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四章 八話

ガイの治療は、医療区画の奥にある処置室で行われることになった。


戦闘直後の応急処置は済んでいる。

紫乃が作った簡易固定具も、ジェーンが見ても十分に実用的なものだった。


だが、それはあくまで帰還まで脚を守るための処置だ。

本格的な治療となると、話は別だった。


処置台に横になったガイの右脚には、

補助固定具と医療用センサーが取り付けられている。


骨格支持部の損傷。

筋繊維の断裂。

広範囲の内出血。


命に関わる状態ではないが、すぐに立てる状態ではない。

少なくとも、しばらく前線復帰は無理だった。


「こうして見ると、派手にやられたわね」


ジェーンが端末を確認しながら言った。


「骨の方は医療処置と固定が必要。

 そこは変わらないわ。

 でも、内出血と筋繊維の損傷は、今日の試験を使えるかもしれない」


処置室には、ガイ、ジェーン、イルル、フィリアがいた。

さらに壁際にはリヴァルと、医療研究班の研究員が二名。

戦闘員の治療というより、半分は実用検査だった。


イルルはハンマーアーツデバイスを握っている。

フィリアはレイアーツデバイスを胸の前で持ち、銃口を下げていた。

二人とも、さっきの検査の時より少し緊張している。


試験用の反応ゲルではない。

今度は、本当に傷ついた仲間へ使う。

それだけで、空気の重さが変わった。


ガイは処置台の上で、やけに穏やかな顔をしている。


「そんな顔するな。俺は寝てるだけだ」


イルルが小さく首を振る。


「でも、痛いですよね」


「痛いな」


ガイは正直に言った。


「だが、痛いだけだ」


「それ、あんまり安心できないです」


フィリアが困ったように言う。

ガイは笑った。


「そうか?」


「そうです」


ジェーンが端末を置く。


「はい、そこまで。痛いだけって言える人ほど、

 動こうとするから信用しないわ」


「動かん」


「本当に?」


「……今はな」


「今は、ね」


ジェーンはすぐにリヴァルへ視線を向けた。


「リヴァル、固定補助は維持したまま。

 トリートスプレイを使っても、骨格側は触らない」


「了解した」


リヴァルは研究員へ合図する。


「記録は三系統。

 医療数値、マナ流動、損傷部位の変化。

 治癒効果が出ても、支持構造の改善と混同しないこと」


「はい」


研究員が端末を立ち上げる。

リヴァルはイルルとフィリアへ向き直った。


「二人とも、検査と同じでいい。

 イルルはヒールレイン。

 フィリアは低出力ライト。

 混ぜようとしすぎず、治療対象へ置く」


イルルは頷いた。


「はい」


フィリアも頷く。


「ライトは弱めに重ねます」


「ジェーン、停止判断は任せる」


「任されたわ」


ジェーンが処置台の脇に立つ。

イルルはガイの脚の近くで、ハンマーアーツデバイスを床に立てた。

柄を握る。


レインのマナが、手の中からデバイスへ流れる。

さっき検査室で確認した通り、デバイスなしでは外へ出せない。

けれど、ハンマーを通せば、雨は出る。


小さな水滴が生まれた。

ヒールレイン。


それはガイの脚の上に、静かに降り始める。

フィリアがレイアーツデバイスを構えた。


撃つためではない。

光を通すため。


「ライト、重ねます」


白い光が雨粒の中に入った。

水しぶきが、淡く光る。


雨が傷を探し、光が深さを見つける。

トリートスプレイ。

ガイの脚を包むように、細かな雨と光が落ちていく。


ジェーンの端末に数値が走った。


「内出血反応、低下。筋繊維の損傷部位、反応あり。

 治療補助としては十分ね」


研究員が別の端末を見る。


「マナ浸透、表層で止まっていません。

