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四章 四話

輸送車の車内には、声が流れていた。


画面は運転席の横ではなく、

後部座席から見える位置に小さく表示されている。

ガイは前を見たまま、音量だけ少し落としていた。


『続いて、気象情報です』


画面の中で、アナウンサーが穏やかな声で話す。


『本日午後から夜にかけて、東部山沿いでは弱い雨が予想されています。

 危険領域周辺では地盤が緩んでいる地域もありますので、不要な外出は避け、

 各シェルターからの案内を確認してください』


映像が切り替わる。

闇の霧の流れを示す簡易図が表示された。


『闇の霧情報です。複数地点で噴出量の低下が確認されていますが、

 一部の低地では霧が滞留しやすい状況が続いています。

 風が弱い時間帯には視界不良やマナ反応の乱れが発生する可能性があります。

 現地作業や移動を行う方は、必ず最新情報を確認してください』


イルルは画面を見つめていた。

クラリスの番組が始まる前の情報は、どれも重い。


それでも、クラリスの声が入ると、少しだけ空気が変わる。


『皆さん、こんにちは。クラリス・パズリアです』


画面の中で、クラリスが笑顔を見せた。


『今日の職場の風通しは、あるシェルターの学習区画へお邪魔しています』


背景には、簡素だが明るい教室が映っていた。


壁には手書きの絵。

端末を並べた机。


年齢の違う子供たちが、同じ空間でそれぞれ学んでいる。

クラリスの隣には、落ち着いた雰囲気の教師が立っていた。


『今日お話を伺うのは、

 シェルター内で子供たちの学習を支えている先生です。

 よろしくお願いします』


『よろしくお願いします』


教師は穏やかに頭を下げた。


『先生は、いろいろな年齢の子供たちを同時に見ているそうですね』


『ええ。ここでは年齢や進み具合がばらばらですから、

 その子に合わせた学び方を探すことが大切なんです』


クラリスが頷く。


『子供たちを見ていて、成長が早い子に共通するものはありますか?』


教師は少し考えてから答えた。


『素直な子は、伸びるのが早いですね』


イルルが、わずかに瞬きをした。

画面の中で、教師は続ける。


『分からない時に分からないと言える。

 怖い時に怖いと言える。

 できない時に、できませんと言える。

 そういう子は、無駄なところで力を使わずに済むんです』


『無駄なところ、ですか』


クラリスが問い返す。


『はい。隠すことや、平気なふりをすることに力を使ってしまうと、

 学ぶ前に疲れてしまいますから』


教師は、教室の子供たちへ視線を向けた。


『もちろん、素直すぎるのも危ういことがあります。

 何でも言えばいい、というわけではありません。

 でも、自分の中に抱えていてつらいことは、

 誰かに話してしまった方が楽になる場合も多いんです』


クラリスは静かに聞いている。


『でも、子供はそれを自分でうまく引き出せません。

 何がつらいのか、どう言えばいいのか、

 本人にも分からないことがあります。

 だから大人が、少しずつ聞いてあげる必要があるんです』


教師は優しく笑った。


『“話しなさい”ではなく、“話してもいいよ”と伝えること。

 急かさず、否定せず、待つこと。

 それだけで、子供は少しずつ楽になります』


クラリスはカメラへ向き直った。


『素直になることは、簡単なようで、とても勇気がいることです。

 けれど、ひとりで抱え込まなくてもいい。

 そんな場所を作ることも、

 今を生きる私たちの大切な仕事なのかもしれません』


番組はその後、子供たちが作った小さな発表物の紹介へ移った。


深刻すぎる内容ではなかった。

戦いの話でもない。


封印の話でも、ARKの話でもない。

ただ、シェルターの中で子供たちを支える教師の話だった。

それでもイルルは、画面から目を離さなかった。


クラリスが子供の絵を見て笑う。

教師が子供の肩に手を置く。


子供が照れながら、自分の作ったものを説明する。

その光景を、イルルは静かに見つめていた。

やがて番組が次のニュースへ切り替わる。


ガイが片手で操作し、画面を消した。

車内に、輸送車の走行音だけが戻ってくる。


「イルル」


ガイが前を見たまま言った。


「満足したか?」


イルルは少しだけ驚いたように顔を上げた。


「えっ」


「ずっと見てただろ」


「……はい」


イルルは小さく頷いた。


「クラリスさんの番組は、見ていると落ち着きます」


「ならいい」


ガイは短く言った。


「現場前に落ち着けるもんがあるのは悪くねえ」


シェスターは助手席から横目でイルルを見た。


「眠くなってねえか」


「なっていません」


イルルは少しだけむきになって答える。


「ちゃんと起きています」


