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三章 五話

マナリンクの実験は、数日かけて段階を踏んでいた。


最初は短時間の同期。

次に、触媒を介した出力の受け渡し。

さらに、低出力のマナアーツ発現。


誰と誰を繋ぐか。どの距離で繋ぐか。触媒を挟むか、挟まないか。

発現前に切るか、発現後まで維持するか。

実験区画の壁面には、その結果が細かく並んでいた。


同期率。

拒絶反応。

波形の乱れ。

発現までの遅延。


フィリアは、その一覧を見上げながら、少しだけ肩に力を入れていた。

そこにはもう、いくつもの成功記録が残っている。


ガイとのリンク。織葉とのリンク。紫乃とのリンク。

ほかの前線要員とのリンク。

どれも慎重に、けれど確実に進んできた。

そして今日、最後に残っていた組み合わせが行われる。


クリスとのマナリンク実験だった。


「ずいぶん記録が増えましたわね」


クリスは壁面の表示を見上げて、感心したように言った。

彼女の声はいつも通り明るい。緊張を感じさせないというより、

緊張している場所にも平気で花を持ち込んでくるような声だった。


「あなたが名前を付けるたびに、補足欄が増えたからな」


リヴァルが端末から目を離さずに言った。

今日は、数日前より顔色がいい。


相変わらず表情は薄いし、目の下に疲労の影は残っている。

けれど、青白さは少し抜けていた。

クリスはすぐにそれに気づいた。


「リヴァル様。今日は死人のようではありませんわね」


「褒めていないな」


「昨日より生者に近い、という意味ですわ」


「それも褒めていない」


「では、健康的になりましたわ」


「最初からそう言え」


リヴァルは端末を操作しながら、短く息を吐いた。


「君が提示した組み合わせを試した。

 経口補水剤、ビタミン群、栄養ゼリー。

 カフェインは減らした」


「まあ。素直でいらっしゃる」


「合理的だっただけだ。医務員の確認も取れていた」


「はいはい、合理的合理的」


「……体は楽になった」


その言葉に、クリスは少しだけ勝ち誇った顔をした。


「でしょう?」


リヴァルは画面に視線を戻す。


「よく見ている」


それだけだった。

けれど、そこに皮肉はなかった。

フィリアは二人のやり取りを見て、少しだけ笑った。


数日前までなら、リヴァルはこんな言い方もしなかった気がする。

クリスもまた、相手が返せるぎりぎりの場所に言葉を置くのがうまい。

踏み込みすぎず、離れすぎず。

それは、今日の実験にも必要なものなのかもしれなかった。


「さて」


リヴァルが端末を持ち直す。


「今日の実験は、フィリア・レイフィールドとクリスのマナリンクだ」


「はい」


クリスは笑いながら返事をした。

リヴァルは続ける。


「フィリアは光属性。

 マナ量が大きく、出力上限も高い。

 過去を踏まえ、今回は極低出力から開始する」


フィリアの指先が、小さく震えた。


「フィリア様」


クリスが横から覗き込むように声をかけた。


「今日はわたくしと手繋ぎですわね」


「手繋ぎ、ですか?」


「ええ。怖い実験より、可愛い実験の方が成功しやすいですもの」


「本当にそうなんですか?」


「気分は大事ですわ」


クリスは当然のように言った。

そのあまりの軽さに、フィリアの肩から少しだけ力が抜ける。

リヴァルは端末越しに二人を見た。


「クリス。君の情報も確認する。属性は火。

 使用するマナアーツはブロッサムフォーム」


「はい。花のように咲き、火のように華やかに戦う、

 わたくしにぴったりの技ですわ」


「自己評価が高い」


「自己理解が深いと言ってくださいまし」


「訂正する必要はない」


クリスは楽しそうに笑った。

その手には、細身のレイピアがある。


華奢に見えるが、ただの装飾武器ではない。

クリスのマナを受け、留め、発現させるために調整されたアーツデバイスだ。


「説明を入れる」


リヴァルが言った。

実験区画の表示が切り替わる。


そこには、マナアーツ発現の基本工程が並んだ。


マナの循環。

触媒への移動。

波長整理。

発現。


