序章 二話
膝に少し力が入りにくかったが、さっきよりはましだった。
手の中にあるオレンジジュースの重みが、なぜか支えになった。
検査室を出て、白い線に沿って通路を進む。
回収ゲート付近の通路とは違い、入所手続きの区画は少し明るかった。
壁際には低い椅子が並び、手続きを待つ人のための表示板がいくつも浮かんでいる。
救護担当の職員が、毛布をかけられた老人のそばでしゃがみ込んでいた。
小さな子供が、保護者らしき女性の膝の上で眠っている。
誰も大きな声を出していなかった。
それでも、静かではなかった。
端末の通知音。案内の声。遠くで開閉する扉の音。
誰かのすすり泣く声。水を飲む音。靴底が床を擦る音。
生きている人たちの音だった。
「こちらへどうぞ」
職員は受付端末の前で足を止めた。
そこには透明な板のような装置があり、
顔の高さに合わせて小さなレンズがついていた。
横には手のひらを置く認証板と、荷物を載せるための浅いトレーがある。
「まず、眼球IDを確認しますね」
「はい」
フィリアはオレンジジュースを片手に持ち替え、レンズの前に立った。
その動作に迷いはなかった。
顔を近づけすぎない位置で止まり、片目ずつではなく正面を見る。
光が強くなる前に瞬きを済ませる。足元の線から出ない。
何度も説明されたことのある手順だった。
職員は何も言わなかった。
ただ、端末の操作を少しゆっくりにした。
「光ります。眩しかったら、終わったあとで目を閉じて大丈夫ですよ」
「はい」
レンズの奥で、細い光が走った。
一瞬だけ、虹彩の奥をなぞられるような感覚がある。
認証音が鳴った。
職員の端末に、フィリアの情報が表示される。
「フィリア・レイフィールドさん。年齢、十七歳。
旧登録シェルターは第八東部地下居住区画。間違いありませんか」
「はい」
「緊急連絡先の登録があります。安否照会は有効にしますか」
フィリアは少しだけ息を止めた。
「……お願いします」
「はい。有効にしますね。照合に時間がかかる場合があります。
結果が出たら、仮端末に通知が届きます」
「仮端末」
「今お持ちの端末を確認してもいいですか。壊れていても大丈夫です」
フィリアはポケットに手を入れた。
取り出した端末は、画面の端が割れ、側面が少し焦げていた。
起動表示は出ていない。握っているだけで、もう使えないことが分かった。
「これ、たぶん……」
「お預かりします」
職員は両手で受け取った。
壊れた端末を雑に扱わず、トレーの上にそっと置く。
「データの復旧ができるか確認しますね。
復旧できるものがあれば、仮端末に移します。
今日は仮端末を発行します」
「はい」
「居住区画キーやロッカーキーはありますか」
「あります」
フィリアは小さなキーを出した。
前のシェルターで使っていたものだった。
もう戻れるかどうかも分からない場所の鍵。
それでも、捨てることはできなかった。
職員はそれも読み取り台に置いた。
「旧シェルター情報と照合します。こちらも記録しておきますね」
「はい」
返事は自然に出た。
手順を聞いて、頷いて、端末を出して、キーを出して、光を見る。
それだけだった。
ただ、それだけのことが、何度も繰り返されてきた。
職員は、フィリアの手元を見ていた。
けれど、何も言わなかった。
「次に、生活圏同期をします」
職員は画面を切り替えた。
「このシェルター内で使う居住区画、食堂、共用端末、
安否照会通知をまとめて登録します。
生活に必要な案内が届くようにするための手続きです」
「はい」
「仮居住区画は、一般避難区画の女子単身用ブロックになります。
今夜は短期滞在室です。あとで詳しい案内を出しますね」
「はい」
「食事は今日から受け取れます。
体調が悪い場合は、医療区画で軽いものに変更できます」
「はい」
職員はフィリアの返事の速さに合わせず、一定の速度で説明した。
早すぎず、遅すぎず。
聞き逃しても戻れるくらいの速度だった。
「それから、防護衣料の点検です」
