五章 一話
朝の情報番組は、いつも通りの声で始まっていた。
『続いて、各地の気象情報です』
画面には地域ごとの予報図が映っている。
北部山間部では朝方に霧。
東部沿岸では昼前から強風。
内陸部では寒暖差に注意。
アナウンサーの声は落ち着いていて、内容もいつも通りだった。
危険でもなければ、特別でもない。
ただの朝の気象情報。
だからこそ、翠川織葉の私室に集まっていた四人も、
まだ完全には身構えていなかった。
畳の上。
低い机。
湯呑み。
小皿に置かれた菓子。
端末の前には、織葉がいつものように背筋を伸ばして座っている。
隣には紫乃。
机の反対側にはクリス。
そしてイルルが、湯呑みを両手で包んで座っていた。
「今日は早めに始まりそうやね」
織葉が番組表を確認しながら言った。
「職場の風通し?」
イルルが聞く。
「せや。今日のクラリス殿は現地リポートやなくて、
スタジオ受けの回らしいわ」
「織葉、そこまでチェックしてんの普通にこわ」
クリスが菓子を摘まみながら言う。
「こわない。正しい視聴姿勢や」
「正しい視聴姿勢って何よ」
紫乃がくすりと笑った。
「織葉ちゃん、朝から楽しそうね」
「お母様。楽しそうなのではありません。整えているのです」
「何を?」
「心を」
クリスが吹き出した。
イルルも少しだけ笑う。
画面では、アナウンサーが南部地域の気温変化を読み上げていた。
『昼過ぎからは各地で気温が上昇します。
避難所やシェルター内でも、換気と水分補給にご注意ください』
「換気は大事よね」
紫乃が湯呑みを持ち上げる。
「職場の風通しの前に換気情報って、流れできてるじゃん」
クリスが言う。
織葉は真剣に頷いた。
「番組構成としても自然やね」
「そこ褒める?」
「褒めるところです」
イルルは二人のやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力を抜いていた。
朝。
番組。
湯呑み。
菓子。
誰かと一緒に、普通に画面を見る時間。
それは、ほんの少し前の自分にはなかったものだった。
だから、こういう時間があること自体が、イルルにはまだ少し不思議だった。
画面の隅に、次のコーナー案内が小さく出る。
『このあとは、特集コーナー――』
織葉の背筋が、さらに伸びた。
「そろそろや」
クリスも菓子を置いた。
「来るね」
イルルも湯呑みを机に置く。
その瞬間だった。
画面に、細いノイズが走った。
一度だけではない。
横線が何本も乱れ、気象図の色が歪む。
アナウンサーの声が途切れた。
『このあ――ザ、ザザ――』
「ん?」
クリスが眉をひそめる。
「放送事故?」
織葉は画面を見つめたまま、目を細めた。
「違う」
映像が完全に乱れた。
画面全体が黒く沈む。
数秒の暗転。
そして、別の映像が割り込んだ。
男の顔だった。
軍服。
灰色がかった肌。
片目の下に、古い火傷のような痕。
年齢は中年に差しかかる頃。
表情は怒っていない。
むしろ、冷静だった。
その冷静さが、画面越しでも嫌に残った。
『リヴァル・アニムへ告げる』
織葉の手が、膝の上で止まった。
クリスの表情から軽さが消える。
イルルは、息を呑んだ。
紫乃だけが、静かに湯呑みを置いた。
画面の男は名乗った。
『マギアス軍、東部管区支部長、エルガン・ヴァイスだ』
同じ映像は、オペレーション室にも流れていた。
朝の人員交代直後。
通常より少しだけ人が少ない時間帯。
大型モニターの一つが突然切り替わり、
エルガン・ヴァイスの顔を映している。
リヴァルは操作卓の前で、すでに端末を開いていた。
フィリアは隣の席で、通信経路の解析を始めている。
『こちらは現在、第三東部避難シェルターの外周設備を掌握している』
画面の下に、シェルターの外観映像が表示された。
外壁。
閉ざされた避難ゲート。
その周囲に、武装したマギアス軍兵士の影が見える。
通常兵力。
重火器。
外周制御端末へ接続された箱型の装置。
半精化兵ではない。
まだ、ただの軍事制圧だった。
だが、人質を取るには十分だった。
『要求は一つ。リヴァル・アニムをこちらへ引き渡せ』
オペレーション室の空気が固まる。
フィリアの指が、端末の上で止まらない。
「映像経路、通常放送網ではありません。
シェルター内部の再送信ラインに割り込まれています」
リヴァルは画面を見たまま言う。
「ハッキング?」
「違います」
フィリアは即答した。
「ハッキングではありません。
外部からのダイレクトな部品による接続です。
映像線に物理的な中継部品を噛ませています」
「第三東部避難シェルターの現地設備か」
