三章 六話
オペレーション室の壁面には、安全領域の地図が表示されていた。
いつもの作戦地図とは少し違う。
前線の霧濃度を示す赤や黒の帯ではなく、
無数の小さな点が地図を覆っている。
一つ一つは、ただの測定点だった。
市民が持った携帯センサー。
指定された場所で起動され、一定時間その場で測定され、送信された記録。
それが、地図の上で光の粒になっている。
点は街路に沿って並び、広場に集まり、山沿いの道で途切れ、
また別の安全確認済みルートで増えていた。
危険領域には入っていない。
立入禁止線の外側は、空白のままだ。
けれど、安全領域の内側だけなら、地図はほとんど埋まっていた。
「受信データ、一次整理が終わりました」
フィリアは端末から顔を上げずに言った。
彼女の前には複数のウィンドウが重なっている。
測定値。
位置情報。
測定時間。
端末番号。
センサー型式。
送信時刻。
同一地点の再測定記録。
それらを一つずつ確認し、条件の足りないものを保留へ移し、
明らかに重複したものを統合していく。
「測定時間が基準未満のものは保留。
移動ログと地点情報が合わないものも保留にしました。
あとは、同じ地点を複数の端末で測ったものを優先度高で残しています」
「十分だ」
リヴァルは中央卓の前で、別の端末を操作していた。
顔色は以前よりましになっている。
それでも、画面を見る目は鋭く、疲れを消したというより、
疲れを整理して端に寄せているように見えた。
「センサー型式ごとの補正を入れる。
旧型は微弱マナ反応を高めに拾う傾向がある。
新型は逆に、霧濃度が一定以上ある場所で反応を丸める」
「はい。旧型の測定群、補正後の値に切り替えます」
フィリアの指が動く。
地図上の点の色が、わずかに変わった。
赤だった点が黄色へ。
黄色だった点が白へ。
いくつかの候補表示が、静かに消える。
リオンは少し離れた位置で、前線調査記録と照合していた。
彼の端末には、M地点周辺の調査ログ、ポイント06の旧データ、
そして先日のダウンフォール発生時の霧流動記録が並んでいる。
「安全領域側の測定密度は十分です」
リオンが言った。
「少なくとも、主要経路周辺については空白がほとんどありません。
危険領域との境界付近はまだ粗いですが、
市民協力で得られる範囲としては限界に近いかと」
「だろうな」
ガイは腕を組み、大型画面を見ていた。
訓練後ではない。
今日は息も上がっていない。
けれど、その顔には別の種類の疲れがあった。
前線を知る人間が、地図の広さを見た時の顔だった。
「これを俺たちだけで潰してたら、何日かかるか分からねえな」
「移動と安全確認を含めれば、数日では終わりません」
リオンは淡々と答えた。
「しかも、前線戦力を安全領域側の確認に割くことになります」
「もったいねえって話か」
「はい。安全が確保された範囲なら、戦闘能力よりも、
指示を守って正確に測定することの方が重要です」
ガイは鼻から息を抜いた。
「クラリスの番組、効いたな」
その名前が出た瞬間、フィリアは少しだけ顔を上げた。
クラリス・パズリア。
市民協力調査の放送で、危険な場所へ行くことだけが協力ではないと言った人。
安全な場所から、正確な情報を集めることも、誰かを助ける力になると伝えた人。
その言葉で、人が動いた。
フィリアはその結果を、今、自分の端末で処理している。
「すごいです」
小さく呟いた。
「一人一人の測定は、小さいのに」
「小さいから数が必要だ」
リヴァルが言う。
「そして、数があるから誤差を消せる。
単体では信用しきれないデータでも、別の端末、別の時刻、
別の測定者が同じ傾向を示せば意味が出る」
「はい」
フィリアは頷いた。
「同じ地点の再測定で、波形が安定しているものを優先します。
人による揺れより、地点そのものの反応を見るために」
「そうだ」
リヴァルの返事は短い。
けれど、否定ではなかった。
任せられている。
フィリアはそれを感じながら、次のデータ群を処理した。
少し前まで、端末の前で自分が判断することに、こんなに自然にはなれなかった。
間違えたらどうしよう。
自分が触っていいのだろうか。
そういう不安が、指先を遅らせていた。
今も、不安が完全にないわけではない。
けれど、やることが分かっている。
何を見るべきか。
何を保留し、何を捨て、何を残すのか。
リヴァルが基準を示し、リオンが現場記録と照合し、
ガイが地図の広さを現実の足で測っている。
その中で、フィリアにも役割があった。
「南側旧街道沿い、封印核マナ候補から外します」
フィリアは言った。
「理由は」
リヴァルがすぐに聞く。
「同じ波形が、三地点で出ています。
でも、全部同じセンサー型式で、測定時刻も近いです。
補正前は近似反応に見えますが、型式補正後は通常の地脈ノイズに入ります」
「リオン」
「前線記録とも一致します」
リオンが即座に答えた。
「旧街道沿いは、以前から地脈ノイズが強い場所です。
封印核マナの波形として扱うには、芯が弱すぎます」
「除外する」
リヴァルが言う。
フィリアが確定操作を入れた。
地図上の候補点が、一つ消える。
ガイはその様子を見て、少しだけ眉を上げた。
「今の、一個消すだけでも結構手間かかるんだな」
「間違って消すと、後で戻る必要がある」
リヴァルは画面から目を離さずに答えた。
