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二章 八話

地の精霊は、再生した前脚を床へ打ちつけた。


衝撃が走る。

黒い鎧の隙間から、砕けたはずの岩粉が落ちる。

だが、足の形は戻っている。

イルルがえぐった場所は、まるで最初から傷などなかったかのように、

再び厚い岩と黒い金属片で覆われていた。


「もう一度やります!」


イルルがハンマーを握り直す。

声は強い。


けれど、その肩には息が乗っていた。

一撃ごとに、体力を持っていかれる。

岩と金属を砕くのは、ただ敵を叩くのとは違う。

返ってくる衝撃が重く、腕の奥に残る。


「焦るな」


シェスターが横へ出る。


「当てるのは一発でいい。外したら俺が引く」


「うん」


リオンは二丁のストライカーを構えたまま、精霊の前脚を観察していた。


再生の順番。

黒い金属片の戻り方。

岩が盛り上がる位置。


『リオン、次は膝下ではなく、足首側を凍結。イルルは低い位置を狙って』


リヴァルの指示が入る。


『重心を崩す』


「了解」


リオンの左右の銃口が別々の場所を捉える。

短い駆動音。

アイス・バレットが四発、連続して放たれた。


氷弾は精霊の前脚の外側と内側に着弾し、

黒い装甲の継ぎ目を白く凍らせる。さらに、足首にあたる部分へ霜が走った。


「イルル」


「はい!」


イルルが踏み込む。

地の精霊がそれを嫌うように前脚を持ち上げた。


だが、凍結した足首の動きが遅れる。

その一瞬を、シェスターが見逃さなかった。


「今だ!」


イルルのハンマーが低く振り抜かれる。

足首へ直撃。

岩が砕け、黒い金属片が弾け飛ぶ。


今度は、精霊の前脚が半ばから崩れた。

巨体が大きく傾く。


頭部が床に近づき、黒い装甲が擦れ合う音が空間に響いた。


「効いてる!」


イルルが叫ぶ。


「下がれ!」


シェスターが即座にイルルを引いた。

次の瞬間、精霊は崩れた前脚の代わりに、尾を床へ突き刺すように打ちつけた。


尾を支点に、巨体が強引に体勢を戻す。

そして、砕けた足首へ向かって黒い金属片が集まった。


「また来る」


紫乃が言った。

彼女は後方から、軽くクナイを投げる。

狙いは金属片そのものではない。


金属片が戻ろうとする途中の隙間。

クナイがそこへ入り、二つの破片の噛み合わせをわずかにずらす。

一瞬、再生が乱れた。


「おばさんの邪魔は、これくらいしかできないわね」


紫乃は軽く言う。

だが、その一瞬でリオンが追加の氷弾を撃ち込む。

凍った。


再生途中の岩と金属が、白い霜に覆われる。


「再生速度、低下」


リオンが報告した。


「ただし、停止には至りません」


その言葉通り、凍った外殻の内側から、別の岩が盛り上がった。

黒い金属片は一度動きを止めたが、すぐに別の破片が飛び、

別の角度から装甲を作り直す。


崩した足が、また形を取り戻した。

フィリアの声が通信に入る。


『内部反応は出ています。でも、再生と同時に遮断されます。

 空洞が見える時間が短すぎます』


『二秒未満か』


リヴァルが言う。


『現状の攻撃では、接続点を確認する前に閉じられる』


シェスターが舌打ちした。


「壊せるのに届かねえってのは、嫌な話だな」


「でも、何もしなければもっと近づけません」


リオンは冷静に言う。


「削り続けます」


「おう」


精霊が口を開いた。

岩と金属が擦れるような、低い音が響く。

咆哮というより、地鳴りだった。


空間の床に新しい亀裂が走る。

その亀裂から、細い岩の棘が突き出した。


「足元!」


紫乃の声。

リオンはワイヤーを射出し、壁面の補強材へ固定する。

自分の身体を横へ引き、棘を避ける。


シェスターはイルルの腕を掴み、後ろへ引く。

イルルの足元に、岩の棘が突き上がった。


「危なっ」


「言ったろ。危なくなったら引くって」


シェスターがイルルを立たせる。

イルルは一瞬だけ目を丸くし、それから笑いそうになった。


「本当に引いた」


「俺は嘘つかねえ」


「うん。ありがとう」


その短いやり取りの向こうで、精霊が再び動き出す。


前脚。

尾。

背中の棘。

どれもが武器だった。


リオンが凍らせる。

紫乃が再生の噛み合わせをずらす。


イルルが砕く。

シェスターが引き戻す。

何度も、何度も。


連携は少しずつ形になっていった。

イルルの打撃は確かに有効だった。


リオンのアイス・バレットは、打点を作るには十分すぎるほど機能した。

