四章 五話
水面が閉じるより早く、ガイは動いていた。
一輝には、何が起きたのか分からなかった。
黒い影が開いた。
シェスターがイルルへ手を伸ばした。
その次の瞬間、ガイが水際へ踏み込んでいた。
「ガイさん!?」
一輝の声より早く、ガイの腕が湖面へ突っ込まれる。
水が爆ぜた。
黒い影の内側から、何かを掴んだ。
「ぐっ……!」
引き上げられたのは、シェスターだった。
襟首を掴まれ、ほとんど投げ飛ばされるように陸側へ転がされる。
シェスターは砂利の上を滑り、肘をついて起き上がった。
「何すんだ!」
ガイは水際から目を離さなかった。
「お前は食われかけたんだよ」
「は……?」
「何かにな」
シェスターの視線が湖へ向く。
湖面は閉じていた。
波だけが残っている。
イルルはいない。
「イルルは――」
「まだ見えねえ」
ガイは低く言った。
「だから、引きずり出す」
ガイは深く息を吸った。
胸が大きく膨らむ。
周囲の空気が震えた。
「マナアーツ」
その声が、低く沈む。
「レゾナンスロア!」
咆哮が湖面へ叩き込まれた。
空気を震わせる声ではない。
水を震わせる声だった。
音は水面を割らず、潜った。
水中へ。
黒い影が消えたはずの場所へ。
湖の底まで、圧力となって走る。
次の瞬間、湖が内側から鳴った。
低く、重く、巨大な腹の中を叩いたような音。
水面が波打つ。
一輝の端末が警告音を鳴らした。
『湖中マナ反応、急上昇!』
フィリアの声が通信に走る。
『反応、通常マギアスではありません。精霊反応です!』
リヴァルの声が続く。
『位置は湖中。だが、浮上している』
ガイはもう一度息を吸った。
「水の中なら効くな」
湖面が膨れた。
苦しむように、何かが水面を押し上げてくる。
ぷかり、と。
巨大な頭部が浮かんだ。
続いて、ぬめる胴体。
左右に張り出した前脚。
水を掻く膜を持つ後脚。
魚ではない。
獣でもない。
蛙にも似ている。
だが、完全な蛙ではない。
巨大なオタマジャクシが、四肢を得る途中で止まったような姿だった。
水と骨と薄い膜が混ざったような身体が、湖面に重く浮かぶ。
頭部だけは異様に硬く見えた。
白い骨格。
頭蓋に似た外殻。
そこから伸びる青い線。
髪にも、神経にも、水の糸にも見える細い束が、
頭部の前から外へ伸びている。
それは湖面を越え、岸へ向かっていた。
その先に、イルルがいた。
いや、イルルのようなものがいた。
水際に吊り下げられ、後頭部から青い線で繋がっている。
さっきまでシェスターに手を差し出していた姿。
同じ顔。
同じ髪。
同じ声を出していたもの。
けれど今は、力なく揺れている。
シェスターの喉が詰まった。
「イルル……」
『水の精霊と見ていい』
リヴァルの声が通信に入る。
『全員、距離を取って。まだ構造が分からない』
ガイは短く吐き捨てた。
「分かってからじゃ遅いんだよ」
水の精霊が、四足で湖面を踏んだ。
一輝が後ずさった。
「なんスか……あれ……」
「考えるのは後だ」
ガイは言った。
その声に、一輝の肩が跳ねる。
「一輝」
「は、はいッス!」
「パイルを準備しろ」
「今、ここでッスか」
「いいか」
ガイは振り返らない。
水の精霊から目を離さないまま、言った。
「俺が生きてる限り、どうなってもお前は俺の合図まで、
いつでもそのパイルを撃てるように待つんだ」
一輝の喉が鳴る。
ガイの声は怒鳴っていない。
だが、逆らう余地はなかった。
「絶対に出てくるなよ」
「……了解ッス」
一輝は震える手で、背負っていたパイルデバイスを下ろした。
普段の整備区画で扱う時とは違う。
今は、目の前に精霊がいる。
それでも、一輝はガイの声に従った。
パイルの固定を外す。
腕部装着具を展開する。
マナ供給ラインを接続する。
手順を一つずつ追う。
ガイは次に、通信端末へ声を投げた。
「紫乃さん!」
基地内から紫乃の声が返る。
『聞こえてるわ』
「ローム主任を下げろ。安全な場所まで移してから、こっちへ来てくれ」
紫乃の返答に迷いはなかった。
『分かったわ。ローム主任、こっちは一度下がりましょう』
『ちょっと待ちな、まだ端末が――』
『後で見られる端末と、今ここにいるローム主任。
おばさん、どっちを抱えるべきかは分かるわ』
ナンディーヌが短く息を吐く音がした。
『……分かった。腕、引っ張るなら右にしてくれ。左は端末を持ってる』
『ええ。優しくするわ』
通信の向こうで足音が動き出す。
ガイはそこで、ようやく一歩前へ出た。
水の精霊が動いた。
四足で水面を踏む。
足が水を掴むたび、湖面が沈み、戻る。
水の上にいるのに、そこに重さがあった。
吊り下がったイルルのようなものが、かすかに揺れる。
その口が動いた。
声は届かない。
けれど、唇だけが言葉を作っている。
来ないで。
助けないで。
シェスターが立ち上がろうとした。
「イルル……!」
ガイが左手を横へ伸ばす。
「動くな」
「どけ!」
「今のお前は駄目だ」
シェスターが息を詰める。
ガイは水の精霊を見たまま言った。
「あれを見て、判断が遅れてる」
シェスターは言い返せなかった。
その一瞬が、答えだった。
ガイは水際を蹴った。
