三章 九話
空の上で、風の精霊が翼を広げていた。
それは、クラリス・パズリアの姿を残していなかったわけではない。
長く伸びた髪。
人に近い輪郭。
どこかに残る、彼女だった面影。
けれど、その目に宿る光は違っていた。
こちらを見下ろすそれは、祈りの場所に立っていた一人の女性ではない。
封印を守るために生まれ、封印に結びつき、
封印を削るものを排除するために動く、風の精霊だった。
『もう彼女の意識は、クラリス・パズリアじゃない』
通信の向こうで、リヴァルの声が響く。
『風の精霊だ』
その言葉が終わるより早く、空が裂けた。
風の精霊の姿が消える。
次の瞬間、墓所の石畳の上を、白い線が走った。
「下がれ!」
シェスターが叫ぶ。
フィリアの肩を掴み、横へ引いた。
直後、二人が立っていた場所に風の塊が叩きつけられる。
石畳が砕け、破片が跳ねた。
ただの突風ではない。
圧縮された風が拳のように落ち、地面を潰した。
『マナアーツ反応。風属性、圧縮打撃型』
リヴァルの解析が入る。
『スマッシュゲイル』
フィリアは息を呑みながらレイアーツデバイスを構え直した。
早い。
あまりにも早い。
見えたと思った瞬間には、もう別の場所にいる。
風の精霊は墓所の上空を旋回していた。
翼が一度羽ばたく。
風が生まれる。
その羽ばたきの一つ一つが攻撃になる。
織葉は装置の前から一歩退き、石畳を蹴った。
横薙ぎに飛んできた風の刃を、跳躍だけでかわす。
クリスも反対方向へ軽やかに飛び、レイピアを抜きながら回転した。
二人がいた場所を、薄い刃のような風が通り過ぎる。
墓標の手前で、防護用に置かれていた簡易シールドが裂けた。
『切断風。マナアーツ、チョッパーガスト』
「墓標には当てないでいただきたいですわね」
クリスが空を見上げて言った。
声は華やかだが、目は笑っていない。
織葉は着地と同時に鞘へ手を添える。
「来ます」
風の精霊が、今度は真上から落ちてきた。
白い翼が閉じ、一本の矢のようになる。
織葉とクリスは左右へ跳んだ。
フィリアは動けない。
彼女の後ろには、墓所へ続く石の道がある。
墓標がある。
クラリスが、さっきまで語っていた場所がある。
「フィリア!」
シェスターが叫ぶ。
「はい!」
フィリアはアイギスフレームを起動した。
光が開く。
透明な盾が、彼女の前に展開される。
そこへ風の精霊の突進が叩き込まれた。
衝撃が、盾全体を白く震わせる。
フィリアの足が石畳を削った。
肩に食い込むような重み。
レイアーツデバイスの銃身下に固定された抑制装置が、低く震える。
だが、盾は割れなかった。
クラリスのサインが刻まれたアイギスフレームの縁が、光を帯びる。
安全祈願。
その文字が、一瞬だけ眩しく浮かんだように見えた。
「受けた……!」
フィリアの声が震える。
「いいから動け!」
シェスターが彼女の背中に手を回し、そのまま横へ走った。
直後、二人の足元が砕けた。
先ほど受けた衝撃で石畳の下が浮いていたのだ。
シェスターは崩れる足場を見越していた。
フィリアを抱えるようにして、半ば引きずりながら別の石段へ移動する。
「す、すみません!」
「謝る暇あったら構え直せ!」
「はい!」
その様子を、撮影ドローンが遠巻きに捉えていた。
映像の向こうで、息を止めた者がいたかもしれない。
クラリス・パズリアが風の精霊へ変わる姿を見た者は、
そこに神秘を見たかもしれない。
恐怖を見たかもしれない。
あるいは、ただ、
自分の知る人が遠くへ行ってしまったような喪失を覚えたかもしれない。
けれど現場には、その感情へ応える余裕はなかった。
風は次を放ってくる。
風の精霊が空中で身を翻す。
翼の先から、幾つもの風の刃が落ちた。
チョッパーガスト。
墓所を切り刻むように、白い線が走る。
「散開!」
シェスターの声。
織葉は一歩で石灯籠の上へ跳び、そこからさらに空へ跳ぶ。
クリスはレイピアを振るい、火の花弁で足元の風を逸らしながらかわす。
フィリアはアイギスを斜めに展開し、墓標へ向かう風の刃を受けた。
盾の表面に切断線が走る。
歯を食いしばる。
背後にある墓標は、砕かせない。
「っ……!」
「持ちこたえろ、フィリア!」
シェスターが、フィリアの横で飛んできた破片を腕で弾いた。
防具の表面で石片が跳ねる。
「はい!」
『停止装置の打ち込み点を解析中』
リヴァルの声が入る。
『精霊化した肉体と封印核の接続は、背面側に集中している。
肩甲骨の間、翼の基部に近い。
そこが循環接合点だ』
「背中ですか」
織葉が空中で身を捻り、着地しながら言う。
「背中だ」
リヴァルは即答した。
『円盤型の貼り付け循環停止装置をそこへ装着できれば、
接続を遮断できる可能性が高い』
クリスが空を見上げた。
風の精霊は、すでに別の位置へ移動している。
「なるほど。理屈は分かりましたわ」
シェスターが顔をしかめる。
「で、どうやって背中に貼るんだよ、あれに」
返事は一瞬なかった。
その沈黙が答えだった。
風の精霊は止まらない。
近づくどころか、正面を見ることすら難しい。
