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四章 七話

イルルが病室でシェスターに過去を話してから、数日が経っていた。


その間、医療区画の窓を叩いていた循環水の音は、

何度か止まり、何度か戻った。


イルルの睡眠は安定した。

食事量も戻った。


歩行補助も外れ、医療区画内なら一人で移動できるようになっていた。

まだ退院ではない。


だが、寝台の上で休む段階は終わっていた。

ジェーンの言葉を借りれば、今は「弱った身体を守る時期」ではなく、

「戻ってきた身体を正しく測る時期」だった。


検査室の床は白く、壁際にはいくつもの測定機器が並んでいる。


筋出力を測る固定台。

肺活量を測る呼吸ユニット。


骨格密度を読み取る薄い板状のスキャナ。

マナ循環を見るための環状センサー。

イルルは検査服に着替え、測定台の上に立っていた。


表情は少し緊張している。

けれど、足取りはしっかりしていた。


「気分は?」


ジェーンが端末を見ながら尋ねる。


「問題ありません」


「頭痛は?」


「ありません」


「胸の苦しさ」


「ありません」


「嘘をついていたら数値で分かるわよ」


「ついていません」


イルルが少しだけ慌てて答えると、ジェーンは笑った。


「ならよし。

 今日の検査は、体調確認じゃなくて基礎値の取り直しよ。

 具合が悪い子を無理に動かす検査じゃないから、そこは勘違いしないで」


「はい」


「体力は戻ってる。

 睡眠も取れている。

 食事も入ってる。

 だから検査する。

 医療者はね、休ませるだけが仕事じゃないの。

 動ける身体を、いつまでも弱いものとして扱い続けるのも違うわ」


イルルはその言葉をゆっくり受け取った。

自分はもう、倒れた直後ではない。

助けられたばかりの人柱ではない。


戻ってきた身体で、これからどう生きるかを測る段階にいる。


「では、よろしくお願いします」


「ええ。まずは普通の身体検査から。緊張しなくていいわ」


「はい」


ジェーンは測定台の周囲にセンサーを展開した。

薄い光がイルルの身体をなぞる。


肩。

背中。

腰。

脚。


骨格の位置と筋肉の動き、呼吸の深さ、血流、基礎代謝。


数値が端末へ流れていく。

検査室の隣には観察室がある。


透明度を切り替えられる厚いガラスの向こうで、

リヴァルとシェスターが並んでいた。

リヴァルは壁面モニターに映る検査数値を見ている。


シェスターは数値よりもイルルを見ていた。


「これ、きつい検査じゃねえんだな」


シェスターが低く言う。


「少なくとも、今日の内容は負荷検査じゃない」


リヴァルは視線をモニターから外さずに答えた。


「ジェーンが許可している。今のイルルは検査に耐えられる状態だ」


「分かってる」


「君が同室にいると、止める判断が早くなりすぎる可能性がある」


「分かってるって言ってんだろ」


「だから、ここで見るのがちょうどいい」


シェスターは言い返しかけて、やめた。

実際、その通りだった。

イルルが少しでも顔をしかめれば、止めたくなる。


無理をしていないか、聞きたくなる。

大丈夫と言われれば、それを疑いたくなる。

それは必要な時もある。


けれど、今日の検査には邪魔になる。

シェスターは腕を組んだ。


「ジェーンが止めるんだな」


「止めるべき数値が出れば止める。僕たちはそれを信じる」


「お前、そういう時だけ医療班を信じるんだな」


「そういう時だけじゃない」


リヴァルは淡々と返した。


「専門家の判断は、僕の判断材料になる」


「面倒な信じ方だな」


「僕らしいだろう」


シェスターは小さく鼻を鳴らした。

検査室では、イルルが呼吸ユニットを口元に当てていた。


ジェーンが説明する。


「次、肺活量。

 普通に吸って、普通に吐く。

 二回目は深く吸って、できるだけ長く吐く。

 無理に記録を出そうとしなくていいわ。

 競技じゃないから」


「はい」


イルルは頷いた。

最初は普通の呼吸。

次に、深く吸う。

肩が上がらない。


胸だけではなく、腹と背中まで空気が入る。


静かで、深い呼吸だった。

吐く息も長い。


細く、途切れず、安定している。

ジェーンの眉がわずかに上がった。

モニターに数値が出る。


シェスターは意味が分からず、リヴァルを見た。


「どうなんだ」


「高い」


「高いってどのくらいだ」


「一般的な基準ではない。水上作業や持久運動に慣れた人間の数値だ」


ジェーンも同じ結論へ至ったらしい。

検査室側で端末を軽く叩く。


「イルル、もう一回。今度は呼吸を止める方」


「はい」


イルルは指示通りに呼吸を整える。

無理に気合を入れる様子はない。

海で波を待つような、静かな間だった。


測定が終わる。

ジェーンはしばらく端末を見ていた。


「なるほどね」


「何か、変ですか?」


「変ではないわ。むしろ納得したところ」


ジェーンは端末を回し、イルルにも見えるようにした。


「肺活量、呼吸の保持、息を吐き切る制御。

 どれも高い。

 数字だけ見ると、海で働いていたって話はかなり説得力があるわ」


イルルは少しだけ目を伏せた。


「よかった、のでしょうか」


「ええ。

 少なくとも、あなたの身体はちゃんと戻っている。

 戻っているどころか、こちらが想定していたよりずっと実用的」


「実用的……」


「かわいげのない言い方でごめんなさい。でも医療者としては褒めてるの」


ジェーンは次の検査へ移った。

筋出力。

握力。

肩周り。


背筋。

腰。

脚。

片足での静止。


不安定な足場での重心制御。

どれも戦闘訓練というより、基礎身体能力を見るものだった。


イルルは派手な動きはしない。

力を誇示するようなこともしない。


