足す。
「あなた、揚げ物ばかりになっているわ。野菜も食べなさい」
「はい、紫乃様!」
「そちら、鍋の火を少し落として。焦げるわ」
「はい!」
「織葉ちゃん、ご飯は?」
「いただきます」
「はい」
織葉の器に、自然な量ではない白飯が盛られた。
フィリアは見た。
確かに見た。
茶碗ではない。
小さめの丼だった。
織葉はそれを当然のように受け取った。
「え」
フィリアの声が漏れた。
織葉は静かに食べ始める。
姿勢は美しい。
箸遣いも美しい。
一口が大きすぎるわけでもない。
乱暴でもない。
なのに、減る。
確実に減る。
すごい速度で減る。
白飯。
唐揚げ。
鍋。
汁物。
魚。
また白飯。
「織葉さん、それ……」
「はい」
「多くないですか?」
織葉は少し考えた。
「今日は軽めです」
「軽め」
「明日が正式な手合わせですので」
フィリアは言葉を失った。
隣ではクリスティナが、上品にナプキンを膝へ置いていた。
その姿は完全に令嬢だった。
令嬢だったのに、皿の数が増えていく。
シチュー。
パン。
唐揚げ。
肉の煮込み。
鍋。
サラダ。
さらにパン。
「クリスさん」
「何でしょう、フィリア様」
「それ、三皿目ですか?」
「ええ」
「まだ始まったばかりですよね」
「稽古後ですもの」
「稽古後って、そんなに万能の言葉ですか」
クリスティナは微笑んだ。
「少なくとも、武芸者にはかなり万能ですわ」
フィリアは八重乃を見る。
八重乃はにこにこしている。
「本来、武芸者はあのくらい食べねば強くなれません」
「本来」
「ええ。稽古で消費したものを戻せない者は、
次の稽古に立てませんからねえ」
八重乃は織葉とクリスティナを見る。
「よく動く枝には、水も養分も多く必要です。
細く見えても、根が強ければたくさん吸います」
「根……」
「織葉ちゃんも、クリスティナさんも、普段は周りに合わせているのでしょう」
フィリアは、はっとした。
シェルターでの食事。
織葉もクリスティナも、普通に食べていた。
いや、少し多いことはあったかもしれない。
でも、ここまでではなかった。
ここでは遠慮がない。
周囲も誰も驚かない。
門下生たちも食べる。
叢雲も食べる。
レオも食べる。
八重乃も少しずつ食べる。
紫乃は食べながら配っている。
これが、この家々の普通なのだ。
「普段、抑えてたんですね……」
フィリアの声に、クリスティナが当然のように答える。
「シェルターでこの量をいただくわけにはいきませんもの」
織葉も頷く。
「全員分の配分があります」
「じゃあ、今は」
「遠慮しなくていい日です」
織葉が静かに言った。
クリスティナも微笑む。
「久しぶりに適量をいただけますわ」
フィリアはもう一度、卓を見た。
適量。
武芸者の適量。
怖い言葉だった。
「フィリア様も、もっとどうぞ!」
門下生の一人が唐揚げを勧めてきた。
「いえ、私は」
「山ほどあります!」
「山ほどあるから食べる、ではないんです」
別の門下生が鍋を持ってくる。
「こちらも美味しいです!」
「今、食べています」
「シチューもあります!」
「知っています。見えています」
「パンも!」
「なぜ全部を」
「稽古後なので!」
「私は稽古してません!」
フィリアが珍しく声を上げた。
広間の一部が笑った。
無礼講だった。
正確には、稽古後の食卓だけに許される緩さだった。
翠川の門下も、アドレメリアの門下も、
普段なら客人へ不用意に声をかけないだろう。
けれど今は、飯が中心だった。
食べる。
勧める。
笑う。
また食べる。
無礼講が、きちんと機能している。
気まずくならない。
誰も馬鹿にしていない。
ただ、食べさせたい。
それだけだった。
