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序章 一話

暗転した映像の奥から、別の音が聞こえてきた。

警報。悲鳴。破裂音。

どこか遠くで、金属が折れる音。

そして、息を切らして走る少女の足音。


フィリア・レイフィールドは、薄暗い通路を走っていた。


どこを走っているのか、もう分からなかった。

天井の照明は半分以上が落ち、残ったものも赤い非常灯に切り替わっている。

壁には避難経路を示す矢印が表示されていたが、途中で何度も途切れていた。

床に転がった端末からは、繰り返し同じ音声が流れている。


『第七区画で防壁破損。民間人は誘導員の指示に従い、

 第二退避経路へ移動してください』


その誘導員は、もういなかった。

フィリアは荒い息を吐きながら、壁に手をついた。

膝が笑っている。肺が痛い。

眼鏡の奥の視界が、涙と汗で滲んでいる。


「ど、どっち……」


声は、自分でも驚くほど細かった。

避難訓練なら何度も受けた。


警報が鳴ったら、最寄りの誘導灯を確認する。混雑していても走らない。

荷物は持たない。通信端末は胸の前で固定する。係員の指示に従う。


けれど、訓練では天井が崩れたりしなかった。

訓練では、後ろから誰かの悲鳴が聞こえたりしなかった。

訓練では、自分を追ってくる足音なんてなかった。


背後で、低い音がした。

水を含んだ布を叩きつけるような、重く湿った音だった。


フィリアは振り向けなかった。

振り向いたら終わる気がした。


「っ……!」


彼女は壁から手を離し、また走り出した。

曲がり角をひとつ抜ける。


その先は、広めの連絡通路だった。

片側のガラス壁は割れ、外から白い煙のようなものが入り込んでいる。

煙ではない。霧だった。黒く濁った、光を吸うような霧。


闇の霧。


さっきまで番組で、会議で、リヴァル・アニムが語っていたもの。

けれどフィリアにとって、それは画面の中の言葉でしかなかった。


今までは。


「いたぞ」


背後から声がした。

フィリアの足が止まりかける。


反射的に横へ飛び込んだ。

割れた壁際に置かれていた清掃用ロッカーの陰に身を隠す。

心臓がうるさい。息を止めようとして、止められない。

喉の奥がひゅうひゅう鳴った。


足音が近づく。

ひとつではない。

二つ。三つ。


「民間人だ。逃げ遅れか」


「構うな。シェルターの連中が来る前に抜けるぞ」


「使えるだろ。人質でも、情報でも」


声の主たちは、通路の向こうから現れた。

人間に見えた。少なくとも、遠目には。


防護服のような装備を着ている。手にはアーツデバイスらしき武器。

けれど、その体の一部は黒く変質していた。

首筋から頬へ、ひび割れのような黒い紋様が走っている。

腕の輪郭が不自然に膨らみ、指先には獣の爪めいた硬質のものが見えた。


マギアス。


フィリアは、画面の中でしか見たことがない言葉を、心の中で呟いた。

その一人が、ゆっくりとロッカーの方へ顔を向ける。


目が合った。


「っ」


フィリアは、声にならない息を吐いた。

男が笑う。


「見つけた」


その瞬間、通路の天井から何かが落ちてきた。

正確には、落ちてきたように見えた。

実際には、人だった。

黒い影がマギアス兵の前に着地し、床を叩いた衝撃で粉塵が跳ねる。


「そこまでだ」


低い声。青年だった。


フィリアより少し年上に見える。二十代前半くらいだろうか。

短く整えた髪。大きすぎない体格。だが、立ち方だけで分かった。


この人は、戦う人だ。


青年の両腕と脚には、布とも装甲ともつかない装備が巻かれていた。

包帯のように見えるのに、動くたびに金属の芯が光る。


バンテージデバイス。


フィリアはそれを知識としてだけ知っていた。


近接制圧用アーツデバイス。

救助隊や前線制圧部隊でも使われることがある、四肢装着型の武装。


青年は、マギアス兵たちとフィリアの間に立った。


「民間人を確認。生存。第七連絡通路、座標送る」


彼は耳元の通信機に触れ、短く言った。