「だから、消す方が慎重になる」
「見つける方じゃなくてか」
「両方だ。
ただ、見つけたものは調べ直せる。
消したものは、消したと判断した理由が曖昧だと戻れない」
ガイは少し考えた。
「現場で通路を潰すのと似てるな」
リヴァルがわずかに視線を動かす。
「どういう意味だ」
「瓦礫の中で進める道を探す時、行けそうな場所はいくつもある。
でも、駄目だって判断して戻る時の方が怖い。
そっちに行けば助かったかもしれねえって、後から思うからな」
リオンが静かに頷いた。
「前線では、除外判断も記録します。
なぜ進まなかったのかを残さなければ、次の班が同じ場所で迷います」
「同じだ」
リヴァルは言った。
「データでも現場でも、消すには理由がいる」
フィリアはその言葉を聞きながら、次の候補群へ進んだ。
地図は少しずつ変わっていく。
最初は、どこも怪しく見えた。
安全領域に点在する弱い反応。
地脈の揺らぎ。
霧流動後の残留マナ。
古い観測施設の誤差。
市民センサーの個体差。
それらが重なって、地図にはたくさんの候補が生まれていた。
けれど、条件を重ねるたびに消えていく。
危険領域に近い北東境界。
保留。
旧輸送路沿い。
一部除外。
山麓の観測道。
再計算。
都市外縁の低地。
除外。
古い避難待機所周辺。
除外。
色が消える。
点が消える。
地図の上から、余計な光が少しずつ減っていく。
やがて、安全領域側の表示は大きく空いた。
残っているのは、危険領域側の未測定範囲。
そして、山岳地帯に近い一つの領域。
ガイが画面を見上げた。
「……山が残ったな」
誰もすぐには答えなかった。
リヴァルは地図を拡大した。
パズリア山。
その名前が、壁面に表示される。
フィリアは、画面の文字を見つめた。
少し前に、放送で見た山だ。
クラリスが、パズリア家の墓所を紹介していた場所。
羽の家紋。
石碑。
風が吹いているだけの場所。
彼女にとって大切な場所。
その山が、今は封印核マナ候補として地図の上に浮かんでいる。
「パズリア山……」
フィリアの声は小さかった。
リオンが端末を操作する。
「市民協力データの範囲では、山頂そのものには入っていません。
パズリア山頂は安全管理区域であり、私有地です。
測定点は周辺の許可区域、山麓、管理道路の外側に限られています」
「それでも反応が残るのか」
ガイが聞く。
「はい」
リオンは地図を拡大する。
「反応は弱いです。ですが、単純な地脈ノイズでは説明しきれません。
複数の方向から測定しても、
山側へ向かうほど波形が封印核マナの特徴に近づいています」
「濃いのか?」
「濃度は高くありません」
リオンは即座に答えた。
「むしろ、濃い反応を探すなら他の地点の方が目立ちます。
ただ、波形の芯が残っています」
「芯、か」
ガイは腕を組み直した。
「濃くはねえけど、消えねえってことか」
「その表現で合っています」
リヴァルは、さらに別の表示を重ねた。
闇の霧の流動予測。
封印解除後に変化した流れ。
山岳地帯を回り込むように動く低濃度の霧。
以前の予測線とは違う南側への分岐。
それらが、パズリア山周辺の地形と重なる。
「霧そのものの濃度は高くない」
リヴァルが言った。
「だが、霧の流れが変わっている。
封印解除後、周辺のマナ圧分布が変化した可能性はすでに報告されている。
パズリア山周辺は、その変化の境目に近い」
フィリアは端末を見る。
「封印核マナがあるなら、もっと強い反応が出るものではないんですか?」
「普通なら、そう考える」
リヴァルは答えた。
「ただし、封印核マナが表層にあるとは限らない。
地下深く、地脈の流れの中、あるいは別の反応に隠れている可能性がある。
弱いことは否定材料になるが、完全な否定にはならない」
「だから、消せない」
「そうだ」
フィリアはもう一度、地図を見る。
パズリア山の表示は残っている。
ほかの候補が消えたことで、かえってその一点だけが強く見えた。
けれど、それは強い反応だから残っているわけではない。
消す理由が足りないから残っている。
その違いが、少し怖かった。
ガイが低く言う。
「クラリスの家の山だろ」
「そうだ」
リヴァルは否定しなかった。
「だが、それは現時点では状況情報に過ぎない。
感情的な意味を載せる段階ではない」
「分かってる」
ガイは短く返す。
「ただ、偶然で片づけるには、いろいろ重なってきてる気がしてな」
リオンが端末を確認する。
「パズリア家の墓所、羽の家紋、山頂の風環境。
それらは文化的情報です。
直接の証拠ではありません」
「分かってるって」
ガイは苦笑した。
「お前ら二人とも、釘刺すの早いな」
「必要です」
リオンは真面目に答えた。
「印象で判断すると、候補を見誤ります」
「その通りだ」
リヴァルが言った。
「パズリア山が残った理由は、クラリスの家の山だからではない。
測定データから消せなかったからだ」
フィリアは、その言い方に少し安心した。
クラリスの大切な場所。
そう思うと、どうしても胸がざわつく。
けれど、リヴァルはそこに飛びつかない。
ガイも、軽くは扱わない。
リオンは、情報を証拠と印象に分けている。
だからこそ、フィリアもデータへ戻れた。
「パズリア山周辺の測定群、再分類します」
フィリアは言った。
「山麓、管理道路外側、南側観測点、東側谷沿い。四方向に分けます」
