三章 四話
輸送車が到着したのは、午前の訓練予定が一段落した頃だった。
搬入口には、すでに受け入れ用の誘導線が表示されている。
車両はARKのものではない。
外装は白と赤を基調にしており、
扉にはアドレメリア家の紋章が小さく刻まれていた。
護衛用ではなく、移動用の車両に見える。
だが、車体下部の補強や窓の厚みから、
ただの送迎車でないことはすぐに分かった。
運転席から、専属の人員らしい男性が降りる。
その後ろの扉が開いた。
赤が見えた。
まず、膝上で切られた赤いショートドレス。
それから、艶を抑えた黒のブーツ。
肘近くまで覆うオペラグローブ。
最後に、腰へ下げられた豪奢なレイピア。
クリスティナ・アドレメリアは、車両から降りると、まず周囲をきょろきょろと見回した。
「おおー。ここがARKの拠点? 思ってたより無骨じゃん」
織葉は搬入口の前で腕を組んでいた。
隣には紫乃もいる。
周囲にARKの主要メンバーはいない。
出迎えは、この二人だけだった。
織葉は片眉を上げる。
「よう来たな。ほんまに来よったんやな」
「来るっしょ。言われたし」
「考えとく言うてへんかった?」
「考えた結果、来た」
「早すぎひん?」
「フットワーク軽いのは美徳じゃん?」
織葉は小さく息を吐いた。
「半分冗談やったんやけどなあ」
「半分本気だったじゃん」
「まあな」
紫乃が二人のやり取りを見て、楽しそうに笑う。
「クリスティナちゃん、久しぶりね」
「あ、紫乃さん! お久です! てか全然変わんないじゃん。若すぎ」
「あら、ありがとう」
「お世辞じゃなくてガチで」
「嬉しいわねえ」
織葉はクリスティナの腰へ視線を落とした。
「それ、持ってきたんやな」
「そりゃ持ってくるっしょ。前線手伝えって言ったのおりはじゃん」
「言うたけど」
「じゃ、いるっしょ」
クリスティナは腰のレイピアに軽く手を添えた。
豪華な武器だった。
つぼみのように丸みを帯びたナックルガード。
葉のように左右へ伸びるクロスガード。
指を守るように絡む、蔦のようなループガード。
柄尻には赤い宝石がはめ込まれている。
いや、宝石ではない。
魔石だ。
赤い光を内側に抱えたそれは、飾りとしては美しすぎ、装備としては明らかに高性能だった。
ただし、そのレイピアは新品ではない。
よく見れば、装飾の縁やガードの表面、鞘の口金に、細かな傷が無数に刻まれている。
飾っていただけの武器ではない。
抜かれ、振られ、受け、弾き、何度も現場を通ってきた武器だ。
紫乃が静かに頷く。
「いい得物ね」
「でしょ? うちのお気に入り」
「見た目より、ずっと働いているわね」
「見る人が見たら分かるやつー」
織葉はクリスティナの顔を見る。
「ここから先は、外の顔やで」
「分かってるって」
クリスティナはにこっと笑った。
次の瞬間、その表情が変わる。
軽さが消えた。
背筋が伸び、顎がわずかに上がる。
周囲を見回していた視線が、前を見るものへ変わる。
さっきまでの明るい友人の顔ではない。
赤いドレスをまとった、アドレメリア家の令嬢。
クリスティナ・アドレメリアが、そこに立っていた。
織葉もまた、呼吸を整える。
私室での砕けた口調は消え、いつもの公的な声へ戻った。
「では、行きましょうか」
「ええ。ご案内、お願いいたしますわ」
クリスティナは、しゃらんと鈴でも鳴るような所作で微笑んだ。
会議室には、主要メンバーが集められていた。
リヴァルは前方に立っている。
隣にフィリア。
少し離れてリオン、ガイ、シェスター、イルル、紫乃、織葉がいる。
クリスティナが入室すると、何人かの視線が彼女へ集まった。
赤いショートドレス。
ブーツ。