職員はフィリアの服と靴を見た。
「今着ているものは、外部損傷がいくつかあります。
後ほど交換申請を出します。眼鏡は」
「あ、はい」
フィリアは自分の眼鏡に触れた。
走っている間も、転びかけた時も、外れなかった。
傷ひとつないことが、少し不気味なくらいだった。
職員は小さなスキャナを眼鏡に向けた。
「防護層、正常です。視力補助機能も生きていますね。
念のため、あとで医療区画でも確認します」
「はい」
「目薬や薬は持っていますか」
「少しだけ」
「服用中の薬ではなく、目薬ですね」
「はい」
「では所持品として登録します。医療区画で追加が必要なら申請できます」
職員は入力を続けた。
画面に、フィリアの情報が少しずつ増えていく。
名前。年齢。旧シェルター。仮居住区画。配給権限。
安否照会。仮端末。防護衣料交換申請。端末復旧依頼。
それらの言葉が並ぶたびに、フィリアという人間が、
このシェルターの中に少しずつ場所を作られていくようだった。
「安否照会に、ひとつ情報があります」
職員の声が少しだけ変わった。
フィリアは顔を上げた。
「あなたの旧シェルターから保護された方が、他にも数名確認されています」
息が止まった。
「……本当ですか」
「はい。ただ、まだ全員の所在がまとまっているわけではありません。
別の受け入れ先に分かれている方もいます。
確定した情報から順番に通知されます」
「生きてる人が、いるんですか」
「確認できている方はいます」
職員は、言い切れる範囲だけを言った。
それ以上は、希望を膨らませすぎないように。
けれど、消してしまわないように。
「別シェルター側で保護された方については、
ガイ・グランベル隊員とリオン・ヘイル隊員が引き渡しに立ち会っています。
記録がこちらに届き次第、照合されます」
知らない名前だった。
けれど、その名前が誰かを助けてくれているのだと分かった。
フィリアは、オレンジジュースのパックを握ったまま、小さく頷いた。
「……はい」
「通知先は、仮端末に設定しますね」
職員は机の下から、小さな端末を取り出した。
薄く、軽い。新品ではないが、きれいに整備されている。
背面には仮貸与品を示す小さな表示があった。
「こちらが仮端末です。個人IDと同期します。
古い端末のデータが復旧できた場合は、こちらへ移します」
「ありがとうございます」
「ロック確認をします。もう一度、正面のレンズを見てください」
フィリアは頷き、レンズを見る。
認証光が走る。
端末が短く鳴った。
「同期完了です」
職員は仮端末をフィリアへ渡した。
「これで、入所手続きは完了です」
その言葉を聞いて、フィリアは端末を受け取ったまま立ち尽くした。
完了。その短い言葉が、ひどく遠くから届いたように感じた。
逃げていた。走っていた。隠れていた。撃った。倒れた人を見た。
シェスターに支えられて、ここまで来た。
そして今、自分には仮の部屋があり、食事を受け取る権利があり、
誰かの生存を知らせる通知が来るかもしれない端末がある。
それは、あまりにも普通のことだった。
普通のことなのに、胸の奥が痛かった。
「少し休憩してから、医療区画へご案内します」
職員は言った。
「そのあと、詳しい検査があります。急ぎません。
体調を見ながら進めますね」
「はい」
フィリアは頷いた。
職員はフィリアの手元を見て、少しだけ微笑んだ。
「オレンジジュース、持ったままで大丈夫ですよ」
フィリアはそこで、自分がまだパックを握りしめていたことに気づいた。
「あ」
「飲み切れなかったら、あとで捨てられます」
「……いえ、飲みます」
フィリアは小さく答えた。
職員は頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
フィリアは仮端末とオレンジジュースを抱えるように持って、
受付端末の前から離れた。
手続きは終わった。
ここに、名前が登録された。
それだけのことが、今は少しだけ、救いに思えた。