背中へ回り込む。
貼り付ける。
打ち込む。
言葉にすれば簡単だが、今の速度では不可能に近い。
「射出型は?」
フィリアが聞く。
『現状の相対速度では命中率が低すぎる。
外した場合、装置の回収が困難になる』
リヴァルは切り捨てる。
『接近して装着する方が確実だが、接近条件が成立していない』
「嫌な言い方だな」
シェスターが舌打ちする。
「つまり無理ってことだろ」
『今のままなら、そうだ』
風の精霊がまた消えた。
次の瞬間、墓所の端で風が爆発する。
スマッシュゲイル。
石垣の一部が砕け、土が舞った。
クラリスがさっき歩いて語った道が、削られていく。
織葉の眉がぴくりと動いた。
クリスの顔から、笑みが消えた。
「……あまり、品の良い戦い方ではありませんわね」
「精霊に礼儀を求めても仕方ありません」
織葉は言いながら、再び跳ぶ。
空から落ちる刃をかわし、着地と同時に鞘を引く。
だが斬らない。
風の精霊の速度では、刃を届かせる前に離脱される。
クリスも火の花弁を飛ばすが、風に散らされる。
「遠距離から、あの速度で撃たれては」
織葉が低く言った。
「こちらが削られるだけですわね」
クリスが同じ地点に着地する。
続いて、シェスターがフィリアを連れて、二人の近くへ移動した。
四人が一瞬だけ同じ場所に集まる。
空では、風の精霊が高く上がっていた。
一度、翼を畳む。
次に、空中で大きく宙返りをする。
周囲の風が、墓所全体を中心へ吸い寄せられるように動いた。
嫌な予感が、全員の背筋を走る。
『大規模マナアーツ反応』
リヴァルの声が鋭くなる。
『広域落下型。墓所全体が対象になる』
空の上で、風の精霊が翼を開いた。
そこから、砂塵を巻き込んだ風が渦を作る。
墓所を覆うように、巨大な風の塊が生まれていく。
「大技かよ」
シェスターがフィリアの前へ出る。
織葉は刀に手をかける。
クリスはその横で、空を見上げていた。
そして、少しだけ身を寄せる。
「おりはー」
「何です」
「アレやんない?」
織葉の目が横へ動いた。
「アホ。こんな場面で何言うとんねん」
声は小さい。
だが、完全にいつもの織葉ではなかった。
クラリスの前で固まっていた令嬢でも、
会議室で真面目に受け答えしていた武人でもない。
昔からの知り合いへ向ける、砕けた声だった。
クリスは悪びれずに笑う。
「いーじゃん。これ、削られるばっかだしさ」
「それを何とかするために、今考えてるんやろ」
「それに」
クリスは、少しだけ目を細めた。
視線の先には、墓所がある。
クラリスが歩いた石畳。
生まれた時に植えられた低木。
家族の思い出。
ここは、ただの戦場ではない。
「大事なお墓、このままだとやられちゃうじゃん?」
織葉は、一度だけ息を吐いた。
「はぁ。ホンマ行動的やな」
「褒め言葉として受け取りますわ」
「褒めてへん」
織葉は刀から手を離し、体勢を変えた。
「じゃ、そーゆーことで」
クリスの表情が、お嬢様のそれへ戻る。
彼女はフィリアへ向いた。
「フィリア様」
「は、はい」
フィリアは空の巨大な風を見上げたまま返事をした。
「一度で結構です」
クリスの声は、軽くなかった。
「私たちを、その盾で守ってくださいまし」
フィリアの息が止まった。
私たちを。
墓所を。
この一撃から。
その責任が、いきなり胸の中へ落ちてくる。
レイアーツデバイスの重みが増したように感じた。
アイギスで受ける。
今までのように、自分の前だけではない。
クリスと織葉が動くための時間を作る。
この墓所を守る。
クラリスが大切にしてきた場所を守る。
「私が……」
声が揺れた。
その横で、シェスターが言った。
「できるかどうかじゃねえ」
フィリアは彼を見る。
シェスターは空を見上げたまま、続けた。
「やるんだろ」
その言葉は、乱暴だった。
励ましというには短すぎる。
けれど、フィリアには届いた。
できるかどうかを考えている時間はない。
やるしかない。
彼女は深く息を吸った。
「……やります」
シェスターが短く頷く。
「なら、俺はお前の足を支える」
「お願いします」
空の風が、限界まで膨らむ。
風の精霊が両翼を大きく開いた。
その翼の下に、墓所全体を押し潰すような渦が生まれる。
『来る』
リヴァルが言った。
空から、風の塊が落ちた。
『マナアーツ、ダストフォール』
砂塵を含んだ風が、墓所へ降る。
ただの風ではない。
石を削り、土を剥がし、墓標を倒し、そこにあるものをすべて平らに均そうとする圧力。
フィリアはレイアーツデバイスを構えた。
銃身下の抑制装置が震える。
アイギスフレームが開く。
いつもの盾が、彼女の前に展開される。
だが、それだけでは足りない。
足りるはずがない。
「アイギス……!」
フィリアの声が、風に消えかける。
その瞬間、彼女の背中に光が走った。
翼だった。
白い光の翼。
かつて彼女が事故の中で発現させた、余剰マナの排出。
けれど今は、ただ暴れているのではない。
フィリアの意志に応じて、開いている。
通信の向こうで、リヴァルが息を呑んだ。