一歩で、精霊の前脚の間へ入る。
水の精霊の左前脚が横から振られた。
膜の張った巨大な脚。
水と骨でできたような爪。
ガイは身を低くし、ブレードで受け流す。
重い。
だが、流せる。
刃が水の膜を裂き、白い骨質の縁に火花のようなマナを散らした。
水の精霊が再び鳴く。
ガイは肩から踏み込み、刃を返した。
胴体の下部を斬る。
斬ったはずだった。
だが、切断面はすぐに水を引き寄せ、膜を戻そうとする。
ガイは舌打ちした。
「硬いんじゃねえ。戻るのが早い」
水の精霊が四足で陸へ乗り上げる。
濡れた巨体が砂利を押し潰した。
頭蓋が大きく揺れ、下あごが重く開く。
噛みつきではない。
押し潰すための質量だった。
ガイは横へ跳ぶ。
下あごが岸を叩き、砂利が爆ぜた。
一輝が息を呑む。
「こんなの……」
「見るな、手を動かせ!」
ガイが叫ぶ。
一輝は歯を食いしばり、パイルの固定を続けた。
腕に装着する。
安全機構を外す。
イグニッション用のマナラインを通す。
手が震える。
だが、止めない。
水の精霊の右後脚が動いた。
水を蹴る脚ではない。
陸へ身体を乗せるための脚。
太く、短く、重い。
ガイはその動きを見て、前へ出た。
逃げるのではなく、押し返す。
「マナアーツ、インパクトボイス!」
声が叩きつけられる。
空気が面になって、精霊の胸部を押した。
巨体が止まる。
前脚が砂利を削る。
だが、倒れない。
水の精霊は、一瞬遅れただけだった。
ガイはすぐに理解した。
「こっちは止めるだけか」
ダメージにはならない。
ならば、止め続けるしかない。
ガイはブレードを構え直した。
水の精霊が再び下あごを開く。
頭部は狙わない。
ガイは本能的に、そこを避けていた。
狙うのは脚。
胴体。
接続している髪。
ただし髪を斬ればどうなるか分からない。
だから、まだ斬れない。
「面倒な身体しやがって」
ガイは前脚の付け根へ刃を叩き込んだ。
水の膜が裂ける。
骨質の外縁が砕ける。
水の精霊が大きく震えた。
効いている。
だが浅い。
精霊の後脚が水面を蹴った。
巨体が横へ滑る。
ガイの足元の砂利が崩れた。
その瞬間、水中から何かが伸びた。
尾ではない。
脚でもない。
水中に残っていた下半身の一部が、硬質化して槍のように跳ねた。
ガイは避けようとした。
だが、背後には一輝がいる。
まだパイルを装着し終えていない一輝がいる。
ガイは足を引かなかった。
ブレードで上半身を守る。
水の槍が刃に当たり、弾けた。
しかし、もう一本が低く走った。
ガイの右脚を、横から噛むように挟み込む。
骨が軋む音がした。
「ガイさん!」
一輝が叫ぶ。
ガイの身体が大きく傾いた。
水の精霊がそのまま湖へ戻ろうとする。
右脚を挟んだまま。
引きずり込むつもりだった。
ガイはブレードを地面に突き立てた。
砂利が割れる。
膝が落ちる。
それでも、水際から退かなかった。
「出てくるな!」
ガイが吠えた。
一輝が反射的に前へ出ようとして、止まる。
「でも、脚が!」
「お前は待てって言っただろうが!」
ガイの額に汗が浮かぶ。
右脚から血が流れている。
水に混じり、赤が薄く広がった。
それでも、ガイは水の精霊から目を離さない。
シェスターが、砂利の上で拳を握った。
ガイの脚が、さらに軋む。
水の精霊が湖へ戻ろうと力を込める。
ガイは歯を食いしばり、胸いっぱいに息を吸った。
「逃がすかよ」
その声は、低く、重かった。
「こっちはまだ、生きてんだ」
その声が、シェスターの耳に届いた。
シェスターは砂利の上に立っていた。
立っているだけだった。
目の前では、吊り下がったイルルのようなものが揺れている。
湖面の向こうには、白い頭蓋に似た外殻を持つ怪物。
その頭部から伸びる青い線。
その先に吊られたイルルの姿。
本物か。
偽物か。
どこまでがイルルで、どこからが精霊なのか。
それを考えた瞬間、身体が止まった。
止まってしまっていた。
ガイの脚が、さらに嫌な音を立てる。
骨が軋む音。
血が砂利を濡らす音。
それでもガイは、前を向いたままだった。
シェスターは自分の拳を握った。
「……何やってんだ、俺」
声は小さかった。
だが、次の瞬間には自分の頬を殴っていた。
鈍い音がした。
一輝が振り向く。
「シェスターさん!?」
シェスターは顔を上げる。
目が戻っていた。
「イルルを助けるために、棒立ちしてたら助けられねえじゃねえか」
もう一度、息を吐く。
そして走り出した。
「ガイ!」
ガイは振り返らない。
水の精霊と向き合ったままだ。
「気合入れたぜ!今行くぞ!」
ガイの口元が、ほんの少しだけ動いた。
見ていない。
確認もしていない。
だが、その声だけで分かった。
シェスターは戻った。
「遅えんだよ」
ガイは水の精霊から目を離さずに言った。
「行け」
シェスターは走った。
吊り下がったイルルのようなものへ向かって。
その姿は、イルルだった。
顔も、髪も、声も。
水際で手を差し出していた彼女と同じ。
その後頭部から青い線が伸び、頭蓋の怪物へ繋がっている。
近づくほどに、囁きが聞こえた。
「シェスターさん」
イルルの声だった。
間違いなく。
「来ないで」