「やって」
リヴァルが答える。
「はい」
フィリアはデータを分けた。
四方向からの測定値が、別々のグラフとして表示される。
山麓側は弱い。
南側も弱い。
東側谷沿いは、霧流動の影響が混ざっている。
管理道路外側の測定値は数が少ない。
一見、ばらばらだった。
けれど、封印核マナの波形に近い部分だけを抽出すると、
四方向の線がわずかに同じ方へ傾いた。
山の内部。
あるいは、山頂側。
フィリアは喉の奥が小さく鳴るのを感じた。
「……完全には重なりません」
「見せて」
リヴァルが画面を拡大する。
「はい。でも、誤差を補正しても、山側へ向かう成分だけが残ります」
リオンが横から確認する。
「地形反射の可能性はあります」
「否定できない」
リヴァルが言う。
「風による霧流動の偏りも混ざっている。
センサーの向き、測定姿勢、山肌の反射、地脈ノイズ。
説明候補は複数ある」
「それでも、他の安全領域候補よりは残る」
リオンが静かに言った。
「そうだ」
リヴァルは認めた。
ガイが大きく息を吐く。
「回りくどいな」
「必要な回り道だ」
「いや、責めてるんじゃねえよ」
ガイは画面を見る。
「こういうのは、見た目が地味な方が怖いな。
派手な反応なら、行って叩けばいい。
薄くて、消えなくて、でも本命か分からねえ。
そういうのが一番嫌だ」
「前線でも同じです」
リオンが言う。
「明確な敵影より、不明な反応の方が判断を遅らせます」
「だよな」
ガイは顎に手を当てた。
「で、どうする。パズリア山へ行くのか」
リヴァルはすぐには答えなかった。
端末を操作し、地図上に残っている別の領域を表示する。
危険領域側。
市民協力データの届かない場所。
霧濃度が高く、立ち入りが制限され、前線班でなければ近づけない地点。
そこにも、いくつかの候補が残っていた。
測定値は少ない。
古い観測記録と、遠距離センサーの推定反応だけ。
それでも、消せない。
「先に、危険領域側の残存候補を確認する」
リヴァルは言った。
フィリアは少しだけ驚いて顔を上げた。
「パズリア山ではなく、ですか」
「パズリア山は安全領域側で最も説明が残る候補だ。
だが、危険領域側はデータ不足で残っている。
そこを確認しない限り、優先度を確定できない」
「でも、市民データでここまで絞れているなら」
「だからこそだ」
リヴァルはフィリアを見た。
「安全領域側は、数で潰せた。
パズリア山が残ったことには意味がある。
だが、危険領域側は数で潰せていない。
そこには、見えていないだけの候補があるかもしれない」
フィリアは言葉を飲み込んだ。
確かにそうだった。
安全領域の地図は、たくさんの人が歩いたことで埋まった。
けれど、危険領域は空白のまま。
空白は、何もないという意味ではない。
まだ見ていないという意味だ。
リオンが頷く。
「妥当です。パズリア山を優先候補として保持しつつ、
危険領域側の残存候補を前線調査で確認するべきです」
「だな」
ガイも頷いた。
「山が気になるから山へ行く、じゃ危ねえか」
「危険というより、雑だ」
リヴァルは言った。
「調査で雑な順番を選ぶと、後で判断を誤る」
ガイは苦笑した。
「言い方」
「事実だ」
「分かってるよ」
フィリアは端末に新しい分類を作った。
安全領域側候補。
パズリア山。
状態、残存。
危険領域側候補。
未測定。
状態、要前線調査。
その二つを並べると、状況が少しだけ整理された。
答えはまだない。
けれど、次にやるべきことは見えた。
「フィリア」
リヴァルが言った。
「パズリア山のデータは、消さずに別枠で保存して」
「はい」
「市民協力データの原本も保持。補正後だけでなく、補正前の値も残す」
「分かりました」
「リオン。危険領域側の残存候補から、前線調査可能な地点を三つまで絞って」
「了解しました」
リオンはすぐに端末を操作し始めた。
「ガイ。前線班の負荷を見て、調査順を組む」
「おう」
ガイは大型画面を見たまま答える。
「派手な戦闘じゃねえなら、リオンと紫乃さんを軸にした方がいい。
俺は重いセンサー持って中央で支える。
織葉は状況次第だな。
マギアス反応が濃い場所なら前に出てもらうが、薄いなら温存したい」
「採用するかは、調査候補を見てから判断する」
「分かってる。叩き台だ」
リヴァルは短く頷いた。
フィリアはそのやり取りを聞きながら、パズリア山のデータを保存した。
画面の中で、山の名前が小さく残る。
消えない候補。
けれど、まだ答えではない。
「リヴァルさん」
フィリアは少し迷ってから言った。
「もし、パズリア山が本当に関係していたら、クラリスさんには……」
言いかけて、止まった。
その先を、どう言えばいいのか分からなかった。
知らせるべきなのか。
知らせない方がいいのか。
大切な場所が、封印核マナの候補になっている。
それは、本人にとってどんな意味を持つのか。
リヴァルは数秒だけ黙った。
「現時点では伝えない」
答えは明確だった。
「不確定情報を伝えれば、不要な負担になる。
確度が上がった段階で、必要な形で伝える」
「必要な形」
「クラリスにとって、あの山はただの地点ではない。
だからこそ、曖昧な情報で揺らすべきではない」
フィリアは小さく頷いた。
「はい」
ガイが、少し意外そうにリヴァルを見た。
「そういうとこ、ちゃんと考えるんだな」