『また、この現象……』
光の翼が広がる。
アイギスフレームが、その光に引き伸ばされるように拡張された。
一枚の盾ではない。
墓所の外周をなぞるように、光の線が走る。
石畳の縁。
墓標の前。
低木の周囲。
クラリスが歩いてきた道。
それらを包むように、巨大な防護面が形成される。
フィリアの膝が震えた。
シェスターが後ろから支える。
「倒れんな!」
「倒れません!」
ダストフォールが落ちた。
衝撃が、光の盾全体を叩く。
墓所が白く染まる。
風と砂塵が弾かれ、外側へ流れた。
アイギスの表面が波打つ。
何度も、何度も。
フィリアの腕が軋む。
呼吸が詰まる。
それでも盾は墓所を守っていた。
映像の向こうで、誰かが息を呑んだ。
少女の背に光の翼が開き、墓所全体を守る盾が広がる。
それがただの防御ではないことは、誰の目にも明らかだった。
クラリスが語った場所。
クラリスが守りたかった場所。
そのすべてを、フィリアが受け止めていた。
「フィリア様」
クリスが、盾の内側で微笑んだ。
「さすがですわ」
フィリアは答えられなかった。
答える余裕がない。
けれど、その言葉だけは聞こえた。
クリスは一歩前へ出る。
レイピアを、自分の正面に立てた。
剣先を天へ向ける。
柄を両手で支えるように持ち、深く息を吸う。
火のマナが、レイピアの周囲に集まる。
花弁ではない。
枝だった。
赤く燃える細い枝が、剣の根元から伸びていく。
「参りますわ」
クリスは、風の精霊へ向かって突きを放った。
「マナアーツ」
剣先から、火が噴き上がる。
「スプリットクインス!」
火のマナが、天へ突き上がった。
一本ではない。
幾つにも枝分かれする。
細く、鋭く、伸びながら分かれ、また分かれ、空へ向かって燃え広がる。
墓所から空へ、炎の樹が生えたようだった。
だが、風の精霊は止まらない。
小鳥のように身を翻し、枝と枝の隙間を抜ける。
あまりにも速い。
炎の枝は空を埋める。
それでも風の精霊は、その合間を滑るように飛んだ。
右へ。
左へ。
下へ。
上へ。
炎の枝は届かない。
届かないように見えた。
「織葉様!」
クリスが叫ぶ。
織葉はすでに動いていた。
刀は抜いていない。
彼女が構えているのは、雷を宿した指先だった。
足元の石畳を蹴り、炎の枝の根元へ踏み込む。
「秘術」
紫の雷が、彼女の腕を走る。
「紫電末節!」
雷が、火の枝へ触れた。
その瞬間、二人の声が重なった。
「マナリンク」
炎の枝が震える。
「枝炎末雷!」
火の枝の先端に、雷が走った。
赤い炎が、枝先から紫電へ変わっていく。
幹を燃やす火。
末端を走る雷。
風の精霊が抜けようとした枝の合間で、雷が跳ねた。
バチン。
最初の一撃が、羽毛を焼いた。
風の精霊が身を捩る。
だが、枝は一つではない。
バチン。
バチン。
バババッ。
雷が、炎の枝から枝へ飛ぶ。
風の精霊が抜け道だと思っていた空間が、すべて雷の檻へ変わった。
羽毛が帯電する。
翼の先から火が移る。
風を纏うはずの翼が、逆に炎を引きずった。
風の精霊が初めて、空中で大きく体勢を崩した。
映像の向こうで、声を上げた者がいたかもしれない。
炎が枝分かれし、雷がその末端を走り、届かなかった空へ届く。
それは精霊を焼くためだけの技ではない。
速すぎて届かない相手を、落として救うために組まれた技だった。
「捕まえた」
クリスが低く言う。
「まだです」
織葉がすぐに返す。
風の精霊が翼を広げ、強引に雷の枝を裂こうとした。
だが、燃えた翼は風を掴み損ねる。
帯電した羽毛が、次々に火花を散らした。
風の精霊が落ちる。
クラリスだったものが、白い翼を燃やしながら、空から落ちていく。
その姿に安堵した者もいただろう。
怒りを覚えた者もいただろう。
悲しみに息を詰まらせた者もいただろう。
世界のどこかで、誰かが画面から目を背けたかもしれない。
けれど、現場にいる者たちは、そのどれにも答えなかった。
ただ、救うために動いた。
「シェスターさん!」
クリスが叫ぶ。
「お願いします!」
「言われる前に行ってる!」
シェスターはすでに走っていた。
フィリアの支えから離れ、落下地点へ向かう。
風がまだ荒れている。
石畳は割れ、破片が散っている。
その中を迷わず走った。
落ちてくる風の精霊の軌道を読み、最後の一歩で滑り込む。
「ぐっ……!」
衝撃がシェスターの腕と肩を潰す。
彼はスライディングのまま、クラリスだったものを受け止めた。
人の体より軽いはずなのに、纏った風とマナが重い。
翼の火がシェスターの袖を焦がす。
「熱っつ……!」
それでも離さない。
彼は片腕で抱え込み、もう片方の手で自分の上着を引き剥がした。
携行水のボトルを噛むように開け、上着へ叩きつける。
濡れた布で、燃えている翼を覆った。
「こっちは任せろ!」
シェスターが叫ぶ。
「急げ!」
織葉が走る。
すでに円盤型の貼り付け循環停止装置を手にしていた。
白い円盤。
外縁には細い固定爪。
中央には封印マナの循環を遮断するための制御核。
背中。
翼の基部。
