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四章 六話

病室の窓には、薄い雨が当たっていた。


本物の雨ではない。

シェルター外壁を洗う循環水が、換気塔の風にあおられて、

窓を叩いているだけだった。


それでも、イルルはしばらくそれを見ていた。

水が硝子を伝って落ちていく。

線になり、粒になり、また一つに重なっていく。


湖の水とは違う。

あの水とは違う。


そう思うだけで、少しだけ胸の奥が軽くなった。


病室の中は静かだった。

白い壁。

薄い青のカーテン。

ベッド横の小さな端末。


脈拍とマナ反応を拾う細いセンサー。

イルルの腕にはまだ検査用の細いバンドが巻かれている。


胸元にも、小さな測定パッチが貼られていた。

体力は削られていた。


だが、寝返りを打つことはできる。

座ることもできる。

歩くことも、ゆっくりならできる。


クラリスやナンディーヌが救い出された直後の状態とは違う。

ジェーンはそれを見て、何度か「体力の土台が違う」と言っていた。

イルル自身にも、その自覚はあった。


海で働いていた。

水の上にいた。


揺れる場所で立ち、濡れた甲板で荷を運び、

波の機嫌を読みながら体を動かしていた。

自分は守られるだけの人間ではなかった。


守れなかっただけで。

助けられなかっただけで。


その事実が、今はまだ、うまく喉を通らなかった。

扉が軽く叩かれた。


「入るぞ」


シェスターの声だった。

イルルは反射的に背筋を伸ばした。


「はい」


扉が開く。

シェスターが顔を出した。


片手には小さな紙袋を持っている。

見舞い品らしい。

けれど、中身は花でも菓子でもなく、

栄養補助ゼリーと水分補給用のパックだった。


「ジェーンに聞いた。食えるものがまだ限られるってよ」


「ありがとうございます」


「礼はジェーンに言え。選んだのはあいつだ」


シェスターはそう言いながら、椅子を引いた。


ベッドの横。

いつもより近い。


近いのに、近づきすぎない場所。

イルルはその距離に、少しだけ安心した。

シェスターは紙袋を棚に置き、椅子へ腰を下ろした。


「痛むか」


「今は、あまり」


「頭は」


「少し重いです。でも、大丈夫……」


そこまで言って、イルルは自分で止まった。


シェスターが眉を上げる。

イルルは小さく息を吸った。


「大丈夫、だけで済ませないんでした」


シェスターは短く頷いた。


「そうだな」


「少し頭が重くて、体の奥が空っぽみたいです。

 でも、怖い感じではありません。

 眠れば戻ると思います」


「なら寝ろ」


「その前に、話したいことがあります」


シェスターはすぐには返事をしなかった。

イルルの顔を見て、少しだけ目を細める。


「今じゃなくてもいい」


「今がいいです」


「無理してるなら止める」


「無理はしています」


シェスターの眉がさらに寄った。

イルルは慌てて首を横に振る。


「でも、悪い無理ではありません。

 今、話さない方が、ずっと苦しいと思います」


シェスターはしばらく黙っていた。

それから、椅子の背もたれに軽く体を預ける。


「分かった」


その時、扉がもう一度開いた。

ジェーンだった。


薄い灰色の医療服に、腰から簡易端末を下げている。

イルルの担当として、この数日ほとんど病室と検査室を往復していた女性だ。

柔らかい顔をしているが、患者が無理をするときだけ目が笑わない。


「話し声がしたから、一応ね」


ジェーンは端末を確認しながら近づいてきた。

イルルの脈拍、マナ反応、睡眠時間、薬の間隔を見ているのだろう。


「状態は悪くないわ。

 ただ、長く話すなら休憩を挟むこと。

 喉が乾いたら水分補給。

 途中で気分が悪くなったらすぐ止める。

 ここまでは約束」


「はい」


ジェーンは頷き、視線を少しだけシェスターへ向けた。


「あなたも。聞き役だからって黙って無茶を見逃さないで」


「分かってる」


「ならよし」


ジェーンは端末を腰へ戻しかけたが、ふとイルルを見る。


「それと、イルル」


「はい」


「この部屋の記録は残っているわ。

 人柱から戻った人の証言は、

 医療記録と作戦記録の両方に残す決まりになってる」


イルルの指が、布団の上で少しだけ動いた。

ジェーンは声を柔らかくした。


