三章 八話
パズリア山のふもとにある管理棟は、よく整えられた静かな建物だった。
古い石材と新しい補強材が混ざった外壁。
管理用のゲート。
登山道へ続く案内板。
その前に、複数の撮影用ドローンが浮かんでいた。
小型のものが三機。
中継用の大きなものが一機。
音をほとんど立てずに高度を調整しながら、
クラリス・パズリアの周囲を緩やかに回っている。
クラリスはカメラの位置を確認し、いつものように微笑んだ。
「皆さん、こんにちは。クラリス・パズリアです」
声は明るい。
けれど、はしゃいでいるわけではない。
山のふもとに立つ彼女は、番組の司会者であり、
この土地の家の者でもあった。
「本日は、パズリア山のふもとからお届けしています。
先日の番組でも少しご紹介しましたが、
ここはパズリア家が代々管理してきた山であり、私にとっても、
とても大切な場所です」
背後に、山道の入り口が映る。
その道は整備されているが、観光用の広い道ではない。
管理のために使われてきた道だ。
「そして今日は、
リヴァイヴ・プランの最前線で活動するARKの皆さんと共に、
この山へ入ります」
ドローンの一つがゆっくり横へ流れた。
そこに映ったのは、織葉、クリス、シェスター、フィリアの四人だった。
全員、登山装備の上から戦闘装備を調整している。
軽量化された補助具。
携行用の水分。
応急キット。
封印解除のための装置。
そして、必要最低限の武装。
番組の画としては、かなり物々しい。
だが、クラリスはその空気を無理に隠さなかった。
「本日の登山は、通常の観光や散策ではありません。
安全管理区域の中を、許可を得た上で進みます。
一般の方が立ち入ることはできませんので、
決して真似をなさらないでください」
クラリスは一度、管理棟の職員に会釈した。
職員も深く頭を下げる。
ゲートが開いた。
「それでは、参りましょう」
その一言で、登山が始まった。
最初の道は、比較的緩やかだった。
左右には低い草と、湿り気のある土。
木々の間から差し込む光が、まだ明るい。
撮影ドローンは、クラリスの少し前を進むものと、
後方から全体を映すものに分かれた。
クラリスは歩きながら、道の脇へ視線を向ける。
「このあたり、山の低層には自生している植物も多いんです」
彼女は足を止めず、手でそっと道の脇を示した。
カメラが寄る。
若い葉。
細い茎。
山菜に近い形の植物が、草の間に顔を出している。
「昔はよく、家族で取りに来ました。
もちろん、採っていい場所といけない場所があるので、
管理の方に確認しながらですけれど」
クラリスは少し懐かしそうに笑った。
「今は、ここで管理されている食べられる植物の一部を、
シェルターの食料の足しとして寄付しています。
ほんの少しの量かもしれません。
でも、こういう場所にあるものも、
誰かの今日につながっていると思うんです」
フィリアがその言葉に、少しだけ目を伏せた。
シェルターの食料。
避難してきた人たち。
それは、オペレーション室の数字ではなく、
今は目の前の草の葉とつながっている。
クラリスは振り返り、フィリアへ声をかけた。
「フィリアさんは、シェルターの運営にも関わられていますよね。
こうした支援物資や食料について、
現場ではどのように扱われているのでしょうか」
突然カメラが向いた。
フィリアは一瞬だけ背筋を伸ばした。
「えっと……はい」
声が少し硬い。
けれど、逃げはしなかった。
「シェルターでは、届いた物資を種類ごとに記録して、
必要な区画へ分配しています。
量が多いものだけではなくて、少しの食材でも、
医療区画や子供のいる区画で役に立つことがあります」
「少しでも、ちゃんと届くんですね」
「はい。届いたものを無駄にしないようにしています」
クラリスは頷いた。
「ありがとうございます。こうした支援も、
リヴァイヴ・プランを支える現場の一部なんですね」
フィリアは小さく頷き返した。
「はい」
少し照れていた。
だが、答えはきちんとしていた。
後ろでシェスターがいつも通りの顔で歩いている。
カメラが向いても、歩幅も表情も変わらない。
クラリスはそれに気づき、今度はシェスターへ問いかけた。