そこへ届かせる。
斬るためではない。
救うために踏み込む。
織葉は一瞬で間合いを詰めた。
燃え残る羽根が頬を掠める。
風がまだ暴れている。
精霊の体が、シェスターの腕の中で反射的に動いた。
鉤爪が石畳を抉る。
シェスターが歯を食いしばり、押さえ込む。
「今だ!」
織葉は躊躇しなかった。
「装着します」
円盤を背中へ押し当てる。
翼の基部に近い、リヴァルが示した接合点。
円盤の固定爪が開き、羽毛の下のマナ構造へ食い込む。
精霊が大きく震えた。
風が爆ぜる。
フィリアが残った力でアイギスを前へ出す。
クリスがフィリアの腰を支えた。
「フィリア様、もう少し」
「はい……!」
円盤が光る。
接続線が一つ、二つ、背面のマナ循環へ潜っていく。
リヴァルの声が通信に響く。
『接合点に到達』
風の精霊が悲鳴とも風音ともつかない声を上げた。
シェスターが押さえる。
「暴れんな!」
それはクラリスへ向けた言葉ではない。
精霊へ向けた言葉だった。
織葉は円盤に手を添えたまま、動かない。
装置の固定が完了するまで、離れない。
『循環停止装置、接続開始』
リヴァルの声が続く。
『マナ接続、遮断率三十。四十。五十』
風が弱まっていく。
だが、完全には止まらない。
翼が一度大きく震えた。
濡れた上着の下で、火が消えかける。
シェスターの腕に、精霊の爪が食い込んだ。
「シェスター!」
フィリアが叫ぶ。
「見るな!」
シェスターは短く返した。
「お前は盾を下ろすな!」
フィリアは唇を噛み、アイギスを維持する。
手が震える。
光の翼が薄くなっていく。
限界が近い。
クリスがそっとフィリアを抱き寄せるように支えた。
「大丈夫ですわ。もう届いています」
「でも……」
「届きました。だから、あと少しです」
フィリアは頷いた。
目の前で、織葉が動かない。
シェスターが押さえている。
クリスが支えている。
自分も、まだ守る。
『遮断率七十。八十』
円盤が強く光った。
風の精霊の体を包んでいた封印マナが、糸を切られるように乱れる。
翼が力を失う。
長く伸びていた髪が、風を失って地面へ落ちる。
『九十』
墓所の空気が変わった。
荒れ狂っていた風が、急に遠ざかる。
まるで、誰かが巨大な扉を閉じたように。
『マナ接続遮断を確認』
リヴァルの声が、少しだけ低くなる。
『封印守護精霊、構造維持不能』
一拍。
『成功だ』
織葉は円盤に手を添えたまま、深く息を吐いた。
そして、短く告げる。
「任務達成」
その場には、風の音と、荒い呼吸しかなかった。
シェスターの肩で、濡れた上着から水が滴る。
フィリアのアイギスが薄く消えていく。
クリスは力の抜けたフィリアを抱き寄せた。
織葉はまだ円盤から手を離さない。
誰も歓声を上げなかった。
上げられる状態ではなかった。
けれど、放送の向こう側では。
現地には届かない歓声が、確かに響いていた。
世界中のどこかで、誰かが叫んだ。
誰かが泣いた。
誰かが、祈るように手を握った。
それでも現場は静かだった。
救出は、まだ終わっていない。
シェスターの腕の中で、クラリスだったものの輪郭が揺れる。
羽毛がほどけるように消えていく。
鳥の爪だった指先が、人の手へ戻り始める。
翼の光が崩れ、背中の円盤だけが淡い光を放っていた。
映像保護の処理が、再び自動で強くかかる。
ドローンは角度を変え、クラリスの尊厳を守る位置へ移動した。
リヴァルが事前に組んだ制御だった。
『衣類保護処理、継続。
着替え班はいない。
現地メンバーで対応してくれ。
シェスター、上着を使え。
クリスティナ、予備衣装を』
「承知しておりますわ」
クリスはフィリアをそっと石段へ座らせる。
「フィリア様、少しだけ座っていてくださいませ」
「はい……」
フィリアの声には力がなかった。
光の翼は、もう消えている。
アイギスフレームも待機状態へ戻っていた。
クリスは装備ケースから、事前に準備されていた衣装袋を取り出す。
クラリス用の着替え。
リヴァルが、パズリア家と番組側へ事前に説明し、用意していたもの。
こうなる可能性を、想定していた。
想定したくなくても、必要だから準備していた。
シェスターは濡れた上着でクラリスの体を覆うようにしながら、視線を逸らしている。
「急げ。こっちは押さえてる」
「ええ」
クリスが素早く近づく。
織葉は円盤の固定状態を確認し、まだ手を添えたままリヴァルへ報告した。
「停止装置、固定維持。封印マナの逆流はありません」
『確認している。織葉、そのまま三十秒維持。完全遮断を待つ』
「承知しました」
織葉の声は落ち着いていた。
戦闘中の彼女は、もうカチコチのファンではない。
ただ、任務を果たす武人だった。
その横で、フィリアは座り込んだままクラリスを見ていた。
視界が少しぼやける。
力を使いすぎた。
手が震える。
けれど、墓所は残っていた。
クラリスの大切な場所は、潰されなかった。
その事実だけが、胸の奥に静かに灯る。
クリスが戻ってきて、フィリアの肩に手を置いた。
「フィリア様」
「……はい」
「ミッション完了、ですわ」