オペラグローブ。
豪奢なレイピア。
明らかに前線装備とは違う華やかさ。
だが、腰に下げた武器の傷だけが、見る者に違う情報を伝えていた。
リヴァルが口を開く。
「急な話だが、本日からアドレメリア家のクリスティナを、
前線協力戦力として受け入れる」
その言葉の途中で、クリスティナが一歩前へ出た。
自然な動きだった。
出過ぎではない。
しかし、自分の紹介を他人に任せきる気はない、という意思があった。
彼女はドレスの裾を軽くつまみ、優雅に礼をする。
「ごきげんよう。クリスティナ・アドレメリアですわ」
声は澄んでいた。
先ほど搬入口で話していた少女と同じ人物とは思えないほど、
口調も表情も違う。
「お父様からの連絡は、すでに届いておりますわね。
アドレメリア家の者として、また一人のマナアーツ使いとして、
リヴァイヴ・プランへ協力するため参りました」
クリスティナは顔を上げ、まっすぐにリヴァルを見る。
「急な訪問となりましたことはお詫びいたします。
ですが、必要な場面があるのでしたら、
どうぞ遠慮なくお使いくださいませ」
リヴァルはわずかに目を細めた。
「こちらこそ、協力には感謝する。ただし、前線運用には適性確認が必要だ」
「もちろんですわ」
クリスティナは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「確認は、お好きな形で」
その姿を見て、ガイが腕を組んだまま呟いた。
「……本当に前線に出るのか? 見た目は完全にお嬢様だぞ」
悪気のある声ではなかった。
むしろ、率直な疑問だった。
シェスターも少し眉を寄せる。
「華奢に見えるけど、無茶させて大丈夫なのか?
前線は安全領域の調査とは違うぞ」
クリスティナは微笑んだまま、何も言わない。
織葉が一歩前へ出た。
「言葉をいくら並べるより、見ていただく方が早いでしょう」
リヴァルが織葉を見る。
「提案は?」
「訓練室で、軽く手合わせを」
織葉はクリスティナへ向き直る。
「クリス、動けますか」
公的な場。
それでも、呼び名だけは変わらなかった。
クリスティナは、少し嬉しそうに目を細める。
「もちろんですわ。その方が、皆様への紹介にもなりますもの」
リヴァルは数秒考えた。
そして頷く。
「分かった。訓練室へ移動する」
訓練室の中央に、織葉とクリスティナが向かい合って立った。
周囲にはARKメンバーが集まっている。
フィリアは端末を手に、少し緊張した顔で見ていた。
ガイは腕を組んでいる。
シェスターは壁際に立ち、何かあればすぐ動ける距離を保っていた。
リオンはすでに観測用の表示を開いている。
紫乃は、どこか楽しそうに見守っていた。
リヴァルは通信と訓練室の記録を同時に確認できる位置に立つ。
「条件は低出力。殺傷判定なし。相手の身体へ直接傷を負わせる攻撃は禁止」
「承知しました」
織葉が答える。
「心得ましたわ」
クリスティナも頷く。
二人は同時に礼をした。
織葉の手がカタナアーツデバイスの柄へ添えられる。
クリスティナの指がレイピアの柄へ触れる。
リヴァルが短く言う。
「開始」
その瞬間、音が鳴った。
金属音。
いや、金属音だけではない。
火花が散った。
織葉とクリスティナの姿が、ほとんど同時に消えたように見えた。
次の瞬間、二人は訓練室中央から数歩離れた位置にいた。
カタナの刃とレイピアの先端が、触れる寸前で止まっている。
ガイの目が見開かれる。
「は?」
次の音。
高い金属音が三つ。
火花が四つ。
織葉が踏み込んだのか、クリスティナが滑り込んだのか、ほとんど分からない。
赤い軌跡が走り、銀の線がそれを断つ。