「だから、言いにくいことがあったら気をつけなさい。

 言わなくていいことまで、今ここで全部言わなくてもいい。

 止めたければ私が止めるし、記録に残したくない言葉があるなら、

 後で正式な手続きもできる」


シェスターが顔を上げる。


「録ってんのか」


「部屋全体じゃないわ。

 医療端末側の記録。

 本人の同意があれば詳細音声も残る。

 今回はまだ同意前だから、状態変化と会話時刻の記録だけ」


ジェーンはイルルを見る。


「あなたが話したいことが、医療や作戦に関係するなら記録対象になる。

 でも、全部を今、全部そのまま残す必要はない。

 そこは覚えておいて」


イルルは少しだけ考えた。

自分の話。


自分が言わなければ、誰も知らない話。


でも、記録に残る話。

イルルは膝の上で手を重ねた。


「残してもらって、大丈夫です」


ジェーンの目が少しだけ細くなる。


「本当に?」


「はい。私が忘れたくないので」


「つらくなったら止めるわよ」


「お願いします」


ジェーンは小さく息を吐いた。


「分かった。私は隣の控え室にいるわ。何かあれば呼んで」


扉の方へ歩きかけて、ジェーンはもう一度振り返った。


「シェスター」


「あ?」


「患者に強く言わせすぎないで」


「分かってる」


「あなたも顔色、良くないわよ」


「俺は患者じゃねえ」


「怪我人の付き添いも、だいたい自分が怪我人って忘れるのよね」


シェスターは何も返さなかった。

ジェーンはそれだけで満足したように、扉を閉めた。

病室はまた静かになった。


雨に似た循環水の音が、窓を細く叩いている。

イルルはしばらく、その音を聞いた。

シェスターも急かさない。


だから、イルルは自分の呼吸が整うまで待つことができた。


「私が水の精霊になる前のことから、話します」


シェスターは頷いた。


「聞く」


「私は、S地域に身を寄せていました」


口にした瞬間、胸の奥で何かが沈んだ。

S地域。

あの名前は、地図上の呼び名にすぎない。


けれど、イルルにとっては、しばらくの間、帰る場所の名前だった。


「大きなシェルターではありませんでした。

 海に近くて、古い倉庫や港の施設を繋げて、

 外壁を補強して、人が集まっていました。

 ちゃんとした安全圏とは言えなかったと思います。

 でも、皆で直して、皆で守って、どうにか暮らしていました」


「海の仕事をしてたって言ってたな」


「はい。

 船を出すことは少なくなっていましたけど、

 浮桟橋の修理や、水上輸送の手伝いをしていました。

 逃げてきた人の荷物を運んだり、壊れた発電機を岸から引き上げたり。

 私は、そういう場所にいました」


その頃の自分を思い出す。

水に濡れた靴。

海風。

塩の匂い。


怒鳴る大人たち。

泣き止まない子供。


それでも、夕方になると誰かが鍋を出し、皆で薄いスープを飲んでいた。

今思えば、あれも危うい日常だった。


だが、日常だった。


「襲撃がありました」


イルルは言った。


「何度も、小さいものはありました。

 暴走したマギアスが外壁にぶつかってきたり、物資を狙う人たちが来たり。

 でも、その日は違いました」


シェスターの視線が静かに強くなる。


「軍か」


「たぶん、マギアス軍でした。

 ただ、あの頃の私は、部隊名も所属も分かりませんでした。

 装備を持った人たちと、暴走したマギアスと、

 どちらも同じ方向から来ました。

 私たちは、何から逃げているのかも分からないまま逃げました」


シェルターの扉が破られた音。

警報。

叫び声。

水辺に走る人々。


火の匂い。

焦げた金属。

濡れた床を滑る足。


イルルは一度、喉を詰まらせた。

シェスターは何も言わない。

ただ、ベッド横の水分パックを取って、蓋を開けて差し出した。


イルルはそれを受け取り、少し飲んだ。


「ありがとうございます」


「続けられるか」


「はい」


イルルは小さく息を吐く。


「皆、散り散りになりました。

 誰がどこへ逃げたのか分かりません。

 私は海側へ逃げました。

 水辺なら、隠れる場所も、抜け道も知っていたので」


「一人だったのか」


「途中からは」


最初は何人かいた。

けれど、追ってくるものがいた。


暴走マギアス。

人。

軍。


何度か隠れ、何度か逃げ、気づけば声が聞こえなくなっていた。


「そこで、追いつかれました」


