五章 五話
人輸送用ドローンの扉が開く。
最初に降りたのは織葉だった。
庭先の砂利を踏む音が、小さく鳴る。
続いてクリスティナ。
紫乃。
最後にフィリアが降り立つ。
ドローンの駆動音が落ちていくと、周囲の音が戻ってきた。
木刀が空を切る音。
遠くから聞こえる掛け声。
稽古用細剣が防具を叩く軽い音。
温泉街の方から流れてくる、人々の声と湯気の匂い。
翠川家の敷地は、街の一角にありながら、
そこだけ時間の進み方が違うようだった。
高い塀。
古い門。
手入れされた庭。
奥に見える大きな道場。
その道場の前には、翠川側の門下生と、アドレメリア側の門下生が並んでいた。
木刀袋を持つ者。
稽古用細剣のケースを抱える者。
袴姿。
軽装防具。
和と洋が同じ庭先にあり、それを誰も不思議がっていない。
フィリアだけが、少し目を丸くしていた。
「よう参られた」
声がした。
門の内側から、一人の男が歩いてくる。
背は高い。
髪には白いものが混じっているが、背筋は真っ直ぐだった。
和装。
腰には長短二つのカタナアーツデバイス。
歩みにわずかな癖がある。
けれど、弱さには見えない。
むしろ、踏み出す一歩ごとに、周囲の空気が整っていくようだった。
翠川叢雲。
織葉の父。
紫乃の夫。
翠川家の武芸者。
織葉が深く一礼する。
「父上。ただいま戻りました」
叢雲は静かに頷いた。
「うむ。よく戻った、織葉」
その声は低く、重い。
まさしく時代劇で見る武士のそれだった。
フィリアは思わず姿勢を正す。
叢雲の視線がフィリアに向いた。
「そちらが、フィリア殿にござるな」
「あ、はい。フィリア・レイフィールドです。本日は、お世話になります」
フィリアは慌てて頭を下げる。
叢雲は深く頷いた。
「遠路、よう参られた。翠川家は客人を粗略には扱わぬ。
安心して過ごされよ」
「は、はい」
言葉は穏やかだった。
けれど、重かった。
一言ごとに、背筋が伸びる。
フィリアは少し緊張した。
その横を、紫乃がすっと通り抜ける。
「叢雲さま」
声が変わった。
いつもの柔らかい声ではある。
しかし、甘い。
明らかに甘い。
紫乃は叢雲のすぐ傍へ寄り、自然な動きで腕に触れた。
「お迎え、ありがとうございます。今日も凛々しいですわ」
叢雲の動きが止まった。
「紫乃。客人の前である」
「客人の前でも、凛々しいものは凛々しいですもの」
「む……」
叢雲は視線を少しだけ泳がせた。
さっきまでの威厳が、ほんの少し揺らぐ。
紫乃は楽しそうに微笑んでいる。
「お足の具合はいかがです?」
「問題ない」
「本当に?」
「問題ない」
「無理をなさっていません?」
「しておらぬ」
「なら、よろしいですわ」
紫乃はそう言いながら、叢雲の腕から離れない。
フィリアは固まった。
織葉は目を伏せた。
クリスティナはそっと視線を逸らした。
門下生たちは、誰も驚いていない。
むしろ、翠川側の門下生の何人かは、静かに目を伏せていた。
見てはいけないものを見る時の作法のようだった。
フィリアは小声で織葉に尋ねる。
「いつも、こうなんですか」
織葉は即答しなかった。
少しだけ間を置いて、答える。
「母上は、父上を深く敬愛しております」
「敬愛」
「敬愛です」
紫乃がくすりと笑う。
「織葉ちゃん、言葉を選ばなくてもいいのよ」
「選ばせてください」
叢雲が咳払いをした。
「紫乃」
「あら、ごめんなさいませ」
紫乃はようやく一歩離れた。
ただし、距離は近いままだった。
叢雲は改めてクリスティナを見る。
「クリスティナ殿も、よう参られた」
クリスティナは優雅に会釈する。
「お招きいただき、感謝いたしますわ。叢雲様」
「うむ。アドレメリアの剣、此度も楽しみにしておる」
「こちらこそ。翠川の剣に学ばせていただきますわ」
その挨拶は美しかった。
礼儀正しく、品がある。
だが、次の瞬間、門の奥から別の声が響いた。
「クリスティナ!」
フィリアは振り向いた。
道場の方から、レオ・アドレメリアが歩いてくる。
銀を帯びた髪。
整えられた口髭。
上品な服装。
その後ろには、アドレメリア側の門下生たちが控えている。
レオは優雅に歩いていた。
優雅に歩いていたが、顔は完全に父親だった。
「よく来た、我が娘よ。
うむ、よい顔をしている。
遠征続きで疲れているかと案じていたが、目の輝きは衰えておらぬな」
「お父様」