「シェスターさんは、
こういった山道での護衛任務は慣れていらっしゃるんですか」
「護衛の場所は選ばねえからな」
シェスターは短く答えた。
「平地でも山でも、見るところは変わらねえ。
足元、死角、逃げ道。あとは、誰を守るか」
「とても実践的ですね」
「そうしねえと、間に合わねえからな」
あまり番組向けではない言い方だった。
けれど、妙な安心感があった。
クラリスは穏やかに笑う。
「頼もしいです」
「頼る前に、まず足元見て歩けよ」
シェスターは即座に言った。
クラリスは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「はい。気をつけます」
フィリアも少しだけ笑った。
一方で、織葉はまったく笑っていなかった。
正確には、表情を作ろうとして固まっていた。
クラリスがすぐ近くにいる。
しかも、今、普通に会話をしている。
その現実が、織葉の動きをかなり硬くしていた。
足運びは崩れない。
周囲への警戒も怠っていない。
だが、肩に入った力が、普段より明らかに強い。
クラリスがそれに気づかないはずがなかった。
「織葉さん」
「はい」
返事が早すぎた。
クリスが横で口元を扇子ではなく手袋の指で隠した。
クラリスは微笑みを崩さない。
「先ほどから、とても姿勢よく歩いていらっしゃいますね」
「恐れ入ります」
「山道は歩き慣れているんですか」
「はい。修練として山に入ることはあります」
声が固い。
完全に固い。
クラリスは柔らかく頷く。
「今日も、どうぞよろしくお願いします」
織葉は足を止めそうになった。
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
深く頭を下げようとした織葉の肩を、クリスがさりげなく押さえた。
「登山中ですわ、織葉様」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっています」
クラリスは楽しそうに目を細めた。
「お二人は、以前からのお知り合いなんですよね」
クリスは待っていましたと言わんばかりに笑った。
「ええ。こちらの織葉様に呼ばれて、協力しておりますわ」
「クリス」
織葉の声が少し低くなる。
「まあ、本当のことでしょう?」
クラリスはクリスへドローンを向ける。
「クリスティナさんは、今回どのような理由で参加を?」
クリスは軽やかに胸へ手を当てた。
「織葉様からお声がけいただきましたので」
「それだけですか?」
「それはもう、とても重要な理由ですわ」
クリスはにっこり笑う。
だが、そこで声を少しだけ落とした。
「けれど、もう一つ。
わたくしは、リヴァイヴ・プランが掲げる考えに興味がありますの。
敵を討ち倒すのではなく、救う。
壊すのではなく、戻す。
そういう戦い方を、実際にこの目で見たいと思いました」
軽やかな口調の奥に、芯があった。
クラリスは頷いた。
「ありがとうございます」
次にカメラは織葉へ向く。
「織葉さんは、どうしてこの作戦に?」
織葉は一瞬、言葉に詰まった。
クラリスに質問されている。
真正面から。
その事実が、明らかに織葉の喉を固くしていた。
だが、答える内容そのものには迷いがなかった。
「戦争であれば、私は相手にしません」
クラリスの表情が静かになる。
織葉は続けた。
「相手を斬り伏せ、勝者として上に立つだけの戦いであれば、
私がここにいる理由はありません。
ですが、これは救うための作戦です」
風が、木々の葉を揺らした。
織葉の声は硬いままだが、揺れてはいない。
「救うという武を体現したような作戦に、参加しない理由はありません」
クラリスはしばらく黙っていた。
それから、深く頷いた。
「ありがとうございます。織葉さん」
「い、いえ」
織葉は再び固くなった。
クリスが小さく笑う。
「今のところ、とても良かったですわ」
「黙りなさい」
「照れ隠しも優美ですわね」
「黙りなさい」
番組の空気は、まだ穏やかだった。
山道は少しずつ傾斜を増していく。
低い木々の間から、山肌が見え始めた。
クラリスは道の先を示す。
「ここから、少し傾斜が急になります」