通信機。


その単語が、フィリアの頭のどこかに妙に現実的に刺さった。

魔族。マナアーツ。闇の霧。


そういう、まるで昔話のようなものが目の前にあるのに、

この人は普通に通信している。


『了解。シェスター、対象の保護を優先。交戦は最小限に』


通信越しの音声が、かすかに漏れ聞こえた。


「了解」


青年――シェスターと呼ばれた彼は、フィリアを見ずに言った。


「動けるか」


フィリアは答えようとした。

口が動かない。

代わりに、小さく頷いた。


「なら、俺の後ろから離れるな」


「は、はい」


やっと出た声は、情けないほど震えていた。

マギアス兵の一人が舌打ちする。


「救助屋か」


「元、だ」


シェスターは言った。


「今はただの人手不足だよ」


マギアス兵が動く。

爪の伸びた腕が振るわれた。


シェスターは半歩だけ前へ出た。

腕に巻かれたバンテージデバイスが鈍く光る。

彼は爪を受けたのではなく、軌道を逸らした。

マギアス兵の腕が空を切り、その勢いのまま体勢が崩れる。

次の瞬間、シェスターの拳が相手の腹に入った。


鈍い音。


マギアス兵の体が折れ、床を転がる。


「一名制圧」


シェスターは通信に向けて言った。


「残り二」


「残り三です」


別の声がした。

フィリアは思わず通路の奥を見た。

そこに、ひとりの少女が立っていた。


緑髪。端正な顔立ち。背は高くない。

けれど、背筋がまっすぐ伸びていて、

姿勢だけなら剣道場の師範のようだった。


腰には、刀。

いや、ただの刀ではない。

鞘の表面に細い光の回路が走っている。


カタナデバイス。


少女は、すでに抜刀していた。

刀身に紫がかった白い光が流れている。


「そちらの陰に一人。浅い隠れ方です。私の目は誤魔化せません」


言葉は古風だった。だが、言っている内容は妙に雑だった。


マギアス兵が壁際から飛び出した。

少女は振り向きもしない。

鞘が、かちりと鳴った。


次の瞬間、紫電が走る。

斬撃は見えなかった。


ただ、マギアス兵の持っていたブレードデバイスだけが弾き飛ばされ、

男の体がその場に崩れ落ちた。


「織葉」


シェスターが言う。


「殺すな」


「斬ってはいません。ちょっと雷で黙っていただいただけです」


少女――織葉は、当然のように答えた。


「首を刎ねるよりずっと優しい。つまり私は優しい」


「自分で言うな」


「ではシェスターさんが言ってください。織葉は優しいと」


「あとでな」


「あとで言うという約束を取りました」


シェスターは返事をせず、フィリアの方へ身を寄せた。


「走るぞ」


「え、あ、はい」


「織葉、前」


「承知」


織葉が軽く鞘を鳴らす。


フィリアは何が起きているのか半分も分からないまま、

二人の後について走り出した。


通路を抜ける。階段を下りる。

途中で倒れている人を見かけた。

シェスターが一瞬だけ足を止める。脈を確認し、通信する。


「負傷者一名。意識なし。呼吸あり。第七南階段下、救護班を回してくれ」


『了解。マーカー受信』


彼は床に小さな発信機のようなものを置いた。

それからすぐに立ち上がる。


助ける。

でも、立ち止まらない。

今は連れている民間人がいるから。

フィリアは、その判断の速さに息を呑んだ。


「ご、ごめんなさい」


思わず謝っていた。

シェスターが少しだけ振り向く。


「何が」


「私が、いるから」


「民間人を運ぶのが俺の仕事だ」


「でも」


「謝ることじゃない」


短い言葉だった。

優しいというより、決められた事実のような言い方だった。

だから少しだけ、信じられた。


織葉が前方で足を止める。


「来ます」


その声とほぼ同時に、通路の奥で壁が爆ぜた。

破片が飛ぶ。シェスターがフィリアの肩を掴み、横の部屋へ押し込んだ。


「お前、名前は?」


「え?こんな時に」


「名前は?」


「……フィリアです。」


倉庫のような小部屋だった。棚には非常食の箱や簡易毛布が詰まれている。