イルルの手が無意識に胸元を押さえる。


「殺されると思いました。武器を向けられたので。でも、違いました」


「捕まえるための装置か」


「はい。たぶん、そうです」


光ではなかった。

弾でもなかった。

何かを向けられた。

円形の器具。


細い支柱。

水の匂いを消すような乾いたマナ。


身体が動かなくなった。

声も出なかった。

撃たれた痛みはなかった。


けれど、自分の中の水が止められるような感覚があった。


「殺されなかったんです」


イルルはゆっくり言った。


「その時、少しだけ、助かったと思いました」


シェスターの表情が変わらない。

けれど、指が膝の上で軽く握られたのが見えた。

イルルは続ける。


「違いました」


その一言は、自分でも驚くほど冷たく出た。


「殺されなかったのは、使うためでした」


あの施設。

半地下の放棄基地。


今はもう、封印解除のために使い、停止された場所。

けれど、イルルにとっては、目を覚ました場所だった。


冷たい床。

天井の配管。

水槽のような装置。

体を固定する器具。


音声が遠く聞こえる。

誰かが何かを確認している。


「水性マナ反応、安定」


「被験体、生存」


「接続準備」


「照射角、固定」


そんな言葉が、今になって断片的に戻ってきた。

当時の自分は、聞いていたのかもしれない。


聞こえていたのかもしれない。

でも、理解できなかった。


「私は、あの施設で人柱にされました」


病室の空気が、少し重くなる。

イルルは目を伏せた。


「ナンディーヌさんやクラリスさんと同じです。

 精霊の行動に、私は抵抗できませんでした。

 どこからが私で、どこからが精霊なのか、分からなくなっていきました」


「覚えてるのか」


「全部ではありません。でも、戻ってきてから、繋がりました」


水の中に沈む感覚。

自分の身体が遠くなる感覚。


声を出そうとしても、声がどこか別の場所から出る感覚。

目を開けているのに、見ている景色が自分の目ではない感覚。


そして、助けを求める声。

自分の声。


「最初は、精霊本体と私は離れていませんでした。

 湖の中で、ずっと繋がっていたと思います。

 けれど、あの施設の周囲からマギアス軍がいなくなってから

 ……ある時、擬態が分離しました」


シェスターが少しだけ眉を寄せる。


「擬態」


「はい。

 疑似餌、と呼んだ方が正しいのかもしれません。

 でも、私の感覚では、擬態でした。

 私の形をしたもの。

 私の声で話すもの。

 私の記憶を使うもの」


イルルは自分の手を見る。

あの時、吊り下がっていた自分。


シェスターに殴られた自分。

痛みを感じた自分。


「でも、偽物ではありませんでした」


シェスターの視線が、イルルの手から顔へ戻る。


「お前そのものでもあった」


「はい」


イルルは頷いた。


「私そのものでもありました。

 だから、擬態が見たものは、私が見たものです。

 擬態が聞いたものは、私が聞いたものです。

 擬態が感じた怖さも、寂しさも、痛みも、私のものです」


「なら、あいつがやったことも自分のものだって言う気か」


シェスターの声は低かった。

怒っているわけではない。

止めようとしている声だった。

イルルは少しだけ唇を噛む。


「……そう思ってしまいます」


「違う」


即答だった。


「お前がやったことじゃねえ」


「でも、私の顔でした」


「それでもだ」


「私の声でした」


「それでもだ」


「私の気持ちを使っていました」


シェスターは黙った。

イルルは声を震わせないように、ゆっくり話した。


「助けてほしい。

 怖い。

 来ないでほしい。

 これ以上、誰もいなくならないでほしい。

 そういう気持ちは、本当に私のものでした」


病室の端末が、小さく脈拍の変化を拾う。

ジェーンが隣室で見ているかもしれない。


それでも、イルルは止まらなかった。


「その気持ちを使って、擬態は人を呼びました」


誰かが湖へ来る。

助けようとする。

手を伸ばす。

同情する。


危険だと分かっていても、置いていけなくなる。

そして、水が開く。


「私は、悪意を持ってやったわけではありません」


「分かってる」


「でも、誰かを助けさせて、喰わせていました」


シェスターの顔が歪んだ。

その表情を見て、

イルルはようやく自分の声が少し震えていることに気づいた。