カメラが上を向く。
石で整えられた階段が続いている。
段はやや高い。
大人なら問題ないが、子供には少し厳しい高さだった。
クラリスはその横にある脇道へ歩み寄った。
そこには、同じ石で作られた、段の低い階段が続いていた。
幅は狭い。
だが、丁寧に整えられている。
「この脇道の段の低い階段は、私が小さいころに作っていただいたものです」
ドローンが階段を映す。
「当時の私は、こちらの高い段差がどうしても登れなくて。
悔しくて泣いていたら、祖父が、では別の道を作ろうと言ってくれました」
クラリスは、低い段差の階段を見下ろした。
「子供のわがままのような話です。
でも、今では管理の方や、足腰に不安のある方が使う道にもなっています」
フィリアはその階段を見た。
高い段差を登れないなら、低い段差を作る。
それは、とても単純なことのようで。
でも、誰かがそうしてくれなければ、道にはならない。
クラリスはカメラへ向き直った。
「進めない人がいるなら、別の進み方を作ればいい。
私が小さいころ、この山に教えてもらったことの一つです」
シェスターが短く言う。
「いい祖父さんだな」
クラリスは少し目を細めた。
「はい。とても」
織葉はすでに感動していた。
完全に感動していた。
顔は引き締めているが、目が少し潤んでいる。
クリスが横目でそれを見る。
「織葉様」
「何ですか」
「泣いていらっしゃいます?」
「泣いていません」
「感動していらっしゃいます?」
「しています」
即答だった。
クラリスが笑った。
織葉は自分の返答に気づいて、わずかに固まる。
「……失礼しました」
「いいえ。嬉しいです」
クラリスの言葉に、織葉はさらに硬くなった。
階段を上がるにつれて、風が少し強くなった。
撮影ドローンが自動で高度を調整する。
フィリアは時々、
リヴァルから送られてくるマナ反応の補正データを確認していた。
通信は安定している。
まだ異常値はない。
リヴァルの声が、耳元の通信機にだけ入る。
『現在地、管理道第二分岐。
マナ反応は基準値内。
風向きに軽い乱れがあるが、地形由来として説明可能だ』
「了解しました」
フィリアは小さく答えた。
クラリスがそれに気づく。
「フィリアさん、今のはオペレーション室からの通信ですか」
「はい。リヴァルさんが、こちらの位置とマナ反応を見ています」
「今日は現地ではなく、オペレーションを?」
「はい。今回は私が現地に出ているので、リヴァルさんが全体を見ています」
クラリスはカメラへ説明するように頷いた。
「リヴァイヴ・プランの現場は、
目に見える場所だけで動いているわけではありません。
今も、オペレーション室から現地を支える人がいます」
フィリアは少し緊張しながらも、続けた。
「現場だけでは分からないこともあります。
マナ反応や通信、撤退路、周辺の変化は、
外から見ている人がいるから判断できます」
「フィリアさんも、
以前はオペレーターとして精霊戦に関わられたと伺っています」
その言葉に、フィリアの表情が変わった。
番組の柔らかい空気の中に、少しだけ重いものが入る。
「はい」
「精霊とは、どういう存在なのでしょうか」
フィリアはすぐには答えなかった。
視線が少しだけ、山の上へ向く。
「大きな力です」
短い言葉だった。
「ただ強いというだけではなくて、
周囲のマナや環境そのものを変えてしまうような存在です。
普通の敵とは違います」
クラリスは静かに聞いている。
「現場では、どう向き合うべきでしょうか」
フィリアは少し考えた。
「近寄らないことです。
指示があるまで動かないこと。
助けたいと思っても、自分の判断で近づかないこと」
それは、オペレーターとして見ていたフィリアの言葉だった。
画面の向こうで、誰かが危険に近づくのを見ていた人間の言葉。
シェスターが横から続けた。
「突然、人が化け物に変わる」
あまりにも率直な言い方だった。
クラリスも、クリスも、織葉も、フィリアも一瞬黙った。
シェスターは構わず続ける。
「冗談でも近寄ろうとするな。
知ってる顔でも、声が聞こえても、手を伸ばすな。
助けるのは、助け方を知ってる奴の仕事だ」