しかし断たれたはずの赤い軌跡は、もう別方向から伸びている。
織葉のカタナが鞘走る。
クリスティナのレイピアが花弁のような円を描く。
火花が散る。
音が鳴る。
二人の位置が入れ替わる。
ガイが一歩前に出かけて、止まった。
「今、何合やった?」
リオンが端末を見たまま答える。
「十四合です」
「一秒も経ってねえぞ」
「〇・八秒です」
「そういう問題じゃねえ」
シェスターも目を細めている。
「見えねえな」
「追えていませんか」
リオンが問う。
「音と気配なら分かる。細かいとこは無理だ」
「私も完全ではありません。ただ、軌道予測は可能です」
「それで可能って言うのかよ」
紫乃は一人、穏やかに微笑んでいた。
「二人とも、昔より綺麗になったわねえ」
ガイが信じられない顔をする。
「見えてるのか」
「全部ではないわよ。でも、あの子たちの癖は知っているもの」
「癖で済む動きか、あれ」
訓練室の中央で、織葉とクリスティナの打ち合いは続いていた。
織葉は最短を取る。
一足で間合いを潰し、一閃で勝負を決めに行く。
クリスティナはそこへ入らせない。
レイピアの先端が細かく揺れ、突きだけでなく、
受け、流し、払い、誘いの動きまで織り込んでくる。
カタナとレイピア。
一撃と連撃。
静と華。
互いにまったく違う武器を持ちながら、二人は同じ速度域で戦っていた。
本人たちにとっては、まだ確認だった。
周囲にとっては、十分すぎる異次元だった。
最後に、二人が同時に踏み込んだ。
金属音が一つ。
大きくはない。
むしろ、静かな音だった。
カタナの刃と、レイピアの剣身が軽く合わせられている。
二人はそのまま一拍止まり、同時に武器を引いた。
織葉の刃が鞘へ戻る。
クリスティナのレイピアも、滑るように鞘へ収まった。
訓練室に、静寂が落ちる。
誰もすぐには言葉を出さなかった。
ガイは腕を組んだまま、息を吐く。
「……前線に出る資格は、十分だな」
シェスターも頷く。
「無茶させる心配は、少なくとも戦闘力の意味ではいらなそうだ」
リオンは端末を閉じる。
「反応速度、機動、武器制御、間合い管理、いずれも高水準。
前線運用可能と判断します」
リヴァルも短く頷いた。
「適性確認としては十分だ」
クリスティナは優雅に微笑む。
「ありがとうございます」
織葉も静かに礼をした。
そこで終われば、実に綺麗だった。
終われば。
織葉とクリスティナは、互いに歩み寄った。
一歩。
二歩。
そして、額が触れそうな距離まで近づく。
いや、触れた。
こつん、と小さな音がした。
互いに笑っている。
ただし、目は笑っていなかった。
ガイが顔をしかめる。
「……何だ」
紫乃が、あらあら、という顔になる。
「始まるわね」
「何が」
シェスターが聞いた。
その直後、始まった。
「一太刀目で終わらせぬ礼儀を見せたまでですわ
「あら、初手で決めたつもりなどございませんの
間合いを三度譲ったのは我の温情にございます
その三度すべて誘いであったと存じませんこと
刃筋を伏せたまま受けられる者は多くありません
受けたのではなく踊らせていただいただけですわ
足を止めれば勝負はそこで終わっておりました
止める必要がなかったから動き続けたのですもの
我が抜き切れば、その蔦飾りごと断てました
わたくしが踏み込めば、その鞘鳴りごと咲かせましてよ
初手から華に頼る癖は相変わらずでございますな
無粋な一閃を華やかに受けるのも技量ですわ
刃を置く位置が半歩浅い、昔からそこが甘いのです
半歩浅く見せて誘う程度、気づいて当然でしょう
我が雷を通せば、二手目はございませんでした
わたくしの火が咲けば、一手目すら舞台装置ですわ
速さを誇るなら、まず影を置いてくるべきです……