紫乃のクナイは決定打にはならないが、敵の再生と動きのわずかな遅れを作る。


シェスターは、危ない位置に入った者を必ず引き戻した。


誰も無駄ではなかった。

けれど、届かない。


砕いた先に見えるはずの中身は、いつも一瞬で塞がった。


『封印解除装置への反応、さらに低下』


フィリアが言った。


『精霊体の妨害が強くなっています。

 このままだと、封印核への切削は再開できません』


『外殻を削るだけでは駄目だ』


リヴァルの声が続く。


『ローム主任の位置を特定する必要がある』


その言葉に、一輝の肩がわずかに震えた。

彼は入口付近にいた。

パイルデバイスのロックを確認したまま、ずっと戦闘を見ていた。


ナンディーヌを飲み込んだ精霊。

何度砕いても戻る岩の身体。

浮かび、貼りつき、鎧になる黒い金属片。


一輝は唇を強く噛んだ。

地の精霊が頭を低く下げる。

突進の構え。


黒い鎧が床を擦り、背の棘が一直線に並んだ。


「来るぞ!」


シェスターが叫ぶ。

リオンが両手のストライカーを構える。


「前脚、凍結します」


『待って』


フィリアの声が入った。


『マナ反応が前面に集中しています。

 突進ではなく、床面干渉かもしれません』


言葉が終わるより早く、床が波打った。

岩盤が盛り上がり、全員の足元をずらす。

リオンはワイヤーで姿勢を維持した。


紫乃は軽く跳んで避ける。

シェスターはイルルを庇う。

一輝の足が、前へ出た。


「直入くん!」


紫乃の声が飛ぶ。

だが、一輝は止まらなかった。


パイルデバイスを構え、精霊の正面へ向かって走る。


「一輝!」


シェスターが叫ぶ。

精霊の頭が動いた。


黒い装甲に覆われた顎が、一輝を捉える。

その瞬間、紫乃が消えた。

正確には、消えたように見えた。


彼女は床を蹴り、岩の波を足場にして一気に前へ出る。

袖がひらりと揺れた。

一輝がパイルデバイスを構えた腕を上げる。

その手首を、紫乃が掴んだ。


「めっ」


軽い声だった。

だが、手加減はなかった。


紫乃は一輝の勢いを殺さず、そのまま身体の向きを変えさせる。

精霊の顎が通り過ぎる寸前、一輝の身体は横へ引き抜かれた。


黒い顎が床を噛む。

石床が砕けた。


紫乃は一輝を抱えるようにして後方へ跳び、入口付近まで戻る。

着地と同時に、一輝を床へ座らせた。


「めっ、よ」


もう一度、今度は少しだけ強めに言う。


一輝は息を荒げていた。

目はまだ精霊を見ている。


手はパイルデバイスのグリップを離していない。


「す、すんませんッス……!」


「謝る相手はおばさんじゃないわ」


紫乃は一輝の前に膝をついた。

その声は穏やかだった。

けれど、逃げ道はない。


「あなたが勝手に飛び込んだら、助けに行く人が増えるの。

 そうなったら、ローム主任を助ける手が減るわ」


一輝の喉が詰まった。


「……すんません」


「怖かった?」


一輝は首を横に振ろうとして、止まった。

それから、俯く。


「分かんないッス」


「そう」


紫乃は責めなかった。


「でも、今のは駄目」


「……はいッス」


シェスターが近づいてきた。


「生きてるな」


「……はい」


「なら次は勝手に行くな」


「……すんませんッス」


イルルも息を切らしながら近づき、一輝の無事を見て胸を押さえた。


「よかった……」


リオンは精霊から目を離さない。

ストライカーを構え、いつでも撃てる状態を保っている。

リヴァルの声が、通信から低く響いた。


『直入一輝。今の行動は危険だった』


「……はいッス」


『以後、指示なしに前へ出ないで』


「……はいッス」


一輝は床に座ったまま、拳を握った。


言葉は出さなかった。

理由も言わなかった。


ただ、唇を噛んで、もう一度深く頭を下げる。


「……すみませんでしたッス」


紫乃は静かに頷く。


「謝れたなら、次は考えましょう」


地の精霊が、再び一歩を踏み出した。

その足元で、砕けた床がまた盛り上がっていく。

戦いはまだ、終わっていなかった。


一輝は、床に座ったまま拳を握っていた。

紫乃の言葉は分かっている。

勝手に飛び込めば、助ける手が増える。


その分、ローム主任を助ける手が減る。

分かっている。

分かっているのに、胸の奥が焼けるようだった。


黒い鎧をまとった精霊が、また床を踏みしめる。


砕いても戻る。

凍らせても動く。

叩き割っても、すぐに塞がる。


その姿を見ていると、別の音が蘇った。


昨日でも、今日でもない。

もっと前の、地下整備区画。