だが、足場が揺れても崩れない。

腰が逃げない。


膝が水の上にいる時のように柔らかく残る。

肩や背中の使い方も、見た目よりずっと実用的だった。


ジェーンの表情が、検査を進めるほど変わっていく。

驚きというより、納得と興味が混じった顔だった。


「……こんなかわいらしい顔をして」


イルルが瞬きをする。


「はい?」


「仕込み筋肉と骨格はかなり実用的ね」


観察室でシェスターがむせた。


「何言ってんだ、あいつ」


リヴァルは平然としている。


「医学的な評価だと思う」


「本当かよ」


検査室のイルルは少し赤くなっていた。

ジェーンは悪びれない。


「肩、背中、腰、脚。

 どれも見た目よりずっと強い。

 筋肉量だけなら大型の人物とは違うけれど、持久力の作り方が違うわ」


ジェーンは端末を操作し、以前取得されていた擬態時の検査記録を並べた。

イルルがまだ擬態として扱われていた頃の基礎データ。


血液型。

体組成。

皮膚反応。

マナ適性。


当時は、それが本人の身体なのか、

精霊由来の擬態なのか、判別できていなかった。


「擬態って聞いていたけど」


ジェーンの声が少し低くなる。


「体の成分や血液型まで、検査上はほぼ本人と一致していたのね。

 正直、ここまで再現していたのは驚きだわ」


イルルは画面を見つめた。

自分の形をしたもの。


自分の血と同じ反応を示すもの。

自分の声で話し、自分の記憶を持っていたもの。


「でも」


ジェーンは別の画面を開いた。

今のイルルの精密スキャン。

骨格。

筋肉の密度。


腱の付き方。

肺機能。

体幹の反応。


「正確に検査すると、構造だけは以前の擬態とは全く別物と言っていい」


イルルはゆっくり顔を上げた。


「別物……」


「擬態は、あなたの形を完璧に模していた。

 成分も、血液型も、表面上の身体反応も。

 でも、その身体がどう鍛えられてきたかまでは違う」


ジェーンはイルルの脚のスキャンを示す。


「ここ。足首から膝、腰へかけての支え方。揺れる足場で踏ん張る人の身体よ」


次に背中。


「背中と肩。

 重いものを持ち上げるだけじゃなくて、

 引く、支える、長時間同じ姿勢を保つための筋肉」


次に肋骨周り。


「肺を使う身体。息を止めるためじゃない。長く動くための呼吸」


イルルは何も言えなかった。

自分の身体を、そんなふうに見たことはなかった。

守る側で、治す側で、後ろにいるべき人間だと。


けれど、画面の中には違うものが映っている。


海で働いていた時間。

逃げ延びた時間。


濡れた足場で転ばないために覚えた重心。

波に逆らわず、しかし流されないための身体。


「これは才能だけじゃないわ」


ジェーンは言った。


「精霊化するまで生き延びていた間の過酷さも、ちゃんと身体に残ってる」


イルルの胸が少しだけ詰まった。


つらかった時間。

逃げた時間。

怖かった時間。


それが、ただの傷ではなく、自分を支えるものとして残っている。

そう言われた気がした。

観察室のシェスターは、黙って画面を見ていた。


リヴァルが静かに言う。


「擬態はイルルの形を再現していた。

 でも、イルルの生活歴までは再現していない」


「生活歴」


「海で働いていた時間、逃げ延びた時間、生き残るために身体が覚えた動き。

 それは本物の肉体に残っている」


シェスターは短く息を吐いた。


「つまり、あいつは弱くなったわけじゃねえんだな」


「単純な話ではない」


リヴァルは答える。


「擬態や精霊接続が補っていた部分は失われた。

 後でマナ試験をしないと断定できない。

 ただ、肉体そのものは弱体化ではない。

 むしろ本物の身体に戻ったことで、はっきり強く出ている部分がある」


「ならいい」


「戦力判断としては、まだ早い」


「そういうのは後でいい。検査に耐えられるなら、それでいい」


リヴァルは一度だけシェスターを見た。


「君らしい判断だ」


「うるせえ」


検査室では、マナ循環の測定へ移っていた。

イルルの周囲に環状センサーが展開される。


淡い青い光が、足元から胸元へ、胸元から肩へ、

肩から腕へと流れを読み取っていく。

ジェーンは医療側の端末を見ながら、リヴァルへ通信をつなぐ。


「リヴァル、基礎循環を送るわ」


『受け取った』


「精霊側の残留は?」


観察室のリヴァルが数値を重ねる。

数日前、循環停止装置で遮断した直後の反応。


封印解除後の反応。

病室での安定値。

そして、今の基礎循環。


『残留反応は検出下限近い。周期性もない。

 本人単独のマナ循環として見ていい』


イルルは少しだけ肩の力を抜いた。

ジェーンが気づく。


「安心した?」


「はい」


「そこは素直でいいわ」


イルルは頷いた。

ジェーンはさらに測定を続ける。


「ただし、本人単独になったということは、疲労も本人に戻るということよ」


「はい」


「精霊側が肩代わりしていたものはない。

 擬態のように、壊れても構造側で戻るものでもない。

 今のあなたは、本物の身体で、本物のマナを回している」


ジェーンの言い方は厳しくない。

事実を伝えているだけだった。


「だから、強いところは強いと認める。

 動けるところは動けると認める。

 でも、生身だからこそ、疲労も損傷も蓄積する。

 そこは忘れないで」


「はい」


「よろしい」


ジェーンは検査を終了させた。

センサーの光が消える。

イルルは測定台から降りた。

足元は安定していた。


ふらつきはない。

それを見て、ジェーンは満足そうに端末を閉じた。


「基礎検査は合格」


「合格、ですか」


「ええ。少なくとも、健康面で次の試験へ進めない理由はないわ」


観察室側の扉が開いた。

リヴァルとシェスターが入ってくる。