「ならいい」


一輝が後部座席で頷いた。


「自分も、クラリスさんの番組は勉強になるッス。

 素直に分かんないって言うの、大事ッスよね」


ナンディーヌが端末から顔を上げる。


「そう思うなら、分からない時に分からないって言いな」


「言ってるッス!」


「たまに、分かった顔で突っ込むだろ」


「……たまにッス」


「そこが危ないんだよ」


ナンディーヌは膝上の端末を軽く叩いた。

画面には、一輝が提出した整備記録が表示されている。


「整備記録は悪くないね」


一輝は少しだけ胸を張る。


「うっス。

 水上機材は昨日のうちに一通り見たッス。

 駆動系、給電、センサー、固定具、全部問題なしッス」


「記録上はね」


「主任、信用してないッスか?」


「してるよ」


ナンディーヌは軽く言った。


「だから、記録を見てる」


一輝は一瞬だけ固まった。

シェスターが助手席から横目で見る。


「褒められてんのか、それ」


「たぶん褒められてるッス」


「たぶんかよ」


ナンディーヌは笑いながら端末を閉じた。


「機械ってのはね、一輝。

 整備した時に問題がないのと、現地で問題が起きないのは別の話だよ」


「それは、そうッス」


「特に水の上は嫌な場所だ。

 止まってから原因を探すには向いてない。

 足場は揺れる。

 岸は遠い。

 工具を落とせば沈む。

 落ち着いて考える前に、状況が悪くなる」


一輝の表情が真面目になる。


「了解ッス」


ナンディーヌは今度はイルルを見た。


「イルルちゃん」


「はい」


イルルは背筋を伸ばす。


「機体の反応が少しでも遅い、

 音が変、速度が伸びない、センサーが変に飛ぶ。

 何でもいい。

 違和感があったら、その場で頑張らないこと」


「はい」


「水上で取り残されてから原因を探すより、

 近い岸に戻ってから見た方が早いし安全だ」


イルルは静かに頷いた。


「分かりました。違和感があったら、近くの岸へ戻ります」


「そう」


ナンディーヌは満足そうに頷き、今度はシェスターへ視線を移した。


「監督役は、そっちだね」


「俺か」


「イルルちゃんが遠慮して言わない可能性もある。

 機体の動きが変だと思ったら、本人の報告を待たずに戻しな」


シェスターは短く頷いた。


「分かった」


イルルが少しだけシェスターを見る。


「私、ちゃんと言います」


「言う前に変だったら戻す」


「……はい」


シェスターの言い方はぶっきらぼうだった。

だが、イルルはそれで少し安心したように目元を緩めた。


ガイが前を見たまま言う。


「水の上で無理すんなってことだな。分かりやすい」


「そういうこと」


ナンディーヌは答えた。


「現場で一番まずいのは、まだいけると思って踏み込むことだよ。

 いけるかどうかを試す場所じゃない。

 戻れるうちに戻る」


紫乃が窓の外を見たまま、くすりと笑った。


「耳が痛い子が多そうね」


一輝が自分を指差す。


「自分ッスか?」


「一輝くんだけとは言ってないわ」


紫乃はゆっくり視線を戻す。


「若い子は、役に立てる場所を見ると足が前に出るもの。

 悪いことじゃないけれど、後ろ髪を引っ張る役も必要なの」


「紫乃さんが引っ張るんスか」


「ええ。必要なら、優しくね」


紫乃は微笑んだ。

その笑い方に、一輝は少しだけ姿勢を正した。


「……優しくじゃないやつもありそうッス」


「あら。分かってきたじゃない」


ナンディーヌが肩を揺らして笑う。


「いいね。こっちは機械を見る。

 紫乃さんは人を見る。役割がはっきりしてる」


「おばさん、機械には詳しくないもの」


紫乃は軽く肩をすくめる。


「でも、人の背中と足音くらいなら見ておけるわ」


「それが助かるんだよ」


ナンディーヌはそう言って、荷台側に固定されたケースへ目をやった。


「ガイ、あとどれくらいだい」


「もうすぐだ」


ガイは短く答える。


「道は荒れてる。少し揺れるぞ」


その言葉の直後、輸送車が小さく跳ねた。

荷台の固定具が鳴る。


イルルが一瞬、座席の横を掴んだ。

シェスターが振り返る。


「平気か」


「はい。大丈夫……ではなく、少し驚きました」


「ならいい」


ナンディーヌが小さく笑う。


「学習が早いね」


「シェスターさんが、大丈夫は信用しないと言うので」


イルルは少しだけ恥ずかしそうに答えた。


「いい判断だよ。信用されにくい言葉は、現場じゃ減らした方がいい」


輸送車はそのまま、崩れかけた旧道を進んだ。

窓の外に見える建物は、ほとんど残っていない。


道路標識は傾き、街灯は折れ、路面には乾いた泥と細かな瓦礫が散っている。

それでも、マギアスの姿はなかった。

動く影もない。


時折、闇の霧が低く流れていくが、濃度は高くない。