岩盤切削用の訓練場。


「一輝! ちゃんと指定した通りに放り込みな!」


ナンディーヌの声が響いていた。

一輝は右腕にパイルデバイスを装着し、目の前の岩盤を睨んでいた。


白いマーキングが入った岩。

その中心へ、指定された角度で杭を打ち込む。

ただそれだけの訓練。


けれど、一輝の手は止まっていた。


「すんませんッス!」


一輝は叫ぶように答えた。


「でも、全力出したら全部ぶっ壊れるッス!」


ナンディーヌは腕を組んだ。

作業用のゴーグルを頭に乗せ、工具ベルトを腰に下げている。

いつもの姿だった。


「だから何だい」


「いや、だから……危ないッス!」


「危ないから練習してるんだよ」


ナンディーヌは笑わなかった。

怒っているわけでもない。


ただ、現場の話をしている顔だった。


「いいかい、一輝」


「ウッス」


「工具ってのはね、最大の出力を知ってるから調整できるんだよ」


ナンディーヌは岩盤を顎で示した。


「全力の一発、ぶち込みな」


一輝はパイルデバイスを握る手に力を込めた。

それでも、動けなかった。


「でも、主任が危ないかもしれないッス!」


「私は離れてる」


「破片とか、衝撃とか、色々あるッス!」


「あるねえ」


「だったら!」


「だから、知るんだよ」


ナンディーヌは一輝の横まで歩いてきた。

一輝の右腕に固定されたパイルデバイスを、分厚い手袋で軽く叩く。


「一輝。工具ってのは、モノを壊す。組み立てる。作り変える。

 いろんなことに使える」


「ウッス」


「でも、他にもできることってのがあるんだよ」


一輝は顔を上げた。


「なんッスか」


ナンディーヌは、まっすぐ岩盤を見た。


「救助だ」


一輝は瞬きをした。


「救助……ッスか」


「ああ」


ナンディーヌは頷く。


「岩に閉じ込められた人を助け出す。

 崩れた壁を抜く。

 潰れた通路に空気を通す。

 そういう時にも、お前のパイルは使える」


「でも、巻き込まれたら危ないッス」


「危ないよ」


即答だった。

一輝の肩が少し落ちる。

だが、ナンディーヌは続けた。


「だけどね、中途半端に使うと、残った岩で潰されるだろ?」


「……」


「人間は、ちょっと強い程度の衝撃波で簡単に死んだりしない」


ナンディーヌの声は、いつもより少し低かった。


「でも、半端に残った岩が崩れてきたら死ぬ。

 出口を作るつもりで途中までしか壊せなかったら、逆に閉じ込める。

 助けるつもりの手が、邪魔になる」


一輝は何も言えなかった。

ナンディーヌは、一輝の肩を叩いた。


「いいかい? もう一度言うよ」


「……ウッス」


「分かんない時は、百パーセントだ」


一輝の目が、ナンディーヌを見る。


「絶対に遠慮するんじゃないよ」


その言葉は乱暴だった。

けれど、乱暴なだけではなかった。


壊すためではない。

助けるための全力。


中途半端に壊して危なくするくらいなら、迷わず抜け。


通せ。

届かせろ。

ナンディーヌは笑った。


いつもの、現場の若手を前に出す時の笑みだった。


「じゃあ、ぶち込みな。一輝!」


一輝は息を吸った。

怖かった。

全力を出すのは、怖かった。


でも、ナンディーヌは見ていた。

逃げるなと怒るのではなく、使い方を知れと教えてくれていた。

一輝はパイルデバイスを構える。


「ウッス!」


杭が、岩盤へ向いた。


「いっけええ!」


現在の地響きが、その記憶を引き戻した。


一輝は顔を上げた。

地の精霊がいる。


その中に、ナンディーヌがいる。


砕いても戻る岩盤。

塞がる外殻。

届かない攻撃。


一輝は、床に置かれた自分の手を見た。

震えていた。

恐怖か、怒りか、後悔か、自分でも分からない。


でも、ひとつだけ分かることがあった。

今、遠慮している場合ではない。

一輝は立ち上がった。


「……お願いがあるッス」


紫乃が一輝を見た。

シェスターも、イルルも振り向く。


リオンだけは精霊から目を離さない。

二丁のストライカーアーツデバイスを構えたまま、通信だけを開いている。

地の精霊は、黒い鎧を鳴らしながら巨体を揺らした。


何度壊しても戻る。

何度凍らせても止まりきらない。


何度叩き割っても、中心には届かない。

その事実が、空間全体に重くのしかかっていた。


「一度だけ」


一輝はパイルデバイスを握りしめた。


「一度だけでいいから、あいつに触らせてくださいッス」


紫乃は、すぐには答えなかった。

一輝の目を見ている。

そこにあったのは、さっきのような飛び出すだけの焦りではなかった。