シェスターの足が止まらない。
「助けないで」
吊り下がったイルルのようなものが、ゆっくりと顔を上げる。
瞳は濡れていた。
表情は苦しそうだった。
助けを求めているようにしか見えなかった。
それなのに、口だけが拒絶を作っている。
「あなたまで、いなくなってしまいます」
シェスターの拳が握られる。
その声はイルルの声だった。
その顔もイルルだった。
その身体も、おそらくイルルと繋がっている。
けれど。
「お前は……」
シェスターは踏み込んだ。
「そんなこと言うのは……」
吊り下がったイルルのようなものが、囁く。
「助けないで」
「イルルじゃねえ!」
拳が振り抜かれた。
頬を殴った。
感触は、人のものだった。
水でも、幻でも、殻でもない。
確かにイルルを殴った感触が、拳に返った。
それでもシェスターは迷わなかった。
殴られたイルルが大きく揺れる。
同時に、水の精霊本体がびくんと跳ねた。
湖面が静かになる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、四足の巨体が止まった。
吊り下がったイルルのようなものの頬に、淡い水のマナが滲む。
傷を覆うように、小さな雨粒が生まれた。
ヒールレイン。
イルル自身のマナだった。
イルルを治そうとする雨。
だが、その雨は青い線を伝って、逆流するように本体へ走った。
水の精霊の身体が、内側から震える。
一輝の端末が警告音を鳴らした。
『接続反応、乱れています!』
フィリアの声が通信に走る。
『一瞬だけ、本体の同期が落ちました!』
リヴァルが続く。
『今しかない』
それより早く、ガイが叫んでいた。
「行け! 一輝!」
短い合図だった。
一輝はパイルを構える。
「了解ッス!」
ガイは大きく息を吸った。
脚から血が流れている。
それでも胸を膨らませ、声を作る。
「マナアーツ!」
声が一輝へ向く。
敵へではない。
味方へ。
「ドライブコール!」
音が一輝の身体を叩いた。
痛みではない。
命令でもない。
踏み込みの位置。
呼吸の深さ。
肩の沈め方。
腰の回し方。
パイルを撃つ瞬間の筋肉の噛み合わせ。
全部が、声で身体へ流し込まれる。
一輝の目が見開かれた。
「身体が……!」
「見ろ!」
ガイが叫ぶ。
「迷うな!」
一輝は地面を蹴った。
砂利が爆ぜる。
一歩目で加速した。
二歩目で、身体が低く沈む。
三歩目で、パイルの先端が水の精霊の下あごへ向いた。
狙うのは、下あご。
巨体を支え、湖へ逃げようとするその顎の下。
水の精霊が正気に戻ったように動いた。
四足が跳ねる。
後脚が湖面へ沈む。
胴体が水へ戻ろうとする。
一輝のパイルは届かない。
誰もがそう思った。
水の精霊の後ろ片脚が、水面に突っ込む。
その瞬間。
ガチン、と。
大きな音がした。
金属を打った音ではない。
骨を打った音でもない。
湖の中に、杭が打ち込まれたような音だった。
一輝のパイルは、下あごの直下で止まっていた。
触れていない。
届いていない。
だが、衝撃は届いていた。
水面が円形に凹む。
次いで、下あごの内側から亀裂が走った。
一輝のイグニッションは、いつもなら外から打ち込んで爆ぜる。
今回は違った。
水の中を通った衝撃が、内側から破った。
下あごが裂ける。
胴体の膜が裏返る。
四足の付け根が、内側から弾けるように崩れていく。
水の精霊の巨体が、音もなく歪んだ。
爆炎ではない。
爆発音でもない。
水と膜と骨格が、内側から耐えきれずに裂けていく。
頭部は残った。
白い頭蓋に似た外殻だけは、湖面の上に浮いたまま残っている。
そこには手を出していない。
一輝は膝をついた。
「入った……ッスか……?」
ガイは右脚を挟まれたまま、頭部を見ていた。
血で濡れた顔をしかめる。
それでも、声だけははっきりしていた。
「シェスター!」
シェスターは振り返らない。
もう分かっている。
だが、ガイは言った。
「頭だ!」
水の精霊の身体が崩れ、湖面へ落ちていく。
白い頭蓋だけが、重く浮いている。
「イルルは頭の中だ!」
その声とほぼ同時に、通信が追いついた。
『反応、頭部内側です!』
フィリアの声が震えていた。
『イルルさんのマナ反応、頭部の内側にあります!』
シェスターはもう走っていた。
崩れた巨体の残骸を踏む。
水と膜が足元で潰れる。
白い頭蓋の外殻へ飛びつく。
手をかける。
滑る。
それでも離さない。
「イルル!」
頭蓋の隙間から、青い線がまだ伸びている。
シェスターはその線を辿る。
奥へ。
水の満ちた骨の内側へ。
そこに、イルルがいた。
目を閉じている。
髪が水の中で広がっている。
身体は精霊の膜に包まれていた。
シェスターは腕を突っ込む。
冷たい。
重い。
水が絡みつく。
膜が抵抗する。
「離せ」
低く言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
精霊へか。
水へか。
イルルを閉じ込めた何かへか。
「離せ!」
腕に力を込める。
膜が裂けた。
イルルの身体が、少しだけ動く。
シェスターは肩まで水に突っ込み、イルルを抱え込んだ。
「戻ってこい」
声が掠れる。