優雅さを知らぬ速さなど、ただの突進でしてよ……
シェスターが一歩後ろへ下がった。
「始まったよ……」
ガイも無言で下がる。
「ていうか、お嬢様も織葉と同じか……」
イルルが困ったように笑う。
「仲がいいんですね」
「いいのか、これ」
ガイが言う。
紫乃は微笑んだ。
「いいのよ。二人とも楽しそうでしょう?」
「楽しそうに見えるか?」
「見えるわよ」
ガイはもう一度二人を見た。
額をぶつけ合う距離で、優雅な声色のまま、
互いの実力を認めないための長広舌をぶつけている。
楽しそうかどうかは、ガイには分からなかった。
うるさいことだけは分かった。
リヴァルは数秒、二人を見ていた。
そして、判断した。
「実力は申し分ない。全員への紹介も済んだ」
彼は端末を閉じる。
「個人ごとの挨拶は個別にやってくれ。解散」
その言葉に、ARKメンバーはほとんど同時に動いた。
フィリアは端末を抱えて静かに退避。
リオンは記録を保存して退室。
ガイは疲れた顔で出口へ向かう。
シェスターは「医務室の様子を見てくる」と言って逃げた。
イルルは困ったように二人を見てから、紫乃に促されて下がった。
リヴァルも最後にもう一度だけ騒音源を見て、
深く考えるのをやめた顔で訓練室を出ていった。
二人は気づかない。
まだ続いていた。
……ならば一撃の重みで判断するべきでしょう
……いいえ、戦場で問われるのは最後まで立つ華ですわ
その華とやら、根元を断てば咲きようもありません
断たれる前提で咲く花など、我が家にはなくってよ
では技量の判断は周囲に委ねましょう
ええ、公正な目で見ていただくのが一番ですわ
皆様なら、どちらが上か明らかに分かるはず」
どうぞ遠慮なく正直な感想をお聞かせくださいませ」
二人は同時に振り返った。
「皆様は、どう思われます?」
そこには、誰もいなかった。
訓練室の入口は閉じている。
広い室内に残っているのは、二人と、壁際の紫乃だけだった。
紫乃は湯呑みこそ持っていなかったが、
持っていたら確実に茶を飲んでいた顔で微笑んでいる。
「もう、みんな散ったわよ」
織葉とクリスティナは、同時に瞬きをした。
クリスティナが扉を見る。
織葉も扉を見る。
それから、二人は互いを見る。
「……逃げ足の速い方々ですわね」
「危機察知能力は高いようです」
紫乃はくすくす笑う。
「二人とも、仲良しねえ」
「別に、仲が良いわけでは」
「互いの実力を正しく測っているだけですわ」
二人の声が重なった。
紫乃はさらに楽しそうに笑った。
「はいはい。そういうことにしておきましょうね」
こうして、
クリスティナ・アドレメリアはARKの前線協力戦力として受け入れられた。
想定よりも華やかに。
そして、想定よりも少しだけ、うるさく。
白い通路の先にある休憩区画は、
仮設の椅子と机が並ぶだけの簡素な場所だった。
けれど、そこには端末室とは違う空気があった。
少し焦げたコーヒーの匂い。
固い椅子を引く音。
誰かが息を吐く気配。
その隅で、ガイが紙コップを片手に座っていた。
見た目はただのおっさん、と言えば本人は怒るだろう。
けれど、実際にはただのおっさんではない。
いくつもの現場を踏み、霧の中で人を逃がし、
マギアスを殺さず止めるために体を張ってきた人間だ。
クリスは迷わず、その正面の椅子を引いた。
「ガイ様。少々お時間よろしいかしら」
「あん? 俺か?」
「はい。
わたくし、皆様のこれまでの活動を知らなすぎますの。
知らないまま現場に出るのは、少々失礼でしょう?」
ガイは紙コップを持ったまま、片眉を上げた。
「失礼って発想になるのか」
「なりますわ。
命をかけて積み上げてきたものを、
