序章 三話
中央には、寝台に近い白い検査台がある。
壁際にはいくつもの装置が並び、天井には円形の撮影機のようなものが吊られていた。
奥には透明な仕切りの向こうに観測室があり、
白衣に近い検査服を着た研究員たちが端末を操作している。
医療担当の女性が、フィリアの前に出た。
「フィリアさんですね。担当します。まずは普通の健康検査から始めます」
声は、入所手続きの職員と少し似ていた。
柔らかく、急かさない声だった。
「痛い検査はありますか」
「針を使うものはありません。
全身のスキャンと、呼吸や神経反応を見る検査です。
途中で気分が悪くなったら、すぐ言ってください」
「はい」
「眼鏡はそのままで大丈夫です。防護層も一緒に確認しますね」
フィリアは検査台に座った。
仮端末と飲みかけのオレンジジュースは、シェスターが近くの台に置いてくれた。
「終わったら返す」
「ありがとうございます」
「無理すんなよ」
その一言に、フィリアはまた小さく頷いた。
検査台がゆっくり倒れる。
天井の円形装置が動き、青白い光がフィリアの体を足元から頭の先までなぞっていった。
痛みはない。
ただ、自分が数字に分けられていくような、落ち着かない感覚がある。
観測室の向こうで、研究員の声が低く流れた。
「身長、一五四・〇センチ。体重、四四・二キログラム」
「筋力、同年代平均をやや下回ります。持久力も低下傾向」
「疲労蓄積、中等度。脱水、軽度」
「外傷は軽微。呼吸器への霧影響、軽度以下」
「視力、補助器具必須。眼鏡の防護層、正常」
フィリアは目だけを動かして、天井を見た。
自分の体のことなのに、知らない誰かの結果を聞いているようだった。
医療担当がそばで言う。
「健康状態は大きな問題ありませんよ。
少し疲れていますから、あとで水分と食事を取ってくださいね」
「はい」
観測室では、さらに別の確認が続いていた。
「身体変質反応なし」
「闇の霧接続反応なし」
「マギアス反応なし」
研究員の一人が、画面を覗き込みながら小さく言った。
「人間ですね。完全な真人間です。血統書があれば発行できそうなくらいの」
「その表現、記録には残さないでください」
「もちろん。判定は純粋な人間反応です」
その会話は、フィリアには届かなかった。
リヴァルは、観測室の側でそのログを見ていた。
表情は変えない。
けれど、目は画面から離れない。
健康検査が終わると、検査台が元の角度に戻った。
医療担当が手を差し出す。
「起き上がれますか」
「はい」
フィリアは上半身を起こした。
少しだけ頭が重い。けれど、立てないほどではない。
次に用意されたのは、小さな板状の装置だった。
武器には見えなかった。細長い金属と樹脂の板。
中央には薄く透き通った石のようなものが埋め込まれていて、
周囲に細い線が走っている。
リヴァルが説明した。
「次はデバイス検査だ」
フィリアの指が、膝の上で少し固まった。
「デバイス……」
「武器ではないよ」
リヴァルはすぐに言った。
「これはアーツデバイスに使われる基礎素材と触媒を組み合わせただけの検査装置だ。
何かを撃つことも、切ることもできない」
「触るだけ、ですか」
「そう。触媒にマナが通るかを見る」
フィリアは頷いた。
検査台の横に装置が固定される。
医療担当が言う。
「手を置いてください。力は入れなくて大丈夫です」
フィリアは右手をそっと乗せた。
板は冷たくなかった。
むしろ、体温に合わせるようにすぐ温かくなる。
中央の触媒が、淡く光った。
観測室で研究員が端末を見た。
「触媒導通、確認」
「拒絶反応なし」
「導通率、上昇」
「基準値を超過」
一拍。
「……まだ上がります」
別の研究員が顔を上げた。
「安全制限をかけてください」
「既に制限内です。出力は出ていません。ただ、通りが良すぎる」
リヴァルが画面に触れる。
数値が細かく展開された。
シェスターが観測室側を見る。
「危ないのか」
「今のところ危険はない」
リヴァルが答えた。
「触媒への通り道が開きやすいだけだ。武器種は関係ない。
アーツデバイスそのものへの適性が高い」
織葉が感心したように腕を組む。
「つまり、素材が彼女に懐いていると」
「違う」
シェスターが言った。