クラリスは、その言葉を否定しなかった。
「厳しい言葉ですね」
「優しい言葉で死なせるよりマシだ」
シェスターの返答は、いつも通りだった。
クラリスは少しだけ目を伏せ、それからカメラを見た。
「今の言葉は、どうか覚えておいてください。
危険な現場では、善意だけでは誰かを救えないことがあります。
だからこそ、現場の指示を守ることが大切です」
番組としての言葉に変えて、世界へ渡す。
それがクラリスの仕事だった。
道はさらに進む。
やがて、木々の間が少し開けた場所に出た。
そこには一本の低木があった。
他の木よりも背が低く、幹は太くない。
だが、枝ぶりはしっかりしていて、風を受けながらも折れる気配はない。
クラリスは、その前で足を止めた。
「この低木は、私が生まれた時に植えられたものです」
ドローンが木を映す。
葉が風に揺れている。
「家族が、私の誕生を記念して植えてくれました。
ですから、この木は、私と同じ年月をこの山で過ごしています」
クラリスは手を伸ばし、葉には触れず、少し離れたところで止めた。
「こうして、私と共に育っているんです」
織葉は完全に固まっていた。
感動が限界に達している。
クリスはそんな織葉を横目で見ながらも、自分も表情を柔らかくしていた。
フィリアは低木を見つめた。
同じ時間を生きてきた木。
人と土地を結ぶもの。
クラリスがパズリア山に引き寄せられる理由を、まだ言葉にしてはいけない。
だが、その一端は、この道のあちこちにあった。
クラリスは振り返る。
「私は、この山に育てられました」
風が吹く。
ドローンのマイクが、その音を拾った。
「だから今日は、この山で何が起きているのかを知りたいと思っています」
フィリアは、クラリスの横顔を見た。
その言葉は、番組の進行としては自然だった。
けれど、フィリアには分かっていた。
クラリスは、知らないふりをしているわけではない。
知った上で、まだ世界には言っていない。
今はまだ、登山番組でいい。
思い出を話し、現場の人へインタビューし、視聴者に山を見せる。
その穏やかな時間が、もう少しだけ必要だった。
墓地へ近づくにつれて、道は静かになった。
木々の密度が下がり、空が広くなる。
石の標識が立っている。
パズリア家墓所。
関係者以外立入禁止。
クラリスはその前で、一度足を止めた。
「ここから先は、パズリア家の墓所です」
声が少しだけ低くなる。
「通常、一般の方は入れません。
本日は特別な許可のもと、ARKの皆さんと共に進みます」
シェスターが周囲を見た。
「見通しは悪くねえな」
「風が強くなっています」
フィリアが端末を確認する。
リヴァルの通信が入る。
『墓所周辺に到達。
微弱なマナ反応の上昇を確認。
まだ危険値ではないが、以降は警戒を一段上げる』
「了解しました」
フィリアの声が、少しだけ引き締まった。
織葉の表情も変わる。
クラリスの前で固まっていた空気の中に、別のものが混じり始めた。
武人としての意識。
クリスも笑みを残したまま、視線だけを鋭くする。
クラリスはその変化を見ていた。
そして、カメラへ向き直る。
「ここまで、パズリア山の道と、
ARKの皆さんの活動についてお伝えしてきました」
ドローンがゆっくり上がる。
背後には、墓所へ続く石の道が映っている。
「この先で、私たちはさらに重要な調査へ入ります」
一拍置いて、クラリスは微笑んだ。
その微笑みは、先ほどまでより少しだけ静かだった。
「次は、パズリア家墓所からお伝えします」
彼女が歩き出す。
四人も続く。
そして撮影ドローンは、風に揺れる木々の上を滑るように進み、
墓所へ向かう石畳を映し出した。
パズリア家墓所は、山の上に作られた静かな場所だった。
石畳の道。
低く整えられた石垣。
風を遮りすぎないように間隔を空けて植えられた木々。
墓標は派手ではない。
けれど、一つ一つが丁寧に手入れされている。
ここが観光地ではなく、祈りの場所であることは、
カメラ越しにも伝わるほどだった。
撮影ドローンは、墓所の入り口で一度高度を落とした。
クラリスはそこで足を止め、静かに頭を下げた。
織葉も即座に頭を下げる。
クリスも続いた。