フィリアは小さく頷いた。
「はい」
声はかすれていた。
けれど、確かに答えた。
空には、まだ撮影ドローンが浮かんでいる。
風は弱くなっていた。
墓所の石畳には、戦いの跡が残っている。
砕けた石。
焦げた羽毛の跡。
水を吸った上着。
淡く光る円盤型の停止装置。
そして、そこに倒れたクラリス・パズリア。
放送は続いている。
けれど、そこにはもう司会者の声はなかった。
今はただ、救出の現場が映っている。
世界はそれを見ていた。
クラリスが言った通りに。
見届けていた。
『クラリス・パズリア救助成功』
リヴァルの声が、通信に響いた。
『循環停止装置、稼働継続。精霊反応、消失進行中』
墓所に吹いていた風が、少しずつ弱まっていく。
荒れ狂っていた空気が、糸を切られたようにほどけていく。
石畳の上には、水を含んだ上着があった。
その下で、クラリス・パズリアは浅く息をしていた。
背中には、円盤型の貼り付け循環停止装置。
その縁から伸びた細い固定爪が、精霊との接合点へ食い込んでいる。
白く光っていた翼はもうない。
鳥のようだった手足も、少しずつ人の形へ戻っていた。
ただ、体力を大きく奪われたことは誰の目にも分かった。
顔色は白い。
呼吸は細い。
それでも、胸は上下している。
クラリスは生きていた。
フィリアはその場に座り込んだまま、息を吐いた。
自分が息を止めていたことに、そこでようやく気づく。
「クラリスさん……」
声が震えた。
シェスターはクラリスの肩を支えたまま、周囲を警戒している。
「まだ動かすな。息はある。反応もある」
「はい……」
クリスは予備衣装と遮蔽布を広げ、ドローンの位置を確認した。
映像保護は継続している。
クラリスの尊厳を守るように、撮影用ドローンは一定以上近づかない。
画面には、クラリスの顔と、彼女を支える現地メンバーの手元だけが映るよう制御されていた。
『封印核へのマナ進行、再開』
リヴァルの声が続く。
『織葉、停止装置の固定を維持。
クリスティナ、遮蔽を継続。
シェスター、クラリス・パズリアの呼吸を確認。
フィリアはその場で休め。
アイギス再展開は不要だ』
「承知しました」
織葉は背中の円盤へ手を添えたまま答えた。
「こちら、遮蔽継続しておりますわ」
クリスが言う。
シェスターはクラリスの呼吸を見て、短く返した。
「呼吸あり。意識は……」
その時、クラリスの指が動いた。
かすかな動きだった。
けれど、確かに動いた。
シェスターが視線を落とす。
「クラリス?」
クラリスの唇が、わずかに開く。
声にはならない。
それでも、彼女の手はゆっくりと上がった。
震える指先が、空を探る。
ドローンの方へ。
「……まだ、喋る気かよ」
シェスターの声は低かった。
責めているのではない。
止めようとしている。
だが、クラリスは薄く目を開けた。
その瞳には、まだ焦点が定まりきっていない。
それでも、彼女はドローンを見つけた。
そして、微かに笑おうとした。
いつもの笑顔には届かない。
番組で見せる、
明るく穏やかなクラリス・パズリアの笑顔には、到底届かない。
けれど、彼女は作ろうとしていた。
世界へ向ける顔を。
プロとしての顔を。
「もういい。喋るな」
シェスターが言った。
クラリスは、かすかに首を振る。
「……最後まで、です」
声は弱かった。
風に溶けてしまいそうなほど。
だが、その言葉だけははっきりしていた。
フィリアは泣きそうになりながら、ドローンを見た。
クリスは一瞬だけ目を伏せ、それから遮蔽布の角度を整える。
織葉は円盤から手を離せないまま、完全に硬直していた。
戦闘中の判断ではない。
これは、別の衝撃だった。
クラリスは、まだ放送を終わらせる気でいる。
自分の体が限界に近いことを分かっていても。
精霊にすべてを持っていかれていた間も、彼女は見ていた。
聞いていた。
自分の体が風の精霊として空を飛び、墓所を壊そうとし、
ARKの仲間たちに止められる様を。
すべてを。
それでも、戻ってきた。
戻ってきて、最初に伸ばした手は、助けを求める手ではなかった。
放送を続けるための手だった。
撮影ドローンが、ゆっくりと位置を下げる。
近すぎない距離。
クラリスの顔を映せる角度。
彼女が望んだ位置へ。
クラリスは浅く息を吸った。
「皆さん……」
声はかすれていた。
それでも、放送に乗った。
世界へ届いた。
「ご覧の通り……私は、生きています」
その一言で、放送の向こう側の空気が変わった。
誰かが声を上げたかもしれない。
誰かが涙を拭ったかもしれない。
誰かが、ようやく握りしめていた手を開いたかもしれない。
クラリスは、まだ笑おうとしている。
「無事……とは、少し言いづらい姿かもしれませんね」
弱々しい冗談だった。
けれど、それは確かにクラリス・パズリアの言葉だった。
シェスターが眉をひそめる。
「冗談言ってる場合かよ」
「……少しだけ、言わせてください」
「少しだけだ」
シェスターは渋々言った。
クラリスは小さく頷く。
その動作すら、体力を削っているように見えた。