「惜しい」
リヴァルが言った。
「惜しいんですか」
フィリアが思わず聞くと、リヴァルは少しだけ笑った。
「触媒側が拒んでいない、という意味では近い」
フィリアは自分の手を見た。
触媒の光は、強くなりすぎる前にゆっくり落ち着いた。
医療担当が装置を外す。
「ここまでは問題ありません。次が最後の大きな確認です」
「最後」
「マナ検査です」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
装置が入れ替えられる。
今度は、検査台の周囲に円形の枠が立ち上がった。
腕や足を固定するものではない。
半透明の細いリングが、寝台を囲むように配置されている。
壁のラインが淡く光り、天井の排出装置が低い音を立て始めた。
リヴァルが近づいてきた。
「今から、君の体の中にあるマナの流れに、少しだけ負荷をかける」
フィリアは唾を飲んだ。
「少しだけ」
「そう。マナセットの有無と、マナアーツの発現傾向を見るための検査だ。
無理に力を出す必要はない。装置が反応を見る」
「私が、何かするわけじゃないんですね」
「基本的には何もしなくていい」
リヴァルは言った。
「気分が悪くなったら止める。痛みや息苦しさがあれば、すぐ言ってほしい」
シェスターも横から言う。
「我慢するなよ」
「はい」
織葉が拳を握った。
「気合で乗り切る必要はありません」
「お前が言うと逆に不安になる」
「なぜです」
フィリアは少しだけ息を吐いた。
検査台がまたゆっくり倒れる。
リング状の装置が淡く光り、フィリアの体を囲んだ。
医療担当がそばにつく。
「では始めます。目は閉じても大丈夫ですよ」
「はい」
フィリアは目を閉じた。
最初は、何も起きなかった。
ただ、胸の奥に小さな温かさが生まれたような気がした。
それは、火ではない。
水でも、風でもない。
言葉にしにくい、細い糸のような温かさ。
観測室で研究員が読み上げる。
「負荷レベル一。マナ基礎値、上昇」
「反応、未分類」
「既存マナセット照合、該当なし」
「波形、安定しません」
フィリアの眉が少し寄った。
胸の温かさが、少しずつ広がっていく。
体が重い。
さっきまでの疲労とは違う。
内側から、自分の体が自分の重さを思い出していくような感覚だった。
「フィリアさん、気分はどうですか」
医療担当が聞いた。
「少し……重いです」
「胸ですか。頭ですか」
「体、全部……」
リヴァルがすぐに言った。
「負荷を落として」
「了解。負荷レベル、低下」
研究員が操作する。
しかし、フィリアの呼吸は浅くなった。
耳の奥で、遠い音がする。
灰色の霧。あの通路。手の中のガンデバイス。
撃つつもりはなかった。撃てるとも思っていなかった。
それなのに。
「フィリアさん。聞こえますか」
医療担当の声が少し近くなる。
フィリアは答えようとした。
けれど、声が出なかった。
観測室の声が速くなる。
「心拍上昇」
「呼吸、乱れています」
「負荷中止」
「中止します。外部入力停止」
リングの光が落ちる。
天井の駆動音も弱まった。
それでも、フィリアの中の温かさは消えなかった。
むしろ、奥へ沈むように強くなる。
「負荷、停止しました」
「内部マナ圧、低下しません」
「上昇しています」
シェスターが一歩前に出た。
「おい」
「外部入力は切っている」
リヴァルの声は静かだった。
だが、視線は鋭い。
「本人側で循環が加速している」
「止められないのか」
「遮断はしている。装置からはもう押していない」
フィリアの指が、検査台の端を掴んだ。
息が苦しい。痛いわけではない。
ただ、体の内側に入りきらない何かが、どんどん増えていく。
自分の体が、小さすぎる。そう思った。
「フィリア!」
シェスターの声が聞こえる。
織葉の声もした。
「フィリア殿!」
リヴァルが言う。
「排出系を開いて。部屋の吸収材を最大に」
「開いています」
「内部マナ圧、臨界接近」
「身体負荷、危険域に入ります」
医療担当がフィリアの肩に触れようとした、その瞬間。
光が生まれた。
最初は、背中の下に細い線が走っただけだった。
検査台とフィリアの間から、淡い白金の光が滲む。
次に、肩甲骨のあたりから光の筋が広がった。
