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三章 十話

風の精霊の封印解除から、数日が経過した。


シェルターは、まだ慌ただしい。

パズリア山で起きた出来事は、世界中に流れた。


クラリス・パズリアが風の精霊の人柱であったこと。

精霊化した彼女を、ARKの現地部隊が殺さずに止めたこと。

封印が解除されたこと。


そして、クラリス・パズリアが生還したこと。

その情報は、報道、解説、憶測、賞賛、批判、感情、祈り、

あらゆるものを巻き込んで広がっていた。


だが、それらの中心にいた本人は、数日間、表に出なかった。


療養。

検査。

安静。

当然のことだった。


精霊化から戻った身体は、命に別状こそなかったものの、

体力を大きく削られていた。

その間、ARKのメンバーもまた、それぞれの役割に戻っていた。


フィリアは医療区画で検査を受け、

アイギスの異常展開についてリヴァルから何度も確認を受けた。

シェスターは腕の爪痕を治療されながら、

無理に動こうとしてイルルに怒られた。


クリスは戦闘報告書を提出した後、

なぜか装飾性の高い技名案を追加提出してリヴァルに却下された。


織葉は。

織葉は、一度魂が抜けた。


それは医療区画に搬送されるようなものではなかった。

ただ、クラリス・パズリアから「ありがとうございました」

と言われた瞬間、精神活動の一部が高次の何かへ旅立っただけである。


リヴァルの診断は、簡潔だった。


医療対象ではない。

放置。

その織葉は今、自室にいた。

畳の部屋。


余計な装飾は少ない。

壁際には刀掛け。

整えられた文机。

手入れされた道具箱。


いかにも翠川織葉らしい、静かで整った私室だった。

ただし、その部屋の奥には、明らかに場違いなものが置かれている。

大型の映像出力装置。


織葉の私室には、もともとそんなものはなかった。

では、なぜ設置されているのか。


理由は単純だった。

クラリス放送の日になるたびに、オペレーション室や共有休憩区画の良い席を

占領する者たちがいたからである。


主に織葉。

時々クリス。

最近イルル。


そのたびに、通常業務や休憩に支障が出る。

そこでリヴァルは、織葉の私室に専用の映像出力装置を設置させた。


名目は、娯楽視聴による共有区画混雑の緩和。

実態は、クラリス・パズリア視聴勢の隔離である。

その映像出力装置の前に、ちゃぶ台が置かれていた。


ちゃぶ台の上には、茶。

果実羊羹。

小皿。

人数分の湯呑み。


そして座布団。

その正面に、翠川織葉が正座していた。


背筋はまっすぐ。

手は膝の上。

表情は真剣。

まるで決闘前の武人である。


ただし、これから始まるのは決闘ではない。

クラリス・パズリアの復帰放送である。

織葉の隣には、翠川紫乃が座っていた。


いつものように柔らかい笑みを浮かべている。


「織葉ちゃん、そんなに固くならなくてもいいのよ」


「固なってへん」


「そう? お茶、さっきから一口も減っていないけれど」


「今は、心を整えとんの」


「放送を見るために?」


「はい」


紫乃は、楽しそうに微笑んだ。


「そう」


反対隣には、イルル・アースフィアが座っていた。


こちらも少し緊張している。

だが、織葉ほどではない。


イルルの前には、湯呑みと小皿。

果実羊羹を一切れ、両手で大事そうに持っている。


「この羊羹、すごく美味しいですね」


「パズリア家御用達の菓子屋とは違うけどな」


織葉が言った。


「けど、この果実羊羹もなかなかや。酸味が茶に合う」


「織葉さん、詳しいんですね」


「クラリス殿の放送を見る時は、口にするものにも気を配らなあかん」


「そ、そうなんですか」


「せや。画面の向こうのクラリス殿に失礼があってはならん」


「画面の向こうでも?」


「当然や」


イルルは一瞬考え、真面目に頷いた。


「分かりました。私も、姿勢を正します」


紫乃がくすくす笑った。


「イルルちゃんまで真面目ね」


「えっと……クラリスさんの復帰放送ですから」


イルルは羊羹を小皿へ戻し、ちょこんと座り直した。

映像出力装置には、今日のニュース番組が流れている。


経済情報。

避難地域の復旧状況。

マギアス反応の減少報告。


リヴァイヴ・プラン関連の速報。

そして画面の下には、間もなくクラリス・パズリア復帰特別放送、

という文字が表示されていた。

その文字が流れるたび、織葉の背筋がさらに伸びる。


もう伸びる余地などないはずなのに、伸びる。

イルルはそれを横目で見て、少し心配そうにする。