恐怖はある。

焦りもある。


けれど、それ以上に、何かを思い出した者の目だった。

紫乃は小さく息を吐く。


「直入くん」


「はいッス」


「また勝手に飛び出したら、今度はもっと強めに、めっ、よ」


一輝は喉を鳴らした。


「……はいッス」


「なら、聞いてあげる」


紫乃は立ち上がった。

通信へ向けて声を出す。


「主任。直入くんに、一度だけ機会をあげてもいいかしら」


『ミス・シノ』


リヴァルの声が返る。


『根拠は?』


「この子の目」


紫乃は軽く答えた。

戦闘中とは思えないほど、いつもの調子だった。


「おばさん、若い子の無茶な目と、

 覚悟を決めた目くらいは見分けられるつもりよ」


一輝の肩がわずかに震える。

紫乃は続けた。


「それに、このまま外から削っても届かない。

 だったら、別の手を試す価値はあると思うわ」


通信の向こうで、短い沈黙があった。

リヴァルが迷っている。

その間にも、地の精霊は前へ進もうとしていた。

黒い鎧片が擦れ、岩盤の四肢が床を押しつぶす。


『フィリア』


『はい。

 現時点で、外殻破壊後に内部反応が出る時間は二秒未満です。

 通常の接近では、接続点確認前に再生されます』


『一輝のパイル出力なら?』


『前回記録の十六パーセントで、硬質岩盤を内部崩壊させています。

 百パーセント時の正確な影響範囲は不明です。

 ただし……』


フィリアの声が、一瞬だけ揺れた。


『外殻を一度に大きく抜ける可能性はあります』


「抜ける」


一輝が小さく呟いた。

紫乃だけが、その声を聞いた。

リヴァルが言う。


『一度だけ許可する』


一輝の顔が上がる。


『ただし、単独行動は禁止。全員で通す。

 直入一輝は、ミス・シノの指示下に入って』


「はいッス!」


「じゃあ、みんなでこの子を届けましょうか」


紫乃は一輝の肩に手を置いた。


「リオンくん」


「聞いています」


「足、止められる?」


「両前脚なら、一瞬」


「十分よ」


紫乃は次にシェスターを見る。


「シェスターくん」


「何だ」


「あの子の顔、少し騒がしくしてもらえる?」


シェスターは精霊の頭部を見た。

黒い鎧に覆われた顔。

目にあたる場所には、光ではなく濃いマナの揺らぎが宿っている。


痛みはない。

神経もない。


だが、あれが周囲を捉えている感覚器であることは、動きを見れば分かる。


「視界潰しってことか」


「そんなところ」


「分かった」


シェスターは軽く肩を回した。


「イルル」


「うん」


「俺が飛ばす。頭、ぶっ叩けるか」


イルルは一瞬だけ目を丸くした。


「飛ばすって、私を?」


「俺たちはチームだろ」


その言葉に、イルルは唇を結び直した。

怖い。

けれど、ここで引く理由にはならない。


「分かった。思いっきり、いく」


「いい返事だ」


リオンが通信へ報告する。


「作戦移行。目標、精霊頭部正面への一輝搬送。

 自分は両前脚凍結を担当します」


『了解』


リヴァルの声が返る。


『全員、タイミングを合わせて。失敗した場合は即時撤退』


『私、反応を見ます』


フィリアの声も続く。


『一輝さんのパイル後、内部反応が出たらすぐ伝えます』


地の精霊が頭を低くした。

こちらを見ている。


黒い装甲の奥で、濃いマナの揺らぎが収縮した。


「来るぞ」


リオンが言った。

その瞬間、シェスターが走った。


真正面ではない。

やや横。


精霊の前脚の内側へ滑り込むように踏み込み、床を蹴る。

突き出した岩の棘を肩で避け、

シェスターはそのまま精霊の頭部へ向かって跳んだ。


「こっち見ろ、岩トカゲ!」


シェスターの拳が、精霊の目にあたるマナの揺らぎを叩いた。


一発。

二発。


殴るというより、感覚器を乱すために、そこへ自分の存在を押しつける動きだった。

黒い目の奥で、マナが激しく揺れる。

地の精霊が頭を振った。


痛みにのけぞったわけではない。

目標を捉えるための揺らぎを乱され、周囲の認識が荒れたのだ。


シェスターはすぐに離れる。

だが、精霊の反応は早かった。

黒い顎がシェスターを追う。


「おっと」


シェスターは床に着地し、そのまま後ろへ走る。

精霊が突っ込んだ。


重い四肢が床を叩き、黒い鎧を鳴らしながら巨体が前へ出る。


「今!」


シェスターはイルルの前で両手を組んだ。

イルルが走る。

ハンマーを背に担ぎ、シェスターの組んだ手へ足を乗せた。


「飛べ!」


シェスターが全身で持ち上げる。