通信端末からフィリアの声が入る。


『こちらオペレーション室。現地周辺のマギアス反応は希薄です。

 移動反応もありません』


ガイが短く返す。


「了解」


続けて、リヴァルの声が入った。


『予定通り進める。ただし、反応が薄い理由は不明だ。安全とは見ない』


「分かってる」


ガイは速度を落とした。

前方に、湖が見え始める。

青黒い水面。


そのほとりに、半地下の施設が沈むように建っていた。

偵察映像で見た通りの場所だった。


マギアス軍の放棄基地。

外壁には大きな破損はない。


だが、使われている気配もない。

施設の一部は斜面に埋もれ、

湖側へ向かって低く伸びている。その先に船着き場があった。


水面へ突き出すように造られた、コンクリート製の小さな作業用桟橋。

そこから、太いケーブルの束が湖へ向かって伸びている。


いくつかは切れている。

いくつかは水中に沈んでいる。


いくつかは、まだ何かに繋がっているように見えた。

輸送車が施設前で止まる。

ガイはエンジンを切らず、周囲を確認した。


「人気なし」


紫乃が窓の外へ視線を流す。


「足音もないわね。昨日より、さらに静かに見えるくらい」


「嫌な静けさかい」


ナンディーヌが聞く。

紫乃は少しだけ考えるように目を細めた。


「今すぐ襲われる感じではないわ。ただ、人がここを避けている感じはする」


ガイが外へ出た。

続いてシェスター。


一輝が機材箱を担ごうとして、ナンディーヌに手で制された。


「先に周辺確認」


「うっス」


紫乃も外へ降りる。

風は弱い。

湖面は静かだった。

静かすぎるほどではない。


波はあり、風に揺れ、岸へ小さく水音を寄せている。

どこにでもある、放棄された湖畔の施設。

そう見えた。


シェスターは施設と湖を交互に見る。


「マギアス軍が残ってる気配はねえな」


ガイは車両の周囲を一周しながら言う。


「残ってるなら、もう少し空気が違う。少なくとも見張りくらいはいる」


一輝が端末を見る。


「反応、薄いッスね。昨日の記録と大差ないッス」


フィリアの声が通信に重なる。


『こちらでも確認しています。

 周辺のマギアス反応は希薄。

 危険領域としては、かなり低い値です』


リヴァルが続ける。


『マギアス軍が利用をやめた理由は不明だ。

 近寄らないようにしている可能性もある。

 油断しないでくれ』


「つまり、普通に嫌な場所ってことだな」


ガイが言う。


『そういうことだ』


リヴァルの返答は短い。

ナンディーヌは施設の入口を見上げた。


「放棄にしては、片付け方が変だね。

 壊したいものは壊してる。

 でも持っていけるものを全部持ったわけじゃない」


「急いだ感じじゃないのに、雑ね」


紫乃が言う。


「慌てて逃げたというより、

 残すものと捨てるものを選んだあと、ここに戻らないと決めた感じ」


「いい見方だ」


ナンディーヌは感心したように言った。


「私は中を見る。外の空気は頼むよ」


「ええ。背中は見ておくわ」


ガイは運転席へ戻り、輸送車をゆっくり動かした。

船着き場へ回すためだ。


基地の湖側には、車両が入れるだけの幅があった。

元々、機材搬入用の通路だったのだろう。

コンクリートはひび割れているが、輸送車が通れないほどではない。


ガイは慎重に車両を進め、船着き場の横へつけた。


「ここで降ろす」


荷台の扉が開く。

一輝がすぐに固定具を外しにかかった。

シェスターも反対側へ回る。


イルルは水上機材の状態を確認しながら、湖面を見た。


水は静かに揺れている。

故郷の海とは違う。


波の匂いも、風の湿り方も、何もかも違う。

それでも、水の音だけは少し懐かしかった。


「イルル」


シェスターに呼ばれて、イルルは顔を上げる。


「はい」


「持てるか」


「はい。大丈夫……ではなく、持てます」


「ならこっち」


「はい」


一輝が固定具を外し終える。


「一台目、降ろせるッス!」


ガイが後ろへ回り、機材の重心を見た。


「ゆっくりだ。落とすなよ」


「落とさないッス!」


「声を出せば落ちねえわけじゃねえ」


「分かってるッス!」


ナンディーヌが荷台の横から見る。


「一輝、前側を少し上げすぎ。角度を合わせな」


「うっス!」


「シェスター、そっちは力で持たなくていい。

 滑らせていい場所と、止める場所を分ける」


「分かった」


「イルルちゃん、手はそこじゃない。指を挟む」


イルルは慌てて手を引いた。


「すみません」


「謝らなくていい。挟む前に直せば十分」


紫乃は少し離れた位置で、全員の動きと周囲を見ていた。

手を出しすぎない。


だが、誰かが後ろへ下がれば邪魔にならない位置へ移動する。

誰かが水際へ寄りすぎれば、さりげなく視線を向ける。

ナンディーヌが機械を見る間、紫乃は人と場を見ていた。