「何人いたのか、分かりません。

 全部を見ていたわけではないんです。

 だけど、記憶はあります。

 助けに来てくれた人の手。

 驚いた顔。水に飲まれる音。

 私の声で、助けないでって言って、

 それでも助けようとしてくれた人がいました」


「イルル」


「はい」


「もういい」


シェスターの声は短かった。

でも、拒絶ではなかった。


これ以上自分を傷つけるな、という声だった。

イルルは首を横に振る。


「ここは、話させてください」


シェスターは歯を食いしばるように黙った。


「私は、ずっと思っていました。

 助けてほしい。

 でも、助けに来た人がいなくなる。

 だから、助けないで。

 そう思っていました」


「それを精霊に使われた」


「はい」


イルルは膝の上で手を握る。


「たぶん、水の精霊は、私のその気持ちを餌にしました。

 私の怖さを、誰かを呼ぶための声にしました」


「悪趣味だな」


シェスターの声が低い。


「はい」


イルルは小さく頷く。


「でも、それだけではなかったんです」


「何が」


「擬態は、分離しました。

 周囲からマギアス軍がいなくなって、

 施設の制御も崩れて、精霊本体が湖に残って、擬態だけが外に出た。

 そうなってから、私はマギアス軍に狙われるようになりました」


「精霊本体としてか」


「はい。私自身も、擬態も、精霊本体に繋がるものだったからだと思います」


マギアス軍は一つではなかった。

少なくとも、イルルにはそう見えた。


ある部隊は、捕まえようとした。


また施設へ戻そうとした。

ある部隊は、殺そうとした。


水の精霊を制御できないと判断したのかもしれない。

あるいは、別の部隊に渡したくなかったのかもしれない。


「何度も逃げました」


イルルは言った。


「でも、私は逃げているつもりでも、精霊からは逃げていませんでした。

 擬態の私は、自分が助かりたいと思いながら、

 同時に誰かを湖へ連れて行こうとしていました」


シェスターの目が少しだけ細くなる。


「俺たちに会った時もか」


「はい」


イルルは目を伏せた。


「初めて助けられた時、私はまだ擬態でした」


あの日。

シェスターに助けられた日。


危険な場所で、傷ついて、逃げていた。


助けてほしくて。

来ないでほしくて。


でも、本当は湖へ連れて行くための道筋でもあった。


「私は、本当に怖かったんです」


イルルの声は小さい。


「追われていました。

 傷ついていました。

 助けてほしかった。

 それは嘘ではありません。

 でも、同時に、助けてくれた人を湖へ連れて行く機能も持っていました」


「だからって、お前が俺を騙したことにはならねえ」


「でも」


「ならねえ」


シェスターは遮った。


「俺は助けるって決めた。

 お前が何だったとしても、あの場で助ける以外の選択はしねえ」


イルルは顔を上げた。

シェスターはまっすぐ見ていた。


「あの時のお前が擬態だったとしても、

 怖がってたのは本物だった。なら十分だ」


その言葉が、ゆっくり胸に落ちた。

イルルはすぐには返せなかった。

泣きそうになった。


でも、泣くために話しているのではない。

だから、呼吸を整えた。


「襲撃された時も、同じでした」


「マギアス軍がシェルターを襲った時か」


「はい。私は、できるだけ多くの人をあの湖へ連れて行こうとしていました」


シェスターの顔が少しだけ強張る。


「それも、精霊の機能か」


「そうだと思います。

 あの時の私は、皆さんを守りたいと思っていました。

 シェルターにいた人たちを助けたいと思っていました。

 フィリアさんを守りたいと思いました。

 でも、奥の方には別の流れがありました」


「湖へ連れて行く流れ」


「はい」


イルルは自分の胸元に手を置く。


「でも、その頃から少しずつ変わっていました」


「何が」


「シェスターさんの言葉が、響くようになりました」


病室に、少しだけ違う静けさが落ちる。


雨に似た水音が、窓を伝った。

イルルは思い出す。


「大丈夫は信用しないって言われました」


「言ったな」


「怪我人の仕事は謝ることじゃない、治ることだって言われました」


「それも言った」


「離れるなよって、言われました」


シェスターは少しだけ目を逸らした。