フィリアは少し遅れて、丁寧に礼をする。
シェスターだけは頭を下げるというより、周囲の警戒を崩さないまま、
墓所へ入る前に一度視線を落とした。
クラリスは顔を上げ、ドローンへ向き直る。
「ここが、パズリア家の墓所です」
声は穏やかだった。
先ほどまでの登山道を案内していた時より、少しだけ低い。
「本来、この場所を番組で詳しく映すことはありません。
ですが今日は、パズリア家の許可のもと、
必要な範囲だけを皆さんにお見せしています」
ドローンが墓所の全景をゆっくり映す。
特定の墓標へ寄りすぎないよう、距離を保っている。
その配慮が、かえってこの場所の重みを伝えていた。
「この山には、私の家族だけではなく、長い時間が眠っています」
クラリスは石畳を歩き始めた。
一歩一歩、迷いなく。
「小さいころ、私はよくここに連れてこられました。
騒いではいけない場所。
走ってはいけない場所。
けれど、怖い場所ではないと教えられました」
風が吹く。
木々の葉が揺れ、墓所の上を通り抜けていく。
「ここは、終わりの場所ではなく、
受け継いできたものに会いに来る場所なのだと」
クラリスの後ろを、四人がついていく。
番組として見れば、これは墓所の紹介だった。
パズリア山の歴史。
パズリア家の祈り。
クラリス・パズリアという人物が、どのような場所で育ってきたのか。
その説明として、何もおかしくない。
だが、現場にいる者たちは全員、別の緊張を抱えていた。
フィリアは歩きながら、手元のセンサーを開いていた。
レイアーツデバイスは肩に掛けている。
銃身下には、封印マナ抑制装置の下部マウント。
その重みが、いつもより強く意識に残る。
センサー画面には、墓所の地形とマナ反応が重ねられていた。
薄い風属性の揺らぎ。
地脈の流れ。
表層の残留マナ。
そして、その下にある、深い反応。
まだ見えきってはいない。
けれど、そこにある。
リヴァルの声が通信に入った。
『フィリア。センサー出力を二段上げて、
墓所中央の地下反応を確認してくれ』
「はい」
フィリアは声を抑えて答えた。
番組の音声には拾われない通信。
けれど、クラリスはそれに気づいていた。
彼女はドローンへ向けた説明を続けながら、少しだけ歩く速度を落とす。
「この墓所は、パズリア山の中でも特に風が通る場所です。
季節によって音が違うんですよ。
春はやわらかく、夏は少し湿っていて、秋は葉が鳴ります。
冬は……少し、寂しい音がします」
織葉は完全に聞き入っていた。
姿勢は正しい。
顔は真剣。
だが、目の奥が明らかに感動している。
クリスが横目でその様子を見る。
「織葉様」
「何ですか」
「今の表情、放送に乗っていますわ」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっていませんでした」
織葉は小声で答えた。
クリスは小さく笑い、すぐに表情を整える。
クラリスは、二人のやり取りに気づいているのかいないのか、歩きながら墓所の中央へ向かった。
墓所の中央には、円形に開けた石の広場があった。
周囲より少しだけ高くなっている。
風が通り抜ける。
そこに立つと、山の上にいることを強く感じた。
クラリスは広場の端で立ち止まる。
「この場所に立つと、いつも風が同じ方向から吹くような気がしていました」
彼女はそう言って、少しだけ上を向いた。
「もちろん、実際には季節や天候によって違います。
ただ、子供のころの私は、ここに来ると、
誰かが自分を呼んでいるような気がしていたんです」
フィリアのセンサーに、反応が走った。
画面の下層部。
墓所中央の真下。
そこに、今までより明確なマナ反応が浮かび上がった。
フィリアは息を呑む。
「リヴァルさん」
『確認している』
通信の向こうで、リヴァルの声がわずかに低くなる。
『墓所中央、地下深部。
封印核マナ反応を確認。反応位置は墓所直下でほぼ確定だ』
フィリアは画面を見つめた。
ここだった。
パズリア山。
墓所。
クラリスが何度も訪れた場所。
その真下に、封印核がある。
フィリアは小さく、けれどはっきりと言った。
「封印核は、墓所の真下です」
クラリスの声が止まった。