シェスターは一瞬、イルルの顔を見た。


「疲れたか」


イルルは少し考えてから答える。


「検査分は疲れました。でも、休めば戻る疲れです」


シェスターは頷いた。


「ならいい」


ジェーンが口元を少し緩める。


「いい答えね。大丈夫だけで済ませなかった」


イルルは少しだけ照れた。


「教わりましたので」


シェスターは目を逸らした。

リヴァルは端末を確認しながら言う。


「基礎身体能力とマナ循環は確認できた。次はマナの実用試験だ」


「すぐにやるの?」


ジェーンが尋ねる。

リヴァルは首を横に振る。


「休憩を挟む。基礎検査は問題なかったが、続けて行えばデータが混ざる」


「その判断なら同意するわ」


ジェーンはイルルへ視線を戻す。


「水分補給、十分休憩。

 それから次。

 今の身体は弱ってはいないけど、測った直後に続けて限界を見る必要はない」


「はい」


「次はマナの話になるから、医療側だけでは見切れない。

 フィリアを呼ぶんでしょう?」


リヴァルは頷いた。


「その予定だ。イルルとマナリンク経験がある。比較対象として一番近い」


イルルは自分の手を見た。

この手は、擬態ではない。

精霊の糸に引かれてもいない。


海で働き、生き延び、戻ってきた自分の手だ。

その手で、これから何ができるのか。


それを測る時間が来ていた。

シェスターが横から言う。


「休憩だろ。まず座れ」


「はい」


イルルは素直に頷いた。

ジェーンは満足そうに頷き、リヴァルは次の試験項目を端末へ送る。


基礎検査は終わった。

弱った身体を守るためではなく、戻ってきた身体を知るための検査。

その結果は、イルル自身が思っていたよりもずっと、強く、重く、

確かなものだった。


休憩を挟んだ後、検査室の配置が変わった。

さっきまで床に並んでいた身体測定用の固定台は壁際へ下げられ、

代わりにマナ測定用の環状センサーが二基、中央へ移されている。


床には薄い測定板。

天井にはマナ流動を拾う観測器。


壁際には医療用の反応ゲルと、

マギアス化反応を模した小型の試験サンプルが置かれていた。


実戦用ではない。

あくまで検査用。


けれど、イルルはそこに並べられたものを見て、少しだけ肩を正した。

さっきまでの基礎検査とは違う。


ここからは、レインを見る検査だった。

検査室には二つのアーツデバイスが運び込まれていた。


一つは、イルルのハンマーアーツデバイス。

水辺で何度も握ってきた、重い柄と大きな打撃部を持つ武器。


もう一つは、フィリアのレイアーツデバイス。

カービン状の本体に、白光マナを通すための調整フレームが組み込まれている。


フィリアはそれを両手で抱えるように持ち、銃口を床へ向けていた。


「よろしくお願いします」


フィリアが少し緊張した声で言う。

イルルは頭を下げた。


「こちらこそ、お願いします」


「そんなに固くならなくていい」


リヴァルが観察卓の前で言った。


「今日は実戦訓練じゃない。マナの安定性と、既存連携の再現性を見る」


ジェーンは医療用端末の前に立ち、

イルルの腕に巻かれた検査バンドを確認していた。


「体調面は問題なし。基礎検査直後の休憩も取れてる。

 数値が乱れたらこちらで止めるわ」


「はい」


イルルは頷いた。

シェスターは、前と同じく観察室側にいた。

透明度を上げたガラス越しに検査室を見ている。


リヴァルのすぐ隣ではなく、少し後ろ。

腕を組んで、黙っている。

同室に入ることもできたが、今回は自分から観察室に残った。


止めるべき時はジェーンが止める。

リヴァルが異常を拾う。

それなら、自分が中にいてイルルの顔ばかり見ている必要はない。


そう判断した。

ただ、落ち着かないものは落ち着かなかった。


「最初に確認する」


リヴァルが端末を操作する。


「イルル。デバイスなしで、低出力のレインを試して」


「はい」


イルルはハンマーアーツデバイスから手を離した。


両手を胸の前で軽く開く。

深く息を吸う。

レインのマナを呼ぶ。


今までなら、その感覚だけで水の気配が生まれた。


薄い霧。

小さな雨粒。

傷口へ向かう水の流れ。

けれど、今は違った。


胸の奥でマナは動く。

身体の中を巡る感覚はある。

だが、それが外へ出ない。


手のひらの先で、水にならない。

イルルは眉を寄せた。


「……出ません」


「無理に押さなくていい」


リヴァルはすぐに言った。


「出力不足ではなく、経路の問題だと思う。ジェーン、身体側の反応は?」


「安定してるわ。負担もない。出せないだけね」


「予想通りだ」


リヴァルは端末へ記録を入れる。


「擬態、あるいは精霊側の補助があった頃は、

 身体そのものが触媒に近い働きをしていた可能性が高い。

 今は本人単独の生身だ。

 マナセットは残っているが、外部行使にはアーツデバイスが必要」


イルルは自分の手を見た。


「できなくなったんですね」


「正確には、戻った」


リヴァルは言った。


「普通のアーツ使用者としては自然な状態だ。

 君が失ったというより、精霊由来の異常な補助が消えたと見た方がいい」


フィリアが静かに頷いた。


「私も、レイアーツデバイスを使った方が安定します。

 デバイスなしでも少しは扱えますけど、実戦用にはしません」


「はい」


イルルはハンマーアーツデバイスへ手を伸ばした。


柄を握る。

重みが手に乗る。

不思議と、安心した。

これは自分の武器だ。


精霊の糸ではない。

擬態の身体でもない。


自分が選び、自分が握ってきた触媒。


「次。ハンマーアーツデバイス経由で、ミストレインを低出力」


「はい」


イルルはハンマーを床へ軽く立てた。

打撃部が測定板に触れる。


レインのマナが柄を通り、打撃部へ流れた。


今度は、反応があった。