『封印層、最終切削開始』
リヴァルの声が入る。
クラリスはその通信を聞いていた。
そして、ドローンへ向けて言葉を続ける。
「封印解除は、まだ続いています」
声は細い。
けれど、震えの奥に芯がある。
「私は、風の精霊に変わりました。自分の意志では、止まれませんでした」
フィリアの手が膝の上で強く握られる。
「でも、ARKの皆さんが、止めてくださいました」
クラリスの視線が、ほんの少しだけ動く。
フィリアへ。
シェスターへ。
クリスへ。
織葉へ。
そして、見えない通信の向こうにいるリヴァルへ。
「私を殺すためではありません」
一拍。
「私を、救うために」
織葉の肩が震えた。
それでも、彼女は円盤を押さえる手を離さない。
任務はまだ続いている。
尊さで意識が飛びそうになっても、手だけは絶対に離さない。
そこは武人だった。
クラリスは浅く息を吸う。
「先ほど私は、もし精霊化した私が死ぬことになっても、
ARKの皆さんを責めないでほしいとお伝えしました」
声が少し途切れる。
クリスが心配そうに身を寄せた。
「クラリス様、無理は」
クラリスは、ほんのわずかに手を上げた。
大丈夫だと言うように。
大丈夫ではない。
誰が見ても大丈夫ではない。
それでも、彼女は続ける。
「ですが……私は、こうして生きています」
その言葉は、先ほどより少しだけ強かった。
「彼らは、私を止めました」
息を吸う。
「そして、私を救いました」
『封印核、まもなく貫通』
リヴァルの声が重なる。
墓所中央の解除機材が、低く唸る。
地下へ伸びていた解除用マナの光が、より深く、より強くなる。
フィリアは視線を向けた。
封印核。
そこに向かうマナの進行が、センサー画面で明確に見える。
精霊との接続が切れたことで、封印の抵抗が弱まっている。
リヴァルの操作が、淡々と最終段階へ進んでいく。
クラリスは、その音を聞きながら続けた。
「リヴァイヴ・プランは、誰かを倒して終わる計画ではありません」
いつもの番組の声より弱い。
だが、言葉の選び方は変わらない。
「人が人として戻れるように」
「失われた場所を、もう一度取り戻せるように」
「怖いものを、怖いまま放っておかないように」
クラリスは一度、目を閉じかけた。
シェスターが低く言う。
「クラリス」
彼女は目を開けた。
「……まだ、終わっていません」
「放送がか」
「はい」
「頑固だな」
「仕事ですから」
シェスターは、それ以上止めなかった。
止めても聞かないと分かったからか。
あるいは、これが彼女にとって必要なことだと分かったからか。
クリスが遮蔽布を支えながら、静かに言う。
「さすがですわ、クラリス様」
その声には、いつもの華やかさが少しだけ戻っていた。
「本当に、最後まで美しい方です」
織葉が円盤を押さえたまま、小さく震える。
「……美しい」
「織葉様、まだ早いですわ」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっていません」
「分かってくださいまし」
フィリアはそのやり取りに、涙の混じった息を漏らした。
少しだけ笑えた。
この状況で笑えることが、不思議だった。
でも、クラリスが生きているから、笑えた。
『封印核、貫通』
リヴァルの声が響く。
『内部マナ崩壊を確認。封印核、消失まで十秒』
墓所の地下から、低い振動が伝わってくる。
地震ではない。
封印されていたマナ構造が、解けていく振動。
クラリスはドローンを見つめた。
その目はもう、半分ほど閉じかけている。
けれど、笑顔を崩さない。
「皆さん」
彼女は言った。
「どうか、覚えていてください」
一つ一つ、言葉を置くように。
「今日、この山で起きたことは、誰か一人の勝利ではありません」
『封印核、消失』
リヴァルの声。
地下から上がっていたマナ反応が、すっと消える。
長く縛られていた何かが、ほどけるように。
墓所を覆っていた空気が、軽くなった。
風が吹く。
けれど、それはもう精霊の風ではない。
山の風だった。
クラリスの髪を、そっと揺らすだけの風だった。
「ARKの皆さんの勝利です」
クラリスは続ける。
「シェルターで待つ人たちの勝利です」
「安全な場所から測定に協力してくださった市民の皆さんの勝利です」
「恐怖の中でも、未来を信じようとしている人たちの勝利です」
声がかすれる。
それでも、止めない。
「そして」
クラリスは、ほんの少しだけ笑った。
「人類の未来の勝利です」
通信の向こうで、リヴァルが告げる。
『封印解除、完了』
その言葉は、短かった。
けれど、墓所にいた全員が聞いた。
放送を見ていた世界中の誰かも聞いた。
フィリアは目を閉じた。
終わった。
風の精霊の封印が解かれた。
クラリスは生きている。
リヴァイヴ・プランが、また一つ進んだ。
クラリスは、最後の力を振り絞るように、少しだけ身を起こそうとした。
シェスターがすぐに支える。
「動くな」
「少しだけ……画面に、ちゃんと」
「もう映ってる」
「では……このままで」