「はい。
内部か、外周の保守ラインに直接触れています。
通信網を破られたのではなく、現地側の設備を使われています」
リヴァルは短く息を吐いた。
「整備班へ連絡。一輝を中心に専用班を組ませて。護衛を付ける」
「シェスターさんたちへ?」
「そう。物理接続の除去は整備班の仕事だ。戦闘班だけでは意味がない」
フィリアはすぐに連絡を回す。
画面の中では、エルガンの声明が続いていた。
『誤解のないように言っておく。我々は封印解除を止めるつもりはない』
リヴァルの目がわずかに細くなる。
『闇の霧の封印が解き放たれれば、世界は再び闇に包まれる。
千年前と同じようにな。
世界の半分が闇に沈むなら、それは我々にとって望ましい』
フィリアの顔色が変わった。
「封印解除を、歓迎している……?」
リヴァルは答えない。
画面のエルガンが、淡々と続ける。
『問題は再封印だ。
リヴァイブプランなどという後始末を完遂されては困る。
リヴァル・アニム。
再封印の設計者であり、現場指揮を担うお前をこちらへ渡せ』
大型モニターに、第三東部避難シェルター内部の映像が一瞬映った。
避難民。
職員。
子供を抱える大人。
武装兵に誘導され、一か所に集められている。
『期限は短い。
こちらが指定する経路で来い。
要求に応じなければ、外周設備を破壊する。
シェルターの安全は保証しない』
フィリアが唇を噛む。
リヴァルは端末へ視線を落とした。
「対象シェルターの位置」
「出します」
地図が開く。
第三東部避難シェルター。
リヴァルの管理シェルターからは離れているが、救援圏内。
ただし、外周設備を握られているなら正面突入は危険だった。
リヴァルは次の指示を出す。
「防衛班へ警戒レベルを上げるように。
第三東部への直接回線が生きているか確認。
生きていないなら、近隣中継を迂回する」
「はい」
「一輝には現地設備の図面を渡して。
外部部品の接続位置候補を三つに絞る。
護衛はシェスターを中心に編成」
「了解しました」
フィリアはすぐに処理する。
リヴァルは画面のエルガンを見た。
声明は終わりに近づいている。
『繰り返す。
リヴァル・アニムを引き渡せ。
封印解除は続けて構わない。
だが、再封印を担う者はこちらで預かる』
映像が途切れる。
ノイズ。
黒画面。
そして、通常番組へ戻った。
だが、オペレーション室の空気は戻らなかった。
フィリアが通信ログを確認する。
「録画保存済み。物理接続の信号パターンも取りました」
「よし」
リヴァルは端末を閉じないまま、扉の方へ歩き出した。
フィリアが顔を上げる。
「リヴァルさん?」
「念のため、僕も現地に出る」
「要求されている本人です」
「分かっている。だからこそ、交渉窓口になる必要がある」
フィリアが立ち上がりかける。
「でも」
「整備班と護衛だけで入れる状況じゃない。
第三東部の職員は、外周設備を握られている。
現地の判断が遅れれば被害が出る」
リヴァルは扉へ手を伸ばした。
「僕が行く」
その瞬間、扉が開いた。
リヴァルは足を止める。
扉の向こうに、四人が立っていた。
翠川織葉。
クリスティナ・アドレメリア。
イルル・アースフィア。
翠川紫乃。
織葉はすでに刀を帯びていた。
背筋は伸びているが、目がまったく笑っていない。
「リヴァル殿」
クリスはレイピア型アーツデバイスを手にしていた。
普段の軽さはある。
だが、その口元は怒っている。
「朝から、ずいぶんと無粋な真似をしてくださいますのね」
イルルはハンマーアーツデバイスを両手で持っている。
表情は穏やかではない。
「シェルターの人たちを、人質にするなんて」
紫乃は三人の後ろで、困ったように微笑んでいた。
「ごめんなさいね、リヴァルくん。
止めるより、一緒に来た方が早そうだったの」
リヴァルは四人を見た。
そして、短く問いかける。
「何をしに来たの」
クリスが即答した。
「敵地への訪問ですわ」
織葉が即座に訂正する。
「制圧です」
イルルも続いた。
「救助です」
紫乃が最後に微笑む。
「おばさんは付き添いね」
フィリアは、オペレーション卓の前で固まっていた。
リヴァルは一度だけ目を閉じる。
それから、ゆっくり開いた。
「……順に話す」
「はい」
織葉が頷く。
「ですが、現地へ行くのは私たちです」
クリスが、涼しい顔で微笑んだ。
「要求されているご本人が、そのまま出向く必要はございませんわ」
イルルは真剣な顔で言う。
「リヴァルさんを渡すためじゃありません。
シェルターの人たちを助けるためです」
紫乃は肩をすくめた。
「それに、物理接続の解除は一輝くんたちの仕事でしょう?