「これで、入所手続きは完了です」
職員はそう言って、薄い仮端末をフィリアへ渡した。
フィリアは両手でそれを受け取った。
仮端末は軽かった。背面には貸与品を示す小さな表示があり、
画面にはフィリア・レイフィールドという名前と、
仮居住区画、配給権限、安否照会の通知先が並んでいる。
自分の名前が、このシェルターの中に登録されている。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ痛かった。
「次は、詳しい検査についてのお話があります」
職員は端末を確認しながら言った。
「先ほどの簡単な確認とは別に、現場で起きたマナ反応について、
担当の隊員と研究区画の職員に引き継ぎますね」
「担当の、隊員」
フィリアは小さく繰り返した。
職員は頷いた。
「はい。さっきあなたを保護した方たちです。
一般の入所手続きとは少し担当が変わりますが、
難しい話をいきなり進めたりはしません。まず説明があります」
「……はい」
フィリアは仮端末と飲みかけのオレンジジュースを抱えるように持った。
職員はその様子を見て、少しだけ歩く速度を落とす。
「こちらです。疲れたら言ってくださいね」
白い通路を進む。
一般手続きの区画を抜けると、人の声は少しずつ遠くなっていった。
代わりに、壁の中を流れる低い駆動音が耳に届く。
足元の案内線は淡い緑から青へ変わり、天井に浮かぶ表示も、
居住区画や食堂ではなく、管制、研究、作戦支援といった言葉に切り替わっていく。
フィリアはその文字を見上げた。
さっきまで自分は、入所手続きをしていた。
どこの部屋で眠るのか。食事はどこで受け取るのか。
壊れた端末は直るのか。誰かの安否は分かるのか。
そういう、避難民としての手続きだった。
けれど今向かっている場所は、それとは違う。
このシェルターを守り、動かしている側の場所だった。
「ここから先は、作戦支援区画です」
職員が言った。
「入る時にもう一度、認証があります。光りますが、さっきと同じです」
「はい」
フィリアはレンズの前に立ち、正面を見た。
認証光が走る。扉が音もなく開いた。
その向こうに、別の空気があった。
同じシェルターの中なのに、そこは少しだけ温度が違うように感じた。
壁一面に広がる大型の投影画面。
いくつもの半透明の地図。点滅する避難経路。マナ濃度を示す色の帯。通信ログ。
シェルター内部の居住区画、医療区画、配給区画、発電系統、空調循環、水処理系統。
そのすべてが、重なり合いながら動いていた。
フィリアが部屋に入る少し前。
その部屋の中央で、一人の青年が表示を見上げていた。
年齢は、フィリアと大きく離れているようには見えなかった。
けれど、彼の前に並ぶ情報量は、一人の人間が扱うにはあまりにも多い。
白に近い銀灰色の操作卓に、細い指が触れる。
いくつもの画面が切り替わった。
「第三居住ブロックの割り当てが止まっています」
端末前の作業員が言った。
「新規受け入れ人数の上限ですか」
「違う」
青年は即答した。
声は静かだった。怒鳴るわけでも、急かすわけでもない。
ただ、迷いがなかった。
「配給枠が赤くなっていない。食堂系統も水処理も余裕がある。
人数上限なら、先にそちらが警告を出す」
彼は指先で表示を拡大した。
居住区画の図面が浮かび上がる。
「階層移動の補助ルートを見て」
「補助ルート、ですか」
「高齢者と歩行困難者の仮区画が、階段区画側に寄りすぎている。
エレベーター系統が一時点検中だから、
自動割り当てが安全条件を満たせず停止している」
作業員が慌てて別画面を開く。
「……確認しました。第三ブロック南側昇降機、メンテナンスロック中です」
「解除は」
「二十八分後です」
「待たせる必要はない。第二ブロックの短期滞在室を四室開けて。
家族単位が崩れないように組み替える。医療区画に近い部屋から」
「了解しました」
青年は次の画面へ視線を移す。
「あと、安否照会の通知が遅れている」
