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四章 二話

水上バイクは、桟橋の脇に二台並べられていた。


S地点の水域調査用に用意された機体だった。

軍用ではない。


だが、危険地域での短距離移動や水辺の調査に使えるよう、

外装は補強され、前方には簡易センサーが取り付けられている。

湖面は、完全に穏やかではなかった。


風は弱い。

しかし、遠くの水路から流れ込む水と、

岸辺に当たって返る波が重なり、一定しない揺れを作っている。


フィリアが初回訓練で転覆したのも、この揺れが原因だった。

本人は、まだ認めたがっていない。


シェスターは一台の水上バイクの横に立ち、ハンドルの位置を軽く叩いた。


「いいか、イルル」


「はい」


イルルは、少し緊張した顔で頷いた。

訓練用の防護ベストを着て、髪は後ろでまとめている。

いつもの柔らかい印象とは少し違って見えた。


けれど、足元は落ち着いていた。

揺れる桟橋の上でも、体が流されていない。


「まず、姿勢を低くしろ」


シェスターは水上バイクに片足をかけ、実際に姿勢を見せる。


「椅子に座るな。膝でバランスを取れ。

 尻をつけると、波が来た時に体ごと持っていかれる」


「膝で、ですか」


「そうだ。座るんじゃねえ。乗るんだ」


シェスターは軽く腰を浮かせたまま、体の重心を左右に動かした。


機体が少しだけ傾く。

だが、倒れない。


「走行中は、ハンドルだけで曲がろうとするな。

 体重移動を使え。

 ハンドルはきっかけだ。

 曲げるのは体だと思え」


「体で曲がる……」


イルルは言われた通り、動きを目で追っていた。

真面目に聞いている。

というより、目の中で水面と機体の動きを重ねているようだった。


シェスターは湖面を指さす。


「それから、一定の速度で走るな」


「速度を、保たないんですか?」


「保とうとするな。

 波が来たら減速。

 波が下がったら加速だ。

 速度が一定だと、波に合わせられねえ」


イルルは水面を見る。

小さな波。

岸から返る波。

奥から入ってくる波。


その重なりが、湖面に複雑な線を作っている。


「高い波にまっすぐぶつかるな。

 正面から行くと跳ねる。

 跳ねた後に着地を間違えるとひっくり返る」


「はい」


「波の合間を縫っていけ。水面を道だと思うな。道は波の間にある」


イルルの目が、少しだけ変わった。


「波の間……」


「見えるか?」


シェスターが聞く。

イルルはすぐには答えなかった。


湖面をじっと見る。

風で立つ細かい揺れ。

奥から来る大きめのうねり。

岸で砕けて戻る波。


その全部を見ながら、イルルは小さく頷いた。


「たぶん、少し」


「なら乗れ」


シェスターは自分の機体から降り、隣の機体を示した。


「最初は低速でいい。

 無理に曲がろうとするな。

 倒れそうになったら、変に逆らうな。

 膝で吸収しろ」


「分かりました」


イルルは水上バイクに乗った。

少しぎこちない。


ハンドルを握る手にも力が入っている。

けれど、桟橋から機体へ移る時、足元がふらつかなかった。

浮いているものに乗る感覚を、体が知っている。


そんな乗り方だった。

シェスターはそれを見て、少しだけ眉を動かした。


「海で仕事してたって言ってたな」


「はい。小さな船ですけど」


「揺れる場所には慣れてるか」


「たぶん、他の人よりは」


イルルは少しだけ恥ずかしそうに言った。


「足場が動いても、慌てないようにはしていました」


「それでいい」


シェスターは自分の水上バイクに乗る。

エンジンが低く鳴った。


イルルの機体も、少し遅れて起動する。

水面に小さな波紋が広がった。


「俺の後ろをついてこい」


「はい」


「無理に近づくな。離れすぎるな。見失ったら止まれ」


「はい」


「大丈夫か」


イルルは一瞬だけ、いつものように答えそうになった。


大丈夫です。

けれど、口に出す前に止まる。


シェスターがその言葉を信用しないことを、彼女はもう知っている。


「少し、緊張しています」


「それでいい」


シェスターは前を向いた。


「緊張してる方が、余計なことをしねえ」


二台の水上バイクが、ゆっくりと桟橋から離れた。


最初は低速。

水面を押すように進む。


イルルの機体は、わずかに左右へ揺れた。

ハンドルを持つ手が少し硬い。


曲がる時も、体重移動が遅れる。

シェスターは前を走りながら、時々後ろを確認した。


「ハンドルを握り込みすぎるな!」


「はい!」


「肩に力入ってる!」


「はい!」


「返事はいいから抜け!」


イルルは慌てて肩の力を抜いた。


機体が少しだけ滑る。

だが、転覆はしない。


波に乗り上げそうになると、イルルは自然に速度を落とした。

高い波へまっすぐ向かわず、その横へ逃げる。

曲がり方はぎこちない。


けれど、波の選び方は悪くなかった。

シェスターは少し速度を上げる。


「次、右から返し波が来る!」


イルルは水面を見る。

右。

岸から戻る波。

前方から来る小さなうねり。


二つがぶつかる手前に、わずかな隙間がある。

イルルはそこで一度減速した。

そして、波が下がった瞬間に少しだけ加速する。