クリスティナの声が少し低くなる。
「門下の皆様の前ですわ」
「無論、承知しているとも。
だからこそ言うのである。
アドレメリアの門下よ、見るがよい。
これが我が娘、クリスティナ・アドレメリアである」
アドレメリア側の門下生たちは、綺麗に目を伏せた。
翠川側の門下生たちと、まったく同じ動きだった。
どうやら、両家共通の作法らしい。
レオは続ける。
「剣は美しく、踏み込みは華麗。しかも日々研鑽を怠らぬ。
まさにアドレメリアの花である」
「お父様」
「恥じることはない。事実である」
クリスティナは目を閉じた。
その表情は、戦場で半精化兵と向き合った時よりも疲れて見えた。
叢雲が静かに頷く。
「確かに。クリスティナ殿の剣筋は、年々冴えておる。
花と称するに相応しかろう」
レオの目が輝いた。
「分かるか、叢雲殿」
「無論」
織葉が小さく息を吸った。
嫌な予感を察した顔だった。
叢雲は続けた。
「だが、我が娘、織葉の居合もまた雷光の如し。
一度抜けば、相手は斬られたことすら気づかぬ」
「父上」
今度は織葉が低い声を出した。
叢雲は聞いていない。
「幼き頃より、あの子は刃の道を歩んできた。
無論、親の欲目を抜きにしても才はある。
いや、親の欲目を抜く必要がどこにあろうか。
事実、才があるのだ」
「父上」
「織葉の踏み込みは静。されど抜刀は雷。
まさしく翠川の剣を継ぐ者に相応しい」
レオが感心したように頷く。
「ほう。そこまで言われては、こちらも黙ってはおれぬな」
「何」
叢雲の目が鋭くなる。
レオは微笑んだ。
「クリスティナの踏み込みもまた、静から動へ移る一瞬が美しいのである。
あの子の剣は花に似ているが、ただ咲くだけではない。
咲いた瞬間、敵の構えを崩す」
「なるほど」
叢雲は真剣に頷く。
「それは見事」
「見事であろう」
「されど、織葉の抜刀は構えを崩す前に終わる」
「ふむ。ならば、クリスティナの突きは終わったと思わせた後に咲く」
「ほう」
「ふむ」
二人の間に、妙な緊張が生まれた。
だが、それは殺気ではない。
親バカの張り合いだった。
フィリアは、何を見せられているのか分からなくなってきた。
紫乃は楽しそうに叢雲の隣で微笑んでいる。
「叢雲さま、織葉のことを褒める時も素敵ですわ」
「紫乃、今は武の話をしておる」
「ええ。叢雲さまが武の話をしているところが素敵なのです」
叢雲がまた止まった。
「む……」
織葉が顔を覆いかけ、途中で武家の娘として耐えた。
クリスティナはすでに片手で額を押さえていた。
レオは気にせず続ける。
「しかし、織葉嬢の居合も実に見事である。
先日の報告でも、半精化兵を雷で押さえたと聞いた」
叢雲の目がさらに輝いた。
「聞かれたか」
「聞いたとも」
「ならば語らねばなるまい。
織葉は幼き頃より、雷を刃に乗せる才があった。
初めて木刀を握った日も、構えに迷いがなかった」
「父上、それは誇張です」
「誇張ではない。父は覚えている」
「私は覚えておりません」
「ならば、父が覚えていよう」
レオが深く頷く。
「分かる。
実によく分かるぞ、叢雲殿。
クリスティナが初めて稽古用細剣を握った日、
あの小さな手で真っ直ぐに構えた姿を、
私は今でも鮮明に覚えている」
「お父様、私は転びましたわ」
「転んでも細剣を離さなかった」
「それは、離すと怒られると思ったからですわ」
「責任感である」
「違いますわ」
叢雲が感銘を受けたように頷く。
「幼き身で得物を離さぬとは、見事な心構え」
クリスティナが織葉を見る。
織葉もクリスティナを見る。
二人の視線が一致した。
助けてほしい。
だが、互いに助けられない。
フィリアは、その二人を見て思った。
この親あって、この子あり。
言葉にはしなかった。
言葉にしたら、何かが終わる気がした。
レオと叢雲の親バカ騒音は止まらない。
「クリスティナの剣は、華やかさの中に芯がある」
「織葉の剣は、静けさの中に雷がある」
「よき娘を持ったものだな、叢雲殿」
「そちらこそ、レオ殿」
「まったく、親とは困ったものだ」
「うむ。娘の才を語るに、時間が足りぬ」
「足りぬな」
「足りませぬな」
二人は深く頷き合った。
門下生たちは、完全に作業を停止していた。
翠川側も、アドレメリア側も、誰一人として口を挟まない。
ただ静かに、嵐が過ぎるのを待っている。
フィリアは小声で紫乃に尋ねた。