知らないまま横に立つのは礼儀に欠けますもの」
「……へえ」
ガイの表情が少し変わった。
ただの興味から、少しだけ真面目な顔になる。
クリスは端末を机の上に置いた。録音の許可を求める画面が開いている。
「記録しても?」
「いいけどよ。そんな大した話じゃねえぞ」
「まあ。大した話かどうかは、聞いた側が決めますわ」
その言い方に、ガイは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「じゃあ、どっから聞きたい」
「最初はざっくりで構いませんわ。
ARKの活動って、実際にはどういう積み重ねだったんですの?」
ガイはしばらく考えてから、コップを机に置いた。
「まあ、簡単に言えば、霧が出る。
人がマギアスになる。
俺たちはそいつを止めて、周りの人間を逃がす。
原因が分かりゃ潰す。
分からなきゃ追う。
そんなもんだ」
「簡単に言えば、ですわよね?」
「おう」
「簡単に言っても、ずいぶん難しいですわね」
ガイが目を瞬かせる。
「霧の発生、住民避難、マギアスの制圧、原因調査。
どれか一つでも専門部隊が必要そうですのに、
それを現場判断で繋いできたのでしょう?」
「まあ、待ってらんねえ場面も多かったからな」
「つまり、判断が早い」
「そうでもねえよ。迷う時は迷う」
「迷っても動ける方は、強いですわ」
ガイの口元が、分かりやすく緩んだ。
「……嬢ちゃん、なかなか分かってるじゃねえか」
「分かりたいから聞いておりますの」
クリスはにっこり笑って、端末に指を走らせた。
「では、最初に大きく失敗しかけた現場を教えてくださいまし」
「いきなりそこかよ」
「成功談だけでは現場は分かりませんわ。
むしろ、危なかった話の方が大事ですもの」
「ああ、そりゃそうだ」
ガイは少し背もたれに体を預けた。
そこから、話は自然に転がり始めた。
ある工業区画で、霧の濃度が低いにもかかわらずマギアス反応が連鎖したこと。
避難路が一つ塞がれ、紫乃が即座に迂回路を切り開いたこと。
織葉が前方を抜き、ガイが後方と中継を受け持ったこと。
誰かが突出しすぎれば救助が崩れ、誰かが遅れれば制圧が間に合わない。
そういう、記録には残りにくい現場の重さ。
クリスは、話の途中で何度も大げさに頷いた。
ただし、ただ褒めているだけではなかった。
「その時、ガイ様は後方支援ではなく中継を?」
「ああ。
支援ってほど綺麗なもんじゃねえよ。
紫乃の位置と織葉の位置を見て、
避難民が途切れねえように叫んでただけだ」
「叫ぶだけで人は動きませんわ。
声を聞かせる相手を間違えなかったということでしょう?」
「……いや、まあ、そうかもしれねえな」
「素敵ですわ。派手ではありませんけれど、一番崩れたら困る役目ですもの」
「お、おう」
その「おう」は、さっきより少し浮ついていた。
少し離れた場所で、紫乃が紙コップを持ったまま足を止めた。
隣には織葉がいた。
二人は、なぜか同じ角度でガイを見ていた。
「……伸びてるわね、鼻の下」
「伸びておりますね、母上」
「クリスちゃん、そういうお仕事向いてそうね」
「そういう、とは」
「褒めて、聞いて、気分よく話させて、でも欲しい情報は逃さない仕事」
織葉は一拍置いてから、真面目な顔で頷いた。
「あやつは昔から得意です。
茶会でも、稽古場でも、
知らない間に相手の好物と弱点を聞き出しております」
「怖いわね」
「本人は雑談のつもりです」
「それが一番怖いのよ」
その視線の先で、ガイはすでに二つ目の現場の話に入っていた。
「で、その時の俺の判断がだな」
「まあ! その状況で即座に人数を割り振りましたの?
