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五章 四話

仮の多層警戒システムは、まだ完成品ではなかった。


一輝が組み上げたのは、

既存センサーのログを無理やり一つの画面に重ねた応急版だ。


マギアス反応。

生体反応。

熱。

音。


振動。

映像。

物理接触ログ。


それらをまとめて表示し、異常らしきものを拾う。


精度は高くない。

警報も粗い。


新センサーの正式開発には、時間がかかる。

なら、今できることから始めるしかない。


「外部映像線、北側搬入口、旧補助ライン。まずこの三か所っス」


一輝は工具箱を肩に掛けながら言った。

整備班と施設班が、その後ろに続く。


今日の作業は、防衛設備を完成させることではない。

外部接続部品が噛まされていないかを確認し、仮設センサーを追加する。

敵に触られていないか。


触られたなら、どこから触られたのか。

それを調べるための作業だった。


「リオンさん、護衛お願いするっス」


一輝が振り返る。

リオンはすでに外周装備を整えていた。

腰に収まる二丁のストライカーアーツデバイス。


ガンアーツとワイヤーアーツを兼ねる、複合アーツデバイス。


銃撃による牽制。

ワイヤー射出による機動。

そして、氷属性のマナアーツ。


それらを一つの戦闘動作の中で扱えるからこそ、

リオンは外部作業の護衛に選ばれていた。


「了解」


返事は短い。

作業班は、北側搬入口からシェルター外へ出た。


外は風が強かった。

壊れた路面。

古い防壁の残骸。

車両整備区画へ続く通路。


そこには、ガイが指摘していた通り、

車両の影と壁材の影が重なる死角がある。

監視映像だけでは拾いづらい場所だった。


一輝が膝をつき、映像線のカバーを外す。


「ここ、やっぱ古いっスね。外から噛まれたら気づくの遅れるっス」


整備班の一人が答える。


「補助ラインとして残したままでした。普段は使っていません」


「使ってない線が一番怖いっス。使ってないから誰も見ないんで」


リオンは会話を聞きながら、周囲を見ていた。


目だけではない。

足元の振動。

風の流れ。

遠くで転がる金属片の音。


仮設の多層警戒端末は、まだ頼りない。


なら、人間の感覚で補う。

リオンはそうしてきた。


前線に出る機会が少ない間も、やることは変わらない。


観察。

射撃。

ワイヤー機動。

捕縛。


凍結制圧。

軍人として、必要な準備を続ける。


出番がないなら、準備する。

それだけだった。

視界の端で、何かが動いた。

速い。


古い防壁の上を、黒い影が低く走る。


リオンは目を細めた。

山猫のような輪郭。

だが、小動物ではない。


低い姿勢で走ってなお、人間ほどの大きさがある。


耳のように伸びた突起。

しなやかな背。

壁材を掴む長い指。


第三東部避難シェルターの映像で見た、半精化兵に近い。

ただし、熊型や猟犬型とは違う。


正面から壊す形ではない。

見て、逃げて、戻るための形。

偵察型。


「作業中止」


リオンの声に、一輝が顔を上げた。


「え」


「全員、シェルター側へ下がれ」


次の瞬間、古い防壁の上から黒い影が跳んだ。

整備班の一人が反応するより早く、

リオンがストライカーアーツデバイスを抜く。


アイスバレット。

白い弾丸が、山猫型の前脚を撃った。


命中。

脚部が凍る。

だが、半精化兵は止まらない。


凍った外皮を力任せに砕き、空中で身体をひねる。


「うわっ、来たっス!」


一輝が工具箱を抱えて後退する。


リオンは二発目を撃った。

後脚。

凍結。

砕かれる。


しかし、着地が一瞬乱れた。

リオンはその隙に、ストライカーアーツデバイスからワイヤーを射出する。

先端が防壁に刺さる。


身体が引かれ、整備班と半精化兵の間へ滑り込む。


「一輝、作業班を戻せ」


「リオンさんは!」