だったら、私たちは別口を黙らせるわ」
リヴァルは四人を見た。
クラリスの番組を邪魔されたファン。
シェルター人質に半ギレしている元人柱。
三人を止められなかった付き添いの大人。
どう見ても、正式な救出部隊には見えない。
だが、戦力として見れば、話は別だった。
リヴァルは息を吐いた。
「作戦を組み直す」
織葉が静かに頷く。
クリスが口角を上げる。
イルルがハンマーを握り直す。
紫乃が、にこりと笑った。
オペレーション室の朝は、完全に終わった。
輸送車は、第三東部避難シェルターの外周ゲートを通過した。
運転席にいるのは、リヴァルだった。
助手席にはフィリア。
後部座席にはイルル。
車体の側面には、救援物資搬送用の識別コードが表示されている。
だが、ゲート前に立つマギアス軍兵士たちは、
その表示を信用してはいなかった。
銃口が向けられる。
外側の検査装置が、輸送車の底部から天井までをゆっくり走査する。
「降りろ」
兵士が短く命じた。
リヴァルは従った。
運転席から降り、両手を見える位置に上げる。
フィリアも助手席から降りた。
顔色は悪い。
目が泳いでいる。
イルルは後部座席から降り、すぐにフィリアの横へ立った。
フィリアの手を、そっと取る。
「大丈夫です」
小さく囁く。
フィリアは小さく頷いた。
「は、はい。大丈夫です」
全然大丈夫そうではなかった。
兵士の一人が笑う。
「大丈夫かよ、そのお嬢ちゃん」
別の兵士も笑った。
「リヴァル・アニムが連れてくるから何かと思えば、震えてるじゃねえか」
フィリアは肩を跳ねさせる。
イルルは手を離さなかった。
リヴァルは何も言わない。
兵士たちは後部の荷室を開けた。
中には、医療用のケース、応急処置キット、簡易端末、
そして封印関連の協議用として見せるための資料ケースが積まれている。
どれも確認されることを前提にした荷物だった。
兵士が一つずつ開ける。
医療ケース。
空。
資料ケース。
中身は閲覧制限付きの端末。
応急処置キット。
本物。
異常はない。
少なくとも、彼らの検査ではそう見えた。
「通せ」
兵士が言った。
リヴァルは再び運転席に乗る。
フィリアはぎこちなく助手席へ戻ろうとして、足元を少しもつれさせた。
イルルが支える。
「ゆっくりで大丈夫です」
「す、すみません」
また兵士たちの笑い声が上がった。
輸送車は、シェルター内部へ進んだ。
その少し前。
オペレーション室で、リヴァルはフィリアに言っていた。
「第三東部避難シェルターへつないで」
フィリアは一瞬、顔を上げた。
「直接ですか」
「そう。相手の物理接続を逆に使う。こちらから交渉する」
「分かりました」
フィリアは操作卓へ向かう。
指先が端末を叩き、第三東部避難シェルターの中継部品へ接続を返す。
ノイズが走る。
やがて、画面にエルガン・ヴァイスの顔が映った。
『応じる気になったか、リヴァル・アニム』
リヴァルは淡々と答えた。
「条件の確認だ」
『条件?』
「こちらには、君たちが一度は狙ったイルル・アースフィアがいる」
エルガンの片眉がわずかに動いた。
「元水の人柱。精霊接続から戻った実例だ。
さらに、マギアス化反応に対して鎮静効果を示す
マナセットを持つフィリア・レイフィールドもいる」
フィリアは隣で息を止めていた。
リヴァルは続ける。
「この二名がいれば、再封印の可能性も捨てきれない。
君たちが後から暴れられても困る。
先に、この者たちの待遇について話しておきたい」
『待遇だと』
「こちらで始末するなどは期待しないでほしい。
君たちが必要と判断するなら、引き渡し前に直接確認すればいい」
エルガンはしばらく黙った。
画面越しに、冷たい目がリヴァルを見る。
『リヴァル・アニム本人が来るのだな』
「そう言っている」
『三名で来い。余計な護衛は認めない』
「了解した」