「失礼だな」
「いや、褒めてる」
「褒め方が雑だ」
ガイは笑った。
リオンは端末から顔を上げずに言う。
「ガイ班長の発言は、好意的評価と受け取って問題ないと思います」
「お前が翻訳するのかよ」
「必要でしたので」
「便利だなおい」
フィリアは思わず少し笑った。
重い地図の前で、少しだけ空気が緩む。
けれど、画面の中のパズリア山は消えなかった。
リヴァルは再び中央卓へ向き直る。
「まとめる」
その声で、全員の視線が戻った。
「市民協力データにより、安全領域側の封印核マナ候補は大幅に削れた。
測定密度は十分。
補正後も説明が残る地点は少ない」
壁面に、安全領域の地図が表示される。
「その中で、パズリア山周辺は候補として残存。
ただし反応は弱く、地形反射、霧流動、地脈ノイズの可能性を除外できない」
次に、危険領域側の地図が表示される。
白い空白が多い。
測定点は少なく、推定線は不安定だった。
「危険領域側は未測定範囲が多く、候補を除外できない。
よって、次は危険領域側の残存候補を前線調査で確認する」
リヴァルは画面を切り替えずに続けた。
「パズリア山は保留ではない。優先候補として保持する。だが、確定ではない」
その言葉は、オペレーション室に静かに落ちた。
パズリア山は、答えではない。
けれど、消えなかった。
フィリアはその違いを、端末の中に保存した。
ガイは大型画面を見上げたまま、低く呟く。
「消えねえ山、か」
リオンがすぐに反応した。
「記録名としては不適切です」
「分かってるよ。俺の感想だ」
「感想としては、理解できます」
「お前、たまに優しいな」
「事実を述べています」
ガイはまた少し笑った。
フィリアも、画面を見た。
安全領域の地図。
危険領域の空白。
そして、その境目に残る山。
前へ進んだ。
けれど、まだ終わっていない。
市民の足で、たくさんの候補が消えた。
それでも、踏み込めない場所がある。
見えていない場所がある。
消えていない山がある。
リヴァルは端末へ最後の一文を入力した。
パズリア山、候補として残存。
危険領域側調査後、再評価。
保存音が鳴る。
その小さな音が、次の任務の始まりのように聞こえた。
数日後。
危険領域との境界に近い調査地点は、地図上で見るよりも静かだった。
崩れた道路。
割れた防音壁。
半分だけ残った案内標識。
その向こうには、薄く黒ずんだ霧が低く流れている。
高濃度ではない。
だが、安全領域の中で見る霧とは違う。
そこにあるだけで、空気の重さが変わる。
「測定値、安定しましたわ」
クリスティナ・アドレメリアは、片手に持った携帯センサーを確認して言った。
赤いショートドレスの上から、調査用の薄い外套を羽織っている。
腰にはいつものレイピア。歩くたびに、装飾された鞘が小さく揺れた。
見た目だけなら、危険領域近くの調査地点にはまるで似合わない。
けれど、その手元は意外なほど確かだった。
測定地点に立つ。
センサーを水平に保つ。
起動後は動かさない。
指定時間が終わるまで待つ。
異常値を自己判断しない。
クラリスの番組で紹介されていた市民協力調査の手順を、
クリスはきちんと守っていた。
「クリスちゃん、意外と丁寧ねえ」
少し離れた場所で、紫乃が周囲を見ながら言った。
黒い外套の裾が、風に揺れる。
その姿は気楽そうに見えるのに、足音がほとんどしない。
視線は柔らかいまま、壊れた建物の窓、道路脇の影、
遠くの霧の流れを順に見ている。
「意外とは失礼ですわ、紫乃様」
クリスはセンサーを胸元で支えたまま、つんと顔を上げた。
「クラリス様が直々に分かりやすくご説明されていたのですもの。
動かさない、急がない、勝手に判断しない。
きちんと覚えておりますわ」
「最後が一番大事ね」
「もちろんですわ」
紫乃は微笑んだ。
「その言葉、後でも覚えていてね」
クリスは少しだけ目を瞬かせた。
「後で?」
「なんでもないわ」
その横で、織葉は膝を落として地面の亀裂を見ていた。
手には別のセンサー。
カタナアーツデバイスは腰にある。鞘に収まっているが、
彼女の姿勢はいつでも抜けるものだった。
「こちらも測定終了です」
織葉は立ち上がり、端末を確認する。
「地表マナ反応、薄いです。封印核マナとして見るには、芯がありません」
『データ受信』
通信越しにリヴァルの声が入る。
オペレーション室からの通信だ。
『三地点とも、こちらで確認した。候補反応は残るが、優先度は低い。
次の測定地点へ移動して』
「承知しました」
織葉が答える。
クリスも優雅に頷いた。
「承知しましたわ」
紫乃は二人を見て、少しだけ肩をすくめた。
「はいはい。おばさんもついていきます」
三人は道路跡を進んだ。
周囲には、人の気配がない。
正確には、人が住んでいた痕跡だけがある。
曲がった街灯。
錆びたフェンス。
壁に残った古い広告。
かつては安全領域に近い生活圏だったのだろう。
今は、境界の向こう側に押し出され、霧と瓦礫の間に置き去りにされている。
『そこから先は、マギアス軍の活動域に近づく』
リヴァルの声が、三人の通信機に同時に届いた。
『繰り返しになるが、改めて説明する。聞いてほしい』
「はい」
織葉が短く返す。
「もちろんですわ」
クリスも続ける。
紫乃は歩幅を変えずに言った。
「どうぞ、リヴァルくん」