「問題ない」


山猫型が低く唸る。

人の声が混じった、獣の呼吸。


リオンは二丁のストライカーアーツデバイスを構えたまま、冷静に見る。


速い。

正面から止める相手ではない。

追えば逃げる。

逃げ道を潰せば跳ぶ。


なら、地面と空中の両方を奪う。


「マナアーツ、アイシクル・サンカー」


リオンが空へ銃口を向けた。

氷の杭が、何もない空間に生まれる。


一つ。

二つ。

三つ。


透明な氷のアンカーが、空中に固定された。

リオンはそこへワイヤーを掛ける。

何もない場所に、機動の支点ができる。


山猫型が横へ跳んだ。

リオンは地面を走らない。


空中の氷杭へワイヤーを掛け、斜め上から軌道を変える。


半精化兵の背後へ回り込む。

アイスバレット。

前脚。

後脚。


肩。

凍る。

砕かれる。

また撃つ。


一発で止めるためではない。

砕かせるために撃っている。


凍らせるたびに、相手は力を使う。


砕くたびに、関節が鈍る。

山猫型が壁を蹴って跳んだ。


リオンは着地地点を読んで、地面へストライカーアーツデバイスを向ける。


「マナアーツ、ミラー・グランド」


地面が凍った。

ただの氷ではない。

鏡面のような、摩擦のない氷。


山猫型の爪が床を掴もうとする。


だが、掴めない。

着地した瞬間、四肢が滑った。

身体が低く流れる。


半精化兵はすぐに爪を氷へ突き立て、力任せに砕いた。

しかし、その一瞬で十分だった。

リオンは空中のアンカーへワイヤーを掛け、真横から撃つ。


アイスバレット。

後脚の関節。

山猫型が吠えた。

凍った関節を砕き、再び跳ぶ。


速い。

まだ速い。

だが、最初ほどではない。


作業班はすでに搬入口の内側へ退避していた。

一輝だけが隔壁の手前で端末を握っている。


「リオンさん、援護は!」


「不要」


「いやでも!」


「巻き込む」


一輝は歯を食いしばった。

正面火力なら、自分にもできる。

パイルで吹き飛ばすことはできる。


イグニッションで押し込むこともできる。

だが、この相手は違う。

撃ち抜くより、捕まえる方が難しい。


速度を読み、逃走経路を消し、殺さず封じる。

それは、一輝の得意分野ではない。


リオンの仕事だった。

山猫型が防壁を駆け上がる。

外へ逃げる気だ。


リオンは二丁のストライカーアーツデバイスを交差させる。


「マナアーツ、ゼロ・ブリザード」


白が広がった。

一瞬で、辺り一面が氷の霧に包まれる。


視界が消える。

風景が消える。


地面も壁も、敵も味方も、白の中に沈む。


だが、リオンは迷わない。

視界を消したのは自分だ。

山猫型の足音。

凍った地面を削る爪。


呼吸。

氷霧を割る気配。

それらが、位置を教える。


リオンは空中のアイシクル・サンカーへワイヤーを掛ける。

白い霧の中で、身体が無音に近い速度で移動する。

半精化兵が霧を抜けようとした。


その先に、リオンはすでにいた。


アイスバレット。

前脚。

肩。

後脚。


首ではない。

胸でもない。

殺す場所ではない。

止める場所。


山猫型が爪を振るう。

リオンはワイヤーで身体を引き、紙一重で避ける。


そのまま反対側の氷杭へ飛ぶ。

再び撃つ。

脚。

脚。


脚。

半精化兵は怒りに任せて凍結を砕く。


だが、砕くたびに動きが荒くなる。

偵察型の強みは、速さと逃走だ。

持久戦で正面から壊し合う形ではない。


リオンはそれを分かっていた。

だから、終始同じ場所を削る。

脚。

関節。


接地。

逃げるための能力。


山猫型が咆哮し、白い霧の中で跳んだ。

リオンは銃口を下げる。


「マナアーツ、クリーピング・セラル」


地面が鳴った。

氷が生える。

壁ではない。

柱でもない。


巨大な氷の塔が、地中から押し上がるように成長する。


一つ。

二つ。

三つ。

四つ。


山猫型の周囲を囲むように、氷塔が立ち上がる。