羽根だった。
けれど、肉の翼ではない。
鳥の羽でもない。
光だけで描かれた、薄い輪郭。
それがフィリアの背中からふわりと立ち上がり、音もなく広がっていく。
部屋の照明が、一瞬だけ負けた。
シェスターは言葉を失った。
織葉も、いつもの調子で何かを言うことができなかった。
リヴァルだけが、目を見開いたまま、その光を見ていた。
翼は、フィリアを包み込むように閉じた。
攻撃ではなかった。
外へ放つための力でもなかった。
ただ、溢れたものを逃がすように。
守るように。
フィリアの体を抱え込むように。
光の羽が重なり、検査台の上に白い繭を作る。
観測室の数値が一斉に動いた。
「内部マナ圧、低下」
「身体負荷、危険域を離脱」
「外部排出を確認」
「触媒経由ではありません。本人背部から直接排出しています」
「マナ吸収材、処理追いつきます」
「波形、安定化」
フィリアの呼吸が、少しずつ戻っていく。
握りしめていた指から力が抜けた。
翼はしばらく彼女を包んでいた。
それから、羽の輪郭がほどける。
一枚ずつ散るのではなく、霧のように淡く崩れていった。
白金の光は細かな粒になり、部屋の空気に溶ける。
最後に、フィリアの胸の上に小さな光が残り、それも静かに消えた。
検査室に、低い駆動音だけが戻ってくる。
「フィリアさん」
医療担当が呼びかける。
フィリアは目を閉じたままだった。
意識はあるようにも、ないようにも見えた。
「反応が弱い。横にします」
「そのまま寝かせて」
リヴァルが言った。
「身体負荷は下がっている。急に動かさない方がいい」
医療担当と研究員が慎重に検査台の角度を調整し、フィリアを完全に横にした。
シェスターが近づこうとする。
リヴァルが手で制した。
「大丈夫。危険域は抜けた」
「本当に大丈夫なんだな」
「今は」
リヴァルは、そこで一度だけ言葉を切った。
「今は、安定している」
観測室の研究員が、信じられないものを見るような顔でデータを確認していた。
「……結果、出します」
別の研究員が頷く。
「健康検査。身体状態は疲労と軽度脱水を除き、大きな異常なし。
身体能力は同年代一般範囲、運動訓練履歴なし」
「マギアス反応、なし。闇の霧接続、なし。身体変質、なし」
「アーツデバイス触媒適性、高値。導通率、基準値大幅超過。
ただし武器種別の判定は行っていません」
研究員は一度、画面を見直した。
「マナ検査」
その声が、ほんの少し硬くなる。
「既存マナセット照合、該当なし」
「マナ負荷停止後、本人内部で循環加速。
臨界付近で翼状の外部排出現象を確認」
「排出後、身体負荷は低下。暴走反応なし」
「マナアーツとしての攻撃性は確認されず。
現象の主目的は、余剰マナの放出と本人保護と思われます」
観測室が静まり返った。
研究員の一人が、最後に小さく言った。
「分類は……UNKNOWNです」
リヴァルは、横たわるフィリアを見ていた。
彼女は小柄な、ただの少女に見えた。
身長一五四センチ。
体重四四キログラム。
運動訓練歴なし。
完全な人間。
その背中から、翼が出た。
リヴァルは画面に表示されたUNKNOWNの文字を見つめる。
それから、静かに息を吐いた。
「記録を保存して」
「はい」
「旧時代文献との照合を始める」
その言葉に、研究員たちが一斉に動き出す。
シェスターは、まだ検査台の上のフィリアから目を離せずにいた。
織葉も黙っている。
白い部屋の中央で、フィリアは眠るように横たわっていた。
さっき彼女を包んだ光は、もうどこにも残っていない。
けれど、そこに何かがあったことだけは、誰の目にも明らかだった。
フィリアが医療担当に連れられて検査室を出たあとも、観測室の空気は動かなかった。
誰もすぐには口を開かなかった。
検査台はもう空になっている。
さっきまでその上に横たわっていた少女の姿はない。
白い光の翼も、すでに跡形もなく霧散していた。
それでも、観測機器の記録には残っている。
内部マナ圧の上昇。
外部入力停止後の循環加速。
臨界付近での翼状発現。
背部からの余剰マナ排出。
そして、既存マナセット照合不能。
観測室の中央に浮かぶ表示には、まだ大きく文字が出ていた。
UNKNOWN.