「めっ、よ」
紫乃の声が飛ぶ。
門下生たちが止まる。
「フィリアちゃんに門下の量を勧めないの。
可愛いお客様がびっくりしてしまうでしょう」
「はい、紫乃様!」
八重乃も穏やかに続ける。
「若木に大木の水を与えると、根腐れしますからねえ」
「はい、八重乃様!」
フィリアはほっとした。
その直後、紫乃が小鉢を一つ置いた。
「これは少しだけね」
「増えました」
「少しだけ」
八重乃も汁物を置く。
「これは温かいうちがよいですよ」
「また増えました」
「無理はしなくてよいですからねえ」
「無理はしない方向でお願いします」
紫乃と八重乃はにこにこしている。
守られている。
守られているはずだった。
ただし、食べ物は増える。
広間の中央では、叢雲とレオが酒ではなく茶を手にしていた。
それでも、声が大きくなっていく。
「見られたか、レオ殿」
叢雲が言った。
「先ほどの織葉の箸運び」
「むろん見ていた」
レオが頷く。
「無駄がない。実に見事である」
「幼き頃より、織葉は食事の所作も美しかった」
「父上」
織葉の声が低くなる。
叢雲は聞いていない。
「稽古後であろうと、決して姿勢を崩さぬ。あれぞ翠川の娘」
レオが深く頷く。
「よく分かる。
クリスティナもまた、食卓での優雅さを失わぬ。
あれほど食べてなお、花のようである」
「お父様」
クリスティナの声も低くなる。
レオも聞いていない。
「見よ、あのパンを取る手つき。
無駄がない。
皿の選び方も美しい。
シチューと肉料理を両立させる判断力もある」
「お父様、それは褒めるところですの?」
「褒めるところである」
叢雲が感心して頷く。
「食の組み立てもまた戦でござるからな」
「そうであろう、叢雲殿」
「うむ。織葉の白飯と鍋の配分もまた見事」
「クリスティナのパンとシチューの連携も負けておらぬ」
「織葉は唐揚げを挟むことで流れを変えておる」
「クリスティナはそこでサラダを入れて整える」
「ほう」
「ふむ」
二人は真剣だった。
真剣に、娘の食べ方を語っていた。
織葉は無言で食べ続けている。
ただし耳が赤い。
クリスティナは優雅に微笑んでいる。
ただし目が笑っていない。
フィリアは小声で紫乃に尋ねた。
「止めなくていいんですか」
紫乃は鍋をよそいながら答える。
「今はみんな食べているから大丈夫よ」
「大丈夫なんですか」
「親バカ騒音は、ご飯に集中していれば聞き流せるの」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
門下生たちは実際にそうしていた。
叢雲とレオの騒音を、飯で受け流している。
聞こえている。
聞こえているが、食べる。
気まずくなる暇がない。
白飯が来る。
唐揚げが来る。
鍋が来る。
親バカが来る。
シチューが来る。
全部、流れていく。
無礼講がきっちり機能していた。
レオが急にフィリアを見る。
「フィリア嬢」
「はいっ」
「君もよく見るとよい。食事には、その者の剣が出る」
「剣が」
「織葉嬢の食は静にして速い。クリスティナの食は華やかにして乱れぬ」
「そ、そうなんですね」
叢雲も頷く。
「フィリア殿も、食を疎かにしてはならぬ。ライトを撃つにも、体が要る」
「はい」
これは正論だった。
正論だったが、量がおかしい。
フィリアは自分の器を見る。
もう十分食べた。
十分食べたはずだ。
だが、周囲から見ると少なそうに見えるらしい。
門下生がまた何かを持って近づこうとして、紫乃の視線で止まった。
紫乃は笑っている。
笑っているのに、門下生が止まる。
強い。
「フィリアちゃんは、自分の分でいいの」
「はい!」
「でも、デザートは少し残しておくといいわ」
「はい!」