クラリスはドローンへ向けて、できる限りいつもの笑顔を作った。
弱々しく。
それでも、確かにクラリス・パズリアとして。
「無事、封印は解除されました」
彼女は言った。
「そして、私は生きています」
その一言が、もう一度世界へ届く。
「リヴァイヴ・プランが、また一つ進みました」
一拍。
「人々の未来のために戦っているARKの皆さんの……いえ」
クラリスは微笑む。
「人類の未来の勝利です」
フィリアは涙をこらえきれなかった。
クリスは唇を結び、深く頭を下げた。
シェスターは何も言わず、ただクラリスを支え続けた。
織葉は、円盤を押さえたまま完全に動かなくなっていた。
「本日の放送は、ここまでです」
クラリスは最後まで、言葉を整えた。
「見届けてくださった皆さん、本当にありがとうございました」
息が切れる。
それでも、彼女は最後の一言を言った。
「また、お会いしましょう」
ドローンのランプが、ゆっくりと赤から白へ変わる。
生放送が終了した合図だった。
その瞬間、クラリスの笑顔が崩れた。
糸が切れたように、全身から力が抜ける。
「クラリス!」
シェスターが支える。
クラリスは意識を失ってはいなかった。
だが、もう言葉を作る力はほとんど残っていない。
「……終わり、ましたか」
「ああ。終わった」
シェスターが答える。
「だからもう喋るな」
クラリスは小さく頷いた。
「……はい」
その声は、放送に乗らなかった。
番組は終わっていた。
ここからは、番組の外だった。
リヴァルの声が一気に実務へ戻る。
『医療搬送を開始。
管理棟へ戻れ。
報道陣が山麓ゲートに集まり始めている。
パズリア家の警備とこちらの防衛班で遮断する』
「もう来てんのか」
シェスターが顔をしかめる。
『生放送だった。来ない理由がない』
「そりゃそうか」
『シェスター、クラリスを動かす時は背面の停止装置に圧をかけるな。
織葉、装置の固定状態を維持しながら移動補助。
クリスティナ、遮蔽。
フィリアは歩行可能か』
フィリアは立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。
クリスがすぐに支える。
「無理ですわね」
「す、すみません」
「謝る必要はありませんわ。あれだけの盾を展開したのですもの」
シェスターが短く言う。
「フィリアも運ぶ」
『了解した。
優先順位はクラリス、フィリア。
織葉は停止装置。
クリスティナ、判断を補助してくれ』
「承知しましたわ」
クラリスはシェスターに支えられ、慎重に起こされた。
予備衣装と遮蔽布で体は覆われている。
円盤型の循環停止装置は、背中に固定されたままだ。
その外縁から伸びた固定爪は、まるで小さな杭のように見えた。
封印守護精霊との接続を断った杭。
クラリスを救った杭。
だが、いつまでも付けておけるものではない。
管理棟で外す必要がある。
報道陣が押し寄せる中で。
彼女がただの象徴ではなく、疲弊した一人の人間であることを隠しながら。
墓所を離れる時、クラリスはほんの少しだけ顔を上げた。
石畳。
墓標。
低木。
自分が歩き、語り、精霊として壊しかけ、フィリアが守った場所。
「……守って、くださったんですね」
フィリアは支えられたまま、顔を上げる。
「はい」
声は小さい。
「守れました」
クラリスは、目を細めた。
「ありがとうございます」
その一言で、フィリアはまた泣きそうになった。
織葉はその横で、まだ停止装置を支えていた。
まだ任務中。
まだ倒れてはいけない。
まだ尊死してはいけない。
その気力だけで、どうにか立っていた。
管理棟へ戻る道は、来た時とはまるで違っていた。
番組のドローンは、すでに大半が停止している。
残った一機は記録用に後方を飛んでいるだけで、もう放送用の動きはしない。
クラリスはシェスターに支えられ、クリスの遮蔽の内側を進む。
フィリアはクリスの肩を借りて歩き、時々足を止める。
織葉はクラリスの背中側に付き、円盤の状態を確認し続ける。
戦闘は終わった。
だが、緊張はまだ終わっていなかった。
山麓へ近づくにつれて、遠くのざわめきが聞こえ始める。
報道陣。
警備員。
パズリア家の管理スタッフ。
シェルター側の連絡班。
多くの人間が、ゲートの向こうで押し寄せている。
リヴァルの声が冷静に指示を出し続ける。
『正面ゲートは通らない。管理棟裏口へ回れ。報道陣との接触は禁止。
クラリス・パズリアの容体説明は
パズリア家広報とこちらで文面を統一する』
「了解」
シェスターが短く答える。
『織葉、停止装置の発光は』
「安定。弱まっています」
『あと三分で外せる。管理棟内の処置室へ入ったら、
僕の合図で固定爪を解除する』
「承知しました」
管理棟の裏口が開く。
中では医療スタッフとパズリア家の管理職員が待機していた。
クラリスを見るなり、何人かが息を呑む。
だが、声を上げる者はいなかった。
番組の外に戻った瞬間、彼女はもうカメラの前の象徴ではなく、
保護すべき人だった。
処置室へ運ばれる。
シェスターがクラリスを支え、クリスが遮蔽布を調整し、