「それは、状況が状況だったからだ」


「はい」


イルルは頷く。


「でも、私には残りました」


一つずつ、残っていった。

疑似餌として人を誘うために使われるはずだった感情の奥に、

別の声が入ってきた。


助ける。

治る。

離れない。

大丈夫だけでは済ませない。


謝る前に、戻る。


「最初は、擬態の記憶に混ざっただけだと思います。

 シェスターさんに言われたことが、何度も繰り返されていました。

 助けるための声なのに、精霊の罠とは違う方向へ私を引っ張りました」


「俺がか」


「はい」


「そんな大したことは言ってねえ」


「言いました」


イルルは静かに言った。


「私にとっては、大きかったです」


シェスターは何も返さなかった。

イルルは続ける。


「あの湖へ戻った時、私はすぐに擬態と繋がりました」


「ボートで出た後か」


「はい。

 水辺に出て、しばらくしてからです。

 最初は少しだけでした。

 波の感覚が増えて、湖の底が近くなって、

 遠くで誰かが私を呼んでいるような感じがしました」


「その時点で、もう精霊に引かれてたのか」


「はい」


「言えなかったのか」


イルルは首を横に振る。


「言おうとしたのかどうかも、分かりません。

 あの時の私は、シェスターさんと水上にいられることが嬉しかったんです。

 役に立てることも、嬉しかったです。

 でも、それと同じくらい自然に、岸へ行こうと思いました」


「岸」


「はい。できるだけ人数を誘い出すために、あえて岸へ向かいました」


シェスターの目が鋭くなる。


「機体の不調は」


「たぶん、嘘ではありません。私がそう感じたので。

 でも、機体は壊れていませんでしたよね」


「一輝が異常なしって言ってた」


「はい。

 あれは、私の感覚の方が変えられていたのだと思います。

 水上にいると危ない。

 岸へ戻った方がいい。

 そう思わされました」


「俺とお前を岸へ寄せるためか」


「はい。そして、ガイさんや一輝さんにも来てもらうため」


イルルは唇を噛んだ。


「あの時、私はできるだけ多くの人を誘おうとしていました。

 自分でそうしようと思っていたわけではないのに、

 そうなるように動いていました」


「人柱は抵抗できない」


シェスターが言った。

イルルは頷く。


「はい。

 クラリスさんも、ナンディーヌさんもそうだったと聞きました。

 私も同じです。

 精霊の行動には抵抗できませんでした」


「でも、完全には同じじゃなかった」


イルルはシェスターを見る。

シェスターは視線を逸らさない。


「お前は、戻った」


イルルの胸が、少しだけ熱くなる。


「はい」


「それに、あの岸で言ったことが全部罠だったなら、俺はもっと腹立ってる」


「怒っているんですか」


「怒ってる」


イルルの肩が小さく揺れた。

シェスターは続ける。


「精霊にだ。お前にじゃねえ」


イルルはゆっくり息を吐いた。


「あの岸で話したことは、罠でした」


言葉にするのは痛かった。

それでも、言わなければならなかった。


「私の記憶や、気持ちや、怖さを使って、

 シェスターさんを近づけるための罠でした」


シェスターは黙って聞いている。


「でも、罠だけではありませんでした」


イルルは胸元へ手を当てる。


「あの時、話した家族のことも、父と母のことも、

 シェスターさんとそういう場所を作りたいと思ったことも、

 嘘ではありません」


声が震えた。

でも、止めなかった。


「擬態が経験し、感じてきた記憶は、私自身のものです。

 だから、その中でシェスターさんに助けられたことも、

 シェスターさんの言葉が響いたことも、私自身のものです」


シェスターの手が、膝の上で少しだけ動いた。

イルルはそれを見て、勇気を出す。


「私が、あの時シェスターさんに手を伸ばしたのは、精霊の罠でした」


「……」


「でも、手を伸ばしたかったのも、本当です」


病室の中で、測定端末が小さく音を立てた。

イルルのマナ反応が少しだけ上がったのかもしれない。


ジェーンが隣で見ているかもしれない。

でも、止めには来なかった。


「助けないでと言ったのは、本当です」


イルルは言った。


「助けに来た人がいなくなるのが怖かった。

 シェスターさんまでいなくなるのが怖かった。

 だから、助けないでと言いました」


シェスターは低く言う。