一台目の水上機材が船着き場へ降ろされる。

続けて二台目。

低速調査用のセンサー端末も取り付けられた。


一輝が確認する。


「固定、問題なし。給電正常。センサー起動確認ッス」


ナンディーヌは端末を覗き込んだ。


「悪くないね」


「ありがとうございますッス!」


「褒めたからって、まだ終わってないよ」


「うっス!」


ガイは輸送車の位置を確認し、すぐに動かせる向きへ少しだけ切り直した。


「車はこの向きで置く。何かあったらすぐ出せる」


シェスターが頷く。


「湖面調査に出る」


「範囲は予定通りだ」


ガイは湖を見た。


「無理すんな。違和感があったら戻れ」


「分かってる」


イルルも頷く。


「近くの岸へ戻ります」


ナンディーヌが満足げに頷いた。


「それでいい。水の上で意地を張ると、機械より先に人間が壊れる」


シェスターはイルルの機体を軽く叩いた。


「乗れるか」


「はい」


イルルは水上機材にまたがる。

以前より動きはぎこちなくない。


速く走るための姿勢ではない。

波を読むための姿勢。


重心を低くし、腕に力を入れすぎず、水面の揺れに合わせる。

シェスターも自分の機体へ乗った。


一輝が端末を確認する。


「二台とも通信確認。湖面センサー、低速モードで動いてるッス」


フィリアの声が入る。


『こちらでも受信しました。

 シェスターさん、イルルさん、映像は必要時のみ送ってください。

 通常はセンサー値優先で大丈夫です』


シェスターが返す。


「了解」


イルルも続ける。


「分かりました」


リヴァルの声が通信に乗る。


『予定範囲だけでいい。反応が取れなくても深追いするな』


シェスターは湖面を見たまま答えた。


「分かってる」


ナンディーヌは基地入口へ向き直った。


「じゃあ、こっちは中を見るよ。一輝、最初の荷物を持ちな」


「うっス!」


一輝が機材箱を担ぐ。

紫乃は小型ケースを片手に持ち、

もう片方の手を空けたままナンディーヌの少し後ろへ立った。


「あら。ローム主任の背中、思ったより忙しくなりそうね」


「退屈させないようにするよ」


「退屈でもいいのよ。無事なら」


ナンディーヌは一瞬だけ紫乃を見る。

それから、軽く笑った。


「そういう言い方、嫌いじゃない」


ガイは基地入口と湖岸の中間に立ち、全体を見渡した。

ナンディーヌ、一輝、紫乃が基地内部へ向かう。

シェスターとイルルは水上へ出る。


輸送車は船着き場に停まり、いつでも動ける向きで待機している。


湖は静かだった。

基地も静かだった。


不穏な気配は、まだ形を持っていない。

ただ、調査が始まっただけだった。

ナンディーヌは基地入口の前で足を止めた。


半地下の施設は、外から見るよりも奥行きがある。

湖側へ向かって低く伸びる構造。

壁面には、かつてマギアス軍の管理番号だったらしい文字が残っていた。


大半は削られている。

削ったというより、意図的に読めなくしたような跡だった。


「番号を消してるね」


ナンディーヌが言った。

一輝が横から覗き込む。


「撤収時に消したんスかね」


「たぶんね。

 見られたくないものは壊す。

 持っていけるものは持つ。

 捨てるものは、捨てたあとに読めないようにする」


ナンディーヌは扉の枠を軽く叩いた。


「軍隊の後片付けとしては雑。

 でも、何かを調べていた施設の逃げ方としては、まあまあ筋が通ってる」


「調べていた施設ッスか」


「まだ仮の呼び方だよ」


「うっス」


紫乃は二人の後ろで、視線だけを通路の奥へ流していた。

技術の話には口を挟まない。


ただ、床の埃、壁際に積もった砂、

通路の暗がり、外から差す光の角度を見ている。


「今のところ、人の気配はないわ」


紫乃が静かに言った。


「でも、昨日より風が中に入ってる。

 奥のどこか、開いているかもしれないわね」


「通路か、換気か、壊れた区画か」


ナンディーヌは頷いた。


「助かるよ。私は機械を見る。紫乃さんは周りを見ておいて」


「あら。周りを見るのは得意よ」


紫乃は少しだけ笑う。


「若い子たちも、危ない場所も、目を離すとすぐ妙なことをするもの」


一輝は何か言いかけて、やめた。

ナンディーヌが目だけで一輝を見る。


「今、余計なこと言おうとしたね」


「言ってないッス」


「言う前に止めたなら成長だ」


「ありがとうございますッス?」


「疑問形にするな」


ガイは入口付近に機材を下ろし終え、

湖側と施設入口の両方が見える位置へ立った。


「こっちは外を見る。何か運ぶなら呼べ」


「頼むよ」


ナンディーヌは短く返し、施設内へ入る。

一輝が仮設電源機材を担いで続いた。


紫乃は最後に入る。

その歩き方は静かだった。


足音を消しているのではなく、足音を選んでいる。