イルルの身体が宙へ跳んだ。

同時に、シェスターは精霊の突進の下へ滑り込む。

低く身を倒し、爪と床の隙間を抜ける。


イルルは空中でハンマーを握り直した。


目の前に、精霊の頭部。

黒い鎧に覆われた岩の顔。


「止まって!」


イルルは叫び、ハンマーを振り下ろした。


頭部へ直撃。

轟音が走る。


黒い鎧片が割れ、岩盤の顔が大きく下がった。

精霊の前脚が床を削り、巨体の姿勢が崩れる。


「両前脚、固定します」


リオンが動いた。

左右のストライカーアーツデバイスが別々の前脚を捉える。


アイス・バレット。

一発ではない。

連射。


前脚の関節、爪の根元、装甲の継ぎ目、床と接する部分。

白い氷が走り、黒い鎧と岩盤をまとめて凍らせる。


地の精霊の両前脚が床に縫いつけられた。

一瞬。

本当に一瞬だけ、巨体が正面へ沈む。


「直入くん」


紫乃が一輝の腰を抱えるように引き寄せた。


「しっかり掴まって。落ちたら、めっ、じゃ済まないわよ」


「ウッス!」


一輝はパイルデバイスを構え、紫乃の肩に掴まった。


次の瞬間、紫乃が走る。

速い。

軽い。


岩の波を足場にし、砕けた装甲片を踏み、凍った前脚の横を抜ける。

彼女は一輝を抱えたまま、精霊の頭部正面へ滑り込んだ。

精霊の顔には、イルルが叩いた亀裂が入っている。


黒い装甲が割れ、岩盤の下地が見えていた。

だが、もう再生が始まっている。


黒い金属片が浮き上がり、亀裂を塞ごうとしていた。


「今よ」


紫乃が言った。

一輝は息を吸った。


ナンディーヌの声が、胸の奥で響く。

分かんない時は、百パーセントだ。

絶対に遠慮するんじゃないよ。


一輝の右腕に固定されたパイルデバイスが、低く唸る。


警告灯が点く。

固定ロックが鳴る。


これまで抑えられていた出力が、段階を飛ばして跳ね上がる。


一輝の周囲の空気が歪んだ。

炎ではない。

光でもない。


ただ、そこだけ空気の密度が変わったように、輪郭が揺れる。


「出力上昇!」


フィリアの声が通信で跳ねる。


『四十、五十、六十……まだ上がっています!』


リヴァルの声が低く入る。


『全員、衝撃に備えて』


一輝は震える腕を押さえ込んだ。


恐怖は消えない。

でも、今は止めない。


「主任」


一輝は、歯を食いしばった。


「行くッス」


杭が射出された。

音は、短かった。

重く、鈍く、深い。


精霊の顔に、ボッと穴が開いた。

爆発ではなかった。

派手に砕け散ったわけでもない。


ただ、黒い鎧と岩盤でできた顔の中央に、丸い穴が穿たれた。


一拍遅れて、周囲が動いた。

穴の縁が、奥へ引かれる。


顔を作っていた岩盤が、内側へ吸い込まれるように崩れた。

黒い鎧片が接合を失い、ばらばらに剥がれながら、その穴の奥へ落ちていく。


頭部の形が保てなくなる。

顎が割れる。


目にあたるマナの揺らぎが引き千切られる。

首が、内側から抜けた。

さらに遅れて、胴体が反応する。


頭部に空いた穴へ向かって、首から胸部へ、胸部から体幹へ、

岩盤構造が奥へ奥へと吸い込まれていく。

穴が広がったのではない。


邪魔なものが、抜かれていった。


黒い鎧も。

岩の筋肉も。

爬虫類の形も。


一輝のパイルが穿った一点へ向かって、精霊体そのものが内側から崩れていく。

地の精霊の巨体が、悲鳴ではない地鳴りを上げた。


床が揺れる。

仮設照明が弾ける。

壁の補強材が軋む。


紫乃は一輝を抱えたまま、即座に後方へ跳んだ。


「よくできました」


その声は、揺れる空間の中でも不思議と柔らかかった。


一輝は返事ができなかった。

右腕が重い。

息ができない。


けれど、目は精霊から離せない。

精霊の頭部から胴体の大部分が、抜け落ちていた。


黒い鎧片が床へ落ちる。

岩盤の外殻が崩れる。


巨大な爬虫類の形は、もう半分以上失われている。

その奥に、骨のような構造が見えた。


岩でできた肋骨。

背骨に似た太い柱。

その内側。

素体中央。


一瞬、誰も見つけられなかった。

岩の色と、肌の色が近すぎた。


小麦色の肌は、精霊の内部素体と紛れていた。人柱を守る精霊が、

そこにいるものを目立たせないように抱え込んでいるかのようだった。


「リオンくん」


紫乃が言った。


「中央。奥よ」


ほとんど同時に、リオンが反応した。


「確認」


彼の視線が、骨状構造の奥を捉える。


「素体中央に人体反応」


『出ました!』


フィリアの声が通信に響いた。


『ナンディーヌ・ロームの反応です!