「もう走らなくていい」
イルルのまぶたが、わずかに震えた。
シェスターはその身体を引き寄せる。
髪が抵抗する。
青い線が、頭蓋の奥に張る。
シェスターは歯を食いしばった。
「戻ってこい、イルル!」
その瞬間、イルルの髪の先から、小さな雨粒が弾けた。
ヒールレイン。
先ほどイルルのようなものを治そうとして走ったマナが、
今度はイルル自身を包む。
青い線がほどける。
一本ずつ。
水の中へ溶けるように。
イルルの身体が軽くなった。
シェスターはそのまま引き抜いた。
水が大きく跳ねる。
イルルの身体が、頭蓋の外へ出る。
シェスターは彼女を抱えたまま、残骸の上から岸へ滑り降りた。
膝をつく。
それでも、イルルを離さない。
「イルル」
返事はない。
だが、息はあった。
浅い。
弱い。
けれど、確かにある。
シェスターは震える息を吐いた。
「……戻ったな」
イルルの指が、わずかに動いた。
シェスターは息を止めた。
「イルル」
腕の中のイルルは、まだ目を閉じている。
けれど、息はある。
手も動いた。
戻ってきた。
そう思った瞬間、イルルの後頭部から伸びていた青い線が、びん、と張った。
「っ……!」
イルルの身体が小さく跳ねる。
シェスターの腕の中から、もう一度どこかへ引き戻されそうになった。
「まだ切れてねえのかよ!」
『接続反応、残っています!』
フィリアの声が通信から飛ぶ。
『反応は弱まっています。でも、循環が完全には止まっていません!』
『一輝!』
ナンディーヌの声が重なる。
『あんた、荷物に循環停止装置を入れてるね!』
一輝は膝をついたまま、顔を上げた。
「あります! 勉強用ッスけど!」
『教材に偽物を渡すと思うかい。使える。持っていきな!』
「了解ッス!」
一輝はふらつきながら立ち上がり、荷物へ走った。
パイルの反動で腕が震えている。
それでも、手は止めなかった。
工具箱の底から、円盤状の装置を引き抜く。
小型の循環停止装置。
本来は、構造理解のためにナンディーヌから預けられていた教材だった。
だが、作りは本物だった。
一輝がシェスターの元へ戻る。
「シェスターさん、これを後頭部の接続点に――」
「貸せ」
「えっ」
「貸せ!」
シェスターは一輝の手から装置を奪った。
説明を聞いている時間はなかった。
迷っている時間もなかった。
イルルの後頭部には、青い線の根がまだ残っている。
髪の奥。
水のマナが絡みついた接続点。
そこへ、シェスターはためらいなく装置を押し当てた。
イルルの身体が震える。
「悪い」
シェスターは歯を食いしばった。
「でも、戻す」
装置が起動した。
低い駆動音が鳴る。
青い線が震えた。
一度、強く張る。
次に、ほどける。
水の糸が一本ずつ切れていくように、青い光がばらけていった。
『循環反応、低下しています!』
フィリアの声が通信に入る。
だが、その声には安心しきれない硬さがあった。
『でも、下がり方が遅いです。接続が残っています!』
リヴァルの声が続いた。
『装置は効いている。ただ、精霊側の循環がまだ噛んでいる。
このままだと時間がかかる』
「時間なんかねえだろ」
シェスターはイルルを抱えたまま、歯を食いしばった。
イルルの後頭部から伸びる青い線は細くなっている。
けれど、切れない。
湖へ沈みかけた白い頭蓋の奥から、まだ何かがイルルを引いている。
イルルの身体が小さく震えた。
指先が、シェスターの服を掴もうとして、力を失う。
シェスターはその手を取った。
冷たい手だった。
でも、そこに体温はあった。
「イルル」
返事はない。
シェスターはさらに強く握る。
「イルル」
声を強めた。
命令ではない。
怒鳴り声でもない。
ただ、引き戻すための声だった。
「戻ってこい」
イルルの指が、わずかに動いた。
次の瞬間、通信からフィリアの声が跳ねた。
『接続反応、急低下!』
リヴァルの声も重なる。
『循環が切り替わった。精霊側じゃない。イルル本人のマナが戻っている』
青い線が一気にほどけた。
一本ずつではない。
張り詰めていた糸が、まとめて雨粒へ変わるように、光が弾けて消えていく。
『遮断率、七十、八十、九十――』
フィリアが息を呑む。
『完全遮断! イルルさんのマナ反応、単独で安定しました!』
湖面に残っていた白い頭蓋が崩れる。
骨格に似た外殻が水へ沈み、四足の残骸も形を保てなくなる。
水の精霊だったものが、湖へ戻っていく。
戦うための姿ではなく、ただの水へ。
イルルの身体から力が抜けた。
シェスターはその身体を抱き直す。
「イルル」
まぶたが、ゆっくりと開いた。
濡れた瞳が、シェスターを見た。
「シェスター……さん」
「戻ったな」
イルルは小さく頷いた。
「……はい」
声は弱い。
けれど、確かにイルルの声だった。
シェスターは短く息を吐いた。
その瞬間、イルルの視線がシェスターの拳へ落ちた。
「シェスターさんのパンチ……すごく痛かったです」
シェスターが固まった。
「……は?」
イルルは困ったように、少しだけ笑った。
「痛かったけど……戻ってこれました」
「痛かったのかよ!」
シェスターの声が裏返った。
「すまねえ!」
「いいんです」