逃げ道が消える。

跳ぼうとした先にも、氷壁。

戻ろうとした背後にも、氷壁。


上へ抜けるには、すでに脚が鈍っている。


半精化兵が氷壁へ爪を立てる。

砕く。


だが、砕いた先から新しい氷が伸びる。

檻のように、四方が閉じていく。


リオンは氷霧の中から現れた。

距離は近い。

山猫型が最後の力で突進する。

リオンは避けない。


真正面から、二丁のストライカーアーツデバイスを向ける。


「マナアーツ、スカルプチャー」


白い冷気が、一点に集まった。

弾丸ではない。


彫刻刀のような冷気が、半精化兵の輪郭をなぞる。


脚から。

腰へ。

肩へ。

首元へは行かない。


呼吸を残す。

マギアス反応を残す。

人の反応を潰さない。

ただ、動きだけを奪う。


山猫型の身体が凍りついた。

前脚を伸ばした姿勢のまま、氷の中に固定される。

獣の顔が、氷越しにリオンを睨む。


リオンはストライカーアーツデバイスを下げた。


「捕縛完了」


氷霧が晴れていく。

一輝が隔壁の内側から顔を出した。


「……えげつな」


リオンは振り向く。


「何が」


「単独でやる量じゃないっス」


「相手が単独だった」


「そういう意味じゃないっス」


整備班の一人が、呆然と氷の檻を見る。

リオンはすぐに端末を開いた。


「主任、聞こえますか」


通信はすぐに繋がった。


『聞こえている。異常か』


「外部作業中に、半精化疑いの高速型を発見。

 捕縛しました。山猫型に近い個体です」


『負傷者は』


「負傷者はありません。作業班は退避済みです」


『対象は生存しているか』


「呼吸反応あり。マギアス反応も残っています」


少しの沈黙。

リヴァルの声が低くなる。


『偵察型か』


「可能性が高いと判断します。作業班を観察していました」


一輝が横から通信に入る。


「リオンさんがいなかったら逃げられてたっス。

 自分だと止める前に外へ抜けられてたと思うっス」


リヴァルはすぐに判断した。


『精霊の鎮静化装置を持っていけ。半精化への一時抑制に使えるか試す』


「了解しました。対象を維持します」


リオンは氷の檻を見た。

山猫型の半精化兵は、まだ氷の中で微かに動こうとしている。

完全な鎮静ではない。


スカルプチャーで動きを封じているだけだ。

その内側で、マギアス化反応は深く燻っている。

しばらくして、医療班と補助班が到着した。


小型化された精霊鎮静化装置が運ばれてくる。

本来は精霊反応を抑えるための装置。


半精化にどこまで通じるかは、まだ分からない。

リオンは氷の一部を薄く削り、装置を首元の黒い反応が強い位置へ固定した。


起動。

青白い光が走る。


山猫型の半精化兵が、一度だけ大きく痙攣した。


氷が軋む。

一輝が身構える。


だが、次の瞬間、暴れようとしていた反応が沈んだ。


完全に消えたわけではない。

人へ戻ったわけでもない。


ただ、覚醒が一段深く抑え込まれた。

リオンは端末を見る。


「主任。一時抑制に成功しました」


通信の向こうで、リヴァルが言う。


『正式な鎮静化ではない』


「承知しています。フィリアさんのライトが必要です」


『すぐ向かわせる。対象は維持して』


「了解しました」


通信が切れる。

一輝は氷の檻を見上げた。


「これ、リオンさんが前線に出てない間、何してたか分かったっスね」


リオンは首を傾げる。


「訓練」


「それは分かるっスけど、量がおかしいっス」


「出番がないなら、準備する」


リオンは淡々と言った。


「軍人だから」


一輝は少し黙った。

それから、苦笑する。


「シンプルっスね」


「それ以外にない」


氷の檻の中で、山猫型の半精化兵は眠るように動きを止めていた。

だが、その奥にはまだ人間反応が残っている。


戻せるかもしれない。

戻さなければならない。


リオンは二丁のストライカーアーツデバイスを収めなかった。