フィリアは紫乃を見る。
「デザートもあるんですか」
「あるわよ」
「これだけ食べた後に」
「稽古後だから」
フィリアは、その言葉がまた出たと思った。
稽古後。
万能。
あまりにも万能。
食事はさらに続いた。
唐揚げの山が低くなる。
鍋が空になる。
シチューが補充される。
白飯の釜が一つ空になる。
パンの籠が二度補充される。
門下生の一部が途中から配膳側へ回る。
八重乃も席を立ち、甘味の皿を並べ始める。
紫乃はほとんど止まらない。
それでも、叢雲の器が空になりかけると最初に気づく。
「叢雲さま、ご飯は?」
「自分で取る」
「だめです」
「近い」
「近くてもだめです」
「紫乃」
「脚に無理をさせない約束ですもの」
「この距離である」
「この距離からです」
叢雲は黙った。
紫乃は当然のようにご飯をよそった。
「はい」
「……かたじけない」
「どういたしまして」
紫乃は嬉しそうだった。
織葉は無言で食べている。
耳はまだ赤い。
フィリアは、織葉がこの家で育ったことを強く実感した。
強くならない方が難しい。
親は親バカで騒がしい。
母は愛情が深すぎる。
祖母は柔らかく全員を支配する。
父は脚に古傷を持ちながら異常に強い。
食事は山。
稽古は濃い。
門下はそれに慣れている。
この環境で育った織葉が、普通の感覚で収まるわけがなかった。
「フィリア様」
クリスティナが声をかける。
「はい」
「どうかなさいました?」
「いえ……クリスさんと織葉さんのことが、少し分かった気がします」
クリスティナは微笑んだ。
「それは何よりですわ」
織葉は静かに言う。
「おそらく誤解も多いと思います」
「誤解じゃない部分も多そうです」
織葉は否定しなかった。
広間の向こうで、レオと叢雲の声がまた大きくなる。
「クリスティナは幼き頃、稽古後にパンを両手で持っていたことがあってな」
「お父様!」
「織葉も幼き頃、握り飯を両手で持っておった」
「父上!」
レオと叢雲は顔を見合わせた。
「可愛かったであろう」
「可愛かったでござる」
「お父様!」
「父上!」
二人の娘の声が重なった。
門下生たちは、飯を食べながら笑いを堪えていた。
無礼講は機能している。
かなり機能している。
紫乃は楽しそうに鍋を混ぜる。
八重乃は甘味を並べながら、穏やかに言った。
「親というものは、実った果実を人に見せたがるものですからねえ」
「実りすぎですわ」
クリスティナが言う。
「収穫祭ですか」
織葉も言う。
八重乃はにこにこしている。
「ええ。今夜はよく実っていますねえ」
フィリアは笑ってしまった。
ようやく少し、この場の空気に慣れてきた。
騒がしい。
量がおかしい。
親バカがうるさい。
門下生の食欲もおかしい。
紫乃の処理能力もおかしい。
八重乃の制圧力もおかしい。
けれど、嫌な騒がしさではなかった。
誰も置いていかない。
誰かが食べすぎれば止める。
足りなければ足す。
困っていれば笑って助ける。
親バカはうるさいが、飯で流す。
それが、この夜の作法だった。
甘味が出る頃には、フィリアはもう限界に近かった。
「少しだけでいいわよ」
紫乃が言った。
その皿には、少しではない量が乗っていた。
フィリアは皿を見る。
紫乃を見る。
八重乃を見る。
八重乃は微笑む。
「半分でよろしい」
「半分でも多いです」
「残りは門下の子が喜びますからねえ」
近くの門下生が、期待を隠せない顔で座っていた。
フィリアは半分だけ食べた。
美味しかった。
悔しいほど美味しかった。
残りは門下生が本当に喜んで食べた。
食べ終わる頃、広間はまだ騒がしかった。
叢雲とレオは、今度は明日の手合わせについて語り始めている。