機体が揺れる。

イルルの膝が沈む。

上半身は少し遅れた。

だが、倒れない。


「っ……!」


イルルは息を詰めた。

水しぶきが頬にかかる。

それでも、機体は前に出た。

シェスターは振り返った。


「続けろ!」


「はい!」


イルルの声が、少しだけ明るくなる。


次の波。

その次の波。


イルルは何度か進路を間違えた。

減速しすぎて置いていかれそうにもなった。

曲がろうとして機体が外へ流れ、慌てて体を戻す場面もあった。


操縦が上手いわけではない。

手つきはまだ硬い。

加速も遅い。

旋回も大きい。


だが、不思議と危なげがなかった。

破綻しない。

波に跳ねられても、体が水面の揺れを逃がしている。


機体の動きに逆らいすぎない。

船の上で立っていた者の体だった。

しばらくして、シェスターは速度を落とした。


イルルも少し遅れて止まる。

水面に二台分の波紋が広がった。


「止まれ」


「はい」


イルルは機体を安定させる。

まだ少し息が上がっていた。


けれど、目はしっかりしている。

シェスターは彼女の機体の横へ寄せた。


「うめえじゃないか。初めてにしてはな」


イルルは驚いたように目を開いた。


「本当ですか?」


「嘘言ってどうする」


「でも、何度も遅れました」


「遅れても倒れてねえ。無理に取り返そうともしてねえ。

 初めてならそれで十分だ」


イルルは、ほっとしたように胸元を押さえた。


「よかったです」


「波を見るのは悪くない」


シェスターは湖面を見た。


「操縦はまだ硬い。だが、水がどう動くかは見えてる」


「船に乗っていたので」


イルルは少しだけ懐かしそうに言った。


「波が来る前の音とか、船底に当たる感じとか、

 そういうのを聞いていました」


「音で見るのか」


「見る、というより……分かる時があります。来るな、って」


「なら、それを使え」


シェスターは短く言った。


「機械を動かすことだけ考えるな。水を見ろ。水に合わせろ」


「はい」


イルルは頷く。

その表情は、真剣だった。


それから少しだけ迷って、シェスターを見た。


「私、本当に役に立てますか」


「今のままなら、訓練次第だ」


「そう、ですか」


「すぐ役に立つなんて言わねえ。言ったら嘘だ」


シェスターはいつも通り、遠慮なく言った。


「でも、覚えれば役には立つ」


イルルはその言葉を、ゆっくり受け取った。

優しい言葉ではない。

けれど、軽く励ますだけの言葉でもない。


できることと、できないことを分けた上で、可能性を残す言葉だった。

イルルは小さく笑った。


「なら、覚えたいです」


「みんなのためか」


「はい」


イルルはすぐに答えた。

それは嘘ではなかった。

フィリアのため。

リヴァルのため。


シェルターの人々のため。

自分を受け入れてくれた場所のため。


役に立ちたい。

それは、本当だった。


けれど、もう一つの言葉が、喉の奥で止まっていた。

シェスターさんのそばにいたいから。

その言葉は、まだ言えなかった。


イルルは少しだけ視線を下げる。


「それに……」


シェスターは待った。

急かさない。

問い詰めない。


ただ、次の言葉が出る場所を空けている。

イルルは、水面に映る自分の顔を見た。


揺れている。

少し赤くなっている。


「恩返し、です」


「恩返し」


「はい」


イルルは頷いた。


「助けてもらったので。たくさん」


「仕事だ」


「それでも、助けられた人は覚えています」


シェスターは黙った。

イルルはハンドルを握る手に少し力を込める。


「だから、私も役に立ちたいんです」


「俺にか」


イルルの肩が小さく跳ねた。


「えっと」


シェスターは、イルルの反応を見て少しだけ目を細めた。


「言いたくねえならいい」


「……はい」


イルルは小さく答えた。

その返事は、逃げたものではあった。

けれど、拒んだものではなかった。


シェスターはそれ以上聞かなかった。


「なら、転ぶなよ」


「はい」


「置いてくぞ」


イルルは顔を上げた。

そして、少しだけ勇気を出す。


「……隣を走ります」


シェスターは一瞬だけ黙った。

それから前を向く。


「勝手にしろ」


その声は、突き放すようでいて、少しも拒んでいなかった。

イルルは小さく笑った。


「はい」


二台の水上バイクが、再び動き出す。

今度は、シェスターが少しだけ速度を落とした。


イルルが少しだけ速度を上げた。

どちらが合わせたのかは、分からない。

ただ、しばらくして二台は、湖面を並んで走っていた。


波の合間を縫うように。

高い波を避けるように。


進む道を、水の上に探しながら。


イルルはまだ、ぎこちない。

旋回も大きい。

加速も遅い。


それでも、シェスターの隣から大きく離れることはなかった。


水しぶきが上がる。

風が頬を打つ。

湖面が光る。


シェスターは前を見たまま言った。


「次、少し荒いところに入る」


「はい」


「怖ければ止まれ」


イルルは水面を見た。

波は少し高い。

けれど、合間は見える。


シェスターが教えてくれた道が、そこにある。


「止まりません」


「無理はするな」