現場の胆力ですわね」
「だろ?」
「ええ。訓練でできることと、本番でできることは違いますもの」
「そうなんだよ。そこがな、分かってねえ奴がたまにいるんだ」
「分かりますわ。机上の正解と現場の正解は、親戚くらいの距離感ですもの」
「いいこと言うじゃねえか」
「もっと言えますわ」
ガイは笑った。
クリスも笑った。
会話は軽い。けれど、クリスの端末には、
ガイの言葉が小さな見出しになって整理されていった。
霧濃度より避難者の移動方向が先に異常を示した例。
マギアス化した個体が、発生源ではなく人の集まる場所へ向かった例。
制圧よりも声かけと退路確保が効果的だった例。
前衛が止める、後衛が運ぶ、支援が繋ぐ。その三つが崩れた時に起きた危険。
ガイは途中で、ふと端末を覗き込んだ。
「おい、そんな細かくまとめてんのか」
「はい。大変勉強になりますわ」
「俺、そんなに喋ったか?」
「ええ。二杯目のお茶のあたりから、とても滑らかに」
「乗せたな?」
「褒めましたわ」
「同じだろ」
「いいえ。
乗せるのは嘘でもできますけれど、褒めるには観察が必要ですもの」
ガイは言い返そうとして、結局やめた。
少しだけ困ったように笑う。
「ったく、聞き上手だな。危うく余計なことまで喋るところだったぜ」
「余計なことなどありませんわ」
クリスは端末から顔を上げた。
その声だけ、少し柔らかかった。
「人が命をかけて積み重ねたものは、だいたい全部、必要な話ですもの」
ガイは黙った。
照れ隠しの言葉を探すように、紙コップを手に取る。
けれど、中身はもう空だった。
「……そういうこと言われると、おっさんは弱いんだよ」
「存じておりますわ」
「知ってて言ったな」
「少しだけ」
「少しじゃねえだろ」
遠目で見ていた紫乃が、また半目になった。
「完全に転がされてるわね」
「母上。あやつは転がしているつもりはないかと」
「ならなお悪いわ」
「はい。昔から、なお悪いです」
そのあと、クリスは席を立った。
ガイの話はまだ続きそうだったが、必要な骨格は十分に拾えていた。
もちろん、あとで続きを聞きに来るつもりではある。
ガイは褒めると伸びる。
伸びる話は、伸びきる前に一度切る方がいい。
クリスは端末を抱え、医務区画へ向かった。
通路の途中で、白衣を着た医務員が彼女に気づいて手を振った。
「あ、クリスさん。さっきの件、在庫表を共有しておきました」
「ありがとうございます。個人の診療記録には触れておりませんわね?」
「もちろんです。備品と一般的な効能だけです」
「助かりますわ。とても有能でいらっしゃる」
「や、やめてください。照れます」
医務員は本当に照れていた。
通りがかったフィリアが、少し不思議そうにその様子を見た。
「クリスさん、もう医務室の人と仲良くなったんですか?」
「ええ。とても話しやすい方でしたわ」
「いつの間に……」
「さっきですわ。
医務室の棚がきれいに整っていて、つい気になりましたの。
ああいうの、性格が出ますでしょう?」
「そこから仲良くなったんですか?」
「はい。整理の仕方を褒めたら、
備品の話をたくさん教えてくださいましたわ」
フィリアは少しだけ目を丸くした。
「クリスさんって、すごいですね」
「まあ。友達が増えるのは良いことですもの」
「友達……」
「もちろん、まだ知り合ったばかりですけれど。
仲良くなりたいと思ったなら、最初の一歩はもう友達寄りですわ」
「なんか、明るい理屈ですね」
「褒め言葉として受け取りますわ」
クリスはそのまま中央指揮区画へ入った。
リヴァルは、いつものように端末の前にいた。
大型画面には地形図、霧の分布、避難経路、通信履歴が並んでいる。
彼の視線はそれらを淡々と追っていたが、顔色は淡々としていなかった。
白い。
青いと言ってもいい。
それでも本人は、倒れる気など一切ない顔をしていた。
クリスは数秒だけ観察してから、真正面へ回った。
「リヴァル様。