『今回、四人編成にしなかった理由はそこにある。
人数を増やせば安全になるわけではない。
この領域では、接敵後に追撃戦へ移行する可能性が高い』
リヴァルの声は、淡々としていた。
『四人目以降が足並みを乱した場合、撤退率が下がる。
今回の目的は調査だ。
戦闘ではない。
戦闘が発生した場合も、最優先は生存と撤退になる』
「承知しております」
織葉は前方を見たまま言った。
『君たち三人は、単独判断で動ける。
互いの間合いを潰さない。
戦闘になった場合、四人以上で動くより、生存率と撤退率が高い』
「つまり、少数精鋭ですわね」
クリスが少し楽しそうに言う。
『見栄えの問題ではない』
「見栄えも士気に関わりますわ」
『関わらない』
「まあ。厳しい」
紫乃がくすくす笑った。
「織葉ちゃん、クリスちゃん」
二人が同時に紫乃を見る。
紫乃は柔らかく微笑んだまま、釘を刺すように言った。
「おばさん、あんまり無理できないから、気をつけてね」
「承知しました」
「もちろんですわ」
二人の返事は、きれいに揃っていた。
その直後だった。
どさり、と音がした。
紫乃はゆっくり振り返った。
崩れた壁の影から、一人のマギアス兵が倒れていた。
黒い装備。
薄い霧に紛れる外套。
手には小型の通信機器。
その首筋に、織葉の鞘が軽く触れていた。
織葉は刀を抜いていない。
抜くまでもなかったらしい。
紫乃は数秒だけ黙った。
「織葉ちゃん?」
「はい」
「何してるの。慎重にって言ったばかりじゃない」
「いえ」
織葉は当然のように答えた。
「そこに居ましたので。この方が安全かと」
「安全」
紫乃は倒れたマギアス兵を見る。
兵は完全に気を失っていた。外傷はない。
首の神経だけを正確に落とされている。
「たしかに、今この方は安全ね」
クリスが近づき、兵の手元を覗き込んだ。
「まあ。通信機器をお持ちですわ」
紫乃は額に指を当てた。
「あら、本当。これ、実質インターフォンを押したようなものよ」
『どういう意味ですか』
オペレーション室のフィリアの声が入る。
紫乃は倒れた兵の通信機器を軽く持ち上げた。
「この子が定時連絡を返さなければ、向こうは様子を見に来るわ。
こちらから押したつもりはなくても、
玄関先の呼び鈴は鳴ったようなものね」
通信の向こうで、少しだけ沈黙があった。
リヴァルの声が低くなる。
『その場から離脱を――』
「でしたら」
クリスがぱっと顔を上げた。
「わたくしたちがおじゃませねば、かえって迷惑になりませんわね」
『ならない』
リヴァルの返答は即座だった。
「まあ。即答ですのね」
「クリスちゃん」
紫乃が言う。
「はい」
「その理屈は、かなり危ないわ」
「ですが、お客様を待たせるのも失礼ですわ」
「呼んでないお客様よ」
織葉は前方へ視線を向けた。
「来ます」
空気が変わった。
霧の向こうで、足音が複数。
崩れた道路の先、傾いた防音壁の裏から、黒い装備の兵士たちが現れる。
五名。
いや、背後にもう二名。
小隊規模。
それぞれが短銃型のガンアーツデバイスを構え、二人は拘束具を持っている。高所には影が一つ。半壊した監視塔の上に、狙撃役がいた。
普通の調査班なら、即座に後退を選ぶ状況だった。
包囲される前に距離を取る。
射線を切る。
応援を待つ。
それが基本だ。
だが、今回の三人は、普通の調査班ではなかった。
「確認する」
織葉が言った。
「殺傷は避けます」
「当然ですわ」
クリスがレイピアの柄へ手を添える。
「お帰りいただくだけですもの」
紫乃はため息をつきながら、指先に細い針を挟んだ。
「はいはい。おばさんは後ろを見ておくわね」
マギアス兵の一人が叫ぶ。
「人間側の調査班だ! 捕獲しろ!」
ガンアーツが火を噴いた。
弾丸は実弾ではない。
非致死性の衝撃弾。
人体を貫くほどではないが、まともに受ければ骨を軋ませ、動きを止める威力がある。
最初の三発が、織葉の膝、肩、足元を狙って飛ぶ。
織葉の姿が消えた。
いや、消えたように見えた。
実際には、半歩前へ出て、身体をひねり、弾の間を抜けている。
次の瞬間、前衛の一人の手からガンアーツデバイスが弾け飛んだ。
抜刀音は、遅れて聞こえた。
「一名、武装解除」
織葉は淡々と言う。
その横で、クリスのレイピアが赤い花弁を散らした。
「ブロッサムフォーム」
剣先に火が咲く。
花弁のような火の粒が、突きの軌跡に沿って広がり、二人のマギアス兵の視界を塞いだ。
彼らが反射的に腕で顔を庇った瞬間、クリスはその間へ滑り込む。
一人の足首を払う。
もう一人の拘束具だけをレイピアの柄で弾く。
火の花弁が足元で小さく弾け、二人は同時に地面へ転がった。
「二名、お休みですわ」
「転倒です。制圧ではありません」
織葉がすぐに言った。
クリスはにこりと笑う。
「では、今から制圧いたします」
転がった二人が起き上がる前に、火の花弁が手首の装備だけを焼き切った。
クリスは優雅に一礼する。
「制圧完了ですわ」
「……数え方が甘いです」
「まあ。悔しいのですか?」
「正確性の話です」
紫乃は監視塔の上を見上げていた。
高台の射手が、二人のやり取りに気を取られた一瞬。
細い針が風に紛れて飛ぶ。
射手の首元に、ほんの少しだけ触れた。
「え」
射手はそれだけ言って、膝から崩れた。
眠毒。
効きは早い。
落下する前に、紫乃が壁を蹴って上がり、襟首を掴んで監視塔の内側へ転がした。