床近くに薄い霧が生まれる。


水面から立ち上るような淡い霧。

以前よりも、発生は少し遅い。

けれど、霧の粒は重く、形が崩れにくかった。


フィリアが目を細める。


「前と、少し違います」


「どう違う?」


リヴァルが尋ねる。

フィリアは言葉を選んだ。


「前のイルルさんのミストレインは、もっと軽く広がっていました。

 霧が先に場所を取って、あとから水のマナが追いつく感じです。

 でも今は、最初から粒が重いです」


「イルル本人の感覚は?」


「広げるのに、少し時間がかかります」


イルルは霧を見下ろした。


「でも、広がった後は前より保ちやすいです。流されにくい感じがします」


リヴァルは頷く。


「拡散性は低下。維持性と粒子ごとのマナ圧は上昇。

 基礎検査の結果と一致する」


ジェーンが医療端末を確認する。


「負荷は軽い。呼吸も乱れてないわ」


シェスターは観察室で短く息を吐いた。


「今のは問題ねえんだな」


「問題ない」


リヴァルは答える。


「ただ、以前のように即座に広域展開する使い方はしにくくなっている」


「代わりに?」


「場に残る。押されにくい。持久戦向きだ」


シェスターはイルルを見る。

霧の中で、イルルはハンマーを握っている。

顔は緊張しているが、苦しそうではない。


それを確認して、シェスターは黙った。

リヴァルは次の記録を開いた。


「フィリア。

 以前、マギアス襲撃時に、イルルのミストレインと君のライトが重なって、

 霧中のマギアスだけを浮かび上がらせた」


「はい」


フィリアが姿勢を正す。


「私も、あの時の感覚は覚えています。

 イルルさんの霧に、私のライトが散らずに残りました」


「イルルは?」


「覚えています」


イルルはフィリアを見る。


「あの時、フィリアさんの光が霧の中に入ってきて、

 霧が怖くなくなりました。

 暗くて見えなかったものが、輪郭だけ浮かぶような感じでした」


リヴァルは二人を見比べた。


「試しに、あの時マナリンクが発生したイメージで、

 マナを合わせてみてくれないか」


フィリアが一瞬、緊張で肩を上げる。


「再現、ですか」


「完全再現ではない。

 まずは感覚の確認でいい。

 出力は低く。

 ジェーン、止める基準は通常試験と同じでいい?」


「ええ。二人とも安定してる。急上昇があれば止めるわ」


リヴァルはイルルへ向き直る。


「イルルはミストレインのまま。

 フィリアはライトを低出力で重ねる。

 二人とも、相手のマナを押さないこと。

 混ぜようとしすぎないで、あの時の位置へ置くイメージで」


「はい」


「分かりました」


イルルは霧を少しだけ広げた。

フィリアはレイアーツデバイスを構える。


銃口は床へ向けたまま。

攻撃ではない。

光を通すための姿勢だった。


フィリアのライトが、ゆっくりと霧へ入った。


白い光。

強くない。

眩しくもない。


雨上がりの空から差す光のように、霧の中へ静かに落ちる。


霧は散らなかった。

光も弾かれなかった。


二つのマナは、最初から置き場所を知っていたように重なった。

床に置かれた試験用の小型反応体が、淡く輪郭を持つ。

通常の物体ではない。


マギアス化反応を模した、黒い粒子を含む医療用ダミー。

それだけが、霧の中で淡く光って見えた。


フィリアが息を呑む。

イルルも目を丸くした。

リヴァルの手が止まる。


「……一回で通ったか」


シェスターが観察室でぼそりと言う。


「何か変なのか」


「変ではない」


リヴァルは少しだけ目を細めた。


「想定より、かなり自然に噛み合っている」


フィリアが慌てて言った。


「すみません。何か間違えましたか?」


イルルも続く。


「強すぎましたか?」


「いや。逆だ」


リヴァルは端末へ表示された波形を見る。


「力みがない。衝突も少ない。

 互いのマナが干渉しているのに、押し合っていない」


シェスターが腕を組んだまま言う。


「似てるからじゃねえの」


フィリアとイルルが同時にシェスターを見る。


「似てる、ですか?」


フィリアが小さく聞き返す。

シェスターは少しだけ気まずそうに目を逸らした。


「遠慮して、でも守る時は前に出るとことか」


イルルは瞬きをした。

フィリアも黙る。


リヴァルは端末を見たまま言った。


「性格の話をマナリンクへ直接持ち込むのは乱暴だ」


「だろうな」


「ただ、完全に否定はしない」


シェスターが少しだけ眉を上げた。

リヴァルは続ける。


「マナリンクは、出力と性質だけではなく、

 使用者同士の意図の噛み合いが大きい。

 二人は攻撃より保護、制圧より識別、前進より支援を優先しやすい。

 結果として、マナの置き方が近い可能性はある」


フィリアは少し赤くなった。

イルルも、照れたように目を伏せる。


ジェーンが小さく笑った。


「医療者としては、

 似てるって言われて二人とも困るところまで似てるように見えるけど」


「ジェーンさん」


フィリアが困った声を出す。

イルルは少しだけ笑った。

リヴァルは記録を保存する。


「仮称として整理する。マナリンク、ライトソナー」


「ライトソナー」


フィリアがその名を繰り返す。


「ソナーと言っても音ではない。

 霧中の反応を光で浮かび上がらせる索敵・識別用のマナリンクだ。

 名称は後で調整してもいい」


「いえ」


イルルは霧の中で光る反応体を見た。


「分かりやすいです」


「私も、分かりやすいと思います」


フィリアも頷いた。

リヴァルは一度だけ頷き、次の画面を開いた。


「では、もう一つ確認したい。

 索敵ではなく、治療側へ寄せた場合に、同じ組み合わせが成立するか」


イルルが顔を上げる。


「治療側、ですか」


「具体的なアーツの選択は君に任せる。