照明は落ちていたが、外の赤い非常灯が細く差し込んでいた。


「よし、フィリア。ここにいろ」


シェスターが言った。


「声を出すな。外に出るな。俺たちが戻るまで、絶対に動くな」


フィリアは何度も頷いた。


「は、はい」


シェスターは腰のホルダーから、黒い小型のガンデバイスを抜いた。


「持ってろ」


「え」


「撃てなくてもいい。構えてるだけで牽制になる。

 近づかれたら、相手に向ける。いいな」


「で、でも、私」


「使い方は普通のガンデバイスと同じだ。安全装置は外してある。

 引き金に指をかけるな。向けるだけでいい」


フィリアの手に、ガンデバイスが押し込まれる。

重かった。想像していたより、ずっと重い。

武器の重さだった。


「シェスターさん」


織葉が呼ぶ。


「急ぎます。あれ、二人ではなく四人です。

 私の予想はよく当たるんですよ。外れても当たったことにしますが」


「今それ要るか」


「士気の維持です」


「下がったぞ」


シェスターは短く息を吐き、フィリアを見た。


「覚えろ。隠れているのが、今のお前の仕事だ」


フィリアはガンデバイスを抱えるようにして頷いた。


「はい」


シェスターと織葉が部屋を出る。


扉は完全には閉められなかった。

歪んだ金具が引っかかり、指一本分ほどの隙間が残る。

そこから、通路の音が聞こえた。


足音。金属音。織葉の鞘が鳴る音。

シェスターの拳が何かを打つ音。


マギアス兵の怒号。

知らない言葉。知らない技名。


そのすべてが、フィリアの体を小さくさせた。


彼女は棚と壁の隙間に入り込み、膝を抱えた。

ガンデバイスを両手で握る。

引き金には触れないように、何度も指の位置を直す。


息を殺す。目を閉じる。

けれど、閉じた瞼の裏にも赤い非常灯が残った。


外で、大きな音がした。

何かが壁に叩きつけられる音。

織葉の声が聞こえた。


「そちら、逃がしました!」


「追うな! こっちを片づける!」


シェスターの声。

逃がした。

その言葉が、フィリアの胸に落ちた。


嫌な予感がした。扉の外で、足音がした。

ひとつ。ゆっくりと近づいてくる。


フィリアは息を止めた。

足音が、扉の前で止まる。


赤い光を遮って、影が差した。


「……いた」


低い声。扉が押し開けられた。

歪んだ金具が嫌な音を立てる。


フィリアは、ガンデバイスを握ったまま固まった。

入ってきたのは、さっきとは別のマギアス兵だった。


顔の半分が灰色に濁っている。皮膚の下を霧のようなものが這っていた。

片目だけが黒く染まり、瞳孔が縦に割れている。


兵は、フィリアを見下ろした。


「民間人」


その声には、迷いがなかった。


「悪いな」


彼は片手を上げた。

指先から、灰色の霧が零れ始める。


それは床へ落ちず、空中に広がった。

薄い布のように揺れながら、部屋の中へ満ちていく。


フィリアは後ずさろうとした。

背中が壁に当たる。逃げ場はない。

マギアス兵が静かに告げた。


「マナセット、ミスト」


霧が濃くなる。


「グレイヴェール」


灰色の帳が落ちた。

視界が一瞬で狭くなる。

息ができない。


鼻と口を塞がれたわけではない。

けれど、空気そのものが重くなったように、肺へ入ってこない。

喉の奥が冷える。皮膚の表面を細い針で撫でられるような感覚が走る。


フィリアは、ガンデバイスを持つ手に力を込めた。

撃てない。撃てるはずがない。


自分は戦う人間ではない。


授業で使った訓練用のデバイスだって、まともに構えられなかった。

視力も悪い。腕も震えている。そもそも、人に武器を向けるなんて。

灰色の霧の向こうで、マギアス兵が近づいてくる。


もう、顔もよく見えない。

ただ、黒い片目だけが見えた。


死ぬ。


そう思った。

言葉としてではなく、体が先に理解した。

フィリアの手が、勝手に前へ出た。

ガンデバイスの銃口が、霧の向こうへ向く。

引き金に、指が触れたのかどうかも分からなかった。


弾倉は空だった。

そのはずだった。