「織葉さん、大丈夫ですか」


「大丈夫や」


「本当に?」


「大丈夫や」


紫乃が穏やかに言った。


「イルルちゃん、こういう時の織葉ちゃんは、大

 丈夫じゃない時ほど大丈夫って言うの」


「えっ」


「かあちゃん」


「だって本当でしょう?」


織葉は返せなかった。

その時、部屋の扉が開いた。


「おりはー。おっはよー」


明るい声が飛び込んでくる。

クリスティナ・アドレメリアだった。

軽やかな足取りで入ってきた彼女は、部屋の中を見た。


織葉。

紫乃。

そしてイルル。


クリスの表情が、一瞬だけ止まった。


「あっ……」


完全に、イルルがいると思っていなかった顔だった。

外向きのお嬢様口調ではない。

完全に身内へ向けた気軽な呼び方だった。


イルルは目を瞬かせた。


「お、おはようございます。クリスさん」


クリスは一拍置いた。

そして、すっと背筋を整える。


「……おはようございます。イルル様。本日もご機嫌麗しゅう」


「急に戻った」


イルルが小さく言った。

織葉は、映像出力装置を見たまま言う。


「ええんよ、イルルは」


クリスが織葉を見る。


「え?」


「イルルはええんよ。もうこっち側や」


イルルが首を傾げる。


「こっち側……?」


織葉はようやくクリスを見た。

表情は真剣だった。


「クラリス殿を愛する者連合として、一つ深い絆がつながっとんねん」


「えっと……そうらしいです」


イルルは少し困ったように笑った。

クリスはイルルを見た。

イルルは照れたように、けれど否定はしなかった。


数日前、クラリスが精霊から戻ってきた時。

弱々しくも放送を締めた姿。

あの姿を見てしまった者同士、確かに何かがつながっていた。


クリスの顔が、ぱっと明るくなる。


「マジ?」


「マジや」


「じゃあ気楽にクラリスの放送見れるぢゃん!」


クリスの口調が、完全に戻った。

イルルは少し驚いた顔をしたが、嫌そうではなかった。


紫乃が隣の座布団を軽く叩く。


「ほら、クリスちゃんも座って。織葉ちゃんの隣、あいてるわよ」


「おばさんもおはよ! おっじゃましまっす」


「はい、おはよう」


クリスは靴を揃え、当然のように織葉の隣へ座った。

その動作は綺麗だが、座った後の空気は軽い。

織葉が横目で見る。


「遅い」


「開始前じゃん」


「心を整える時間が必要やろ」


「うちは羊羹に合わせて来たし」


「放送に合わせなさい」


「放送も羊羹も両方大事っしょ」


「否定はせん」


イルルが小さく笑った。


「お二人、いつもこんな感じなんですね」


クリスは羊羹を一切れ取りながら言う。


「まあね。おりはー、クラリス様絡むと急に武士みたいになるから」


「普段も武士や」


「普段は武士。クラリス様の前では参拝客」


「誰が参拝客や」


紫乃が茶を配りながら微笑む。


「でも、今日の織葉ちゃんは、かなり参拝客寄りね」


「かあちゃんまで」


「だって、さっきから映像に一礼しそうな顔をしているもの」


織葉は沈黙した。

否定できなかった。


映像出力装置の音量が少し上がる。

ニュースキャスターの声が切り替わった。


『続いては、特別番組のお知らせです』


室内の空気が変わった。

四人が同時に画面を見る。


ちゃぶ台の上の湯気が、静かに上がる。


『風の精霊封印解除から数日。

 療養を続けていたクラリス・パズリアさんが、

 本日、退院後初めて公の場へ戻ります』


画面に、パズリア山での放送映像が短く流れる。


墓所。

ドローン。

クラリスの演説。

風の精霊化。


映像保護で隠された部分。

フィリアの光の翼。

炎と雷の枝。

クラリスの生還宣言。


織葉は画面の前で静止した。

クリスも、少しだけ表情を引き締める。


イルルは両手で湯呑みを包んだまま、息を呑んでいる。

紫乃は穏やかな顔のまま、目だけを画面に向けていた。


『本日の放送は、通常コーナーではありません。

 風の精霊から帰還したクラリス・パズリアさん本人による、

 復帰特別番組です』


映像が切り替わる。

スタジオではない。

明るいが、落ち着いた部屋。


大きな窓の外には、緑が見える。


白い椅子。

低いテーブル。


そこに、クラリス・パズリアが座っていた。

その姿を見た瞬間、織葉の呼吸が止まった。


「……お元気そうや」


声が、かすれていた。

クラリスは落ち着いた服装をしていた。

派手ではない。


身体に負担の少なそうな柔らかい色の服。

髪は整えられているが、以前より少しゆるくまとめられている。