「無理はしません」


イルルは言った。


「でも、隣を走ります」


シェスターは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「そうか」


二台は速度を上げた。

波が来る。

イルルは減速する。

波が下がる。


イルルは加速する。

高い波には、まっすぐぶつからない。


合間を縫って進む。

水面は道ではない。

けれど、道は波の間にある。


その言葉を、イルルは体で覚えようとしていた。

シェスターの隣で。

今はまだ、恩返しという言葉でしか言えない気持ちを胸に抱えながら。


会議室の照明は、少し落とされていた。

中央の卓上に、S地点の立体地図が浮かんでいる。


湖。

湿地。

崩れた旧市街の外縁。

水路の跡。


立入制限区域。

危険領域。


それらが、幾重にも色分けされて表示されていた。

地図の中で、ひときわ大きな湖が青く沈んでいる。

そのほとりに、小さな赤い印が点滅していた。


リヴァルは端末を操作し、赤い印の周囲だけを拡大する。


「S地点の大きめの湖のほとりに、

 マギアス軍の基地らしき建物が見つかった」


卓を挟んで、リオンが無言で地図を見る。

紫乃は椅子に浅く腰かけ、片手を頬に添えていた。

フィリアはリヴァルの少し後ろで、補助端末を開いている。


「発見したのは固定センサーの地形差分です」


フィリアが説明を引き継ぐ。


「衛星映像では、樹木と崩落地形に隠れてほとんど確認できません。

 ただ、過去の地形データと比較すると、

 湖岸に人工構造物らしい輪郭があります」


画面が切り替わる。

同じ場所の衛星映像。


上から見ると、ただの木陰と斜面に見える。

次に、センサー補正をかけた画像。

湖岸に沿って、直線的な影が浮かび上がった。


自然の地形ではない。


「よく見つけたわね」


紫乃が柔らかく言った。

フィリアは少し照れたように首を振る。


「最初に違和感を拾ったのは自動比較です。私は確認しただけです」


「確認できるのが大事なのよ」


紫乃は微笑んだ。

リヴァルは地図の周囲に、複数の赤い境界線を表示する。


「見ての通り、周辺は危険領域が多い。

 道は崩れている。

 湖岸沿いは水位変動が大きい。

 マギアス軍の移動痕跡も、いくつか近くで確認されている」


「偵察ドローンは」


リオンが短く聞いた。


「使えないわけじゃない。ただ、効率が悪すぎる」


リヴァルは別の画面を出した。

過去に投入した小型偵察ドローンの記録。


映像欠損。

位置情報の乱れ。

通信途絶。

機体喪失。


その一覧が並ぶ。


「この領域では、偵察ドローンの平均稼働時間が短すぎる。

 闇の霧の濃度が不安定で、映像も位置情報も欠ける。

 低空で飛ばせば木と地形に遮られ、高く飛ばせば見たいものが見えない」


フィリアが補足する。


「それに、落ちた機体の回収が難しいです。

 危険地域内に落ちた場合、回収班を出す方が危険になります」


「ドローンを使い捨てにするには高すぎる」


リヴァルが言った。


「時間と費用の無駄になる可能性が高い」


紫乃は地図を眺め、少しだけ目を細めた。


「それに、隠したいものは、空から見えないように隠すものよ」


リヴァルは頷く。


「だから今回は、人の目で見る」


「私とリオンくんね」


紫乃が言った。


「そうだ」


リヴァルは、紫乃とリオンを順に見る。


「二人とも理解していると思うが、今回は偵察だ。

 戦闘が目的じゃない。

 敵の勢力、基地の状態、可能であれば何のための基地なのか。

 それを確認する」


リオンが小さく頷いた。


「交戦は回避」


「基本はそうだ。発見されても、深追いしない。

 情報を持ち帰ることを優先してほしい」


「了解」


リオンの返事は短い。

いつも通りだった。

紫乃は、ゆったりと笑う。


「おばさん向きのお仕事ね」


「ミス・シノ向きの仕事だ」


リヴァルは訂正するように言った。


「気配を読む、痕跡を見る、隠された通路や罠を疑う。

 そういう判断が必要になる」


「褒められてるのかしら」


「事実を言っている」


「それなら、素直に受け取っておくわ」


紫乃は楽しそうに言った。

リヴァルはリオンへ視線を向ける。


「リオンには高所確認、経路確保、撤退判断を任せる。

 ワイヤー機動なら崩落地や斜面でも動ける。

 必要ならミス・シノの退路も作ってほしい」


「可能です。」


リオンは地図の崖線を見ながら答えた。


「湖側の斜面は崩れやすい。足場確認を優先します。」


「頼む」


リヴァルは地図上に、接近経路を三本表示した。

一本目は旧道を辿る経路。


二本目は崩落した建物群の上を抜ける経路。

三本目は湖岸の岩場を沿う経路。


「候補は三つある。

 旧道は最短だが、見られやすい。

 湖岸沿いは基地に近いが、足場が悪い。

 崩落地を抜ける経路は時間がかかるが、遮蔽物が多い」


リオンが少しだけ首を傾ける。


「崩落地経由で接近。帰路は状況次第で湖岸側へ変更します。」


「僕も同意見だ」


リヴァルは即答した。

紫乃がリオンを見る。


「やっぱり、リオンくんは話が早いわね」


「必要なことだけ言っています」


「それが早いのよ」


紫乃は肩をすくめた。