 無理のない範囲で、回復系のレインを出せるなら反応を見たい」


イルルはハンマーを握り直した。

少し考える。

レインの中で、回復に一番近いもの。


傷を濡らし、塞ぎ、熱を引かせる雨。


「それなら、ヒールレインで試します」


リヴァルは頷いた。


「了解した。

 フィリアはライトを弱めに重ねる。

 治療対象は医療ゲル。

 マギアス反応サンプルにも近づけるが、直接照射はしない。

 ジェーン、医療側の判定を頼む」


「任せて」


ジェーンは反応ゲルの入った透明ケースを台へ置いた。

淡い赤色のゲル。

内部には、内出血や筋繊維損傷を模した微細な裂け目が作られている。


骨格モデルは入っていない。


「これは軟部組織の損傷モデルよ。骨折や破砕は対象外。

 そこは最初から分けて見る」


「はい」


イルルは小さく頷いた。

霧を一度消す。


そして、ハンマーアーツデバイスを通じてヒールレインを呼ぶ。

小さな雨粒が生まれた。

通常のヒールレインより、粒が重い。


だが、落ち方は優しい。

水が傷を探すように、ゲルの上へ降る。

フィリアがレイアーツデバイスを構える。


「ライト、重ねます」


白い光が雨粒の中へ入った。

雨がきらめく。


水しぶきの中に、細い光の筋が混じる。

レインの粒が、光を含んだままゲルの表面へ落ちた。


ジェーンの端末に数値が走る。


「浸透が速い」


ジェーンが言った。


「ヒールレイン単独より、表面で止まらずに中へ入ってる。

 光が経路を作っているのかしら」


リヴァルが波形を確認する。


「ライトが治癒対象の反応を拾い、レインの浸透方向を補助している。

 治癒そのものはイルル側、識別と誘導がフィリア側だ」


フィリアが少し驚いたように言う。


「私のライトが、治療の場所を見つけているんですか」


「そう見える」


リヴァルは画面を拡大した。


「マナリンク、トリートスプレイ。仮称としてはそう整理できる」


「トリート……スプレイ」


イルルが繰り返す。

リヴァルは説明を加えた。


「治療のTreat。

 水しぶきのSpray。

 そして、フィリアのRayを含む名称だ。

 名称は仮だが、機能とは合っている」


ジェーンが反応ゲルを確認する。


「内部の損傷モデルが回復してる。

 ヒールレイン単独より少し深いところまで届いているわね。

 内出血、筋繊維断裂、軽度の組織損傷なら、医療補助としてかなり使える」


シェスターがすぐに口を開いた。


「それをガイに使えば歩けるのか」


ジェーンは即答した。


「歩けないわ」


シェスターは黙った。


「だよな」


「ガイの脚は骨格と支持構造の損傷が大きい。

 トリートスプレイで内出血や筋繊維の状態は多少戻せると思う。

 でも、骨折や破砕された構造を組み直すアーツじゃない。

 固定と治療は必要よ」


イルルは真剣に聞いていた。


「痛みは、少し減らせますか」


「減らせる可能性は高い。

 ただし、痛みが減ると本人が動こうとするから、そこは別の問題ね」


「ガイさんですからね」


フィリアが小さく言った。

その場にいた全員が、少しだけ納得した沈黙を置いた。

リヴァルは次に、マギアス反応サンプルを台へ移す。


黒い粒子が内部に沈んだ小型ケースだった。


「次は鎮静方向の反応を見る。

 完全鎮静を目指す試験ではない。

 暴走反応の山が削れるかだけを確認する」


「マギアス化した生物に、使うためですか」


フィリアが聞く。


「可能性の確認だ。人を殺さない方針では、

 弱体化、鎮静、視認性の向上は重要になる」


イルルはハンマーを握る手に力を込めた。


「やってみます」


ジェーンが確認する。


「イルル、負荷は?」


「大丈夫……ではなくて、少し疲れています。

 でも、今の試験分なら問題ありません」


「よし」


フィリアも頷いた。


「私も、出力を落として合わせます」


トリートスプレイが、もう一度発生する。


雨粒と光。

水しぶきと白いレイ。


それがマギアス反応サンプルの周囲へ落ちる。


直接消すわけではない。

黒い粒子を砕くわけでもない。


ただ、暴れるように揺れていた反応が、少しずつ鈍くなる。

リヴァルの端末に波形が出た。


「完全鎮静ではない」


「弱いですか?」


イルルが尋ねる。


「違う。目的が違う」


リヴァルは言った。


「暴走反応の山を削っている。

 興奮、増殖、攻撃性に近い波形が低下している。

 ただし、マギアス化そのものを解除するほどではない」


ジェーンが医療側から補足する。


「生体に使うなら、攻撃を止めるというより、治療や拘束の前段階としては有用ね」


フィリアの表情が少し明るくなった。


「完全に止められなくても、弱らせることはできるんですね」


「そうだ」


リヴァルは頷く。


「ライトソナーで見つける。

 トリートスプレイで暴走反応を削る。

 どちらも、正面から倒すためではなく、助けるためのマナリンクだ」


イルルは、その言葉を静かに受け取った。

助けるためのマナリンク。

自分のレインが、また誰かを誘うためではなく、誰かを戻すために使える。


その事実が、胸の奥にゆっくり落ちていく。

フィリアも同じように、雨と光が消えた台を見ていた。


「イルルさん」


「はい」


「私、あの時のミストレインが怖くなかったんです」


イルルはフィリアを見る。

フィリアは少しだけ恥ずかしそうに続けた。


「敵が見えなくて怖かったはずなのに、

 イルルさんの霧の中にいると、守られている感じがしました。

 だから、ライトを重ねられたのかもしれません」


イルルは目を細めた。


「私は、フィリアさんの光が入ってきた時、霧が迷わなくなった気がしました」


「迷わなく」


「はい。どこを照らせばいいのか、分かったみたいに」