床がどこで鳴るか。

どこに体重をかけると、何が響くか。


そういうことを確かめるような歩き方だった。


内部は薄暗い。

非常灯は死んでいる。


天井の一部が落ち、壁にはケーブルの束が這っていた。


持ち去られた機材の跡。

破壊された端末。

外されたパネル。


それでも、完全に空ではなかった。

重すぎて運び出せなかったもの。

価値がないと判断されたもの。


壊したつもりで壊しきれなかったもの。

そういうものが、施設の奥に残っていた。


一輝は仮設電源を制御盤の前へ置く。


「主任、ここから入れるッスか」


ナンディーヌは制御盤を開け、中を覗き込んだ。


「主線は死んでる。こっちは触らない。補助ラインを使うよ」


「うっス」


「焦るな。一気に起こすんじゃない。

 寝てる部屋に、ひとつずつ灯りを点ける感じだ」


「端末と制御盤の一部だけッスね」


「そう」


ナンディーヌは持ち込んだ変換器を取り出す。


「施設全体を起こす必要はない。見たい場所だけ起こす」


紫乃がその言葉に、少しだけ目を細める。


「必要なところだけ、そっと起こすのね」


「そういうこと」


ナンディーヌは答える。


「乱暴に起こすと、壊れてる部分まで騒ぎ出すからね」


『こちらオペレーション室』


フィリアの声が通信端末から入った。


『基地内映像、受信しています。

 通信はやや不安定ですが、音声は維持できています』


「了解ッス」


一輝が返す。

ナンディーヌは手元から目を離さない。


「リヴァル、こっちは補助ラインから入る。施設全体は起こさない」


『分かった。その方がよさそうだ』


リヴァルの声が通信に乗った。


『必要な範囲だけ見て。危険が出たら止めていい』


「はいよ」


ナンディーヌは軽く返した。

その間に、湖面側から通信が入る。


『こちらシェスター。湖面調査を開始した』


続いてイルルの声。


『イルルです。低速で進みます。波は穏やかです』


フィリアが応答する。


『センサー値を受信しています。映像は必要時のみで大丈夫です』


『分かりました』


イルルの声は落ち着いていた。

船着き場から離れた二台の水上機材が、湖面をゆっくり進んでいく。


速く走る必要はない。

水面をなぞるように。

ケーブルが沈んでいる方向へ。


一定の距離を保ちながら、シェスターが少し陸側、イルルが湖側を走る。


シェスターは速度を上げない。

イルルもそれに合わせる。

湖は静かだった。


センサー端末には、小さな反応がいくつも点滅している。


水中のマナの揺らぎ。

沈んだケーブル。

水圧の変化。

反応はある。


ただ、それが何かはまだ分からない。

基地内で、ナンディーヌは端末を接続する。

一輝が仮設電源を少しずつ上げた。


低い作動音が制御盤から響く。

死んでいた表示灯の一つが、弱く点いた。


「入ったッス」


「まだ喜ばない」


ナンディーヌは端末を覗き込む。


「軍用ロックの残骸がある。正規手順は死んでるね。壊し方も雑だ」


「開くッスか」


「開ける」


即答だった。

一輝の目が輝く。


「やっぱ主任すげえッス」


「見て覚えようとするなよ」


「見てるだけッス」


「目が覚える気満々だよ」


紫乃がくすりと笑う。


「一輝くん、目だけ先に走ってるわね」


「そんなに分かるッスか」


「ええ。若い男の子は、好きなものを見ると分かりやすいもの」


「なんか言い方が大人すぎるッス」


「大人だもの」


紫乃はさらりと言って、また通路へ視線を戻した。

ナンディーヌの指が端末上を滑る。

画面に、歪んだ施設図が浮かんだ。


一部は欠けている。

一部は塗り潰されている。


それでも、基地の大まかな構造は見えてきた。


「湖側に制御室。

 船着き場の下に、ケーブルの集束点。

 こっちは観測機材……それと、照射系の制御盤が別にあるね」


一輝が眉を寄せる。


「照射系ッスか」


「何を照射してたかは、まだ分からない」


ナンディーヌは別の表示を開く。


「湖側のセンサー反応と照合できるかい」


『できます』


フィリアがすぐに答えた。


『今、シェスターさんとイルルさんの水上センサー値を重ねます』


少しだけ間が空く。

通信の向こうで、フィリアが端末を操作する音がした。


『大きめの反応が、断続的に出ています。

 出ては消えて、位置も安定しません』


リヴァルの声が続く。


『封印反応の候補には入る。ただ、今まで確認したものと同じとは言えない』


ナンディーヌは画面を見ながら頷く。


「水中に形が見えないと、かなり曖昧だね」


『こちらの解析でも、位置が散ります。

 湖底の形状や、沈んでいる構造物の影響を受けている可能性もあります』


フィリアが言う。


「なるほどね」


ナンディーヌは通信を聞きながら、ふと思い出したように一輝を見た。