「はい、高いところは危ないから寝ていましょうね」
『高所反応、一つ沈黙』
フィリアの声が通信に入る。
『紫乃さんですか?』
「ええ。ちょっと子守りを」
『子守り』
フィリアの声が困惑する。
その間にも、戦闘は進んでいた。
残ったマギアス兵は撤退しようとした。
だが、撤退方向に織葉がいる。
横へ逃げればクリスの火の花弁が進路を塞ぐ。
後方へ下がれば紫乃の針が待っている。
小隊長らしい男が、歯を食いしばった。
「前線基地へ戻れ! 増援を――」
言い切る前に、織葉の鞘が鳩尾へ入った。
男の息が止まる。
だが、彼は倒れなかった。
膝をつきながらも、腕の通信機へ手を伸ばす。
クリスの目が少しだけ輝いた。
「まあ。今のを耐えますのね」
織葉も、わずかに目を細める。
「受けが遅れたにもかかわらず、意識を保つとは」
紫乃が二人を見た。
「二人とも?」
クリスは一歩進んだ。
「少しは踊れる方ですわね」
織葉も一歩進んだ。
「では、こちらで」
「いいえ、ここはわたくしが」
「私の間合いです」
「わたくしの花道ですわ」
「二人とも」
紫乃の声が、少しだけ強くなった。
しかし、その時にはもう、マギアス兵の奥から別の通信が聞こえていた。
『第二班、応答しろ。何が起きた』
『調査班を確認した。捕獲対象を――』
『基地へ誘導しろ。こちらで包囲する』
紫乃は通信機器を拾い、目を細めた。
「前線基地、近いわね」
リヴァルの声がすぐに入る。
『現在地から距離は?』
「走ればすぐ。歩けば少し」
『数値で』
「おばさんの感覚だと、二、三分」
『曖昧です』
「急いでる時の二、三分よ」
織葉とクリスが、同時に前を見た。
撤退した兵が一人、霧の奥へ走っていく。
基地の方向。
織葉の足が動く。
クリスの足も動く。
紫乃は手を伸ばした。
届かなかった。
「二人とも、待ちなさい」
「追跡します」
「おじゃまいたしますわ」
『深追いは避けて』
リヴァルの声が鋭くなる。
だが、二人はもう走り出していた。
霧の中で、赤い花弁と白い外套が並ぶ。
紫乃は一度だけ空を見上げた。
それから通信を入れる。
「ごめんなさいね、リヴァルくん」
『戻してください』
「おばさん、あの子たちを止めて戻れるほど強くないから、サポートするわ」
通信の向こうで、長い沈黙があった。
そして、リヴァルが息を吐く音が聞こえた。
『……無理はさせないように。ミス・シノだけが頼りです』
「あら。頼られちゃった」
『本気です』
「分かってるわ」
紫乃の目が、少しだけ細くなる。
「二人とも、怪我はさせない」
『基地規模を確認でき次第、報告を』
「はいはい」
紫乃は走り出した。
足音は、やはりほとんどしなかった。
前線基地は、旧物流施設を改造したものだった。
半壊した倉庫を外壁代わりに使い、内部に仮設の通信設備と簡易兵舎を置いている。
高台には二か所の監視足場。
入口には簡易バリケード。
小規模だが、境界領域の監視拠点としては十分だった。
普通なら、三人で突っ込む場所ではない。
「入口、二名」
織葉が言う。
「高台、三名ですわ」
クリスが続ける。
「奥に通信設備。増援呼ばれる前に止めるわよ」
紫乃が後ろから言った。
「突撃しないでね、って言っても、もう遅いわね」
「では、迅速に」
「では、華麗に」
織葉とクリスは同時に踏み込んだ。
入口のマギアス兵が構える。
ガンアーツの銃口が二人を捉えるより早く、織葉が間合いを潰した。
抜刀。
刃は身体を斬らない。
武器の接続部だけを断つ。
一人の銃身が落ち、もう一人の肩装甲が外れる。
そのまま鞘が顎先を打ち、二人は膝から崩れた。
「二名」
織葉が言う。
その横をクリスが抜ける。
「では、こちらも二名」
「今のは私が崩しました」
「倒したのはわたくしですわ」
「武装解除は制圧に含めます」
「では、花弁で囲った分も含めますわ」
「含めません」
「含めますわ」
紫乃は入口脇の影にいた兵の首筋へ、軽く針を当てた。
「はい、あなたは数えないでおきましょうね。ややこしくなるから」
兵が静かに倒れる。
基地内で警報が鳴った。
赤い照明が点滅し、奥から兵士たちが飛び出してくる。
ガンアーツ。
拘束具。
短剣型のアーツデバイス。
簡易盾。
相手は弱くない。
境界領域の前線基地に置かれるだけの兵だった。
判断は早く、連携もある。
銃撃で足を止め、盾で進路を塞ぎ、拘束具持ちが横から入る。
普通の前線班なら、十分に厄介な相手だ。
ただ、相手が悪かった。
「その盾、角度が甘いです」
織葉のカタナが走る。
盾そのものは斬らない。
持ち手の留め具だけが外れた。
盾が床へ落ちる。
その隙間へ、織葉の鞘が入る。
鳩尾。
首筋。
膝裏。
三人が順に崩れる。
「この剣筋は、昨日までの型とは違います」
織葉は淡々と言った。
「踏み込みの角度を半歩変えました。相手の防御反応が、わずかに遅れます」
クリスは別方向で、火の花弁を咲かせていた。
「まあ。半歩で語るなら、わたくしの乱れ突きも昨日のままではありませんわ」
レイピアの先端が揺れる。
一つの突きに見えたものが、三つに分かれた。
マギアス兵が腕で受けようとした時には、突きはもう手首の装備を弾き、
足元の火の花弁が小さく弾けて姿勢を崩している。
「花弁の開き方を三枚増やしましたの」
「枚数で精度は上がりません」
「見栄えは上がりますわ」