別の職員が顔を上げた。
「通信負荷ですか」
「それもある。でも原因はそちらじゃない」
青年の指が、宙に浮いたログの一部を示した。
「別シェルターからの救助者引き渡し記録が、こちらの受け入れ名簿と重複処理を起こしている。
ガイ隊とリオン隊の報告がまだ確定前だから、仮登録のまま引っかかってる」
「統合しますか」
「しない。未確定情報を統合すると、後から誤通知が出る」
青年は一拍置いてから言った。
「仮照合のまま、生存確認だけ先に通知できる形に変える。
所在が未確定でも、生きている可能性があることだけは早く届いた方がいい」
その言葉に、近くで現場報告をしていたシェスターが顔を上げた。
「避難民側には助かるだろうな」
「確定前の情報は危うい」
青年は画面から目を離さずに答えた。
「でも、待たされる時間にも重さがある」
シェスターはそれ以上何も言わなかった。
部屋の壁際には、翠川織葉もいた。
彼女は刀を腰に戻したまま、腕を組んで投影画面を見上げている。
真剣な顔をしていれば、見事な武芸者に見えた。
黙っていれば、の話だった。
「つまり、行方不明者に対し、生存の可能性のみを先んじて届けると」
「そう」
「なるほど。飯の前に匂いだけ嗅がせるようなものですね」
シェスターが眉を寄せた。
「例えが悪い」
「ですが、空腹時の匂いは希望です」
「余計に悪い」
青年が少しだけ笑った。
「間違ってはいないよ。表現は少し独特だけど」
織葉は満足そうに頷いた。
「お墨付きです」
「今のは褒められてないぞ」
シェスターの言葉に、織葉は不思議そうな顔をした。
その時、部屋の入口に認証音が鳴った。
青年が振り返る。
扉が開き、一般職員に案内されたフィリアが入ってきた。
フィリアは一歩入ったところで、思わず足を止めた。
広すぎる画面。浮かぶ地図。流れる文字。遠くのシェルター名。
避難民の人数。マナ濃度。隊員の位置情報。救助状況。安否照会の処理。
ひとつひとつを追おうとすると、視界が追いつかない。
けれど、それらがすべて、人を生かすために動いていることだけは分かった。
「連れてきました」
職員が言った。
「フィリア・レイフィールドさんです。入所手続きは完了しています。
簡易検査では危険反応なし。未分類のマナ反応が残っています」
シェスターがフィリアを見る。
「歩けてるな」
「はい」
フィリアは小さく答えた。
織葉が軽く手を上げる。
「おお、無事に手続きの迷宮を突破しましたか」
「普通の手続きです」
職員が穏やかに言った。
「では、ここからは担当の方へ引き継ぎますね」
職員はフィリアへ向き直る。
「詳しい検査の前に、こちらで説明があります。
何か分からないことがあれば、そのまま聞いて大丈夫です」
「はい。ありがとうございました」
フィリアが頭を下げると、職員は少しだけ微笑んだ。
「オレンジジュース、飲み切れなかったら近くの回収口に入れてくださいね」
「はい」
職員はそれ以上、何も言わずに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
フィリアは、急に自分だけが場違いになったような気がした。
仮端末。飲みかけのオレンジジュース。
壊れたシェルターから来た、ただの避難民。
その自分が、世界の地図が動いている部屋に立っている。
青年が一歩、フィリアの方へ歩いてきた。
「フィリア・レイフィールドさん」
声は画面越しの会議で聞いた時より、ずっと近かった。
あの特別報道番組で、世界中に向けて話していた人。
マギアスを殺す必要はないと、静かに言い切った人。
「僕はリヴァル・アニム。このシェルターの管理を任されている」
彼はそう名乗った。
丁寧で、落ち着いていて、けれどどこか年齢に似合わないほど揺らがない声だった。
「ここまで来てくれてありがとう」
フィリアは返事をしようとして、少し遅れた。
ありがとう。
その言葉を、ここで言われるとは思っていなかった。
「あ……フィリア・レイフィールド、です」