「明日の織葉は、どこまで出すか」
「クリスティナも、手加減ばかりでは稽古にならぬ」
「しかし、門下の前でやりすぎてもならぬ」
「分かっている。だが、娘の成長を見る機会でもある」
「分かる」
「分かってくださるか」
「分かるとも」
また始まった。
織葉とクリスティナは、もう反応する気力もないらしく、茶を飲んでいた。
フィリアは満腹の腹を抱えながら、ぼんやりと思う。
明日は正式な手合わせ。
門下同士の仕上げ。
そして、織葉とクリスティナの手合わせ。
この夜の騒ぎですら、まだ前座なのだろう。
それが分かってしまった。
フィリアは茶を一口飲んだ。
温かい。
美味しい。
そして、少し怖い。
明日、この人たちは何を見せるのだろう。
広間の騒ぎは、夜が深くなっても、しばらく収まらなかった。
夜の一幕として、フィリア側は静かに本筋、
織葉とクリス側は身内の素の会話で温度差を出すね。
その夜。
広間の騒ぎがようやく落ち着いた後、翠川家の廊下は静かになっていた。
遠くから、門下生たちの片付けの声が少しだけ聞こえる。
食器の音。
水の流れる音。
紫乃の柔らかな指示。
八重乃の穏やかな声。
それらも少しずつ遠ざかり、客間の中には夜の空気だけが残った。
フィリアは布団の横に正座し、端末を開いていた。
レイアーツデバイスはすぐ手の届く場所に置いてある。
その隣には、持ち込んだ簡易観測端末。
半精化反応、マギアス反応、
周辺の未分類マナ反応を記録するためのものだった。
定時報告の時間。
フィリアは表示を確認してから、通信を繋いだ。
数秒後、画面にリヴァルが映る。
背後にはオペレーション室の灯りがあった。
『時間通りだね』
「はい。定時報告です」
フィリアは端末の記録を送信する。
「現地での簡易観測、現在まで異常反応はありません。
半精化反応なし。
マギアス反応なし。
未分類のマナ反応も、警戒値には達していません」
『確認した』
リヴァルは送られたログを見ながら答える。
『九尾の街は地脈や湯脈の影響が強い。
微弱なノイズは出るだろうけど、現時点では異常とは扱わない』
「はい。今後も簡易観測を続けます」
『観測装置の充電だけ忘れないように』
「はい」
『それ以外は、そこまで気を張らなくていい』
フィリアは少しだけ目を瞬かせた。
「いいんですか?」
『いい。いつ何が来るかは分からない。
だからこそ、常に最大緊張でいると先に君が消耗する』
リヴァルの声はいつも通り淡々としていた。
けれど、少しだけ柔らかい。
『こちらでも動きがあった。
リオンがもう一体、半精化疑い個体を捕縛している。
シェスターとイルルも一体の捕縛に成功した』
「シェスターさんとイルルさんも」
『うん。
正式な解除にはライトが必要だが、一時捕縛と抑制はできている。
今のところ、こちらの心配はいらない』
フィリアは胸の奥にあった力が、少しだけ抜けるのを感じた。
シェルターを離れている。
自分が狙われている。
半精化兵が現れるかもしれない。
それを考えないようにしていたわけではない。
考えていた。
ずっと。
「でも、私がいないと解除は」
『必要なら呼ぶ。輸送手段もある。
今すぐ君が戻らないと成立しない状況ではない』
リヴァルは一度、画面越しにフィリアを見た。
『フィリア。君がそこにいる理由は、狙われているからだけじゃない』
「はい」
『武芸者の生活を見るいい機会でもある。
翠川家とアドレメリア家がどう戦い、どう食べ、どう休むのか。
見ておいて損はない』
フィリアは今日の食事を思い出した。
唐揚げ。
鍋。
シチュー。
白飯。
パン。
織葉とクリスティナの食べる量。
門下生たちの勢い。
叢雲とレオの親バカ騒音。
紫乃と八重乃の手際。