「通常、マナアーツは体内のマナを循環させ、

 触媒へ移し、波長を整理した上で発現する。

 遅延の大部分は、この前処理に由来する」


「つまり、一からお茶を淹れるようなものですわね」


「その例えは正しいのか?」


「茶葉を選んで、お湯を沸かして、器を温めて、ようやく出せる。

 似ておりますわ」


「……大きくは外れていない」


リヴァルはわずかに眉間を寄せたが、否定はしなかった。


「クリスのブロッサムフォームは、その工程の一部を事前に済ませる技術だ。

 マナをレイピアに付与し、刀身周辺に停滞させる。

 攻撃時には、すでに触媒上にあるマナを使うため、発現までの遅延が短い」


クリスがレイピアを軽く振った。

刀身に、赤い花弁のような光がふわりと開く。


炎そのものではない。

けれど、そこには熱があった。


赤く、鮮やかで、踊るような火のマナ。

それがレイピアの周囲に薄く重なり、花が咲くように形を作っている。


「これが、わたくしの基本形ですわ」


クリスは剣先を軽く立てた。


「突きに火を乗せることも、弾いた瞬間に火花を散らすことも、

 剣先から即座に火のマナアーツを発現することもできます。

 すでに剣に咲かせてありますから、動き出しが早いのですわ」


フィリアはその赤い光を見つめた。


綺麗だと思った。

火なのに、怖くない。


荒れているのではなく、整っている。


「ただし」


リヴァルが続ける。


「ここで誤解してはいけない。クリス自身の属性は火だ。

 彼女が万能属性を持っているわけではない。

 他者のマナを保持できる可能性があるとしても、それは属性の特性ではない。

 ブロッサムフォームという、

 武器にマナを付与し、保持する技術の精度による」


「つまり、わたくしが器用ということですわね」


「雑に言えば、そうだ」


「雑でも褒め言葉なら受け取りますわ」


「褒めてはいない」


「もう少しで褒めそうでしたわ」


「実験を始めるぞ」


リヴァルは端末を操作した。

周囲のセンサーが起動する。


床面に淡いラインが走り、二人の立ち位置を示した。

フィリアは指定された位置に立つ。


正面にクリスが立った。

距離は三歩ほど。

近すぎず、遠すぎない。


「フィリア。

 出力は最低値。

 無理に形を作る必要はない。

 まずは、光のマナを外へ逃がすだけでいい」


「はい」


「クリス。受け取りは体内ではなく、触媒上で行うこと。内部循環に混ぜるな」


「もちろんですわ。お客様をお迎えするだけですもの」


「お客様?」


フィリアが首を傾げた。

クリスはレイピアを胸の前で立てる。


「あなたのマナを、わたくしの中に入れるわけではありません。

 わたくしの火に変えるわけでもありません。

 ただ、このレイピアの上に座っていただくのですわ」


「座る……」


「お部屋を整えて、椅子を用意する。

 けれど、お客様そのものを変えたりはしない。

 そういうことです」


「ちょっと分かりやすいです」


「でしょう?」


「比喩が実用的な時もあるんだな」


リヴァルが小さく言った。


「時も、とは失礼ですわね」


「始める」


フィリアは息を吸った。

指先に、光を集める。

強くしない。

押し出さない。


ただ、ほんの少しだけ外へ。

最初に出た光は、かすかに震えていた。


白い。

けれど、輪郭が定まらない。


少しだけ膨らみ、すぐに縮み、また揺れる。

フィリアの呼吸に合わせて、光も不安げに瞬いている。

クリスはそれを見て、すぐには受けなかった。


ただ、レイピアの赤い花弁を少し閉じる。

火のマナを引き、熱を抑え、刀身の上に空白を作るように。


「大丈夫ですわ」


クリスが言った。


「急がなくていいです。わたくし、ちゃんと見ていますから」


フィリアの目が、クリスを見る。

その言葉は、ただの励ましではなかった。

本当に見ている。


光の揺れも、呼吸の乱れも、怖がっていることも。

だから、フィリアはもう一度息を吐いた。


光が、少しだけ前へ進む。

クリスはレイピアを傾けた。

白いマナが刀身に触れる。


その瞬間、フィリアは身構えた。


弾かれるかもしれない。

暴れるかもしれない。