研究員の一人が、ようやく息を吐いた。
「……再生します」
リヴァルは答えなかった。
ただ、表示から目を離さずに頷いた。
記録映像が展開される。
検査台に横たわるフィリア。淡いリング状の装置。負荷レベル一。
体調悪化による中止。外部入力停止。
そこまでは、異常事例ではあっても理解できた。
問題はその後だった。
装置側の負荷が完全に切れたあとも、
フィリアの内部マナ圧だけが上がっていく。
外から押されているのではない。
本人の中で回り始めている。
研究員が画面を指した。
「ここです。外部入力はゼロ。触媒側も遮断済み。
なのに循環だけが加速しています」
「マギアス化に近い反応は?」
別の研究員が問い返す。
「ありません。闇の霧接続なし。身体変質なし。侵食波形なし。
むしろ、波形だけ見れば異様に澄んでいます」
「澄んでいる?」
「濁りがない、としか言いようがありません。魔性反応ではありません」
表示が進む。
背中から光が生まれる。
観測室の中に、記録映像の白金色が反射した。
研究員たちは黙ってそれを見た。
翼。
誰かがそう言いかけて、やめた。
リヴァルが先に言う。
「翼状の外部排出現象」
研究員が小さく頷いた。
「はい。現象名としては、それが一番正確です。
本人を包むように閉じたあと、余剰マナを外へ逃がしています。
攻撃性はありません。防御、あるいは自己保護に近い」
「触媒は?」
「経由していません」
「検査装置は」
「ただの誘導です。発現そのものには関与していません」
「つまり」
リヴァルが言う。
「彼女の体が、自分で逃がした」
研究員は少しだけ言葉に詰まった。
「……そういうことになります」
リヴァルは映像を止めた。
翼がフィリアを包み込んだ瞬間で、画面が静止する。
白い検査室。
小柄な少女。
その背中から広がる、光だけの羽。
「現代分類で近いものは」
「ありません」
即答だった。
研究員は端末を操作し、照合結果を次々に投影する。
「火、水、風、地、雷、氷、毒、霧、影、爆、音、いずれも該当なし。
闇属性にも該当しません。
高純度マナ反応ではありますが、既存マナセットのどれにも乗りません」
「新種か」
別の研究員が呟いた。
リヴァルは首を横に振った。
「新種と決めるには早い」
「ですが、現代分類には存在しません」
「現代分類には、だ」
リヴァルは操作卓に指を置いた。
「旧時代文献を開いて」
研究員の一人が顔を上げる。
「旧時代、ですか」
「魔法体系が現在より広かった時代の記録だ。
属性分類、英雄伝承、魔力発現、翼状魔力排出。
該当するものをすべて出して」
「了解」
検索が始まる。
観測室の壁一面に、古い文献の断片が浮かび上がった。
復元された古文書。
戦記。伝記。
魔法体系の断片的な解説。
どれも不完全だった。
旧時代の資料は、現代に残るものが少ない。
戦争と断絶と再分類の中で、多くは失われ、
残ったものも寓話と歴史の境目が曖昧になっている。
それでも、いくつかの単語が拾い上げられていく。
光。翼。排出。過剰魔力。白い羽。
リヴァルの目が、ひとつの資料で止まった。
「それを拡大」
表示が開く。
古い伝記の翻訳文。
フィロ・ライトフィールド。
研究員が読み上げる。
「……魔力を限界以上に高めた際、背に白い翼状の魔力を形成。
過剰な魔力を体外へ逃がし、暴走を回避したとされる」
観測室の空気が変わった。
別の研究員がすぐに別資料を呼び出す。
「こちらにも類似記述があります。シェリス・ラグエンスに関する記録。
光属性の魔法行使。白色から金色の高純度マナ。
治癒、浄化、保護、視界干渉への対抗」
「光属性……?」
誰かが呟いた。
その言葉は、観測室の中で妙に浮いた。
現代の属性分類にはない。
教材にも、実戦データベースにも、標準マナセット一覧にも存在しない。
光属性など、今では歴史と伝承の中にしかない言葉だった。
研究員が困ったように画面を見る。
「ですが、光属性は現代分類には登録されていません。