フィリアは二人のやり取りを見て、少し安心したように表情を緩める。

この二人なら大丈夫。


そう思いたい気持ちが、顔に出ていた。

リヴァルはその表情には触れず、補助画面を開いた。


「僕とフィリアが、衛星映像とセンサー反応でサポートする。

 ただし、現地の判断を優先してほしい。

 こちらの映像は遅れる可能性がある」


「通信状態は」


リオンが聞く。


「安定しない」


フィリアが答えた。


「短距離圧縮通信を使います。

 継続通話ではなく、定期的な状況送信に切り替えた方が安全です。

 異常があればこちらからも信号を送ります」


「映像共有は最低限と」


「はい。常時映像は途切れる可能性が高いので、

 必要な時だけ送ってください」


リオンは頷いた。

紫乃が、軽く指先で地図を指した。


「この基地らしき場所、湖に向かっているわね」


その言葉に、リヴァルの視線が動いた。

紫乃が指しているのは、構造物の外形だった。


建物の大部分は斜面に埋もれている。

だが、出入口らしき部分と、湖へ張り出した設備跡のようなものがある。


「そう見える」


リヴァルは答えた。


「ただ、現時点では用途までは分からない。

 湖から物資を運んでいたのか、水上部隊の拠点だったのか、

 あるいは別の目的があったのか」


「水辺に基地を構える理由は、いくつもあるものね」


紫乃は言った。


「逃走経路、物資輸送、隠蔽。水は便利よ。痕跡も流してくれる」


「だから確認が必要だ」


リヴァルは地図を閉じず、基地の周辺に注意範囲を表示する。


「今回の目的は三つ。

 第一に、敵の有無。

 第二に、基地が現在も使われているか。

 第三に、可能であれば基地の用途を確認する」


リオンが復唱する。


「敵勢力、使用状況、用途の確認が任務と」


「そうだ」


フィリアが、紫乃とリオンの端末へデータを送信した。


「接近経路、撤退候補、過去のセンサー反応を送ります。

 現地では端末の表示が乱れるかもしれないので、

 重要地点だけ簡易マーカーにしてあります」


「ありがとう、フィリアちゃん」


紫乃が言う。


「いえ」


フィリアは少し背筋を伸ばした。


「こちらでもできる限り見ています」


「無理はしなくていいわ。見えないものまで見ようとすると、

 見えているものを見落とすから」


紫乃の言葉に、フィリアは少しだけ目を開いた。


「はい」


「いい返事」


紫乃は微笑んだ。

リヴァルは、出撃時刻を表示する。


「出発は二十分後。

 装備は軽量。

 長時間戦闘を想定しない。

 異常があれば即撤退。

 基地内部に入るかどうかは、現地判断でいい」


「内部に入らず、外観だけで戻る可能性もある」


リオンが確認する。


「あります。情報が不足していても、生存して戻る方が優先です」


「了解」


紫乃は立ち上がった。


「じゃあ、支度してくるわね」


その動きは、軽い。

会議室にいた時と、ほとんど変わらない。

けれど、空気だけが少し違っていた。


紫乃の目はもう、地図の中の危険領域を歩き始めている。

リオンも静かに立ち上がった。


「リオン」


リヴァルが呼ぶ。

リオンが振り返る。


「無理はしないでほしい」


「任務目的に含むと言う事ですか」


「そうじゃない。念押しだ」


リオンは、少しだけ間を置いた。


「了解」


リヴァルは頷く。

紫乃がくすりと笑った。


「あら。リヴァルくんも、だいぶ人の送り出し方が柔らかくなったわね」


「必要な確認をしただけです」


「ええ。そういうことにしておきましょう」


リヴァルは反論しなかった。

フィリアが、紫乃とリオンへ向き直る。


「気をつけてください」


「ありがとう」


紫乃はフィリアへ手を振った。


「ちゃんと帰ってくるわ。

 おばさん、まだ若い子たちの恋路も見守らなきゃいけないし」


「恋路?」


フィリアが首をかしげた。

紫乃は楽しそうに笑う。


「なんでもないわ」


リオンはその横で、すでに出撃用の確認リストを見ていた。


「紫乃隊員、移動を開始します。」


「はいはい。行きましょうか」


二人は会議室を出ていく。

扉が閉まる。


残ったのは、リヴァルとフィリアだけだった。

会議室の中央には、まだS地点の地図が浮かんでいる。


湖のほとり。

赤い印。

基地らしき建物。


それは、画面の上では小さな点にすぎない。

けれど、その周囲に広がる危険領域は、確かに濃かった。

フィリアはしばらく地図を見つめてから、ぽつりと言った。


「何のための基地なんでしょう」


「分からない」


リヴァルは答えた。


「補給、輸送、観測、作戦拠点。可能性はいくつもある」


「封印と関係している可能性は」


「ある」


リヴァルは否定しなかった。


「ただし、今の段階では断定しない。

 大きい力の反応があるS地点で、

 マギアス軍の基地らしきものが見つかった。

 それだけだ」


「それだけでも、十分に気になります」


「同感だ」


リヴァルは端末へ視線を落とす。


「だからこそ、まずは見る。想像ではなく、現物を確認する」


フィリアは頷いた。


「はい」


会議室の地図が、ゆっくりと回転する。


湖の青。

危険領域の赤。


そのほとりに残された、小さな人工物の影。