フィリアがリヴァルを見た。
イルルも同じように見た。
リヴァルは通信を切る前に、最後に言った。
「ただし、第三東部の避難民と職員に手を出すな。
交渉中に被害が出れば、この話は終わりだ」
『お前の立場で、強く出られると思うな』
「人質を取っている側が、交渉を壊す理由もないだろう」
エルガンは薄く笑った。
『来い』
通信が切れた。
シェルター内部の通路は、異様に静かだった。
人の気配はある。
だが、避難民の姿は通路にない。
どこか一か所に集められている。
それは、リヴァルにも分かった。
武装兵が要所に立っている。
外周制御室。
非常階段。
空調管理区画。
避難ゲート。
人質を取るために必要な場所を、雑にではなく、きちんと押さえていた。
マギアス軍は、少なくともこの作戦に関しては本気だった。
輸送車が止まる。
兵士がドアを開ける。
「降りろ」
リヴァルが降りた。
次にフィリア。
フィリアは降りた瞬間、周囲を見回して固まった。
兵士。
銃。
閉じられた通路。
遠くに聞こえる避難民の気配。
情報量が多すぎた。
「フィリアさん」
イルルが、また手を取った。
「私の方を見てください」
「は、はい」
「足元だけ見て、ゆっくり歩きましょう」
イルルはハンマーアーツデバイスを持っていない。
ここへ入る条件として、武器は輸送車に置かされている。
フィリアもレイアーツデバイスを持っていない。
だが、二人とも丸腰ではなかった。
それは、敵には分からない。
フィリアはイルルに手を引かれながら、ぎこちなく歩いた。
敵兵が笑う。
「本当に大丈夫かよ」
「こんなのが鎮静効果持ちか」
「震えてちゃ何もできねえだろ」
フィリアはさらに縮こまる。
イルルは、ほんの少しだけ目を細めた。
リヴァルは前を歩く。
案内された先は、シェルター中央管理区画だった。
普段なら職員が使う指揮室。
今はマギアス軍が占拠している。
その中央に、エルガン・ヴァイスがいた。
通信で見た時と同じ軍服。
同じ冷えた目。
周囲には兵士が数名。
壁際には、シェルター職員用の制御端末が奪われた状態で並んでいる。
「来たか」
エルガンが言った。
リヴァルは足を止める。
「約束通り来た」
「二人も連れてきたな」
エルガンの視線が、イルルとフィリアへ動く。
フィリアはイルルの後ろに半分隠れるように立っていた。
イルルはフィリアの前に立つ。
「彼女たちは交渉条件の確認対象だ」
リヴァルが言う。
「乱暴な扱いは避けてもらう」
「お前がそれを言える立場か」
エルガンは片手を上げた。
背後にいた兵士が動く。
リヴァルは振り返らなかった。
鈍い音がした。
兵士の手にした警棒が、リヴァルの後頭部を打った。
リヴァルの身体が揺れる。
フィリアが声を上げかける。
「リヴァルさ――」
リヴァルはそのまま床へ倒れた。
動かない。
エルガンは冷たく見下ろした。
「交渉は終わりだ」
イルルの手に力が入る。
フィリアは完全に固まっていた。
兵士が二人、イルルとフィリアへ近づく。
「こっちも眠らせるか」
「女二人なら楽だろ」
一人がイルルへ手を伸ばす。
もう一人がフィリアへ向かう。
その身体が、止まった。
指先が震える。
腕が上がったまま固まる。
兵士の目が見開かれた。
「……あ?」
膝が落ちる。
立っていた兵士が、一人、また一人と硬直していく。
エルガンの表情が初めて変わった。
「何だ」
強くはない。
広くもない。
けれど、確かに水のマナが動く。
イルルが叫ぶ。
「フィリアさん!」
フィリアは弾かれたように顔を上げた。
きょどっていた目に、光が戻る。
「はい!」
二人の手がつながる。
触媒フレームを通った低出力のレイン。
そこへ、フィリアのライトが重なる。
「マナリンク」
イルルが言う。
フィリアの声が重なった。
「トリートスプレイ!」
光を含んだ水しぶきが、二人を中心に広がった。