けれど、銃身の内側で光が生まれた。


白い光。

暖かくも、優しくもない。

ただ、あまりにも強い光。


フィリアの胸の奥から、何かが一気に吸い上げられるような感覚があった。

心臓が跳ねる。視界の端が白く焼ける。


次の瞬間、音がした。

銃声ではなかった。

空気そのものが割れるような音だった。

光の弾が、灰色の霧を突っ切った。


グレイヴェールが裂ける。

布を破るように。

雲を貫くように。

霧の向こうにいたマギアス兵の体が、びくりと跳ねた。


それから、後ろへ倒れた。


霧が消えた。

部屋の中に、赤い非常灯の光が戻る。


フィリアは、ガンデバイスを構えたまま固まっていた。

何が起きたのか分からなかった。

自分が何をしたのかも分からなかった。

ただ、目の前にいたはずのマギアス兵が、床に倒れている。


動かない。


「ひぃっ」


情けない声が漏れた。


フィリアは慌てて棚の陰へ身を引っ込めた。

ガンデバイスを胸に抱え、膝を抱える。目を閉じる。

耳を塞ぎたいのに、手が武器から離れない。


外の戦闘音は、まだ続いていた。

シェスターの声。織葉の声。

何かが床を滑る音。壁が割れる音。誰かが倒れる音。


時間が、どのくらい経ったのか分からなかった。

一分かもしれない。十秒かもしれない。

もっと長かったかもしれない。


やがて、音が少しずつ遠のいた。

怒号が消える。金属音が止まる。

赤い非常灯の低い駆動音だけが、部屋に残った。


フィリアは、恐る恐る目を開けた。

マギアス兵は、まだ倒れていた。


動かない。


フィリアはゆっくりと首を振った。

違う。気絶しているだけかもしれない。


だって、さっきシェスターも織葉も、敵を倒していた。

倒れた人はいた。動かない人もいた。

でも、それは制圧しただけで、死んだわけじゃないかもしれない。


だから、これも。これも、きっと。

フィリアは震える手を伸ばした。

ガンデバイスを片手で抱えたまま、床を這うようにして近づく。

マギアス兵の肩に、指先が触れた。


「……あ、あの」


声は返ってこない。少しだけ押した。

その体が、ごろりと仰向けに転がった。


力がなかった。

あまりにも、力がなかった。


フィリアは息を呑んだ。

胸のあたりに、黒く焦げたような跡があった。

血はほとんど見えなかった。

代わりに、灰色の霧の残滓が、そこから細くほどけて消えていく。


マナアーツが消える。マギアス反応が消える。

命が消えたのかどうか、フィリアには分からない。


でも、起きない。もう、起きない。

そう感じてしまった。


「わ、たし」


言葉にならなかった。

廊下から足音が近づいてくる。


フィリアは振り向いた。

シェスターが、壊れた扉を押し開ける。


その後ろに織葉がいた。刀はすでに鞘へ戻っている。

二人とも傷を負っていたが、立っている。


シェスターは最初にフィリアを見た。

次に、床のマギアス兵を見た。

最後に、フィリアの手の中のガンデバイスを見た。


彼の表情が、ほんの少しだけ変わった。

だが、問い詰める言葉は出なかった。


「立てるか」


フィリアは答えられなかった。

シェスターは近づき、片膝をついた。


「フィリア。立てるか」


名前を呼ばれて、ようやく自分が名乗っていたことを思い出した。


いつだっただろう。

逃げている途中か。

通信の時か。

それすら、もう曖昧だった。


「……た、立てます」


嘘だった。

脚に力が入らなかった。

シェスターはそれを見抜いたように、短く言った。


「じゃあ、掴まれ」


彼はフィリアの腕を取り、立ち上がらせた。

ガンデバイスは、いつの間にか織葉が受け取っていた。

織葉は弾倉を確認し、眉を寄せた。


「シェスターさん」


「今はいい」


シェスターが言った。


「報告は後だ」


織葉は一瞬だけ何か言いたそうにしたが、すぐに頷いた。


「承知」


シェスターは通信機に触れる。


「こちらシェスター。民間人一名を保護。意識あり、歩行困難。

 第七区画から離脱する」


『了解。回収ポイントを更新。北側搬入口へ向かって。