「見栄えで敵は倒れません」
クリスの背後で、火の花弁に囲まれた二人が同時に転んだ。
「倒れましたわ」
「今のは足場制御です」
「つまり倒れましたわ」
高台から銃撃が来る。
非致死性の衝撃弾。
だが、頭や膝に当たれば十分に危険だ。
紫乃は壁際を滑るように移動した。
一発目を柱で切る。
二発目の軌道を見て、足場を蹴る。
三発目が放たれる前に、監視足場の下へ入る。
上にいる射手は、紫乃を見失った。
「どこへ――」
声が終わる前に、紫乃は背後にいた。
「高いところから若い子を撃つのは、めっ、よ」
首筋に針。
射手が眠る。
隣の射手が振り向く。
紫乃はにこりと笑った。
「あなたもね」
二人目も倒れる。
残った一人が通信機へ手を伸ばす。
紫乃はその通信機に小さな札を貼った。
雑音が走る。
「増援要請、少しだけ迷子になってもらうわね」
『こちらフィリアです』
オペレーション室から、少し焦った声が入る。
『基地内部のマギアス反応、急速に減少しています。
えっと、これは……制圧、ですか?』
『状況を正確に報告して』
リヴァルの声は落ち着いている。
落ち着いているが、少し硬い。
『はい。外周反応、半数以下。高所反応、沈黙。内部反応も減少中です』
通信の向こうで、少しだけ間があった。
『予定では、基地制圧は作戦内容に含まれていない』
フィリアが小さく言う。
『ですよね……』
基地の内部では、織葉とクリスの言い合いが加速していた。
「先ほどの三名は、明らかに私が先でした」
「ですが、わたくしは同時に視界制御も行っておりましたわ。
芸術点を加味すべきです」
「戦闘に芸術点はありません」
「ありますわ」
「ありません」
「あります」
「ありません」
言いながら、二人は敵を倒していく。
織葉のカタナは、相手の武装だけを落とす。
刃が通るたびに、ガンアーツの銃身、拘束具の留め金、
短剣型デバイスの触媒部が正確に外れる。
人は斬らない。
だが、戦う力だけを奪う。
クリスのレイピアは、敵の進路を支配する。
火の花弁が床に咲き、壁に散り、通路を塞ぎ、逃げ道を変える。
兵士たちは自分の判断で動いているつもりで、
いつの間にかクリスが望んだ場所へ追い込まれていた。
そこへ、織葉の鞘が来る。
あるいは、クリスの柄が入る。
そして、倒れる。
紫乃はその後ろで、逃げようとした者、通信しようとした者、
高台から狙う者だけを静かに落としていった。
「はい、そちらは行き止まり」
眠毒。
「通信は後にしましょうね」
札。
「起きたら腕が痺れているけれど、死なないから安心してね」
関節。
彼女は派手に戦わない。
けれど、彼女がいるせいで、敵は逃げられない。
増援も呼べない。
高所も使えない。
結果として、織葉とクリスが好きなだけ前へ進める。
「紫乃様」
クリスが振り返った。
「そちら、何名ですの?」
「おばさんは数えないわ」
「まあ、ずるいですわ」
「ずるくないの。あなたたちが数えすぎなの」
織葉は真面目に言った。
「戦果確認は重要です」
「戦果確認と競争は違うわよ、織葉ちゃん」
「競争ではありません」
クリスが即座に言う。
「そうですわ。研鑽ですわ」
紫乃は額に手を当てた。
「言い方を変えても、めっ、に近づいてるわよ」
基地の奥、広場のように開けた場所に出た。
旧物流施設の荷捌き場だったらしい。
天井は半分崩れ、空が見える。床にはコンテナの残骸が並び、
その中央に簡易指揮卓と通信装置が置かれていた。
残っていた兵士たちが、そこへ集まっている。
十数名。
基地の最後の戦力だった。
その中心に、隊長格の男が立っていた。
「三人だと……?」
男は信じられないという顔をした。
「三人で、基地の外周を抜いたのか」
織葉はカタナアーツデバイスの柄へ手を添える。
「降伏を推奨します」
クリスはレイピアを構え、微笑んだ。
「これ以上は、お互いにお洋服が汚れますもの」
紫乃は少し後ろで、針をしまった。
「本当に、降伏してくれると助かるわ。
おばさん、そろそろ叱る準備もしないといけないから」
隊長格の男は歯を食いしばった。
「撃て!」
ガンアーツが一斉に構えられる。
衝撃弾の光が走った。
織葉が前へ出る。
クリスが横へ滑る。
紫乃が後ろで指を鳴らす。
織葉のカタナが、最初の弾道の間を抜けた。
弾を斬るのではない。
弾が飛ぶ前に、銃口の向きをずらす。
一人目。
二人目。
三人目。
クリスの火の花弁が、広場の床を赤く染める。
弾道の先に火が咲き、兵士たちは反射的に狙いを変える。
その変えた先に、織葉はいない。
クリスもいない。
紫乃の札が、通信装置へ貼りつく。
雑音が鳴る。
高台に残っていた最後の射手が、引き金を引く前に眠った。
広場の戦闘は、長くは続かなかった。
織葉が前衛を崩す。
クリスが中衛を絡め取る。
紫乃が後衛と通信を潰す。
隊長格の男が最後に短剣型のアーツデバイスを抜いた。
黒い霧が刃に絡む。
マギアス化した腕が膨れ、皮膚が硬質化する。
「舐めるな、人間が!」
男が踏み込む。
速い。
ここまでの兵とは違う。
織葉の目が細くなった。
クリスの笑みも、少しだけ深くなる。
「私が」
「わたくしが」
二人の声が重なった。
紫乃が即座に言う。
「二人とも?」
隊長格の刃が振り下ろされる。
織葉のカタナがそれを受け流す。
同時に、クリスのレイピアが男の手首の装備を突く。