「……かなり、見ています」
『ならいい』
リヴァルは短く言った。
『少し気を休めてきて。観測は続ける。
異常があれば報告する。それで十分だ』
「はい」
フィリアは頷いた。
「リヴァルさんも、休んでください」
『必要な範囲で休む』
「それ、休まない人の言い方です」
『検討する』
「検討じゃなくて」
『定時報告は受け取った。
明日の手合わせも、記録できる範囲で見ておいて。
戦闘データとしてではなく、君の勉強として』
「はい」
『おやすみ、フィリア』
「おやすみなさい」
通信が切れた。
客間はまた静かになる。
フィリアは端末を閉じ、簡易観測端末の充電状態を確認した。
残量は十分。
予備バッテリーもある。
異常反応はない。
半精化反応も、マギアス反応もない。
フィリアは小さく息を吐いた。
少し気を休めてきて。
リヴァルの言葉を、胸の中で繰り返す。
ここに来たのは、守られるためだけではない。
見るため。
知るため。
織葉やクリスティナが、どんな場所で育ったのか。
武芸者たちが、どう稽古し、どう食べ、どう笑うのか。
それを知ることにも、きっと意味がある。
フィリアは端末を枕元に置いた。
明日は正式な手合わせ。
翠川とアドレメリア。
織葉とクリスティナ。
今日よりもっと、きっと見えないものが増える。
けれど、分からないなら、分からないまま見る。
分かったふりをしない。
八重乃の言葉を思い出しながら、フィリアは布団の上に手を置いた。
その頃。
翠川家の縁側には、織葉とクリスティナが並んで座っていた。
空は暗い。
星はほとんど見えない。
闇の霧の薄い層と、温泉街の灯りが、夜空の奥行きを曖昧にしている。
赤い鳥居の影。
湯気の白。
遠くの狐像に当たる街灯。
夜の街は静かだが、完全な闇ではなかった。
織葉は湯呑を両手で持っている。
クリスティナも、同じように茶を飲んでいた。
しばらく、二人とも黙っていた。
先に口を開いたのは、クリスティナだった。
「織葉ー」
「なんや」
「明日の試合、あんまり自信ないな」
織葉は湯呑を口元へ運びかけて、少し止めた。
「なんや今更。
ちゃんとアドレメリアの次期当主らしい試合したらええねん。
勝ち負けとちゃう」
「いやー、それはそうなんだけどさ」
クリスティナは縁側の先、暗い庭を見る。
「やっぱ実戦経験値が全然違うなって思ったんだよねー」
「実戦経験?」
「うん。今日の手合わせの時、色々気になってさあ」
織葉は茶を飲む。
「それは突きが主力の武器の差ちゃうの。
加減せんと、訓練用言うても怪我するしなあ」
「やっぱちゃんと突けてなかった?」
「アンタがあの程度なんて、微塵も思てへん」
織葉は即答した。
「試合の時は、ちゃんと突いてき」
クリスティナは眉を下げる。
「刺さんない?」
「そない簡単に刺さるかい」
「まあ、そっか」
「真剣でもそう簡単に突かせるつもりあらへんわ」
「真剣はさすがにやだなあ……」
クリスティナは湯呑を両手で包む。
「訓練用でも結構気つかうんだよ? 突きってさあ。
ちゃんと入ると危ないし、でも抜くと稽古になんないし」
「それはこっちも同じや」
織葉は庭を見たまま言う。
「木刀でも、当たりどころ悪かったら骨いく。
せやけど、中途半端に加減するほうが危ないこともある」
「そーゆーもん?」
「そういうもん」
クリスティナは少し黙った。
それから、湯呑を傾ける。
「ふーん……」
織葉は横目でクリスを見る。
普段のクリスティナなら、もっと軽く流す。
お嬢様の顔で笑って、ギャルの顔で茶化して、最後は勢いで押し切る。
けれど今は、珍しく迷っていた。
明日の手合わせは、ただの勝負ではない。
翠川とアドレメリアの門下が見る。