「止めなくていいんですか」
紫乃はにっこり笑う。
「今止めると、後でまた始まるわ」
「今、止めないと長くなりませんか」
「もう長いから同じよ」
「同じなんですか」
「ええ」
紫乃は叢雲を見つめたまま言う。
「それに、叢雲さまが楽しそうだから」
フィリアは、止める人がいない理由を理解した。
この場で最も止められそうな人が、止める気を持っていなかった。
織葉が耐えきれず、一歩前に出る。
「父上。そろそろ稽古の準備を」
叢雲ははっとした。
「む。そうであったな」
クリスティナもすかさず続く。
「お父様、門下の皆様も待っておりますわ」
レオも咳払いをした。
「うむ。そうであるな。
親として娘の成長を語ることも大切だが、稽古もまた大切である」
「前者は今でなくてもよろしいかと」
クリスティナが言う。
レオは真面目な顔で首を振った。
「今でなければ語れぬこともある」
「ありませんわ」
叢雲が頷く。
「ある」
織葉が即座に言う。
「ありません」
二人の娘の声が、綺麗に重なった。
その場に、短い沈黙が落ちる。
紫乃が楽しそうに笑った。
「仲良しねえ」
「どこがですの」
「どこがですか、母上」
クリスティナと織葉の声が、また重なった。
門下生の中から、わずかに笑いを堪える気配がした。
叢雲がそちらを見た瞬間、全員が姿勢を正した。
レオがアドレメリア側の門下を見ても、同じことが起きた。
フィリアは、ここが本当に稽古場なのだと改めて思った。
変な人は多い。
かなり多い。
けれど、全員がこの場の空気を知っている。
礼を知り、武を知り、そのうえで親バカ騒音をやり過ごす術も知っている。
翠川家。
アドレメリア家。
二つの武芸者の家。
その合同稽古は、まだ始まってすらいなかった。
「では、始めるとしよう」
叢雲の声が庭先に通った。
その一言で、場の空気が変わる。
さきほどまで目を伏せ、
親バカ騒音が過ぎるのを待っていた門下生たちが、一斉に姿勢を正した。
翠川側の門下は木刀を手にする。
アドレメリア側の門下は、先端の丸い稽古用細剣を取り出す。
防具の留め具を確認する音。
木刀を握り直す音。
砂利を踏む音。
道場の戸が開かれ、板張りの稽古場へ人の流れが移っていく。
フィリアも紫乃に促されて、道場の端へ移動した。
「まずは、頭目同士の挨拶ね」
紫乃が言う。
「挨拶、ですか?」
「ええ。武芸者の挨拶」
その言い方に、フィリアは少し嫌な予感がした。
道場の中央で、叢雲とレオが向かい合う。
叢雲の手には、稽古用の木製二刀。
長い木刀と、短い木刀。
対するレオは、先端を丸めた稽古用細剣を一本。
どちらも真剣ではない。
殺傷用でもない。
けれど、それを持った瞬間、二人の空気が変わった。
叢雲は静かに腰を落とす。
足の運びには、確かにわずかな癖がある。
片脚に古い傷があることは、フィリアも聞いていた。
だから今さら驚く話ではない。
そのはずだった。
「始め」
八重乃ではなく、門下の一人が合図を出した。
次の瞬間、フィリアは息を呑んだ。
叢雲が消えたように見えた。
いや、消えたのではない。
一歩。
ただ一歩、踏み込んだだけ。
けれど、間合いがおかしい。
遠かったはずの距離が、一瞬で詰まる。
レオの細剣が前へ伸びる。
鋭い突き。
それを叢雲の短い木刀が横から払う。
乾いた音。
同時に、長い木刀がレオの肩口へ走る。
レオは半身をずらす。
上品な動き。
だが、その足さばきは戦場のものだった。
細剣が戻り、叢雲の喉元へ向かう。
叢雲は退かない。
むしろ、わずかに吸い込むように身体を寄せた。
空気が鳴った。
フィリアには、本当に一瞬、道場の中央だけ空気が薄くなったように見えた。
「今の……」
「父上の空真です」
織葉が静かに言った。
「真空を使い、間合いをずらします」
「ずらす……?」
「相手の踏み込みを吸う。
こちらの間合いへ引き込む。
あるいは、こちらの一歩を本来より遠くへ届かせる」
フィリアは道場の中央を見る。
叢雲の木刀が横へ走る。
レオの細剣がその隙を縫う。
打ち合いは軽い。
本当に軽いのだろう。
門下生たちも、織葉もクリスティナも、それを稽古前の挨拶として見ている。
けれど、フィリアには十分すぎた。
木刀と稽古用細剣が触れるたびに、音が道場の空気を切る。
足音は少ない。
なのに、距離は変わる。