自分の光が、また誰かの手の中で大きくなりすぎるかもしれない。

けれど、そうはならなかった。

白い光は、レイピアの上で止まった。


刀身に、薄い花弁が一枚開く。

赤い火の花弁とは違う。


熱ではなく、白く、淡く、触れたものを傷つけないように広がる光だった。


「同期率、安定」


リヴァルの声が響く。


「属性変質なし。

 火属性への変換反応もなし。

 フィリアの光属性マナが、そのまま触媒上に保持されている」


フィリアは息を止めていたことに気づき、小さく吸い直した。


「私の、マナのまま……?」


「そうだ」


リヴァルが答える。


「クリスの火ではない。君の光だ」


クリスは剣先を少しだけ持ち上げた。

刀身に咲いた白い花弁が、空気の揺れに合わせて薄く震える。


「……白く、優しい」


彼女は小さく呟いた。

フィリアの光が、誰かの手の中で形を持っている。

けれど、それは暴れていない。


誰かを傷つけるために膨れ上がっているのでもない。

ただ、そこに咲いていた。


「とても思いのある力ですわ」


クリスはにっこり笑い、レイピアを胸の前に立てた。


「これは、ユーストマフォームで決定ですわね!」


その場に、少しだけ沈黙が落ちた。

リヴァルが端末から目を上げずに言う。


「……また花の名前か」


「当然ですわ。ブロッサムフォームの派生ですもの。

 花の名を冠するのが美しいでしょう?」


「記録名が増える」


「美しい記録になりますわ」


「検索性が落ちる」


「ではタグをつけてくださいまし」


「君は命名して終わりだが、整理するのは僕だ」


「リヴァル様、そういう細かい作業お得意でしょう?」


「褒めても採用基準は変わらない」


「まあ。ですが今、記録には残してくださいましたわよね?」


リヴァルの指が止まった。

画面にはすでに、仮称・ユーストマフォームの文字が入力されていた。

フィリアが、思わず小さく笑った。


「ユーストマ……」


「白い花ですわ」


クリスはレイピアの上の光を見つめた。


「優しくて、凛としていて、あなたの光に似合います」


「私の、光に……」


フィリアは自分の手を見た。

ほんの数日前まで、自分のマナは怖いものだった。

出し方を間違えれば、誰かを傷つけるかもしれない力。


自分では抑えきれず、誰かに止めてもらわなければならないもの。

けれど今、その力はクリスのレイピアの上で、白い花として咲いている。


「……綺麗です」


「ええ。綺麗ですわ」


クリスは当然のように頷いた。


「力は、怖いだけのものではありませんもの」


その言葉に、フィリアの胸の奥で、何かが少しだけほどけた。

リヴァルは端末を操作し、記録を進める。


「リンク出力を一段階上げる。

 フィリア、無理はするな。

 光の量を増やすのではなく、流れを維持するだけでいい。

 クリスは保持面積を広げろ。

 発現はまだ行わない」


「はい」


「承知しましたわ」


フィリアはもう一度、光を送った。

今度はさっきより、ほんの少しだけ安定している。

クリスはそれを強く引き寄せない。


自分の火で包み込まない。

白い光が来る場所に、レイピア上の花弁を開いていく。

一枚、また一枚。


白い花弁が、火の花弁の上に重なっていく。

赤と白は混ざらない。

それぞれの色のまま、しかしぶつからずに並んでいる。


「……すごい」


フィリアは思わず呟いた。


「私の光が、クリスさんの火と喧嘩してない」


「喧嘩させませんわ。せっかく来てくださったお客様ですもの」


「お客様扱いなんですね」


「大切に扱うという意味ですわ」


リヴァルの目が、計測値を追っている。


同期率は高い。

拒絶反応はほとんどない。

外部マナの触媒上保持は安定。

発現遅延は想定より短い。


ただ受け取っているのではない。

クリスは、フィリアのマナの揺れに合わせて、

保持層の形を微細に変えていた。


光が強くなれば面を広げる。

揺れれば角度を変える。


乱れそうになれば、自分の火を近づけず、逆に空間を空ける。

相手の形を見て、受け皿を変えている。


「なるほど」


リヴァルが低く呟いた。


「保持できる理由は、属性ではない。

 やはり技術だ。