番組の進行が、一瞬だけ空白になる。
それでもクラリスは動揺を表に出さなかった。
ゆっくりとフィリアを見る。
そして、静かに頷いた。
「そうですか」
その一言だけだった。
織葉とクリスの表情が変わる。
先ほどまでの番組用の空気から、作戦の空気へと切り替わっていく。
シェスターは周囲の警戒を一段上げた。
「ここでやるんだな」
『そうなる』
リヴァルの声が、全員の通信に入る。
『織葉、クリスティナ。
封印解除機材を設置してくれ。墓所中央、フィリアのマーカー位置だ』
「承知しました」
織葉は即座に動いた。
先ほどまでクラリスの言葉に固まっていた人間とは、まるで違う。
動きに迷いがない。
腰の装備ケースを開き、封印解除機材の基部を取り出す。
クリスも軽やかに隣へ出た。
「こちら側の固定はお任せくださいませ」
二人は墓所中央へ進む。
織葉が地面の石の継ぎ目を確認し、機材の接地角度を決める。
クリスが補助具を広げ、封印マナの照射軸を合わせる。
番組のドローンは、その様子を少し距離を置いて映していた。
クラリスはドローンへ向き直る。
「今、ARKの皆さんが封印解除のための機材を設置しています」
声はまだ番組の声だった。
「これは、封印を壊すためのものではありません。
封印核に干渉し、閉じられていたマナの流れを、
人の手で制御しながら解いていくための装置です」
フィリアはクラリスの隣に立った。
いつでも退避できる位置。
シェスターも、クラリスの反対側にいる。
クラリスを挟む形。
前方には織葉とクリス。
後方には退避路。
フィリアはアイギスの出力を待機状態にした。
シェスターは短く言った。
「何かあったら、言われる前に下げるぞ」
クラリスは横目で彼を見る。
「はい。お願いします」
「返事がいいのは結構だが、足止めるなよ」
「分かりました」
クラリスは微笑んだ。
シェスターだけは、本当にいつも通りだった。
それが、少しだけありがたかった。
織葉が機材の固定を終える。
「設置完了。照射軸、指定位置に合わせました」
クリスも手元の表示を確認する。
「補助固定、完了ですわ。
花のように綺麗、とは言いませんけれど、十分に安定しております」
『十分だ』
リヴァルの声が返る。
『フィリア、封印核位置を再送。照射座標を固定する』
「送ります」
フィリアはセンサー結果をオペレーションへ送信した。
画面上で、墓所中央と地下の封印核反応が一本の線で結ばれる。
リヴァルが短く言う。
『座標固定。解除機材、起動準備』
空気が変わった。
それまで吹いていた風が、わずかに止んだように感じた。
クラリスはドローンを見た。
「皆さん。これから、封印解除のための装置が起動します」
声は落ち着いていた。
「どうか、この瞬間を見届けてください」
リヴァルの声が通信に入る。
『起動』
織葉が機材の最終ロックを外す。
クリスが補助制御を入れる。
墓所中央の装置に、淡い光が走った。
最初は細く。
次に、円形に。
石畳の上に描かれた光が、地下へ向かって沈んでいく。
『封印核にマナ進行中』
リヴァルの声は、いつも通り冷静だった。
『出力、安定。封印予定地点に、解除用マナの照射を開始』
フィリアはセンサーを見つめる。
光の線が、地下深くへ伸びていく。
墓所の真下にある封印核へ向かって。
クラリスはそれを見ていた。
自分の足元。
自分が何度も訪れた場所。
その下に、ずっとあったもの。
『封印マナの切削、順調』
リヴァルが続ける。
『解除用マナ、封印層へ到達。表層の削減を確認』
風が吹いた。
先ほどまでとは違う風だった。
墓所の石畳の上を、低く這うような風。
木々の葉が、一斉に同じ方向へ傾く。
シェスターの目が細くなる。
「来るか」
『前回と同じなら、そろそろ来るぞ』
リヴァルが言った。
その瞬間、クラリスが動いた。
フィリアはすぐに気づいた。
クラリスが、一歩前へ出ようとしている。
「クラリスさん?」
フィリアが声をかけるより先に、クラリスはフィリアの肩に手を置いた。
優しく。
押しのけるのではなく、そこにいてくださいと言うように。
反対の手が、シェスターの肩にも触れる。
「おい、何やってんだ」