 ライトが損傷部位の識別を補助しています」


リヴァルは画面を見たまま言った。


「予想通りだ。ヒールレイン単独より深部へ入っている。

 ただし、支持構造には届いていない」


ジェーンが即座に頷く。


「そこは届かなくていい。届いたら逆に怖いわ」


ガイが処置台の上で息を吐いた。


「……楽になったな」


イルルが顔を上げる。


「痛み、減りましたか」


「減った」


「よかったです」


「ただし」


ジェーンがすかさず言う。


「痛みが減っただけで、歩けるようになったわけじゃない」


「分かってる」


「本当に?」


「本当にだ」


「リヴァル」


ジェーンが横目で見る。

リヴァルはすぐに答えた。


「ガイの前線復帰は許可しない。治療経過と再検査を経るまで、

 作戦参加は制限する」


「だそうよ」


ガイは少しだけ顔をしかめた。


「先に言われたな」


シェスターがいれば、たぶん同じことを言っていた。

イルルはそう思って、少しだけ笑った。

トリートスプレイが止まる。


フィリアがレイアーツデバイスを下ろした。

イルルもハンマーから手を離す。

疲労はある。


けれど、倒れるような負荷ではない。

ジェーンが二人の数値も確認する。


「イルル、フィリア、どちらも問題なし。

 実用時は時間制限を付けたいけれど、医療補助としては使えるわ」


リヴァルは記録を保存した。


「トリートスプレイは治療班へ仮登録する。

 実戦使用時は、医療班かオペレーション室の許可を前提にする」


「はい」


イルルは真剣に頷いた。

その時、処置室の扉が開いた。


「遅れたッス!」


一輝が息を切らせて入ってきた。


手には端末。

背中には工具バッグ。


医療区画に持ち込むには、少しだけ場違いな装備だった。

ジェーンが目を細める。


「走った?」


「走ってないッス。速歩きッス」


「それを走るって言うのよ」


「すんませんッス」


一輝はすぐに頭を下げた。

リヴァルが端末を見る。


「時間には間に合っている。問題ない」


「ありがとうございますッス」


ガイが処置台の上で笑う。


「来たか、一輝」


「ガイさん、脚、大丈夫ッスか」


「寝てる分にはな」


「それ大丈夫じゃないやつッスね」


一輝は素直に言った。

ガイはまた笑った。


リヴァルは空中表示を処置室の中央へ展開した。


「では、治療記録に続いて、戦闘解析を行う。

 ガイの移動制限があるため、この場で確認する」


研究員が照明を少し落とす。

空中表示に、水の精霊戦の映像が映った。

荒れた湖畔。


水面から引きずり出された巨大な精霊。


ガイのレゾナンスロア。

シェスターの突入。

イルルの救出。

そして、問題の場面。


ガイが叫ぶ。

一輝が走る。

パイルデバイスが火を噴く。

下あごの直下。


直接届いていないように見えた一撃。

だが、衝撃は水を通り、外殻の内側へ走り、

精霊の下あごと胴体側を大きく崩した。


映像が止まる。

リヴァルが言った。


「ここだ」


一輝は画面を見上げる。


「自分、あの時、当てた感覚はあったッス。

 でも、直接ぶち込んだ感じじゃなかったッス」


「正しい」


リヴァルは映像を拡大した。


「パイルの先端は、下あご本体へ接触していない。衝撃は水中を通っている」


研究員が波形を重ねる。


「一輝君のイグニッションによるパイル衝撃。

 そこに、ガイさんのボイス系マナアーツが重なっています」


ガイは処置台から画面を見る。


「俺はドライブコールを乗せた。あいつを行かせるためにな」


リヴァルは頷く。


「それに加えて、君の声そのものが水中に残っていた。

 レゾナンスロアほどの直接出力ではないが、

 ボイスの圧力波がパイル衝撃の伝播経路を作っている」