 ブロッサムフォームの付与精度と、保持面の調整能力。

 そして、相手の出力を見て合わせる観察力」


「観察力?」


フィリアが聞き返す。

リヴァルは端末を見たまま答えた。


「クリスは、君のマナを自分の型に押し込めていない。

 君の光の揺れを見て、触媒側の形を変えている。

 人間相手にしていることと同じだ」


「わたくし、人をレイピアに乗せたりはしておりませんわよ」


「比喩だ」


「まあ。リヴァル様も比喩を使うようになりましたのね」


「茶化すな」


クリスは笑った。

けれど、リヴァルの声は真面目だった。


「ガイから話を聞いた時も、医務員と協力関係を作った時も、

 僕に補助剤を提示した時も同じだ。

 相手の状態を見て、受け取りやすい形を用意する。

 君はそれを、会話でもマナでもやっている」


「それは単に、仲良くしただけですわ」


「その“単に”が、適性だ」


クリスは少しだけ瞬きをした。

普段ならすぐに何か言い返すところだった。

けれど、今だけは言葉が遅れた。


フィリアはそんなクリスを見て、少しだけ嬉しくなった。

クリスさんでも、褒められると止まるんだ。


「発現に移る」


リヴァルが言った。


「ただし、攻撃ではない。

 光を一点で灯すだけでいい。

 クリス、フィリアのマナを使い、レイピア先端で発現させろ。

 火属性との混合は禁止。

 出力は最低値」


「承知しましたわ」


クリスはレイピアを前へ向けた。

白い花弁が、剣先へ集まっていく。


通常なら、ここから体内のマナを巡らせ、

触媒へ移し、波長を整え、発現へ持っていく。

けれど、今は違う。

フィリアの光は、すでにレイピアに乗っている。


波長も、クリスのブロッサムフォーム上で整えられている。

あとは咲かせるだけ。


「ユーストマフォーム」


クリスが静かに言った。

剣先に、白い光が灯る。

小さな花の形をした光だった。

鋭い閃光ではない。


敵を貫くための弾でもない。

ただ、暗い場所に置かれた灯りのように、そこに咲いた。

フィリアはその光を見て、息を呑んだ。


「私のマナで……」


「ええ」


クリスが振り返る。


「あなたの光ですわ」


リヴァルが記録を読み上げる。


「発現成功。

 属性変質なし。

 発現遅延、想定値以下。

 リンク安定率、基準値を上回っている。

 触媒上保持から発現までの流れも安定」


端末に、新しい記録が追加される。

マナリンク実験。

フィリア・レイフィールド及びクリス。


外部光属性マナの触媒上保持に成功。

マナアーツ、ブロッサムフォーム派生。

仮称、ユーストマフォーム。


「仮称ではありませんわ」


クリスがすかさず言った。


「仮称だ」


「決定名ですわ」


「研究記録では仮称だ」


「では、正式採用予定名ですわ」


「タグが長くなる」


「美しさには少々の手間が必要です」


リヴァルは疲れたように息を吐いた。

けれど、どこか少しだけ、口元が緩んでいるようにも見えた。


「今回の結果で分かったことがある」


リヴァルは画面を切り替えた。


「マナリンクは、人体同士の同期だけではない。

 触媒を介して外部マナを保持し、発現へ繋げる形も成立する可能性がある。

 特にクリスのブロッサムフォームは、

 リンクされたマナを安定させる中継技術として使える」


「つまり?」


クリスが少し身を乗り出した。


「君の技術は、マナリンク研究の可能性を広げた」


「まあ。では、わたくしは有能ということですわね」


「そうだ」


「……そこは否定してくださらないと、少し照れますわ」


「事実だからな」


クリスは本当に、少しだけ照れた顔をした。

それから、誤魔化すようにレイピアをくるりと回す。


「リヴァル様、元気になったら少し意地悪ですわね」


「君がよく見ているだけだ」


その言葉に、クリスは一瞬だけ黙った。

フィリアは、剣先に咲く白い光を見つめていた。


怖いだけではない。

強すぎるだけでもない。


誰かに預ければ、誰かが見てくれれば、こんなふうに咲くこともある。


「クリスさん」


「はい?」


「その名前、私、好きです」


クリスの顔がぱっと明るくなった。