 敵性反応、周辺にまだ残っている』


「分かった。織葉、先導」


「はい。斬らずに進みます。なるべく」


「必ずだ」


「では必ず」


織葉が先に廊下へ出る。

シェスターはフィリアを支えながら、その後に続いた。

フィリアは足を動かした。


一歩。また一歩。

自分の足ではないみたいだった。

廊下に出る直前、彼女は振り向いた。


壊れた扉。赤い非常灯。棚の陰。

床に倒れた、名前も知らないマギアス兵。

灰色の霧は、もう残っていなかった。

ただ、空気の中に、裂けた光の残滓だけが細く揺れていた。


フィリアは何かを言おうとした。

ごめんなさい、だったのかもしれない。

助けて、だったのかもしれない。

分からなかった。声は出なかった。

シェスターの手が、フィリアの肩を支える。


「行くぞ」


その言葉で、フィリアは前を向いた。

そして、歩き出した。

生き残るために。

今は、ただそれだけのために。

シェスターに支えられながら、フィリアは長い通路を抜けた。


通路の先にあったのは、巨大な扉だった。

扉、と言うよりも壁だった。

何枚もの装甲板が重なり合い、中央にだけ人と車両が通れる幅の開口部がある。

左右には細い光の線が走っていて、開閉部の境目を示していた。

上部にはシェルター名らしき表示があったが、

フィリアの視界は涙と汗と疲労で滲んでいて、最後まで読み取れなかった。


ただ、その扉の向こうが安全なのだということだけは分かった。

扉の前には、数人の職員がいた。


防護服ではない。白と灰色を基調にした、作業着に近い服装だった。

胸元には世界統一機構の小さな徽章と、所属区画を示す表示。

腰には端末。耳元には通信機。誰も大声を出していない。誰も走っていない。


それだけで、フィリアは少しだけ現実感を取り戻した。

人が慌てていない場所。

それが、今は信じられないほど遠いものに思えた。


「こちらシェスター。民間人一名、回収ゲートへ到着」


シェスターが通信機に触れて言った。


「意識あり。歩行は不安定。敵性マギアスとの接触あり。

 マナアーツの近くにいた可能性あり」


通信の向こうから、短い応答が返る。


フィリアには細かな言葉までは聞き取れなかった。

けれど、シェスターは頷き、職員へ視線を向けた。


「引き継ぎを頼む」


「はい。こちらでお預かりします」


答えたのは、若い女性職員だった。


彼女はフィリアの前に立つと、少し腰を落として目線を合わせた。

声は落ち着いていた。

病院の受付で名前を呼ぶ人のような、静かで、急かさない声だった。


「ここまで来られましたね。まずは中に入りましょう」


その言葉に、フィリアは頷いた。

自分が頷いたのか、シェスターに支えられた体が揺れただけなのかは分からなかった。


扉の内側へ入ると、床に白い線で区切られた短い通路があった。

左右の壁から、淡い青い光が流れている。

空気がわずかに動いた。風というほど強くはない。

ただ、髪の先と服の裾を撫でる程度の、柔らかい流れだった。


「マナ粒子を落とします。立っているだけで大丈夫ですよ」


職員が言った。

フィリアは言われるまま、白線の内側に立った。

青い光が一度、足元から頭の上へ抜ける。


痛みはなかった。

けれど、皮膚の上に残っていた埃や冷たさが、一枚だけ剥がれたような感覚がした。

外の空気と、内側の空気が違う。

闇の霧の匂いも、焦げた壁の匂いも、少しずつ遠のいていく。


フィリアはそこで初めて、自分がずっと息を浅くしていたことに気づいた。


「深く吸って大丈夫です」


職員が言った。


「ここの空気は安定しています」


その言葉に従うように、フィリアは息を吸った。


肺が痛かった。

けれど、息は入った。

それだけで、泣きそうになった。


「フィリア」


シェスターに呼ばれて、顔を上げる。


彼はもう、フィリアの腕を離していた。

代わりに、職員がすぐ横に立っている。

織葉も少し離れたところにいた。

刀は鞘に収まっていて、さっきまで戦っていた人間とは思えないほど姿勢が整っている。