イルルは、胸元の内側に仕込まれた小さな熱を感じていた。
ハンマーアーツデバイスはない。
敵地へ入る条件として、武器は輸送車に置いてきた。
けれど、完全な丸腰ではなかった。
出発前、医療区画でジェーンがイルルへ渡したものがある。
薄い保護インナーだった。
見た目は通常の医療用サポートウェアに近い。
だが、胸部を支えるフレーム部分に、極小の触媒素材が組み込まれている。
「試作品よ」
ジェーンはそう言って、いつものように端末を確認していた。
「あなたのレインは、発動可能な状態なら、
即死するような状況でもない限り、そう簡単には止まらない。
けれど今は、ハンマーアーツデバイスを失うとその前提が崩れる」
イルルは保護インナーを両手で受け取った。
「これで、アーツデバイスの代わりになるんですか」
「代わりとまでは言えないわ。試作品だもの」
ジェーンははっきり言った。
「でも、数回。
簡単な低出力のマナアーツ程度なら、この触媒フレームで通せるはずよ。
長時間戦闘は無理。
強いアーツも無理。
けれど、緊急時にレインを一度動かすくらいならできる」
フィリアが横で真剣に聞いていた。
リヴァルは短く頷く。
「敵地で武器を置かされる可能性が高い。今回に限っては必要な装備だ」
ジェーンはイルルを見る。
「いい? これは戦うためじゃない。
死なないためと、誰かを戻すための保険よ」
イルルは、その言葉を覚えていた。
だから今、ハンマーがなくてもレインを呼べた。
白い光が、管理区画を満たす。
毒で止まった兵士たちの身体を、マギアス化反応ごと鈍らせる。
殺すためではない。
動かさないため。
暴れさせないため。
毒の効きすぎを防ぎ、マギアス化反応を弱め、
周囲の敵だけを一段深く沈める。
「その作戦で行くなら、はい、これ。」
出発前、紫乃はそう言って、小さなカプセルを三つ、
リヴァルたちへ渡していた。
フィリアは両手で受け取って、目を白黒させる。
「これは?」
イルルも覗き込む。
「薬、ですか?」
リヴァルはカプセルを見て、だいたい察した顔をした。
紫乃はにこりと笑った。
「私が使う毒の血清ね」
フィリアの手が止まる。
イルルも固まる。
「毒」
「ええ」
紫乃は当然のように言った。
「毒を制する以上、血清もお手の物よ」
フィリアが小さく震えた。
「それを飲むんですか」
「飲んでもいいし、噛んでもいいわ。
作戦前に一つ。
現地で気分が悪くなったらもう一つ。
リヴァルくんは、仕込みもあるから忘れないでね」
「仕込み?」
イルルがリヴァルを見る。
リヴァルは淡々と頷いた。
「必要な仕込みだ」
紫乃は三人を見回した。
「相手に人質がいる以上、見張りや起爆役を先に止める必要があるの。
正面から強い子たちが突っ込むより、
指を動かす人を眠らせる方が早いでしょう?」
「紫乃さん」
イルルが言った。
「すごく怖いことを、優しい顔で言っています」
「あら」
紫乃は微笑んだ。
「優しくするために、怖いことをするのよ」
管理区画で、トリートスプレイの光が薄れていく。
兵士たちは倒れていた。
生きている。
呼吸もある。
だが、動けない。
エルガンは一歩下がった。
「毒か」
イルルはフィリアの手を握ったまま、前を見る。
「殺していません」
フィリアはまだ震えていたが、声を出した。
「マギアス化反応も、弱まっています。しばらくは動けません」
「貴様ら――」
エルガンが何か言いかけた瞬間。
管理区画の外壁に、四角い線が走った。
焼き切る音ではない。
叩き壊す音でもない。
正確に、四辺が切られていく。
次の瞬間、分厚い壁の一部が内側へ蹴り込まれた。
轟音。
粉塵。
落ちた壁材が、管理区画の床を揺らす。
その向こうに、二人の影が立っていた。
翠川織葉。
クリスティナ・アドレメリア。
織葉は刀を抜いていない。