「でしょう? フィリア様にぴったりですもの」


「はい」


フィリアは小さく頷いた。


「私の光が、少し好きになれそうです」


実験区画に、白い花の光が揺れていた。

それはまだ小さく、戦いを変えるほどの力ではない。

けれど、確かにそこに咲いていた。


クリスの火ではなく、フィリアの光として。

リヴァルはその記録を保存する。

そして、画面の備考欄に短く追記した。


外部マナ保持、安定。

対象者の心理的負荷、低下傾向。

ブロッサムフォームによる命名効果は要検証。


「最後の一文、何か変なことを書いておりません?」


「気のせいだ」


「見せてくださいまし」


「実験終了だ」


「リヴァル様?」


リヴァルは端末を閉じた。

クリスが詰め寄る。


フィリアはそれを見て、また少し笑った。

剣先の白い花は、まだ消えていなかった。

その光は、実験終了後も記録として残った。


ユーストマフォーム。

クリスが勝手に決定名だと言い張り、

リヴァルがあくまで仮称だと言い張ったその名前は、

結局、実験記録の備考欄に残された。


フィリアの光は、怖いだけのものではなかった。

誰かの剣先に咲き、誰かの目に綺麗だと言われ、

誰かの記録に可能性として保存された。

それは、ARKの中でまた一つ、確かに前へ進んだものだった。


けれど、前へ進んでいるのは、研究だけではない。

マナリンクの記録に残らないところでも、

人と人の距離は少しずつ変わっていた。


翌朝。


まだ居住区の通路に人影が少ない時間、一輝は工具ケースを肩にかけ、

整備区画へ向かっていた。

昨日の実験で使ったセンサーの一部が、どうにも気になっていたからだ。


出力値そのものは問題ない。

だが、発現直前の波形がほんの少しだけ跳ねていた。


ああいう細かい引っかかりは、放っておくとあとで面倒になる。

ナンディーヌに言われたわけではない。リヴァルに頼まれたわけでもない。

ただ、気になった。


一輝はそういうところだけ、妙に真面目だった。


「……ん?」


居住区の角を曲がったところで、一輝は足を止めた。


少し先の扉が開いている。

イルルの私室だった。


そこから出てきたのは、シェスターだった。


別に慌てている様子はない。

むしろ、妙に落ち着いている。

ただ、髪が少し乱れていた。


いつものきっちりした雰囲気とは違って、肩の力も抜けている。

扉の内側にはイルルが立っていた。


こちらも、いつもの調子とは少し違う。

顔が赤い。

けれど、困っているとか、嫌がっているとか、そういう顔ではない。


一輝には、その違いが分かった。

分かったが、意味は分からなかった。


「お、おはようございます」


考えるより先に、口が動いた。

シェスターがこちらを見た。


「ああ。おはよう、一輝」


普通だった。

あまりにも普通だった。


イルルはシェスターの横から少しだけ顔を出し、小さく手を振った。


「おはよう、一輝くん」


「あ、はい。おはようございますっス」


一輝は頭を下げた。

それから、工具ケースを抱え直し、ぎこちなく通路を進んだ。

背中の後ろで、扉が閉まる音がした。


一輝は歩きながら、眉間にしわを寄せる。


朝。

私室。

シェスター。

イルル。


乱れた髪。

赤い顔。

普通の挨拶。

分からない。


いや、分かるような気もする。

だが、分かっていいのかが分からない。


「……こういう時、誰に聞けばいいんスかね」


一輝は整備区画へ向かう足を止め、しばらく考えた。

リヴァルに聞くのは違う。

ガイに聞くと大きな声で笑われそうだ。


クリスに聞いたら、なぜか話が華やかになりすぎる気がする。

織葉に聞くのも、なんとなく違う。

そして、思い浮かんだのが紫乃だった。


年長者。

落ち着いている。

余裕がある。


たぶん、そういうことに詳しい。

一輝はかなり失礼な理由だと薄々気づきながらも、

昼過ぎ、紫乃を見つけて声をかけた。


「紫乃さん、ちょっと聞いていいっスか」


通路の端で、紫乃はゆっくり振り返った。


「なあに、一輝くん」


「いや、その。変な意味じゃないんスけど」


「その前置き、だいたい変な意味に聞こえるわね」