フィリアが映像を見ながら言う。


「ガイさんの声が、水の中に道を作って、一輝さんのパイルがそこを通った……ということですか」


「近い」


リヴァルは別の波形を表示した。


「パイルの威力を、ボイスの圧力波に乗せて放っている。

 単独のマナアーツでは説明しにくい」


一輝が目を丸くする。


「じゃあ、これ、自分の新技じゃないんスか」


「君単独の技ではない」


リヴァルは即答した。


「ガイのボイス、一輝のイグニッション、

 パイルデバイスの衝撃。その三つが噛み合った現象だ」


ガイが笑う。


「俺とお前の合わせ技ってことだな」


一輝の顔がぱっと明るくなる。


「マジッスか」


「マジだ」


リヴァルは少しだけ考えてから、言葉を選ぶ。


「分類はマナアーツではなく、マナリンクとするべきだろう」


フィリアが記録用端末を開いた。


「マナリンク名、必要ですか」


「仮称でいい」


リヴァルは映像をもう一度流す。


パイルが放たれる。

声が水を震わせる。


衝撃が、離れた位置から精霊の下あごを崩す。


「ソニックパイル」


一輝が小さく繰り返す。


「ソニックパイル……」


ガイも口にした。


「悪くねえな」


「仮称だ」


リヴァルは釘を刺す。


「再現性は未確認。ガイが療養中である以上、今すぐ試験はしない」


一輝が少しだけ前のめりになる。


「ガイさんが治ったら、試せるッスか」


「治療が終わり、ジェーンが許可し、

 ガイ本人のボイス出力が安定していれば、段階試験を行う」


ジェーンがすぐに言う。


「つまり、しばらく先ね」


ガイは処置台の上で肩をすくめた。


「俺が寝てる間に、勝手にかっこいい名前付けられた気分だ」


「嫌ですか?」


フィリアが聞く。


「嫌じゃねえ」


ガイは笑った。


「ただ、あいつと一緒に撃った技なら、もう少し動ける時に聞きたかったな」


一輝は照れたように鼻の下をこすった。


「自分、頑張るッス。再現試験までに、

 パイルデバイスの出力調整、ちゃんと詰めとくッス」


リヴァルは静かに頷く。


「頼む。ただし、勝手な改造はしないこと」


「もちろんッス」


その返事は速かった。

速すぎた。

フィリアがわずかに反応する。

リヴァルも一輝を見る。


「一輝」


「はいッス」


「すでに何か申請したな」


一輝は、少しだけ目を逸らした。


「必要なやつだけッス」


フィリアの表情が固まる。


「必要な……申請?」


一輝は手に持っていた端末を思い出したように掲げた。


「そうッス。ちょうど作業承認をもらおうと思ってたんスよ。

 フィリアさん、今大丈夫ッスか」


「え」


フィリアが一歩下がる。

一輝は悪気なく近づいた。


端末の画面をフィリアへ向ける。

そこには、作業承認一覧が表示されていた。


パイルデバイス出力調整申請。

音響圧測定用防護材使用申請。


水中伝播試験用タンク予約申請。

ガイ療養後の段階試験予定枠申請。

予備パイルヘッド加工申請。


イグニッション出力ログ追加解析申請。

ドライブコール同調波形比較申請。

ソニックパイル仮称登録に伴う分類確認申請。


安全管理者確認申請。

医療班立会い依頼申請。

オペレーション室監視枠申請。

資材搬入申請。


追加資材搬入申請。

追加資材搬入申請の訂正申請。


訂正申請に対する補足資料申請。

フィリアの目が、ゆっくりと下へ流れていく。


一覧は、まだ終わらない。

スクロールバーは、ほとんど動いていない。


「……一輝さん」


「はいッス」


「これは」


「必要なやつだけッス」


「必要な……」


フィリアの声が遠くなった。

リヴァルが端末を覗き込む。


「提出先は間違っていない」


フィリアが救いを求めるようにリヴァルを見る。