実在属性として扱うには、データが古すぎます」
「分かっている」
リヴァルは静かに言った。
「だから現代分類ではUNKNOWNでいい」
彼はもう一度、静止した映像を見る。
白金の翼。
フィリアの体を包み、守るように閉じてから、霧散していく光。
「だが、運用名は必要だ」
研究員たちの視線がリヴァルに集まった。
「このままUNKNOWNでは、彼女自身が扱えない。
制御も訓練もできない。名前が必要だ。
現代分類になくても、現象に最も近い記録があるなら、それを使う」
「仮登録ですか」
「ああ」
リヴァルは画面に新しい項目を開いた。
対象者。
フィリア・レイフィールド。
マナセット。
未登録。
彼は一瞬だけ、指を止めた。
「ライトフィールドの記録に近い。
シェリス・ラグエンスの記述とも矛盾しない。
高純度の白金マナ。余剰マナの翼状排出。
本人保護を主目的とする発現」
リヴァルは入力欄に文字を打ち込む。
LIGHT.
「仮登録名。マナセット、ライト」
登録音が鳴った。
UNKNOWNの表示が、完全に消えたわけではない。
現代分類上は、まだ未分類。
けれど、その下に小さく新しい名前が追加された。
MANA SET:LIGHT.
研究員の一人が、記録を保存する。
「マナセット、ライト。仮登録完了」
「この件は限定共有にして」
リヴァルが言った。
「本人にはどう伝えますか」
「怖がらせる必要はない」
リヴァルは表示を閉じた。
「危険なものではなかった。
少なくとも、今確認できた発現は彼女を壊すものじゃない。
むしろ守るために働いた」
「ですが、出力は規格外です」
「だから、名前を付けた」
リヴァルは静かに答えた。
「名前のないものは、恐怖になる。名前があれば、扱う対象になる」
研究員は何も言わなかった。
リヴァルは最後に、フィリアの検査結果をもう一度表示させる。
身長一五四センチ。
体重四四キログラム。
運動訓練歴なし。
身体能力、同年代一般範囲。
マギアス反応なし。
完全な人間。
アーツデバイス触媒適性、高値。
マナセット、ライト。
画面の上では、ただの検査結果が整然と並んでいる。
だが、その羅列はひどく歪だった。
小柄な普通の少女の中に、現代分類から消えた光が眠っている。
リヴァルはしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「彼女には、ここにいてもらう」
研究員の一人が顔を上げる。
「保護観察、という意味ですか」
「違う」
リヴァルは、画面に残るLIGHTの文字を見た。
「彼女は、必要になる」
その声は、観測室の機械音に紛れるほど静かだった。
けれど、そこに迷いはなかった。
フィリアが目を覚ますと、白い天井が見えた。
検査室ではなかった。
医療区画の休憩室だと、そばにいた医療担当が教えてくれた。
体に大きな異常はないこと。少し疲れていただけだということ。
水分と食事を取れば落ち着くはずだということ。
それだけ聞いて、フィリアは小さく頷いた。
しばらくして、温かい食事が運ばれてきた。
小さな器に入った野菜のスープと、柔らかいリゾット。
刻んだ葉野菜と、合成肉が少し。
横には小さな果実のカップも添えられている。
がつがつ食べられるほどの体調ではなかった。
それでも、スープは温かかった。
一口飲むと、体の奥に少しだけ熱が戻ってくるような気がした。
「起きてるな」
扉の方から声がした。
シェスターだった。
その後ろに、織葉もいる。
「具合はどうだ」
「少し、ぼんやりします」
「そりゃそうだろ。あんな検査のあとだ」
「まったくです」
織葉が腕を組んだ。