「ほんとに変な意味じゃないっス。

 自分、そういうの分かんないんで、確認したいだけで」


「そういうの?」


一輝は一度、周囲を見た。

それから、声を少し落とす。


「今朝、整備区画に行こうとして、居住区の前を通ったんスけど」


「ええ」


「シェスターさんが、イルルさんの部屋から出てきたんスよ」


紫乃は、瞬きを一つした。


「……そう」


「時間、かなり朝早くて。

 シェスターさん、髪ちょっと乱れてて。

 イルルさんも扉のところにいて、なんか、こう……

 見られたらまずいって顔じゃないんスけど、

 説明もしてこないっていうか」


「一輝くん」


「はい」


「あなた、そこで何か言ったの?」


「おはようございますって言いました」


「いい子ね」


「でも、シェスターさんが妙に普通の顔で、おはようって返してきて。

 イルルさんは、なんか顔赤くしてて」


紫乃は口元に指を添えた。

笑っているようにも見えたし、ため息を隠しているようにも見えた。


一輝には判断できなかった。


「それで?」


「それで、自分、通り過ぎたんスけど。

 あとから考えたら、あれって……恋人なんスか?」


あまりにまっすぐな問いだった。

紫乃はすぐには答えなかった。


少し離れた通路の向こうでは、シェスターとイルルが並んで歩いている。


二人の距離は近い。

肩が触れるほどではない。


けれど、離れているとも言いがたい。

イルルが何か言い、シェスターが少し困った顔で返す。

その表情を見て、紫乃はやわらかく目を細めた。


「一輝くんには、そう見えたのね」


「見えたっていうか、見えたんスけど、そう言っていいのか分かんないっス」


「そうね」


紫乃は少しだけ声を落とした。


「本人たちが言葉にするまで、周りは見守ってあげましょうね」


「じゃあ、恋人ではないんスか?」


「それを決めるのは、私たちじゃないわ」


「でも、私室から朝に出てくるのは、結構……」


「一輝くん」


紫乃が微笑んだ。

怒っているわけではない。


けれど、その声には大人の落ち着いた強さがあった。


「そういうことを、あまり大きな声で言わないのも優しさよ」


「あっ」


一輝はそこでようやく、自分の言葉の危うさに気づいたようだった。


「す、すみません。茶化したいとかじゃなくて」


「分かってるわ。だから今、私に聞きに来たんでしょう?」


「はい。紫乃さんなら、その……詳しそうだと思って」


「詳しそう」


紫乃は楽しそうに目を細めた。

一輝の背筋が伸びる。


「いや、変な意味じゃないっス!

 年長者としてっていうか、大人っぽいし、余裕あるし、そういうの、

 ちゃんと分かってそうだなって」


「ふふ。慌てなくていいわ、一輝くん」


紫乃はからかうように笑ったが、その声は柔らかかった。


「そうね。少なくとも、あなたよりは少しだけ長く生きているもの」


「少しだけ、っスか」


「そこは流してくれる?」


「はい」


紫乃はもう一度、遠くの二人を見た。

シェスターがイルルの歩幅に合わせて、ほんの少しだけ速度を落としている。


イルルはそれに気づいているのかいないのか、

手元の端末を見せながら話している。


「進んでいない二人には、見えないわね」


紫乃は静かに言った。


「でも、名前をつけるのは本人たちの仕事。

 私たちは、壊さないように見守るだけ」


一輝は少し考えてから、こくりと頷いた。


「了解っス。じゃあ、自分は見なかったことにするっス」


「見なかったことにする必要はないわ」


「え?」


「見たことを、誰かに面白がって話さなければいいの」


「ああ……なるほどっス」


「それも、デリカシーというものね」


「デリカシー……難しいっスね」


「練習よ、一輝くん」


紫乃は軽く笑った。


「マナアーツより、少しだけ繊細かもしれないけれど」


「自分、イグニッションしか使えないんスけど」


「じゃあなおさら、爆破しないようにね」


「うっス。気をつけます」


一輝は真面目に頷いた。

紫乃はそれを見て、また少しだけ笑った。

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