まだ誰も、その場所が何を意味するのか知らない。


ただ一つ確かなのは、次に見るべき場所が決まったということだった。

紫乃とリオンは、崩落地を抜ける経路を選んだ。


地図上では遠回りだった。

だが、直線距離が短い道ほど危険な場所では、近いことにあまり意味はない。


旧道は、かつて車両が通っていたらしい舗装跡が残っていた。

ひび割れ、沈み込み、草に覆われ、途中で大きく崩れている。

それでも道であることは、上から見れば分かる。


誰かが見張るなら、まずそこを見る。


だから二人は、旧道を避けた。

崩れた建物の外壁。

傾いた鉄骨。


半分ほど土に埋まった案内標識。

水を吸って崩れた地面。

かつては街の端だったらしい場所を、二人は音を殺して進んでいた。


紫乃は地面を歩く。

その足取りは軽い。


瓦礫の上に足を置いても、石が鳴らない。

割れた板を踏んでも、きしむ前に体重が抜ける。

長い髪がわずかに揺れるだけで、そこに人が通った気配すら残さない。


リオンは少し上にいた。

ワイヤーを建物の骨組みに打ち込み、崩れた壁面から壁面へ、

低く、短く移動する。


飛ぶというより、落ちる前に次の支点へ渡る。


音は小さい。

動きも短い。


必要な高さだけを取り、必要な距離だけを進む。


「右、二十メートル先」


リオンの声が、耳元の小型通信機に入った。

紫乃は足を止めずに、視線だけを動かす。


「倒れた街灯の奥?」


「足跡らしき乱れ。新しくはない」


「見てみるわ」


紫乃は瓦礫の間を抜けた。

そこには、湿った土が少しだけ露出していた。

一見すると、雨水が流れて削れただけに見える。


だが、紫乃は膝を折り、指先を地面の少し上にかざした。


触れない。

触れれば形が崩れる。

見るだけ。

読むだけ。


「あら」


「人か」


「人ね。少なくとも獣じゃないわ」


紫乃は微笑んだまま言った。


「ただし、急いでいない。踏み込みが浅いもの」


リオンが上から周囲を確認する。


「方向は湖側か」


「ええ。でも、まっすぐじゃないわね。少し迂回している」


「追跡を避けた?」


「というより、見られたくなかった、かしら」


紫乃は立ち上がった。


「古い足跡よ。数日ではないわ。もっと時間が経っている」


「なら、現在の敵影とは限らない」


「そうね」


紫乃は、崩れた街灯の下に残る泥の擦れを見た。


「けれど、隠し方は丁寧。雑な撤退ではないわ」


リオンは短く頷いた。


「記録する」


彼の端末が、足跡の位置と形状を保存した。

映像ではない。

この領域では、映像通信は安定しない。


だからリオンの端末は、簡略化された線と点で情報を残す。


足跡。

向き。

深さ。

周囲の地形。


必要なものだけを、軽く、確実に。

紫乃はまた歩き始めた。


「リヴァルくん、聞こえる?」


短い通信。

数秒遅れて、リヴァルの声が返る。


『聞こえている。通信状態は不安定だ。要点だけで頼む』


「湖側へ向かう古い移動跡あり。

 戦闘後の敗走ではなさそう。隠して移動した跡ね」


『了解。ミス・シノ、敵影は』


「今のところなし。空気が静かすぎるくらいよ」


『静かすぎる、か』


リヴァルの声に、わずかな間があった。


『警戒を継続してほしい』


「もちろん」


通信が切れる。

紫乃は崩れた建物の角を曲がった。


その先で、地形が少し開けた。

遠くに湖が見える。


青黒い水面が、薄い霧の奥で重く揺れていた。

湖岸は、自然のものとは言い難い形をしている。

岩場に見える部分の下に、直線的な人工物が混じっていた。


斜面を削り、湖へ向けて何かを通した跡。

だが、年月と水と草が、それを隠している。


紫乃は足を止めた。


「見える?」


「見える」


リオンは斜め上の鉄骨に立っていた。


「湖岸。人工構造物。斜面下に半埋没」


「基地、というより」


紫乃は目を細める。


「隠した倉庫か、船着き場のようにも見えるわね」


「接近する」


「お願い」


リオンはワイヤーを撃った。

崩れた高架の残骸に先端が食い込み、彼の体が湖側へ滑る。

空中で一度だけ姿勢を変え、次の支点へ移る。


音はない。

派手な動きではない。


ただ、地上からでは見えない角度を取るための機動。

数秒後、リオンの声が入った。


「上部に監視装置跡。稼働なし」


「罠は?」


「外部センサーは死んでいる。物理罠に関しては不明」


「死んでいるセンサーほど信用できないわね」


「同意する」


紫乃は湖岸へ向かって下り始めた。


足場は悪い。

泥と苔。


乾いた場所に見えても、踏めば下が抜ける。

普通の兵士なら、進むだけで足を取られるだろう。

紫乃はそういう場所を避けず、むしろ選ぶ。


柔らかい地面には、痕跡が残る。

誰かが通っていれば、地面が教えてくれる。


「ここ、しばらく人は通っていないわ」


紫乃は言った。


「湖岸側に新しい足跡はなし。

 古い跡も、基地へ入る時より出る時の方が少ない」


「撤収後、戻っていない可能性」


「ええ」


紫乃は、少しだけ声を低くした。


「そして、戻る必要がなかった可能性が」


二人は湖岸の人工構造物へ近づいた。

近くで見ると、それは基地というより、

斜面の中に埋め込まれた半地下施設だった。