叢雲の周囲に引き寄せられるように、レオの細剣が入り込む。
レオはそれを嫌がるどころか、楽しむように突きを重ねる。
長い木刀が弧を描く。
細剣が点を穿つ。
短い木刀が点を払う。
二人の動きはまったく違う。
けれど、同じものを見ている。
相手の呼吸。
相手の重心。
相手の次の一手。
そのさらに先。
「相変わらず、嫌な間合いであるな、叢雲殿」
レオが笑いながら言う。
「貴殿の突きも、相変わらず目に悪い」
叢雲も低く返す。
「見えたと思うた時には、すでに来ておる」
「褒め言葉として受け取ろう」
「褒めておる」
「ならば、こちらも返礼せねばなるまい」
レオの足が滑るように前へ出た。
細剣がまっすぐ伸びる。
叢雲は短い木刀で払おうとする。
だが、その前にレオの手首がわずかに角度を変えた。
突きの軌道が曲がる。
フィリアの目では追いきれなかった。
叢雲の長い木刀が、ぎりぎりで細剣を弾く。
その瞬間、叢雲の短い木刀がレオの脇腹の手前で止まった。
同時に、レオの細剣の先も、叢雲の脚の横で止まっていた。
止まった。
二人とも、寸前で。
道場の空気が静まる。
門下生たちは息を止めていた。
それから、叢雲とレオが同時に得物を下ろす。
「見事」
「そちらこそ」
二人は何事もなかったように笑った。
門下生たちが一斉に礼をする。
フィリアも遅れて頭を下げた。
だが、胸の鼓動がまだ速い。
軽い打ち合い。
挨拶。
そう言われた。
それでも、フィリアには十分すぎるほど異常に見えた。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
紫乃が横で微笑む。
「でしょう?」
「脚の古傷があるって、聞いていました。でも……」
フィリアは叢雲を見る。
叢雲は木製二刀を門下へ返している。
歩みに癖はある。
確かにある。
だが、打ち合いの中では、それが不利に見えなかった。
「全然、動けないようには見えませんでした」
叢雲がその言葉を聞き、こちらを向いた。
「長く駆ける戦には向かぬ」
静かな声だった。
「されど、間合いの内ならば、まだ若い者に譲るつもりはござらん」
「十分すぎるほど動いていましたわよ」
クリスティナが言う。
レオも頷く。
「その脚を傷つけた私が言うのも何だが、叢雲殿の間合いはいまだ厄介である」
フィリアは固まった。
「え」
叢雲は平然と返す。
「貴殿の脇腹も、雨の日には疼くと聞いたが」
レオは愉快そうに笑った。
「疼くとも。あの一太刀は見事であった。笑うだけで痛んだ時期もある」
「仕留めたと思うたのだがな」
「私も、貴殿の脚を止めたと思ったのだがな」
「止まってはおらぬ」
「見れば分かる」
二人はまた笑った。
フィリアは、二人を交互に見た。
「えっと……お互いに、傷を?」
「若き日の稽古である」
叢雲が言う。
「稽古」
「少々、熱が入りすぎた」
レオが補足する。
「少々である」
叢雲も頷く。
フィリアは織葉を見る。
織葉は静かに目を伏せた。
クリスティナも、遠くを見るような顔をしている。
おそらく、これはこの家々における普通ではない。
だが、珍しくもない話なのだ。
「悪い思い出ではないのですか」
フィリアが尋ねる。
レオは不思議そうに目を瞬かせた。
「悪い?」
叢雲も首を傾げる。
「何故に」
フィリアは言葉に詰まる。
一生残る傷を互いにつけた。
普通なら、悪い思い出になってもおかしくない。
少なくとも、笑って話すことではない。
だが、二人の表情には恨みがない。
後悔もない。
あるのは、懐かしさと敬意だけだった。
レオは細剣を門下に返しながら言う。
「全力で届いた一撃である。恨む理由がなかろう」
叢雲も頷いた。
「相手が見事であった。ただそれだけの話」
「当時の我々は若かった」
「今も若いつもりでござるが」
「それは失礼。では、今よりさらに若かった」
「うむ」
二人は納得したように頷き合った。
フィリアは、ますます分からなくなった。
武芸者。
その言葉で片付けるには、あまりにも感覚が違う。
紫乃が叢雲の傍へ寄る。
「叢雲さま」
「む」
「今でも素敵ですけれど、脚に無理はなさらないでくださいませね」
「紫乃。稽古場である」
「稽古場でも、心配なものは心配ですもの」
叢雲の顔がわずかに固まる。
先ほどまでレオと打ち合っていた時より、明らかに動揺していた。
「心配は無用」
「本当に?」