リヴァルは続けた。


「ただ、量が悪い」


フィリアの膝から力が抜けた。


「フィリアちゃん!」


イルルが慌てて支える。

ジェーンもすぐに動き、フィリアの肩を押さえた。


フィリアは倒れた。

意識はある。


ただ、目が作業承認一覧のどこか遠くを見ている。

一輝が端末を持ったまま固まった。


「あれ、自分、なんかまずかったッスか」


ガイが処置台の上で腹を抱えるように笑った。

脚が動かせないので、上半身だけが震える。

ジェーンがすぐに怒る。


「ガイ、笑うと脚に響くわよ」


「悪い、無理だ」


リヴァルはフィリアの状態を確認し、淡々と言った。


「医療的な問題はない。事務処理性の失神に近い」


「そんな分類あるんですか?」


イルルが困惑する。


「今作った」


一輝は端末を抱えたまま、小さく呟いた。


「じゃあ、承認は後の方がいいッスかね」


フィリアが床の上で、かすかに震えた。


「後でも……あります……」


処置室に、しばらく誰も何も言えなかった。

フィリアが作業承認一覧を見て倒れてから、数日が経った。


ガイの治療は続いている。

イルルとフィリアのトリートスプレイは、

内出血と筋繊維損傷の回復を助けたが、骨格支持部の損傷までは戻せない。


ガイは医療区画で大人しくしている。

大人しくしている、ということになっている。


一輝はソニックパイルの再現試験に向けて作業計画を整理しているが、

提出前にリヴァルの確認を通すよう言われていた。

フィリアはその話題が出るたび、少しだけ遠い目をする。

そうした騒がしさをいくつか挟んだ後の夜。


翠川織葉の私室には、いつもの面々が集まっていた。


畳。

低い机。

湯呑み。

小皿に並んだ菓子。


壁際の端末には、夕方の情報番組が映っている。

織葉は画面の正面に座っていた。


背筋は伸びているが、完全に視聴者の顔だった。

紫乃はその横で、ゆったりと足を崩している。

クリスは机に肘をつき、菓子をひとつ摘まんでいた。


イルルは湯呑みを両手で包み、少し緊張した様子で画面を見ている。

今日は、リヴァルのシェルターが番組に出る。

そして、イルルも少しだけ話している。


「今日、リヴァル殿のとこ映るんやろ」


織葉が画面を見たまま言った。


「はい。取材が入ったとは聞いています」


イルルは湯呑みを握り直した。


「私も、少しだけ……」


「そそ。イルルも出るんでしょ。普通に番組デビューぢゃん」


クリスが軽く笑う。

イルルは首を振った。


「デビューというほどではありません。質問に答えただけです」


「十分デビューっしょ」


「クラリス殿のコーナーに出る時点で、もはや誉れやわ」


織葉が真顔で言った。

クリスも頷く。


「それはガチ」


紫乃がくすりと笑った。


「イルルちゃん、二人の圧に飲まれなくていいのよ。

 今日はあなたも映るんだから」


「映る……」


イルルは少し困ったように笑った。

画面では、番組の通常進行が続いている。


『続いて、各地の気象情報です』


アナウンサーの声と共に、地図が表示された。


内陸部の寒暖差。

沿岸部の強風。

山間部の降雨注意。


地域ごとの予報が、落ち着いた声で伝えられていく。

織葉はその間も、画面右下に出ている番組表をちらちら見ていた。


「職場の風通し、次やね」


「ソワソワしすぎだし」


クリスが笑う。


「してへん」


「してるって」


「してへん」


紫乃が湯呑みに口をつけながら言った。


「織葉ちゃん、背筋がいつもより三割増しよ」


「お母様」


「ふふ」


気象情報が終わり、画面は闇の霧情報へ移った。

地図の色が変わる。


黒と紫の帯が、地域ごとの濃度として表示される。


『続いて、闇の霧の動向です。