「でも、お前は助けてほしかった」


「はい」


「なら、俺は間違えてねえ」


その言葉に、イルルの目が少しだけ熱くなった。


「はい」


シェスターはそこで、少しだけ顔をしかめた。


「ただ、殴ったのは悪かった」


イルルは瞬きをした。


「それは……」


「痛かったんだろ」


シェスターの声には、まだ少しだけ悔しさが残っていた。

イルルは困ったように笑った。


「痛かったです」


「すまねえ」


「でも、戻ってこれました」


「それでもだ」


シェスターは短く言った。


「次は、殴らず戻す」


イルルはしばらく考えた。

そして、小さく首を傾げる。


「できれば、そうしてください」


シェスターは少しだけ苦い顔をした。


「できればじゃなくて、そうする」


「はい」


二人の間に、少しだけ柔らかい空気が戻った。

イルルはそれに助けられるように、最後の言葉へ向かった。


「シェスターさん」


「ああ」


「改めてになりますけど」


手が震えた。

でも、声は逃げなかった。


「私は……いえ、私自身の気持ちは変わっていません」


シェスターの目が、まっすぐイルルを見る。


「擬態でも、精霊でも、罠でもなくて」


イルルは言った。


「今ここにいる私の気持ちです」


窓の外で、水が落ちる。

あの湖ではない水。


病室の硝子を伝う、ただの循環水。

イルルはその音を聞きながら、シェスターへ向き直った。


「一緒に助け合って、生きていきたいです」


言った瞬間、胸の奥が軽くなった。


怖くないわけではない。

過去が消えたわけでもない。


自分の声で誰かを誘った記憶も、

誰かが水に飲まれた記憶も、消えることはない。

それでも、今の言葉は、罠ではなかった。


精霊の声ではなかった。

擬態の機能ではなかった。

イルル自身の言葉だった。

シェスターは黙っていた。


短く返す人だと知っている。

それでも、その沈黙が少しだけ長く感じた。


イルルは不安になりかける。

その前に、シェスターが椅子から立った。


ベッドの横へ近づく。

イルルの手が布団の上にある。

シェスターはそこに触れた。


握るというより、逃がさないように包む手だった。


「聞いた」


イルルは頷く。


「はい」


「今度は、聞き間違えねえ」


シェスターの声は低かった。


「罠でも何でもねえ。お前の言葉だ」


イルルの目から、涙が落ちた。

慌てて拭こうとしたが、シェスターの手が離れなかった。

だから、拭けなかった。


「俺もだ」


短い言葉だった。

けれど、イルルには十分だった。


「俺も、お前と生きる」


涙がもう一つ落ちた。

イルルは笑おうとして、うまくいかなかった。

泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からない顔になった。


「はい」


それだけ返す。

シェスターは手を握ったまま、少しだけ視線を逸らした。


「ただし」


イルルは瞬きをする。


「はい」


「無理はするな」


「はい」


「大丈夫だけで済ませるな」


「はい」


「助けないで、も禁止だ」


イルルは少しだけ困った。


「それは、状況によるかもしれません」


シェスターが眉を寄せる。

イルルは慌てて言い直す。


「でも、言う時はちゃんと理由を言います」


「ならいい」


シェスターはそう言って、ようやく椅子へ戻ろうとした。

けれど、イルルの手はまだ離さなかった。

イルルも離さなかった。


扉の向こうで、小さく端末の通知音が鳴る。

ジェーンが記録を確認しているのかもしれない。


やがて扉が少しだけ開いた。

ジェーンが顔だけ出す。


「状態、少し上がったけど安定してるわ。続けるなら、あと五分」


シェスターが少しだけ気まずそうな顔をした。

イルルは頷く。


「はい」


ジェーンは二人の手元を見た。

シェスターの手が、まだイルルの手を握っている。


イルルも、それを離していない。

ジェーンは何か言いかけて、いったん飲み込んだ。

けれど、今度は扉を閉めなかった。


そのまま中へ入り、端末を腰から外す。


「……やっぱり、五分は取り消し」


シェスターが顔を上げる。


「悪化したのか」


「悪化してないから、ここで止めるの」


ジェーンはベッド脇の測定値を確認しながら言った。


「今のイルルは、気持ちが落ち着いて、反応も安定してる。