「本当である」
「では、後でお茶を淹れますね。
温かいものを飲んで、少し休んでくださいませ」
「……うむ」
紫乃は満足そうに微笑んだ。
織葉は顔を伏せる。
「母上……」
「何かしら、織葉ちゃん」
「いえ。何も」
クリスティナは小声でフィリアに言う。
「紫乃様は、叢雲様が関わると大変お強いですわ」
「普段からお強いと思います」
「種類が違いますの」
フィリアは、少しだけ分かった気がした。
叢雲とレオは、互いに傷を残すほど打ち合って笑う。
紫乃は、その叢雲を深く愛し、当然のように寄り添う。
織葉とクリスティナは、それを見て恥ずかしそうにしている。
門下生たちは動じない。
この場にいる武芸者たちは、どこかおかしい。
強さの基準も、親愛の示し方も、思い出の扱い方も。
フィリアがその事実を飲み込みかけた時、道場の奥から柔らかな声がした。
「まあまあ」
その声は大きくなかった。
けれど、不思議と道場全体に届いた。
門下生たちが一斉に姿勢を正す。
叢雲も、レオも、自然とそちらを向いた。
奥の廊下から、一人の老婦人が歩いてくる。
白髪を綺麗にまとめ、落ち着いた和装を身にまとっている。
小柄に見える。
だが、姿勢に隙がない。
歩くたび、庭に風が通るような静けさがあった。
翠川八重乃。
織葉の祖母。
叢雲の母。
紫乃の義母。
「若い頃の話を、客人の前で楽しそうに咲かせていたようですねえ」
八重乃は穏やかに笑う。
叢雲がわずかに姿勢を正した。
「母上」
レオも丁寧に頭を下げる。
「八重乃殿。ご無沙汰しております」
「ええ、レオ殿。よう来なさった」
八重乃はフィリアへ視線を向けた。
その目は優しい。
本当に優しい。
けれど、フィリアはなぜか背筋を伸ばした。
「あなたが、フィリアさんですねえ」
「は、はい。フィリア・レイフィールドです」
「遠いところをよう来なさった」
八重乃は柔らかく頷いた。
「ここは武芸者が多くて、少し騒がしいでしょう」
フィリアは返答に迷った。
否定した方がいいのか。
肯定していいのか。
紫乃が楽しそうに見ている。
織葉とクリスティナは、どちらも目で助けてくれない。
フィリアは正直に答えた。
「少し……驚きました」
八重乃は嬉しそうに笑った。
「正直でよろしい」
その言葉に、レオがふとフィリアを見る。
「ふむ。フィリア嬢」
「はい」
「せっかくである。見学だけでは退屈であろう。
稽古用の細剣を持ってみるかね」
フィリアは固まった。
「え」
レオはアドレメリア側の門下へ手を向ける。
門下の一人が、先端を丸めた訓練用レイピアを差し出そうとした。
「軽いものを選ばせよう。
突きの感覚を知るだけでも、距離の取り方は変わる。
君はガンアーツを扱うと聞いている。
ならば、点で間合いを見る感覚は悪くないはずである」
「い、いえ、私は今日は見学で」
「最初は皆そう言う」
叢雲がそこで静かに口を挟んだ。
「待たれよ、レオ殿」
「何かね、叢雲殿」
「初めて得物を持つならば、まず木刀がよかろう」
叢雲が翠川側の門下へ目を向ける。
今度は木刀が用意されかけた。
フィリアはさらに固まった。
「構えは足腰より始まる。
細剣の点を学ぶ前に、まずは線を知るべきでござる」
レオは首を振る。
「いや、フィリア嬢の体格と所作を見るに、
重い木刀より軽い細剣の方が入りやすい。
まずは恐怖を覚えさせぬことが肝要である」
「木刀が恐怖とは限らぬ」
「初手で木刀を持たされる客人の気持ちを考えたまえ」
「初手で細剣を向けられる客人の気持ちも考えられよ」
「向けるとは言っておらぬ。持たせるだけである」
「持たせれば構えを見る」
「構えを見れば助言する」
「助言すれば一手交える」
「それは自然な流れである」
「やはり危険ではござらんか」
フィリアは二人を交互に見た。
言い合っている。
自分を稽古に参加させるかどうかで。
しかも、どちらも止める方向ではない。
木刀か。
訓練用レイピアか。
それだけを真剣に争っている。
「私は本当に、今日は見学で……」
声は小さく消えた。
聞こえていない。
織葉が目を伏せる。
クリスティナも額に手を当てる。
紫乃はにこにこしている。
「まあ、フィリアちゃんは人気者ね」
「人気者という話なんでしょうか」
フィリアが困った声で返した時、八重乃が静かに手を叩いた。
ぱん、と乾いた音が道場に響く。
それだけで、叢雲とレオが止まった。