現在のあなたに必要そうなものを、医務室の在庫から三つに絞りましたわ」
リヴァルの指が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……報告か」
「医務報告に近いですわね」
「医務員を通せ」
「通しましたわ」
クリスは端末を開き、画面をリヴァルに向けた。
そこには医務室の備品リストが表示されていた。
経口補水剤、ビタミンの錠剤、鉄分補助剤、栄養ゼリー、
目の保護液、睡眠導入補助の注意書き、カフェイン摂取量に関する簡易メモ。
リヴァルはそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「なぜ、君が医務室の在庫表を持っている」
「医務員の方に許可をいただきましたの」
「なぜ許可が出る」
「仲良くなりましたわ」
近くにいた職員が、危うく咳き込みそうになった。
リヴァルは沈黙した。
たぶん、追及すべき点が多すぎて、逆に優先順位を失ったのだ。
クリスは構わず続けた。
「ご安心くださいまし。
個人の診療記録には触れておりません。
閲覧したのは備品リストと一般的な効能だけですわ。
失礼と有能は違いますもの」
「……線引きはしているのか」
「当然ですわ」
「当然のように医務員を味方につけるな」
「味方ではありません。協力者です」
「言い換えただけだ」
「では、言い換えが上手ということで」
リヴァルは端末から完全に顔を上げた。
疲労の色は濃い。けれど、その目はまだ鋭かった。
「何を根拠に選んだ」
「まず、顔色。
次に唇の乾き。
瞬きの少なさ。
指の動きに微細な遅れがあります。
あと、先ほどからカフェインの容器が二つ増えておりますわ」
リヴァルの視線が、机の端に置かれた空の容器へ移る。
「観察が細かいな」
「お嬢様は退屈な会合で人の顔色を読む訓練を積みますの」
「それは訓練なのか」
「生存技術ですわ」
「……」
「そして医務員の方に確認したところ、現在の状態なら、まず経口補水剤。
次にビタミン群。
食事を抜いているなら栄養ゼリー。
カフェインの追加は非推奨。
鉄分補助は体質によりますので、自己判断は避けた方がよろしいそうです」
リヴァルは画面を見た。
クリスはもう一枚、簡単なメモを出す。
「こちらが組み合わせ候補です。
医務員確認済み。
強制ではありません。
あなたが倒れた場合、指揮系統と判断負荷が悪化しますので、
これは善意ではなく運用上の保全ですわ」
「言い方を変えれば受け取ると思ったか」
「はい」
即答だった。
リヴァルの眉間が少しだけ動く。
「隠さないのか」
「隠す必要がありますの?」
「普通はもう少し取り繕う」
「取り繕う時間も惜しい顔色ですもの」
今度こそ、近くの職員が小さく吹き出した。
すぐに姿勢を正したが、遅かった。
リヴァルはそちらを一瞥し、またクリスに視線を戻す。
「君は、私に休めと言いたいのか」
「本音を言えば、はい」
「なら、そう言えばいい」
「言って休みますの?」
「休まない」
「ですので、受け取りやすい形にしました」
リヴァルは黙った。
クリスは一歩も引かない。ただし、押し潰そうともしていない。
彼女は端末を机の端に置いた。
画面には、三つの候補だけが残されている。
経口補水剤。
ビタミンB群。
栄養ゼリー。
「参考資料として置いておきますわ。あとはリヴァル様の判断力を信じます」
「信じているなら、ここまで用意しないだろう」
「信じているから、選べる形にしましたの」
その言葉に、リヴァルはすぐには返さなかった。
やがて、短く息を吐く。
「……参考にはする」
「飲むとは言いませんのね」
「必要なら、だ」
「必要ですわ」
「君の判断ではな」
「医務員の確認済みです」
「……参考にはする」
同じ言葉を繰り返したリヴァルに、クリスは満足そうに微笑んだ。
それ以上は踏み込まない。
勝たせすぎると、相手は次に扉を閉める。負けさせすぎても同じだ。