鞘に収めたまま、静かに踏み込む。
「制圧を開始します」
クリスはレイピア型アーツデバイスを手に、涼しい顔で微笑んだ。
「抵抗なさらない方が、怪我は少なく済みますわ」
まだ動ける兵士が、慌てて銃を構えた。
遅い。
織葉の鞘が手首を打つ。
銃が落ちる。
刀の腹が肩を軽く叩く。
兵士の膝が抜ける。
クリスは別の兵士の内側へ入り込み、アームガードで銃身を跳ね上げた。
レイピアの先は身体に触れない。
武器の留め具だけを弾く。
銃がばらける。
そのまま肩で押し、兵士を壁へ座らせる。
「少しお休みくださいませ」
別の兵士がナイフを抜く。
織葉が横を通り過ぎた。
鞘の先が鳩尾の手前で止まり、次に刀の腹が背中を軽く叩いた。
兵士は前のめりに倒れる。
「次」
織葉が言う。
それは戦闘ではなかった。
少なくとも、対等な戦闘ではない。
毒で指揮系統を止められ、トリートスプレイでマギアス化反応を鈍らされ、
壁から現れた二人に武器だけを奪われる。
マギアス軍兵士たちは、何が起きているのか理解する前に床へ転がされた。
クリスのレイピアが、兵士の首元を通り過ぎる。
刺さない。
斬らない。
ただ、首元の通信端末だけを切り落とす。
「連絡はお控えくださいませ」
織葉は反対側で、起き上がろうとした兵士の足元を鞘で払った。
「動けば、次はもう少し痛いところへ入ります」
「十分痛えよ!」
「では、動かないことです」
イルルはフィリアの手を離さず、周囲の反応を見ていた。
フィリアはまだ顔色が悪い。
だが、ライトは消えていない。
「フィリアさん、もう少しだけ」
「はい……もう少しだけ、できます」
二人のトリートスプレイが、
制圧された兵士たちの暴走反応をさらに落としていく。
毒で止め、光と雨で沈める。
倒すのではなく、暴れられない状態にする。
その間に、別の通信がリヴァルの端末へ入った。
床に倒れていたリヴァルの耳元で、小さな受信音が鳴る。
『リヴァルくん』
紫乃の声だった。
『避難民と職員の集められていた区画、こちらで押さえたわ。
見張り三名、通信役二名、起爆担当らしい子が一名。
全員、眠ってもらっているわ』
通信は続く。
『怪我人なし。避難民側にも被害なし。
こちらの扉は内側から固定したから、しばらく安全よ』
床に倒れていたリヴァルの指が、わずかに動いた。
エルガンがそれを見るより早く。
リヴァルは、すくりと立ち上がった。
フィリアがぱっと顔を上げる。
イルルは小さく息を吐いた。
織葉もクリスも驚かない。
エルガンだけが、目を見開いた。
「なぜ……」
言い終わる前に、リヴァルは後頭部へ手を伸ばした。
髪の下に隠されていた薄い水膜。
イルルのレインで作った、衝撃緩衝のバッファ。
それを、ぺろんと外す。
小さな水の膜は、床へ落ちる前に消えた。
リヴァルは首を軽く回した。
「気絶したように見えたなら、十分だ」
エルガンの顔が歪む。
リヴァルは淡々と続けた。
「君たちは、必要な隙を見せた。
人質区画は押さえた。
通信役も、起爆担当も、外周制御の見張りも無力化済みだ」
エルガンは周囲を見る。
兵士たちは倒れている。
動ける者はいない。
武器は落ちている。
通信端末は切り落とされている。
壁は破られ、そこに織葉とクリスが立っている。
イルルとフィリアの周囲には、淡い光と雨がまだ残っている。
リヴァルはエルガンを見る。
「君たちを確保する」
エルガンは歯を食いしばった。
「リヴァル・アニム……」
「封印解除を歓迎する、と君は言った」
リヴァルは一歩進む。
「なら、再封印を止めるために僕を要求する理屈も分かる。
だが、人質を取った時点で交渉ではない」
織葉が刀の柄に手を置く。
クリスがレイピアを下げる。
イルルがフィリアを守るように半歩前へ出る。
フィリアは震えながらも、ライトを消さない。
リヴァルは言った。