イルルは首を横に振った。
「助けてもらいました」
シェスターは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
代わりに、イルルを抱える腕へ力を込める。
その時、低いうめき声が聞こえた。
ガイだった。
水際に座り込み、右脚を押さえている。
ヒールレインがまだ届いていない傷口から、血が流れていた。
イルルの顔つきが変わった。
「ガイさんの足を」
「お前は動くな」
シェスターが止める。
イルルは、シェスターの腕に手を置いた。
「動けます」
「無理すんな」
「無理はしません」
イルルはゆっくりと立った。
少しふらついた。
それでも、倒れなかった。
湖で働いていた身体だった。
水の上で生き、揺れの中で立ち、誰かを支えることを覚えている身体だった。
精霊に削られていても、足は地面を捉えていた。
シェスターは支えようとした手を止める。
イルルはガイの前に膝をついた。
「ガイさん、見せてください」
「自分の心配を先にしろ」
ガイは苦い顔で言った。
イルルは首を横に振る。
「今は、怪我人がいます」
手をかざす。
雨粒が生まれた。
淡い水のマナが、ガイの脚へ降る。
「マナアーツ、ヒールレイン」
小さな雨が傷口を覆った。
裂けた皮膚を完全に戻すほどの力はない。
潰れた脚を、すぐに歩けるようにするほどでもない。
それでも、流れていた血はゆっくりと止まっていく。
ガイは息を吐いた。
「助かる」
「助けてもらったので」
イルルは静かに言った。
「今度は、私が助けます」
ガイは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ笑った。
「いい女だな」
「茶化すな」
シェスターが言った。
イルルは小さく目を伏せた。
少しだけ、頬が赤かった。
その間に、紫乃が基地側から戻ってきた。
ナンディーヌを安全な位置まで下げてから、状況を見に来たのだろう。
紫乃は一目で全員の状態を見た。
イルル。
シェスター。
一輝。
ガイの脚。
そして、崩れていく湖面。
「あら」
短く言って、イルルのそばへ寄る。
「立てるのね」
「はい。少し、ふらつきますけど」
「それなら上出来よ。無茶は駄目だけど」
シェスターはイルルを見た。
それから、ガイを見た。
ガイは片脚を伸ばし、無理に立とうとしている。
「やめろ」
シェスターは言った。
「俺は這ってでも戻る」
「黙ってろ」
ガイが眉を上げる。
シェスターは紫乃へ顔を向けた。
「紫乃さん」
「ええ」
「イルルを頼む」
イルルが小さく目を見開いた。
「シェスターさん」
シェスターはイルルを見る。
「大丈夫だ」
短く言ってから、ガイの方へ歩いた。
「俺は、感謝しなきゃならねえヤツを連れて行く」
ガイが鼻で笑った。
「重いぞ」
「知るか」
シェスターはガイの腕を自分の肩へ回した。
傷に響かないよう、けれど逃がさないように支える。
「俺とイルルを引っ張り上げたんだ。今度は俺が引っ張る」
ガイはシェスターの横顔を見た。
すぐに、視線を外す。
「若えな」
「うるせえ」
「あとでちゃんと言えよ」
「今言う」
シェスターは歩き出す前に、低く言った。
「助かった」
ガイは黙った。
一呼吸置いて、笑う。
「まあ、悪くねえ」
紫乃はイルルの背へ手を添えた。
「イルルちゃんは、おばさんに任せて」
「お願いします」
イルルは頷いた。
一輝はパイルデバイスを抱え直し、ふらつきながらも後ろへつく。
湖面は静かになっていた。
さっきまでそこにあった巨大な影は、もうない。
残ったのは、薄く揺れる波と、岸に刻まれた戦闘の跡だけだった。
通信から、リヴァルの声が入る。
『全員、放棄基地へ戻って。
負傷者の処置と、施設内データの確認を優先する』
フィリアの声も続いた。
『イルルさんの反応、安定しています。
ガイさんの出血も低下しています。
ただ、脚部の損傷は大きいです。
無理に歩かせないでください』
「歩かせてねえ」
シェスターはガイを支えながら答えた。
「運んでる」
「半分引きずってるけどな」
ガイが言う。
「文句言うな」
紫乃がくすりと笑った。
「男の子たちは忙しいわね」
イルルはその横で、静かに湖を振り返った。
少しだけ、胸元を押さえる。
シェスターが気づく。
「イルル」
「大丈夫です」
イルルは答えた。
その言葉に、シェスターの眉が動く。
イルルはすぐに言い直した。
「……大丈夫、だけじゃないですね」
少し考えてから、続ける。
「怖かったです。でも、戻ってきました」
シェスターは一度だけ頷いた。
「ならいい」
一行は、湖岸を離れた。
壊れた船着き場を抜け、放棄されたマギアス軍基地へ戻る。
半地下の入口には、まだ仮設電源の灯りが残っていた。
その冷たい光の中へ、紫乃に支えられたイルルが入り、
シェスターに肩を貸されたガイが続く。
一輝が最後に入り口を振り返る。
湖は、何もなかったように静かだった。
けれど、誰もそれを信じなかった。
戦いは終わった。
だが、まだ作業は終わっていなかった。
放棄基地の内部は、戦闘前よりも静かに見えた。
仮設電源の明かりが、半地下の壁を淡く照らしている。