 すでに報道各社へ伝えられている通り、先日、水の封印が解除されました。

 それに伴い、海上で観測されていた闇の霧の流れに変化が見られています』


イルルの手が止まった。

画面の海域図では、

以前濃く表示されていた闇の霧の帯が、いくつか薄くなっている。


『特に安全領域に隣接する沿岸部では、海上の闇の霧が減少しています。

 一部地域では、漁業関係者との協議を経て、限定的に漁を再開、

 または解禁する動きも出ています』


「漁……」


イルルが小さく呟いた。

紫乃が静かにイルルを見る。


「海に出られる人が増えるのは、大きいわね」


「はい」


イルルは画面を見つめた。


「少しでも、戻れるなら……よかったです」


『ただし、闇の霧の流れが変わったことで、

 これまで低濃度だった地域に一時的な揺らぎが出る可能性もあります。

 各自治体、警備機関、避難所からの指示に従い、

 安全確認が取れた範囲で行動してください』


闇の霧情報は、注意喚起で締められた。

水の封印解除は、良い変化だけをもたらしたわけではない。


流れが変われば、どこかで新しい揺らぎも生まれる。

それでも、海上の霧が薄くなった場所がある。

漁を再開できる地域がある。


その事実は、イルルの胸に静かに残った。

画面が切り替わる。


『このあとは、特集コーナー「職場の風通し」です』


織葉の背筋がさらに伸びた。

クリスが菓子を置く。

イルルも湯呑みを机に戻した。

短いジングルが流れる。


風鈴にも似た、軽やかな音。

画面に、柔らかな文字が浮かんだ。


『職場の風通し』


続いて、クラリス・パズリアが映った。

白を基調にした衣装。

胸元には、風の花を模した小さなブローチ。


穏やかな笑顔。

けれど、声にはしっかりとした張りがあった。


『こんばんは。

 クラリス・パズリアです。

 今日の「職場の風通し」は、

 リヴァル・アニム氏が管理する特別シェルターを訪ねました』


織葉が小さく息を吸った。


「来はった……」


クリスも画面を見て頷く。


「今日の衣装、めっちゃ良くない?」


「良い。白基調に風花のブローチ、清潔感と復帰後の落ち着きが両立してるわ」


「解像度たっか」


イルルは少しだけ笑った。

クラリスの声が続く。


『精霊封印解除作戦、そしてリヴァイブプランの現場で、戦う人、支える人、

 守られる人がどのように関わっているのか。

 今回は、現地からお届けします』


画面がシェルター内部へ切り替わる。


通路を歩く職員たち。

子供たちを案内するスタッフ。


補給区画で物資を仕分ける非戦闘員。

通信端末を確認する担当者。

医療区画の前を通り過ぎる白衣の人影。


ジェーンらしき後ろ姿が一瞬映り、すぐ画面外へ消えた。

クリスが笑う。


「ジェーンさん、映りたくなさそうすぎ」


紫乃も口元を緩める。


「仕事中の顔だったわね」


次に映ったのは、イルルだった。

医療区画の談話スペース。

椅子に座り、少し緊張した顔でクラリスの質問を受けている。


画面の中のイルルは、今この部屋にいるイルルよりも、

少しだけ背筋を伸ばしていた。


『イルル・アースフィアさんは、水の精霊の人柱として救助され、

 現在は経過観察とリハビリを続けています。

 体調はいかがですか』


画面の中のイルルは、丁寧に頭を下げた。


『順調です。

 まだ検査は続いていますけど、

 歩いたり、話したり、少しずつ訓練したりできています』


クラリスは優しく頷く。


『以前のイルルさんは、自分の意思で動けない時間が長かったと聞いています』


イルルは少し間を置いた。


『はい。

 以前までの私は、擬態としてさまよっていました。

 自分の姿で、自分の声で、誰かを呼んでいたのに、

 それを止められませんでした』


部屋にいるイルルが、膝の上で手を握る。