「その水上機、ソナーは積んでるのかい?」


一輝が顔を上げる。


「ないッス。簡易センサーとマナ反応計だけッスね。

 水中地形を見る装備は積んでないッス」


「なら、今は見えてる範囲でやるしかないね」


「うっス」


「水の中は、見えないだけで情報が減る。

 見えないものを無理に当てにいくな」


一輝は真面目に頷いた。


「了解ッス」


その時は、単なる装備確認だった。


水中の形が分からない。

だから、分かる範囲で進める。

それだけの話だった。


制御盤の表示が、また一つ点いた。

一輝が出力を安定させる。


「補助端末、起動いけそうッス」


「そのまま。急に上げるな」


「うっス」


ナンディーヌが変換器を噛ませ、破損した端末の一つへ接続する。


画面がちらついた。

文字化け。

黒い帯。

欠けた管理番号。


次いで、短い文字列が浮かび上がる。


水域接続試験。

照射角調整。

接触班記録。

救助行動。


未帰還報告。

少女型対象。

一輝の表情が変わった。


「主任」


「ああ」


ナンディーヌは表示を保存し、すぐに別の端末へ送った。


「紙の断片と繋がってきたね」


紫乃は黙ったまま、ナンディーヌの背後に立っている。

機械の意味は読めない。


だが、表示された単語が、

先ほど会議室で見た紙資料と重なっていることは分かった。


「さっきの紙にあった言葉ね」


「そう」


ナンディーヌは答える。


「順番と前後が見えれば、少しは読めるようになる」


フィリアの声が通信に入る。


『こちらでも表示を確認しました。紙資料の判読語句と一致します』


リヴァルが言う。


『音声か映像は残ってる?』


ナンディーヌは端末を操作する。


「探す。けど、先に文字ログを拾うよ。

 中途半端に開くと、残ってるものまで壊しかねない」


『分かった。開く順番は任せます』


リヴァルの声だけ、わずかに丁寧だった。

ナンディーヌは小さく笑う。


「任された」


その直後、湖面側から通信が割り込んだ。


『こちらシェスター』


声が少し硬い。

基地内の全員が、手を止めたわけではない。


だが、意識だけが通信へ向いた。


『イルルの動きがおかしい』


ナンディーヌが画面から目を離さずに聞く。


「機体かい。人かい」


『分からない。機体の反応が遅れてるように見える。

 イルル本人は操縦してるが、少し遅い』


続いて、イルルの声が入る。


『すみません。機体に、少し違和感があります』


声は落ち着いている。

ただ、少し慎重だった。


『速度を上げると、センサーが一瞬だけ飛びます。

 駆動音は変わっていません。

 でも、反応が……遅いです』


ナンディーヌは即答した。


「近くの岸に戻りな。水上で原因を探すな」


シェスターの返答は早かった。


『戻る』


「一番近い岸でいい。船着き場まで戻ろうとするな。

 揺れてる場所で無理に走る必要はない」


『了解』


イルルの声が少し遅れて続く。


『分かりました。近くの岸へ戻ります』


通信が一旦切れる。

一輝は工具箱を掴んだ。


「主任、自分が行くッス」


「行ってやりな」


ナンディーヌはすぐに言った。


「機体側を見てきな。給電、センサー、ログ飛び、全部確認」


「うっス」


ガイが入口側から基地内へ顔を出した。


「俺も行く。念のためだ」


ナンディーヌは頷く。


「頼むよ。機械の不調で済めばいいけどね」


「済まなかった時のために行く」


ガイは短く返した。

その言葉には、まだ緊急時の鋭さはない。


だが、気楽でもなかった。

一輝が工具を持って走り出す。

ガイがその後に続く。

紫乃は動かなかった。


ナンディーヌのすぐ後ろにいる。

一輝が振り返る。


「紫乃さんは」


「おばさんは、ローム主任の背中を見る役よ」


紫乃は穏やかに言った。


「若い子のところには、ガイさんが行ってくれるでしょう?」


ガイは足を止めずに片手を上げた。


「任せろ」


「ほらね」


紫乃は微笑む。

一輝は一瞬だけ頷き、ガイと共に外へ出た。


足音が遠ざかる。

施設内に残ったのは、ナンディーヌと紫乃。

そして、通信越しのオペレーション室。


ナンディーヌは端末に向き直った。


「リヴァル」


『聞いている』


「紙の断片と一致する語がある。

 少女型対象、水域接続、照射角調整、接触班記録、救助行動、未帰還報告」


紫乃は背後で通路を見ている。

ナンディーヌは表示された文字列をまとめ、オペレーション室へ送る。


『順に見せて。フィリア、紙資料の判読結果と並べて』


『はい』


「送ってる。まだ断定はしない。

 ただ、湖側に何かを照射、

 あるいは接続するための系統があったのは確かだと思う」


『観測だけではなさそう、という程度で見る』