顔色は完全ではない。

けれど、数日前の墓所で見せた消えそうな笑顔とは違う。

しっかりと座り、カメラを見て、いつものように微笑んでいた。


『皆さん、こんにちは。クラリス・パズリアです』


声が部屋に流れた。

その瞬間、イルルの目が潤んだ。


クリスが小さく息を吐く。

紫乃が、そっと茶を置いた。

織葉は。


織葉は、両手を膝に置いたまま、魂を必死で体内に留めていた。


『まずは、たくさんのご心配をおかけしました。

 療養期間をいただき、本日、こうして皆さんの前に戻ることができました』


クラリスは、深く頭を下げた。

織葉もつられて頭を下げた。

クリスが横で小声を出す。


「おりはー、画面」


「分かっとる」


「下げたじゃん」


「礼は返すもんや」


「まあ、それはそう」


イルルも少し頭を下げていた。

紫乃はそれを見て、楽しそうに微笑んだ。

画面の中で、クラリスは顔を上げる。


『パズリア山での出来事については、すでに多くの報道が出ています。

 私自身も、あの時の映像を確認しました』


彼女は一度、言葉を切った。


『正直に申し上げますと、自分の姿でありながら、

 自分ではないようにも見えました』


室内が静かになる。


『けれど、私は覚えています』


クラリスは続けた。


『見えていました。聞こえていました。

 自分の体が自分の意志では動かせなくなっていくことも、

 ARKの皆さんが私を止めようとしてくれていたことも』


フィリアはいない。

シェスターもいない。

リヴァルもいない。


けれど、その場にいた四人は、それぞれ違う形であの戦いを思い出していた。

織葉は円盤型の停止装置を背中に押し当てた感触を思い出す。


クリスは炎の枝に雷が走った瞬間を思い出す。

イルルは放送で見ていた光景と、

戻ってきた皆を医療区画で待った時間を思い出す。


紫乃は、帰還後に織葉の魂が抜けた瞬間を思い出していた。


『私は、あの場で救われました』


クラリスの声は静かだった。


『ただ命が助かったという意味だけではありません。

 自分の意思では止まれなくなった私を、私のまま帰していただきました』


織葉の肩が震えた。

クリスがちらりと横を見る。


「おりはー」


「まだ耐えとる」


「耐えてる時点でだいぶ怪しいけど」


「黙って見なさい」


「はいはい」


画面の中で、クラリスは微笑んだ。


『フィリアさんが、私の大切な墓所を守ってくださいました』


イルルが小さく声を上げた。


「フィリアさん……」


クリスも頷く。


「あれは本当にすごかったよね」


織葉は深く頷いた。


「墓所全域を守るなど、常人の覚悟やない」


『シェスターさんが、落ちる私を受け止めてくださいました』


イルルは両手を胸の前で握った。


「シェスターさんも……」


紫乃がやさしく言う。


「イルルちゃん、あとで本人に言ってあげるといいわ」


「い、言います」


『クリスティナさんと織葉さんが、精霊の動きを止めてくださいました』


クリスが一瞬、ぴたりと止まった。

織葉も止まった。


画面の中のクラリスは、少しだけ目を細める。


『あの炎と雷の枝は、とても美しかったです』


その瞬間、織葉の魂が半分抜けた。


「おりはー!」


クリスが小声で叫ぶ。


「戻れし!」


織葉の身体が、かすかに揺れる。


「……美しいと……」


「言われた! 言われたけど戻れし!」


「クラリス殿が……美しいと……」


「うちも含まれてるから! 二人の技だから!」


「せやった……」


「そこは思い出して?」


イルルは心配そうに見る。


「あの、織葉さん、大丈夫ですか」


「いつものことよ」


紫乃が茶を飲みながら言った。


「いつものことなんですか」


「クラリスちゃん関連ではね」


画面の中で、クラリスは続ける。


『そして、オペレーション室から全体を見てくださったリヴァルさん。

 シェルターを守ってくださった皆さん。

 医療区画で待っていてくださった皆さん。

 本当にありがとうございました』


イルルが慌てて背筋を伸ばした。


「私たちも……」


「入ってるやん」


織葉が言った。


「イルルも、ちゃんと入ってる」


イルルは、少しだけ泣きそうな顔になった。


「はい」


クラリスの復帰番組は、決して派手ではなかった。

精霊化の瞬間を何度も流すような構成ではない。

戦闘映像を煽るものでもない。


そこにあったのは、一人の人間が戻ってきたことを伝えるための番組だった。


クラリス自身の言葉。

医師からの短い説明。

パズリア家からの感謝。

リヴァイヴ・プランの今後。