正面に大きな扉はない。

代わりに、崩れた岩と草の奥に、人一人が通れる程度の整備用入口があった。

入口の周囲には、古い迷彩材が張り付いている。


すでに劣化し、色も抜けているが、

元は湖岸の岩肌に紛れるよう作られていたのだろう。

紫乃は入口の前で膝を折る。


「鍵は」


「電子ロック跡あり。電源なし」


リオンが横から確認する。


「物理固定はされていない」


「つまり、閉めたけれど封鎖はしていない」


「そう判断できる」


紫乃は扉に手を当てた。

冷たい。

湿っている。


だが、扉そのものは破壊されていない。

強引にこじ開けた跡もない。


「逃げたなら、ここはもっと荒れるわ」


「内部確認する」


リオンが言った。

紫乃は頷き、扉の隙間へ薄い器具を差し込んだ。

音を立てずに、引っかかりを外す。


扉が数センチだけ動く。

中から、重い空気が漏れた。

水気。

鉄。


古い機械油。

そして、人の気配が長く失われた場所の匂い。

紫乃は中を覗いた。


「敵の空気はないわ」


「生命反応、なし」


リオンの端末も同じ結果を示す。

ただし、端末の画面には小さく警告が出ていた。


闇の霧干渉。

測定精度低下。


リオンはそれを見て、短く言う。


「信用しすぎない」


「ええ」


紫乃は扉を開いた。

中は暗い。

壁面の非常灯は消えている。

床には薄く水が張っていた。


天井の配管から、一定間隔で水滴が落ちている。


ぽつり。

ぽつり。


その音が、通路の奥へ伸びていく。


紫乃が先に入った。

リオンが後ろから続く。


二人とも、ライトは最小限に抑えた。

明るく照らせば見やすい。


だが、自分たちの存在も外へ漏れる。

今は、見える範囲だけで十分だった。


通路の壁には、マギアス軍の旧式標識が残っていた。

塗装は剥げ、文字の一部は読めない。


それでも、軍用施設であることは明らかだった。

紫乃は壁を指でなぞらず、近くで見る。


「古いわね」


「放棄から時間経過。数週間以上と言うところか」


「数ヶ月まではいかないかしら」


「環境次第で変化する」


「そうね。水辺は傷むのが早いもの」


通路を進む。

最初の部屋は、詰所らしき場所だった。


椅子と机がある。

棚は空。


壁にあったはずの装備ラックも空。

床には、落ちた紙片が数枚だけ残っている。


紫乃は机の上を見る。

埃の積もり方が均一ではない。


何かが置かれていた場所だけ、形が抜けている。


「持ち出したものがあるわ」


「携行装備がない。」


リオンが言う。


「武装ラック、空。弾薬箱なし」


「急いで持っていった?」


紫乃は首を振る。


「いいえ。持っていくべきものを、ちゃんと持っていったのよ」


詰所を出る。

次の通路は、湖側へ向かって緩く下っていた。


床の水が少し深くなる。

足首まではいかない。


だが、歩くたびに小さく波紋が広がる。


紫乃は、わざと足を止めた。

水面を見る。

自分の足元から広がった波紋。

壁に当たって戻る波紋。


それが、奥へ吸い込まれるように消えている。


「奥に大きな空間があるわね」


「音の返りも遅い」


リオンは壁に耳を寄せる。


「機械室か、搬入口」


「行きましょう」


二人は進んだ。

通路の先にあったのは、整備区画だった。


広い。

天井も高い。


大型の機材が、いくつも残されている。


発電機。

水密ポンプ。

巻き取り式のケーブルドラム。

大型バッテリーの外装。


固定式の操作盤。

移動できる小物は、ほとんどない。


工具箱は空。

部品棚も空。


だが、床に固定された重量物だけが残っている。

紫乃は、そこをゆっくり見渡した。


「分かりやすいわね」


「輸送困難な機材は残置している」


リオンが端末に記録する。


「消耗品、携行工具、記録媒体は撤去済み」


「負けて逃げた場所ではないわ」


紫乃は言った。


「必要なものを選んで持ち出している。

 残したものは、持っていく価値がなかったものか、

 持っていけなかったもの」


リオンは発電機の近くへ移動した。


外装は錆びている。

だが、爆破された跡はない。

コードも切断されていない。


ただ、湿気と時間で端子が傷んでいる。


「電源類、破壊なし」


リオンは短く報告した。


「劣化がひどい。現地起動は困難か」


紫乃は操作盤の前に立った。

起動スイッチはある。

非常停止もある。


だが、どちらも赤錆と水気で動くか怪しい。


「壊したというより、放っておいたのね」


「復旧には技術者が必要」


「私たちでは無理ね」


「無理だろう」


リオンは即答した。

紫乃はくすりと笑った。


「そこは少し悩んでくれてもいいのよ」


「悩んでも結果は同じ」


「本当にリオンくんは正確ね」


整備区画の奥には、さらに下へ降りる階段があった。


階段の先は暗い。

湖側へ近づいている。

壁の結露が増えていた。


リオンが先にセンサーを向ける。


「下層、水位上昇。膝下程度に」


「進める?」


「可能だ。ただし撤退時間が増える」


「見るだけ見ましょう」


二人は階段を下りた。

水が冷たい。


足を入れると、重い水音が通路に広がる。


下層は、湖に近い構造だった。

分厚い壁。

水密扉。