「ここからは、シェルターの職員が案内する」


シェスターは短く言った。

フィリアは、反射的に不安になった。


「え」


声が漏れる。

シェスターはその表情を見て、ほんの少しだけ言葉を足した。


「ここまで来た。もう走らなくていい」


その一言は、慰めというより、報告に近かった。

けれど、フィリアにはそれで十分だった。


「……はい」


「あとで確認に来る」


シェスターはそう言って、職員へ視線を移した。


「現場報告と装備確認に戻る。何かあれば呼んでくれ」


「承知しました」


織葉が、フィリアに向かって小さく手を振った。


「検査は痛くありません。私基準では」


「……基準」


「私は痛みに強いので、念のため補足しました」


「余計な補足だ」


シェスターが言う。

織葉は真面目な顔で頷いた。


「では訂正します。たぶん痛くありません」


「もっと悪い」


二人のやり取りを聞いて、フィリアはほんの少しだけ息を漏らした。

笑った、というほどのものではない。

けれど、胸の奥に固まっていたものが、少しだけ動いた。


シェスターと織葉は、別の通路へ向かった。

二人の背中が遠ざかる。

それを見送っていると、女性職員がそっと声をかけた。


「こちらへどうぞ。まず、簡単な確認をしますね」


フィリアは頷いて、職員の後について歩いた。

回収ゲートの奥には、いくつもの部屋が並んでいた。

救護室。装備点検室。短時間待機室。

壁面には案内表示が浮かび、足元の線が行き先ごとに色を変えている。

職員や救護担当者が行き来していたが、誰も必要以上に騒がなかった。


ここでは、助けられた人が来ることが当たり前なのだ。

その当たり前さが、逆にフィリアの足元を支えてくれた。

案内されたのは、小さな検査室だった。


白い椅子と、検査台。腕を乗せるための板。

顔の高さに合わせた丸いレンズ。

病院の視力検査にも似ていたが、板の縁には細い光の回路があり、

壁にはマナ反応を示すらしい簡易モニターがついていた。


職員は椅子を引いた。


「座れますか」


「はい」


フィリアは椅子に腰を下ろした。

座った瞬間、膝から力が抜けた。

自分が立っていられたことが不思議なくらいだった。


「霧を吸ったかもしれませんし、

 マナアーツの近くにいたので、簡単な確認をしますよ」


職員は、自然な声で言った。

フィリアは検査台を見た。


「検査、ですか」


「はい。目の前の光を見て、手をこの板に置くだけです」


職員は板の上を指で示した。


「すぐ終わります」


フィリアは、少し迷ってから聞いた。


「マギアスかどうか、調べるんですか」


自分で言った瞬間、喉が詰まった。


マギアス。


さっきまで自分を追っていたもの。

さっき、自分の前で倒れたもの。

灰色の霧を出していた、あの人。


職員は声の調子を変えなかった。

ただ、少しだけ表情を柔らかくした。


「危ない反応が残っていないかを見る検査ですよ。体を守るための確認です」


それから、もう一度、板の上を示す。


「はい、ゆっくり手を置いてくださいね」


フィリアは言われた通りに、右手を板の上に置いた。

表面は少し温かかった。


「そのまま、正面の光を見ていてください」


丸いレンズの奥に、青白い光が灯った。

眩しいほどではない。

けれど、目を逸らすといけない気がして、フィリアは瞬きをこらえた。


板の下から、低い駆動音がする。

手首のあたりを、ぬるい風のようなものが撫でた。痛みはなかった。

ただ、体の内側をそっと覗かれているような、落ち着かない感覚だけがあった。


「はい、上手です。ゆっくり息をしてください」


職員の声が、検査音の向こうから聞こえる。

フィリアは言われた通り、浅くなっていた呼吸を少しだけ深くした。


青い光が、一度強く瞬いた。

壁のモニターに文字列が流れる。


マギアス暴走反応、なし。

肉体変質反応、なし。

闇の霧接続反応、なし。


フィリアには、表示された言葉の意味が全部分かったわけではなかった。

ただ、赤い警告表示が出ていないことだけは分かった。