リヴァルが言った。


「それでいい」


ナンディーヌは次の階層を開く。

画面が一度、暗転する。

黒い帯の奥で、壊れたログ名だけが浮かんだ。


音声記録。

対象接触。

救助要請。


ナンディーヌは画面を見たまま言った。


「音声記録らしきものがある」


紫乃が、わずかにナンディーヌへ視線を向けた。

ナンディーヌは続ける。


「ただ、今は先に文字ログをまとめる。

 湖岸側に一輝とガイが出てる。

 そっちの確認が終わるまで、こっちは壊さないように拾えるものを拾うよ」


『分かった。そのまま共有して。判断は急がない』


「続ける」


ナンディーヌは端末に指を置いた。


「まず、この施設の用途だけど――」


一輝とガイが岸へ着いた時、

シェスターとイルルはすでに水上機材を引き上げていた。

船着き場からは少し離れた、小さな砂利の岸だった。


湖面へ緩く下るように開けていて、

水上機材を一時的に停めるには十分な広さがある。

シェスターは陸側に立っていた。


イルルは、水際に近い方へいた。

水上機材の片方が岸へ寄せられ、波に揺れている。


一輝は工具箱を置き、すぐに機体の側面パネルを開いた。


「イルルさん、どの辺で違和感出たッスか」


「速度を少し上げた時です。急に、反応が遅くなったように感じました」


「駆動音は?」


「変わっていなかったと思います」


「センサー表示は?」


「一瞬だけ、消えました。すぐ戻りましたけど」


一輝は端末を繋ぎ、ログを確認する。

ガイは少し離れた位置に立ち、湖と陸の両方を見ていた。

シェスターはイルルを見る。


「気分は」


「悪くはありません」


「大丈夫とは言わねえんだな」


イルルは少しだけ困ったように笑った。


「言うと、信用されませんから」


「分かってるならいい」


一輝が機体の下部を覗き込む。


「給電正常。

 駆動系、異常なし。

 センサーも……ログ飛びはあるッスね。

 でも機体側のエラーじゃないッス」


「どういうことだ」


シェスターが聞く。


「機械が壊れて出たエラーじゃない感じッス。

 反応だけ一瞬飛んでる。

 配線も、接続も、出力も問題ないッス」


一輝は眉を寄せた。


「……どこもおかしくないッスね」


その言葉に、イルルが少しだけ肩を落とした。


「すみません。私の感じ方が、変だったのかもしれません」


「違う」


シェスターがすぐに言った。


「変だと思ったなら、戻って正解だ」


ガイも頷く。


「そうだな。水の上で意地張るより、こっちの方がいい」


一輝は通信端末を開いた。


「主任、聞こえるッスか」


『聞こえてるよ』


ナンディーヌの声が返る。

その背後では、基地内の端末音と、フィリアの操作音が薄く混ざっていた。


「機体側、異常なしッス。

 給電、駆動、固定、センサー接続、全部正常。

 ログ飛びだけあるッスけど、機体エラーじゃないッス。

 原因、考えられるッスかね」


『機械じゃないなら、外だね』


ナンディーヌは即答した。


『水面側のマナ反応、ケーブル、地形、乗り手側のマナ。

 その辺りと干渉して、センサーだけ飛んだ可能性はある』


「乗り手側ッスか」


『可能性の話だよ。

 断定はしない。

 まずはセンサーログを時間順に見な。

 飛んだ瞬間の前後に、外部反応が入ってないか確認』


「了解ッス」


『あと、機体をいじりすぎないこと。

 壊れてないものを直そうとすると、壊すよ』


「うっス!」


一輝は端末に向き直った。


「ログ前後、見るッス」


ガイはそれを確認してから、シェスターとイルルへ視線を向けた。


「機械は一輝に任せろ。お前らは休め」


シェスターが眉を寄せる。


「俺は」


「お前もだ」


ガイの声は強くない。

だが、退かない響きがあった。


「見てる側が疲れてると、助ける時に遅れる」


シェスターは一瞬黙った。

言い返さなかった。

ガイはイルルへも目を向ける。


「イルル。顔色が少し落ちてる。座ってろ」


「でも、私は」


「休める時に休むのも仕事だ」


イルルは少しだけ迷い、それから頷いた。


「はい」


シェスターは陸側の倒木に腰を下ろした。

イルルは水際に近い岩のそばへ移動する。


一輝は機体の横でログを確認している。

ガイはその少し後ろで、湖面と周囲を見ていた。

通信端末からは、基地内の会話が小さく流れている。


『文字ログ、追加で拾えたよ』


ナンディーヌの声。


『水域接続試験。

 照射角調整。

 対象接触。

 救助行動。

 未帰還報告。

 紙資料の断片と、ほぼ同じ語が並んでる』


『こちらでも照合しています』


フィリアが続く。


『紙資料の判読結果と一致します。

 ただし、文章としてはまだ復元できません』


『分かった。単語の順序だけ先に整理して』