二人は少しだけ笑った。

シェスターは観察室でそれを見て、肩の力を抜いた。


リヴァルは端末へ最後の記録を入れる。


「第2検査、結果をまとめる」


ジェーンがイルルの数値を確認する。


「体調は安定。疲労はあるけれど、休憩で戻る範囲ね」


リヴァルは項目を読み上げた。


「一つ。

 イルルはデバイスなしでのレイン行使不可。

 精霊および擬態補助の消失によるものと判断」


イルルは頷く。


「はい」


「二つ。

 ハンマーアーツデバイス経由では、ミストレイン、ヒールレインともに安定。

 以前より小回りは落ちるが、粒子ごとのマナ圧と維持力が上がっている」


フィリアが端末を覗き込む。


「三つ。フィリアとのマナリンク適性は高い。既存連携を仮称ライトソナーとして整理」


リヴァルは続ける。


「四つ。

 ヒールレインとライトの連携により、仮称トリートスプレイの基礎反応を確認。

 範囲回復、深部軟部組織の治療補助、マギアス化反応の弱体化が見込まれる」


ジェーンが釘を刺す。


「ただし、骨折や破砕損傷は対象外。医療班の処置を置き換えるものではないわ」


「五つ」


リヴァルは一度、イルルを見た。


「これらは戦闘力の上昇というより、役割の明確化だ。

 イルルのレインは、支援、識別、治療、弱体化に強く出ている。

 ただし、今後の前線運用判断はハンマーアーツデバイスの実用試験後に行う」


「はい」


イルルはハンマーを握ったまま答えた。

ジェーンが軽く手を叩く。


「では、ここで休憩。今日の検査は順調だけど、順調だから休むのよ」


「はい」


フィリアがレイアーツデバイスを下ろした。


「イルルさん、お疲れさまでした」


「フィリアさんも。ありがとうございました」


「こちらこそ」


二人が互いに頭を下げる。

その仕草まで少し似ていて、

シェスターは観察室の向こうで小さく息を吐いた。


「やっぱ似てるな」


リヴァルは端末を閉じながら言った。


「完全に否定はしない」


「素直じゃねえな」


「僕が素直だったら、君は困るだろう」


「別に困らねえよ」


「そうか」


リヴァルはそれ以上言わなかった。

検査室では、イルルがハンマーアーツデバイスを両手で持ち直していた。


アーツデバイスなしでは、もうレインは外へ出ない。

けれど、ハンマーを握れば、雨は戻る。

そして、その雨には光が重なる。


霧は誰かを迷わせるためではなく、見つけるために。

雨は誰かを誘うためではなく、治すために。

イルルはその事実を、静かに胸の中へしまった。


マナリンクの検査を終えて、検査室はもう一度配置を変えた。

環状センサーは壁際へ下げられ、床の測定板だけが中央に残された。

その周囲には、衝撃吸収用の薄い防護材が敷かれている。


実戦訓練場ではない。

だが、通常の検査室よりは広く、

床も壁も、多少の衝撃を受け止められる作りになっていた。


イルルはハンマーアーツデバイスを握って立っている。

検査服の上から、軽い保護ジャケットを羽織っていた。


体調は安定。

マナ検査も問題なし。


ただし、今から行うのは数値を見るだけの試験ではない。

ハンマーアーツデバイスを、これまで通り前線で使えるのか。

武器を変更すべきなのか。


そもそも、イルルを第二戦線へ下げるべきなのか。

それを判断するための、実用試験だった。

観察室には、リヴァル、ジェーン、フィリア、シェスターがいる。


シェスターは腕を組んで黙っていた。

今度は本当に見ているだけだ。


イルルが危ないと思えば動きたくなる。

しかし、今回の相手はシェスターよりも相手の状態を見極められる二人だった。


翠川織葉。

クリスティナ・アドレメリア。


二人とも、イルルを壊さず、限界を引き出す技術を持っている。

だから判断は、シェスターではなく、二人に任されていた。


シェスター自身も、それを理解していた。

リヴァルが端末を確認しながら言う。


「今回の試験は、イルルの前線運用の可否を判断するものだ。勝敗は見ない」


検査室中央で、織葉が刀を腰に差したまま頷いた。


「承知しています」


その横で、クリスがレイピア型のアーツデバイスを手に、

楽しそうにイルルを見ていた。


「フィリア様とはマナリンクテストしたんでしょう?」


イルルは少しだけ肩を揺らした。


「はい。ライトソナーと、トリートスプレイの基礎反応を確認しました」


「まあ。では、わたくしとも少し試してみましょうか」


「え」


イルルが反応するより早く、クリスはレイピアの柄を軽く回した。


「ブロッサムフォーム」


細い刀身に、淡い水色のマナが乗る。

花弁のようなマナが、レイピアの鍔から広がった。

炎ではない。


クリスの本来の火ではなく、イルルのレインを受けた水花の形。


「アムソニアフォーム」


クリスは平然と言った。

イルルは目を丸くする。


「今ので、できるんですか?」


「お花は水があってこそ咲くものですもの」


クリスはにこりと笑った。


「もちろん、これはわたくしの触媒上で保持しているだけですわ。

 イルル様のレインを奪っているわけではありません」


リヴァルが観察室で端末を見る。


「マナ干渉は軽い。クリスティナの触媒保持範囲に収まっている」


フィリアが少し驚いたように言った。


「本当に、すぐできるんですね」


「クリスはそこが異常だ」


シェスターがぼそっと言う。

リヴァルは否定しなかった。


「異常という表現は雑だが、近い」


検査室で、織葉がイルルへ向き直る。


「では、条件を確認します」


イルルはハンマーを握り直した。


「はい」


「私とクリスティナ殿は、イルル殿へ加撃しません。

 斬りませんし、突きません。

 怪我をさせるための打撃も入れません」


クリスも頷く。


「ただし、止めます。払います。崩します。必要なら、押し戻しますわ」