「叢雲。レオ殿」
八重乃の声は柔らかい。
けれど、誰も逆らえない。
「よい芽を見つけたからといって、いきなり引っ張っては根が傷みますよ」
叢雲が姿勢を正す。
「母上、拙者はただ基礎を」
「引っ張っています」
レオが咳払いをする。
「私は彼女の適性を」
「引っ張っています」
二人は黙った。
八重乃はフィリアへ向き直り、申し訳なさそうに微笑む。
「すまんねえ、フィリアさん。武芸者は、
よい芽を見るとすぐ鍬を持ちたがるのです」
「鍬……」
「今日は見学でよろしい。土に慣れるだけの日も、大切ですからねえ」
フィリアはようやく息を吐いた。
「ありがとうございます」
八重乃は穏やかに頷いた。
「どういたしまして」
そして、叢雲とレオを見る。
「親たちの自慢話と稽古話は、根を張りすぎると場所を取ります。
まずは本来の稽古を始めましょう」
レオと叢雲が、同時に小さく咳払いをした。
稽古が始まると、道場の空気はさらに変わった。
親バカ騒音も、古傷の思い出話も、
フィリアへ木刀や訓練用レイピアを持たせようとした騒ぎも、
すべて稽古の音に飲まれていく。
木刀が打ち合う乾いた音。
稽古用細剣が防具を叩く軽い音。
足裏が床を踏む音。
息を吐く音。
号令。
礼。
翠川側の門下と、アドレメリア側の門下が、
順番に織葉とクリスティナへ挑んでいく。
織葉は木刀を手に、ほとんど動かない。
相手が踏み込む。
打ち込む。
その瞬間、織葉の木刀がわずかに動き、
相手の手首、肩、膝、重心のいずれかを崩す。
派手な音はない。
だが、門下生は確実に止められる。
一歩も引かない。
必要なだけ、ずらす。
必要なだけ、落とす。
必要なだけ、止める。
「踏み込みが浅いです」
織葉が静かに言う。
「腕で振っています。足から出してください」
門下生が礼をする。
「はい!」
別の門下が出る。
また止まる。
「焦りましたね。焦ると肩が上がります」
「はい!」
その横では、クリスティナが訓練用レイピアを構えていた。
こちらは動きが華やかだった。
一歩引く。
半身をずらす。
細剣が弧を描くように相手の突きを逸らし、
次の瞬間には相手の胸元でぴたりと止まる。
「視線が正直ですわ」
クリスティナが微笑む。
「そこを見ていると、そこへ突くと宣言しているようなものです」
「はい!」
「足は悪くありません。ただ、最後の一歩で腰が逃げましたわね」
「はい!」
門下生たちは、次々に挑み、次々に止められ、次々に指摘を受けていく。
厳しい。
けれど、雑ではない。
一人ひとりの癖を見ている。
できているところも、足りないところも、逃さない。
道場の反対側では、叢雲とレオがそれぞれの門下を見ていた。
叢雲は木刀を持つ門下の足元を見る。
「左が遅い」
「はい!」
「打ち込みの前に心が出ておる。心が出れば、刃は遅れる」
「はい!」
「もう一度」
門下が構え直す。
叢雲は頷く。
「今の方がよい。だが、まだ刃が先に行きたがっておる。体を置いていくな」
一方、レオはアドレメリア側の門下の肩を軽く叩く。
「君は突きの直前に息を止める癖がある」
「はい、レオ様」
「止めるな。息を止めた瞬間、剣先も固まる。
細剣は固めるものではない。通すものだ」
「はい!」
「もう一度」
二人とも、先ほどまで娘自慢で騒いでいた人物と同じとは思えなかった。
いや、同じなのだろう。
娘の剣をあれほど語れるのは、それだけ剣を見ているからだ。
フィリアは道場の端で正座し、その様子を見ていた。
隣には八重乃が座っている。
背筋は伸びているのに、どこか柔らかい。
正座しているだけで、庭の古い木のような落ち着きがあった。
紫乃はその少し後ろで、水の入った器と、
軽い補給用の小さな握り飯や干した果物を用意している。
門下生が下がるたび、紫乃が自然な動きで水を渡す。
「はい、お水よ」
「ありがとうございます、紫乃様!」
「急いで飲まないの。喉だけじゃなくて、息も整えて」
「はい!」
別の門下には、軽食を渡す。
「あなた、少し顔色が白いわ。ひと口食べてから戻りなさい」
「でも、まだ」
「めっ、よ」
「はい!」
紫乃は笑っている。
だが、誰も逆らわない。
その手際は、あまりに自然だった。
稽古場の補給も、門下生の顔色も、叢雲の脚の様子も、
織葉とクリスティナの消耗も、すべて見ている。