「そもそも、このシェルターの食事が避難民の心身を支えるために十分な配慮をもって構成されていることは、わたくしも理解しております。温かい汁物があり、野菜があり、果実まで添えられている。これは大変すばらしいことです。ですが、すばらしいことと、わたくしの魂が納得することは別問題でして、まず白米がありません。白米がないのです。これは由々しき問題です。さらに刺身がありません。もちろん、この状況で生魚を要求するほどわたくしも無粋ではありませんが、しかし、心の中の海がですね、海が大変に遠いのです。そして漬物です。あれは漬物ではありません。酸っぱいのです。酸っぱいことそのものを否定しているのではありません。ですが、あれは我々の知る漬物の酸味ではなく、もっとこう異国の保存食めいた、端的に言えばピクルス的な方向性であり、我が故郷の食卓における漬物の役割とは根本的に異なるものでして・・・・
織葉の声は、そこで終わらなかった。
むしろ、そこからが本番だった。
フィリアはスプーンを持ったまま、少しだけ目を瞬かせた。
シェスターが小声で言う。
「気にすんな。また始まっただけだ」
「始まった……?」
「ああ。こうなったら、しばらく戻ってこない」
「戻ってこない」
「話がな」
フィリアは織葉を見た。
織葉は真剣な顔で、まだ何かを語り続けている。
米。湯気。朝餉。味噌汁。漬物。魚。故郷。
言葉の意味は聞こえているはずなのに、全体としては大きな川の音みたいだった。
シェスターは椅子を引いて、フィリアの近くに座った。
「食えそうか」
「少しなら」
「それでいい。無理に全部食うな」
フィリアは頷き、スープをもう一口飲んだ。
温かい。
その温かさを感じた途端、ふと、別の感覚が蘇った。
冷たい通路。灰色の霧。
手の中のガンデバイス。
光。倒れた人影。
スプーンを持つ手が止まった。
シェスターは何も言わなかった。
フィリアは、しばらく器を見つめていた。
「あの」
「ん」
「さっきの人」
シェスターの目が、少しだけ細くなる。
「私が撃った、マギアスの人は」
そこまで言って、喉が詰まった。
死んだのか。
そう聞きたかった。
でも、その言葉を自分の口から出すのが怖かった。
シェスターはすぐには答えなかった。
休憩室には、織葉の声だけが続いている。
「確認はした」
シェスターは低く言った。
「ただ、あの場で詳しく見られる状況じゃなかった」
フィリアは顔を上げた。
「じゃあ」
「分からないことは、分からないままにしておくしかない時もある」
シェスターはフィリアを見た。
「少なくとも、お前が今ここで確かめに戻れる話じゃない」
フィリアは唇を噛んだ。
「私、撃つつもりなんて」
「分かってる」
シェスターの返事は早かった。
けれど、軽くはなかった。
「でも、起きたことは起きた。そこも消えない」
フィリアは何も言えなかった。
「だからって、今すぐ全部を抱える必要はない」
シェスターは、フィリアの前のスープを指した。
「まず食え。少しでいい。体が戻らないと、考えることもできない」
「……はい」
フィリアは小さく頷いた。
スープをすくう。
喉を通る。
温かい。
現実味は、まだなかった。
自分が誰かを撃ったことも。
相手がどうなったのかも。
自分がここで、温かいスープを飲んでいることも。
全部、薄い膜の向こう側にあるようだった。
それでも、スープは温かかった。
その時、シェスターの端末が鳴った。
彼は表示を確認する。
「リヴァルからだ」
フィリアは顔を上げた。
「オペレーション室に来いってよ。俺と、お前も」
「私も、ですか」
「ああ」
フィリアは器を見た。
食事はまだ半分も減っていない。
シェスターは立ち上がりながら言った。
「残りはあとで食えばいい」
「はい」
フィリアも立ち上がった。
織葉はまだ話している。
・・・・つまり、我が故郷において食卓とは単に腹を満たす場所ではなく、米を中心に据え、汁物で体を温め、漬物で口を整え、魚の一切れに海と季節を感じるための極めて総合的な精神文化でして」
シェスターはフィリアに目で合図した。
二人はそっと休憩室を出た。
扉が静かに閉まる。
織葉は満足げに頷き、胸に手を当てた。
「という訳なんです」
それから、少し間を置いた。
振り返る。
休憩室には、自分しかいなかった。
「……あれ?」
織葉は数秒、扉を見つめた。
「お二人はいずこへ?」