言ってから、もう名前は呼ばれていたことに気づく。
リヴァルは気にした様子もなく頷いた。
「知っている。けれど、君の口から聞けてよかった」
フィリアは少しだけ目を伏せた。
シェスターが横から言う。
「リヴァル。検査の説明を」
「分かっている」
リヴァルは操作卓に触れた。
いくつかの画面が消え、代わりに小さな検査項目が表示される。
健康精密検査。
アーツデバイス触媒適性確認。
マナセット反応確認。
マナ負荷安全試験。
フィリアには、全部が分かったわけではなかった。
ただ、自分が普通の避難民としてだけ扱われているわけではないことは分かった。
リヴァルはその画面を見せながら言った。
「まず安心してほしい。これは、君を分類するための検査じゃない」
その言葉で、フィリアの指先が少し動いた。
リヴァルは続ける。
「君の体の状態を正確に見る。アーツデバイスの触媒に反応するかを見る。
現場で起きたマナ反応が、君の体に負担を残していないかを見る」
彼はフィリアをまっすぐ見た。
「危険があれば止める。体調が崩れれば中止する。順番に確認するだけだ」
「……はい」
フィリアは頷いた。
その時、操作卓の端に小さな黄色い警告が点滅した。
リヴァルが視線だけを向ける。
「またか」
シェスターが画面を見る。
「問題か」
「軽いエラーだよ。仮居住区画の自動割り当てに、まだ詰まりが残っている」
リヴァルが指を伸ばそうとした時、フィリアは思わず画面を見てしまった。
黄色い警告。居住ブロック。短期滞在室。移動補助。家族単位。
表示はすぐに流れていく。フィリアに読めたのは一部だけだった。
それでも、引っかかった。
「あの」
声が出た。全員の視線がフィリアに向く。
言ってから、フィリアは自分が口を挟むような場面ではなかったことに気づいた。
「あ、すみません」
「いいよ」
リヴァルが言った。
「何か見えた?」
フィリアは画面を見た。
「全部は分かりません。
でも、そのエラー……人数じゃなくて、部屋の順番だと思います」
リヴァルの目が、わずかに細くなる。
「どうして?」
「短期滞在室を医療区画に近い順に空けているなら、先に入る人から近い部屋になるはずです。
でも、家族単位を崩さないようにすると、あとから来る人の分を近い部屋に残したくなって……」
フィリアは言葉を探した。
自分でも、なぜそう思ったのかうまく言えなかった。
「だから、たぶん、近い部屋を空けたまま遠い部屋に割り当てようとして、
でも移動補助が必要な人が遠い部屋に入ると危ないから、止まっているんじゃないかと」
部屋が少し静かになった。
フィリアは慌てて言った。
「違っていたら、ごめんなさい。
私なら、そういうふうに残してしまうかもしれないと思っただけで」
リヴァルは、しばらくフィリアを見ていた。
感心、というよりも。
驚き、というよりも。
何かを見つけたような顔だった。
「……そう」
彼は小さく言った。
「君は、そこを見るんだ」
フィリアは返事ができなかった。
リヴァルは操作卓に触れる。
警告の詳細が開いた。
そこには、フィリアの言った通りの割り当て矛盾が表示されていた。
シェスターが画面とフィリアを見比べる。
織葉は感心したように頷いた。
「つまり、部屋取り合戦における未来予測ですね」
「違う」
シェスターが即座に言った。
リヴァルは画面を修正しながら、静かに笑った。
「大きくは違わない。配慮の先回りが、別の配慮に引っかかっていた」
彼は処理を確定する。
黄色い警告が消えた。
「ありがとう、フィリア」
「あ、いえ」
フィリアは首を横に振る。
「私は、ただ……そういうふうに見えただけで」
「それでいい」
リヴァルは言った。
「見えたことに意味がある」
その言葉の意味は、フィリアには分からなかった。
けれど、リヴァルの目がさっきと少し違っていることだけは分かった。
シェスターが軽く咳払いをする。
「リヴァル」
「ああ」
リヴァルはフィリアから視線を外し、検査項目の画面に戻した。