氷の檻の前に立ち、周囲を見続ける。

作業班の護衛任務は、まだ終わっていない。


二日後。

シェルターのオペレーション室では、

仮設センサーの統合ログが壁面モニターに並んでいた。


外周。

搬入口。

旧式補助ライン。

通信線。


映像線。

それぞれの監視ログが、時間軸ごとに重ねられている。

完成品ではない。


リヴァルが求めているものは、まだ先にある。

マギアス反応を拾うだけでは足りない。


生体反応を拾うだけでも足りない。

熱源、音、振動、映像、マナ反応、物理接触。

それらが一致しているか。


一致していないなら、何が、どこで、どのようにズレているのか。

対センサー系のマナアーツが存在するなら、

見えているものより、見えていないものの方が重要になる。


一輝たち整備班が仮設した多層ログは、ひとまずその第一段階だった。


「基本系統は接続完了。外周側のログも取れています」


リオンが端末を見ながら報告する。


「北側搬入口、車両整備区画、旧補助ラインも確認済みです。

 半精化疑い個体の追加接近はありません」


「了解。仮運用は継続して」


リヴァルはモニターを見たまま答えた。


「次は、欺かれた場合の挙動を見る。

 センサーそのものの性能より、ログの不一致を拾う方を優先する」


「了解しました」


リオンは短く頷いた。

会議卓の横では、ガイが腕を組んで立っていた。


厳密には、立っている。

それだけでも数日前からすれば大きな進歩だった。


まだ前線復帰は許可されていない。

走ることも、踏み込むことも、重いものを支えることも禁止。


それでも、医療区画の寝台ではなく、

オペレーション室に自分の足で来られる程度には回復していた。


「見張りの目は増えたってわけだな」


ガイが言う。


「増えた。ただし、信用はしない」


リヴァルは即答した。


「見えているから安全とは判断しない。

 見えていない場所、沈黙したセンサー、反応のズレを見る」


「相変わらず疑い深えな」


「疑うために作っている」


ガイは大きく笑った。


「ま、そりゃそうだ」


笑った直後、脇腹のあたりを押さえる。


まだ響く。

リヴァルがそちらを見る。


「座って」


「歩いていいとは言われた」


「立ち続けていいとは言われていない」


「細けえ」


「細かくない」


ガイは渋々、会議卓の端に腰を下ろした。

そのタイミングで、オペレーション室の扉が開いた。

最初に入ってきたのは紫乃だった。


いつも通り、柔らかく笑っている。


その後ろに織葉。

さらにクリスティナ。


最後に、フィリアが少し遅れて入ってきた。

四人とも、いつもの戦闘態勢とは少し違う。


織葉は移動用の上着を羽織り、刀型アーツデバイスを荷に収めている。

クリスティナもレイピア型アーツデバイスを携行しているが、

装いはやや外向きだった。


紫乃は最低限の荷物しか持っていない。

その少なさが、かえって不穏だった。

フィリアはレイアーツデバイスを抱え、端末と書類ケースを別に持っている。


リヴァルが顔を上げた。


「支度は」


織葉が一歩前に出る。


「整いました」


クリスティナも続く。


「こちらも問題ありませんわ。アドレメリア家側からも、

 到着予定の確認は届いております」


紫乃はにこりと笑う。


「おばさんも準備できているわ。忘れ物はないはずよ」


リヴァルは紫乃の荷物を見る。


「少ないですね」


「あら。荷物が多い女は、逃げる時に困るでしょう?」


「今回は逃げる予定ではありません」


「予定はね」


紫乃はさらりと言った。

リヴァルは否定しなかった。

フィリアが一歩前に出る。


「事務処理も、引き継ぎ分は終わりました。

 作業工程の確認表と、半精化解除の記録は共有済みです」


「確認した」


リヴァルは頷く。


「君が不在の間、ライト関連の記録整理は僕が見る。

 現地で新しい反応があれば、即時送って」