壊れた端末。
剥がれた床材。
水の匂いを含んだ空気。
その中へ、最初にナンディーヌが戻った。
続いて一輝。
紫乃に支えられたイルル。
シェスターに肩を貸されたガイ。
最後に、パイルデバイスを抱えた一輝が、
もう一度背後を確認してから扉を閉めた。
「ローム主任」
通信の向こうで、リヴァルが呼びかける。
『施設内のマナ反応が変化している。
湖側の反応が落ちた分、基地側の残存ラインが浮いている』
「見えてるよ」
ナンディーヌは端末の前へ座り込んだ。
外装の割れた制御盤に手をかける。
一輝がすぐ横に膝をつき、工具を広げた。
「電源、落とすッスか」
「落とすな。今落としたら、残ってる経路が閉じる」
「了解ッス」
一輝はすぐに手を止め、別の端子へ工具を当てた。
ナンディーヌは画面に残った断片ログを呼び出す。
文字化け。
欠損。
軍用コード。
古いマナ制御式の系統図。
一つずつ、汚れた窓を拭くように、情報が浮かんでいく。
ナンディーヌの表情が変わった。
「……ああ」
低い声だった。
「そういうことかい」
リヴァルが問う。
『何が見えた?』
ナンディーヌは端末の横を叩いた。
「観測基地じゃない。封印解除基地だ、これ」
一輝の手が止まった。
「封印解除……?」
「マギアス軍は、ここで精霊を見つけたんじゃない」
ナンディーヌの指が、制御盤の上を走る。
「ここで起こしたんだ」
通信の向こうで、フィリアが息を呑む音がした。
『湖側の封印マナ反応、基地の制御ラインと一致します。
断片的ですけど……確かに、外部観測じゃありません。
干渉しています』
リヴァルはすぐに結論へ飛ばなかった。
『敵の手順をそのまま使うのは危険だ。起動と解除は違う』
「分かってる」
ナンディーヌは短く返した。
「起こすために作った装置を、そのまま使う気はない。逆に噛ませる」
「逆に、ッスか」
「封印に食い込ませたラインを、引き剥がす方向へ組み替える」
ナンディーヌは一輝を見た。
「一輝、仮設電源の出力を三段に分ける。
主系統は触るな。
補助系だけ生かして、湖側に残ってる循環ラインへ流す」
「了解ッス。三段なら、第二変換器を噛ませるッスね」
「そう。よく覚えてた」
一輝は一瞬だけ目を丸くした。
「褒められたッスか?」
「後で調子に乗りな。今は手を動かす」
「うっス!」
一輝が配線へ潜り込む。
ナンディーヌは端末を開き直し、
破損した入力盤へ予備の操作子を接続した。
その後ろで、ガイが壁際に腰を下ろした。
「おい、俺は邪魔なら外に――」
「駄目よ」
紫乃が即座に言った。
ガイが顔をしかめる。
「まだ最後まで言ってねえだろ」
「言い終わる前に駄目って分かること、あるでしょう?」
紫乃は周囲を見回した。
壊れた棚。
折れた手すり。
壁から外れた補強材。
その中から、ちょうどよい長さの鉄骨を二本拾い上げる。
ガイが嫌な顔をした。
「何する気だ」
「帰り道で、あなたの足が変な方向に揺れないようにするの」
「俺はそこまで重傷じゃねえ」
「めっ、よ」
紫乃の声は柔らかかった。
だが、逆らわせない力があった。
ガイは口を閉じた。
「イルルちゃん」
紫乃は視線だけをイルルへ向ける。
「止血はできているのよね?」
「はい。血は止まっています。でも、中までは……」
「ええ。そこから先は医療班のお仕事ね。
なら、おばさんはそれまで壊れないようにしてあげる」
紫乃は鉄骨をガイの脚の左右に当てた。
布を裂き、固定バンドを使い、廃材を添え木に変えていく。
治すためではない。
これ以上壊さないための固定だった。
イルルのヒールレインで血は止まっている。
だが、骨と筋が受けた損傷までは戻っていない。
紫乃は傷に触れないよう、しかし緩すぎないよう、迷いなく固定していく。
「痛かったら言ってね」
「痛え」
「我慢できる?」
「できる」
「じゃあ続けるわね」
「聞いた意味あるのかよ」
「あるわ。おばさん、優しいもの」
シェスターが横で短く笑った。
ガイが睨む。
「笑ってんじゃねえ」
「笑ってねえ」
「笑っただろ」
「気のせいだ」
紫乃は最後のバンドを締めた。
「はい。これで運びやすくなったわ」
ガイは自分の脚を見る。
施設の補強材で作られた簡易固定具が、しっかりと脚を挟んでいた。
「器用だな」
「あら。こういうの、若い子より落とさないわよ」
紫乃は軽く笑い、すぐに周囲へ視線を戻した。
「こっちは終わり。ローム主任、そちらは?」
「こっちは始まったところだよ」
ナンディーヌは端末に向き直る。
一輝が床下から声を上げた。
「補助系、通るッス!」
低い駆動音が施設の奥から響いた。
眠っていた何かが、ゆっくりと息を吹き返す。
壁の中を細い光が走る。
床の下。
天井の梁。
湖へ向かう古いマナライン。
そのすべてが一度だけ脈打った。
イルルが胸元を押さえた。
シェスターがすぐに気づく。
「イルル」
「大丈夫です」
言ってから、イルルは小さく首を振った。
「……少し、引っ張られる感じがしました。
でも、戻される感じではないです」
フィリアの声が通信に入った。
『イルルさんのマナ反応は単独で安定しています。
ただ、基地側の封印ラインが反応しています。