「作戦はここで終わりだ」
その言葉通り、
第三東部避難シェルターの中央管理区画は、完全に制圧された。
はずだった。
エルガンの口元が、わずかに歪む。
「終わり?」
その声は、敗北を認める者のものではなかった。
リヴァルが目を細める。
エルガンはゆっくりと右手を上げた。
その手には、小さな起動端末が握られている。
クリスが即座に踏み込もうとした。
だが、エルガンの指はもう動いていた。
「いいや」
短い電子音。
中央管理区画の床に倒れていたマギアス兵の首元で、
黒い小型装置が一斉に点灯した。
フィリアが息を呑む。
「反応が……」
床に倒れていた兵士の指が、動いた。
毒で止まり、
トリートスプレイでマギアス化反応を沈められていたはずの身体。
その指が、床を掴む。
爪が割れる。
皮膚の下で、何かが膨らんだ。
骨が鳴る。
ひとつではない。
倒れていた兵士たちの身体が、同時に痙攣を始めた。
織葉が一歩前に出る。
「下がってください」
クリスもレイピアを構え直した。
「様子が変ですわ」
イルルはフィリアの手を強く握った。
フィリアは端末もレイアーツデバイスも持っていない。
それでも、彼女のライトが微かに震えた。
「マギアス化反応が、上がっています」
リヴァルが問い返す。
「上がっている?」
「いえ……違います」
フィリアの声が細くなる。
「深くなっています。人の反応が、沈んでいきます」
倒れていた兵士の一人が、起き上がった。
いや、起き上がったというより、床から引き剥がされたようだった。
背骨が不自然に反る。
肩が膨らむ。
腕が伸び、指が太く変形する。
顎が開く。
人の口ではない。
裂けた顎の奥から、濁った呼吸音が漏れた。
それは猟犬に似ていた。
けれど、犬ではない。
人間でもない。
マギアスでも、今まで見てきた精霊でもない。
別の兵士の身体は、上半身だけが異常に肥大していく。
肩が盛り上がり、背中が丸く膨れ、腕が床を叩くほど太くなる。
熊に似た輪郭。
だが、その顔にはまだ人の名残が残っている。
また別の兵士の肩甲骨が裂けた。
腕の皮膚が薄く広がり、骨格が羽のように変形する。
鳥のようで、鳥ではない。
飛ぶための形ではなく、
ただ人の腕が壊れながら別の輪郭へ押し広げられているだけだった。
「何、これ……」
フィリアが呟いた。
イルルはフィリアを自分の背へ庇う。
織葉は刀を抜いた。
今度は鞘ではない。
刃が、静かに光る。
クリスの表情から、完全に笑みが消えた。
レイピアの先が、変異体の動きに合わせてわずかに揺れる。
エルガンは、倒れていた兵士たちが異形へ変わっていく様子を見ても、
眉一つ動かさなかった。
「通常兵で止まるなら、それでよかった」
一体が吠えた。
人の声が混じった、獣の声。
その音で、管理区画の空気が震える。
リヴァルは画面も端末も見ず、目の前の変異を見ていた。
毒で止まらない。
トリートスプレイで沈めた反応が、さらに底へ潜っていく。
マギアス化が強まったのではない。
人として残っていた部分まで、侵食が進んでいる。
フィリアが震える声で言った。
「リヴァルさん」
リヴァルは短く答える。
「分かっている」
だが、その言葉は答えではなかった。
目の前で起きているものに、まだ名前はなかった。
猟犬のようなものが、床を削る。
熊のようなものが、壁材を踏み砕く。
鳥のようなものが、壊れた腕を広げる。
そして、他の兵士たちも次々と、人の形を捨て始めていた。
中央管理区画は、つい先ほどまで完全に制圧されていた。
そのはずだった。
リヴァルは、初めてその場で沈黙した。
イルルがフィリアを庇いながら、震える息を吐く。
織葉とクリスが、同時に前へ出る。
エルガン・ヴァイスは、静かに告げた。
「では、次の段階だ」
その言葉と同時に、変異したマギアス兵たちが、一斉に顔を上げた。