 位置は素体中央、骨格状構造の内側!』


一輝が立ち上がろうとした。

シェスターがその肩を押さえる。


「行くな」


「でも!」


「今は、お前じゃねえ」


リオンがすでに動いていた。

右手のストライカーからワイヤーを射出する。

ワイヤーが崩れかけた骨状構造へ刺さり、リオンの身体が引かれる。


再生が始まっていた。

砕けた岩盤が、ゆっくりと戻ろうとしている。


黒い金属片が空中で震え、再び精霊の形を作ろうとしている。


猶予は短い。

二秒未満。


それでも、リオンは迷わなかった。

空中で身体を回し、左手のストライカーで別のワイヤーを撃つ。

崩れた肋骨の隙間を抜け、戻り始めた岩片を蹴り、素体中央へ飛び込む。


ナンディーヌがいた。

岩の骨に抱え込まれるように、腹部を中心に半ば埋まっている。


作業服の名残は、ほとんど残っていなかった。

岩とマナに呑まれ、破れた布が肩と腰の一部に絡んでいるだけだった。


だが、そこにいる。

生きている。


腹部から、濃いマナの管のようなものが精霊体へ伸びていた。


「接続点、確認」


リオンは左手で骨状構造を掴み、右手で循環停止装置を取り出す。

再生する岩が迫る。


背後から黒い鎧片が飛んでくる。

リオンは身体をひねり、ワイヤーで自分の位置をずらした。

頬をかすめた岩片が、後ろの骨へ突き刺さる。


「リオン!」


イルルが叫ぶ。


「問題ありません」


リオンは短く返した。

円盤状の装置を、ナンディーヌの腹部、

マナの接続が集中している場所へ押し当てる。


『そこです!』


フィリアの声。


『接続反応、集中しています!』


リオンの指が、起動部を押した。

循環停止装置が震える。

円盤の内側から、小型のマナ稼働マシンが射出された。


それは針よりも速く、深く、接続点へ沈む。

ナンディーヌの身体がわずかに跳ねた。

同時に、精霊体の再生が止まった。


岩盤の盛り上がりが途中で固まる。

黒い金属片が、空中で震えたまま落ちる。


腹部から伸びていたマナの管が、音もなくほどけていく。


「循環停止装置、打ち込み完了」


リオンは報告した。

直後、彼の周囲の岩が崩れた。

再生ではない。

支えを失った崩壊だった。


リオンはワイヤーを引く。

身体が後方へ飛ぶ。


崩れる骨状構造の隙間を抜け、落ちる黒い鎧片を避け、

床へ着地する直前にもう一本のワイヤーを射出する。

シェスターが走り、リオンの着地点を確保する。


「こっちだ!」


リオンは床を滑りながら着地し、すぐに膝をついた。

紫乃が一歩前へ出る。


「ナンディちゃんは?」


『生命反応、維持!』


フィリアの声が震えた。


『精霊との循環、停止しています!』


リヴァルの声が続く。


『マナ接続遮断を確認。封印守護精霊、構造維持不能』


地の精霊の残った身体が、大きく揺れた。


黒い鎧が落ちる。

岩盤の四肢が崩れる。


尾が床へ沈み、背の棘が折れ、巨大な爬虫類の輪郭が崩れていく。

それは死ではなかった。

もともと命ではないものが、形を保てなくなっていく崩壊だった。


中心に抱えていた人柱を失い、封印を守るための循環を断たれた精霊は、

もう立っていられない。

岩が岩へ戻る。


黒い金属片が、ただの破片として床に落ちる。

最後に、頭部だった場所の残骸が崩れた。


重い音が、空間に響く。

地の精霊は、動きを止めた。

誰も、すぐには動けなかった。

粉塵が舞っている。


仮設照明のいくつかは消え、残った光が崩れた岩の影を照らしている。

その中央で、骨状構造の一部が砕け落ちた。

ナンディーヌの身体が、支えを失って傾く。


「主任!」


一輝が叫ぶ。

紫乃が一番早く動いた。


崩れかけた岩の間へ滑り込み、落ちかけたナンディーヌの身体を受け止める。

リオンもすぐ横についた。


彼は周囲の岩片を確認しながら、ストライカーアーツデバイスを下ろす。

まだ完全に安全とは言えない。