 だからこそ、ここから先は休む時間。

 気持ちが楽になった直後って、本人はまだ話せると思いがちだけど、

 身体は別よ」


イルルは少しだけ肩を落とした。


「すみません」


「謝るところじゃないわ」


ジェーンは即座に返した。


「今の話をしたことは、必要なことだったと思う。

 むしろ、よく話せたわ。

 そこはちゃんと評価する」


イルルは驚いたようにジェーンを見る。

ジェーンは端末を閉じ、少しだけ表情を和らげた。


「でも、必要な話をしたからこそ、休む。そこまで含めて治療よ」


シェスターが椅子から立ちかける。


「なら、俺は――」


「ええ。退室」


言い切られた。

シェスターの眉が寄る。


「まだ何も言ってねえ」


「言う前に分かること、あるのよ」


どこかで聞いたような言い方だった。

紫乃ほど柔らかくはないが、医療側の人間特有の容赦のなさがある。

ジェーンはシェスターを見た。


「あなたも顔色が良くない。付き添いとしては及第点。

 でも、今ここで粘るのは減点」


「俺は患者じゃねえ」


「それ、付き添いが一番言う言葉ね」


シェスターは黙った。

ジェーンは続ける。


「イルルに必要なのは、今夜ちゃんと眠ること。

 あなたに必要なのは、病室の外で自分の呼吸を戻すこと。

 ここで二人して起き続けても、明日そろって怒られるだけよ」


「もう怒ってるだろ」


「まだ優しい方」


イルルが小さく笑った。

その笑いを見て、シェスターは少しだけ口を閉じる。

ジェーンはその隙を逃さず、ベッドの背を少し下げた。


「イルル、横になって」


「はい」


イルルはゆっくりと身体を沈めた。

シェスターの手が離れる。

離れる瞬間、イルルの指が少しだけ動いた。


それを見て、シェスターは一度だけ握り返した。


強くはない。

確認するような力だった。


「明日、来る」


「はい」


「寝ろよ」


「はい」


「大丈夫だけで済ませるな」


イルルは少しだけ目を細めた。


「はい。ちゃんと、眠ります」


シェスターは頷いた。

それからジェーンの方を見る。


「何かあったら」


「呼ぶわ」


「本当に呼べよ」


「医療班を何だと思ってるの」


「信用はしてる」


「なら大人しく出ていく」


シェスターはまだ少し不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


病室の扉へ向かう。

扉の前で一度だけ振り返った。


イルルは枕に頭を預けたまま、シェスターを見ていた。


「シェスターさん」


「ああ」


「明日」


「来る」


返事は早かった。

イルルは安心したように頷いた。


シェスターは扉を開け、今度こそ病室を出ていった。

扉が静かに閉まる。


病室には、ジェーンとイルルだけが残った。

窓の外では、循環水がまだ硝子を叩いている。

ジェーンはベッド横の椅子へ腰を下ろした。


すぐに処置をするわけでも、端末を見るわけでもない。

ただ、イルルの目線と同じ高さに座った。


「少しだけ、看護師としてじゃなくて、あなたの担当として言っておくわね」


イルルは瞬きをした。


「はい」


「あなたは戻ってきた」


ジェーンはゆっくり言った。


「精霊の擬態でも、疑似餌でもなくて、今ここに本物の身体で戻ってきた」


イルルの指が、布団の上で小さく動く。


「はい」


「なら、その身体を雑に扱っては駄目」


ジェーンの声は穏やかだった。

けれど、逃げ場はなかった。


「擬態だった頃のあなたは、痛みも記憶も抱えていたけれど、

 身体の扱われ方は精霊側に引きずられていた。

 壊れても戻る。傷ついても使われる。そういう理屈の中にいた」


イルルは息を止める。


「でも、今は違う。今の身体は、あなたが生きていくための身体よ」


ジェーンはイルルの腕に巻かれた検査バンドを軽く指で示した。


「疲れれば眠らなきゃいけない。

 傷つけば治す時間がいる。

 マナを使えば消耗する。

 怖いことを話せば、心だけじゃなくて身体も反応する。

 そういう当たり前のことを、これからは一つずつ大事にして」


「……はい」


「あなたは海の仕事をしていたから、体力がある。

 水上で動く勘もある。

 今回も、それがあったから救出後すぐに立てた」


ジェーンは少しだけ目を細めた。


「でも、体力がある人ほど、自分の限界を見落とすの。