刃の軌道がずれる。
男の体勢が崩れる。
織葉の鞘が鳩尾へ入る。
クリスの火の花弁が足元で弾け、踏ん張りを奪う。
男は膝をついた。
それでも立とうとする。
紫乃が背後へ回り、首筋へ軽く指を当てた。
「はい、おしまい」
眠毒が入る。
隊長格の男は、そのまま前のめりに倒れた。
広場に静けさが落ちる。
残ったのは、倒れたマギアス兵たち。
壊れていないが、使えなくなった武器。
雑音を吐く通信装置。
そして、中央で向かい合う織葉とクリスだった。
「今の決定打は私です」
「いいえ、わたくしですわ。
手首を止めなければ、織葉の鞘は入りませんでしたもの」
「手首を止めた時点では、制圧に至っていません」
「でも、流れを作りましたわ」
「流れを作ったのは、私の受け流しです」
「受け流しだけでは倒れませんわ」
「突きだけでも倒れていません」
「では共同撃破ですわね」
「割合を決める必要があります」
「五対五ですわ」
「六対四です」
「まあ。強欲」
「正確です」
オペレーション室では、フィリアが画面を見つめたまま固まっていた。
地図上のマギアス反応が、一つ、また一つと消えていく。
消失ではない。
捕縛、または戦闘不能反応。
生命反応は残っている。
けれど、戦闘反応はない。
基地外周。
沈黙。
高所。
沈黙。
内部。
沈黙。
中央広場。
沈黙。
フィリアは数秒かけて、報告の言葉を探した。
「マギアス反応……なくなりました」
リヴァルは黙っていた。
フィリアはもう一度画面を確認する。
「基地、殲滅完了です……」
言ってから、自分でも少し表現が強すぎると思った。
けれど、画面上ではそうとしか見えない。
三人で、前線基地が落ちていた。
リヴァルは端末の前で、長い沈黙を置いた。
ため息すら出ない、という顔だった。
「僕の考えた作戦は調査だ」
誰にともなく言う。
「基地の制圧じゃない……」
フィリアは何も言えなかった。
現場では、紫乃が中央広場へ歩いていた。
織葉とクリスはまだ言い合っている。
「六対四です」
「五対五ですわ」
「では、最初の外周二名を私に加算します」
「それなら入口の花弁誘導をわたくしに加算します」
「誘導は制圧ではありません」
「制圧に至る美しい準備ですわ」
紫乃は二人の前に立った。
にこりと笑う。
織葉とクリスが同時に口を閉じた。
紫乃は右手を上げる。
こつん。
織葉の頭に軽く落とす。
次に左手。
こつん。
クリスの頭にも落とす。
痛くはない。
だが、二人は揃って少しだけ背筋を伸ばした。
「ふたりとも」
紫乃は優しく言った。
「めっ、よ」
織葉が視線を落とす。
「……申し訳ありません」
クリスも少しだけ唇を尖らせた。
「……申し訳ありませんわ」
「組織で動いているんだから、勝手な行動はめっ、だからね」
「はい」
「はいですわ」
「調査任務だったの。基地制圧任務じゃないの。分かる?」
「分かります」
「分かっておりますわ」
紫乃は二人を順に見た。
「本当に?」
二人は少しだけ黙った。
紫乃はもう一度、にこりと笑う。
「返事が遅いわね」
「……分かります」
「……分かっておりますわ」
通信の向こうで、リヴァルが静かに言った。
『ミス・シノ』
「なあに、リヴァルくん」
『ありがとうございます』
「どういたしまして」
紫乃は倒れたマギアス兵たちを見渡した。
全員、生きている。
武装は解除済み。
通信は封じた。
増援要請も飛んでいない。
織葉とクリスは、叱られて少しだけ大人しくなっている。
状況としては、収まっている。
収まってはいる。
「ただし」
リヴァルの声が続いた。
『帰還後、三人とも報告書を提出してください』
クリスが顔を上げる。
「まあ。三人ともですの?」
『三人ともです』
織葉が真面目に頷いた。
「承知しました」
クリスは少し考えた。
「戦果報告書ですわね」
『反省報告書です』
「まあ」
紫乃は小さく笑った。
「おばさんも?」
『ミス・シノは状況経緯書です』
「あら、少し優しい」
『止めきれなかった理由も含めてください』
「急に優しくなくなったわね」
フィリアは通信の向こうで、ようやく少しだけ息を吐いた。
画面上では、前線基地が沈黙している。
三人の生体反応は安定。
負傷反応なし。
周辺のマギアス反応なし。
調査任務は、予定とは違う形で進んでいた。
違いすぎる形で。
リヴァルは端末に記録を入れる。
危険領域側調査中、マギアス軍前線基地と接触。
現地判断により、基地戦力を無力化。
戦闘不能多数。
死亡反応なし。
通信設備、一時沈黙。
リヴァルは最後の行を入力する前に、少しだけ止まった。
それから、低く呟く。
「武芸者の上澄みは、作戦書の想定を超える」
フィリアが聞こえたのか聞こえなかったのか、困ったように笑った。
現場では、紫乃がまだ二人を見ていた。
「それで、織葉ちゃん。クリスちゃん」
「はい」
「はいですわ」
「帰るまでが任務よ」
「承知しました」
「もちろんですわ」
紫乃は二人の返事を聞いてから、倒れた隊長格の男へ視線を向ける。
「じゃあ、後片づけをしましょう。勝手に散らかした分は、ちゃんと片づけないとね」
織葉とクリスは、今度こそ素直に頷いた。
「はい」
「はいですわ」
霧の薄い前線基地に、赤い警報灯だけが点滅している。
その中央で、三人はようやく調査班らしく動き始めた。
基地を壊滅させた後で。