補強された床。


そして、横に長く伸びた通路の先に、船着き場があった。

屋内のボート泊場。

水面が施設の内部まで入り込んでいる。


そこに、小型ボートが二隻残されていた。

整備されていない。

船体には汚れがつき、苔のようなものも見える。


だが、破壊されてはいない。

エンジン部も、少なくとも外から見える範囲では爆破されていなかった。


「ボートあり」


リオンが記録する。


「稼働状態、不明。整備されていないが、破壊なし」


紫乃はボートの縁に近づいた。


「これも置いていったのね」


「撤収に使用しなかった可能性が高い」


「または、使う必要がなかった」


紫乃はボート泊場の壁を見る。

そこには、武装ラックの跡があった。


だが、今は空だ。

固定具だけが残っている。

弾薬箱の跡もある。


それらはすべて持ち出されていた。


「武装はなし」


リオンが言う。


「綺麗に外してあるわ」


紫乃は、固定具の周囲を見た。

切断痕がない。


破壊して取り外したのではない。

正規の手順で外された跡。


「やっぱり撤収ね」


「同意する」


ボート泊場の端には、ケーブルが大量に残っていた。


太いもの。

細いもの。

束ねられたもの。

切られたもの。


湖側へ伸びているもの。

一部は水に沈み、一部は床に絡まっている。


紫乃は、その量に目を細めた。


「随分、多いわね」


「電力ケーブル、通信線、制御線と思われる」


リオンがしゃがみ、端末で読み取る。


「一部は湖側へ延伸。先端不明だ」


「船のための設備にしては多すぎるわ」


「同意する」


リオンはケーブルの束を見た。


「ボート泊場から外部へ大量のケーブル。用途不明」


紫乃は、湖へ向かって開いた水路を見る。

その先は暗い。

外の湖面につながっているはずだが、角度のせいで先が見えない。


水は静かだった。

静かすぎるほどに。


「ここから何かを湖へ出していたのかしら」


「または、湖の中の何かへ接続していた」


リオンの言葉に、紫乃は少しだけ目を細めた。


「その言い方、少し嫌ね」


「あくまでも可能性」


「ええ。嫌な可能性ほど、捨てられないものね」


紫乃はケーブルに触れず、目で追った。


一本は水中へ。

一本は壁の制御盤へ。

数本は切断されている。

だが、雑な切り方ではない。


必要なところだけ外され、不要なところだけ残されている。


「これ、撤収の時に全部持っていくつもりは最初からなかったのね」


「設備固定型だけ残っている」


「大掛かりな何か」


「記録する」


リオンは、ケーブルの配置を簡易図にした。

その時、通信機にノイズが走った。


『……こちら、リヴァル。状況を』


音は荒い。

だが、聞こえる。

リオンが短く答える。


「内部探索中。敵影なし。基地は無人。戦闘痕なし」


紫乃が続ける。


「完全に撤収しているわ。

 慌てた感じはない。

 武装や記録媒体は持ち出し済み。

 重い設備だけ残っている」


『用途は』


紫乃はボート泊場を見た。

大量のケーブル。

残されたボート。

空の武装ラック。


動かない電源。


「まだ断定できないわ」


リヴァルは少しだけ沈黙した。


『ミス・シノの印象でいい』


「船着き場にしては、線が多すぎる。

 補給基地にしては、倉庫が空きすぎている。

 戦闘拠点にしては、守る気配がなさすぎる」


紫乃はゆっくり言った。


「何かを湖側で扱うための基地、かしらね」


通信の向こうで、リヴァルの息がわずかに止まったように聞こえた。


『了解。続行は可能か』


リオンが周囲を見る。


「可能です。ただし下層は水位あり。電源復旧不可。データ取得不可」


『無理はしないでほしい。見られる範囲で十分だ』


「了解」


通信が切れる。

紫乃は少しだけ笑った。


「無理はしないで、ですって」


「任務指示として受け止める」


「そうね。ちゃんと聞いておきましょう」


二人はボート泊場を離れた。

次に向かったのは、制御室らしき場所だった。

整備区画の脇、厚い扉の奥にあった。


扉は開いていた。

開けたまま放置されたのではない。

最後に出た者が、閉める必要を感じなかったのだろう。


中は、比較的乾いていた。

壁一面に端末が並んでいる。

中央には、大型の操作卓。


天井からは複数のケーブルが降り、床下へ消えている。

いかにも重要そうな部屋だった。


だが、その中心部にあったデータバンクは、完全に破壊されていた。

筐体は開けられ、内部の記録ユニットは抜き取られている。


残っている基板の一部は、焼き切られていた。

紫乃は近づき、少しだけ目を細める。


「ここだけは、丁寧に壊しているわ」


リオンが端末を向ける。


「データバンク破壊。記録媒体なし。内部基板、焼損」


「爆破じゃないわね」


「手動破壊の痕跡だ」


「壊す場所を分かっている人間が壊した」


「同意する」


紫乃は操作卓を見た。

他の端末は残っている。

表示は消えている。


だが、破壊されていないものも多い。


「全部は壊していない」


リオンが言った。


「中枢データのみ破壊。補助端末は残存」


「見られて困るものと、見られても構わないものを分けたのね」


紫乃は、操作卓の前に立った。