 まだ行ける、まだ動ける、まだ誰かを助けられる。

 そうやって、一番大事なところで倒れる」


イルルは何も返せなかった。

思い当たることがありすぎた。

助けたい。

支えたい。


役に立ちたい。

その言葉は、自分にとって綺麗なものだった。

けれど、逃げ道にもなっていた。


ジェーンは続ける。


「これから大切な人との時間が増えるでしょう」


イルルの頬が少しだけ熱くなった。

ジェーンはそこには触れない。

ただ、淡々と、でも優しく言った。


「その時間を無駄にしないために、身体の管理をしなさい」


イルルはジェーンを見た。


「身体の管理……」


「食べる。

 眠る。

 検査を受ける。

 痛いなら痛いと言う。

 怖いなら怖いと言う。

 動けると言う前に、どれくらい動けるかを考える。

 誰かを助ける前に、自分が倒れないか確認する」


ジェーンは指を折るように並べていく。


「地味でしょう」


「……少し」


「でも、そういう地味なことを雑にすると、未来の時間が削れるの」


その言葉は、静かに刺さった。

未来の時間。

シェスターと明日会う時間。

話す時間。


歩く時間。

助け合う時間。

それを守るために、眠る。


それを守るために、無理をしない。

それは、今までイルルが考えていた「役に立つ」とは少し違っていた。

でも、たぶん同じくらい大事なことだった。


「私は……」


イルルはゆっくり言葉を探した。


「助けてもらった分、返さなきゃと思っていました」


「それは悪いことじゃないわ」


ジェーンは言った。


「でも、返す方法は倒れることじゃない。

 元気でいることも、十分返す方法よ」


イルルは目を伏せる。


「元気でいることが」


「そう」


ジェーンは微笑んだ。


「あなたが明日もちゃんと目を覚ます。

 シェスターが来た時に、自分の言葉で話せる。

 ご飯を少しでも食べる。

 検査で数値を安定させる。

 それだけで、安心する人がいる」


シェスターの顔が浮かんだ。

ガイ。

紫乃。

フィリア。


リヴァル。

一輝。

ナンディーヌ。


皆、それぞれ違う顔で心配するのだろう。

イルルは胸元に手を置いた。


「それも、助けることですか」


「ええ」


ジェーンは頷いた。


「少なくとも、私はそう思う」


イルルは小さく息を吐いた。

水の音がする。

病室の外を流れる水。

湖ではない水。


誘うためでも、飲み込むためでもない水。


「分かりました」


イルルは言った。


「ちゃんと、休みます」


「よし」


ジェーンは満足そうに立ち上がった。


「じゃあ、今夜の目標は睡眠。

 難しいことを考え始めたら、水を一口飲んで、目を閉じる。

 眠れなかったら呼ぶ。

 夢を見ても呼ぶ。

 いい?」


「はい」


「言いにくいことがあっても呼ぶ」


「はい」


「シェスターに言う前に、医療班に言っていいこともある」


イルルは少しだけ驚いた。

ジェーンは片目を細める。


「大切な人だからこそ、全部を最初に背負わせなくていいのよ」


イルルはゆっくり頷いた。


「はい」


ジェーンは照明を少し落とした。

病室が淡く暗くなる。


窓を伝う水の線だけが、外の光を受けてぼんやり見えた。


「おやすみ、イルル」


「おやすみなさい、ジェーンさん」


ジェーンは扉へ向かった。

開ける直前、少しだけ振り返る。


「明日、シェスターが来る前に検温と食事。逃げられないからね」


イルルは小さく笑った。


「逃げません」


「よろしい」


扉が閉まった。

今度こそ、病室に一人になった。


イルルは天井を見た。

身体は重い。

頭も少し痛い。


でも、胸の奥はさっきより静かだった。


自分の身体。

自分の時間。

自分の明日。


それを大事にすることが、誰かと生きることに繋がる。

イルルは布団の中で、そっと自分の手を握った。

さっきまでシェスターに握られていた手。


まだ少しだけ、その感触が残っている。


「明日」


小さく呟く。

明日、また会える。

そのために、今は眠る。

イルルは目を閉じた。


窓の外の水音は、まだ続いている。

それはもう、誰かを呼ぶ声には聞こえなかった。

ただ、夜の中を流れていく、静かな水の音だった。

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