「はい」


フィリアは返事をした。

声は硬い。

無理もない。


フィリアは今回、保護対象として同行するだけではない。

半精化兵が出た場合、捕縛後に戻すための手段として同行する。

狙われているから守られる。


狙われているから連れていかれる。

その両方が同時にある。

ガイが椅子に座ったまま、フィリアを見る。


「ビビってるか」


フィリアは少し迷ってから、正直に頷いた。


「はい」


「よし」


「よし、ですか」


「ビビってねえ奴より信用できる」


ガイは笑う。


「怖いって分かってる奴は、無茶する時に一回止まれる」


クリスティナが横から口を挟む。


「その理屈ですと、わたくしは信用できないことになりません?」


ガイは間を置いた。


「まあ、そうだな」


「即答ではなく間を置いた分、余計に失礼ですわね」


織葉が真顔で頷く。


「クリス殿は止まる前に咲きますから」


「織葉様にだけは言われたくありませんわ」


リオンは静かに端末から顔を上げる。


「移動経路は確認済みです。飛行中の追跡を警戒するため、

 通常航路から一度ずらします」


リヴァルは頷いた。


「人輸送用ドローンは二機。主機に四名。予備機は自動追従。

 荷物と緊急時の分散用」


「護衛機は」


「出さない」


リヴァルは即答した。


「大きく動かすと目立つ。今回は定期稽古への移動として扱う。

 過剰な護衛は逆に意味を持つ」


リオンは短く頷いた。


「了解しました。こちらは外周監視を継続します」


「半精化疑いの個体が動いた場合は」


「単独撃破を目的にしません。捕捉、足止め、位置共有。

 ライトが必要な場合は即時連絡します」


リヴァルは頷く。


「それでいい」


ガイが大きな手で膝を叩いた。


「こっちは任せろ。歩くくらいはできる」


リヴァルが見る。


「走らない」


「走らねえ」


「戦わない」


「戦わねえ」


「叫びすぎない」


「それは状況による」


「状況によらない」


ガイは露骨に不満そうな顔をした。

紫乃がくすくす笑う。


「あら、元気そうで安心したわ」


「元気なら前線に出てる」


ガイが肩をすくめる。


「今は口だけだ」


「口だけでも、ガイさんがいると安心します」


フィリアが言う。

ガイは一瞬だけ目を丸くした。


それから、照れ隠しのように大きく笑った。


「おう。なら、口だけは出しといてやる」


リヴァルは端末に最終確認を表示した。


「現地到着後は、翠川家の指示に従って。定期稽古が名目だ。

 必要以上に緊張させる必要はない」


クリスティナが微笑む。


「レオお父様がいる時点で、必要以上に賑やかになる可能性はありますわ」


織葉の表情がわずかに曇る。


「父上もおりますので、おそらく静かには終わりません」


フィリアが不安そうに二人を見る。


「えっと……危険なんですか?」


紫乃が楽しそうに答える。


「危険というより、うるさいわね」


「うるさい」


「ええ。親という生き物は、時々とても面倒なの」


クリスティナはそっと目を逸らした。

織葉も同じ方向へ目を逸らした。


リヴァルは、その反応だけである程度を察した。


「現地の騒音については、僕の管轄外だ」


「主任」


リオンが淡々と言う。


「騒音ログも必要なら取れます」


「取らなくていい」


「了解しました」


ガイがまた笑いそうになり、脇腹を押さえた。


「痛え」


「だから笑いすぎない」


リヴァルはそう言って、出発許可を送信した。

オペレーション室の外で、発着区画の誘導灯が青に変わる。

人輸送用ドローンの準備完了を示す表示が出た。


この島国では、海を越える移動に人輸送用ドローンがよく使われる。

道路や鉄道が寸断されている地域も多い。


闇の霧の発生以降、

安定した航路を選んで空を渡る方が安全な場合も増えていた。

発着区画へ向かう通路を、四人が歩く。