リヴァルの声は落ち着いていた。


『意味を繋げるのは後でいい』


岸にいる四人へ向けた会話ではない。

ただ、通信が開いたままだから聞こえている。

一輝は機体に集中している。


ガイは聞いてはいるが、口を挟まない。

シェスターも、今はイルルの方を見ていた。


イルルは湖面を見つめている。

水は静かだった。

風で揺れている。

波が小さく岸を叩く。


その音を、イルルはじっと聞いていた。


「水の音、少し懐かしいです」


イルルが言った。

シェスターは隣を見る。


「故郷か」


「はい」


イルルは湖を見たまま頷いた。


「海とは違います。匂いも、波も、全然違います。

 でも、水の音だけは、少し似ています」


「嫌じゃねえのか」


「怖いです」


イルルは静かに答えた。


「でも、落ち着きます」


シェスターはそれ以上、すぐには聞かなかった。

イルルは少しだけ指先を握る。


「故郷は、闇の霧に包まれました」


その声は、泣いていない。

けれど、遠くを見ている声だった。


「家も、港も、道も、よく覚えています。

 朝になると、父が先に起きて、母が怒るんです。

 朝食の前に外へ出ないでって」


シェスターは黙って聞く。


「父は、少し困った顔で笑っていました。

 母は怒っているのに、いつも食事を多めに作るんです。

 父が外で動くと、すぐお腹を空かせるからって」


イルルの口元に、少しだけ笑みが浮かぶ。


「仲が良かったんです」


「そうか」


「はい。

 よく喧嘩もしていました。

 でも、いつも同じ場所に帰ってきました。

 同じ食卓で、同じ話をして、また明日ねって言って」


水面が揺れる。

イルルはその揺れを目で追っていた。


「子供の頃、思っていました。私もいつか、あんなふうになりたいって」


シェスターは少しだけ視線を落とす。


「家族を作りたいってことか」


「はい」


イルルは頷いた。


「ただ、誰かと一緒にいるだけじゃなくて。

 帰る場所があって、待っている人がいて、

 怒ったり、笑ったりして、それでも隣にいるような」


通信端末から、ナンディーヌの声が流れる。


『音声記録の断片がある。かなり壊れてるね』


『再生できそうですか』


フィリアが聞く。


『短い部分だけなら。ノイズが多い。

 内容の判断は後にして、まず記録として流すよ』


シェスターは通信を聞いていたが、意識はイルルから離れていない。

イルルは、ゆっくりとシェスターの方へ向き直った。


「私、シェスターさんと……ずっと」


『こ……いで』


通信の向こうから、ひどく欠けた音が流れた。

女の声だった。

ノイズに潰れて、言葉になりきらない。


基地内で、紫乃がわずかに顔を上げた。


『この声……』


その小さな呟きが、通信に乗る。


一輝が一瞬だけ顔を上げた。

ガイも、わずかに眉を動かす。

だが、イルルの声が続いた。


「そういう場所を、作れたらいいなって」


シェスターの表情が変わる。

驚きではない。

逃げる表情でもない。


ただ、受け止めるために、一度だけ息を止めた顔だった。


イルルは手を差し出した。

震えてはいない。

けれど、強くもない。

シェスターはその手を見た。


「イルル」


「はい」


「今、何を言ったか分かってるか」


「分かっています」


イルルはシェスターを見つめる。


「私、守られるだけじゃなくて、守りたいです。

 助けてもらうだけじゃなくて、助けたいです」


通信の向こうでは、ナンディーヌが音声記録の次の断片を開いていた。


『もう一つ、再生するよ。短い』


シェスターは、差し出されたイルルの手に手を伸ばす。

その瞬間、通信から音声が重なった。


「助け合っていきたいです」


『助けないで』


シェスターの指が、イルルの手に触れた。


湖面が揺れた。

風ではない。


イルルの髪が、水面へ向かって張った。

濡れてもいない髪が、束になって湖の方へ引かれている。


後ろへ。

水の奥へ。


イルルの首が、わずかに後ろへ傾いた。

シェスターの目が見開かれる。


「イルル!」


イルルの口が動いた。

声は出ない。


けれど、表情は確かに、助けを求めていた。

シェスターが手を伸ばした。


その瞬間。


湖そのものが、口を開けた。

水面が割れたのではない。

波が盛り上がったのでもない。


湖の奥にあった巨大な黒い影が、口の形だけを先に現した。

シェスターの手がイルルへ届く。

イルルの髪が、さらに強く湖へ引かれる。


ガイが一番早く動いた。


「下がれ!」


一輝が振り向く。

シェスターがイルルを掴もうとした。


だが、その前に。

黒い影が、二人を包んだ。


湖面が、何事もなかったように閉じた。

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