叢雲が見る。
レオが見る。
紫乃が見る。
八重乃が見る。
フィリアも見る。
そして、織葉とクリスティナは、互いを知っている。
だからこそ、雑にはできない。
手を抜けば分かる。
恐れても分かる。
隠しても分かる。
織葉は茶を置いた。
「クリス」
「んー?」
「明日は、ちゃんと来て」
クリスティナが織葉を見る。
織葉は前を見たまま続ける。
「お嬢様らしい綺麗な試合せえ、言うてへん。
アドレメリアの次期当主として、アンタが出せるもんを出してき」
「……織葉、京都弁強めじゃん」
「身内しかおらん」
「フィリアちゃんいるよ?」
「おらんやろ、ここには」
「まあね」
クリスティナは小さく笑った。
織葉もほんの少しだけ口元を緩める。
「アンタがちゃんと突いてきたら、うちもちゃんと抜く」
「怖」
「怖がるような仲ちゃうやろ」
「それもそっか」
クリスティナは足を軽く揺らした。
「織葉ってさ、そういうとこ雑に男前だよね」
「褒めとる?」
「たぶん」
「たぶんかい」
二人は少し笑った。
夜風が縁側を通る。
温泉街の灯りが、庭の木々の影を揺らす。
星は見えない。
それでも、夜は悪くなかった。
クリスティナは湯呑の中を覗き込む。
「でもさ、真剣を振るうために訓練してるっていうのは分かるんだけど」
「うん」
「真剣って、やっぱ気つかうよ。訓練用と違ってさ。相手の人生まで乗るじゃん」
織葉は少し黙った。
「乗るな」
「だから、たまに思うんだよね。あたし、ちゃんと振れるのかなって」
「振れな話にならんやろ」
織葉は厳しく言った。
だが、声は冷たくない。
「振らなあかん時のために、今こうして稽古しとる。
けど、振るためだけに稽古しとるんとちゃう。
振らんで済む距離も、止める加減も、全部覚えるためや」
クリスティナは静かに聞いていた。
織葉は続ける。
「中途半端に怖がったら、相手も自分も怪我する。
せやから、明日はちゃんと来て。
うちもちゃんと受ける」
「……おっけー」
クリスティナは息を吐いた。
「それじゃ、明日はちゃんと突く」
「そうして」
「刺さんない程度に」
「そない簡単に刺さらん言うてるやろ」
「いや、念のため」
「念じる前に寝え」
クリスティナは笑った。
「織葉、明日勝つ気ある?」
「あるに決まっとるやろ」
「だよねー」
「アンタは?」
「あるよ。普通に」
「ならええ」
二人はまた茶を飲んだ。
しばらく、何も言わなかった。
勝ち負けではない。
それは本当だ。
けれど、勝ちに行かない試合をするつもりもない。
織葉も、クリスティナも、それを分かっている。
だから明日は、きっと本気に近い。
訓練用の得物で。
門下の前で。
親たちの前で。
互いの家の名を背負って。
そして、友人として。
クリスティナが湯呑を置き、立ち上がる。
「じゃ、寝るわ」
「明日はちゃんと起きや」
「起きるって」
「昨日の飯の量で寝坊したら笑うで」
「あれは織葉も同じくらい食べてたじゃん」
「うちは起きる」
「自信すご」
「寝坊せんだけや」
クリスティナは軽く手を振った。
「おっけー。それじゃ、また明日ね」
織葉も湯呑を置く。
「また明日」
クリスティナが廊下の奥へ歩いていく。
織葉はもう少しだけ縁側に残った。
星のない空を見る。
闇の霧と街の灯りに消された夜空。
その下で、赤い鳥居だけが、ぼんやりと浮かんでいる。
明日の手合わせ。
フィリアの持ち込んだ端末。
九尾の街。
封印反応候補。
織葉は静かに息を吐いた。
そして立ち上がる。
明日は、ただの稽古で終わらないかもしれない。
それでも、まずは眠る。
ちゃんと振るために。
ちゃんと止めるために。
ちゃんと勝ちに行くために。