リヴァルとガイ、リオンはオペレーション室側の扉の前まで見送った。


フィリアが振り返る。


「行ってきます」


「状況が変わったら即時連絡して」


リヴァルが言う。


「はい」


「戻ることを前提に行動して」


「はい」


「無理をしない」


フィリアは少しだけ笑った。


「それ、みんなに言ってください」


リヴァルは織葉とクリスティナを見た。

二人は同時に視線を逸らした。


紫乃だけが、にこにこしている。


「あら。おばさんは無理なんてしないわよ」


リヴァルは紫乃を見た。


「ミス・シノの無理の基準は信用していません」


「ふふ、信用されているのかしら、されていないのかしら」


「されていません」


紫乃は楽しそうに笑った。


「では、なるべく無理をしないようにするわ」


「なるべくではなく」


「できる範囲で」


「ミス・シノ」


「はいはい」


織葉が深く一礼する。


「留守中の防衛、よろしくお願いいたします」


リオンが返す。


「承知しました。こちらは任せてください」


クリスティナも優雅に会釈した。


「では、行ってまいりますわ。ガイ様も、どうか安静に」


「おう。そっちも親父さんに負けんなよ」


クリスティナの眉がぴくりと動く。


「負ける前提で送り出されるのは、不本意ですわね」


「じゃあ勝ってこい」


「当然ですわ」


織葉が静かに言う。


「稽古です」


クリスティナが微笑む。


「ええ。稽古ですわ」


その言葉だけで、すでに稽古では済まない気配があった。

フィリアはその空気に気づき、少しだけ不安になった。

紫乃がそっとフィリアの肩に触れる。


「大丈夫よ。命に関わるほどではないわ」


「それは安心していい言葉なんでしょうか」


「翠川とアドレメリアの稽古では、かなり安心できる方ね」


フィリアは何も言えなくなった。

発着区画に出ると、白い人輸送用ドローンが待機していた。


丸みを帯びた機体。

四人乗りの客室。


下部には安定用のマナ駆動補助翼が畳まれている。

予備機が一機、少し離れた位置で待機していた。

織葉、クリスティナ、紫乃が順に乗り込む。


最後にフィリアが足を止めた。

振り返る。


通路の奥で、リヴァル、ガイ、リオンが見ている。


残る者。

向かう者。

役割が分かれる。


それは、ここに来てから何度も繰り返してきたことだった。

フィリアはレイアーツデバイスを抱え直した。


「行ってきます」


今度は、さっきよりはっきり言えた。

リヴァルは短く頷く。


「行ってらっしゃい」


ドローンの扉が閉じる。

機体下部の補助翼が開き、低い駆動音が発着区画に広がった。


誘導灯が青から白へ変わる。

機体がゆっくりと浮かび上がる。

シェルターの外壁が開き、空が見えた。


島国の空。

海を越えた先に、九尾の街がある。

赤い鳥居と、温泉の湯気と、古い神社の残る街。


翠川家の道場兼住宅。

そこへ向かって、人輸送用ドローンは静かに進み始めた。

シェルターの外へ出ると、空の色が変わった。


地下に近い区画で管理された光ではない。

薄い雲の奥から差す、自然光だった。

人輸送用ドローンは外壁を抜け、島の上空へ出る。


眼下には、海が広がっていた。

青というより、銀に近い。


雲間から落ちる光を受けて、波の表面が細かく揺れている。

フィリアは窓に近い席で、レイアーツデバイスを膝に置いたまま外を見ていた。


「海を越えるんですね」


「ええ」


紫乃が隣で答える。


「この国は島国だから、場所によっては空を使った方が早いの。

 昔は橋や鉄道で繋がっていたところも多かったけれど、

 今は通れないところもあるわ」


闇の霧。

マギアス化。

避難区域。

封鎖された道路。


寸断された鉄道。

島国であることは、守りやすさにもなり、不便さにもなる。


海が隔ててくれる場所もあれば、海を越えなければ届かない場所もある。

織葉は窓の外を見ず、姿勢を正して座っていた。