フィリアはふと、紫乃が良妻だという話を思い出した。
家事。
洗濯。
炊事。
家の切り盛り。
義母である八重乃が文句の付け所もないと言うほどの人。
そして、愛情が深すぎる人。
紫乃が叢雲へ水を持っていく。
「叢雲さま」
「む」
「水分補給です」
「まだよい」
「よくありません」
「……うむ」
叢雲は素直に受け取った。
フィリアは、稽古中の叢雲より、紫乃の前の叢雲の方が隙だらけに見えた。
八重乃が隣でくすりと笑う。
「紫乃さんは、よく見てくれています」
「はい。すごいです」
「叢雲にはもったいないくらい」
その声は柔らかかった。
本当に柔らかかった。
だが、近くにいた叢雲の肩がわずかに揺れた。
聞こえていたらしい。
紫乃はにこにこと笑っている。
「八重乃さまったら」
「事実ですからねえ」
叢雲は何も言わず、水を飲んだ。
フィリアは、少しだけ笑いそうになった。
その時、八重乃が視線を道場へ戻したまま言った。
「退屈ではありませんか、フィリアさん」
「いえ、そんな」
フィリアは慌てて首を振る。
「見ているだけでも、すごく勉強になります。
織葉さんも、クリスさんも、叢雲さんも、レオさんも、皆さんすごくて」
「ええ。すごいでしょう」
八重乃は頷く。
「でも、ほとんど分からないでしょう」
フィリアは言葉を失った。
八重乃は責めているわけではない。
ただ、静かに事実を置いた。
フィリアは道場を見る。
織葉の木刀が相手の重心を崩す。
クリスティナの細剣が相手の視線を誘導する。
叢雲が門下の足を指摘する。
レオが呼吸を直す。
すごい。
それは分かる。
けれど、なぜそうなるのか。
どこを見て、何を判断し、どう正しているのか。
ほとんど分からない。
「……はい」
フィリアは小さく答えた。
「正直、すごいことしか分かりません」
「それでよろしいのです」
八重乃は微笑む。
「分からないものを、分からないと言えるのはよいことです。
分かったふりをすると、根が曲がりますからねえ」
フィリアは少しだけ肩の力を抜いた。
八重乃は続ける。
「では、少し昔話をしましょうか」
「昔話、ですか」
「ええ。道中で、九尾の話が気になっていたでしょう」
フィリアは反射的に外を思い出した。
赤い鳥居。
九尾の狐像。
温泉の湯気。
九尾神社。
紫乃が軽く流した言葉。
この辺りは九尾の街だから。
「はい」
フィリアは頷いた。
「気になっていました」
「なら、ちょうどよいですねえ」
八重乃は道場の外、庭の向こうに見える山へ視線を向けた。
翠川家の敷地の先。
温泉街の奥。
そこに、山がある。
青く、静かな山。
その頂上付近に、小さな社の屋根が見えた。
「この温泉街の隣にそびえる山は、昔は活火山でした」
フィリアは目を瞬かせる。
「火山……」
「ええ。今は休火山です。この千年、噴火はしていません」
千年。
その言葉に、フィリアは少し反応した。
千年前。
それは、ただ古いというだけの時間ではない。
今の世界がこうなる前。
魔族が歴史から消える前。
魔法がまだ当たり前にあった時代。
八重乃は静かに続ける。
「千年前、この街の基礎を作った者がおります」
「人、ですか?」
「人ではありません」
八重乃は穏やかに言った。
「魔族です」
フィリアは息を呑んだ。
魔族。
その言葉は、今の世界では歴史上のものだ。
物語の中の存在。
記録の中の存在。
けれど、フィリアたちはすでに知っている。
すべてが消えたわけではない。
名前や形を変え、どこかに残っているものがある。
「名を、灼将と伝えます」
八重乃の声は、道場の音に混ざっても消えなかった。
「灼将……」
「特殊な亜人の魔族だったそうです。
魔力を、その身に貯めることができた。
そして、貯めた魔力は九つの尾となって現れた」
フィリアは、街で見た狐像を思い出した。
九つの尾。
ただの装飾ではなかった。
「それが、九尾……」
「ええ」
八重乃は頷く。
「この街では、灼将の姿が九尾として残りました。
狐の石像も、赤い鳥居も、九尾神社も、その名残です」
フィリアは少し戸惑った。
「魔族を、信仰しているんですか」
「不思議な話でしょう」
八重乃は優しく笑う。
「けれど、この街がこうして豊かな温泉街になったのは、
その者のおかげなのです」
道場では、織葉がまた一人、門下の打ち込みを止めていた。
木刀の音が鳴る。
クリスティナの細剣が防具の前で止まる。