ローム主任、今の起動で湖側の残存反応がこちらに寄っています』
「寄せてるんだよ」
ナンディーヌは画面を睨んだ。
「外で暴れられるより、装置の中で捕まえた方がいい」
リヴァルが静かに言う。
『捕まえた後、解除する手順が必要だ。
干渉ラインを完全に切ると、反動がイルルへ戻る可能性がある』
「だから、切る前に逃がす」
「逃がす、ッスか?」
一輝が床下から顔だけ出す。
ナンディーヌは操作子を一本引いた。
「封印ってのは、閉じ込めるだけじゃない。
閉じ込めているものと、
閉じ込められているものを混ぜないための境目でもある」
「境目……」
「マギアス軍は、その境目に穴を開けた。そこから精霊を引きずり出した」
ナンディーヌの声が少し低くなる。
「なら、私たちは穴を塞ぐ前に、中に残ってる余計な循環を外へ逃がす」
リヴァルが応じる。
『手順は理解した。フィリア、イルルの反応と基地ラインを並べて見て』
『はい』
フィリアの声が少し緊張していた。
『イルルさんのレイン反応は安定。
基地側の水性マナ反応は、まだ周期的に膨らんでいます』
『周期が合った瞬間に解除すると危険だ。ずらして』
「分かってるよ」
ナンディーヌは一輝へ目をやる。
「一輝、第三補助を噛ませる。出力は上げすぎるな」
「でも、それだとラインが開き切らないッス」
「開き切らなくていい。開けたまま切る」
一輝は一瞬考えた。
そして、ぱっと顔を上げる。
「半開きで抜くんスね!」
「そういうこと。やれば分かるじゃないか」
「了解ッス!」
一輝が再び床下へ潜った。
工具の音が響く。
ナンディーヌの指が、壊れた制御盤の上を滑る。
画面の文字は完全ではない。
欠けたまま。
読めないまま。
それでも、ナンディーヌは迷わなかった。
見えている箇所と、見えていない箇所。
その間を、自分の知識で繋ぐ。
『ローム主任』
リヴァルが呼ぶ。
『こちらで過去の封印解除時の反応を重ねた。
地と風の時と比べて、今回は反応の戻りが速い。
人柱と精霊の分離は済んでいると見ていい』
「いい知らせだね」
ナンディーヌは一瞬だけ笑った。
「なら、あとは施設の悪さをやめさせるだけだ」
フィリアが声を上げる。
『基地側ライン、開きます!』
床が低く鳴った。
施設の奥で、水の音がした。
湖からではない。
壁の中からだ。
古い配管とマナラインが同時に震え、半地下の空気が湿る。
イルルの髪がふわりと揺れた。
シェスターが一歩、前へ出る。
イルルは自分で首を横に振った。
「大丈夫です。今のは、私じゃありません」
シェスターは止まる。
その横で、ガイが壁に背を預けたまま言った。
「そういうの、ちゃんと言えるようになったじゃねえか」
イルルは少しだけ目を伏せた。
「はい」
それだけ言って、顔を上げる。
ナンディーヌは操作子を握った。
「リヴァル、最終確認」
『イルルの反応は安定。
基地側の循環反応は補助ラインへ移っている。
危険がゼロとは言わないが、今が一番ましだ』
「ましなら充分」
『手順は任せる。ただし、戻りが出たら止めて』
「止める前に終わらせる」
フィリアの声が重なる。
『水の精霊反応、収束位置わらせる」
フィリアの声が重なる。
『水の精霊に入りました。封印ライン、解除可能域です』
一輝が叫んだ。
「第三補助、固定完了ッス!」
「よし」
ナンディーヌは息を吸った。
「封印解除、始めるよ」
操作子が押し込まれる。
施設全体が、深く沈むように鳴った。
光が走る。
壁から床へ。
床から制御盤へ。
制御盤から、湖へ向かうラインへ。
青白いマナが一度だけ膨れ上がる。
イルルの肩がわずかに震えた。
だが、それだけだった。
フィリアが数値を読む。
『循環反応、外部ラインへ移行。イルルさん側への逆流なし』
リヴァルが続く。
『境界反応が薄くなっている。ナンディーヌ、今のまま』
「言われなくても」
ナンディーヌは二本目の操作子を倒した。
床の下で、水の音が遠ざかった。
引いていく。
湖へではない。
どこにも繋がらない場所へ、古い循環だけが抜けていく。
マギアス軍が開けた穴。
人柱へ噛ませた干渉。
精霊を起こすために使われた悪意ある経路。
それが、一本ずつ外れていく。
一輝が歯を食いしばって電源を押さえていた。
「出力、落ちるッス!」
「落とすな。あと十秒」
「十秒長いッス!」
「技術屋なら踏ん張りな!」
「うっス!」
一輝が予備のセルを差し込む。
仮設電源が唸り、もう一度施設へ力を送る。
フィリアの声が震えた。
『反応、さらに低下。残り二十……十七……十二……』
リヴァルの声は静かだった。
『戻りなし。進めていい』
ナンディーヌは最後の操作子へ指をかけた。
一瞬だけ、目を細める。
「あんたたちが起こしたものだ」
誰に言ったのか、分からない。
マギアス軍か。
この施設か。
それとも、もう形を失った水の精霊か。
「こっちで終わらせる」
最後の操作子が倒された。
施設が、音を失った。
さっきまで壁の中を走っていた水音も。
床下の唸りも。
湖へ向かうマナラインの振動も。
すべてが、一度に静まる。
フィリアが息を吸った。
『水の精霊反応……安定』
少し間があった。