移動中であっても、背筋が崩れない。

クリスティナは反対側の窓から雲の流れを見ている。


「翠川家へ向かうのは久しぶりですわね」


「前回は、こちらからアドレメリア家へ伺いましたから」


織葉が答える。


「今回は父上と祖母上が待っております」


「レオお父様も、すでに向かっているはずですわ。門下も一緒に」


「合同稽古ですからね」


フィリアは二人を見る。


「門下の方も来るんですか?」


クリスティナが頷く。


「ええ。アドレメリア家側の門下も同行しますわ。

 翠川家の道場で合同稽古を行うのです」


織葉も続ける。


「翠川側の門下も集まります。

 木刀と稽古用細剣が同じ道場で飛び交いますので、

 初めて見ると少し奇妙かもしれません」


「少しで済むかしら」


紫乃が笑う。


「翠川とアドレメリアが揃うと、だいたい少しでは済まないわ」


クリスティナと織葉が同時に黙った。

フィリアは、その沈黙の意味をまだ知らなかった。


ドローンは海上を進む。

島影が遠ざかり、別の陸地が近づいてくる。


海岸線の向こうには山があり、その麓に街が広がっていた。

最初に見えたのは、白い湯気だった。

街のあちこちから細く立ち上り、風に流されている。


温泉街。

古い旅館の屋根。

近代的な宿泊施設。

狭い坂道。


新しい交通路。

それらが混ざり合う中で、ひときわ目立つ色があった。

赤。


街の中に、赤い鳥居がいくつも立っている。

大きなものもあれば、路地の入口に置かれた小さなものもある。


建物と建物の間。

坂道の途中。

橋のたもと。

湯気の向こう。


赤い鳥居が、街の至るところにあった。

フィリアは思わず身を乗り出す。


「鳥居が、たくさん……」


「この辺りは、昔からそうなの」


紫乃が言う。


「街の中心に大きな神社があって、

 そこから小さな社や鳥居が広がっているのよ」


「神社……」


ドローンが高度を少し下げる。

すると、街の奥に大きな境内が見えた。


山の斜面に沿うように建つ社。

長い石段。


赤い鳥居が幾重にも並び、その先に大きな拝殿がある。

周囲には近代的な建物も多い。


観光案内用の電子看板も見える。

だが、その神社だけは、時代の流れから少し外れているようだった。


「九尾神社」


織葉が静かに言った。


「この街の中心にある神社です」


フィリアはその名前に反応する。


「九尾……狐の、ですか?」


ドローンの進行方向、その下にある商店街の入口。


そこに狐の石像があった。

一匹ではない。


台座の左右に、尾を広げた狐像が二体。

さらに道の向こうにも、小さな狐像が並んでいる。


どれも普通の狐ではなかった。

尾が多い。


九つに分かれた尾を背後に広げた狐。

ある像は厳かに座り、ある像は跳ねるような姿勢で、

ある像は人を見守るように街角に置かれている。


フィリアは窓に手をついた。


「狐の像も、たくさんあります」


紫乃は軽く笑う。


「この辺りは九尾の街だから」


「九尾の街……」


「昔からそう呼ばれているの」


紫乃の言い方は、あまりに軽かった。

今日は雨ですね、と言うのと同じくらいの調子だった。

フィリアはもう一度、街を見る。


赤い鳥居。

九尾の狐像。

温泉の湯気。

古い神社。


その隣に立つ近代的な宿泊施設。


電子看板。

自動運転の小型車両。

整備された道路。


昔と今が、境目なく並んでいる。


「九尾って、伝承なんですか?」


フィリアが尋ねる。

紫乃は少しだけ首を傾けた。


「伝承でもあるし、土地の名前でもあるし、観光資源でもあるわね」


「観光資源」


「ええ。九尾まんじゅう、九尾せんべい、九尾湯のみ、九尾ぬいぐるみ」


フィリアは瞬きをした。

思っていた返答と違った。

クリスティナが小さく笑う。


「九尾ぬいぐるみは、意外と可愛いですわ」


織葉が真面目に頷く。


「温泉街の売店で買えます」