黒い金属片が動きを止めたことを確認し、崩落の気配がないことを見てから、

自分の上着を脱いだ。

ナンディーヌの身体には、作業服の名残がわずかに残っているだけだった。


岩とマナに呑まれた布が、肩と腰の一部に絡んでいる。

リオンは視線を逸らすでもなく、慌てるでもなく、

ただ救助者を保護する動作として、上着をナンディーヌにかけた。


「救助者保護の一環です」


誰に言うでもなく、彼はそう言った。

紫乃が少し笑う。


「真面目ねえ」


「必要な措置です」


「ええ。そういうことにしておきましょう」


イルルが駆け寄り、ハンマーを床へ置いた。


「ナンディさん!」


彼女はナンディーヌのそばに膝をつき、

震える手を伸ばしかけて、一度止めた。

リオンの上着の隙間から、循環停止装置を打ち込まれた箇所が見える。

腹部には、小さな杭のような機構が残っていた。


イルルは息を呑む。


「触れても、大丈夫ですか」


『生体反応は安定しています』


フィリアの声が通信から返る。


『ただし、循環停止装置周辺には触れないでください。

 精霊との接続遮断状態を維持しています』


「分かりました」


イルルはナンディーヌの肩に手を添えた。

治療用のマナが、薄く雨のように広がる。


「大丈夫。大丈夫です。戻ってきました」


それはナンディーヌへ向けた言葉でもあり、

自分に言い聞かせる言葉でもあった。

シェスターは一輝の前に立っていた。


崩落が止まったことを確認してから、少しだけ横へ退く。


「行け」


一輝は走った。

膝をつき、ナンディーヌを覗き込む。


「主任……主任!」


ナンディーヌのまぶたが、かすかに動いた。

一輝の息が止まる。


「……うるさいねえ」


かすれた声だった。

それでも、間違いなくナンディーヌの声だった。


「現場で大声出すんじゃないよ。耳に響く」


一輝の顔が歪む。


「主任……!」


「泣くにはまだ早いよ」


ナンディーヌは薄く目を開けた。

視線が定まるまで、少し時間がかかる。


まず紫乃を見る。

次にイルル。

シェスター。

リオン。


最後に、一輝を見た。


「……やったねえ、一輝」


一輝は言葉を失った。

ナンディーヌは、まだ身体を起こせない。


それでも、口元だけで笑った。


「ちゃんと、百パーで抜いたじゃないか」


一輝の目が見開かれる。


「見えて……たんスか」


「ああ」


ナンディーヌは短く息を吐いた。


「全部、見えてた。聞こえてたよ」


その場にいた全員が、少しだけ言葉を止めた。

ナンディーヌは天井の仮設照明を見上げる。


「変な感じだった。止めようとしても止まらない、

 出来損ないの機械を操縦させられてるみたいだったよ」


声は軽くしようとしていた。

けれど、奥に残るものまでは隠せていなかった。


「ハンドルは握らされてる。

 なのに、ブレーキは壊れてる。

 アクセルは勝手に踏み込まれてる。

 こっちが何を言っても、何をしようとしても、あの身体は止まらない」


ナンディーヌは一輝を見る。


「だから、見えてた。あんたが飛び出して、おばさんに怒られたところも」


紫乃が微笑む。


「そこまで見えていたのね」


「見えてたよ」


ナンディーヌはかすかに笑った。


「いい、めっ、だった」


一輝は顔を伏せた。


「それは……忘れてほしいッス」


「忘れないねえ」


ナンディーヌの声には、少しだけいつもの調子が戻っていた。


「あと、イルルちゃんが頭をぶっ叩いたのも見えてた。いい音だったよ」


「えっ」


イルルが目を丸くする。


「す、すみません。痛くは」


「痛くはなかった」


ナンディーヌは即答した。


「ただ、あの出来損ないの機械がぐらついたのは分かった。助かったよ」


イルルは唇を結び、深く頷いた。


「はい」


ナンディーヌの目がシェスターへ向く。


「シェスターくんも、よく引っ張ってくれたね」


「仕事しただけだ」


「そういうのを、いい仕事って言うんだよ」