そして、封印解除が何を意味するのか。

クラリスは時折、休むように間を置いた。


それでも、声はしっかりしていた。

数日前の墓所で、命を削るように笑っていた彼女ではない。


まだ完全ではない。

だが、戻ってきている。


その事実が、画面の向こうから伝わってくる。


『私は、風の精霊になりました』


クラリスは言った。


『けれど、戻ってくることができました』


四人は黙って聞いていた。


『これは、私だけに起きた奇跡ではありません。

 誰かを救うために積み重ねられた準備と、現場で命を懸けた判断と、

 戻ってこられると信じてくれた人たちの結果です』


織葉は、静かに拳を握った。

あの戦いは終わった。

任務達成。

そう言った。


だが、画面の中のクラリスを見て、ようやく実感が追いついてきた。


本当に助けたのだ。

風の精霊から。

封印から。

死の覚悟から。


クラリス・パズリアを、こちら側へ帰した。

クリスも、いつもの軽い笑みを消していた。


「……ちゃんと、帰ってきたね」


「せやな」


織葉が答える。


「うちらが、帰したんや」


イルルが小さく頷く。


「はい。帰ってきました」


紫乃は三人を見て、少しだけ目を細めた。


「よかったわね」


その言葉に、織葉は小さく頷いた。

画面の中で、クラリスは最後にカメラへ向き直る。


『心配してくださった皆さん。本当にありがとうございました』


いつもの笑顔。

少しだけ弱さの残る、けれど確かに戻ってきた笑顔。


『私はこれからも、自分にできる形で、

 リヴァイヴ・プランと、この世界の未来をお伝えしていきます』


一拍。


『また、皆さんと一緒に、世界の今を見届けられることを嬉しく思います』


クラリスは深く頭を下げた。

番組がエンディングへ入る。

穏やかな音楽。

過去の放送の短い映像。


パズリア山の風景。

そして最後に、クラリスの笑顔。


室内は静かだった。

誰もすぐには喋らなかった。


茶の湯気だけが、ゆっくりと上がる。

それから、クリスが大きく息を吐いた。


「……いや、尊っ」


織葉が小さく頷く。


「尊い」


イルルも、涙を拭いながら言った。


「本当に、よかったです」


紫乃が湯呑みを置く。


「みんな、よく頑張ったわね」


「私は現地には行けませんでしたけど」


イルルが小さく言う。

紫乃は首を振った。


「待つのも、守るのも、支えるのも、ちゃんと役目よ」


「……はい」


イルルは、少し照れたように笑った。

クリスが羊羹を一切れ取る。


「てかさ」


「何や」


織葉が返す。


「クラリス様、うちらの技のこと美しいって言ってたよね」


織葉の動きが止まった。


「言うてた」


「録画、ある?」


「ある」


「見返す?」


「当然や」


イルルが目を瞬かせる。


「もう一回見るんですか」


織葉とクリスが同時にイルルを見た。


「一回で足りると思うん?」


「足りるわけないっしょ」


イルルは少し考えた。

そして、湯呑みを両手で持ち直した。


「じゃあ……私も、もう一回見たいです」


その瞬間、織葉の表情がやわらいだ。


「イルル」


「はい」


「やっぱり、絆は本物や」


「そ、そうですか」


クリスが笑う。


「クラリス殿を愛する者連合、正式加入じゃん」


「えっ、私、加入したんですか」


「した」


「しましたわね」


「しちゃったみたいね」


紫乃まで乗った。

イルルは困った顔をしながらも、少し嬉しそうだった。


織葉が端末を操作し、復帰番組の録画を最初に戻す。

映像出力装置に、もう一度クラリスの姿が映る。


『皆さん、こんにちは。クラリス・パズリアです』


織葉は再び正座を整えた。

クリスは羊羹を口に入れながら座り直す。


イルルは少し前のめりになる。

紫乃は茶を淹れ直す。

風の精霊の封印は解かれた。


クラリス・パズリアは戻ってきた。

リヴァイヴ・プランは、また一つ前へ進んだ。


世界はまだ危うい。

戦いは終わっていない。


それでも今、この畳の部屋には、確かに救えたものを見つめる時間があった。

織葉は画面の中のクラリスを見つめ、静かに呟く。


「……おかえりなさい、クラリス殿」


それは画面の向こうには届かない。

けれど、ここにいる四人には届いた。


クリスが笑う。

イルルが頷く。

紫乃が目を細める。


映像の中で、クラリスは変わらず微笑んでいた。

その笑顔と共に、静かに幕を下ろした。

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