「織葉様、以前買っていらっしゃいましたわよね」


「資料としてです」


「ぬいぐるみを資料として購入する方は、あまり多くありませんわ」


「九尾信仰に関する造形の変遷を確認するためです」


紫乃が楽しそうに言う。


「織葉ちゃん、寝台の横に置いていたわね」


織葉の肩がわずかに固まった。


「母上」


「可愛かったわよ」


「母上」


フィリアは、少しだけ笑った。

緊張がほどける。


けれど、視線はまた外へ戻った。


九尾。

街の名前。

神社。

観光資源。


それだけで済ませるには、街全体に残る気配が濃い。

赤い鳥居は飾りではない。


狐像も、ただの土産物ではない。

長い時間をかけて、人々がそこに置き続けてきたもの。

信じる者が減っても、形だけになっても、それでも残り続けたもの。


そんな気配があった。


「昔話みたいなものなんですか」


フィリアがもう一度聞く。

紫乃は、今度はすぐに答えなかった。


少しだけ窓の外を見る。

温泉街の奥。

九尾神社の赤い鳥居。

それから、柔らかく笑った。


「そうねえ」


その言い方は、否定でも肯定でもなかった。


「普段なら、昔話で済ませるところね」


「普段なら?」


フィリアが聞き返す。

紫乃は人差し指を唇に当てる。


「その話は、翠川の家に着いてからにしましょうか」


「今は、駄目なんですか?」


「駄目ではないわ。ただ、あの話は道中でさらっとするには少し根が深いの」


根。

その言葉に、織葉が少しだけ紫乃を見る。

クリスティナも、外を見ていた視線を戻した。


紫乃は何もなかったように微笑んでいる。


「それに、八重乃さまの方が詳しいわ」


「八重乃さま……」


「織葉のおばあちゃん。叢雲さまのお母様ね」


フィリアは姿勢を正した。


「ご挨拶、ちゃんとできるでしょうか」


紫乃はくすりと笑う。


「大丈夫。八重乃さまはお優しい方よ」


織葉が静かに付け加える。


「優しい方です」


クリスティナも頷く。


「ええ。大変、お優しい方ですわ」


三人の言葉は一致していた。

だからこそ、フィリアは少し不安になった。


「……本当に優しい方なんですよね?」


紫乃はにこにこしている。


「ええ」


織葉は真顔で頷く。


「はい」


クリスティナも優雅に微笑む。


「もちろんですわ」


その答え方が、逆に怖かった。

ドローンは温泉街の上空へ入る。


下には人の流れがある。

観光客らしき人々。

地元の住民。

道場へ向かう袴姿の若者たち。


細長いケースを背負った者。

木刀袋を持つ者。


中には、アドレメリア家の門下らしい軽装防具の者も見えた。

和風の温泉街に、稽古用細剣のケースを抱えた人々が混ざっている。

それが不思議と浮いていない。


この街では、それも日常の一部らしかった。


「もうすぐです」


織葉が言った。

ドローンは九尾神社の大鳥居を遠くに見ながら、温泉街の一角へ進路を変える。


そこには、周囲より広い敷地があった。


高い塀。

古い門。

手入れされた庭木。

奥に見える大きな道場。


そのさらに奥には、住宅棟らしき和風建築が連なっている。

近代的な防衛設備も見える。


だが、全体の印象はあくまで和風だった。


古い家。

古い道場。

古い土地。

その中で、今も武を磨く家。


翠川家。

ドローンは高度を下げる。


門の近くには、すでに何人もの門下生が集まっていた。


木刀を持つ者。

稽古用細剣のケースを持つ者。

袴姿の者。

軽装防具の者。


翠川とアドレメリア。

二つの家の門下が、同じ庭先で出迎えの準備をしている。


フィリアは膝の上のレイアーツデバイスを抱え直した。


九尾の街。

翠川家。

定期稽古。


そして、まだ語られていない昔話。

ドローンの着陸音が、庭先に低く響いた。

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