『封印解除、完了です』
誰もすぐには声を出さなかった。
ナンディーヌは制御盤から手を離した。
一輝は床下から這い出し、そのまま仰向けに倒れた。
「終わったッスか……」
「終わったよ」
ナンディーヌは端末を閉じた。
「よくやった」
一輝は目を丸くした。
「今日、二回褒められたッス」
「三回目が欲しけりゃ、撤収作業だ」
「うっス……」
それでも一輝は起き上がった。
紫乃は周囲を見回し、危険がないことを確認してから、ふっと息を吐いた。
「じゃあ、真面目なお仕事はここまでかしら」
ガイが壁際で片手を上げる。
「俺は真面目に負傷してんだけどな」
「ええ。そこはとても真面目だったわ」
「褒められてる気がしねえ」
シェスターはガイの横へ立った。
「動けるか」
「片脚ならな」
「動くな」
「お前ら、俺の扱い雑になってねえか」
「怪我人の仕事は謝ることじゃねえ。治ることだ」
ガイは一瞬、シェスターを見た。
それから、鼻で笑った。
「お前がそれ言うか」
「借りた」
「誰に」
シェスターは答えなかった。
イルルが少しだけ笑った。
通信からリヴァルの声が入る。
『封印解除は確認した。
施設の記録は必要範囲だけ保存して、
残りはローム主任の判断で封鎖して。
全員、撤収準備に移って』
「了解」
ナンディーヌは短く返した。
「使えるところは記録する。二度と同じ使い方をされないようにね」
一輝が端末を回収する。
紫乃が負傷者の位置を確認する。
シェスターがガイを立たせる準備をする。
イルルは紫乃の近くで、静かに立っていた。
少しふらついている。
それでも、自分の足で立っている。
やがて全員が輸送車のある入口へ戻った。
外は、すでに薄暗くなり始めていた。
湖は静かだった。
何も知らない水面のように、空の色だけを映している。
輸送車の後部にガイを乗せる。
簡易固定された脚が揺れないよう、シェスターが位置を調整した。
「そこ、響く」
「我慢しろ」
「固定した意味」
「動かねえようにしてるだけだ。痛くねえようにはしてねえ」
「言い方」
一輝が荷物を積み込み、ナンディーヌが端末ケースを固定する。
紫乃は最後に周囲を見回した。
「忘れ物はない?」
「ないッス」
「端末も回収した」
「ガイも積んだ」
「俺を荷物みたいに言うな」
撤収準備が整ったところで、問題が一つ残った。
運転席だった。
シェスターが前へ出る。
「俺が運転する」
紫乃が首を傾げた。
「あら。シェスターくん、今日はずいぶん働いたでしょう?」
「問題ねえ」
「戦闘した子が運転する方が危ないわ」
「紫乃さんも現場にいただろ」
「おばさんは直接殴り合ってないもの」
「それはそうッスけど……」
一輝が小さく言う。
紫乃はにっこり笑った。
「それに、おばさん免許も持ってるし、運転も上手なのよ」
ガイが眉を上げる。
「大型いけんのか」
「もちろん」
「本当かよ」
「失礼ね。若い頃はいろいろ乗ったわ」
「いろいろって何だよ」
「ふふ。女には秘密があるの」
通信越しにリヴァルが淡々と言った。
『ミス・シノの提案が最も安全だ。
現地で最も消耗が少なく、負傷もない。運転は任せていい』
シェスターは少し不満げに黙った。
リヴァルが続ける。
『シェスターは後部でガイの脚を押さえて。
イルルはシート固定。
ナンディーヌは端末ケースの固定確認。
一輝はパイルデバイスを寝かせて固定して』
「了解ッス」
「はいはい、了解」
「分かった」
紫乃は運転席へ乗り込んだ。
ハンドルに手を置く。
一度、ミラーを見る。
それから、軽く息を吐いた。
「じゃあ、帰りましょうか」
動力が入った。
輸送車の六輪が低く唸る。
一輝が後部でベルトを締める。
「紫乃さん、安全運転で頼むッスよ」
「もちろん」
紫乃は微笑んだ。
次の瞬間、輸送車が跳ねた。
六輪が砂利を噛む。
エンジンが吠える。
タイヤが悲鳴を上げ、車体が前へ飛び出した。
「うおっ!」
ガイが声を上げた。
「脚! 俺の脚に響く!」
「紫乃さん!?」
シェスターが後部から叫ぶ。
「速度出しすぎだろ!」
一輝が端末ケースにしがみつく。
「安全運転って何スか!?」
ナンディーヌがケースを押さえながら笑った。
「いい腕じゃないか!」
「主任!?」
イルルはシートに固定されたまま、目を丸くしていた。
「……速いです」
紫乃はハンドルを軽く切る。
壊れた施設の搬入口を、輸送車が滑るように抜ける。
六輪が荒れた地面を掴み、車体を大きく揺らしながらも、進路は一切ぶれない。
「おばさん、このくらいちゃんとコントロールできてるわよ〜」
「速度の話してんだよ!」
シェスターが叫ぶ。
紫乃は楽しそうに笑った。
「じゃあ、揺れないように早く抜けるわね」
「違う!」
ガイとシェスターと一輝の声が重なった。
輸送車は放棄基地を離れる。
背後で、半地下施設の影が遠ざかっていく。
湖も。
壊れた船着き場も。
水の精霊が現れた岸も。
すべてが、夕闇の中へ小さくなっていった。
通信の向こうで、リヴァルが短く沈黙した。
それから、ぽつりと言った。
『……速度は、少し落として』
紫乃は笑った。
「はあい」
六輪は、まだ元気よく砂利を鳴かせていた。