シェスターが低く言った。
クラリスは答えなかった。
ただ、シェスターを止めるように片手を上げる。
その手は、もう人の手ではなかった。
白に近い羽毛が、手首から指先にかけて広がっている。
指は細く伸び、爪は鋭く、鳥の鉤爪のように変質していた。
フィリアの喉が震える。
「クラリスさん……」
ドローンが接近する。
クラリスは、まるでそれを待っていたかのように、カメラへ向き直った。
その表情は、まだクラリス・パズリアのものだった。
「皆さん」
声が届く。
世界へ。
「ここから先、私は、私でいられなくなる可能性があります」
フィリアは動けなかった。
シェスターも、踏み込む寸前で止まっている。
クラリスが止めたからではない。
今、彼女は話している。
自分の意志で。
世界へ向けて。
「事前の調査から、
私が風の精霊の人柱である可能性は高いと分かっています」
織葉が顔を上げた。
クリスも息を呑む。
クラリスの腕に、羽毛が広がっていく。
肩へ。
首筋へ。
衣装の輪郭が風に揺れ、映像保護の処理が自動でかかる。
ドローンは角度を調整し、彼女の顔と翼になりかけた腕だけを映した。
リヴァルが事前に組んでいた保護設定が、迷いなく作動していた。
それでも、クラリスの声は途切れない。
「もし私が精霊化したなら、私は自分の意志で抵抗することができません」
脚にも変化が及んでいた。
靴が風に弾かれ、足先が鋭い爪を持つ形へ変わる。
けれど、クラリスは倒れなかった。
細く息を吸い、カメラを見る。
「その時、ARKの皆さんは、私を止めることになります」
織葉の手が、装置のそばで強く握られた。
クリスは唇を噛んでいた。
フィリアはアイギスを展開しかけたまま、動けない。
シェスターが低く言う。
「クラリス」
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
「大丈夫です。まだ、話せます」
その声は、もう少し風に混じっていた。
人の声だけではない。
それでも、言葉は確かだった。
「もし、精霊化した私が死ぬことになっても」
フィリアの目が見開かれる。
織葉が顔を上げる。
「それを、ARKの皆さんの罪にしないでください」
風が強くなる。
クラリスの髪が揺れる。
毛先が伸び始めた。
一瞬で、肩を越え、背を流れ、風を受けて大きく広がる。
「彼らは、人類の未来のために戦っています」
右肩の後ろから、光を含んだ風が噴き上がった。
羽根が一枚。
また一枚。
右の翼が、広がる。
白く、長く、鋭い翼。
「誰かの上に立つためではありません」
左肩の後ろが震える。
風が渦を巻き、左の翼が生まれる。
「倒した相手を誇るためでもありません」
両翼が広がった。
墓所全体に影が落ちる。
クラリスはもう、人の姿から大きく離れ始めていた。
腕は羽をまとい、脚は鳥のような形へ。
髪は長く風になびき、瞳には人ではない光が宿り始めている。
それでも、彼女は最後までカメラを見た。
「それでも私は、未来を信じます」
風が彼女の体を持ち上げる。
フィリアが一歩踏み出しかける。
シェスターがその肩を掴んだ。
「まだだ」
その声は低い。
だが、震えてはいなかった。
クラリスは、最後に微笑んだ。
「どうか、見届けてください」
次の瞬間、風が爆ぜた。
クラリスの体が宙へ浮く。
右の翼が大きく振られる。
続いて左の翼が風を掴む。
長く伸びた髪が、白い尾を引くように空へ流れた。
彼女は墓所の上へ飛び立った。
人としてではなく。
風そのものに引き上げられるように。
フィリアのセンサーが、警告音を鳴らす。
『封印核の切削マナ、遮断』
リヴァルの声が通信に響いた。
『封印マナ、増大中。精霊と接続された』
空の上で、クラリスだったものが翼を広げる。
風が墓所を包む。
石畳の隙間から、封印マナが噴き上がる。
織葉が装置の前に立つ。
クリスがレイピアを抜く。
シェスターがフィリアをかばう位置に出る。
フィリアはレイアーツデバイスを構えた。
通信の向こうで、リヴァルが静かに言った。
『もう彼女の意識は、クラリス・パズリアじゃない』
空から、風の精霊がこちらを見下ろしていた。
『風の精霊だ』