ボタン。

レバー。

古い認証パネル。


湖側を示す表示。

読める文字は少ない。

だが、配置には意味がある。


この部屋から、何かを動かしていた。

それは間違いない。


「電源、入る?」


「無理だな」


リオンは端末で確認する。


「主電源ライン劣化。補助電源切れ。配電盤の一部浸水。現地復旧は不可」


「壊れてはいないけれど、死んでいる」


「表現としては適切」


「技術者なら?」


「資材次第だろう」


リオンは短く答えた。


「電源系を復旧できる可能性はある。

 ただし、軍用機器のロック解除は別問題」


紫乃は少しだけ肩をすくめた。


「私たちの仕事ではないわね」


「偵察任務。情報持ち帰りが目的だ」


「ええ」


紫乃はデータバンクの破壊跡を見た。


「ここから先は、専門家のお仕事」


リオンは記録を終える。


「撤収する」


「もう少しだけ」


紫乃は制御室の奥へ視線を向けた。

壁際に、古い紙のファイルが落ちていた。


ほとんど濡れている。

読める部分は少ない。

紫乃はそれを慎重に拾う。


紙は脆く、触れただけで崩れそうだった。


読める文字は断片だけ。

水域。

接続。

照射。


被験。

そこまで読み、紫乃は眉をわずかに動かした。


「リオンくん」


「何か」


「これ、持ち帰れる?」


リオンは小型保存ケースを出した。


「可能だ。ただし状態不良」


「断片でもいいわ」


紫乃はファイルをケースに収めた。


「見られて困るものは壊した。

 でも、紙の一枚までは拾いきれなかったみたいね」


「重要度低と判断された可能性がある」


「そうだとしても、低い場所に落ちたものほど、後で効くことがあるのよ」


リオンは頷いた。


「記録する」


制御室を出る。

整備区画を抜ける。

詰所へ戻る。

入口へ向かう。


その間、敵は出なかった。

警報も鳴らない。

罠もない。

基地はただ、静かだった。


静かで、空っぽで、必要なものだけが抜き取られていた。

だからこそ、不気味だった。

外へ出ると、湿った風が二人の頬を撫でた。


湖面は変わらず重く揺れている。

紫乃は入口の前で、もう一度基地を振り返った。


「戦闘跡なし」


リオンが言った。


「敵影なし。

 武装なし。

 中枢データ破壊。

 重量設備残置。

 電源系劣化。

 ボート二隻残存。

 大量ケーブル湖側へ延伸」


「結論は?」


紫乃は聞いた。

リオンは少しだけ間を置いた。


「壊滅した基地ではない。計画的に撤収された基地」


「私も同じ」


紫乃は静かに言った。


「必要がなくなったから、捨てられた場所ね」


その言葉は、湖岸の風に混じって消えた。

だが、二人の端末には記録として残る。


放棄。

撤収。

用途不明。

湖側設備多数。


データバンク破壊済み。

電源復旧不可。

専門技術者の確認が必要。

紫乃は通信機を起動した。


「リヴァルくん、聞こえる?」


今度は少しだけ返答に時間がかかった。


『聞こえる。状況は』


「基地内部を確認。敵はいないわ。戦闘跡もない。完全に撤収済み」


『放棄か』


「ええ。でも、敗走じゃないわ」


紫乃は、湖に向かって残るケーブルを見た。


「必要がなくなったから捨てた。そう見るべきね」


通信の向こうで、リヴァルはしばらく黙った。


『持ち帰れる情報は』


「断片資料を一つ。あとは記録データ。

 現地設備は、私たちでは動かせないわ」


リオンが続ける。


「電源系は破壊されていないが劣化。

 復旧には技術者と資材が必要。

 軍用ロックあり。

 データバンクは破壊済み」


『了解。撤収してほしい』


「はいはい。おばさん、ちゃんと帰るわよ」


『ミス・シノ』


リヴァルの声が、少しだけ硬くなる。


『念のため、帰路は予定より北側を使ってほしい。

 旧道付近に一時的な霧濃度上昇が出ている』


「了解。フィリアちゃんが見つけてくれたのかしら」


『そうだ』


紫乃は微笑んだ。


「帰ったら褒めてあげないとね」


『それは本人に直接言ってほしい』


「もちろん」


通信が切れる。

リオンがすでに北側の帰路を表示していた。


「移動を開始する」


「ええ」


紫乃は歩き出す。

湖を背にして。

空っぽの基地を背にして。

そこには敵はいなかった。


戦闘もなかった。

爆発も、叫び声も、銃撃もなかった。

ただ、使い終わったものを置いていったような静けさだけが残っていた。


それが、何よりも嫌な情報だった。

二人は崩落地へ戻っていく。


リオンは高所を移動し、紫乃は地面の痕跡を消しながら進む。


行きよりも速い。

だが、急いではいない。


急いでいるように見えない速度で、確実に離脱する。

湖岸の基地は、木々と斜面の奥へ隠れていった。


見えなくなっても、その存在だけは地図の上に残る。


S地点。

大きな湖。

マギアス軍の放棄基地。


そして、まだ誰も正体を知らない大きな力の反応。

紫乃は、背後を振り返らなかった。


リオンも振り返らない。

見るべきものは見た。

持ち帰るべきものは持った。


ここから先は、会議室の仕事だった。

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