その音の向こうで、八重乃は昔話を続ける。
「昔、この山の火は荒かったそうです。
熱は強く、地は不安定で、人が暮らすには難しい土地だった」
フィリアは山を見る。
今は静かだ。
温泉街を見下ろし、湯気の向こうで青く眠っている。
「灼将は、その荒い火と熱を、自らの魔力で受け止めたと伝わっています」
「受け止めた……」
「ええ。
山の熱をただ抑え込むのではなく、流れを整えた。
人が暮らせる湯に変えた。
温泉として、街へ巡るようにした」
八重乃は庭の石灯籠の方を見る。
その先にも、小さな赤い鳥居が見えた。
「九つの尾は、貯めた魔力を逃がす器だったとも言われています。
あふれれば災いになる力を、尾に分け、地脈へ流し、湯脈へ変えた」
フィリアは黙って聞いていた。
魔族。
災い。
けれど、街を作った者。
人が暮らせる形に整えた者。
「その人……いえ、その魔族は、怖がられなかったんですか」
「怖がられたでしょうねえ」
八重乃はあっさり答える。
「九つの尾を持ち、山の火を抱える魔族です。怖くないはずがありません」
「でも、信仰が残った」
「怖いものを、ただ遠ざけるだけでは暮らせないこともあります」
八重乃の声は静かだった。
「この街の人々は、灼将を恐れ、頼り、感謝し、祀ったのでしょう。
魔族であっても、この土地を豊かにした者であることは変わりませんから」
魔族であっても。
フィリアはその言葉を胸の中で繰り返した。
魔族。
マギアス。
半精化。
異形。
敵。
戻せる者。
戻せないかもしれない者。
この街には、魔族をただ敵としてだけ見なかった記憶が残っている。
千年経っても。
鳥居として。
神社として。
狐像として。
温泉として。
「人と魔族が、一緒に暮らしていたんですか」
フィリアが尋ねる。
八重乃は頷いた。
「そう伝わっています。
灼将のもとには、人も魔族も集まった。
山の麓に街ができ、湯が流れ、道が作られた。
今の温泉街の形は、そこから始まったそうです」
「すごい……」
「ええ。すごいことです」
八重乃は穏やかに言う。
「今では、九尾まんじゅうや九尾ぬいぐるみの方が有名かもしれませんけれどねえ」
フィリアは少し笑った。
重くなりかけた話が、ふっと柔らかくなる。
「でも、それも残っているということですよね」
八重乃の目が細くなる。
「その通りです」
フィリアは街の景色を思い出す。
観光客。
電子看板。
土産物。
狐像。
赤い鳥居。
それらは軽く見える。
けれど、軽いものとして残ることも、消えないためには必要なのかもしれない。
「山頂には、社があります」
八重乃が言った。
「九尾神社の奥社です。興味があるなら、滞在中に参るとよいでしょう」
フィリアは山を見る。
青い山の頂上。
そこにあるという社。
千年前、灼将と呼ばれた魔族の記憶が残る場所。
「行っても、いいんですか」
「もちろんです」
八重乃は微笑む。
「ただし、山道ですからねえ。軽い気持ちで駆け上がる場所ではありません」
「はい」
「それに、参るなら一人ではいけません。翠川の者か、アドレメリアの者と一緒に」
フィリアは頷いた。
道場の中央で、織葉が木刀を下ろす。
クリスティナも稽古用細剣を構え直している。
叢雲とレオの指導の声が響く。
紫乃が水を配る。
門下生たちがまた挑む。
今の道場は、千年前の灼将とは直接関係ないのかもしれない。
それでも、フィリアには少しだけ繋がって見えた。
魔族をただ斬るだけではなかった土地。
異形を祀り、恐れ、感謝し、形を変えて残した街。
その一角にある、武芸者の家。
翠川家。
フィリアは膝の上のレイアーツデバイスへ手を置いた。
八重乃が、そっとその手元を見る。
「フィリアさん」
「はい」
「分からないものを、怖いと思うのは自然です」
八重乃は優しく言った。
「けれど、怖いからといって、すぐに切り捨てる必要はありません。
根を見れば、違うものが見えることもあります」
フィリアは静かに頷いた。
半精化兵の中に残っていた、人の反応。
ライトで照らした時に見えたもの。
それも、根のようなものだったのかもしれない。
「覚えておきます」
八重乃は満足そうに笑った。
「よろしい」
道場に、また木刀の音が響く。
温泉街の湯気が、庭の向こうで揺れている。
そのさらに奥で、九尾神社の赤い鳥居が、静かに山へ続いていた。