シェスターは少しだけ視線を逸らした。

最後に、ナンディーヌはリオンを見た。

リオンはまだ周囲を警戒している。


「リオンくん」


「はい」


「打ち込んだの、あんただね」


「はい。循環停止装置を接続点へ打ち込みました」


「正確だったよ」


「装置と、皆さんが作った隙のおかげです」


「そういう真面目なところ、嫌いじゃないよ」


リオンはわずかに瞬きをしただけだった。


「ありがとうございます」


ナンディーヌは小さく笑う。

だが、その笑みはすぐに消えた。


腹部に残る杭状の機構が、かすかに光っている。

ナンディーヌはそれを見下ろそうとして、顔をしかめた。


「で、これはしばらく刺さったままってわけかい」


『その通りです』


リヴァルの声が入った。


『ローム主任。意識の回復を確認した。

 身体に残っている機構は、

 精霊との循環を停止したまま維持するためのものです』


「命綱ってことかい」


『はい。

 封印が完全に解除されるまで、取り除くことはできません。

 不快だと思いますが、今だけは我慢してほしい』


「命綱なら文句は後にするよ」


ナンディーヌは息を吐く。


「ただし、後で構造は見せてもらうからね」


リヴァルが一瞬だけ黙った。


『……診断後であれば』


「よし」


紫乃が小さく笑った。


「起きてすぐそれなのね」


「仕事道具に近いものが腹に刺さってるんだ。気になるだろう」


「普通は怖がるところよ」


「怖がるのは後でまとめてやるよ」


ナンディーヌはそう言って、ゆっくり目を閉じた。

一輝が慌てる。


「主任!?」


「寝るんじゃないよ。ちょっと目を閉じただけさ」


『生命反応、安定しています』


フィリアが通信で言った。

その声には、明らかな安堵が混じっていた。


『ナンディーヌ・ローム、救助成功。

 循環停止装置、稼働継続。

 精霊反応、消失に向かっています』


その時だった。

中央に置かれた封印解除装置が、淡く光を強めた。


精霊に押し返されていた解除用マナが、再び床面へ広がり始める。


亀裂へ。

クレーターの縁へ。

崩れた壁の影へ。

封印核へ。


フィリアの声が、少し高くなる。


『封印核へのマナ進行、再開しました』


全員の視線が、中央へ向いた。

床の奥で、何かがほどけていくような感覚があった。

空間全体を押さえつけていた重さが、少しずつ抜けていく。


黒い金属片はもう浮き上がらない。

岩盤はもう獣の形を取らない。

封印を守るものは止まり、解除用マナだけが進んでいく。


『封印層、最終切削に入ります』


フィリアが続ける。


『封印核、抜けます』


沈黙。

それはほんの数秒だった。

だが、誰も声を出さなかった。


封印解除装置の光が、床の奥へ深く沈む。

次の瞬間、空間の底で何かが外れた。

音はなかった。


ただ、長く張り詰めていた糸が切れたように、圧力が消えた。


『封印核、消失』


フィリアの声が震えた。


『封印解除、完了です』


リヴァルの声が、その後に続く。


『こちらでも確認した』


一拍置いて、彼は静かに言った。


『封印解除確認。作戦成功だ』


その言葉が届いた瞬間、誰かが大きく息を吐いた。


イルルだったかもしれない。

一輝だったかもしれない。


あるいは、その場にいた全員だったかもしれない。

紫乃はナンディーヌを支えたまま、目を細める。

シェスターは床に座り込み、天井を見上げた。


リオンはストライカーを下ろし、ようやく警戒姿勢を解いた。

一輝はナンディーヌのそばで、拳を握ったまま肩を震わせている。

ナンディーヌは目を閉じたまま、かすれた声で言った。


「……ほらね」


一輝が顔を上げる。


「主任?」


「百パーで、よかったろ」


一輝は何も言えなかった。

ただ、深く、深く頷いた。

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