だからクリスは、端末だけを置いて、軽やかに一礼した。
「では、わたくしはガイ様のお話を整理してまいりますわ。
なかなか有益でしたの」
「ガイから何を聞いた」
「ARKの活動履歴ですわ。
現場判断、避難誘導、霧の反応と実際の被害のズレ、
あとガイ様が褒めると少し長く話してくださること」
「最後の情報は必要か」
「今後の聞き取り効率に関わります」
「……否定はしない」
リヴァルは疲れた声でそう言った。
その横顔を見て、クリスは少しだけ笑った。
「リヴァル様も、褒められると伸びるタイプでしたら楽ですのに」
「私は伸びない」
「まあ。では縮まないように保全しますわ」
「……君は本当に、言い換えが多いな」
「言葉は相手に届いて初めて意味がありますもの」
その言葉を置いて、クリスは指揮区画を出た。
扉の外では、紫乃と織葉がちょうど通路を歩いていた。
紫乃はクリスの背後にある指揮区画を見て、それから彼女の顔を見た。
「今度はリヴァルくんのところ?」
「体調管理の提案を少々」
「ふふ。
ガイくんを気持ちよく喋らせて、医務室の子たちとも仲良くなって、
今度は司令官の面倒まで見ようとしてるのね」
責めるような言い方ではなかった。
むしろ、小さい頃からよく知っている子が、
相変わらずどこへ行っても自分の調子で人の輪に入っていくのを、
少し面白がっているような声だった。
「面倒というほどではありませんわ。
飲むかどうかはリヴァル様次第ですもの。
わたくしは選択肢を整えただけです」
「そういうところよね、クリスちゃんは」
紫乃はくすりと笑って、隣の織葉を見た。
「昔からこうだったわね。
気づいたら誰かの隣に座って、気づいたら話を聞いていて、
気づいたら相手の好きなものまで覚えてる」
「輪の中というより、いつの間にか輪の真ん中にいるのよね」
「本人にその自覚は薄いかと」
「そこがまた、クリスちゃんらしいわ」
クリスは二人のやり取りに、少しだけ頬を膨らませた。
「なんですの、その幼いころの失敗談を出す前のような空気は」
「失敗談なんて言ってないでしょう?」
「目が言っておりましたわ」
「懐かしがっていただけよ。あなた、本当に変わらないんだもの」
紫乃はそう言って、やわらかく目を細めた。
「どこへ行っても、まず人を見てる。
相手が何を大事にしてるか、何に困ってるか、
どこを褒められたら嬉しいか。
そういうのを、昔から自然に拾う子だったわ」
「まあ。そんなに有能に見えます?」
「ええ。有能よ」
素直に返されて、今度はクリスの方が少しだけ目を瞬かせた。
紫乃は楽しそうに笑う。
「ただし、たまに距離の詰め方が早すぎて、大人がびっくりするだけ」
「褒め言葉として受け取っても?」
「そこは控えめに受け取っておきなさい、クリスちゃん」
「難しい注文ですわね」
織葉が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「母上。あやつに控えめは難しいかと」
「知ってるわ。だから昔から見ていて飽きないのよ」
紫乃の声は、呆れではなく、よく知る子を見守る大人のそれだった。
その日のうちに、クリスの端末にはガイから聞いた現場情報が整理され、
関係者へ共有された。
数値だけでは見えない危険。
記録だけでは残らない判断。
誰がどこで迷い、誰がどう繋ぎ、誰がどの声で人を動かしたのか。
それらはまだ正式な報告書ではない。
けれど、次に霧が動いた時、
誰かの判断を一秒早くするかもしれない情報だった。
そして中央指揮区画の机の端には、彼女が置いていった端末がまだ残っていた。
リヴァルは長い間、それを見ていた。
やがて、画面を閉じずに、医務室への連絡だけを入れた。
「確認したい備品がある」
それがクリスの提案を採用したという意味なのか、
それとも単なる確認なのか。
少なくとも、その場にいた誰にも分からなかった。
ただ、翌日へ続く小さな種だけが、そこに残った。