「イルル殿は、私たちを敵として扱ってください」


織葉の目が鋭くなる。


「遠慮は不要です。私たちに当てられると思うなら、当てに来てください」


イルルは息を呑む。


「本気で、ですか」


「本気で構いません」


「怪我を……」


「させられるなら、ですわね」


クリスが軽やかに言った。

その言葉に嫌味はなかった。

ただ、事実を言っている。


イルルと二人の実力差は、明らかに離れている。

イルルが本気でハンマーを振っても、二人にまともに当てるのは難しい。


織葉も静かに続けた。


「これはイルル殿を傷つける試験ではありません。

 けれど、甘く見る試験でもありません」


イルルはゆっくり頷いた。


「分かりました」


観察室のシェスターが、腕に力を込める。

ジェーンが横目で見た。


「見てるだけよ」


「分かってる」


「止めるのは私とリヴァル。判断するのはあの二人」


「分かってるって」


シェスターは短く返す。

ジェーンはそれ以上言わなかった。

リヴァルが試験開始の合図を出す。


「開始」


イルルが踏み込んだ。

ハンマーを低く構え、右から左へ振る。

大きな武器に似合わず、初動は速い。


だが、織葉はすでに半歩外にいた。

刀は抜かない。


鞘の先が、イルルの手首の外側へ軽く触れた。


強く打ったわけではない。

ただ、軌道をずらすだけ。


それだけでハンマーの打撃部は空を切った。


イルルはすぐに踏み直す。

今度は縦に落とす。

クリスが内側へ入った。

レイピアで受けない。


刺さない。

刀身はイルルのハンマーの柄に沿うように滑り、

クリス自身はハンマーの内側、イルルの肩の近くへ入り込む。


「こちらですわ」


肩で押された。

強い衝撃ではない。


だが、重心の真ん中を押された。

イルルは一歩下がる。


「っ」


下がった足を、織葉が刀の腹で軽く叩いた。


足首の横。

痛くない。

だが、踏み込みが消える。


イルルの身体がわずかに浮いた。


織葉はその背中を鞘で押す。

転ばせない。

ただ、攻撃姿勢だけを剥がす。


イルルは歯を食いしばり、ハンマーを引き戻した。

横薙ぎ。

クリスのアームガードが、打撃部ではなく柄の根元を止める。


重いハンマーが止まったのではない。

力の入る前に、止められた。


「大きな武器ほど、内側が空きますわ」


クリスはそう言って、すぐに離れる。


イルルは追う。

踏み込む。

織葉が肩を刀の腹で軽く叩く。

今度は右肩。


ハンマーの持ち上がりが遅れる。

イルルはそれでも振る。


クリスが半身でかわし、レイピアの先でマナの流れだけを散らす。

水のマナが一瞬、打撃部から剥がれた。


ハンマーは空を切る。

観察室でフィリアが息を呑んだ。


「すごい……」


「すごいのはイルルじゃねえだろ」


シェスターが低く言う。


「二人が、当てずに止めてる」


リヴァルは頷いた。


「その上で、イルルに本気で攻めさせている。今回必要なのは、そこだ」


検査室では、イルルが何度も攻めた。


振り上げる。

振り下ろす。

横に薙ぐ。

踏み込む。


体当たり気味に距離を詰める。

だが、二人は触れさせない。


織葉は刀の腹と鞘だけで、肩、足、背中、手首を軽く叩き、

軌道と姿勢を崩す。

クリスはハンマーの内側へ入り、肩で押し、

アームガードで柄を止め、レイピアで水のマナ流だけを外す。


どちらも、イルルを傷つけない。

しかし、イルルは一度も有効な位置へ届かない。

息が上がり始める。


けれど、基礎検査で見た通り、呼吸は深い。

疲れてはいるが、乱れてはいない。


ジェーンが端末を見る。


「まだ問題なし」


リヴァルも数値を確認する。


「マナ循環は安定。出力はハンマー経由で維持できている」


イルルは一度、距離を取った。

額に汗が浮かぶ。

ハンマーを握る手に力が入る。

織葉は構えを崩さない。


クリスはレイピアを下げ、静かに待つ。

二人とも、まだ汗ひとつ乱れていない。

イルルはそれを見て、息を吸った。


「もう一つ、試します」


リヴァルが顔を上げる。


「名称登録前のアーツか」


「はい」


ジェーンが端末を確認する。


「数値はまだ許容範囲。止めるラインは超えてないわ」


織葉が静かに頷いた。


「どうぞ」


クリスは楽しそうに目を細める。


「見せてくださいな」


イルルはハンマーアーツデバイスを胸元へ引き寄せた。

レインのマナが、打撃部から柄へ、柄から腕へ流れる。


水は外へ広がらない。

霧にもならない。

雨粒にもならない。


イルルの身体に沿って、薄く纏わりついた。


肩。

背中。

腰。

膝。


足首。

水の膜ではない。

流れ続ける衣だった。

濡らすのではなく、包む。


押されれば流れ、崩れれば支え、傷つく前から治すように身体へ寄り添う。


マナアーツ。

フローイング・ドレス。


イルルの周囲で、淡い水の裾が揺れた。

観察室のフィリアが小さく声を漏らす。


「きれい……」


ジェーンは端末を見ながら眉を上げた。


「再生反応が常時走ってる。ただし治癒というより、

 衝撃分散と姿勢補助に近いわね」


リヴァルが食い入るように波形を見る。


「継戦用のアーツだ。攻撃力の増加ではない。

 崩れた後の戻りが速くなっている」


シェスターは黙ってイルルを見ていた。

水の衣を纏ったイルルが、踏み込む。


織葉が足を叩いた。

さっきと同じ位置。

足首の横。


だが、イルルの膝は落ちなかった。

水の衣が足首を支え、崩れた重心を戻す。


織葉の目がわずかに細くなる。

クリスが内側へ入る。

肩で押す。

イルルの身体は押された。


押されたが、流れた。

一歩下がるはずの身体が、半歩だけで止まる。

クリスがアームガードで柄を止める。