紫乃が、そっとその手元を見た。


『でも、今は戻ってこられました。

 私を助けてくれた人たちがいます。

 私のことを、擬態だったからとか、

 人柱だったからとか、それだけで終わらせなかった人たちです』


クラリスが問いかける。


『これから、イルルさんはどうしたいですか』


画面の中のイルルは、少しだけ顔を上げた。


『約束しました。

 皆さんと一緒に、人も、マギアス化した方も、みんな助けるって。

 私一人でできることは少ないです。

 でも、私のレインで、誰かが少しでも戻ってこられるなら、

 そのために頑張りたいです』


織葉は静かに頷いた。

クリスも、さっきまでの軽さを少し引っ込めて画面を見ていた。


紫乃は優しく目を細める。

イルルは自分の映像を見ながら、少し恥ずかしそうに俯いた。


「……こうして見ると、すごく緊張していますね」


「緊張してても、ちゃんと伝わってるわよ」


紫乃が言った。

イルルは小さく頷く。


番組は、次にリヴァルへ移った。

場所は、シェルター内の会議スペースだった。


余計なものが映らないように整えられている。

リヴァルは椅子に座り、

いつも通りの落ち着いた表情でクラリスと向かい合っていた。


『リヴァル・アニムさんは、現在進行中のリヴァイブプランについて、

 現場責任者として対応に当たっています。

 リヴァルさん、リヴァイブプランの進行状況はいかがでしょうか』


リヴァルは一拍置いて答えた。


『順調です』


織葉が少し目を開く。


「言い切らはった」


クリスも頷く。


「珍し。いつもなら確定ではないとか言いそうなのに」


画面のリヴァルは続ける。


『僕らだけではなく、戦えない人たちの協力があるから、

 想定より早く進行しています。

 物資の整理、避難誘導、通信維持、医療補助、情報確認。

 そうした仕事があるから、前線の作戦が成立している』


クラリスが頷いた。


『封印解除によって、闇の霧の流れが変わることについて、

 不安の声もあります』


『当然だと思います』


リヴァルは淡々と答えた。


『結果として闇の霧の流れが変わり、迷惑が掛かる人もいるかもしれません。

 安全領域の見直し、一時的な輸送制限、生活の変化も起きるでしょう』


短い間があった。

だが、リヴァルの声は揺れなかった。


『しかし、もう時間はかけません』


部屋の空気が、少し変わった。

織葉も、クリスも、紫乃も、イルルも、画面を見た。


『最後の封印を解き、再封印を成し遂げます。

 そして、闇の霧を気にせずに暮らせる社会を達成します』


それは、リヴァルにしては珍しい言い切りだった。


予測ではない。

可能性でもない。

責任を持つ者の言葉だった。


クラリスはまっすぐにリヴァルを見て、それからカメラへ向き直った。


『戦う人だけではなく、支える人たちも共に進めるリヴァイブプラン。

 今日の「職場の風通し」は、特別シェルターの現場からお届けしました』


クラリスは穏やかに微笑む。


『誰かを守る仕事は、剣を取ることだけではありません。

 今日も、それぞれの場所で誰かを支えている皆さんへ、

 良い風が届きますように。

 クラリス・パズリアでした』


コーナーのエンディングが流れた。

織葉は両手を膝の上で握りしめていた。


「良い……」


クリスも大きく息を吐く。


「いや今日のクラリスちゃん、締めの声めっちゃ良かったんだけど」


「分かるわ。

 最後の『良い風が届きますように』の柔らかさ、

 あれは人柱救助後の深みが出てはる」


織葉の声が熱を帯びる。


「しかも相手の言葉を引き出す間が絶妙やった。

 イルル殿の言葉を急かさず、

 リヴァル殿の言い切りを邪魔せず、場を整えてはった。

 あの呼吸、ほんまに見事やわ」


「てか衣装も良くなかった?