「では、改めて説明する。まずは健康状態の精密確認からだ。
身体の疲労、霧の影響、神経反応を見る。
次に、アーツデバイスに使われる基礎素材と触媒だけを組み合わせた検査装置で、マナの通り方を見る」
「武器、なんですか」
フィリアが聞くと、リヴァルは首を横に振った。
「武器ではない。刃も銃口もない。
何かを撃つことも、切ることもできない。ただの検査装置だ」
その言い方は、怖がらせないためというより、
事実を正確に並べているようだった。
「そのあと、マナセットの反応確認をする。
軽い負荷をかけて、君の中にマナアーツの発現傾向があるかを見る」
フィリアの手が、仮端末を少し強く握った。
「痛いですか」
「痛みを出す検査ではないよ」
リヴァルは言った。
「ただ、体調が悪くなればすぐに止める」
シェスターも口を挟む。
「無理はしなくていい」
織葉が胸を張った。
「体調不良は恥ではありません。
私も船で揺られると大変なことになります」
「今その情報いるか?」
「安心材料です」
フィリアは少しだけ、息を漏らした。
ほんのわずかに笑ったのだと、自分でも遅れて気づいた。
リヴァルはそれを見て、検査画面を閉じた。
「行こう。研究区画に連絡は入れてある」
彼が歩き出す。
シェスターがフィリアの横についた。
「歩けるか」
「はい」
「気分が悪くなったら言え」
「はい」
織葉は反対側に並び、なぜか真剣な顔で頷いた。
「いざとなれば担ぎます」
「担がない」
「では支えます」
「それでいい」
フィリアは仮端末とオレンジジュースを持ったまま、
もう一度だけ部屋の画面を見た。
巨大な地図。動き続ける情報。
その中心にいたリヴァル・アニム。
あの人は、世界を見ている。
フィリアには、その全部は分からない。
けれど、ほんの一部分だけ。
人をどこに逃がすか。誰を待たせないか。どの部屋を残すか。
そういう小さな場所だけは、なぜか目に入った。
扉が開く。
フィリアは三人に囲まれるようにして、オペレーション室を出た。
次に向かうのは、精密検査だった。
研究区画は、オペレーション室よりもさらに静かだった。
壁も床も白に近い灰色で、光は柔らかい。
金属の冷たさより、清潔さの方が先にくる。病院に似ていた。
けれど、壁面に埋め込まれた細いラインや、扉の上に浮かぶ表示が、
ここがただの医療区画ではないことを示していた。
フィリアは、シェスターに付き添われながら廊下を歩いた。
リヴァルは少し前を歩いている。
織葉はそのさらに横で、なぜかいつでも抜刀できそうな姿勢を崩していない。
「検査室で刀を抜くなよ」
シェスターが言った。
「抜きません。私を何だと思っているのです」
「必要のない時に妙にやる気のあるやつ」
「心外です」
「否定はしないのか」
織葉は少し考えた。
「必要があるかどうかは、抜いてから判断することもあります」
「それが駄目なんだよ」
二人のやり取りを聞いて、フィリアは少しだけ肩の力を抜いた。
検査。
その言葉は、さっきから胸の奥に引っかかっている。
簡単な確認ならもう受けた。危ない反応は出ていないと言われた。
けれど、これから受けるものは、それとは違う。
現場で起きたマナ反応。自分の手から出た光。倒れたマギアス兵。
考えないようにしても、そこへ戻ってしまう。
「フィリア」
リヴァルが振り返った。
「顔色が悪い。少し休むかい」
「……大丈夫です」
そう答えたものの、自分の声はあまり大丈夫そうではなかった。
リヴァルは責めなかった。
「分かった。けれど、途中で気分が悪くなったら止める。
それは検査失敗じゃない。必要な情報だ」
「必要な、情報」
「そう。君の体がどこまでなら大丈夫かを知ることも、検査の目的だから」
その言い方は、少しだけ不思議だった。
頑張れとも、我慢しろとも言わない。
駄目なら駄目でいい。
それすら、必要な情報だと言う。
フィリアは小さく頷いた。
「はい」
扉が開く。
案内されたのは、大きな検査室だった。