職員が画面を確認する。


「大丈夫ですよ」


その一言に、フィリアは思わず顔を上げた。


「今すぐ危ない反応は出ていません。体の変質もありません」


「……本当、ですか」


「はい」


職員は頷いた。


「霧の影響も、今のところ強くは出ていません。

 よくここまで来られましたね」


その言葉で、フィリアの肩から少しだけ力が抜けた。

助かった。まだ、助かったと言っていいのかは分からない。

けれど、少なくとも今この瞬間、ここで隔離されるわけではない。

自分の体が、自分ではない何かに変わり始めているわけでもない。


それだけで、息ができた。


「ただ」


職員は、すぐに続けた。

その声は変わらず柔らかかったが、端末を見る目だけが少し真剣になった。


「マナの反応が少し残っています。

 現場で、かなり強いマナアーツの近くにいたようですね」


フィリアの手が、板の上で小さく動いた。

頭の中に、灰色の霧が蘇る。

光。裂けた霧。倒れたマギアス兵。


「……あの」


言いかけて、言葉が止まった。

何を言えばいいのか分からなかった。

職員は急かさなかった。


「あとで、もう少し細かい検査をしましょう」


「細かい検査」


「はい。今すぐではありません。まずは入所の手続きに進みます」


職員は、板の横にある小さなボタンを押した。

青い光が消える。


「手、離して大丈夫ですよ」


フィリアはゆっくり手を離した。

手のひらには、板の温かさだけが残っていた。

職員は端末に検査結果を送信する。


その横顔は、淡々としていた。けれど冷たくはなかった。

フィリアの目の前で何かを大げさに扱うことも、

怖がらせるような言葉を使うこともなかった。


「簡単な確認はこれで終わりです」


職員はそう言って、椅子の横に立った。


「次は入所の手続きです。お名前や、前にいたシェルターの確認をします。

 端末が壊れている場合でも大丈夫です。こちらで照合できますから」


「……はい」


フィリアは頷いた。

立ち上がろうとして、少しふらつく。

職員がすぐに手を差し出した。


「ゆっくりで大丈夫ですよ」


フィリアはその手を借りて立ち上がった。


検査室の扉が開く。

外の通路には、白い光が続いていた。

警報の音は、もう聞こえない。

けれどフィリアの耳の奥には、まだ遠くで何かが鳴っていた。

それでも、彼女は歩き出した。


今度は、逃げるためではなかった。

職員は壁際の小さな保冷庫を開け、透明なパック飲料をひとつ取り出した。

淡い橙色の液体が、柔らかい容器の中で揺れる。


「オレンジジュースです。飲めますか」


差し出されたそれを、フィリアは一瞬だけ見つめた。


「……いいんですか」


「はい。走ってきた方には、先に水分を取ってもらうことになっています。

 苦手なら水にしますね」


「大丈夫です」


フィリアは両手で受け取った。

指先がまだ震えていて、パックの端が小さく鳴った。


「ゆっくりで大丈夫ですよ。一気に飲まなくていいですから」


職員の声は、検査の時と同じだった。

急かさない。怖がらせない。

必要なことだけを、できるだけ柔らかく渡してくれる声。


フィリアはストローに口をつけた。


甘かった。

甘い、と思った瞬間、喉の奥が詰まりそうになった。


さっきまでの通路の匂いも、赤い非常灯も、灰色の霧も、

まだ体のどこかに残っている。

けれど、口の中にはちゃんと甘さがあった。

それが妙に、現実だった。


「次は入所の手続きです」


職員は、フィリアが少し飲むのを待ってから言った。


「お名前や、前にいたシェルターの確認をします。

 端末が壊れていても大丈夫です。こちらで照合できますから」


フィリアはパックを両手で持ったまま、小さく頷いた。


「はい」


職員は検査室の扉を開けた。


「こちらです。歩けますか」


「大丈夫です」


そう答えてから、フィリアは立ち上がった。

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