 白ベースに風花ブローチ、清楚なんだけどちゃんと画面映えしてて、

 やばーって感じ」


「せやねん。あのブローチの位置も絶妙でな、目線が自然に表情へ戻るんよ」


「分かるー。

 あとリヴァルさんが言い切った後のクラリスちゃんの受け止め顔、あれ神」


イルルは、しばらく黙っていた。


自分の出番も、確かにあった。

擬態のことも話した。

約束のことも話した。

リヴァルも言い切った。


それなのに、感想はほとんどクラリスだった。

イルルは少しだけ口を開く。


「あの……」


織葉とクリスが同時に振り向いた。

イルルは小さく言う。


「私も、少し映っていました」


一瞬、部屋が静かになった。

紫乃が口元に手を当てて、肩を震わせる。

織葉がはっとした顔になる。


「も、もちろん見とったよ。イルル殿、よう話してはった」


クリスも慌てて頷く。


「見てた見てた。めっちゃ良かったし。ちゃんと伝わってたし」


「本当ですか」


イルルが少し疑わしそうに聞く。


「本当です」


織葉は真剣に頷いた。


「擬態としてさまよっていた、

 という言葉を自分で口にするのは、容易なことやありません。

 それでも、皆を助けたいと話した。立派でした」


クリスも表情を柔らかくする。


「うん。あれはちゃんとイルルの言葉だったよ。番組用とかじゃなくてさ」


イルルの表情が少し緩んだ。


「ありがとうございます」


紫乃がにこりと笑う。


「イルルちゃん、とてもよかったわよ。

 落ち着いていたし、声も綺麗だったわ」


「紫乃さん……」


イルルはほっとしたように湯呑みを持った。

だが、次の瞬間、織葉がコーナー終了後のクラリスの静止画を見て呟いた。


「それにしても、クラリス殿の声の戻り方はほんま……」


「分かる。復帰直後とはまた違う安定感出てるよね」


「せやろ。あれはもう、一段階上の領域に……」


イルルは湯呑みを持ったまま、静かに二人を見た。

紫乃が肩を揺らして笑う。


「イルルちゃん」


「はい」


「この二人にクラリスちゃんの話題で勝とうとしない方がいいわ」


イルルは少し考えてから、小さく頷いた。


「……はい。分かりました」


画面の中では、クラリスが静止画のまま穏やかに微笑んでいる。

織葉とクリスは、その微笑みについて、また別の角度から語り始めていた。


イルルは湯呑みに口をつける。

少しだけ悔しい。

でも、少しだけ嬉しい。


自分が話したことは、ちゃんと届いていた。

それなら今日は、それでいいことにした。

その夜、オペレーション室の灯りは落とされていた。


通常稼働の端末だけが、低い駆動音を立てている。

昼間は人の声と通信音が絶えない場所も、

深夜になると別の部屋のように静かだった。


壁面の大型モニターには、闇の霧の流動図が表示されている。


風。

地。

水。


解除済みの封印地点には、それぞれ淡い光点が置かれていた。

その光点を結ぶように、細い補助線が走っている。

最後の空白だけが、まだ黒く塗られていた。


リヴァルは一人で操作卓の前に立っていた。


フィリアはいない。

リオンもいない。


記録担当の研究員も、警備担当も下がらせてある。

通信回線は、通常のシェルター回線ではなかった。

画面右上に、接続先が表示されている。


レオ・アドレメリア。

リヴァルは通信相手の声を聞きながら、端末に表示された資料を閉じた。


資料名は、すぐに消える。

閲覧権限は、限定。

複製不可。

外部共有不可。


そして、未通知対象の欄には、一つだけ名前が残っていた。

クリスティナ・アドレメリア。

リヴァルはその欄を見て、短く目を伏せた。


通信の向こうで、低い声が言った。


『それでは、そのように頼めるか?』


リヴァルは顔を上げた。


「分かりました」


返答は短かった。

迷いはない。

しかし、明るさもなかった。


『こちらの準備は進めておく。君は、君の側で必要な手順を』


「はい」


リヴァルは端末へ指を置いた。


「ただし、彼女にはまだ伝えません」


通信の向こうで、わずかな沈黙があった。


『……そうか』


「今伝えれば、判断が変わる可能性がある。彼女だけでなく、周囲もです」


『君の判断を信じよう』


「ありがとうございます」


淡々とした声だった。

だが、その言葉が終わった後も、リヴァルはすぐに通信を切らなかった。

大型モニターの黒い空白を見る。


最後の封印。

まだ名前のない、次の作戦領域。

闇の霧の流れは、そこへ向かって細く歪んでいる。


水の封印を解いたことで、世界は少しだけ息を吹き返した。

海上の霧は薄くなり、一部の漁は再開された。


番組では、リヴァル自身が言い切った。

もう時間はかけない。

最後の封印を解き、再封印を成し遂げる。


闇の霧を気にせず暮らせる社会を達成する。

その言葉に嘘はない。


だが、言わなかったことはある。

言えなかったこともある。

通信の向こうで、レオ・アドレメリアが静かに告げた。


『リヴァル君』


「はい」


『クリスを頼む』


リヴァルは、ほんの少しだけ目を細めた。


「……分かっています」


今度こそ、通信が切れた。

画面右上の接続表示が消える。


オペレーション室は、再び低い駆動音だけになった。

リヴァルはしばらく動かなかった。

それから、端末に残った通信記録を閉じる。


記録は通常ログへは送られない。

指定された保管領域へ、自動で隔離される。

大型モニターの黒い空白だけが、まだそこにある。


リヴァルはその空白を見上げた。


「次は、簡単には済まない」


誰に聞かせるでもない声が、夜のオペレーション室に落ちた。

その直後、最後の封印地点を示す黒い領域に、細い赤線が一本だけ走った。

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