織葉が背中の停止装置を保持したまま歩く。
フィリアは椅子に座らされ、すぐに水分補給用のパックを渡された。
「飲めるか」
シェスターが離れ際に聞く。
「はい……たぶん」
「たぶんじゃなくて飲め」
「はい」
フィリアは両手でパックを持ち、少しずつ飲んだ。
体中が重い。
アイギスを墓所全体へ広げた反動が、今になって押し寄せている。
でも、気持ちは不思議と静かだった。
守れた。
それだけで、今は十分だった。
処置室の中で、リヴァルの声が入る。
『停止装置、完全安定。封印守護精霊の反応は消失。接合点の再活性なし』
織葉はクラリスの背中側で膝をつき、円盤に手を添えた。
『固定爪を解除する。三、二、一』
円盤の外縁が淡く光る。
爪のように食い込んでいた固定部が、少しずつ緩む。
クラリスの肩が小さく跳ねた。
「っ……」
声にならない痛みが漏れる。
シェスターがすぐに言う。
「終わる。少しだけ耐えろ」
クラリスは目を閉じ、頷いた。
織葉は手を止めない。
止めた方が痛みが長引く。
そう判断している。
「解除完了」
円盤が外れる。
背中から離れた停止装置は、光を失い、織葉の手の中でただの器具へ戻った。
クリスがすぐに処置布を渡す。
医療スタッフが前へ出た。
ここから先は、彼らの仕事だった。
『織葉、離れていい。
クリスティナ、遮蔽維持。
シェスター、処置台へ移動補助。
フィリアはそのまま休め』
リヴァルの指示が続く。
作戦は終わっても、処理は終わらない。
報道への対応。
パズリア家への説明。
封印解除完了の正式発表。
マギアス軍の動向確認。
風の精霊反応の再検査。
クラリスの療養計画。
やることは山ほどある。
けれど、その中心で、クラリスは静かに横たわっていた。
命に別状はない。
だが、体力は大幅に削られている。
しばらくは療養が必要だろう。
医療スタッフが処置を始める前に、クラリスはほんの少しだけ目を開けた。
「……皆さん」
全員が彼女を見る。
「ありがとうございました」
かすれた声だった。
もう番組の声ではない。
それでも、クラリス・パズリアの言葉だった。
「おかげで……帰ってこられました」
クリスが胸に手を当てる。
「ご無事で、本当に何よりですわ」
フィリアは椅子に座ったまま、何度も頷いた。
「よかったです……本当に」
シェスターは腕を組んで言う。
「礼はいい。寝ろ」
クラリスは小さく笑った。
「はい」
その笑顔は弱々しかった。
けれど、放送で見せた笑顔より少しだけ素に近かった。
その瞬間。
織葉が限界を迎えた。
「……尊い」
一言だけだった。
それだけ言って、織葉の魂が抜けた。
姿勢は綺麗だった。
背筋は伸びている。
停止装置を持つ手も、きちんと安全な位置にある。
だが、目から光が消えていた。
完全にどこかへ行っている。
クリスがそっと顔を覗き込む。
「織葉様?」
返事はない。
「織葉様、戻ってきてくださいまし」
返事はない。
シェスターが眉をひそめる。
「こいつ、今の戦闘よりダメージ受けてねえか」
フィリアは水分補給パックを持ったまま、力なく笑った。
「たぶん……はい」
通信の向こうで、リヴァルが短く言う。
『医療対象ではない。放っておいていい』
「リヴァル君、冷たいですわ」
クリスが言った。
『医学的には正常だ』
「心は重症ですわ」
紫乃がいれば、きっと「めっ、よ」と言っただろう。
けれど、今ここに紫乃はいない。
だからクリスが、織葉の肩にそっと手を置いた。
「よかったですわね、織葉様。クラリス様は生きていらっしゃいます」
織葉の唇が、ほんのわずかに動いた。
「……生きて……おられる……」
「はい」
「微笑まれた……」
「はい」
「私に……ありがとうと……」
「全員にですわ」
「私に……」
「全員にですわ」
織葉はその場で静かに崩れ落ちた。
倒れ方まで綺麗だった。
膝をつき、両手を床につき、深く頭を垂れる。
まるで礼をしているようだった。
ただし、魂は抜けていた。
シェスターはため息をついた。
「戦闘中は一番まともだったのにな」
フィリアが小さく言う。
「クラリスさんの前だと、少し……」
「少しか?」
「……かなり」
クリスはにっこり笑った。
「そこが織葉様の愛らしいところですわ」
『処置室で騒がないでくれ』
リヴァルの声が飛ぶ。
「騒いでいるのは織葉様の魂ですわ」
『意味が分からない』
「戻ってこないという意味ですわ」
『なら回収してくれ』
クリスは織葉の肩を軽く叩いた。
「織葉様、魂の帰還命令ですわ」
織葉は床に両手をついたまま、かすかに答えた。
「……任務、達成……」
「それは先ほど聞きましたわ」
処置台の上で、クラリスが目を閉じたまま、ほんの少しだけ笑った。
その小さな笑みに、織葉の魂はさらに遠くへ飛んだ。
風の精霊の封印は解かれた。
クラリス・パズリアは生還した。
リヴァイヴ・プランは、また一つ前へ進んだ。
そしてその場には、世界を救う戦いを終えた直後とは思えないほど、どうしようもなく人間らしい空気が戻っていた。