止まった。

だが、止めた後の反動が水の衣へ逃げ、イルルの肩と腰が戻る。


ハンマーの重さが死なない。

織葉の鞘が背中を押す。


クリスのレイピアがマナ流を散らす。

それでも、イルルの身体は崩れ切らなかった。


うまいのではない。

速いのでもない。


ただ、崩しても崩れたままにならない。

押しても押されたままにならない。


止めても、止まり切らない。

イルルは息を吐いた。

そして、横へ振った。

大きな横薙ぎ。


軌道は見えている。

織葉もクリスも、当然見えている。


本来なら、また内側に入り、軌道を落とし、柄を止め、

踏み込みを削れば終わる。

だが、その一連の細かい妨害が、今だけ、噛み切れなかった。


水の衣が、崩しを流す。

レインが、押し戻しを支える。

呼吸が、踏み込みを保つ。


海で働いてきた肺活量と体幹が、その場に残る。

イルルのハンマーが、想定より一歩深く入った。


織葉とクリスが同時に下がった。


安全距離。

ただ、それだけ。

二人は焦っていない。

服にも触れていない。


髪も乱れていない。

汗すら掠っていない。

けれど、下がった。


ハンマーは空を薙ぎ、重い風だけが検査室の床を叩いた。

イルルは肩で息をしながら、ハンマーを下ろした。


フローイング・ドレスの水の衣が、ゆっくりとほどける。


「……届きませんでした」


肩を落とす。

その声は、少し悔しそうだった。

織葉は刀を収めたまま、静かに言う。


「十分です」


イルルが顔を上げる。


「でも」


クリスがレイピアを下げて微笑んだ。


「今のは、わたくしたちが下がりましたわ」


「下がっただけで、当たってはいません」


「当てる試験ではありません」


織葉が言った。


「イルル殿が実力で押し返したのではありません。

 私たちも、止め方を誤ったわけではありません」


イルルは少しだけ縮こまる。


「はい……」


「ですが」


織葉の声が柔らかくなる。


「想定より、細かい崩しが効きませんでした」


クリスも頷く。


「崩した後の戻りが速すぎましたわ。

 反動を逃がして、身体を戦場に残し続ける。

 あれは相手にすると、とても面倒です」


「面倒」


イルルが繰り返す。

クリスはにっこり笑った。


「最高評価ですわ」


観察室のリヴァルが記録を保存する。


「フローイング・ドレス。継戦能力を上げる奥義として登録する」


ジェーンがすかさず言う。


「使用後検査必須」


「もちろんだ」


リヴァルは続ける。


「ハンマーアーツデバイスは継続。武器変更は不要。

 小回りの低下はあるが、フローイング・ドレスと組み合わせるなら、

 ハンマーの重量と持久戦適性が噛み合う」


フィリアがほっとしたように息を吐く。


シェスターは何も言わない。

ただ、イルルの顔を見ていた。


イルルはまだ少し悔しそうだったが、倒れそうではない。

そのことだけで、シェスターは十分だった。

リヴァルは結論を出す。


「第二戦線への完全後退は不要。

 前線支援、耐久、治療補助として段階復帰。

 実戦投入は医療制限と訓練記録を前提に判断する」


ジェーンがイルルを見る。


「強くなったから無理していい、ではないわ」


「はい」


「使用後の疲労は出ている。今日はここまで」


「分かりました」


イルルは素直に頷いた。

織葉とクリスが互いに視線を交わす。

その瞬間、フィリアが何かを察したように一歩下がった。


シェスターも、ガラス越しに眉を寄せる。


織葉がイルルへ向いた。

クリスもイルルへ向いた。


「今の踏み込みは明らかに私の間合い操作によって引き出されたものでありまして

「いいえあれはわたくしのマナ干渉に対する緊急反応でありフローイング・ドレスの真価が

そもそも武芸における相手の芯を揺らすとは肉体だけではなく精神の圧によっ

圧と言うならわたくしのアムソニアフォームによる水花の共鳴がイルルさんの

共鳴の前に構えです構えが崩れなかったからこそ横薙ぎに繋がったのであって

構えを崩さなかった理由こそマナの衣の保持力でありましてその保持力を見たのは

見たのは私です間合いの詰め際で足が沈まなかった瞬間に判断しました

判断が早いのは結構ですけれど引き出したのはわたくしですわなぜなら


いいえ私です

わたくしです


……

イルルは固まった。


「えっと」


フィリアが静かに後退した。

リヴァルは端末を閉じる。


「必要な評価は取れた。検査終了」


ジェーンが医療端末を持ち上げる。


「イルルの数値は後で見るわ。今は退避ね」


シェスターは一瞬だけイルルを見た。

イルルも助けを求めるようにシェスターを見た。


シェスターは目を逸らした。

そして退室した。

フィリアも続く。

リヴァルも出る。


ジェーンも出る。

誰も振り返らなかった。


検査室の扉が閉まりかけたところで、騒音が一度、綺麗に閉じた。

……そもそもイルルさんのハンマー軌道は水の衣が反動を逃がした結果として

だからこそ武芸者としてその反動逃がしを見極める相手が必要だったわけで

見極めるだけなら誰でもできますわ引き出すには適切な圧と美しい花のような

花ではなく武です

武だけでは咲きませんわ

咲かせる必要はありません

ございます」


ありません」

イルルは、検査室に一人残された。


正確には、一人ではない。

織葉とクリスがいる。


二人とも、真剣な顔をしてイルルを見ている。

イルルはハンマーアーツデバイスを胸の前で抱えた。


「あの……」


二人の視線が同時に集まる。


「いつまで続きますか?」


二人は即答した。


「白黒ハッキリするまでです」


「白黒ハッキリするまでですわ」


イルルは、逃げ遅れたことを理解した。

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